第5話:ヒーローショー 1Round
セキエイ・スタジアムのフィールドに、北南それぞれ五体ずつのポケモンが睨み合う。南側、四天王が率いるのはネイティオ、ルージュラ、クロバット、ローブシン、そしてマニューラだ。対する北側――悪役を買って出たチャンピオンが召喚するは、サザンドラ、ボーマンダ、ガブリアス、フライゴン、リザードン。どれも前シーズン中スタメン登板の多かった強豪揃いだ。そんなスター軍団が間近で見られるとあり、昼食がてら三文芝居を眺めていた本部職員達は、皆喜ばしげに前の席へ押し寄せてくる。東側スタンド最前列で鑑賞していた養護施設の児童らは、周囲を取り囲む大人の集団に目を丸くしていた。彼らにとってダークサイドに堕ちそうなワタルはどうでもいいのかと、無垢な子供は首を傾げる。
「ナナミ先生、もうチャンピオンにヒーローの心は戻ってこないの?」
引率のナナミに尋ねると、彼女は私物のデジカメをリザードンに向けながら答えてくれた。
「ううん、リザードン様がきっと何とかしてくれるから大丈夫! 本物は一層男前で素敵だわ」
近距離とはいえ、観戦スタンドはフィールドより五メートルほど高く作られている。ズーム機能を最大限に設定し、何度もシャッターを押すナナミはすっかりリザードンに夢中だ。子供達は心底呆れつつ、四天王の活躍に期待することにした。それにしても、大盛り上がりの観客席にいると自然と心は弾む。
しかし一方で、北側ベンチ上最前列は寒々しい雰囲気に包まれていた。総監が発する凍てつく憎悪を感じ取り、役員達は肩を縮める。
「なんだ、結局バトルをやるんですね」
事情を知らない事務次官があっけらかんと言い放つと、総監は呻くような声で否定した。
「いや……リハーサルなので……」
あくまで調整程度――と納得させようとしたが、フィールドから発せられたワタルの勇ましい挑発がそれを打ち消す。
「ルールは五対五ローテーションバトル! こちらは持ち物なし、あっという間にカタをつけてやるさ――これだけ実力差が開いているんだ、オレの相棒の出る幕はないだろう。せめてもの情けとして、ローテからは外してやろう」
「舐めた真似を……だが、望むところだ! 開幕前だが容赦はせん! セキエイの平和のために、本気で戦ってやる!」
シバがそれに応えると、スタンドも大きく沸き上がった。総監の後方では事情を知らない新人リーダーが手放しで大はしゃぎしており、それに影響されてか事務次官や他の官僚達も機嫌が良い。グリーンも前のめりになり、試合を待ちわびている。この状況に総監は愕然とした。
「……誰か、ショーを止めさせろ! あいつら本気で戦うつもりだぞ! 支配人を呼べ!」
理性を失って喚き散らす総監に、ヤナギが冷静な口ぶりで言い放つ。
「我々は常に全力で戦っている。例えお偉方の目があろうとも、手抜きのバトルなどせん。それはポケモンに対する冒涜だ。……ところで、事務次官殿!」
役職を呼ばれ、事務次官がヤナギの方を振り返った。初めてジムリーダーの存在に気付いた彼は、思わず目を見張る。
「おや、あなたはチョウジジムリーダーのヤナギさん……」
「政府がポケモンバトルの規制策を進めているそうだが、例え金を取っていないとしても、彼らはプロ故に客の前では最高のショーを作り上げねばならん。それは興行化へシフトしたセキエイに所属するトレーナーとして当然のことだ。まあ演技に関しては全員素人だから、先ほどの猿芝居には目を瞑っていただきたいのだが……本番はこれから。今はとやかく言わず、ショーを楽しんでいただく事はできんかな」
ベテランの申し開きに、事務次官は表情を緩ませ、にっこりと微笑んだ。
「ええ、勿論ですよ。こちらとしても、実情を視察できますし……それに、こんないい席でプロの試合が観戦できるなんて滅多な機会じゃない。存分に楽しませていただきますよ」
彼は隣で呆然と立ち尽くしていた総監に会釈すると、満足げに着席する。会場のほぼ全ての関心がバトルフィールドに向いており、総監は一人ぽつんと取り残されている気分だった。座席は本番の八分の一も埋まっておらずがらんどう、しかし加熱する興奮がその侘しさを取り払う。不思議な空間だ――総監は呆れながら息を吐き、降参したように腰を下ろした。
一方、フィールドでは四天王がバトルの用意を行っていた。少しでもファンの目に触れてもらおうと、試合に出さない手持ちポケモンを何匹かベンチに待機させた後、カリンはこの試合のために昨晩縫い上げたタスキをマニューラに掛ける。赤い絹のスカーフを再利用しており、目を刺激する色彩と主人の愛情がバトルに挑むマニューラの気迫を引き上げるが、華奢な彼は今回のローテメンバーから少し浮いていた。
「本当にマニューラで行くの?」
イツキはタスキの長さを調節するカリンを心配そうに眺めながら問いかける。
「ええ、私は“ヒーローだから相棒で戦う”とか言ってる貴方達とは違うの。ここから先は真剣勝負よ。絶対に勝ちたいから、最もドラゴンに有利な子を使うわ。だからごめんね、今回ヘルガーはベンチで応援」
カリンは南側ベンチの上で大人しく座っているヘルガーへ微笑みかけた。プロは多くのポケモンを有するが、その中でも相棒の存在は大きく、トレーナーのイメージさえ左右する。今回は本戦よりエンターテイメント要素が強い試合のため、イツキとキョウは観客受けする相棒を選択し、カイリキーが故障しているシバはコンディションが良く人気の高いローブシンを起用したのだ。
「迫力を出せるからバンギラスって手もあったけど……まだちょっと実戦登板は無理ね……」
鋭く睨んだ視線の先にいるバンギラスは、ベンチに待機する他のポケモン達に委縮しきっており、同胞であるヘルガーの後ろにぴたりとくっついて離れない。まるで親戚の寄合に初めてやって来た子供だが、同じくベンチ観戦のカイリキーに引っ張られてフィールドがよく見える位置へ移動させられていた。面倒見のいい先輩にカリンが礼を言う。
「カイリキー、ありがと。彼はリハビリがてらバンギラスとよくバトルをしてくれるのよ。この子ったら緊張で全力が出せないから彼としては手合わせにちょうどいいみたい。こっちとしてもアガリ症は改善されてきてるから、ウィン・ウィンの関係ね」
なるほど、日ごろ手合せしろと煩いシバもそれなりに考えて相手を選んでいるのか――イツキとキョウは感心した。身体のあちこちに生々しい手術跡が残ってはいるが、カイリキーの包帯は既に取れており、バンギラスの巨躯を容易に引っ張れるほど力が戻っている。復帰は更に早まることだろう。小心者の後輩を左腕二本で押さえつけ、カイリキーは凛呼とした姿を見せつけながら主人とローブシンに意志を託す。彼らは一言も発さず、それに応えるように頷いた。
「さあ、準備はいいか! 全力で来い!」
対峙する北側ベンチ前からワタルが吠え、観客を鼓舞しながらフィールドに緊張感を走らせた。総監の鼻を明かすために仕組んだ芝居だが、ここから先は台本がない。立場など気にせず、勝利を掴み取るのみだ。
「勿論だ! おれ達のハイパーパワー、受けてみるがいい!」
シバの絶叫が反響し――審判席に現れたアンパイアがフラッグを振り上げた。
「プレイボール!」
観客の大歓声が早くも最高潮に高まる中、戦いの火蓋は切って落とされた。トップバッターを任されていたイツキがいち早くテクニカルエリアへと飛び込む。このローテーションバトルでは、先頭に出たポケモンのトレーナーのみが指示エリアに入ることを許されていた。残りはポケモン共々、その後ろの外野エリアに待機である。相手がどのドラゴンを嗾けてこようが、イツキに課せられた役目は変わらない。バトルフィールドへネイティオを飛ばし、指示を叫ぶ。
「ネオ、リフレクター!」
四天王側が選出したポケモンは全体的に打たれ弱く、それを考慮しての対策だ。ネイティオは襲い掛かってくるボーマンダの前にリフレクターを張るが、ドラゴンがあっという間にそれを叩き割った。
「ボーマンダ、瓦割り」
バリヤーは粉々に弾け飛び、竜の前足がネイティオにパンチを叩き込む。些細なダメージではあったが、出鼻を挫かれたイツキは真っ青になりながら、後ろで呆れる仲間を振り返った。
「も、もうちょいワタルの動き見て技を選べばよかったかな……」
「その面子だとネイティオはアシストに回るはずだと思ったからね」
得意げに微笑むワタルに、スタンドから称賛の拍手が降り注いだ。二匹のポケモンは距離を取ると、入れ替わらぬまま再び激突する。
「ボーマンダ、ストーン……」ワタルの指示に合わせながら、ボーマンダが硬化させた尾を振るう前に――「追い風!」ネイティオはフィールドに強風を起こし、間一髪で攻撃を回避した。
「いいぞ、イツキ! 後は任せろ!」
キョウがイツキを労いながらクロバット共にテクニカルエリアの前へ動きだす。追い風にアシストされた蝙蝠は仕留めにくい。ワタルは次の手として、飛距離の出る技を有するリザードンを選んだ。
「リザードン、火炎放射!」
ボーマンダと入れ違いざま、リザードンが無駄のない動作で猛火を発射する。ナナミの一際目立った声援を受け、ありったけの熱を込めていたが――すぐに炎が四散し、観客は驚愕の声を上げた。ローブシンが両手に携えたコンクリート棒で技を防いだのだ。ワタルは目を疑ったが、テクニカルエリアに入っているのはシバ一人。キョウはしたり顔のまま、ライン際で止まっていた。つまりフェイントである。
「あいつ、また下らんマネを!」
憤慨するヤナギを横目に、アンズは大変に居心地が悪い。
そんなスタンドの状況は目にも入らず、フェイントに付き合わされたシバは不満を取り払うようにローブシンを駆り立てた。
「こんな小細工、今回限りだ! ローブシン、ストーンエッジ!」
リザードンの業火により熱を帯びたコンクリートは、焼けつくような痛みをローブシンの両手に走らせる。しかし彼にとってこの程度の痛み、日常的に行っている猛特訓に比べればどうと言うことはない。炎に持ちこたえた根性は腕力を向上させ、二本の巨大なコンクリートでリザードンを薙ぎ払う――が、澄んだ歌声のような羽音が聞こえたかと思うと、「フライゴン、飛翔しろ!」視界に緑のドラゴンが現れ、棍棒の間を縫って空高く舞い上がった。大きく空を切ったコンクリートはローブシンの手からすっぽ抜け、ワタルの手前に落下する。
色鮮やかで神秘的なドラゴンの登場に、客席から溜め息が流れたが――すぐに降下しようとした背後に巨大な影が現れ、背中を牙で斬りつけてフィールドへ叩き落とした。
「クロバット、どくどくのキバ!」
落下点はローブシンが残したコンクリート。フライゴンの目を覆う赤いカバーが角に当たってひび割れ、スタント上部のスクリーンビジョンに猛毒を知らせるランプが点灯した。スタンドが騒然とする中、観客は空中から得意げにドラゴンを見下ろすクロバットの存在にようやく気付く。一連の流れは恐らくトレーナーの計算通り。フライゴンの容体を気にしつつ、ワタルは感心したように息を吐く。
「さすが、針の穴に糸を通すようなコントロール。普通に毒攻撃を仕掛けても、フライゴンには大したダメージが与えられないのでコンクリートを利用したんですね。参ったな……よし、フライゴン、毒が回ってくる前に――」
ワタルは体勢を立て直すフライゴンの背後に回り込んで指示を出そうとしたが、フィールドの床すれすれを滑空するクロバットが彼の足元を掬い上げ不意を突いた。蝙蝠はそのまま外野へ飛び出し、待機していたマニューラと交代、氷を纏った右ストレートパンチがドラゴンの頬に炸裂する。
「ちょっ……そんなのってあるか!」
フライゴンは大きく後退したが、歯を食いしばって何とか持ちこたえる。その雄姿をスタンドは拍手で讃えたが、ワタルはひどく不満げだ。
「これは指示妨害だろ……」
「あら、ただのローテーション動作よ?」
カリンは悪びれることなく微笑んだ。外野ではシバがふてくされている以外は、皆してやったりと得意げである。このショーではワタルが悪役で、違反を申し立てにくい立場にいるからこそ積極的にダーティプレーを仕掛けていくつもりらしい。
「……なるほどね。シバが不憫だ」
「うちは直球派が少数なの。文句があるなら正面から殴って黙らせたら? フライゴンにはまだ余力があるでしょ。猛毒や氷なんて問題かしら、チャンピオン様の強力な手持ちだものね。もう一発パンチを食らったって、簡単に倒れるはずがない」
カリンの煽りとマニューラから放たれるプレッシャーに、フライゴンの戦闘本能が刺激される。フィールドに爪を立て、後衛が苦手とする氷タイプを己が倒さんとローテーションを拒否する姿勢を表した。
「そうか……君は戦いたいんだな」
ワタルはマニューラを一瞥するが、彼はタスキ持ち、一撃では仕留められない。しかし残しておくのは後々厄介で、毒を貰って長く戦えないドラゴンを使い、少しでも体力を削っておいた方が得策か――ワタルが動く。
「分かった、フライゴン……ここは下がれ!――ボーマンダ!」
後衛から飛び出してきたボーマンダがフライゴンを押しのけ、フィールドへ突入する。同時にカリンも後ろへ引っ込んだ。スタンバイしていたのはイツキのルージュラだ。
「ちぇっ、ようやく一匹仕留められると思ったのにさあ……アンジー、吹雪!」
ルージュラが吹雪を繰り出すより速く、ボーマンダはその眼前へ飛び出すと、「アイアンテール!」鋼の強度を再現した尾で横殴りし、人型ポケモンをテクニカルエリアの端まで軽々弾き飛ばした。後衛に戻されたフライゴンが一連の流れをぽかんと眺めていると、主人が振り返ってさっぱりと微笑む。
「君を捨て駒には使えないよ」
柔和な笑顔はフライゴンを安堵させ、観客席をさらに盛り立てた。もはや正義と悪の役割など消えてなくなっており、皆プロの試合に夢中だ。
フィールドの隅に伏せるルージュラはピクリとも動かないが、審判は戦闘不能を告げない。北側スタンドで観ていたヤナギはいよいよ苛立ちを噴出させ、席を蹴って最前列へ走り、怒鳴り声を上げた。
「何をしている、すぐに立ち上がらんか! もう一度吹雪を放て!」
「うげ、ヤナさんが来てる! アンジー、早く起きて!」
ようやく師の存在に気付いたイツキが、慌ててルージュラを急き立てる。速やかに起き上ってフィールドに吹雪を吹かせるが、ボーマンダはなんとか耐え抜いた。スタンドを囲む見えない壁の効果でスノードーム状になった幻想的なフィールド、そしてボーマンダの気合を目の当たりにしたスタンドは更に沸く。
「おや、ヤナギさんは四天王側なので?」
突然前に出てきたヤナギに呆気にとられつつ、事務次官が尋ねた。
「……教え子があの中に二人もいるものでね。小賢しいプレーばかり披露してお恥ずかしい限りだが」
ヤナギは父親ばかり目で追っているアンズに気を遣い、小声で肩をすくめる。事務次官は頬を綻ばせた。
「だけど奇遇です、私も今回は四天王派で……昔からシバさんのファンなんですよ。一緒に応援しませんか。しかし……盛り上がってますなあ! ビールが飲みたい気分だ」
事務次官は席から立ち上がると、隣にヤナギを招き、並んで試合に噛り付く。すっかり夢中になっており、訪問の要件など忘れているようだ。他の官僚も同様である。総監は呆れたが、ルージュラが滅びの歌を仕掛け、直後にボーマンダがトドメを刺した瞬間――興奮に煽られるまま、周囲は一斉に立ち上がった。これには彼も目を疑う。
(信じられん馬鹿騒ぎだ。これだけポケモンを投入して、やっとチャンピオンが一勝……時間の無駄だ)
記録係や夜のスポーツニュースで上がってくる結果ならば、スコアに黒星表記で終わりである。思ったほど大差をつけていないワタルの実力に、総監は苛立ちを募らせた。一方、フィールドではイツキがルージュラを手持ちに戻し、外野にいたネイティオを嗾ける。
「次も僕が行くよ! アンジーの仇を討ってやる!――ゴー、ネオ!」
対してワタルが前衛に向かわせたのはガブリアスである。先制を取り、宙で軽やかな舞を披露すると、スタンドから拍手喝采が巻き起こった。しかしイツキは大仰に肩をすくめ、それを鼻で笑う。
「イケてない踊りだなぁ、ご主人様に似てかったいね〜。ネオはブレイクが踊れるんだよ」
ネイティオはフィールドで逆さになるや、頭を軸に小粋なスピンを披露する。無表情だがキレのあるウィンドミルに、更に大きな拍手が起こった。ダンスを見せつけた鳥は胸を突出しガブリアスへ大威張り、激高を誘う。ドラゴンはたちまち理性を奪い、前後不覚に陥りかけたが――
「ガブリアス、落ち着け! 混乱しては敵の思惑通りだ」
ワタルが傍へ駆け寄り、背中を撫でながら諭すとすぐに冷静を取り戻した。予想通りの展開に外野で待機するシバ達はやきもきしたが、イツキは気にすることなくテクニカルエリアからネイティオに指示を囁く。
「よし……ネオ、今のうちに自己暗示だ。いいかい、今日僕らはヒーローなんだよ。子供達に見せてあげよう、ちびっ子に大人気のあの技――アシストパワーを!」
ネイティオは素直に頷くと、ガブリアスが纏う高揚感を心中に転写し、体勢を整えた。“アシストパワー”は昨年のイツキ復帰戦で起用後、子供達の間で人気となった魅力ある技だ。しかしすかさず、外野からカリンが口を挟む。
「手の内がバレバレよ、サザンドラが来ちゃう」
「それでも出来るうちにやっとかなきゃ! ファンの為だよ! このショーを計画したとき、アシストパワーは絶対に披露するって決めてたんだ」
仲間の助言に耳を貸さず、イツキは得意げに右手を挙げると、決め技を察した養護施設の子供達が次々に立ち上がった。
「さあ、ときわ子どもの森の皆、声を揃えてね! いくよ、アシスト――」
急激に引き上げた潜在能力をネイティオがいっぺんに解放する。しかし展開は予想通りだ。
フィールドに吹き荒れかけた念波の嵐は、ネイティオの視界に突如現れた漆黒のドラゴンによって打ち消された。
「残念だが、予定調和の演出に付き合うつもりはない。サザンドラ、自己暗示」
冷ややかなワタルの命により、これまで外野の隅で陰のように息をひそめていた竜の目が鈍き輝き、禍々しい邪気を放ち始める。イツキの顔がさっと青ざめた。
「ひええ、思ったよりやばいことになった……キョウさん助けて!」
後衛の事情も構わずテクニカルエリアから外野へ逃げ込むと、キョウが呆れながらクロバットを差し向けてくれた。
「その見通しの甘さ、いい加減に改善しろ。クロバット、黒い霧」
蝙蝠が放った特殊な毒素を含む黒い霧は、サザンドラの過熱した戦闘本能を鎮め、フィールドを覆った。濃度は並のポケモンが放つそれより遥かに高く、視界不良でスタンドからはブーイングが起こるほど。それを不快に感じたアンズは、父親の動向に気を揉みながら一刻も早く霧が晴れることを祈った。それはワタルも同様だ。
「参ったな、また不意打ちを食らいそうだ……サザンドラ、後ろを監視するから前方と左右を――」
指示を出そうと動いた途端、ワタルの脇から巨大な蝙蝠が飛び出してきた。マントを上空へと掬い上げ、チャンピオンとぶつからないギリギリを狙ってフィールドへ突入したクロバットは、そのままサザンドラの背後を撃つ。毒牙を突き立て、彼女は霧を払いながら上空へと舞い上がった。スクリーンから猛毒を知らせるシグナルが鳴っている間に空中で大きく一回転し、バランスを崩したワタルが体勢を立て直す前に急降下してもう一撃。左右の小さな頭にヘドロを投げつけ、視界を塞ぐ。無駄のない攻撃にアンズは思わず拳を握りしめたが、隣で観戦していたハヤトは眉をひそめた。
「お前の父さん、エグイ戦いするな……」
「だ、だって毒使いだもん! 毒ポケモンは毒使って当然だし、真正面からドラゴンと戦うのは危ないでしょ」
アンズは慌ててフォローするが、ツクシも同様の反応を示しているし前列のグリーンも渋い顔だ。最前列で事務次官と並んで観戦しているヤナギも、何やらぶつぶつ不満を漏らしている。何か変だ、父親は世界一ポケモンの扱いが上手い毒タイプのプロフェッショナルで、自分にとってはヒーローのはずなのに――
(どうしよう、このままじゃお父さんの評価が悪くなっちゃう……そんなのやだ!)
そんな娘の気も知らず、フィールドでは一連の攻撃に唖然とするワタルに対し、キョウが冷たく吐き捨てる。
「この程度で指示妨害だって? 俺は弱視のクロバットをリードするので精一杯、カカシを気遣う暇はない。それでも不服だと言うのなら、ルールに聞いてみようじゃないか――審判殿、私の指示に何か問題は?」
彼は目線を審判席のアンパイヤに向け、ペナルティの有無を確認する――判定はセーフだ。ハンディ持ちのクロバットは多少無茶を働いても特に寛容されやすいし、今回試合を担当しているアンパイヤは特にその傾向が強かった。これも織り込み済みである。外野では四天王がその狡すっ辛い振る舞いに慄き、ワタルも腑に落ちない様子ではあったが、キョウ自身罪悪感は微塵もない。
(結果が出ればプロセスなんて構わん。あいつのドラゴンとはポケモンの実力差が歴然だ、訓練で追いつけるもんじゃない。足りない力は俺で補うしかない――毒の精度は上げた、ポケモンはより利口に、フィールドの特徴や全審判の癖も研究……こっちはワタルが到底及ばない部分で調整してるんだ。多少汚かろうが、それでも俺は勝ちたいんだよ。完封され続けるのは、サカキだけで十分だ)
猛毒が身体に回り、すっかり弱ったサザンドラが後衛に引っ込む前にトドメを刺すことだけを考える。ワタルが僅かに後衛を一瞥し、ガブリアスとアイコンタクトを取った。ローテーションすることはお見通しだ。扇子を叩き、相手が代わる前にクロバットを差し向ける。追い風に乗ればドラゴンの背中はあっという間だ。
「とらえた!」
シバの絶叫後、蝙蝠が大きな翼を撃ちつけようとしたが――「サザンドラ、竜の波動!」ドラゴンが振り向きざま放った波動により、クロバットは軽々と上空へ弾き飛ばされた。場は騒然となり、アンズは居てもたってもいられず、最前列へと駆け出す。
「クロちゃん、お願い持ちこたえて!」
観客の少ないスタジアムにおいて、その可憐な声は誰よりもよく通る。耳のいいクロバットは意識をすぐに取り戻し、初めてアンズの存在に気付いたキョウを始め、四天王やワタルの関心はそちらへ動いた。
「お父さん、頑張って! 絶対負けないで!」
決死の応援に、父親はひどく動揺する。サザンドラを引き離し、ワタルを牽制しながら持久戦に持ち込むプランがその一声で消し飛んだ。自身が師匠仕込みのやや卑劣な戦法をすることに抵抗はなかったが、娘には正攻法の戦いしか教えていなかったし、彼女との手合わせもそれに準じていた。娘の前では立派な背中を見せていたかったから。
「キョウさん、あなた今ヒーローですよ!」
ワタルが白い歯を見せ、迷いを打ち消すような笑顔で告げる。
ヒーローはそっちだ、少しでも素が出ると悪役になりきれない癖に――キョウは唇を噛み締めながら、クロバットを仰ぐ。相棒は主人のどんな命令にも応じる構えではあったが、濁った瞳には揺るぎない闘志が宿っていた。ただ真っ直ぐに相手を打ち取りたい――かつて自分も、同じ眼差しを敵へ向けたことがある。渾身のストレートボールで勝負を挑んだ、リトルリーグ最後の試合だ。そこで彼は覚悟を決めた。
「クロバット、そこから真っ直ぐ二時の位置だ――ブレイブバード!」
クロバットは上空で大きく宙返りしながら疾風を纏い、四枚の翼を折り畳んで全エネルギーをその技に集約した。視界の先に闇のドラゴンを捉えることはできなかったが、一切の恐怖はない。主人の命令は何より正確だ。勇敢な蝙蝠は弾かれるように急降下した。
「迎え撃て、サザンドラ! 流星群!」
余力がないサザンドラも相手を迎撃する構えだ。数多の隕石をフィールドに振らせ、美しい軌道を描く弾丸を眼前で叩き落とす――が、肌を掠めたのみ。クロバットは捨て身でサザンドラの腹へ衝突した。二匹は崩れ落ち、アンズは悲鳴を上げ、観客は総立ちとなって結果を見守る。総監も思わず息を呑んだが――すぐに審判は二つの旗を掲げた。
結果はドロー。
両トレーナーは悔しさに眉をひそめた。これで試合から脱落するキョウは尚のことである。
(持てる全てを出し尽くした……それでも敵わないか……)
彼は息を吐きながら気絶したクロバットをボールに戻す。健闘した彼女の相好は意識を失っていてもどこか清々しいが、“おや”としては悔しさが残るばかりだ。久々の真っ向勝負、白星を掴むことができれば一層の自信に繋がったことだろう。一度は押しとどめていた引退の二文字が脳裏にちらついたが――小さな拍手がそれを破った。北側スタンド最前列、娘が懸命に両手を叩きながら眩い笑顔を父親とその相棒へ向けている。
「お父さん、クロちゃん、ナイスファイト! すっごく格好良かったよー!」
傍にいたヤナギも感心したように「英断だ」と手を打ち鳴らし、事務次官も続くと興奮と称賛はあっという間にスタンドへ拡散した。クロバット目当てに観戦へやってきたマサキなどは、雄姿を見届けた嬉しさと早々の退場に一際泣き笑いだ。
降り注ぐ拍手にキョウは左手を掲げて応えると、娘の方角を向いて丁寧にお辞儀する。喝采は一層強まり、そこにアンズが歓喜する声が混じっていた。不思議と心は晴れやかだ。
(それでも敵わないなら、更に精進するだけだ)
娘の前ではヒーローになっていただろうか――顔を上げると、対角線上にいたワタルがその疑問を肯定するように微笑んだ。やはり彼は悪役に向いていない。お礼代わりに会釈し、外野へ踵を返した。いち早く出迎えてくれたのは、やや不服な面持ちのイツキである。
「キョウさんナイスファイト! サザンドラを倒してくれてありがとう! でもさ、クロちゃんが早々に倒れちゃったら“全ドラゴン猛毒自滅計画”が台無しなんですけどー。代わってくれれば良かったのに」
現状ワタルは毒対策を行っていないため、クロバットの離脱は痛手である。しかし死人に鞭打つような言い分に、キョウは思わず肩をすくめた。
「悪いな。確かに自滅も狙えたんだが……娘がいる手前、ちょっと格好つけてみたらこのザマだよ」
手持ちが残っているイツキとカリンは不満げだが、正々堂々と試合をしたいシバは北側スタンドで喜んでいるアンズにアピールするかのように、大仰に称えてくれた。
「それで構わん。娘にはいいところを見せてやれたじゃないか。と言うか、来てるなら教えろ!」
「リーダー就任式があるとは聞いていたが、ここへ寄るとは思わなかったんだよ……」
役目を終えたキョウはボールを袂に戻しながら南側のベンチへと下がる。脱落してしまえばフィールドには居られないのだ。座り慣れた北側の席と異なり、挑戦者向けの南側ベンチは極めて簡素、公園のベンチと遜色ない。その上今回は四天王のポケモンで溢れている。彼がやって来るなり、ドクロッグがいち早く席を空けて後ろへ下がった。両脇に座っていたカイリキーとヘルガーも、トレーナーが窮屈しないよう端へ詰めて配慮したのだが――血気盛んなポケモンらに囲まれ、キョウの居心地はあまり良くない。その様子にカリンは吹き出しつつ、しかし次のカードに向けて気持ちを切り替えた。
「クロバットちゃんの離脱は痛いけど、毒を貰ったフライゴンとボーマンダは持久戦に持ち込めば自滅する。状況は有利よ。ただ……ガブリアスが少し厄介ね、私がフィールドに引っ張り出して仕留めるわ。マニューラ!」
カリンがマニューラを引き連れテクニカルエリアに入った。堂々としたローテーションに、ワタルは思わず目を見張った。
「手の内を見せていいのかい?」
「ええ……寒いのは苦手でしょう? リザードンと勝負してあげる。“あの時”みたいに、温めてもらいなさいな」
カリンは悪女の微笑みを浮かべながら、顎をクイと動かした。あの時とは、昨年末に竜の穴で晒した醜態のことだ。ワタルと後衛で待機するリザードンの顔がこわばる。「あの時って?」とイツキが男同僚に尋ね始める声が聞こえたので、彼はその話題をかき消すようにガブリアスを嗾けた。
「……行け、ガブリアス!」
主人のマントを激しくはためかせ、外野からジェット機が飛び出してくる。カリンは笑顔でマニューラの背を押した。
「そうこなくっちゃ。マニューラ、冷凍パンチ!」
追い風に乗ったマニューラは右腕を振りかぶってガブリアスの視界に飛び込むと、凍りついた鉤爪をすかさず頬へ叩き込んだ。大きくのけ反ったドラゴンはそのまま上半身を振るいマニューラを薙ぎ払おうとしたが、横っ飛びで回避される。「もう一発!」カリンの合図で振り向きざま、二発目のパンチをお見舞いしようとしたのだが――ターゲットはリザードンへすげ替わっていた。首筋に鉤爪が触れた途端、纏った氷が一瞬で気化。マニューラが鋭い悲鳴を上げると同時に、「カウンターを仕掛けろ! 炎のパンチ!」
マニューラの眉間に猛火の拳が入り、華奢な身体がフィールドの端まで軽々と弾き飛ばされる。リザードンへローテーションされたのは想定外だ。
「つまんない男!」
カリンの叱責を受け、ワタルは思い出したように悪人面になり、得意げに微笑んだ。
「全くその通り、よく言われるよ。さあリザードン、挑発通りに勝負してやろうじゃないか」
紅蓮の炎が燃え盛る尾を振りかざし、リザードンが咆哮する。たちまちスタンドは拍手喝采――ナナミがデジカメを連写しながら黄色い声を上げた。「リザードン様、素敵! さすが!」
養護施設の付き添いとして写真係も任されていた彼女だが、子供達の写真はショー開始前までしか撮影していない。後はリザードンの写真が既に三百枚近く収められており、勢い衰えることなく増え続けている。北側ベンチから姉の様子を窺っていたグリーンはリザードンへの興奮ぶりに腹を立て、ついに席を蹴る勢いで立ち上がった。
「何だよ、リザードンばかり贔屓して! 写真撮るなよ! 冷蔵庫や伝言ボードに貼りまくられて目障りなんだよ!」
突然背後で絶叫した少年に、前方にいた総監は度肝を抜かれる。呆気にとられている間に彼は最前列へと移動し、アンズとヤナギの間を割って無我夢中でがなり立てた。
「おいマニューラっ、頼むから立ち上がれ! タスキしてんなら気合を見せろォ!」
真に迫る応援に煽られ、周囲の大人達もつられてマニューラを鼓舞する。それを受けてか、それとも主人の声を耳にしたからか――マニューラはよろめきながらもなんとか身を立て直した。鉤爪を掲げ、折れた牙を外野へ吐き捨てると、北側スタンドはたちまちヒートアップする。地位も年齢もかけ離れた職員や役人、ジムリーダー達が“ファン”として興奮を共有し、拳を握りしめ歓喜する姿は何と楽しげなことだろう。
その後ろ姿を眺める総監の足元にも、静かな高ぶりがじわじわと押し寄せていた。
(この感じは……)
待ち望んでいたのはこれだ。
一昨年の開幕戦、ワタル対レッドの試合で感じた熱気。一人だけ張り付いていた座席から、ようやく腰が動き出す。フィールドのリザードンがトドメを刺そうとマニューラへ飛びかかるなり、総監は立ち上がって首を伸ばし、周囲と共に驚嘆の声を漏らした。火炎ポケモンの射程範囲にマニューラはおらず、足元から突き上げるような疾風の拳が飛んでくる。もんどりうって倒れたリザードンの目の前に現れたのは両手の開いたローブシンだ。
「流星群の隕石を使え!――ストーンエッジ!」
携えていたコンクリート棒は離れた場所に落ちてあり、回収に動くのはリスクが高い。しかしフィールドにはサザンドラが放った直径八十センチ近くの隕石が無数転がっている。ローブシンはシバの命を受け、爪先で隕石を蹴り上げると軽々と両手に抱えてリザードンを強襲する。だが、その攻撃は再びフライゴンによって阻まれた。
「フライゴン、つばめ返しだ!」
フライゴンは岩石ごと弾き返すように翼で斬りつけようとしたが、猛毒によって思うように力が出ず、かすり傷程度しか与えられない。間もなくその攻撃に合わせるようにローブシンのカウンターパンチを食らい、ドラゴンはあえなく気絶する。審判が判定を告げる前から、観客席は大いに沸き立った。人気の高いシバのポケモンだけに、尚更だ。
「フライゴン……健闘したな。ありがとう」
ワタルはテクニカルエリアの端で気絶しているフライゴンの頭を撫でると、悔しげにボールへ帰還させた。手持ちはこれでお互い三対三、状況はワタルがやや劣勢だ。
「クロバットを先に仕留めておいて正解だったな」
フィールドの反対側からシバが告げる。ワタルはゆっくりと頷いた。
「ああ、確かにそうだ。朝夕のキョウさんとの手合わせではあそこまで毒の精度が高くなかったから油断していたよ。カリンも痛いところを突いてくるし、お前の格闘ポケモンは更に腕力が増している……今年のマスターシリーズは苦労しそうだ」
「二年も負け続けたおれ達が、この地位に甘んじていると思わんことだ! おれ達は王の椅子を守る近衛兵でもない、ドラゴンの引き立て役でもない――チャンピオンを目指す、挑戦者だ」
スタジアムに響くシバの勇猛な言葉が、興奮に浸っていた総監の耳に突き刺さる。ひどい衝撃で眩暈を覚えたが、甲高いイツキの声がすぐに意識を引き戻してくれた。
「僕も忘れないでくれるかな! 今年は一味違うんだよ! 行け、ネオ!」
シバとテクニカルエリアを入れ替わり、少年がネイティオを嗾ける。ワタルは対抗し、後衛からまだまだ鼻息荒いガブリアスを解き放った。
「ならば見せてもらおうじゃないか! ガブリアス、ドラゴンクロー」
ガブリアスは床を蹴り上げ、両手を広げるネイティオへ一直線に突進していく。
「よおし、テレキネシスだ!」
瞬時にネイティオが念力を解放した。念波はフィールドに散乱する隕石へ伝道、次々揺り動かし――端に落ちていた巨大なコンクリート棒が軽々弾き飛んでドラゴンを狙う。それにワタルが気付いた頃には、既にガブリアスの後頭部へ激突していた。
「シバ、あとよろしく!」
イツキがネイティオを抱きすくめて外野へダイビングしながら、速やかにローテーションする。ドラゴンの後頭部を強打し、くるくると上空を舞っていたコンクリート片が再びローブシンの両手に収められた。観客の興奮が最高潮に高まる中、シバが咆哮する。
「ローブシン、アームハンマー!」
ローブシンほど、その技に相応しい存在はいないだろう。武器を携えた両腕はまさに大槌だ。雄たけびを上げながら振るい上げ、渾身の右ストレート。次いで挟み込むように左も炸裂、そのたった二打の衝撃はガブリアスを昏倒させるには十分すぎる威力を誇っていた。ドラゴンがフィールドへ崩れ落ちると同時に審判が気絶を知らせる旗を振り、スタンドの熱情が爆発してシバとローブシンを称賛する。
「決まった! これで三対二、四天王がチャンプを押している!」
シバのファンである事務次官は拳を振り上げながら歓喜を露わにした。ショー開幕前はしおらしかったグリーンも、ジムリーダー連中では誰より興奮気味だ。
「残るワタルの手持ちはリザードンと、滅びの歌で自滅待ちのボーマンダだけ! これ勝てるぞ!」
フィールドを囲むスタンドの応援熱はリザードンを推すナナミを除き、いつの間やらほぼ四天王へと傾いている。
ワタルが圧勝すると信じて疑わなかった総監は、この流れに困惑していた。四天王が選出したポケモンの面々を見る限り、チャンピオンのドラゴンで押せば勝てるはず――当初はそんな風に楽観視していたが、結託した四天王は反則まがいのプレーをしてまで貪欲に勝利を追及していた。マニューラやネイティオなど、ドラゴンに比べ小さく華奢なポケモンが健闘する姿は観客の心を打ち、頼もしいローブシンの存在に勝利を確信する。試合の流れはまさにヒーローショーだ。
(君は汚れ役を買ってまで、四天王を引き立てようというのか……)
しかし漆黒のマントをはためかせ、テクニカルエリアで仁王立ちする王者の背中はどこか清々しい。同じように孤独に頂点を守り続けていても、その双眸は常に前を向き続けている。様々なしがらみに囚われ、体裁に固執する自分が情けなくなった。
(しかし、あのように高尚な意志を持った存在は稀なんだ。私だって最初は……)
最初はポケモンのためにこの身を捧げても良いと思っていた。
――オーキド、お前には負けんぞ!
鮮明に浮かび上がる、空地に線を引いただけの簡易なバトルフィールド。大学が終わればタマムシシティ郊外で、よく友人らとポケモンバトルに励んでいた。その中でもオーキドは私の好敵手で、実力は僅かにこちらが劣っていた。それが悔しくて寝る間も惜しんで研究し、その試合に勝てばようやく一勝リードできるとあり、特に気合が入っていた。遊びなのに真剣だった。フィールドでぶつかり合うポケモンに、手抜きの指示なんてできなかったから。彼らは利口で人の意思をすぐに見抜く。一喜一憂を共有し、その一体感こそポケモンバトルの大きな魅力だ。
――アタシのアドバイス、無駄にするんじゃないよ! 勝て!
外野からキクコの罵声が飛ぶ。セキチクのあいつもビール片手に、声を張りながら応援してくれた。大学の仲間達もやってきて、かなりの賑わい。まるでショーだ。ここで勝利を掴めば、私とポケモンはヒーローになれる。褒美なんてそれだけ。それで十分じゃないか。
――いくぞ!
フィールドにぼんぐりが投じられ、中に埋め込んだ装置を介して二体のポケモンが現れた。
オーキドは二ドリーノ。そして私はゲンガー。
キクコやあいつから助言を受けたとっておきのポケモンだ。今日こそは負けんぞ。いち早くゲンガーを仕向け、夢中で指示を叫んだ。一銭にもならないバトルなのに、あの時は真剣そのもので――そして何より、楽しかった。
(あの頃は仲間とのポケモンバトルに夢中になり、誰より強くなろうと寝るのも惜しんで毎日訓練や研究に励んでいたのに……)
結局仲間達を追い抜くことはできず、その情熱はリーグ本部設立時の激務ですっかり消えた。現実を知ってポケモンやトレーナーに失望し、いつしか趣味はゴルフへと変わってしまった。勤続年数の長い本部職員にはそのような事例が多く見られるが、今は彼らも夢中になって四天王を応援している。とっくに現実と折り合いを付けたつもりでも、このショーに夢を見ている。セキエイスタジアムはあの頃夢中になっていた野良バトルの完成形だ。観客はより感情移入できるトレーナーやポケモンへ希望を託し、声援を送る――それは昔と変わらない。
「総監、我々がリーグ設立時に目指したスタジアムが、ようやくここに完成しましたね」
夢中で試合にかじりつく姿を見た副総監のフジが、心中を察したように微笑みかけてくれる。多くの犠牲は生み出してしまったが、この盛り上がりを見るとその苦労も報われた気がした。
「……そうかもしれんな。だが、あの不甲斐ないチャンピオンは観るに耐えん」
足は勝手に動き、最前列で騒いでいた本部役員をどかせて孤独な王者に話しかけた。
「ワタル君! 全く、君には失望したよ!」
ワタルがマントを翻しながら振り返り、何事かと眉をひそめる。
「リーグ総本山であるセキエイの王者が、四天王にこれほど苦戦を強いられるとは予想だにしなかった。接戦でも記録係は勝敗しか伝えてこないからね、私は君を買い被りすぎていたようだよ。これからはこの目で評価した方が良さそうだね。君も、四天王も」
冷やかで刺々しい言い分に周囲は呆気にとられたが、ワタルはすぐにその意図を理解した。
「ええ、そうしていただけると大変有り難い! 私は情けなく負ける男じゃありませんがね!」
悪役の立場故荒っぽく突き放しているが、緩んだ顔つきで安堵している様子が一目瞭然だ。演技は最も上手いが、ヒーロー然とした態度が役柄を台無しにしている。大袈裟にマントを返し、フィールドに向き直る背中は勇ましく、誰より頼もしいのだ。きっとこの劣勢を覆してくれる、そんな期待を掛けて彼の後姿を眺めていると、近くにいたアンズが身を乗り出し笑顔で話しかけてきた。
「総監はワタルさんのファンなんですね!」
側近がなかなか触れられない中、少女は無邪気に核心を突いてくる。突き放すような言動をしたつもりだが、容易く悟られてしまったらしい。総監は胸のつかえを取り除くように息を吐き出すと、ぎこちなく微笑みながら頷いた。
「そうだよ、よく分かったね」