第3話:スコアの裏側
翌朝ワタルが普段通りの時間にロッカールームを訪れると、彼は一番乗りに戻っていた。どうやら勉強会は一度きりで終わってしまったらしい。それで問題ないのだろうかと首を捻りつつ、壁際のホワイトボードに違和感を覚えたのでそちらへ目をやると、四天王の専門タイプごとにフェアリー対策を書き記した紙がいくつも貼られている。自分が帰宅した後、彼らは残って話を取りまとめたようだ。それぞれの性格が反映された分析結果に、ワタルは思わず口元を緩ませる。
「お前のはないぞ」
じっくり立ち読みしていると、開け放していたドアからシバがぶっきらぼうに現れた。親友はすっかり擦り切れたドラムバッグをロッカーへ突っ込むと、モンスターボールやタオルを取り出して早速スタジアムへの移動準備を始める。
「フェアリー対策など既に頭へ叩き込んでいるだろう」
不意の問いかけに、ワタルは悠々と微笑んだ。
「それなりにな。ま、何が来たって恐れはしないさ」
「それでこそチャンピオンだ。我々も追従せねば」
「よろしく頼むよ」
ワタルは着ていたライダースジャケットを個人ロッカーの中に吊るしながら、昨日の総監の話から四天王へのフォローが必要なことを思い出した。きっと彼らも間接的に責められているはずだ。
「……四天王が役不足なんて、一度も思ったことはない。そう感じているのは総監と、ほんの一部だけだ」
「しかし一番上がそう言うのだから、分からせてやるしかあるまい。マスターシリーズで、お前に勝つ」
相変わらず無愛想で実直なシバの答えに、ワタルは安心して微笑んだ。
「望むところだ」
そこに昨年末のような確執は消えてなくなっていた。競争が激しいプロ社会において、しがらみに囚われず戦える存在は互いにとって大きい。上機嫌で訓練の支度をするワタルに目をやりながら、シバはふと湧いた疑問を聞いてみる。
「それで昨日、総監に呼ばれたのか?」
「それもあるけど……前からプロの管理体制を改善するよう求められていて、マツノさんたちと考えた案を提出してきた」
シバは怪訝そうに顔をしかめた。
「お前、そんな仕事までやってるのか」
ワタルは肩をすくめながら苦笑する。
「去年文句言ってしまった時に、改善案を要求されていたからな。口だけでなく、形で示さないと。今日も昼から本部のシステム部主任と、ICマーカーのダメージ判定に関する打ち合わせで……ああ、勿論トレーニングは怠ってない。今から手合わせ頼むよ」
「勿論だ」
そう告げ、シバは訓練用のポケモンの選定を終えた。ボールを抱えていると中にいる彼らの意気込みが熱となって伝わってくる。実戦ではその情熱が観客にも波及し、スタジアムの興奮を増幅させるのだ。その時は間もなく迫っている。シバはぽつりと思いを口にした。
「確かに、形で示せば納得するかもしれんな。一昨年セキエイが休業に追い込まれ興行路線に変えた時も、バトルで魅せ、勝利を収めればバッシングも止んだ。今や文句を言う者は殆どいない。そうやって信頼を取り戻したはずなのに……総監は醜く椅子を争う方が好きなのか? あの盛り上がりは二の次か?」
ポケモンバトルをライフワークだと位置付けるストイックな彼だが、自身の人気ぶりを自覚し適した戦いを研究しているようだった。昨日総監の事情を聴かされたワタルは苦しげに頷く。
「……試合はあまり見てないようだ。結果が分かってるから、終わった後にスコアだけ確認しているらしい」
昨日悪びれなく告げられた事実だ。不満だが、シバは素直に頷いた。
「なるほど、プロは結果が全て。その通りだ」
ワタルは一瞬耳を疑ったが――すぐに手元に影を落とす親友を見て、建前だということを確信する。選定したボールの中には、一匹だけまだ本調子ではないポケモンが混ざっていた。昨年故障したシバのカイリキーだ。彼は相棒を眺めつつ、無念を漏らす。
「しかし、現場で戦っているポケモンは数字だけで存在を示される。哀れだな。総監からすれば、一日も欠かさずリハビリや訓練を続けているおれの相棒も、今はただの戦力外なんだろう」
そんなことはない――ワタルは否定したかったが、昨年カイリキーを切り捨てるべきだと言い放った総監がその意思を変えることはないだろう。記録の先で生きているポケモンを、どうすれば認知してもらえることができるだろうか。すぐに答えは出せなかった。
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「すんませんっ、会議室どこも開いてなくてわざわざチャンピオン様にお越しいただくなんて……恐縮です!」
午前のトレーニングを終え、本部システム部との打ち合わせのためオフィスを訪れたワタルを出迎えたのは主任のマサキだった。天然パーマが印象的なまだ三十代ほどの青年で、その若さで本部システム部の管理職を務めている事実にワタルは驚愕する。
「随分お若いんですね……」
「またまた! チャンピオン様もびっくりの若さですやん、こういう世界はお互い実力主義ですしねえ」
マサキはコガネ弁であっけらかんと笑い飛ばした。
本部職員のドレスコードはビジネスカジュアルが基本だが、このフロアはそれより更にラフである。茶髪にノーネクタイのジーンズ姿が目につくのは、同様の格好をしているマサキの影響だろうか。室内には三十人ほどの社員が働いており、デスクを仕切るパーティションには各個人スペースごとにトレーナーチップスの景品カードが大量に貼られ、業務用デスクトップPCの上には無数のポケモンフィギュアが飾られていた。さながらポケモンマニアの自宅である。ここで人が仕事をしていることがワタルには信じられなかった。
「おう、ワタル総大将がいらっしゃったぞ。お茶出してもらえる?」
自席へ移動する道中、マサキはドラゴンポケモングッズで埋め尽くされたデスクで足を止めると、年若い男性職員の肩をポンと叩いた。
「は、はいっ!」
彼は席を蹴って立ち上がり、ワタルに向けて最敬礼をした。大袈裟な動作にはチャンピオンさえ唖然とする。
「あの……後でこのカードにサインしていただいても?」
目の前におずおずと差し出されたのは、ワタルとカイリューが写っているトレーディングカードである。プリズム加工を施したトレーナーチップスの景品だ。どうやら彼は自分、もしくは相棒のファンらしい。ナナミの前例を受け、ワタルはポケモン単体のファンでないことにやや安堵しながら笑顔で頷いた。
「ええ、構いませんよ」
憧れのトレーナー本人にサインを貰えるとあり、男性職員は喜びを露わにしながら給湯室へ駆けていく。チャンピオンの訪問に浮足立っていた他の従業員たちはこの一部始終を見逃しておらず、彼に羨望の眼差しを送っていた。
そんな様子をワタルが眺めているとフロアの隅からマサキが呼ぶ声が聞こえ、彼は急いでそちらへ向かった。窓際のやや開けた席がマサキのデスクである。
「彼、貴方のファンなんですよ。ちょっと図々しくってすんません。あと席もこんなとこで申し訳ない」
管理職とはいえ主任クラス、デスクは他の平社員と大差はない。少し空いたスペースに丸椅子と小さなテーブルが置かれ、どうやらここが打ち合わせの席のようである。ワタルは「問題ありません」と告げながら、にこやかに着席した。目線を下げると、マサキのデスクが他と比較にならないほど雑多なことに驚かされる。二台並んだディスプレイの周りには書類やファイルがうず高く積まれ、デスクを囲むパーティションには仕事のメモ書きなどがみっちりと掲示されている。机の下も、パソコンの本体を始め書籍や周辺機器などがぎっしりと詰まっていた。どこか一か所触れるだけで土砂崩れが発生しそうなほど、整頓されている様子がない。
そしてもう一つ目につくのが、書類の山の上に置かれたクロバットの卓上カレンダーである。メモで埋め尽くされたパーティションの隙間にも同じポケモンのトレーディングカードが飾られている。どれもリーグ公認のキョウのクロバットを基にしたグッズだ。彼のファンなのだろうか――ワタルがそれを不思議そうに眺めていると、持参した書類に目を落としていたマサキが軽い悲鳴を上げた。
「免許のアップデートにICマーカーのダメージ判定調整も加えるんでしたよねえ。今日初めて資料読んでびっくりしましたよ。マスターシリーズのみの施行で、数値も微々たるものとは!」
「故障対策のテスト運転なんです。いきなり判定値を大きく変えてしまうとプロの調整に影響しますので……手間を増やして申し訳ない」
ワタルは苦しげに頭を下げた。
ポケモンの気絶判定は対象に装着したICマーカーが心電計データを読み取り、一定の基準を満たせば反応する仕組みである。昨年発生したシバのカイリキー故障を受け、再発防止のため、気絶すればより迅速に反応するようその基準値を変更する提案なのだが――マサキはがっくりと肩を落とした。
「結構大変なんですよ。チャチャッと数値だけ変えればいいと思ってるんでしょうけどシーンも限られているし、これやるために何度テストを重ねることか。先人が組んだ雑なプログラムや、余計な通信機器やサーバがぶら下がってるネットワーク構成のままで運用してきたから、慎重に対応しないと上手く稼働しないことだってザラです。今度の免許アップデートもそれですよ」
その知識に明るくないワタルは話がいまひとつ分からなかったが、普段世話になっている端末の裏事情は想像以上に壮絶だということは理解した。
「バグでも見つかったんですか?」
軽く尋ねてみると、マサキは大仰に指を鳴らして食いついた。
「ええ、お使いでしょうけどプロ向けのポケモン使用申請システム! あれねえ……重大な欠陥があって、本来なら申請後に内容を変更できないはずなのに、ある方法を使えば簡単にそれができるんです。それを何年も放置してるのが分かって……馬鹿みたいでしょ? ヤバイことに使われたらたまらんですわ」
それを耳にした途端、ワタルはたちまち硬直した。
プロトレーナーは日常場面でのポケモンの使用が制限されており、特にアマチュアとの試合は緊急時以外禁止されているのだが、このバグを利用し不正に申請を行って対抗する事例を度々目にしてきた。特に四天王は常習である。
「それは一刻も早く修正した方がいい」
動揺を悟られないよう背筋を伸ばして毅然と言い放つと、それに感化されたマサキが鬱憤をぽろぽろと溢し始める。
「でっしょー……これを機にサーバをトキワのデータセンターへ移行してネットワーク構成も変え、本部サーバールームの省スペース化を図ろうと思いましてね。大忙し! だからこういう案件困るんですわ。早く言ってもらわないと……まあ、チャンピオンに文句言っても仕方ないですけど。あのね、ここのオフィス以外、当フロアとその下の階はぜーんぶトレーナーシステム関連のサーバ設備ですよ。つまりデータセンターです。一極集中、自社管理なのにセキュリティや災害時の対策が甘く、怖くて仕方ありません。上に文句言われながらワイが動いて移行の手配を進めてるとこなんですけど……まだまだ時間かかりそうです。保守には人手も足りなくて。それもこれも、サービスを独占しようとした上のお陰です。システムを守りたい頑なな気持ちは分かるんですけど……現場の苦労も分かってほしいって言うか!」
やはりワタルにはその内容が全て理解できなかったが、手直しを書き込み始めたマサキのスケジュールを盗み見ると、そのサーバ移行プロジェクトは半年がかりだ。安易な提案をしたことを後悔し、彼に向けて申し訳なさそうに頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
腰の低いチャンピオンに度肝を抜かれ、マサキも素人に愚痴ばかり溢していたことを反省する。
「まあポケモンのためですもん、頑張りますよ。でもこれ変えて試合がつまんなくなったりしません?」
「それは問題ありません、こちらの調整に問題ない範囲ですし。試合を魅せることにはトレーナーとして最善を尽くします」
具体性はあまりないが、凛呼とした態度は宣言通りの結果を出せるように感じさせる。時間をつぎ込んでプランを裏付けるデータや心惹かれる提案書を作成しているマサキにとって、それは非常に羨ましい能力だ。侘しさを覚えて表情が緩み、話が少しずつ彼の方へ逸れていく。
「そりゃあ良かった。いつも楽しく試合観てるんでね……ここだけの話にしといてもらいたいんですけど、上司がいない残業中は、ワンセグで中継見ながら仕事してます。でもせっかくスタジアムが隣にあるってのに、ほとんど足を運べなくて勿体無いなぁ。皆がデスクに貼ってるトレーナーチップスはその欲求不満の象徴かもしれません。ポテチ食べながら話題を共有するのが今の唯一の楽しみで」
その力ない言葉からは、連日激務が続いている様子が窺える。本部職員は座席を購入せずともスタジアムに立見席クラスの集団観戦エリアが用意されており、試合毎に多くの人で賑わっていると聞いていたワタルはその実情を悲嘆した。
「なるほど……マサキさんはキョウさんのファン?」
パーティションに貼られたカードを愛おしげに眺めるマサキに尋ねると、たちまち彼はカッと目を見開き、テーブルに身を乗り出して否定した。
「いや、ワイはクロバットちゃん!」
突然の変貌ぶりに、ワタルは唖然としながら大きくのけ反る。チャンピオンの驚愕っぷりを見て、マサキは慌てて補足した。
「すんません、つい。キョウさんは父方の実家と近所で、昔よく遊んで貰った“兄さん”ですけど……一番応援してるのはクロバットちゃんです。ハンデ持ちやのに四天王の右腕として頑張ってて、そういうところ健気で可愛いなーって。見た目もね、コロッとしてるフォルムに凛々しい目つきがもう堪らん……あとね、ピントレンズ装着時も雰囲気違って良いんですわ〜。真似してズバット捕まえて二年経つんですけど、一向にゴルバットから進化しないのは何ででしょ? バトル経験積ませてないから? ワイ、バトルへったくそで」
彼は整頓されていない引き出しからゴルバットの入ったボールを取り出すと、ワタルの前に掲げて首を捻った。ポケモンの鍛錬度、手入れや懐き具合はプロトレーナーならば一目瞭然だ。ワタルは委縮しているゴルバットと目を合わせただけでその状態を判断し、マサキへ苦笑いする。
「それもありますが……相当懐かせないと進化は難しいんですよ。このゴルバットはまだ時間がかかるな。バトル経験なしの場合、十年以上連れ添い、トリマーの入念な手入れやメディカルケアを重ねてやっと、と言うのがなつき進化ポケモンの定石です」
バトルに特化すればポケモンの忠誠心が高まって必要年数が数年縮まるのだが、ポケモンとの関係は人によって様々、ワタルはそこまで言及しないことにした。マサキはゴルバットとボール越しに顔を見合わせ、がっくりと肩を落とした。
「道は長いなあ……当分は兄さんの試合を観るしかないかあ」
ワタルは苦笑しつつ、相槌を打った。
すっかり緩みきった打ち合わせを放棄するようにマサキは椅子へもたれ掛り、足を投げ出しながら話を続ける。
「でも兄さんの試合って、スタジアムで観ないと分からない魅力がありますよねぇ。やっぱりテレビはポケモンをメインにクローズアップするから、兄さんのブロックサインが映らないことが多い。特にクロバットちゃんのバトルはサインありきだから、ファンとしてはそこも楽しみたいんですよね。これはワタルさんや、他の四天王さんにも言えることですけど」
テレビ中継ではポケモンバトルの魅力が半減する――かつてワタルも同様のことを考えていた。それから解説を務めたことで、フレーム外の動向が視聴者に伝わるようフォローしているのだが、やはり現実は物足りないようだ。マサキは頭の後ろで手を組みながら、試合への憧れを語り続ける。
「ワタルさんはカメラに抜かれやすいよね。ポケモンへの声掛けやテクニカルエリアの無駄のないポジション取り、時々翻るマントが格好良くってドラゴンと合ってる。トレーナーとポケモンが連携し、観客が場を一層盛り上げる。セキエイの試合の魅力ですよねえ。上司がいる残業中は動画が見られず、テキスト速報でリロード連打しながら試合を追ってますけど、スコアだけじゃそれが分からなくって。テキストで流れてくる実況なんて“カイリューのドラゴンテール! 効果は抜群だ!”の一文で終わりですよ。ユーザはその結果の向こう側にあるドラマを観たいのにねえ……」
また愚痴へと変わるマサキの話が、ワタルの頭の中から次第に遠のいていく。総監はプロは結果こそ全てだと断言していたが、それは試合を興行化していなかった昔の話だ。二年前、新しい夜明けと共に幕が上がり、そこに現れたのは戦場を兼ねた輝かしい“舞台”。
「マサキさん、その通りです」
ワタルは持参した提案書をテーブルから引っ手繰ると、勢いよく立ち上がった。
「気絶判定の件はシステムの移行が落ち着き次第、また相談させてください」
「えっ、いいんですか? そっちの方が有り難いんで、止めませんよ」
仰天するマサキに、彼は笑顔で向き直った。
「ええ、構いません。もっと先に、うちの方でやるべきことがありました。マサキさん、立場上クロバットへの手加減は一切できませんが、楽しいショーをお届けしますので――今季もセキエイの応援、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げるチャンピオンに、マサキは再び仰天する。慌てて立ち上がって姿勢を正し、つられて深々とお辞儀した。
ワタルは笑顔で頷くと、身を翻して颯爽とその場を後にする。お茶を出してくれた職員のカードにサインをし、脇目も振らずに出口を目指す姿はセキエイリーグ本戦時、ベンチ奥から登場するパフォーマンスそのものだ。職員たちの誰もが目を奪われ、言葉も発せないままその背中を見送った。
システム部のオフィスを出たその足で真っ先に目指すのはセキエイスタジアムだ。
すぐにやってきた無人エレベーターに乗り込み、スタジアムとの連絡階を押す。到着が待ち遠しく、次々に数字が減っていく階数表示を眺めていると、ジャケットの裏ポケットが揺れた。ワタルは収納していたモンスターボールを取り出すと、中に入っているカイリューへ白い歯を見せる。
「ダメージ判定なんて、後。これっくらいの変化じゃ何も改善されない。先に取り掛かるべきは、オレたちのスタンスを総監に知らしめることだ」
相棒はにこやかに頷いた。
しばらくして、エレベーターが目的階に到着する。ドアが開くのを待っていた職員たちは、突然現れたチャンピオンの登場に声を失っていた。ワタルは爽やかに微笑みながら彼らに会釈すると、脇目も振らずに連絡通路を目指した。そのエリアへ足を踏み入れると、大型ポケモンの連れ歩きも許可される。右手に握り締めていたボールを宙に放り投げてカイリューを繰り出すと、たちまち通路は窮屈になる。相棒は床へ着地しながら収まっていたボールをキャッチすると、主人に手渡した。
「ありがとう。カイリュー、外はいい天気だな。開幕が近付いてセキエイも段々と賑わってる」
ガラス張りの連絡通路から一望できるセキエイ高原の風景は、改組から二年の時を経てより繁栄を見せている。秋には新しい商業施設やマンションなども完成するらしい。楽しげな街の景色に、カイリューは嬉しそうに同意を示した。そのまま歩んでスタジアムエリアへ入ると、スポンサーの賑やかなポスターで埋め尽くされた通路へと繋がる。既に開幕を祝う花も届いており、横幅が広いカイリューが通ると身体に掠って次々に花弁が付着していくほどだ。かつて火が消えた様に休業していた頃が嘘のようである。スタッフに会釈しながらロッカールーム前を横切り、フィールドへと続く通路の前まで来たところで、ワタルはふと足を止めた。
その道は開幕前ということもあり、灯りが落ちて薄暗いままだ。ここだけは休業していた頃と何も変わらない。長い道の先には舞台へと繋がる出口が見える。その光を見つめながら、ワタルはぽつりと呟いた。
「……この街は輝きを増していく。眩し過ぎて、夜明け前を忘れてしまうのかもしれない」
カイリューが首を伸ばし、小さく顔を横に振った。あなたは違う、と言いたげだ。
ワタルは穏やかに微笑んで頷くと、再びフィールドへと歩き出した。軽妙な靴音とドラゴンの足音だけが通路内に反響する。間もなくシーズンが始まる――五万人の歓声を思い出せば、興奮が押し寄せ心が高ぶった。
夜明けの風景は何時も忘れたことがない。
新生セキエイデビュー戦、降り注ぐ五万人の拍手喝采の中、自分一人に当てられたスポットライト。観客たちに見下ろされ仲間が周りに居ながらも確かにそこは頂点で、憧れていたヒーローへの第一歩だった。そこから着実に進み続け、今でもその夢は終わることがない。
徐々にフィールドの照明が身体を包み、あと数歩でベンチに到着する。足を止めて、カイリューを振り返った。相棒は満足げにこちらを微笑んでいる。額を撫でて、眩い光を受けながらベンチへ降りた。
「仕事は終わったのか、会社員?」
ベンチシート後列の壁際――いつもの指定席で汗をぬぐっていたシバが突然冗談めいた言葉をかける。
「この人、解説者じゃなかったぁ? タイトルマッチの名解説、期待してまーす」
前列のシートからイツキが茶化すように笑顔を覗かせた。
「彼、アパレル会社の本社内勤じゃないかしら。今日もお洒落な服装ね」
練習を終え、フィールドからヘルガーを従えながら戻ってきたカリンも便乗する。その隣で笑っているキョウも続いた。
「謝り奉行だろ? いつも誰かに謝ってる」
相変わらず、散々な言われ様だ。しかし悪い気はしない。
ワタルは苦笑いを浮かべながらベンチを通り過ぎると、四天王に振り返ってきっぱりと言い放った。
「チャンピオン、だ」
彼らは笑いながら、全員ベンチへ腰を下ろす。時に衝突することもあるが、互いを尊敬し切磋琢磨できる最高の仕事仲間だ。チャンピオンは孤独な地位だが、セキエイへ挑む挑戦者を常に阻止し、時に緊張を緩ませてくれる彼らの存在は心強い。それは手持ちのドラゴンポケモンも同様だ。
「ICマーカーのダメージ判定を変更するって聞いたけど、詳細は決まった?」
カリンがヘルガーの毛並みをブラッシングしながら尋ねる。テクニカルエリアまで足を踏み入れたワタルは、さっぱりとした笑顔で返答した。
「その話は一旦見送りにする。テストとはいえ、マスターシリーズの判定だけ変更したってメリットは少ないからさ。プラン中止に伴う、総監への言い訳を考えた方が楽だってことに気付いた」
「謝り奉行はご多忙だな。ま、そのうち政府からバトル規制策でその手の命令が下るだろうから、そこで動けばいいんじゃないか。セキエイから始めるよりよっぽど平和的だろう」
肩をすくめるキョウの言い分にワタルも同意した。
「そうですね……ああ、一つ思い出した。その絡みで今度のリハーサルに政府の方が視察に来るらしいです」
「リハは練習試合も行う予定だろう。もしや顔色を窺って手抜きの茶番試合をしろと言うのか?」
シバがシートから身を乗り出し、不快を露わにした。彼はこの手の調整試合を殊更嫌う。その不満の増長を遮るように、ワタルはフィールドの上で大きく両手を広げ、得意げに微笑んだ。
「それと別件で、ときわ子どもの森の児童も招待してるんだ。これらを踏まえ、総監から下った命令は“リハの内容は、ヒーローショー程度で”。ここは最高の大舞台、役者はプロフェッショナルのトレーナーとそのポケモン、腕利きの裏方も揃ってる。素晴らしい茶番劇が可能だと思わないかい?」
その提案に、四天王が互いに顔を見合わせる。彼の真意は皆理解していた。フェアリー騒動の鬱憤が戸惑いを打消し、彼らのためらいが残る面持ちを不敵な笑みへと変えていく。結果で示せ、と上が言うのならばそれを見せつけてやるのみだ。