第5話:刺激的な優しさ
翌日、セキエイスタジアムの公式戦フィールドでは早朝からシバとイツキによる練習試合が繰り広げられていた。数人の清掃員たちが手を休めて観客席から立ち見する中、がらんどうの施設内にシバの絶叫がこだまする。
「サワムラー、ブレイズキック!」
フィールドでステップを取りながら、イツキのエルレイドに対峙していたサワムラーが右足に炎を纏わせ、相手に飛びかかった。エルレイドはすかさず間合いを取り、イツキを一瞥し指示を仰ごうとしたが、主は魂が抜けた表情でテクニカルエリアに立ち尽くしている。呆れながらもバック転でサワムラーの攻撃を回避し、主人の隣に着地してその脇を小突いた。
「……サイコキネシス」
ぼそぼそと唇だけ動かすような指示に、エルレイドは肩をすくめてシバにアピールする。主人がこれでは試合にならない。
「こら! 真面目にやれ!」
耳を劈くシバの罵声にも、イツキはまるで動じない。このように怒鳴られることは日常茶飯事、怒りっぽいヤナギに師事していたことですっかり耐性がついていた。
「やってるー。けどやる気が出ない……ごめんね、エル」
イツキはエルレイドを撫でながらテクニカルエリアに腰を下ろした。カリンに振られて以降、イツキは一週間ずっとこの調子である。満を持しての告白が破れたショックは大きく、手持ちポケモンたちも総出で主人を慰めている始末だ。いつの間にか役割が逆転し、エルレイドに頭を撫でられているイツキに腹を立てたシバが、テクニカルエリアの外周を回って歩んできた。
「女に振られたくらいでいつまでも引きずるな! そういうメンタルがポケモンバトルに影響するんだ!」
「だってさあ、このままクリスマス一人なんて考えたら居た堪れなくて……」
彼は膝を抱えながらテクニカルエリアの床に転がった。
痺れるような冷たいフィールドは氷の抜け道を思い起こさせる。あの時はヤナギの手を借りて不調を脱したが、失恋はどうにもならない。戦意喪失したイツキに呆れたシバはベンチに戻り、汗を拭いてスポーツドリンクを口にする。ダウンジャケットで着膨れしているイツキに対し、彼はこの寒さの中でもいつも通り半裸である。代謝が良すぎるだろ――とイツキが考えていると、目の前に未開封のスポーツドリンクが差し出された。
「クリスマスが暇ならおれとシロガネでトレーニングするか?」
「嫌に決まってるじゃん! 何が悲しくて聖なる日にシバと訓練しなきゃいけないワケ!」
イツキはシバからドリンクを引ったくって喉を潤すと、むくれながら残りをエルレイドに手渡した。
「おれにはクリスマスとやらがそれほど重要な日に思えんのだが……」
「そりゃシバはそーでしょ。だけどね、クリスマスっていうのは恋人と過ごす最高の一日なんだよ! 二人で手を繋ぎながら街中のツリーやイルミネーション見て回るデートって憧れるじゃん」
イツキが次々と並べ立てていく理想のクリスマスデートプランを、シバはアンズに変換して空想してみるが、モミの木や電飾に興味がない彼にはその良さが理解できなかった。この時期になるとスタジアムや本部ビルのあちこちにツリーが飾られているが、はっきり言って通行の邪魔である。イルミネーションも足元を照らす灯りにしかならない。
「やはり、おれには分からん」
首を捻る無骨な同僚に、イツキは心底呆れ返る。
「あーあ、話すだけ無駄な気がしてきた……僕、ロッカー戻るよ。ラジオ出演あるから移動しなきゃ」
ようやく身を起こしてベンチへ戻ろうとすると、察したエルレイドがいち早くそちらへ駆けつけ、彼の荷物を持ってきた。スタジアムの時計は朝の八時を指しており、早朝練習を切り上げる時間帯である。シバはスポーツドリンクを飲み干し、ペットボトルを握り潰した。
「おれも戻るか……珍しい、今朝はお前の他に誰も来ない」
ワタルに関してはオフシーズンは毎朝六時には出勤し、この時間までスタジアムで調整を行っているため練習に来ないのは珍しい。それに気付いたイツキが首を伸ばしてロッカールームへと続く、ベンチ奥の人気のない通路を覗き込んだ。遅れてやってくる様子もない。
「そうだね。遅刻魔のキョウさんはともかく、いつもならワタルとかカリンが来てるのにね。僕としてはまだ心の傷が癒えてないからカリンが来なくてちょっと安心してるけど」
「そういう面倒くさいことになるから、仲間に手を出すのはやめた方がいいんだ」
二人はモンスターボールやケア用品などが入ったバッグを担ぎながら並んでロッカーへと歩き出した。
「分かってるけどさー、あんなに美人だったら挑戦したくなるのが男でしょ? すごく自分を磨いてるのに、女性として意識しないなんて逆に失礼だと思うけどな。それに前の四天王にも綺麗なお姉さんいたじゃん、えーと……カンナさん! あの人はワタルと取り合ったんじゃないの?」
「ありえない」
躊躇いなく断言するシバは相変わらずの堅物だ。イツキは唇を尖らせる。
「二人とも真面目すぎー」
「カンナには元々恋人がいた」
イツキはようやくその男の顔を思い出した。カンナの元恋人と言えば昨年窃盗や業務妨害で実刑判決を受け、現在服役中のNPO法人・鳳凰会の元リーダー、ランスである。彼は元々シバの友人で、昔は共に訓練に励んでいたという。地雷を踏んでしまったような気がして、イツキは真っ青になりながら口を噤んだ。
シバは薄暗い通路を一歩一歩踏みしめながら、無言で歩む。
ランスが逮捕されて以降何度か面会には訪れているが、いずれも拒否されている。それはカンナも同様らしく、結局彼が何故あそこまで暴走したのかは聞けずじまいだった。共に修行していた頃はポケモンバトルが野蛮だなんて一言も口にしていなかったのだが。
(……釈放されるまで待つか)
当時、鳳凰会で活動していた頃のランスの理想は全く理解できなかったが、相棒のカイリキーが故障し、よりポケモンと向き合うようになった今だからこそ、友人の話をじっくりと聞いてみたかった。そしてほんの少しでも手助けになればいい。もう誰かを見捨てるのはやりきれない。
ポケモンと共にしばらく会話もなく歩いていた二人だが、ようやくロッカールームの前にたどり着いた。イツキがドアを開くなり、ワタルが爽やかな笑顔を向けながら彼らを出迎える。
「やあ、おはよう」
今朝のチャンピオンはストライプの模様が入った白いワイシャツの上に紺色のカーディガンを羽織り、暖かそうなツイードのパンツ姿。上品な落ち着きを出しながら爽やかな印象を受ける、彼らしい装いだ。遅刻したようには思えない余裕もある。
「珍しいな。朝の練習に来ないとは」
「ごめん、朝イチで寄るところがあって……明日からまた頼むよ」
親友の疑問に、ワタルはカフェでテイクアウトしたホットコーヒーを口にしながら誤魔化した。
昨日フスベであったいざこざから、カリンへの罪滅ぼしのために渡しそびれたモノズのグルーミングを念入りにしていたため遅くなったなど言えるはずがない。そんな彼女はまだ出勤しておらず、室内にはぎこちない雰囲気が流れていた。カリンと顔を合わせなけばならない現実に緊張している男が二人、コーヒーで気を紛らわしたり取材の資料を読むふりをする。そうして会話もかわさず十五分ほど経った頃、ドアノブが動いてワタルとイツキの肩が跳ね上がった。視線は自然とそちらへ向く――ノックもなくドアが開き、凝視する男たちに驚く和装の中年が現れた。
「お、おはよう……?」
「なーんだキョウさんかー」
イツキは気が抜けた声を上げながら近くのソファに身体を預けた。ワタルもこっそりと安堵の息をつく。
「朝から不愉快な挨拶だな」
キョウは眉をひそめ、呆れ果てながら部屋に入ると自身のロッカーにバッグや防寒具を突っ込み、早速仕事支度を始める。彼はオフシーズンはずっとこんな調子で、朝練習には殆ど参加せずに出勤早々本部に通っていた。ファイルと筆記用具を抱え、袂にモンスターボールを三個突っ込んでホワイトボードに行先を書き始める。
「取材と打ち合わせで一日が終わるなんて落ち着かないよ」
雑誌、スポーツ番組の取材を経て会議に参加――ワタルが書き込まれる予定を目の端で確認していると、突然出入り口のドアが開いて男たちの視線が一斉にそちらに引き寄せられる。
「おはよ」
無表情でファーコートを脱ぎながら、カリンがやって来た。暖房が効いているロッカールームだが、ワタルはその瞬間、吹雪が直撃したような錯覚を覚えた。事情を知らないキョウとシバが普段と変わりなく、イツキはややぎこちなく彼女に挨拶する。その流れを活かし、これまで同じ関係へ修復していかなければ――ワタルは意を決して口を開いた。
「お、おはようカリン……」
「おはよ」
にべもない返事だが、昨日はこちらに否があるので仕方がない。急いでベルトから磨いたモンスターボールを外し、彼女の前に差し出した。
「こ、これ。モノズ」
それを見るなり、カリンはワタルの屋敷にモノズを置いてきたことを知ってきまりが悪くなったが、四天王の男たちは昨日の訪問を知らないため、すぐには謝れない。小声で礼を言い、その手からすぐにボールを受け取ってバッグの中に押し込んだ。
「モ、モノズ貰ったんだ……」
ソファの奥からイツキが悲しげな面持ちで顔を出す。エスパーパーティを揺るがす脅威を手にしたことを悲観しているのだろうが、カリンは一週間前の件を思い出してばつが悪くなった。苦笑して流す。
「なるほど、訓練に付き合うぞ」
この悪い空気の中、相変わらずのシバには安堵を覚える。
「まだ赤ちゃんだもの。そうね……ジヘッドに進化したらお手合わせ願うわ」
「分かった」
しかしそこから会話は途切れた。不愛想なシバでは話が続かない。
特にワタルなどは、どんな話を振ればいいのか必要以上に思い悩んでいるようだった。イツキはソファに引っ込み、出かける時間までスマートフォンいじりに逃げている。彼らのプライベートに片足を突っ込むだけで、こんなにも居心地が悪くなるのかとカリンは愕然とした。
助けを求めるような視線をキョウに向けたが、仕事の時間が来た彼は申し訳なさそうに頭を傾け、すぐに部屋を出て行った。ワタルが和を乱したくない理由が分かった気がする。自分はこのまま孤立してしまうのだろうか。
カリンは小さく息を吐くと、必要な道具をまとめて早めに部屋を出た。後悔と再び押し寄せる孤独感が、ちくちくと胸を刺す。
+++
朝、最低限の荷物をまとめて外に出たカリンは、スケジュールをすべてこなした後も練習場の片隅で時間を潰していた。昨月のシバが引き起こした場の乱れとはまた異なる、顔も合わせづらい状況を引き起こしたことに罪悪感を覚える。モノズを膝に乗せ、傍に侍らせたヘルガーを撫でていること一時間。四天王になってから常に多忙な生活をしているが、これほど無駄に過ごした時間はない。腕時計を一瞥すると、針は既に夜九時過ぎを回っていた。
「もう誰もいないかしら……」
通常であればこのオフシーズン、七時過ぎには全員が退出している。時々ワタルが資料作成のために残っているのを見かけるが、さすがにこの時間ならば彼もいないだろう。
「戻りましょ」
重い腰を上げ、ロッカールームへと戻る。
練習場からスタジアムへと続く長い廊下には、小気味よいヒールとヘルガーの足音のみが響いた。扉へと延びる群青色の道は、まるでファッションショーで歩いたランウェイのようだ。タイトな黒ワンピースに同色の艶やかなストッキング、赤いパンプスをアクセントにしたモデルがポケモンを連れ立って颯爽と進んでいく。時折前方からスタッフがやってくると、惚れ惚れした眼差しで彼女に挨拶した。
幼少期からは考えられない変貌ぶりだ。過去を完全に隠し通し、今やセレブの仲間入り――かつて憧れていた友人のカンナ以上に稼いでるかもしれない。ショーウィンドウ越しに眺めるだけだった女王の靴、高級ブランドの服やバッグも何もかも手に入った。アパレル店員時代を超えるファッションアイコンになり、満足なほどポケモンに囲まれ、幸福の絶頂期ではないかと錯覚する。
(だけど……)
だけど、あと一つだけ手に入らないものがある。
――ごめん、今はその想いには応えられない。
苦しげに顔を歪ませ告げられた、彼の言葉が忘れられない。
持って生まれたものを必死で磨いてここまで来られたのに、あのように突き離されるとは思わなかった。名誉ある地位にいれば浮名を流して当然だが、ワタルの場合はあの誠実すぎる性格が仇になっている。今はチャンピオンでいられることで精一杯のようだ。悠々と構えているようで、余裕がない。ポケモンや周囲の人間には恵まれているが、彼自身はどこか孤独だ。
(そういう部分が似てるから惹かれたのかも……)
自分が役不足であることがもどかしい。四天王という地位を捨てれば支えられるのだろうか――再び迷いが生まれる。傍を歩くヘルガーも心残りが窺える主を心配そうに見つめていたが、彼女はそれに気付かぬままロッカールームの前にたどり着いた。まだ施錠されていないドアを開くとソファの向こうで人影が動き、吃驚したカリンは小さな悲鳴を漏らす。
「お疲れ」
キョウが目を丸くしながら顔を上げた。
「な、なーんだ……オジサマか……」
「なんだその反応……朝から晩まで不愉快な挨拶をされる」
彼は眉をひそめながら、手元の書類をまとめて立ち上がった。どうやらこの時間まで打ち合わせや事務仕事に追われていたらしく、その表情には疲労の色が滲んでいる。一瞬、ワタルかと見誤ったカリンは控えめに頭を下げた。
「ごめんなさい……もう帰るの?」
「ああ。仕事は残っているんだが、疲れたから明日に回す。駄目だね、昔ほどのバイタリティはないな」
「アンズちゃん待ってるものね」
「今夜は遅くなるって言ってるから、気にしてないんじゃないか」
「ふぅん……そうなんだ」
バッグに資料や筆記具を仕舞うキョウの横顔は、落ち着きがあり聡明な印象を与える。時折狡猾な一面も垣間見せるが、基本的には常識人で頼り甲斐のある男だ。彼ならば積もった不満を軽減してくれるかもしれない。軽はずみな考えで、カリンはキョウに尋ねた。
「良かったら、これから一杯くらいどう?」
「何? デート?」
飄々とした反応に緊張も解れる。彼女は肩をすくめた。
「そんなところね。愚痴をこぼしたい気分なの」
「愚痴聞きですか。まあいいか……飯は?」
「さっき軽く食べちゃった」
練習場で時間を潰していた際、施設内のカフェでテイクアウトしたサンドイッチで小腹を満たしたばかりだ。時間も遅くなってしまい、改めて食事をとる気分にはなれない。そんな彼女の様子を察したキョウは、少し悩んで行先を決めた。
キョウの車でトキワシティ市街地へ行き、コインパーキングに駐車してそこから歩くこと十分――人通りもまばらな路地の先に、その店はあった。黒い瓦屋根の古民家のような外観で、外看板も目立たないため言われなければ飲み屋だとは気付かないだろう。入口の重い鉄扉を開くなり、奥から「いらっしゃいませ」と穏やかな店主の声が聞こえてきた。
中は奥行きのある、オーセンティックなバーだ。木製のカウンターがオレンジ色の照明に照らされて艶やかに輝き、それを隔てた壁一面には様々な蒸留酒が整然と並んでいる。各々、一目見ただけで安物ではないと分かるほど上質で年季が入ったデザインだ。
四天王になってから様々な高級店へ足を運んできたカリンだったが、このような本格的なバーは初めてである。そして客は自分たち以外誰もいない。それをキョウが指摘した。
「すいてるね」
「うちはこれからですから。それとも、貸切に致しましょうか?」
六十代ほどの店主が首を少しだけ傾ける。それを見て、キョウがこちらへ同意を求めるように視線を向けた。確かに一般客が来られると色々面倒ではある。二回りも年が離れている男への相談とはいえ、男女二人で飲んでいればそういう印象を与えかねない。カリンは微笑みながら頷いた。
「ではこちらへどうぞ」
店主がカウンター真ん中の席にコースターを並べ、二人を案内する。壁にコートとバッグを掛けて席に着くと、すぐに温かなおしぼりとお冷が目の前に置かれた。
「こういうお店、初めてかも。雰囲気あって素敵ね」
両手を温めながら店主に向けて微笑みかけると、彼は光栄とばかりに会釈する。ぴっちりとしたオールバック頭とベストを着た品の良いワイシャツ姿は、伝統的なバーテンダーの様相だ。敷居の高さを感じさせ、メニューも出てこないため値段も分からない。何を注文しようか考えあぐねいていると、隣からキョウが声をかけた。
「マスター、カクテル得意なんだよ」
「そうなの。じゃあ、それで。何がお勧め?」
すると彼は「さあ?」と首を傾げ、「カリンに合いそうなものを適当に」と店主に告げる。どうやら自分をイメージしたカクテルを作ってくれるらしい。小粋な計らいが嬉しく、アルコールに強くジンベースのカクテルが好きな旨を伝えて好意に甘えることにした。
「俺はそれ」
キョウはバックバーの上部に置かれていた、二十五年のボウモアを指す。それ以上何も言わず、マスターは「畏まりました」と頷いた。飲み方が決まっており、常連のようだ。こんな洒落たバー、一体誰と来るのだろう? 好奇心に駆られたカリンの赤い唇がすぐに動いた。
「ここは女と来る店?」
「残念ながら、仕事関係者としか。酒は美味いのに、仕事の話ばかりしに来てる」
キョウは肩を落とし、大袈裟な溜め息をつく。念のため店主へ確認の目線を送ると、彼はシェーカーにリキュールを注ぎながらにこやかに微笑んだ。
「ええ、本当ですよ。昔は特によくいらっしゃっていました」
「すみませんね、トキワへ来る機会が減ってしまったから、なかなか来られなくて。これを機に通わせて頂きますし、ボウモアを奢りますから許してください」
会釈するキョウに、バーテンは静かに笑って礼を言った。音楽もない、外の喧騒からも遮断された店内は店主の人柄が相まって、穏やかな雰囲気を作り上げている。カリンはほんの少し前まで孤独に苛まれていたのが信じられなくなった。主人の手際の良い作業をぼんやりと眺め、無言になっても隣の同僚は気に留める様子もない。ゆったりとした時間を持て余していると、カクテルが完成しコースターの上にやってきた。
「ホワイト・レディでございます」
それは磨き上げた石英の色を成す、ジンベースのポピュラーなカクテルである。カリン自身も何度か飲んだことはあったが、これは丁寧にシェイクされ、非常に見目が良い。バーテンの腕の良さが分かる一品だ。
「素敵」
「正統派だな」
カクテルの出来のよさに脱帽するキョウの前にも、ダブルのストレートウィスキーが注がれたショットグラスとチェイサーが置かれた。カウンターの向こうで酒を振る舞われた店主が小さなグラスを掲げ、三人でささやかな乾杯をする。一口含んだホワイト・レディはレモンジュースとリキュールがジンを緩和し、口当たりが良く爽やかだ。満足げにグラスを置くと、それを見計らったようにキョウが尋ねた。
「……で、愚痴って何だ? ワタルくんに振られたとか?」
安らぎさえ感じていた矢先にこの一言。カリンは硬直した。店主は素早くカウンターの隅に移動し、いそいそとグラスの手入れを始めている。
「ふーん、図星か」
彼は意地悪く笑みながら、グラスを口へ運ぶ。カリンは呆れながら、澄ましたように背伸びした。
「さすが、察しがいいわね。グズグズ悩んで、挙句キープされそうになったからこっちからお断りしたけど」
「ワタルもそんなことするんだな」
キョウは思わず吹き出した。空気が緩んで、会話も弾む。
「ポケモンの扱いも上手くて、フィールドではあんなに勇ましいのに――女となるとサッパリね」
「そこがいいんじゃないか? あれで女の扱いまで上手くちゃ、俺達の立つ瀬がない」
「なるほど。強敵だものね」
睫毛の先で小突くように彼を睨むと、キョウは参ったとばかりに肩をすくめた。
「わざわざドラゴンに張り合おうとは思わないけどな。試合でも同じく」
確かに彼はマスターシリーズでもなかなか真っ向勝負を仕掛けて来ない。回りくどい戦法は性格にもよく現れている。カリンもどちらかと言えば彼寄りのテクニカルな試合を得意としているが、今回の告白は本能を剥き出しにしてしまい失敗に終わった。
「手を出した私は、間違っていたのかしら」
ふいに後悔が零れ落ちる。
「仲間だから、気を遣うんだって。だから私は駄目みたい」
キョウの目線がこちらへ向いた。
「だろうな。あいつ、生真面目だから器用な関係を築けないんだよ。正義感が先走り、気に入られてた総監に後先考えず喧嘩売る男だぞ。青いと一言で済ませられる年齢でもなくなってきているのに……つくづく勿体無いな。落とすならプロを引退してからじゃないか? 全てを捨てて添い遂げる――古臭いが、それくらいの覚悟がないと」
確かに彼の性格を考えれば、おのずと答えはそこへ行きつくのだ。だけどまだ仕事は手放したくない――昨日のワタルの葛藤と似ているような気がした。「……それは、ちょっと」と僅かに中身が残ったグラスへ視線を移す。気付いた店主が近寄って来たので、次もジンベースのお任せを注文した。彼が離れた後、キョウが声音を抑えてぽつりと呟く。
「賢明な判断だ。こういう生活に慣れたら、昔には戻りたくないだろう」
その言葉は耳を伝い、一瞬で身体を硬直させた。身に覚えのある貧しい過去は、隠してきたはずなのに。ワタルが話したのだろうか。いや、彼はそんなことをする男ではない。
「な、何のこと……?」
恐る恐る尋ねると、彼は「何だろうな」としらばっくれた。のんびりとした反応を見るに、最初から分かっていたようだ。カリンはたっぷりと息を吐き、肩をすくめる。
「……良家の旦那様には、育ちの悪い女はお見通しって訳ね」
「普通のお嬢さんはチャンピオンをグーで殴らないし、人の足をヒールで踏まないからな」
わざわざ昨年の所業を持ち出してきたことに眉をひそめると、彼はボウモアを口にし、悠々と微笑んだ。
「矯正してるのも分かる。今が良ければ、俺はそれで気にしないが」
その言葉に、カリンは息を呑んだ。
満足に受けられなかった教育は、自立してから必死で取り戻した。身なりを整えたのは勿論、コガネ百貨店の正社員を見て優雅な立ち振る舞いを研究、歩き方や箸の持ち方などに至るまで全てを一新した。人として当然の作法だったのだから、その努力は誰にも認められたことがない。
だから素直に、嬉しかった。キョウが良い家の育ちだからか、余計にそう感じる。アルコールも手伝って徐々に孤独感が和らぎ、すっかり気分良くなったところで出てきたのは、キス・イン・ザ・ダーク。ルビーのような美しい色に、心は弾む。
「そうね、四天王になれてラッキーだった。苦労した甲斐あったわ。今更この生活レベルを落とせないものね」
「ああ、確かに試験は面倒だったな。そういえば……お前、最終面接でワタルから何を質問された? あいつ結構鋭い所を突いてきたような……」
そこですぐに思いついたのは、ワタルが彼女を懸念してのある問いだった。
「……紅一点になっても問題ないかって」
昨年尋ねられたワタルの質問を思い出し、やはり彼に迫ったことは間違いだったと確信する。仕事に慣れ、やや驕っていたのかもしれないが――今は人生の絶頂期、自分だって恋がしたい。幼少期に得られなかった充実をより満たしたいのだ。その衝動でカクテルを一気に飲み干し、気持ちを誤魔化そうとしたのは失敗だった。欲求は剥き出しになり感情を煽る。
「初心に戻らなくちゃって思うけど……私だって、時々女になりたいの。次、マティーニお願い」
「ほう」
「こんなにいいバーだもの。きっとマティーニが美味しいわ」
しばらくして出てきたのは、カクテルの王様と呼び声高いマティーニである。ジンとベルモットを丁寧にシェイクし、オリーブを添えたそれは白く淡い輝きを放つダイヤモンド。出来の良さは一目瞭然だ。口を付けるなり、抜けるような刺激が体内を駆け巡ってカリンを魅了し、何とか保っていた理性を揺さぶる。そんな様子を見たキョウが彼女を冷やかした。
「お客さん、イケるクチだね」
「当然でしょ。お酒もバトルも、あなたより強いわ」
ちくりと牽制すると、彼は参ったとばかりに苦笑した。
「シバやイツキと違って……オジサマはチャンピオンになりたいって、思ってないでしょ」
これは日ごろからカリンが感じていた疑念である。キョウは試合こそ無難にこなしているが、他の仲間と比べてポケモンにシビアな訓練を積ませておらず、手持ちを増やすこともない。これは彼女からすれば“現状維持”だ。しかしキョウ自身は違うようで、控えめにかぶりを振る。
「そんなことはないが……王座には稀代のスーパーヒーローが座ってるからな。どいて貰うのはなかなか難しい」
やはりワタルは四天王にとっても、越えられない壁。
「……私も」
カリンはマティーニを口へ運びながらぽつりと漏らす。すると、一口飲んだチェイサーをカウンターへ置きながら、キョウが尋ねた。
「お前こそ、ワタルを蹴落とそうなんて思ってないだろう。勝てるかどうかはともかく」
彼もまた、自分のことをお見通しだ。きっと取り澄ましていても無駄なのだろう。度数の高いアルコールの力も手伝って、カリンは塞いでいた心中を曝け出していく。
「そうなの。誰かに負けて、落ちぶれる姿を見たくない。必死でチャンピオンを維持しているから……今は四天王を続けられればそれでいいかなって。並行してアパレル関係の仕事を始めてるんだけど、最終的にはそっちにシフトできればいいかしら……ああ、これはシバに知られたら激怒するだろうから、内緒ね」
片目を瞑ってアピールすると、キョウは頬を緩ませながら頷いた。
「勿論。意外に堅実だな」
「だってもう、あんな惨めな生活に戻りたくはないもの……」
冬の寒さがあの頃を思い出させるのだろうか。最近は感傷的になってばかりだ。同情が欲しい訳ではないのに、つい口が滑って、何でも話してしまう。
「欲しい物も買えず、家族には無視されて誰にも愛されない。生まれつきのセレブには分からないでしょ?」
彼は少し考え込むような素振りを見せながら、「殆ど」と呟いた。
「ほらね……」
しかし途端にカリンは後悔した。何不自由ない生活を送って来たであろう、裕福な生まれの人間と比較するなんて、ますます惨めになるだけだ。気を緩ませて卑屈になった自分が恥ずかしくなり、また酒に逃げた。うっすらとカクテルの表面に映る今の自分は、コガネ百貨店のショーウィンドウを覗いていた少女時代にそっくりで、たちまち背筋が凍りつく。
いくら飾り立てて男たちを翻弄し、澄ましたふりをしても――自分はまだ孤独で卑しい小娘なのではないか。激しい恐怖から自信を失い、反射的にヘルガーに縋り付きたくなった。椅子を半回転させ、壁に掛けていたバッグに手を伸ばそうとしたとき、キョウが身体をカウンターに向けたまま彼女に告げた。
「今までお疲れ様」
それはマティーニのようにシンプルで、強烈な優しさを持った一言だった。
「そうやって堅実に成長し、将来の展望もしっかりしてるお前ならこの先道を見誤ることはないだろう。言われんと気付かんよ、どこからどう見ても誰もが羨むセレブリティ。ワタルのような男には勿体無い」
そして剥がれ落ちた化けの皮も元通りにしてくれる――その優しさに、また妙な感情が芽生えた。
「あ、ありがとう……」
アルコールも手伝って身体ごとぐらつき、小さく頷いて化粧室へ急ぐ。今夜は強い酒を飲みすぎだ。こういう女は、きっと男にとって面倒くさいし見苦しい、早く平時に戻らなければ――必死に言い聞かせたが、余裕のない自分を受け入れてくれる言葉が、溢れる欲求を更に掻き立てる。感情の歯止めが利かない。
本能は“結果”を欲している。
孤独を埋め合わせできる、満足のいく結果。冬の寒さから守ってくれる、温もりさえあれば――いや、それはあまりに自分を安売りしすぎだ。ここはヘルガーに頼るべきだと考え、カリンは化粧室を出た。
「そろそろ帰ろうか」
見計らったようにキョウが席を立つ。素直に従い、コートを羽織った。肩にかけたバッグの中からヘルガーが心配そうにこちらを見つめていたのでボールを握りしめ、キョウと店を出た際にいち早く召喚した。脚に絡みつく相棒の身体は、じんわりと温かくて安心する。そこでふと、カリンは気付いた。
「……ねえ、お金。いくら?」
会計をせずに出られたということは、化粧室へ行っている間に支払いを済ませたのだろう。粋な計らいだったが、先ほど妙な考えを抱いてしまったことを反省し、彼とはあくまで同僚の立場で居るためバッグから財布を取り出した。
「いいから」
あっさりかわされても引けず、意地になった。
「散々愚痴聞いてもらったんだから払わせてよ。年上だけど、同僚でしょ」
するとタクシーを探していた彼が、振り返って悠々と微笑んだ。
「これ、デートだろう」
飄々とした反応は、下心のないただのジョーク。しかしカリンにとって、今は逆効果だ。十二月の寒風が心の隙間に入りこみ、必死で押さえつけていた感情を浮き上がらせる。本能に突き動かされるまま腕を伸ばし、タクシーが気付くよう真っ直ぐ上がっている男の左袂を摘まんで腕を下ろさせた。
「……デートなら」
目を見張る彼をなぞるように見上げ、首を傾げる。
「次、どこ行く?」