第1話:再会
四天王がマツノとタイプ転向の打ち合わせを行った二日後、同会議室は一組の男女による会合が予約されていた。開始直後から白けていた前回と異なり、今回は和やかな雰囲気からのスタートだ。二人はテーブルに向い合せに座り、まずは女性が本題に触れる。
「リハーサルに招待だなんて……本当にいいんですか!」
動揺を露わにしながら尋ねるのは、オーキドの孫でありグリーンの姉・ナナミだった。テーブルの反対側にいたチャンピオンのワタルは苦笑しつつ、彼女の前に招待券の束が入った封筒を差し出す。
「去年は席が取れなくてスタジアムに招待することができなかったから……少しでも特別な時間を楽しんでもらえればと。勿論、夏には公式戦にもお呼びします。いかがでしょう?」
ナナミは徐に招待券を一枚封筒から抜き取り、その目でまじまじと確認する。開幕前のスタジアムリハーサルは関係者のみで実施されるため、本来一般への公開は行われない。そのため、チケットは彼女が勤務する児童養護施設向けの特製だ。よく見るとそれぞれに異なったポケモンのイラストが描かれており、大変手が込んでいる。そんな計らいに、ナナミは眩暈を覚えた。
「そ、そんな……あまりに贅沢すぎます……」
「いやいや、気にしないでください。昨年招待できなかったことが申し訳なくて……すべてはこちらの責任です」
昨年、児童養護施設“ときわ子供の森”でチャリティイベントとしてヒーローショーを実施した際、彼は入所している子供たちをリーグ本戦へ招待すると約束していたのだが、既に席はプレーオフまで埋まっており、実現できないまま一年を終えてしまったのだ。それにずっと負い目を感じていたワタルは、ナナミに向けて素直に頭を下げた。彼女は仰天する。ほぼ一年ぶりの再会で、このチャンピオンが大変謙虚であることをすっかり忘れていた。
「チャンピオンさんが頭を下げなくても! こちらこそなんだかすみません……」
慌てて頭を下げ、互いにテーブル脇の内線電話のコードをじっと見つめていると、あまりに不毛なことに気付き、二人はそそくさと顔を上げた。遠慮を諦めたナナミは招待券の入った封筒を手元に寄せる。
「……で、ではお言葉に甘えさせていただきますね。子供たちもきっと喜びます、本当にありがとうございます」
この話がオーキド経由で来た時、ナナミは内心飛び上がるほど歓喜したものだった。その嬉しさがふいにこみ上げ、彼女は思わず胸中を吐露する。
「実はここだけの話……子供たちから今年はヒーローショーやらないの、ってせっつかれてて……助かりました、本当に」
「へえ……それは嬉しいな」
ワタルはショーの再演に淡い希望を抱いた。前回は四天王の悪乗りが原因で本来行うはずの正統派ヒーローショーが本業のポケモンバトルになってしまったのだ。結果ショーは大盛り上がりだったが、ヒーローに憧れを抱く彼としてはナナミの書いた素人脚本でも演じきりたい考えである。しかしそれを茶番だと思っている四天王は乗ってこないだろう。
「機会があればまたヒーローショーをやりたいな。パルクールが得意なシルバーくんにも見てもらいたいし……彼、元気ですか?」
昨年のヒーローショーを壊した原因といえばもう一つ、入所者の少年シルバーがワタルのポケモン免許証を盗み、進行を狂わせたことにある。彼は施設の鼻つまみ者かと思いきや蓋を開けてみれば年相応の素直な少年で、ワタルはその並外れた身体能力を鮮明に記憶していた。
「ええ、それがなんと! あのイベントの後、ワタルさんに感化されてすぐ免許を取り、今はトレーナー修行の旅に出ているんですよ。時々連絡もくれて! 何と現在、バッジを六個も獲得しているそうです。これって弟がチャンピオンを目指していた頃と同じペースですよ。期待しちゃいます」
心から嬉しそうに語るナナミに、ワタルもつられて顔を緩ませた。
「へえ、一年足らずでその成果! セキエイへ挑戦する日も近いかな。楽しみだ……嬉しいです、あのショーを見てトレーナーになってくれるなんて」
「うふふ、他の子もみーんなワタルさんに夢中ですよ。将来はチャンピオンになりたいって、口を揃えて言ってます」
チャンピオンという地位にいるワタルにとって、自身に憧れポケモントレーナーになってくれる事例ほど嬉しいものはない。それだけでもプロ冥利に尽きるというものだ。喜びを噛み締めていると、腕時計が目についたナナミが会議室を空ける時間が迫っていることを知らせた。
「あっ、そろそろ時間ですね。あっという間だったなあ……貴重なお時間、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
お互い馬鹿丁寧に頭を下げると、再び視界の端に内線の電話線が目に留まる。一昨年の改組からお辞儀慣れしすぎて威厳を失ってはいないかと、ワタルはやや不安になった。今季から王者として、ドラゴン使い一族として、厳格にあるべきなのかもしれない。
そんなことを考えながら会議室を退室すると、数歩進んだところでナナミが再び礼を言いつつ、ワタルの前に一枚のカードを差し出した。
「あの、ところで……良かったらこれにサインしていただいても?」
それは『トレーナーチップス』というスナック菓子に付属しているトレーディングカードである。つい数ヶ月前にメーカーよりサンプルを確認したばかりのワタルは、そのカードが自身のリザードンであることをすぐに認識した。それもプリズム加工を施したレアカードだ。
「実は子供たちに混じってテレビ観戦しているうちに、ワタルさんのファンになってしまいました……特に“リザードン様”が格好良くて……レッドくんのリザードンとはまた違った魅力があるんです。ワイルドで勇ましくて、素敵!」
ナナミは瞳を輝かせ、ワタルのリザードンの魅力を饒舌に語り始めた。その内容からは昨年リザードンが登場した試合を全て網羅していることが窺え、呆気にとられたワタルは二の句が継げなかった。確かに彼は手持ちメンバー内の兄貴分で頼もしく、非常に勇敢で逞しい。個別にファンレターやバレンタインチョコが送られてくるほど女性人気が高いので、ワタルはそのカードに自分のサインを入れることが腑に落ちなかった。
「それなら彼に直接サインして貰った方がいいんじゃないかな。イニシャルの“L”くらいならペンを咥えてなんとか……」
そう尋ねると、ナナミはすっかりワタルのファンだという建前を忘れ、素直に頷いた。
「そんな器用なことができるんですね! すごい、さすがリザードン様! ぜひお願いします」
手持ちポケモンに対するファンは多いが、このように露骨な対応をされてはトレーナーとして情けない。ワタルは苦笑しながらも、上着の裏ポケットからリザードンのボールを取り出した。一部始終を聞いていた火炎ポケモンはファンの前で得意げに胸を張り、すっかりスターを気取っている。日頃、ワタルを慕う仲間のメスドラゴンからはまるで相手にされないので、雄として主人に勝っているこの瞬間を存分に楽しんでいた。
「きゃーっ、やっと会えた! ああ……もう、大好きなんです!」
ボール越しではあるが憧れのポケモンを前にし、すっかり舞い上がったナナミが歓喜の嬌声を廊下に響かせる。主語が抜けているので勘違いされそうだとワタルが狼狽した途端、それに騙された一人の男が廊下の端から素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「姉ちゃん……!」
聞き覚えのある声――ワタルはすぐにそちらを振り返る。数メートル離れた先に立っていたのは、オーキドと元チャンピオンのグリーンだった。彼とはセキエイでレッドに破れてから一度も会っていなかったが、この二年でいくらか背も伸び、精悍な顔つきに変わっている。
「おお、やっぱりナナミはワタル君のことが好きだったんだなぁ! 暇さえあれば毎日彼の試合を見とるもんな。ワタルくーん、可愛い孫のことよろしく頼むよ、誠実な君なら何ひとつ問題ないな!」
同じく勘違いしているオーキドが嬉しそうに孫娘を託そうとしたとき、グリーンが弾かれたように廊下を疾駆しながらワタルに飛びかかった。
「大ありだ、ふざけんな! てめえ四天王に超グラマーな美人いるのに何オレの姉ちゃんに手ェ出してんだよ、チャンピオンだからって贅沢してんじゃねえ!」
遠目から見るとすっかり落ち着いたように感じられたが、荒っぽい言動は当時のままだ。ボールの中ではリザードンが応戦すべく暴れ回っており、まずどちらを諭すべきかとワタルが考えていると――
「グ、グリーン……何か勘違いしてない?」
ナナミがきょとんとした顔で首を傾げる。
「リザードンかよ!」
本部十階の屋外テラススペースでワタルから事のあらましを聞かされたグリーンは、落胆しながら近くの席に腰を下ろした。話がややこしくなるのでナナミとオーキドを先に帰らせ、今この場には新旧チャンピオン二人だけ。少し離れた場所で、休憩中の本部職員が彼らの動向を好奇の目で窺っている。
「それはそれでムカつくけどな……姉ちゃん、オレの相棒がフシギバナだってこと知ってるくせに。ちぇっ、どっかでヒトカゲ捕まえとけばよかった。レッドの相棒だから敬遠してたんだ」
グリーンは少しも人目を気にすることなく、悪態をつきながら自販機で購入したサイコソーダを口にした。彼は一時期リーグ本部を傾かせた原因として目の敵にされ、そのしこりは未だ完全に消えていない。しかしこうして堂々と構え、セキエイ高原を有するトキワシティのジムリーダーとして成長している姿を見るに、精神的には大きく成長したのだろう。ワタルはその姿を見て溜飲を下げ、顔を綻ばせた。
「何だよ……」
微笑ましげな視線を受け、グリーンは照れを隠すように唇を尖らせる。
「いや、別に?」
ワタルはブラックの缶コーヒーを口にしながら、彼の反対側の席につく。
「それより、久しぶり。君の評判は聞いてるよ。ジムリーダー二年目の今月、早くもカントー・ジョウトリーダー内バッジ保持率一位を獲得したとか」
リーグ本部への用事も多いことから、ジムリーダーの情報も多く耳に入ってくる。毎月集計されるバッジ保持率はジムリーダーの実力を表す指標で、契約にも関わる生命線だ。
「腐っても元チャンピオンだからな」
グリーンは誇らしげにサイコソーダを煽ったが、すぐに思い直し、神妙な顔つきで捕捉した。
「……ジムリーダーを馬鹿にしてる訳じゃねえぞ。ジムに挑戦してた頃は気付かなかったけど――オレの師匠のタケシさんとか、四天王に匹敵するほど強くて、やっと三ヶ月前に追い抜けたところだ。ニビ民からの信頼も厚くて、尊敬してる。でもまあちょっと頼りない所もあって今んとこの目標はチョウジのヤナギさんだけどな。あの人はすげーよ」
「うん、評判はよく耳に入るよ」
昨年はうちも大変お世話になりました、とワタルは心の中で付け加えた。スランプで自暴自棄になっていたイツキを奮い立たせたのはヤナギの功績である。
「素晴らしいな、何十年も保持率五位以上をキープして……ああいう人が、本物の一流なんだろうな。ヤナギさんに比べたらオレなんてまだまだ甘ちゃんだよ。この成績だって、来月にはどうなってるか分からねえ……チャンピオンの頃は、そんな心配しなかったのにな」
不意に弱音を溢したグリーンに、ワタルは缶コーヒーを飲む手を止めた。
「へえ……そうだったのか」
テラス席に早春のやや肌寒い風が吹き抜ける。日も上りきった暖かな昼下がりだが、この時期のセキエイはまだ上着を脱ぐことはできない。グリーンはかつて目もくれなかった、雄大な自然と近代的な街並みが調和するセキエイ高原の風景へ視線を向けながら、徐々に反省を語り始める。
「あの時考えてたのは自分のことばっか。閉塞感ばかり気にしてて、ポケモンの信頼とか愛情、仲間への気遣い、鍛え続けなきゃチャンプの椅子を奪われる可能性とか……もっと大事なことを丸ごと忘れてた。浮かれてたんだよ……それを全部失ってから気付くなんて。情けねぇな。今更後悔したってどうにもならねーけど、勉強料にしては高すぎた」
力なく肩を落とす彼は、当時とはまるで別人だ。ワタルが四天王の立場から見ていた、我儘な天才チャンピオンの面影はそこにはない。共にセキエイで仕事をしていた頃はろくに会話を交わしていなかったが、あの時グリーンの苦悩を汲み取ってさえいれば一昨年の事件は回避できたのだろうか。自分が精神面で四天王に救われている今だからこそ出てきた反省点ではあるのだが。
「確かにそうだね。でも考えを改め、まず結果を出せたことは素晴らしいじゃないか。君の気持ちが今になって分かるよ。あれだけ持て囃されたら、浮かれてしまうのも無理はない。オレもよく折れそうになる」
グリーンは照れた顔を隠すようにサイコソーダを飲み干しつつ、調子を整えてワタルに向き直った。そろそろ本題に入る頃合いである。
「ま、でも二年間誰にも負けてないってスゲーじゃん。ドラゴンも出てくるたびに強くなってるし、向かうところ敵なし……だから本部もお前のこと、持て余してんぞ」
ワタルが目を見張る。
「さっき一番上の階に呼ばれて話してきた。オレ、あのじーさん苦手なんだけど」
グリーンは椅子にもたれながら最上階の総監室を指しつつ、一時間ほど前の会合を回想する。
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グリーンがその部屋を訪れたのは二年半ぶりだった。
最後の用事はチャンピオンを失脚する前で、既に記憶から風化しかけているが、その時も祖父が付き添っていたことは覚えている。総監はオーキドとは昔馴染みで、若い頃はよく修行に明け暮れていたらしいのだが、祖父とは対照的で取っつき難く腹に一物ありげな様子が一目瞭然だ。そういう人間はグリーンにとって距離感が取りづらく、できることならあまり関わり合いになりたくない。ポケモンリーグ本部に対し、負い目があるから尚更だ。
「忙しい中、ご足労いただきありがとう。最近、調子良いみたいだね」
総監はデスクから一歩も動かず、応接スペースへ案内されたグリーンに尋ねる。不遜な態度に顔をしかめるオーキドがせっつくので、少年は慌ててそちらへ移動した。
「はい、お陰さまで……今月ようやくバッジ保持率一位を獲得することができました。これもジムリーダーからリスタートできる機会をくださった総監のご厚意があってこそ。本当にありがとうございます……そして、本部にご迷惑をお掛けした件で直接の謝罪が遅れてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
デスクの前で深々と頭を下げる――チャンピオン時代は一度もなかった行為に、総監がちくりと彼を刺した。
「それなりの礼儀も身に付いたんだね」
にべもない返答はグリーンを抉ったが、これまでの所業を考えれば仕方のないことだ。カントーリーダーたちに仕込まれたお辞儀を実行し、言われるまで顔を上げないつもりだったが、しばらく無視する総監に呆れたオーキドが先にしびれを切らした。
「……まあ、その辺で許してやってくれよ。グリーンはすっかり改心し、身を粉にしてリーダー業を全うしておる」
「お前本当にジジ馬鹿だねえ。いつまでも伏せられてちゃ話ができないし、顔上げていいよ」
総監は万年筆でデスクをコツコツと叩きながら、少年の顔を上げさせる。グリーンは内心、ひどく動揺していた。短い期間ではあったが、チャンピオンとして活躍していた頃はそれなりに持ち上げてくれていたものだ。ところが本部に大きな損害を与える原因を作ったとはいえこの冷酷な扱い――総監の本心はこちらにあったのだろうか。こういう狡猾な大人は苦手だ。
「元チャンピオンだからね、遅かれ早かれ良い結果が出るのは分かってた。実力が戻ってきたところで……さて、オーキドから話は聞いているだろう。もう一度、セキエイへ戻りたいとは思わんかね?」
用件は事前にオーキドから聞かされていた。
チャンピオンと四天王の実力差が開いている現状を打破するため、フェアリータイプを用いた助っ人トレーナーとしてリーグ参戦して欲しい――耳を疑うような依頼だが、総監から向けられた眼差しに戯れは感じられない。
「カロスでフェアリーと対戦したことがあるんだろう、どんな感じだった? 前々から担当部署で調査はしているが――プロの意見をお聞かせいただければと」
グリーンは呼吸を整え、チャンピオン失脚後、カロスで修行留学した過去から答えを導き出した。
「確かにドラゴンタイプには脅威となる属性ですし、自分のバンギラスやカイリキーも苦しめられましたが、あのチャンピオンならばドラゴン以外の技や手持ちで十分対処可能です。フェアリーは耐久性の高いポケモンが少ないので、火力で押せばいい。プロに突貫で使わせるより、カロスの挑戦者を誘致してタイトルマッチで戦わせた方が面白いと思いますよ。間違いなく四天王で止められ、その実力を知らしめることができます」
「調査担当と同じ見解だ」
総監の冷淡な発言に、グリーンの背筋が凍りついた。何故ここまでチャンピオン対策に精を出すのか、彼には理解できなかった。
「……あの、総監はチャンピオンを引きずり下ろしたいんですか?」
思わず口を突いた疑問。総監の鋭い双眸がグリーンを射抜く。
「そう思われるのは心外だな。私はポケモンリーグの起源であるこのセキエイが、現状最弱と揶揄されることが許せないだけだ。四天王選出にワタル君を関わらせたのは失敗だったのかもしれない……まさかこれほど実力差が開くとは思っても見なかった」
腹立たしい口調からは、怒りの矛先がワタルへ向いていることが明白だ。意図的に格下を選出したのではないかとも取れる総監の意見に、オーキドが慌てて横槍を入れた。
「最初にその指示を出し選出後ゴーサインをしたのはお前だろう。何を今更……」
総監は悪びれることなく頷いた。
「確かにそうだが、その真価は実際使ってみんと分からん。実力格差のあるスポーツリーグは面白味がないし、衰退しやすい。人間同士の競技ならば金を出して補強すればある程度結果が出るが、ポケモンはそうもいかん。だから、トレーナーになんとかさせるしかない。ミーハーだと言われようが、フェアリーやメガシンカでリーグが盛り上がるのなら、いくらでも取り入れるべきだ。それを忙しいのなんだのと拒んでいては、セキエイが再び傾く日も遠くない」
手持ちポケモンの補強は資金投資だけでは解決しづらい問題である。しかしそれをフェアリーなどで強引に解決しようとは早計ではないだろうか――グリーンは首を捻った。
「自分はさほど実力が開いているようには思えません。もう一年様子見しては……」
「私は君を泳がせすぎたから、この現状を危惧しているんだよ」
ぴしゃりと言い放たれ、再び少年は硬直する。
「タイトル戦なんて勝って当然、しかしマスターシリーズで結果を出せないプロ共は一度見直すべきだ。そうそう、君はワタル君に一度も負けたことがないんだったね。ならばフェアリーやメガシンカは後回しにすることにして、助っ人枠としてリーグに参加してみないかね。助っ人なら、さほど行動も制限されんよ。ジムリーダー程度の身軽さにはなるかな」
一度チャンピオンを退いた者は、二度とその座につくことはできない――ポケモンリーグの通例だ。幼馴染のレッドはそれを受け入れ、シロガネ山で果てなき訓練を続けている。それに対して自分がジムリーダーになる道を選んだのは、王座への未練故だ。自分一人に注がれるスタジアムの興奮と感動のスポットライトは、一度経験すれば忘れられない。ジムリーダーから出世した四天王と、四天王から昇格したチャンピオン。現在はこの二つの事例があるからこそ、王座へ戻れる希望があった。
「悪い話ではないだろう、栄光の舞台へ返り咲けるんだ」
総監はグリーンの前でこれ以上ない飴を振りかざしたが――まるで相棒フシギバナの得意技“甘い香り”のようだと、彼はすぐに冷静になった。ここで油断しては再びのトラブルを回避できない。自分は現在、トキワ市民からようやく認知されてきたジムリーダーなのだ。まず重要なのはそこである。
「……申し訳ありませんが、今の立場故すぐにお返事はできません。少し待っていただいてもよろしいですか」
すると総監はやや感心したように頬を緩ませた。
「勿論だとも。君の実力ならいつでもマスターシリーズに捻じ込めるから、今月中くらいなら気長に待とう。サプライズ登板も面白いからね……ああ、この件は他のリーダーに口外することがない様に。君が決意するまで、オフレコだ」
「心得ています」
こんなことを話したら、師匠のタケシに反対されることは目に見えている。ジムリーダー関係者に漏らすつもりなど毛頭なかった。
「君ならいい返事がもらえると思っているよ」
そう後押しされながらグリーンは先に部屋を退室する。ドアを閉めた直後、オーキドが長年の友人に噛み付いている様子が漏れ聞こえてきた。
「お前な……! さすがにやりすぎだ、もっとプロを労われ!」
「オーキドには来週からカロスに派遣した調査チームと合流し、メガシンカの仕組みを輸入できないか動いてもらう。解説者の仕事はワタル君で間に合ってるから。研究設備は向こうも揃ってるよ」
それを聞き、グリーンは動揺した。祖父は本部内では総監に遠慮なく口出しできる唯一の人間のため、遠ざけられてはこちらが不利に陥ってしまうことだろう。
「ミアレシティにマンション借りたから、観光がてらしばらく楽しんできてくれ。そうそう、うちの孫がミアレのガレットを食べたくて仕方がないそうだ。着いたら発送、よろしく。代金ははい、これ。先払い」
二分後、万札を握りしめたオーキドが部屋から追い出されるように退室する。秘書に見送られ、二人でエレベーターに乗り込んだ時に彼がポツリとつぶやいていた「変わったな……あいつ」という台詞が印象的で、グリーンの心に引っかかっていた。
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テラスを吹き抜けるそよ風がひどく冷たい。
グリーンから一部始終を聞き終えたワタルは、その衝撃でしばらく両手を動かすことができなかった。指先が凍りつき、ホットの缶コーヒーさえ握れない。共に訓練や取材に応じる傍ら、四天王がタイプ転向を持ちかけられたことはすっかり見過ごしていた。彼らは一度たりともそれを自分の前で口にしなかったからだ。応じるまでもない、ということなのだろうが原因にされているワタルにとってはやや複雑な心境だった。
その一方で、事の詳細を残らず吐き出した元チャンピオンの表情は、頭上に広がる空と同様一点の曇りもない。既に提案に対する答えは出ているようだ。
「助っ人を引き受けるのかい?」
念のため尋ねると、グリーンは白い歯を見せながら無邪気な笑顔を見せる。
「まさか! ジムリーダーで手一杯だよ。前の奴が七年もジムを開けてたからな、バトル以外にも仕事が多いんだ。参っちゃうぜ」
予想通りの回答にワタルは安堵した。
二年という月日と新生セキエイがもたらした利益が過ちを薄めてくれたものの、グリーンとリーグ本部にはまだわだかまりが残っている。ジムリーダーとして実績と信頼が十分に積み上がってないままセキエイに招き入れても、消えかけた火種が再燃してしまうだけだ。ビジネス優先の総監には失望してしまう。
「でも、ちょっと揺れたけどな」
顔を曇らせているワタルを見て、グリーンは本音を吐露した。
「オレはレッドと違って、プロを諦めきれなかったから。ジムリーダーを目指したのも、セキチクの元リーダーみたいな出世劇があるかもって思ったからだよ。ジムの運営は想像以上に大変でまだまだ先は見えないが、またいつかここに戻ってこられたらって思ってる。厚かましいかもしれないけど、それでもオレは……」
リーグ本部を大きく傾かせた張本人と分かっていても未練がましい様子に、ワタルは悪い印象どころか共感を抱いた。そもそも最初から、彼には憎しみなど感じていないのだ。
「一番上で見た景色は忘れられないよな」
そう尋ねると、ばつが悪そうに顔を逸らしていたグリーンがはっとこちらへ向き直る。その相好にははっきり図星だと書かれていた。
「実際に玉座があるわけじゃない。専用の椅子らしき物と言えばスタジアムのベンチだが、四天王と共用でいつも空いたところに座ってる。だが黒光りするプロ証明書を入れた免許を携え、歴戦のポケモンを従えてフィールドに降り立ち、スポットライトを浴びながら篠突く歓声と称賛を一身に受ける。これより前には誰もいない。ステージ最前列の昂ぶりを味わえるのはこの地方で自分一人だ。いろいろ苦労は多いけど、その舞台に立つとまるでヒーローになったような気がして、これ以上ないほど心地良いんだ」
一昨年のデビュー戦でレッドに勝利し、チャンピオンだと実感した瞬間は今でも鮮明に覚えている。四天王だった頃とはまるで異なる風景に心を震わせたものだ。それはカイリュー始めとするドラゴンポケモンも同様で、あの時の感動が自信と誇りに繋がり、王座を維持できている。
そんなワタルの姿はグリーンにとってあまりに雄大で、威張り散らしていた頃の自分があまりに情けない。思わずベルトに装着していたモンスターボールから相棒のフシギバナを選び、両手で包み込んだ。精神的に揺らぐことがあれば、いつもこうしてポケモンと顔を合わせることにしている。彼らは自分をずっと信頼してくれるから、もう孤独を感じることはない。
「いい年こいてヒーローなんて子供かよ……でも、気持ち分かる。オレはさ、そこに一人で立ってる気分だった。お前と違って、王座へ導いてくれたポケモンのこと忘れてた。レッド以外には負けたことなかったから、勝てて当然みたいな考えがあったんだよな……」
グリーンはフシギバナに覚悟の意を示した後、すっと顔を上げた。
「だから、今度はポケモンとその景色を見たいんだよ」
そこには若くして栄光を掴み、奢っていた少年の面影はない。ワタルは満足げに微笑んだ。
「素晴らしい心がけだ。椅子は簡単に開け渡さないけどな」
容赦のない一言に、グリーンは軽く舌打ちしつつ相棒のボールをベルトへ戻した。
「当たり前だろ。そうじゃなきゃ張り合いがねーよ。そうそう……総監は四天王のこと馬鹿にしてたけど、テレビ中継見てる感じだと実力は他の地方に劣ってねーぜ。オレが従えてた頃の四天王と遜色なしか、それ以上」
その“従えていた四天王”の中にはワタルが含まれている。彼は皮肉っぽい意味合いにも怯まず、悠然と構えて見せた。
「当然だろ。厳しい試験を勝ち抜いてきた猛者たちだよ、君にだって負けはしない」
総監はまるでワタルが自分より格下ばかりを選出していたかのように話していたが、グリーンの予想通り、それは杞憂だった。仲間への畏敬の念が感じられ、そういった感情を抱かずに王座を退いたグリーンは心が痛む。当時のワタルはマントを翻しながら戦う、気取った熱血漢としか思わなかった。
「オレはあんまり四天王のこと見てなかったけど、お前は違うよな。なんとかしてくれると思ってる」
「勿論だよ。最弱なんて言わせない」
心配など最初から無用だ。グリーンは安堵する。
「……オレ間違ってたよ。昔お前のこと、弱っちいクズとか言ってごめん」
「ん? そんなこと言ってた?」
それはタイトルマッチでワタルがレッドに破れた際にグリーンが吐いた暴言だが――彼はきょとんとしながら首を捻った。ワタルは喉元過ぎれば熱さを忘れる性質だが、主人の罵倒を何より気に入らないカイリューや他のドラゴンがボールを内側から揺らしつつ、必死で思い起こさせようとする。面倒になりそうだったので、グリーンは慌てて嘘をついた。
「えーと、それは冗談! お前は本物の強いトレーナーだ、今なら素直に認めるぜ。だがな、忘れるな!」
グリーンは椅子を蹴って立ち上がった。
「いつかオレがお前を倒すからな!」
すかさず右手を丸めてワタルの前に突き付ける。彼は口も挟めぬ一連の動作に目を丸くしていたが、強い意志の籠った拳を見るなり、勇壮な笑みを浮かべた。
「望むところだ」
拳を押し当ててその挑発に応じると、グリーンはワタルに背を向け、満足げにその場を去っていく。まだ少年の小さな背中だが、一昨年よりずっと逞しく感じられた。油断しているとすぐに我が身を脅かす存在となるだろう――ワタルは居住まいを正し、残った缶コーヒーを飲み干した。ブラックの苦みがチャンピオン三年目の余裕を引き締める。ふとテーブルの隅に目をやると、空になったサイコソーダの缶が置かれたままになっていた。