エピローグ
セキエイリーグ開幕戦から二週間後、四月下旬のセキチクシティ市街地はあちこちの並木道に植えられた色鮮やかなツツジが見ごろを迎えており、朝から多くの観光客が行き交っていた。特に街のシンボルカラーであるピンクを基調とするツツジが延々と連なるセキチクジム前の大通りは圧巻である。観光ガイドにも街一番の鑑賞スポットだと謳われており、澄んだ青空の下、鮮やかなツツジとのコントラストをフレームに収めようと観光客らは嬉々としてそちらへ足を運んだが――通りの歩道を埋め尽くす地元民を見て、その場でぽかんと立ち尽くした。
ジムに面した歩道は黒山の人だかり。皆ツツジなどには目もくれず、背伸びしたり飛行ポケモンに掴まりながら道場風のポケモンジムに注目している。群衆は二百を超えるだろうか。次から次へとやって来るが通行の邪魔になってしまうため、人相の悪い屈強な男達が新たにやって来た地元民を端から追い返していく。
「観覧席は満員、外からも見えねーぞ。ローカルテレビで中継してるから家に帰って応援するんだな」
唇には鋭利なピアスが刺さり、まくり上げたシャツの腕からギャラドスの刺青が覗く大男が、カートを引いた老婆に荒っぽい口調で諭した。しかし彼女は男の人相にまるで臆することなく、カートの中から饅頭の箱を取り出して遠慮なく押し付ける。
「言われなくても分かってるわよ。だけど私も近くでアンズちゃんの雄姿を見たいのよ。なんたってデビュー戦だものね。これお土産、渡してくれるかしら」
男は唇に刺したピアスを揺らしながら、饅頭の箱を隅々まで確認する。見覚えのある外装だ。
「バアさん、一昨年ジム閉めた時もこれ持ってこなかった? オジキが美味しいって言ってたよ」
「あら、本当? キョウさんのお墨付きをもらえるなんて光栄だわ。お店にも言わなくちゃ……それにしても、あれから二年以上経ったのね。この通りがまた賑わうようで嬉しいわあ……あなた、アンズちゃんに弟子入りするの?」
男はその問いをさっぱりと笑い飛ばす。
「いやいやバアさん……オレらの師匠はオジキただ一人ッスから! デビュー戦から二週間くらいはギャラリーも多いからオレらが手伝うことにしてるけど、そっから先はお嬢さんの裁量だ。まだ中学生だから、オジキの時みたいに色々頼らないでくれよ。当然保護司もやんないから、ジムは華やかになるんじゃねえかな」
「あら、それは楽しみね。この街にピッタリのジムになりそうだわ」
老婆は喜びを湛えながら、入り込めそうな人ごみを探してその場を離れる。危なっかしい様子を気にかけつつ、男はぼんやりとジムを仰いだ。開け放した窓からは、歓声や白熱したポケモンバトルの衝撃音が筒抜けだ。その臨場感を歩道にまで溢れる地元民も堪能する――自身がジムに所属していた頃も、度々見られた光景だった。
全く後任が現れず、一時はどうなることかと危ぶまれたがこの盛況ぶり。この先アンズが順調に結果を重ねていくことができれば、この華やかな街に相応しいジムとなることだろう。きっと、ほんの数年前まで前科者である自分達が所属していたことが一切忘れ去られるくらいに。
「やっと普通のジムを構えられそうだな」
仕事を忘れて立ち尽くしていると、手伝いに来ていなかったかつての仲間に肩を小突かれた。
「コウキ。お前……」
彼もまた、このジムで世話になった前科者だ。どう見ても堅気ではない厳つい顔には、一昨年なかった頬の切り傷が目立つ。彼は元々地元暴力団に所属しており、一度は足を洗っていたが、ジムを離れた後また組織に戻ってしまったと聞いた。そんな存在は色々と厄介だ。
「お嬢さんに要らぬちょっかい出すんじゃねえぞ」
ちょっとした不良程度ならば易々と追い払える重々しい声音で牽制するが、元同僚のコウキは眉一つ動かさない。
「心配するな。そこら辺、オジキはうちの頭に根回し済みだよ。あの人がこれからもうちと仲良くしてくれる限り、新しいジムには一切手を出さない」
コウキの薄ら笑いが癪に障り、大男は唇を強く噛み締めた。鉄の味が舌を刺激する。
ペーパートレーナーからジムリーダーになった師が、清廉潔白なままたった十年そこらで街の誰もが“名士”と呼ぶに値する支持を得られるはずがない。四天王に値するポケモンバトルの腕だけでは認められないことも多く、そこで役立つのは彼の経歴、金や人脈だ。ここで生まれた繋がりは街の暗部にも結び付いている。アンズが後を引き継ぐにあたり、この件をどうするのか弟子は心配していたが、やはり関係は切れないようだ。もしくは、あえて絶ってないのかもしれない。
「手を出さないし……外のマフィアにもこの街を売らない。これは昔、オジキがうちの組と結んだ協定だ」
元同僚の重苦しい口ぶりからは、強大な敵対勢力の存在が窺える。大男は目を見張った。
「ロケット団?」
その問いに、彼はゆっくりと頷いた。
「ジョウトの三流やくざ共を取り込んで、息を吹き返してるって話だ……カントーにもまた手が伸びてくるかもしれねえが、うちの組はガキ一人に潰されるような組織に魂は売らねえ」
メディアを通じて得られる情報は、どれもサカキを捕まえられない警察の不手際ばかり。その裏で、ロケット団は再び盛り返している可能性がある。コウキは信念の宿った双眸でジムの瓦屋根を仰ぐと、恭しく頭を下げてその場を離れた。ジムを退出する際は建物に敬意を払って一礼をする――師の教えだ。大男は彼に疑いの目を向けていたことを恥じ、広い背に向けて激励を投げる。
「頼んだぜ」
コウキは顔をこちらへ向けることなく、右手を掲げてそれに応えた。その直後、ジムを見守る観客達がどっと沸き上がる。
「アンズちゃん頑張れ! あと一匹!」
新人リーダーの初戦、彼女は挑戦者の手持ちを残り一匹まで追い詰めたのだろう。地元民による“あと一匹”コールが巻き起こり、その場はさながら満員のセキエイスタジアムだ。就任初日からここまでギャラリーを沸かせられるリーダーはなかなかいない。全ては彼女が引き継いだ地盤の強さによるものだ。事前にこの情報を仕入れていなかった挑戦者は完全に会場の雰囲気に飲み込まれ、今にも倒れそうな程真っ青になっている。
「ヘーイ、挑戦者ビビってるゥ!」
ジム内のバトル観覧席最前列、親子で観戦に訪れていたリーゼント頭のパルパーク園長が立ち上がって挑戦者を煽り立てる。少年野球並みの野次だが、年若く余裕がない挑戦者には石を投げられるにも等しい仕打ちだった。
「くっそ、なんでこんなにウゼーんだよ……毒タイプ使いの新人なら勝てると思ったのに……」
震える右手で、ベルトに装着した最後のボールを握り締める――ボールを隔てて不安そうにこちらを見つめるマグマラシの黒い体毛に、自身の顔が映りこんでいた。手入れもせずに伸びきったパサパサの赤毛に、味方もおらず敗北への恐怖に怯えている面構え。ひどく吐き気がした。
「すみれちゃん、このままストレート勝ち狙っちゃおう! お父さんや師匠に自慢できる!」
フィールドの反対側では可憐な少女がモルフォンを激励している。自信に溢れ、何もかも恵まれたような笑顔は、挑戦者の少年に益々の劣等感をもたらした。
(オレには勝ったって褒めてくれる親なんかいねえのに……)
品の良い衣服を身に付けることができる裕福な家柄に、そこから得た才能や地位、応援してくれる人の数――彼女には全てが劣っている。年も近いので余計に惨めだ。しかし、ボール越しに伝わるマグマラシの視線を見て、彼はすぐに思い直した。
(いや……オレにはポケモンがいるじゃないか!)
黒いカーゴパンツのポケットから合皮の手帳式カバーを付けた免許端末を取り出す。カバー裏側のパス入れには、憧れているチャンピオンのトレーディングカードが収納されていた。本人直筆のサイン入り、彼だってセキエイの頂で孤軍奮闘しているじゃないか――端末を閉じ、最後のボールを掴んでフィールドへ投げる。
「行け、マグマラシ! あんな蛾なんて燃やしちまえ!」
一切の期待が込められていない観客の視線を受けながら、バトルフィールドに現れたマグマラシが高々と咆哮する。モルフォン向けて熱風で威嚇し、鋭い眼で睨み据えるが――歓声に後押しされ、試合に王手を掛けた相手は少しも臆することはない。
「火炎車だ!」
マグマラシは背中から炎を噴き上げると、それを身体に纏わせモルフォンめがけて疾駆する。そのまま食らえば手痛い一撃となるが、アンズは真っ向から迎え撃つ。
「すみれちゃん、十分に引きつけるよ……!」
その距離二メートルと縮まれば、モルフォンの羽根の先にはじりじりと焦げ付くような熱が伝わっていた。しかしこの二週間、師との厳しい訓練を潜り抜けてきた二人にとって、この程度の炎など焚火のようなものだ。“ひのこ”一発でさえ致命傷となるグリーンのウインディと手合せしていれば、並みの炎タイプへの恐れもない。
(十分に引きつけて――狙うはマグマラシの目と鼻。毒で感覚機能を奪う!)
毒が効果的な部位をピンポイントで突く、これは父の教えだ。
「すみれちゃん、マグマラシの顔へ毒の粉!」
モルフォンは床を蹴って飛びかかってきたマグマラシの顔面に、ありったけの鱗粉をお見舞いした。この時期に森林に立ちこめる花粉煙のような勢いだったが、その殆どが身体を覆う炎へと飲み込まれ、ばちばちと爆ぜて消えてしまう。それでも残った量だけで十分な威力を発揮し、やむなく毒粉を吸い込んでしまったマグマラシはひっくり返ってのた打ち回る。
「マグマラシ!」
ここですかさずトレーナーがカバーできるか否か、腕の見せ所だが――脳裏に敗北がよぎった少年は、悲鳴を上げて立ちすくんだ。アンズは隙を作ることなく、トドメの指示を高らかに叫ぶ。
「今だ……すみれちゃん、サイケ光線!」
その命令を受け、モルフォンの両目が瞬いたかと思うと、強力な光線が発射されてマグマラシに直撃した。身体を纏っていた炎はすっかり鎮火し、火山ポケモンは主人の足元へと跳ね飛ばされる。毒の効果も相まって四肢はぴくりとも動かすことができず、フィールド外にいた審判員がすかさず旗を振り上げた。
「マグマラシ、戦闘不能!」
その合図を皮切りにジム内で地響きのような歓呼の声が沸き、たちまちアンズへの拍手喝采へと変化した。地元民の興奮は爆発し、徐々に調子の揃った万歳三唱が彼女を大仰に祀り上げてくれる。
「アンズちゃんが勝ったー! ジムデビュー戦、初勝利おめでとう!」
次々にカメラのフラッシュが煌めき、この場はまるで父が立っているあの栄光の舞台のようだ。アマチュアバトルとはまるで異なる勝利の価値に、アンズはうっとりと酔いしれる。しかし傍にいたほぼ無傷の相棒にポニーテールを揺らされ、すぐに我に返った。
「や、やったよ、すみれちゃん……! あたし達の力で勝てたんだ!」
アンズはモルフォンを抱きしめてもみくちゃにしたい衝動に駆られたが、彼女の身体は毒鱗粉まみれのためそれもできない。そこでこの欲求を父に向けようと、スカートのポケットから携帯を取り出した。すると近くの観覧席で涙で顔を濡らしていた家政婦のアキコが二つ折り携帯を掲げ、嗚咽混じりにそれを制する。
「お嬢様、おめでとうございます! 旦那様の携帯には回線が混み合っているとかで繋がりません」
傍にいたパルパーク園長もスマートフォン片手に苦笑していた。どうやら彼も、すぐに幼馴染へ連絡したらしい。
「皆が一斉に連絡してるから繋がらないよ。あいつの携帯、通知が凄いことになってるだろうね」
父親は面倒くさがってメールフォルダを分けていないし、流行のインスタントメッセンジャーアプリもやっていないので、今メールしても他の連絡に埋もれてしまうだけだろう。
「じゃ、じゃあ師匠に……」
電話帳画面をスクロールし、グリーンの項をタップする。今はとにかく恩人にこの勝利を報告したいのだ。電話がつながった瞬間、アンズは相手に有無を言わさず興奮気味に捲し立てた。
「グリーン師匠、あたしやりました! デビュー戦を初勝利で飾ることができましたよー! しかも師匠と同じ五タテ! ストレート勝ちでーすっ。幸先いいですよね」
『バカッ、テレビカメラ回ってるのにオレに電話かけてくるアホがどこにいるんだ!』
浮かれた気持ちに喝を入れられ、アンズは今置かれている状況を思い出した。ジムの内外でひしめき合う観客達が絶え間ない拍手で彼女を祝福し、報道陣がこちらにマイクやカメラを向けながらヒーローインタビューを待っている。本来優先すべきはこちらだ。
「あっ、ほんとだ! 忘れてた……」
アンズは青くなり、すぐに電話を切ろうとしたが――ふいに冷静になり、再び通話口へ唇を近づけた。
「アレ……師匠、テレビで試合観てたんですか? これ地元ローカルでしか放送してないんですけど……今、トキワでお仕事されてるはずですよね? 昨日、『お前のデビュー戦はトキワで仕事だから観に行けない! 応援はしないし勝って当然だ』なんて言っていたような……」
その指摘に狼狽するグリーンの後ろで、地元パン屋の移動販売のアナウンスが流れていた。大方、この近辺の飲食店でテレビ観戦しているのだろう。師は彼女に対し日頃つっけんどんな態度を取っているが、それでもやはり弟子が心配で仕方ない様子だ。しばらく電話の先でもごもごと慌てふためいていたが、やがて普段の調子を取り戻す。
『……明日の朝、反省ミーティングするからトキワに来いよ! お前はまだまだ荒が多すぎる、ガッツリ鍛え直してやるからな!』
「はい、ご指導よろしくお願いします!」
悪態をつきつつも、父親へのしがらみもなく世話を焼いてくれる師の存在は有り難い。その期待に応えようと、アンズは満面の笑みで嬉しそうに頷いた。顔も見えない電話越しだが、グリーンも満足げに微笑んでいる気配は十分感じられた。
日も暮れかけた頃、生暖かい風が流れるセキチクシティの海岸沿いを、赤毛の少年は力なく歩いていた。その後ろを、昼のジム戦で完敗したマグマラシが申し訳なさそうに少し間隔を開けてながらついていく。
「また負けた……」
少年は防波堤に転がっていた石ころを穏やかな海に向けて蹴り飛ばす。乱暴な動作に、後ろを追う相棒の肩がびくりと跳ねた。
「新人っつーから弱いと思ったのに……何だよ、あのジムのアウェー感。反則だろ……その上、あのリーダーは四天王や元チャンピオンに毎日稽古付けてもらってるんだぜ。反則だよな、そりゃ強いに決まってる。もうあんなジムへの挑戦はこっちから願い下げだぜ」
などと一人で強がってみるが――カントー・ジョウト地方のジムは昨年の旅立ちから一年で殆ど回りきってしまい、勝ち目がありそうなリーダーはもういなかった。ボディバッグに飾っているジムバッジはたったの四個のみで、実力が頭打ちになっている実情がじわじわと彼の傍に這い寄っている。長らく休業していたセキチクジムは現状を打破する頼みの綱だったが、ものの見事に滅多打ちだ。
「最初は結構楽しいと思ったのに……意外とトレーナー修行ってつまんねーな。お前も全然強くなんねーし。チャンピオンのリザードンを見習えよ」
石ころをもう一つ海に蹴って、びくびくと後に従うマグマラシを振り返って睨みつけた。責任を擦り付けられ、ポケモンは気弱そうに委縮する。手持ちはこのように威圧的に従わせているが、バッジ三個目を獲得して以降は戦えど戦えど敗北を重ねてばかり。まるで結果が伴わず、王座への憧れはすっかり遠のいていた。
「……施設に帰ろうかな」
少年はポケットに挟んでいた免許端末を取り出した。施設職員のナナミには端末にインストールした無料通話アプリを使って週一回ほど連絡を取っており、少し背伸びしてバッジを多く獲得したと報告している。それに対する罪悪感はあったが、それでもこんな惨めな旅をするくらいならばあの施設に帰った方がましだ。フラップを開いて端末を起動しようとすると、裏側のパス入れに挟んでいたワタルのサイン入りカードが目に留まる。
こうやってカードを見ては、何度挫折を思いとどまったことだろう。その地位に甘んじず向上を続けているチャンピオンと少しだけ交流したことで、何となく自分も彼に近付けるような気がしていた。彼が背中を押してくれたから、自分も夢を叶えられる希望はあると信じ続けている。
(いや……オレは誇り高き挑戦者だ。真面目に頑張ってりゃ、きっとチャンピオンみたいに――)
弱気に蓋をするように端末を閉じると、そのままポケットに突っこんで少年は再び歩き出した。マグマラシもほっと息を吐きながら安堵し、とことこと主人の後を追い続ける。ポケモンは主人に委縮して距離感を掴めないようだったが、それでも一応の忠誠心はあるようだ。
「君、ちょっといいかな?」
ふいに前からやってきた背広の中年男二人に声をかけられ、少年は口ごもりながらも怪訝そうに足を止めた。
「ときわ子どもの森のシルバー君だよね? 私はこう言う者なんだけど、少しお話いいかな。さっきのジム戦の中継を観て、君を探していたんだ」
そう言って男達が上着の裏ポケットから取り出したのは、本革の警察手帳である。セキチク市警に所属する警察官で、階級は巡査部長だった。ドラマ等でしか見たことがない展開に、少年・シルバーはマグマラシの傍へ寄りながらたじろいだ。
「な、なんだよ。オレ、やましいことは何も……」
すると男の一人が、口角を上げて笑うふりをしながら一歩前に歩み出た。
「それはこちらも分かっている。伺いたいのは君ではなく――君のお父さんの事だ」
「父親?」
この年まで縁がなかったその存在に、シルバーは顔を歪める。その反応を察したのか、警察官の口調が少しだけ和らいだ。
「お父さんと最近、面会したことはあるかい?」
「……両親に会ったことは一度もない」
シルバーはきっぱりと言い放ったが、内心は不安でひどく色めき立っていた。これまで自分を捨てた父親の事など知りたくもなかったが、警察が関与しているとなれば話は別だ。被害者か、それとも加害者か――その内容によっては憧れのチャンピオンへの道は閉ざされてしまうことになる。当然だがポケモンリーグは犯罪者に厳しく、地元トキワシティのジムは前任リーダーが犯罪に関与していたため何年も閉鎖していたし、先ほど挑戦したセキチクジムも前任が保護司を兼ねて出所したばかりの前科者を弟子にしていたお陰で後釜が見つからず、二年も休業していたのだ。そのため、自分は罪を犯していないとしても犯罪者の息子と分かればそれだけで夢が途絶えてしまう可能性は高い。冷や汗を流すシルバーをよそに、警察官は申し訳なさそうなふりをしながら話を続ける。
「そうか、気を悪くしたらすまない。答えてくれてありがとう。後ろめたい思い出に触れてしまったことは申し訳ないが、お父さんのことで少しだけ警察に協力して欲しいんだ。もう少し詳しい話を近くの喫茶店でしたいんだけど……時間、いいかな?」
「オレの父親は被害者なのか?」
すかさず尋ねると、彼らは躊躇いがちに互いの顔を見合わせる。「それはまだ分からないが……」と言葉を濁す様子から、シルバーは父親が被害者側ではないことを理解した。指先が冷たく痺れ、血の気が引いていく。目の前が霞み、真っ白になっていくような気がした。絶望して立ち尽くしていると、傍にいたマグマラシが袖を咥えてクイ、と引っ張る――逃亡への引き金だった。アスファルトを蹴って身を翻し、足に吸い付くほど履き古したスニーカーが抜群のスタートダッシュをかけてくれる。昨年の誕生日に施設から贈られた最高のプレゼントは長旅ですっかり擦り切れていたが、毎日手入れを怠らなかった甲斐があり、いざという時には頼もしい。そしてマグマラシも出遅れることはない。これが右腕たる所以だ。
「待て! 我々は君の保護に――」
警察官が慌てて後を追ってくるが、疾駆するシルバーは彼らから放たれる一切の情報を耳の前で追い返した。
一年も旅をしていると自分の限界が見えてくる頃だ。バッジが獲得できなくなり、同種のポケモンとバトルしてもその個体差やトレーナーの育成センスに絶望することもある。シルバーはそのさ中におり、この日は特にそれを思い知らされた。この街の新たなジムリーダーは自分とほぼ同い年だが、育った境遇がまるで違う。何十匹もの毒ポケモンを最初からプロレベルで育成できる環境が整っているし、旅に出なくとも四天王の親が稽古をつけてくれる。そして街の誰もが彼女を応援してくれる――自分なんて見向きもされない。試合後に握手を求めてきたあの時の笑顔は、裕福な家庭で愛されて育った人間そのものだ。悪態をつくことさえ憚られ、一層惨めだった。
(だけどこんなオレだってチャンピオンになって輝ける、ヒーローになれる! セキエイはそういう所なんだ! そう信じて頑張ってきたのに――)
身内に犯罪者が居れば、その舞台にも立てない。
認知はされていないし関係は切れているはずだが、もしプロになれたとしても過剰な報道攻撃を受ける可能性がある。一昨年グリーンが王者を失脚した際は毎日のようにニュースやワイドショーで非難されており、シルバーもせせら笑っていたものだ。それが自分の側になるなんて、考えただけでも恐ろしい。
マグマラシと共にアスファルトの歩道を区切る柵を軽やかに乗り越え、海とは反対側の防砂林へ逃げ込んだ。ここを抜ければ再びセキチクシティへと戻ることができる。道すら整備されていない茂みへ飛び込んでしまったが、マグマラシの炎で突破すればいい――などとシルバーは考えていたが、ふいに何かに足を取られ、そのまま茂みの中の竪穴に転げ落ちてしまった。視界がぐるぐるとかき乱されながら、身体のあちこちに痛みが走る。ほんの数秒ながら、シルバーにとって奈落の底へ吸い込まれていくような感覚だった。このまま地獄へ落ちるのだろうか、何もしていないのに――などと考える暇もなく、尻に熱が伝わったかと思うと、ようやく視界が安定した。穴の中に落ち、マグマラシがクッションになってくれたことをすぐに理解する。見上げた空は丸くかたどられ、うんざりするほど程遠い。穴は意外に深いようだ。
「おいマグマラシ……起きろよっ」
あちこちに付着した泥を払いながら、傍で倒れている相棒を揺り動かす。しかし彼は瞼一つ動かさない。自分を受け止めた衝撃で気絶しているようだ。実力はすっかり頭打ちだが、それでも大切な手持ちである。早くポケモンセンターに行って精密検査を受けなければ――マグマラシを抱き起そうと身体を掴んだ刹那、ポケモンと自分の足に蔓が絡みついて動きが封じ込められる。その瞬間、彼はようやく辺りで息をひそめていた数匹のモンジャラの存在に気が付いた。ここは彼らの巣穴だ。絡みついた蔦の間から覗く鋭い双眸がシルバーを睨み据える。彼らは安寧を乱した張本人を許してはおけないようだ。
「ご、ごめ……すぐ出るからっ!」
シルバーは急いでマグマラシを戻すと、最近捕まえたばかりのケーシィが収納されたボールに目をやった。まだ念力は扱いきれていないが、テレポートで穴の外に出る程度は可能だろう。手を伸ばそうとした途端、すかさず甲をばちんと叩かれた。モンジャラ達はシルバーが応戦してくるのではないかと睨んでいるようだ。射る様な視線に身体は硬直し、シルバーは立ちすくむ。餌にはならないだろうが、この状況では命を守れる保証はない。
(誰か……助けてくれ……)
真っ先に脳裏に浮かんだのは、昨年施設で実施されたイベントに登場した一人のヒーローだ。ドラゴンに跨り、赤いマントを翻しながら颯爽と現れ、破壊光線で窮地を救ってくれる。そう願った刹那、辺りに閃光が走ったかと思うと、たちまち紅蓮の炎と化して穴倉の中を包み込んだ。マグマラシが放つそれとは火力がまるで桁違い、そしてたちまち魅了されてしまうほど幻想的だ。爆ぜる火花は煌めいて瞼を刺激し、炎の持つ神秘性をより強め、シルバーを幻惑した。
ほんの一瞬轟いた火柱はモンジャラ達を一撃で昏倒させたが、至近距離にいた少年は全くの無傷である。それどころか、転落時の軽傷もすっかり消えてなくなっていた。僅か数秒の出来事にシルバーが呆然と立ち尽くしていると、穴の上から男の声がした。
「大丈夫か?」
少年は思わず空を見上げる。
大きな虹が澄んだ青を覆うように広がっていた。それを逆光に、浮かび上がるシルエット。少年には七色のスポットライトを背負って現れた、ヒーローのように見えた。
「今、助けてやる。待ってろ」
数分待って、彼の目の前に一本の太いロープがするすると降りてくる。直ぐに飛びつき、一刻も早く虹を背負う英雄に会いたかった。それにしても、これほど大きな七色の光はなかなかお目にかかれない。地獄の底から極楽へと引き上げられるのだろうか――そんな不安さえよぎったが、地上が見えて疑問は直ぐに払拭された。ここは紛れもなくセキチクの防砂林の中で、男が背負っていた虹は七色に輝く巨大な鳥である。先ほど見た聖なる炎が命を得たような神秘的な姿にシルバーが声を失っていると、傍にいた男が微笑みかけてくれる。
「……怪我はないようだね。病院に行かなくてもよさそうだ」
年は二十代後半といったところだろうか、端正な顔立ちの青年だった。優しげに微笑んではいるが、その瞳には光が宿っておらずやや陰険な雰囲気を孕んでいる。内から輝きを放つ鳥とはあまりに対照的で、シルバーの防衛本能がぴりりと刺激された。それでも、助けてくれた礼は言わなくては。
「助けてくれて、ありがとう……」
男がまた微笑んだ。なんだか唇の端を糸で引っ張り上げただけのような温もりのない笑顔だと、シルバーは思った。
「おかまいなく。“ニケ”から君を助けろと連絡があった。君もオレと同じ、真の力を持ったヒーローだと言うからね」
そう言って彼は黒い小型の通信端末を取り出す。側面には、赤文字で“NIKE”と記されていた。見覚えのある綴りだ。
「……オレの靴と同じブランド?」
ナナミなら笑ってくれるような些細な冗談だが、青年は真顔できっぱりと否定し、そのまま話を続ける。
「違うよ。我々は選ばれしスーパーヒーローだってことだ。君はエンジュの伝承を知らないのかい? 真の力を持つ者の前にポケモンは舞い降りる――そして君は今、その言い伝えに登場する伝説の存在を目の当たりにしている」
シルバーはこちらを気にかけることなく、畳み掛けるように自分の領域へ押し入ってくる青年に辟易したが、その話の内容には聞き覚えがあった。
「アルフの遺跡へ行った時、聞いた……エンジュには昔、“虹色に輝く羽で、優雅に舞うポケモン”が居たって……そいつが……」
青年の背後に佇む巨大な七色の鳥は、先ほどからぴくりとも反応せずに翼を畳んで息をひそめている。気味が悪い程大人しいが、神々しい威圧感にシルバーは竦み上がった。その反応を楽しげに眺めながら、青年は大仰に捲し立てる。
「そうさ、ホウオウだよ! そして――この地方にはもう一匹、伝説のポケモンがいるのを知っているよね」
一年も長旅を続けながら各地の文化に触れていると、やがてデータには載らないポケモンの存在を知るのだ。この地方でほぼすべての街を回り、そして殆どのジムで惨敗していたシルバーだが、もう一つの伝説にも聞き覚えがあった。青年は上着の裏ポケットから高価そうなモンスターボールを取り出すと、得意げな薄ら笑いを浮かべながら、それをシルバーの前に付きつける。恐る恐る覗き込むと、中には銀色に輝く竜のような巨躯が収められていた。その見た目は、タンバシティの民族博物館で見た『海の神』の絵にそっくりだ。
「これ……」
二の句が継げないシルバーに、青年は芝居がかった調子で一層声を弾ませた。
「そう、海の神・ルギアだよ。伝説のポケモンは、真の実力を持ったトレーナーの前に現れる……バッジの数なんて関係ない。彼らは本当に賢く、一目でその力を見抜くのさ。君はルギアに選ばれた――そう、君は今! スーパーヒーローへの第一歩を踏み出した!」
勇ましい衝撃がシルバーの耳に反響する。色々と疑問はあったものの、猛々しい青年の主張は憧れのチャンピオンを重ね、あたかも自分が彼と同じ土俵に立っているような気分になった。もう終わりが見えていたトレーナー人生を活気づけるこの台詞は、新しい世界への幕開けを感じさせてくれる。バッジは得られなくても、親が犯罪者でも――海の神に選ばれたということは、自分には素晴らしい潜在能力が備わっているのだ。それはもしかすると、あの恵まれたセキチクリーダーを凌ぐ力なのかもしれない。頬を緩ませるシルバーの前に、青年は翡翠のように輝く羽根型のバッジを差し出した。形状はトキワジムのグリーンバッジに似ている。よく見ると、このバッジには青年の襟元にも装着されていた。
「これがその証……さあ、そのバッジを胸に、我々で悪を撃とうじゃないか」
突拍子もない台詞に、シルバーは目を丸くする。
「あ、悪? お、オレはこの強いポケモンでセキエイに……」
「この力は野蛮なポケモンバトルに使うためにあるんじゃない。悪を討つためにあるんだよ……“ニケ”、次の指令は?」
青年が例の黒い通信端末に尋ねると、小さなスピーカーから女性の声が応答する。
『オーケー、“ソロ”。シロガネ山へ行ってちょうだい。そこで不穏な力を持った亡霊がいるとの情報が来ているわ。確認と、対処をお願い』
落ち着いた声質から察するに、女の年齢は三十代くらいだろうか。この男は彼女の指令を受け、行動しているらしい。その姿はシルバーから見れば本物のヒーローで、興行スポーツの世界で英雄視されているワタルとはまた違って見えた。
「ニケ、了解した……さあ、君。ルギアを召喚して」
青年は通信を切ると、視線をシルバーへと滑らせる。急き立てるような冷ややかな眼差しに、少年は戸惑いつつも直ぐにボールの開閉スイッチを押した。銀色の輝きを放ちながら、海の神が防砂林の中に舞い降りる。ホウオウを凌ぐ巨躯と竜のように重厚な佇まいは、ドラゴン使いに憧れるシルバーを一目で魅了した。
「すげえ……」
「見惚れている暇はないぞ。さあ、シロガネ山へ急ごう!」
青年は彫刻のように沈黙を続けているホウオウの背に跨ると、颯爽と空へ羽ばたいた。シルバーも慌てて後を追うが、相手は伝説のポケモン、騎乗することさえ躊躇ってしまう。が、ルギアは彼を品定めするようにじっと眺めながら、地に身体を伏せたままだ。その姿は自分を委ねているようにも思える――これが“選ばれる”ということだと確信した。
「よ、よし行くぞ、ルギア!」
鞍を装着することさえ頭になく、そのまま背中に跨ると、ルギアは大きく羽ばたきながら空へと飛翔する。たったそれだけの動作で大嵐が巻き起こり、木々を激しく揺らして辺りの草木を蹴散らした。シルバーはその力に圧倒されたが、次の瞬間、身体が後ろに引っ張られる衝撃が走り、神の首にしがみ付く。飛行機にそのまま跨っているような気分だった。ルギアは突風の如く空を駆け、少年は振り落されまいと必死にしがみつく。その時不意に目に入った景色に、彼は息を呑んだ。ルギアは飛行ポケモン乗り達が行き交う空中ゾーンを易々と突破し、カントー・ジョウト地方が地図のように一望できる高度まで飛んでいる。
(すっげえ……チャンピオンもドラゴンに乗ってる時、こんな景色を見てるのかな)
ドラゴンに跨るワタルの姿は、今も鮮明に記憶していた。同じようにカイリューに乗りたくて、必死でミニリュウを探したが未だ発見出来ずじまいだ。しかしこの海の神はカイリューを凌駕するポケモンである。上手く乗りこなせばチャンピオンさえ越えた存在と成りえるかもしれない。
そんな希望に胸を弾ませていると、こめかみに礫が当たって彼を現実に引き戻した。周囲の景色はいつの間にか霰が舞う、切り立った山々へと変わっている。肌寒い風に身震いがした。季節は初夏だというのに、山肌にはまだ薄らと雪が残っている。
「いたぞ!」
数メートル離れた場所をホウオウで飛行していた青年が、山頂を指さしながら叫んだ。急いでそちらへ目をやると、何やら小さな人影と、小型ポケモンらしきシルエットが揺れている。あれが“ニケ”とやらが言っていた、シロガネ山の亡霊だろうか。視界不良の中、シルバーは目を細めながら首を伸ばすが――影はホウオウが放った猛火によってかき消された。
「いきなりなんだ! 人違いだったらどうすんだよ!」
突然の先制に声を荒げたが、青年は空から降り注ぐ霰にも構わず、シルバーへ向けて微笑んだ。目尻と口角を糸で吊り上げて笑ったふりをしているような顔は、少年を再び怯み上がらせる。その相好は狂気を孕んでおり、かろうじて人間と接することができる人格が備わっているだけといった雰囲気だ。
「オレも昔はよくこの山へ修行に来ていたが――この山頂付近はいかなる生物も踏み入ることができない“デスゾーン”なんだ。人の存在なんてありえない。だが、神に選ばれた我々はこうして飛行しつつ、悠長に会話することも可能なんだよ」
シルバーはようやく気付いた。この地方最高峰のシロガネ山は、霰が吹き荒れる山頂付近の空では麓に比べ酸素が大変に薄いはずだ。それなのに眩暈もなければ息苦しさも感じない。しがみ付いているルギアが、ようやく気付いたのかと言わんばかりに彼を睨んだ。怯える少年を見て、青年がまた口角を上げる。
「まさに人知を超えたスーパーヒーローになったと言う訳さ……我々は“ニケ”の指示に従い、正義の名のもとに悪を討つだけ。さあ、地上へ戻って次の指示を仰ごうじゃないか」
強引に事を運ぶ青年に流されていたシルバーは、ここでようやく自身が置かれている立場を理解した。単純にルギアを使ってジムを巡り、セキエイに乗りこめばいいと考えていたが、自分は神に選ばれたヒーローになったのだ。ワタルとはまた別の、トレーナーとしての頂点に立てるかもしれない。シロガネ山の山頂は嵐が吹き荒れ、地上は霞んで見えないが――海の神と見渡す頂の景色は、限りなく壮大で純白の希望に満ちている。シルバーは覚悟を決め、上着の胸ポケットに付けていた羽根型のバッジを握りしめた。これで自分はヒーローになったのだ。
「そういえば君の名前は? “ニケ”には特徴しか聞いていなかったよ」
ホウオウと並んで地上へと向かいながら、青年が尋ねる。シルバーはルギアの首にしがみ付きながら、「シ、シルバー」となんとか自身の名を告げた。ルギアは相変わらず容赦ない高速飛行をしていたが、それでもいくらか感覚は掴め、身体の揺れは少なくなった。この適応力、やはり自分は選ばれたトレーナーだ。思わず口元が緩み、青年へ話しかける余裕も生まれる。
「あ、あんたは“ソロ”だっけ? 変な名前……」
「それは“ニケ”が勝手につけたコードネームだ」
青年は冷たくあしらうと、唇の端を引っ張ってシルバーが苦手な笑顔を作った。
「オレの名はランス。相棒として、これからよろしくな」