第6話:正しい関係
「デートなら、次……どこ行く?」
女の体裁は捨てた。
この孤独感を埋めてくれるなら、二回り上の男だっていい。だけどなりふり構わない訳じゃない。彼は狡猾な一面を持ち合わせているが、人望があり、リッチでそれなりに男前。これからどうなろうが、後悔しないスペックである。ヘルガーは足元で動揺を露わにしているが、“止めないで”とアピールすると静かに顔を背けた。
「酔ってるだろ」
キョウは苦笑しながらカリンを覗き込む。その眼差しから、明らかに子供扱いしている様子が見て取れた。
「たかだかカクテル三杯で酔う訳ないじゃない?」
彼女はムキになって余裕を醸し出そうとしたが、酒が回って単にセクシーな引きつり笑いになっている状態にさえ気付かない。キョウは呆れるように息を吐く。
「どうだか」
「まだ飲めるし」
「目が据わってるぞ、お嬢ちゃん」
彼は失笑しながら、再度左手を上げタクシーを呼ぶ。一台がそれに気付き、二人の時間は終わりを告げる。ライトによって周囲が明るく照らされていくにつれ、見栄も徐々に取り払われていった。心が逸り、苛立つままに彼の羽織を掴んだ。
「馬鹿にしないでよ! その気にさせたのはそっちでしょ」
するとキョウは即座に彼女の腕を振りほどき、語気を強めながら口元だけ微笑ませた。
「お前にとって俺は“年上だけど同僚”じゃなかったのか? こっちも愚痴を聞いてやっただけで、下心はない」
彼女は目を丸くした。
それはつい先ほど、割り勘を申し出た自分の台詞である。唖然としていると、背後にタクシーが到着しドアが開いた。キョウが車内を覗き込みながら、運転手に尋ねる。
「コガネまで……ポケモンは同乗できるかな。ヘルガーなんだが」
奥でそれを了承する声が聞こえ、キョウは「釣りは結構」と言いながら運転手に何枚かの札を渡したあと、立ち尽くしている同僚を後部座席へ押し込んだ。そして一部始終をポカンと眺めていたヘルガーを急き立てる。
「じゃ、ヘルガーくん、後は頼んだ。シート焦がすなよ」
挑発するような目付きが、ヘルガーの男気を掻き立てた。傷心した主人に寄り添えるのは、もはや自分のみなのだと確信する。軽やかにタクシーへ飛び乗り、キョウに向けて会釈するとドアが閉められた。
すぐにカリンは振り返ったが――落ち着いた色の着物は宵闇の中へと紛れ、車は自宅のあるコガネシティへ向けて出発する。愕然とするあまり、理性を奪っていた酔いから覚め、彼女はようやく自分の愚行を思い知った。
「……どうかしてた、私。馬鹿みたい」
後部座席の背もたれに寄りかかりながら、深い溜め息をつく。いくらなんでも余裕がなさすぎる。自分らしくない――激しく後悔しながらふいに横へ目をやると、相棒が不満げにこちらを見つめていた。
八年前の冬以降、何があろうといつでも傍にいてくれるのは、この頼もしい相棒だ。仲間同士の境界線を踏み越え、関係を乱してしまいそうになるほど孤独を感じていたのに、近くにいるポケモンほど目に入らない。急にヘルガーに罪悪感を覚え、投げやりに尋ねた。
「見苦しい主人だったでしょ。幻滅した?」
ヘルガーは少しも躊躇わずにかぶりを振った。そして座席に飛び乗り、カリンの膝に頭を乗せる。炎を秘めた熱が膝を伝って身体へ染み渡り、目元を刺激した。言葉を交わせないポケモンだからこその気遣いが、ただ嬉しかった。
「……ありがとう。たかだかクリスマスくらいで焦って、中年に身体を許そうとしたなんて馬鹿みたい……私はもう安い女じゃないのに……」
目元からぽとりと垂れた滴に反応したヘルガーが、首を伸ばして自分の頬を舐める。あの冬と全く同じだ。表情はみるみる美貌の悪女から、愛に飢えていた家出少女のそれへと変貌していった。
「やめてよ……昔に戻っちゃうじゃない……」
マスカラを吸い込んだ黒い涙が頬を伝う前に、カリンはヘルガーの胴に腕を回して顔をうずめる。バックミラー越しに伝わる、運転手の視線さえ忘れていた。
「あったかいなあ……」
カリンの肩にヘルガーがそっと頭を乗せる。
「やっぱりあなたが一番、あったかい」
今はこの温もりに包まれたい。これで少しは楽になる。
タクシーを見送ったキョウは踵を返し、“貸切”の看板が下りているバーの扉を再び開いた。グラスを拭いていた店主が穏やかな表情で顔を上げる。
「参ったね、振られました」
彼は肩をすくめながら、先ほど座っていた席へ腰を下ろした。店主が微笑む。
「口説いているようには見えませんでしたよ」
「……途中までその気でしたが、やめました。いくら美人でも、自尊心を傷つける女は俺には無理かな」
普段お高く留まっている美女が弱っている姿は男心をくすぐったが、会話を交わすうちに関心は真っ二つに折れてしまった。トドメは彼女の“ある一言”だ。それをきっかけに当時この店で飲んでいた酒を思い出し、キョウは背筋を伸ばしながら店主に尋ねた。
「ではマスター、自棄酒付き合ってもらおうかな。“主峰”、あります?」
その銘柄を耳にした途端、店主の瞳がやや動揺の色を示した。
それはセキエイ高原の蒸留所で生産されているモルト・ウィスキーである。シロガネ山の湧水を使って作られた、高品質で世界的にも有名な逸品だ。勿論気軽に飲める値段ではないが、来季も高年俸の契約を結んだ四天王の嗜好品としては容易に手が届く。しかしこの男にとってはやや曰くつきであることを店主は知っていた。
「今夜はちょうど十二年と……三十年をご用意しておりますが……」
「それでは十二年を」
キョウは迷わず前者を選択し、安堵する店主に向けて白い歯を見せた。
「来年でトレーナー歴十二年なんでね。記念にボトル入れます……ああ、三十年を頼むと思いました? 四天王の癖にケチな男だと思わないでくださいね。高い方を頼みたいのは山々なんだが……そっちはまだ、私の師匠ので。俺みたいな“チャンピオンになりたいと思わない”人間にはおこがましい」
先ほどカリンがへし折った自尊心を、すかさず店主がフォローした。
「おや……誰よりも負けず嫌いなあなたが、このままで終わるなんて信じられません」
そう微笑みながらカウンターに美しいカッティングが施されたショットグラスを置き、十二年物の“主峰”を注いだ。グラスの装飾を淡い琥珀色が彩る。鼻先へほんのりと漂う、百合のような上品で豊かな香りを楽しみながら口へ運び入れると、甘みを帯びたコクがキョウの喉を魅了した。相変わらず見事な酒だが、思い出の味と比べればやや物足りない。彼は思わず愚痴を溢した。
「プロフェッショナルたる者、常に上を目指し一流であれ――この店でサカキさんによく言われたもんです。一度たりとも忘れたことはないが、この年になると限界が見えてきて自分が情け……なんて言ったら、あの人に罵られるか」
ほんの少しでも弱音を吐けば罵倒される――この店に足しげく通っていた頃は、それが日常茶飯事だった。カウンターに置かれた主峰のボトルには箔押しでシロガネ山が描かれた黒いラベルが貼られており、超えられないまま決別した師の背中を重ねてしまう。ワタルはまだ年若く頼り甲斐が無いと思っているキョウにとって、サカキは今でも圧倒的な存在だ。越えられない山が増えようと、主峰と呼べるのは彼ただ一人。久しぶりにこの店を訪れ、改めてそれを実感した。
愚痴はそこでピタリと止み、彼はラベルに向けて酒を掲げながらぎこちなく微笑む。
「挑戦者は誇り高く。せいぜい精進致しますからね、師匠」
そして、深い溜め息をついた。
+++
その翌朝、ワタルはまだカリンの件が抜けずに憂鬱だった。
ここまで罪悪感を覚えるのであれば、最初から彼女を異性として見なければよかったと後悔する。人一倍身なりに気を遣っている彼女に対する冒涜かもしれないが、あの風貌でアピールされれば男の本能が露呈してしまうというものだ。元の関係に戻るべく、オフシーズン中は徐々に距離を置いて来季を迎えたいところではあるが、プロとしてスタジアムのフィールドで四天王と手合せするのがポケモンにとって本番のコンディションを保てる最良のトレーニングだ。気持ちの整理がつかないうちにバトルを行うのはやはり憂鬱である。
フスベの邸宅をカイリューに跨って出発した彼は、ジョウト上空をやや低空で飛行しながらぼんやりと呟いた。
「オフシーズンにセキエイへ行きたくないと思ったのは初めてかもな……」
すると主を心配したカイリューが顔をこちらに向け、目的地を変えようとする。
「いや、気遣わなくていいから。遅刻も欠勤もありえないよ」
彼女は心配そうに頷き、そのまま高度を保ちながらセキエイを目指して飛行を続けた。真冬の空は寒さ厳しいが、フルフェイスと高機能のライダースジャケットを纏えばそれも幾分和らいだ。この気温に便乗して頭もクールダウンできればと思うのだが、情けなくも僅かに気持ちが残っている手前、どう接すればよいのか答えが出せなかった。さらに運の悪いことに、カイリューの飛行速度は速い。自宅を出て十数分、セキエイ地区はもう目と鼻の先だ。
「……ところで、今日は直接スタジアムへ行ってくれるかな」
普段はロッカールームに荷物を置いてからスタジアムへと向かうのだが、少しでも会う時間可能性を減らそうと逃げるようにそちらを選んでしまう。従順な相棒はそれに従って進路を少しだけ変更したが、内心は意気地のない主人に呆れていた。しかしあのまま二人が結びついては、カイリューとしては面白くない。複雑な心境のまま、スタジアムの裏口前へと降り立ち警備員を驚かせる。
スタジアムへ到着したワタルはジャケットの前を開け、すれ違うスタッフらに一人一人挨拶しながらバトルフィールドへ向かった。ごく普段通りの対応、足取り――いつまでも悩んでいないで、気持ちを切り替えなければ。ベンチ裏へと続く薄暗い通路を抜けると、途端に視界は開ける。無人の観客席に囲まれた栄光の舞台は、今朝も最高のコンディションを保っていた。
「おはよう、シバ!」
ワタルはベンチシートに持参したモンスターボールを並べている親友へ声をかけた。つい先ほどやって来たばかりのようで、彼の他には誰も出勤していない。まずは一安心だ。
「おはよう。昨日休んだ分を取り戻すぞ」
シバはすぐに手持ちポケモンを選び出し、ベルトにボールを装着し始める。早急な友人に、ワタルは呆気にとられた。
「急くなよ。今準備するから……」
「直接ここへ来たのか?」
黒革のショルダーバッグからモンスターボールを取出し、選定するワタルの姿を見て、シバもまた呆れ返った。普段の彼ならば朝一番にロッカールームにやって来てそこに荷物を置き、ポケモンを選んでフィールドへやって来るからである。そういえば上着もカイリューに騎乗する際のライダースだ。手際の悪さにやや苛立ちを感じていると、「おっはよー」と呑気な挨拶をしながら防寒具で身体が膨れ上がっているイツキがやって来る。
「おはよう、イツキくん」
ボールを装着しながら軽妙に挨拶するワタルと、腕組みをしてそれを待つシバ。それで状況を察したイツキは、両手を擦り合わせながらベンチシートに腰を下ろした。
「もうフィールド使うの? じゃあ僕は見学でいいや。さむさむ……一番先に来た人はストーブ点けといてっていつも言ってるじゃん」
「だらしない! その根性、後で徹底的に叩き直してやる!」
半裸のシバは白い息を吐きながらベンチでストーブに当たっている同僚を叱責した。がらんどうのスタジアムにその罵声は非常によく通る。日常的な朝の風景に、緊張していたワタルの心も解れるが――すぐに凍結した。
「おはよ……」
続いて通路の奥からやって来たのは、気だるげな面持ちのカリンである。黒いファーコートを纏ったまま、よろめくような足取りで彼女はベンチへバッグを置く。普段艶やかで美しい曲線を描いているパーマは巻きが甘く、目元はやや腫れぼったい。まるで昨晩泣きはらしたような姿に、ワタルはひどく動揺する。
「お、おはよう……体調悪そうだが、休んだ方が……」
思わずワタルの口を突いた余計な親切。
カリンはひどく動揺しつつも、コートのポケットに忍ばせたヘルガーのボールを握りしめ、吹っ切ろうと決意した。何とか笑顔を作って、その気遣いを遠慮しようとしたとき――スタジアムの隅々まで同僚の罵声が響き渡った。
「お前、昨日から暗い顔をしているが……体調管理くらいしっかりしろ! 朝から不愉快な顔をして出て来るな、士気が下がる!」
白い息をまき散らして詰め寄るシバに、カリンは目を丸くする。
「はあ? お、大怪我したあなたに言われたくないわよ」
反射的に言い返すが、大山の如き威圧を放つ彼の前に口先だけの攻撃は通用しなかった。
「だからおれはこうして、休んだ分を補填している。だが、今のお前にはそう言う気概が感じられない!」
「わ、私は病気じゃなくて……その、昨日ちょっと……」
「だったら尚更腹が立つ! 何があったか知らんが、仕事に私情を持ちこむな。おれはそういう公私混同した女が大嫌いなんだ。毎日スタジアムや練習場で悪ポケモンへの訓練をしているくせに、お前自身のつまらん私情で台無しにするんじゃない! このだらしない姿なら、いつもの高飛車な態度の方がよっぽどマシだ。無駄な装飾品に機能性のない靴、鬱陶しい衣服を身に付けていてもスタジアムで立ち回る――お前は“おれの次に強い四天王”のはずだろう!」
鼓膜を震わせる大説教は、カリンの身体に雷を落とした。
シバは自分に対し、一人の女として見ているような素振りは一度もない。何でも容赦なく食って掛かるし、頭の中はポケモンバトルのみが詰まっているような男である。仕事以外では付き合いたくないと距離を置いていたが、意外にも自分のことを見ていることに驚いた。空き時間に緻密なトレーニングを重ねていること、お洒落と仕事を両立すべく身のこなしを研究していること――他の男たちもそうだったが、仲間には見せていない一面を彼らは理解してくれている。
『どんなにみすぼらしい外見でも――内面が美しいと人は輝く。貧乏で親に愛されなくとも、挫けず前向きに生きなさい。それを心がけていれば、その努力にきっと誰かが気付いて、カリンちゃんを幸せにしてくれるから』
ふいに恩師の言葉を思い出した。
孤独に悩み、温もりを欲して自暴自棄になってしまったが、ヘルガー始めとするポケモンが傍にいてくれるし仲間はみんな自分を分かってくれる。それなのに贅沢過ぎる幸福の中で多くを望み、一線を越えて全てを壊してしまうところだった。頭の中で絡まっていた様々なしがらみがまとめて千切れ、闇の中へ消えて行く。
カリンは目覚めさせてくれたシバへ“礼を言うべく”、彼に向き直った。
「黙っておけば、言ってくれるじゃない」
ルージュの塗ムラがある口元が緩み、その瞳に四天王としての闘争心が宿る。彼女はポケットからヘルガーの入ったボールを取り出すと、コートを脱いでワタルの前へ放り投げた。
「これ、預かってて」
「いや……でも、寒……」
唖然としながらコートをキャッチするワタルに対し、カリンは微笑みながらヘルガーを傍に召喚した。
「動いていれば平気よ。“おれの次に強い四天王”ですって? ヘルガー、どちらが格上か見せてやりましょ」
いつも通りの不敵な笑み――ワタルは心から安堵した。コートから立ち上る薔薇の香りも、不思議と男の本能をくすぐることはない。ただ上品な良い香りに思える。
「望むところだ。おれは南側へ行ってやろう。行くぞ、エビワラー」
シバはエビワラーを従えながら、フィールド南側の挑戦者エリアへと駆けていく。わざわざベンチから遠い方を選んだのは、もしかすると本当に体調が悪いかもしれない彼女への配慮なのだが、誰にも気付かれなかった。コートを抱えたワタルが手前のベンチに腰を下ろしてイツキと試合を観戦しようとしていると、下駄の音が鳴ってキョウがやって来る。
「寒いのに朝早くから頑張るなー」
彼は羽織の上から両腕をさすりながら、ワタルの隣に腰かけた。
「おはようございます。冷えますね」
後ろのベンチシートにファーコートを置き、観戦の支度は万全だ。「カリン! 準備はできたか!」と、シバの怒声が飛びカリンはヘルガーと顔を見合わせて肩をすくめ、「勿論よ」と頷いた。
「シバ、朝から飛ばしてるね。相変わらずムカつく。あとで覚えてろ」
ベンチシートの上で膝を抱えて座っていたイツキがぽつりと呟き、こう続けた。
「……でも、カリンに対する距離感は一番正しい気がする」
「そうかもしれないな」
ワタルも同意する。やはり彼女とは仲間であってしかるべきなのだ。そこから先の一線を踏み越えるためには、相応の覚悟を必要とし、王座の維持で精一杯な今の自分にそれは容易くない。
「プレイボール!」
スタジアムに二人のプロトレーナーの声がこだまする。先に駆け出したのはヘルガーだった。エビワラーの鼻先まで飛びかかったかと思えば、素早く身体を捻ってガードの甘い脇を切り裂いた。エビワラーの身体がぐらりと崩れる。
「“不意打ち”、決まりね。油断しちゃったんじゃ――」
カリンが微笑んだのも束の間、死角から拳が飛び出しヘルガーの左頬にクリーンヒット。重厚なカウンターパンチにダークポケモンは軽々と吹っ飛ばされた。
「油断したのはそっちだ。こうも簡単に“リベンジ”が決まるとはな!」
彼女はテクニカルエリアを回り、ヘルガーの元へ駆け寄る。相棒は直ぐに身を起こしたが、いきなり大打撃を食らったようで既に足はふらついていた。
「……大丈夫?」
ヘルガーは頷きながら、主へと勇壮な眼差しを向ける。彼はいつでも自分についてきてくれる、これ以上ない最良のパートナーだ。
「私があいつらを煽るから、それを利用して攻めるのよ」
カリンはヘルガーの背を一撫でしてから立ち上がり、シバを挑発した。
「……そうね、ちょっと油断してたみたい。それにしてもここ、寒いわね。小柄なエビワラーちゃんも寒さが染みるんじゃない? うちの子が温めてあげるわよ」
「寒さなど、シロガネで訓練している我々には無関係だ。奮い立て、エビワラー!」
エビワラーは威勢よく拳を合わせ、己を一層奮起しながらヘルガーの元へ疾駆した。入念に鍛え上げたシバのエビワラーはスピードもパンチ力も申し分ない、最高のボクサーだ。主人の一声で奮い立つメンタルも並みのポケモン以上である。
それを、ヘルガーは利用した。長い尾を鞭のようにしならせ、新幹線並みと比喩される高速パンチを受け流す。相手が空振りした隙に前足で強烈なビンタを叩き込み、フィールドへ薙ぎ倒した。鮮やかな一連の動作に、シバは度肝を抜かれる。
「な……!」
「ふふっ、調子こいてる男には“オ・シ・オ・キ”よ!」
カリンは人差し指をピンと伸ばし、悪戯っぽく微笑む。ベンチで観戦している男たちは他人事とは思えず、揃って萎縮した。
「さあヘルガー、トドメよ。火炎放射!」
身を起こしてファイティングポーズを取ろうとしたエビワラーに反撃の隙を与えず、ヘルガーは体内から渾身の猛火を噴射した。失恋、後悔、余計なしがらみ――ここ数日の悩みを全て焼き尽くすような炎がカリンの目の前で噴き上がり、そのまま闘志となって彼女の心に点火する。
エビワラーの気絶を確認し、ベンチに取り付けていた自動判定装置がヘルガーの勝利を知らせた。
「くそっ、やられたか……だが、まあ見事だった。さすが今季おれの次に強かっただけある。次からもその態度で来い。沈んでいるお前ははっきり言って不気味だ。それと……!」
シバは悔しそうにポケモンをボールに戻しつつ、潔く敗北を認めたかと思うと、北側ベンチを指して声を張り上げた。
「ベンチでぬくぬくと観戦しているお前ら! クリスマス前だからと浮かれてないか! オフシーズンに恋愛など二の次だっ、分かったらさっさと準備しておれとバトルしろ!」
これも万が一カリンの体調が悪かった場合のシバなりの気遣いなのだが、荒っぽい言動により誰にも気付かれず、ベンチからはワタル以外のブーイングが返ってくる始末。そんな光景に呆れながらも、カリンは思わず頬を綻ばせた。
「あなたって本当に一言多いわねー。でも、今回は……ありがと」
小声の感謝はシバの耳には届かない。
真っ向から礼を言っても、また気に障る返しが来るだけなので、それでいいと思った。それより相棒である。戦闘を終え、颯爽と身を翻しながら自分の傍へ寄ってくるヘルガーを、彼女は火より熱い抱擁で出迎えた。
「やったわね、ヘルガー。あなたってば本当に素敵!」
勢いよく抱きつかれ、ヘルガーの身体がぐらりと揺れる。転倒しそうなところを何とか持ちこたえたが、デビュー戦の勝利より喜んでいる主人は心底嬉しそうだ。その笑顔は、出会った頃から何も変わってはいない。その立ち振る舞いから“悪女”の印象を抱く者もいるようだが――本当の彼女はそんな女性ではないのだ。純粋で、そして誰よりも優しい。
「ヘルガーが傍にいてくれて良かった……本当に感謝してる。これからも一緒に頑張りましょうね」
身を寄せ合って夜を過ごしたあの時と同じ言葉が聞け、ヘルガーは満足げに頷いた。この真冬の一波乱で、主人は最後に自分を選んでくれた。それがとても誇らしくて、ベンチでこの様子を見ていた男たちへ胸を張る。そのアピールに気付いたイツキが、ワタルに向けてぽつりと呟いた。
「僕、なんか勘違いしてた……カリンを取り合うライバルはワタルだと思ってたけど、本当の敵はヘルガーだったのかも。あいつにだけは勝てる気がしないよ」
「下手に手を出したら消し炭だ。抜け駆けはダメってことだな」
苦笑するキョウに、ワタルも思わず反省しながら同意した。
「そうですねえ……」
フスベの竜の穴でヘルガーに吼えられた際――全身の神経を麻痺させ、しばらく身動きが取れなくなるような錯覚に陥った。あれは間違いなく本戦でポケモンの能力を抑える際に使うような技である。主人のためならば人間にも容赦ない、そんなヘルガーの本気を身に染みて感じたワタルは、これにて元の綺麗さっぱりとした関係に戻ろうと改めて誓った。
+++
街も華やぐクリスマス・イブの夕方、カリンは自宅マンション近くの高級スーパーで友人のカンナと共に買い物をしていた。ワインコーナーへ着くなり、カンナは嬉しそうにシャンパンの棚に腕を伸ばす。
「やっぱり、クリスマスはシャンパンよね! モエ・エ五本くらい買っちゃう?」
カリンが頷くと、カートの上に乗せていたバスケットの中に高級シャンパンが次々放り込まれていく。お互い金には困っていないので、値段は気にならなかった。じっとラベルを眺める友人の顔を、カンナが不思議そうに覗き込む。
「てっきりイブの夜は男と過ごすのかと思ってた。カリンがクリスマス女子会を提案するなんて……しかも、パティスリー・コガネのクリスマスケーキを三ホールも注文しちゃって。一体どうしたの」
彼女はカートの下の段に置いている人気パティスリーのケーキ箱へ目線を落としながら首を傾げた。これは先ほどクリスマスパーティの買い出しに合流した際、カリンが抱えていたものだ。美容のためにデザートを控えている彼女がこれほどケーキを買い込んでいるとは珍しい。すると友人は、あっけらかんと理由を語る。
「この間ワタルに振られちゃったの。だから、やけ食い」
「ええーっ!? ちょ……急に……カリンでも駄目だったの?」
素っ頓狂な悲鳴が店内に響いた。有名人であるため変装しているが、その名を耳にした他の客たちが訝しげに二人に注目する。呆れたカリンは友人の腕を引っ張り、人目の少ないワイン棚の裏へ逃げ込んだ。
「もしかして、あなたもワタルの事が好きだったの? 駄目よ、彼は王座が恋人だから」
「私はともかく……カリンはすごくいい女なのに! ガツンと言ってあげましょうか」
腹立たしい瞳がサングラス越しでもはっきりと分かる。カリンは嬉しそうに微笑みながら、その提案を取り下げた。
「いいの。今の関係が一番居心地良いから。それに私にはヘルガーがいるしね」
彼女はバッグからヘルガーの入ったボールを取り出すと、中に入っている相棒と顔を見合わせて笑顔を浮かべた。気付かないうちにカリンとヘルガーの絆は一層深まっているようだ。きっと恋愛の面倒事をヘルガーが解決したのだろう――とカンナは考え、安心しつつも呆れるように肩をすくめた。
「なあに、失恋した末がそれ? ポケモンに入れ込む女は行き遅れるわよ」
「それはお互い様でしょ」
カリンは負けじと意地悪く微笑み返した。前の恋人と不仲になってから、彼女がぬいぐるみとポケモンに傾倒していることはお見通しなのだ。カンナは思わず、右手に提げていた紙袋を後ろ手に隠した。中にはコガネ百貨店で購入した、クリスマス限定の大きなラプラスサンタぬいぐるみが入っている。そんな姿に吹き出しながら、カリンは腕時計に目を落とした。
「……そろそろ帰って支度しなきゃ。もう一人のお客様が来るものね」
それを聞いたカンナは、パーティが女三人で行う予定だったことを思い出した。もう一人はカリン曰くサプライズゲストで、詳細は不明だ。
購入した商品をヘルガーとマニューラにも持たせ、スーパーから徒歩十分のカリンの自宅マンションへ到着すると、エントランスでダッフルコートに細身のスキニージーンズを着た女が身体を震わせながら待っていた。
「遅いぞ!」
白い息を撒き散らしながら激怒する女は、スラリとした長身で目鼻立ちの通った美人である。その顔にはカンナも見覚えがあった。
「あれ? この子、もしかして……」
「そ、ワタルの従妹。呼んだ時間より一時間くらい早いんだけど? フスベのドラゴン使い一族さんたちは一番乗りが好きなのねー」
カリンはむくれるイブキをサラリと流しつつ、エントランスのドアをカードキーで開錠して中へ入った。その後ろを荷物を咥えたヘルガーが追い、カンナとイブキ、マニューラも後に続く。エレベーター前で高級ホテルのような共用通路を無心で見渡していたイブキは、面白がるようなカリンの視線を感じ、反射的に悪態をついた。
「か、勘違いしないでよ。た、たまたま仕事が早く終わったから寄っただけで……」
そんな虚構はお見通しである。カリンはイブキの顔を覗き込み、からかうように白い歯を見せた。
「うっそ〜、私聞いちゃったのよ。今日は半年くらい前から年休の申請してたんでしょ? お兄様をデートに誘えなくて残念ね」
これは事前にイブキの予定を確認すべく、キョウの伝でジムリーダー管理部署から聞き出した情報である。男もいないのに早くからクリスマス・イブを空けるということは、憧れの従兄にアタックを仕掛けるために違いない――予感は見事に的中した。愕然としていたイブキは、エレベーターに乗り込むなり本音を漏らす。
「……結果はいつも見えてるけど、フスベでホワイトクリスマスをお兄様と過ごすのが夢なんだ。だけど実はクリスマス・イブはお兄様のカイリューの誕生日で、その翌日がチルタリス。お兄様はいつもそっち優先で、私の方を見てくれない! これどう思う!? ありえないでしょ!」
「うわぁ……引く……」
カンナはケーキ箱を抱えたマニューラと顔を見合わせながら身震いした。プロとはいえ女になびかず手持ちポケモンの誕生日を優先する男なんてありえない。
すると、窮屈なエレベーター内でぶちぶちと喚くイブキの肩を抱き、カリンが彼女の頬へケーキの箱を一つ取って押し付けた。
「そういうダメお兄様の話、もっと聞かせてくれない? 勿論、タダでとは言わないわよ。あなたのためにパティスリー・コガネのガトーショコラ買ってきたの! これすっごく美味しいのよ」
「こ、これはアカネによく頼んでいる店の……!」
そのガトーショコラは振られた悲しみの傷口を塞ぐには医薬品以上の効果を発揮した。悲嘆に暮れていた彼女の表情はたちまち輝き、それまでカリンに抱いていた不信感さえ消し飛ばす。
「今日は女子会よ! たっぷり楽しみましょうね」
エレベーターが最上階へ到着すると、夕暮れを受けて黄金に輝く、大都市コガネシティの風景が広がっていた。