第4話:立場の枷
本心はただ、彼女に対する嫉妬だった。
理性は殆ど捨てていたがそれだけは口に出さず、とにかく滅茶苦茶に否定した。
「負けて言うのもなんだけど、こんなせこい試合してちゃ四天王を続けていくなんて無理よ! 私はあなたを同じプロトレーナーだって認めたくない」
ヘルガーに傷薬を吹き付け、治癒をしていたカリンが顔をしかめる。当然の反応だ。圧倒的な勝利を収めたのに、ここまで馬鹿にされて不愉快にならない者はいないだろう。ワタルも激怒した。
「イブキ、何を言ってるんだ!」
「だってお兄様……」
萎縮しつつもやはり負けを認めないイブキにうんざりしたカリンは、忌々しげに彼女を睨み付けているヘルガーを宥めながら立ち上がった。
「じゃあどうしたら私を認めてくれるわけ? あなたの負け惜しみ、一応聞いてあげる」
容易く挑発に乗ってくるとは思わず、意表を突かれたイブキは狼狽える。何をされても認める気などないが、その手段を問い詰められたからには答えが必要だ。平静を装いながらなんとか策を捻り、一族の子供がポケモントレーナーになる際のちょっとした試験を思い出した。
「そ、そうね……このジムの裏に“竜の穴”と呼ばれる洞窟があって、その一番奥に祠がある! そこに祭られている“竜の牙”を取ってくることができたら――あなたを一流だって認めてあげてもいいわ」
フスベのドラゴン使い一族は、この試験でドラゴンを所有するに相応しい勇敢な意思を持つのかを試され、トレーナー免許取得を認められるのである。洞窟内は薄暗く、渦巻いている水路もあるので自分や他の子供は非常に苦戦した。ここ数十年のうち、ほとんど無傷でクリアしたのはワタルくらいである。だからきっと、成人の女も難儀するはずだ。
「それでいいのね」
カリンはワタルの手から預けていたコートをひったくると、袖を通しながら身を翻し、出口へと向かっていく。防寒具はコートのみ、服装はニットとスカートという出で立ちで、その上足元はヒールの高いブーツである。どう見ても洞窟探検には向いていない。
「その格好で行くのは無茶だ。イブキ、いい加減に――」
ワタルはすかさず止めようとしたが、カリンがすぐに突っぱねた。
「私も結構負けず嫌いなの。行くわよ、ヘルガー」
その双眸は対抗心で燃えている。ヘルガーは躊躇していたが、原因の一端であるワタルを睨み、すぐに後を追った。
責任の矛先は何故か自分に向いている。ワタルは呆気にとられたが、そっぽを向いているイブキを忘れずに叱り飛ばした。
「イブキ!」
「だ、だって……お兄様があの女の方ばかり見てるから……」
自分に怯みながらも噛みつく姿は、幼い頃から何も変わっていない。少しでも他の女性に気のある素振りを見せれば、こうして茶々を入れてくる。これが無ければ努力家で愛嬌のある可愛い従妹だと思えるのだが――今はただ、苛立ちが募るのみだ。
「だからって勝利を侮辱するなんて間違ってる。すぐに連れ戻すから、彼女に謝れ!」
溜めた怒りを腹の底から放出し、ワタルはカイリューを引き連れて出口へと向かう。イブキにとって、ここまで怒り心頭の従兄を見るのは初めてで、そこで彼女はようやく自らの行為を恥じた。つまらない嫉妬の結果、彼を怒られてしまうなんて愚劣極まりない。吹き込む寒風に身体をびくりと震わせながら、彼女は胸の内を床へ吐き捨てた。
「……なんで分かってくれないの」
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フスベジム裏手にある“竜の穴”は、この地にドラゴン使い一族が名を成した頃から存在している洞窟である。中にはドラゴンポケモンが住み着いている大きな湖が存在し、彼らの特性が水流に影響して大きく渦を巻いていたり、波打っているポイントが多く存在する。人間が単体で踏み込むのは容易ではなく、必ずポケモンを伴わなければ落命する危険性があった。そのため洞窟の管理は自治体から地元ドラゴン使い一族へ一任されている。この時期は特に底冷えし、息も凍りつくような洞窟の中へ、カリンは無謀にも軽装で訪れていた。
「寒い……」
仄暗い洞窟の中を、彼女はヘルガーと共に歩んでいた。歩くたびに細めのヒールが踏み均されただけの地面にめり込み、不安定に揺れる。本来ならばこのような格好で来る場所ではないし、そもそも挑発に乗らなければいい話だった。イブキのような直情的な人間の扱いは手馴れているが、悪タイプで戦うポリシーを踏みにじられたことを黙っていられなかったのだ。
腹立たしげに進んでいると、ふいに足を踏み外し、身体の自由が利かなくなる。するとヘルガーが素早く寄り添い、彼女の転倒を防いだ。
「ありがとう、ヘルガー」
相棒の首筋に掴まりながら立ち上がろうとした時、ふとカリンは気付く。彼の漆黒の身体は平常より熱を帯び、カイロのように温かい。それは何より心強く、彼女は膝を上げるのをやめてヘルガーを抱きしめた。
「なんだか昔を思い出すわね。私が十五歳の……時期はちょうど今頃ね、家出した私の所にあなたが来てくれたのは」
薔薇の香りが相棒の鼻孔をくすぐり、少し古い記憶を蘇らせる。
それは八年前、クリスマス間近のコガネシティ。日付が変わった頃より、夜空からくすんだ色の粉雪が舞っていた。この日も私は悪臭漂う、殆ど何もない寂れた公園で夜を明かす予定だった。役目はもちろん主人の枕である。すっかり慣れてしまっていたから不愉快ではないのだが、個人的に添い寝するなら毎週主人の話し相手にやってくる“あの少女”の方が有り難い。彼女の膝の上はとても柔らかで温かく、絹のシーツで寝起きしていた生まれたばかりの頃を思い出してしまう。
あの頃はまさか我が主人と、いくつもの公園で何年も寝泊まりするような生活を送ることになるとは想像だにしなかった。ポケモンの自分にも裕福な飼い主であることは一目瞭然、何不自由ない暮らしだったのに――気付けばこのゴミ捨て場のような生活が長くなった。
しかし私はこの生活が少しも不満ではない。
主人は日に日にみすぼらしくなるが、それでも私の手入れだけは怠らなかったしたっぷりの愛情を注いでくれた。あの少女は私を気に入ってくれ、昼間ここに足しげく通ってくれる。何度も寝床を変えたって、それは同じだ。
私は幸せなポケモンだった。決して多くを望まずとも、十分なほど満たされていたと思う。
だがこの夜、異変が起きた。
――デルビル、カリンちゃんの元へ行け……。
突然主人の顔馴染と部下がやって来て、いくつか会話を交わした後、彼は私に逃げるように囁いた。勿論私は拒否し、主に寄り添おうとしたが、彼は私を掴んで茂みに放り投げ「逃げろ!」と絶叫した。理解できなかった。それは今でもよく分からない。不甲斐なさを感じ引き返そうとしたが、「来るなよ! 絶対来るな!」という必死な声を聞き、指示通りに彼女の元へ走った。
私はあれだけ尽くしてくれた主人を守れなかった。
街中に残る彼女の匂いを頼りに、無我夢中で捜索した。生ゴミや排気ガスの悪臭にまみれる鼻先からあの柔らかな香りを手繰り寄せ、ゴミを漁る薄汚いコラッタどもに身体を蹴られ、赤ら顔のトレーナーに捕獲されそうになりながらも――ようやくその場所にたどり着いた。彼女はシャッターの降りた店の前で、古びたコートを着たままうずくまっていた。
「おじさんの……!」
私の姿を見るなり、彼女は直ぐに顔を上げた。
「どうしたの?」
その問いから漏れる白い吐息が、彼女のほんのり赤く染まった顔を覆った。雪が降る今夜はひどく寒い。私は何と答えればよいのか分からず、黙って彼女の傍に寄り添った。
「もしかして、あなたも家出しちゃった?」
まあ、そんなところにしておこう。私は人間ほど利口ではないから、主に何が起きたのかは理解できない。しかしもう二度と彼には会えないであろう。
「そうかー……同じだね。私も家には帰りたくないし……さっき彼氏にも振られちゃった。もうすぐクリスマスなのに、一人で過ごすのはヤダな」
クリスマスって何だろう。それは一人で過ごすべきではないのだろうか? なんて考えていると、彼女は突然私の身体に抱きついた。心が解きほぐされるような、温かくて優しい香りがする。
「うー……あったかいなあ……」
彼女の声は次第に霞んでいき、澄んだ両目からぽろぽろと涙が零れ出す。彼女の泣き顔は初めてだったので、仰天した。いつも明るく、私を可愛がってくれる彼女がこんなに顔をくしゃくしゃにして泣き出すなんて。
「一人は……嫌だぁ……」
私は涙を止めたくて、ただひたすら彼女の目尻を舐め続けた。泣き出すとなかなか止まらないのはあの雫が塩辛くて、目を刺激するからだろう。それ以降、私は塩気の強い食べ物が苦手だ。しばらくして、彼女はようやく可憐な笑顔を見せてくれた。
「あ、ありがとう……おじさんのところに帰るのが嫌なら、今夜は私の所にいてくれないかな……寂しい」
もちろん私にも帰る場所がない――すぐに頷いた。彼女がまた微笑む。
「デルビルがいて良かった……本当に感謝してる」
その優しさが身に染みて、一夜だけの居場所にはなりたくなかった。
私たちは共に孤独である。
けれども彼女の方は人間で、ポケモンである私より多くの居場所が存在しているはずだ。いつか前主人のように捨てられるかもしれない――それが怖くて、必死になって相棒という現在の地位を築き上げた。幸いにも彼女は大変慈悲深く、もう縁を切られる心配はしていない。
大いなる恩恵を受けた私は、彼女に主人以上の感情を抱くようになった。想いが実る筈ないことは分かっている。だから代わりに一つのことを誓った。この命を賭して生涯彼女を守り抜く、と。昔こういうことを彼女に言った男が居て、軽くあしらわれたことがあった。
「大袈裟ね。私は男に守られなきゃいけないほど、弱くないわ」
あの男は口先だけだった。だが、私は違う。
ポケモンの私はそれくらいでしかあなたに寄り添うことしかできないから、この覚悟に偽りはない。それが主人にほんの少しだけでも届いてくれれば――なんて、多くを望み過ぎだろうか。
「カリン!」
洞窟内に勇ましい声が反響した。ヘルガーで暖を取っていたカリンがすぐに顔を上げると、リザードンを引き連れたワタルがやって来る。尾に燃え盛る炎が寒さを和らげ、周囲を明るく照らした。そこで彼女は洞窟が意外に広いことに気付く。手探りで進むとうっかり足を踏み外してしまう危険があったかもしれない。
「ごめん、従妹が君を侮辱して。謝らせるから、すぐにここを出よう。その恰好は危険すぎる」
ワタルは白い吐息を吐きながら控えめに頭を下げた。謙虚な姿はイブキに煽られたカリンの怒りを鎮め、対抗心を消失させる。
「……竜の牙であの子を黙らせたかったけど、寒いからリタイアするわ」
「これ、良かったら」
ワタルはさっと上着を脱ぎ、少しでも防寒の足しになればと彼女の前に差し出した。こういった心配りが、孤独に悩んでいたカリンを激しく揺さぶる。
「……優しいのね」
好意に甘えるように右手を伸ばしたが――リザードンの篝火にイブキの嫉妬心が重なり、即座にその手を引っ込めた。拒否され、目を見張るワタルは何も分かってはいない。唐突に本音を伝えるべきだと思い立った。
「あなたは優しすぎるのよ。誰にでも優しくするから、ああいう風に暴走する子が出てくるの」
白い溜め息を見て、彼はやっと気付いたようだった。数多の女に言い寄られているだろうに、信じられないくらい鈍感なのは、あまりに持て囃され過ぎて無の境地に入っているのかもしれない。
「わざわざ皆に良い顔しなくたって……十分素敵よ、もうこれ以上ないくらい。それとも、プレイボーイのつもり?」
「そんなことは……」
カリンが詰め寄ると、ワタルは狼狽しながら後退する。
一歩迫り、一歩引き――やがて彼の背中はすぐに冷たい洞窟の壁に阻まれた。連れ添っているポケモンたちは場の空気を読んで沈黙し、ワタルが息を呑む音さえ鮮明に紡がれる。
「天然の女タラシだわ、あなたって」
舐めるように彼を見上げると、その相好からチャンピオンの風格が取り払われ徐々に一人の男になっていくのが手に取るように分かる。カリンは屋敷の庭で会話した際に感じなかった手応えをはっきりと掴み、一気に畳み掛けようと試みた。
「だけど女心なんて、それなりに場数を踏めばポケモンの気持ちを読むより簡単よね。全く経験がないわけじゃないでしょう?」
「う……うん、まあ……」
成人している男だというのに、誤魔化す仕草がどこか可笑しい。
手を出した女の数を自慢していいくらいの立場にいるはずなのに、彼はデリカシーの塊だ。王手をかけるなら今しかない。
「それじゃ、あなたの目の前にいる女が何を考えているのか分かる?」
艶やかなネイルが塗られた人差し指で黒い起毛シャツの上をなぞると、引き締まった胸板が微動し、彼は平静を取り繕うような表情でほんの僅かに頷いた。
「た、多分……」
しかし余裕がないのは明らかだ。十分に息がかかる距離まで唇を迫らせ――荒立つ呼吸を確認して微笑んだ。
「教えて」
ワタルが何とか保ち続けていた一縷の理性が、甘い吐息と胸板に触れる柔らかな感触を引き金に、音を立てて千切れていく。リザードンとヘルガーは主人に気を遣っているのか、二匹とも黙りこくって景色と同化していた。
身体は彼女を求め、心も殆どそちらを向いている――もうだめだ、観念した方がいい。彼女はこの上なく魅力的な女性だし、自分も徐々に惹かれているのが分かっていた。ここでカリンを受け入れれば、苦悩はある程度軽減し人間的に満たされるかもしれない――両手が彼女へ向けて動き出す。
だが結果が結ばれたとして、そこから先はどうなるのだろう。彼女は一人の女性であるが同僚、四天王の一員である。関係を隠し通しても、彼女を想うイツキくんに知られると気まずくなる。シバは軽蔑するかもしれない。キョウさんくらいだろうか、気に留めないのは。しかし彼は「パパラッチだけには気を付けろよ」と言っていた。そう、チャンピオンと四天王が恋仲などスキャンダラスという他はない。
――今年だけで四天王さんたち、何度大きな不祥事を起こしているんだろうね……私の目にはカリンちゃんくらいしかマシな人間がいないように見える。
またも総監の忌々しい言葉が地の底から這い出てくる。
自分にはもう後がない。
苦労して功績を積み上げても、失うのは一瞬だ。それは昨年、グリーンが失態を冒した際に痛感した。降り注ぐ彼のグッズを振り払いながらスタジアムを駆け抜けた際に感じた絶望を、彼女にも味わわせるのか?
いや、隠し通せばいいだけじゃないか。
そうすれば彼女の想いにも応えられるし、溢れる欲望も消化することができる。理性と本能を天秤に掛け、長き葛藤の末にワタルはついに答えを導き出した。
「……君は」
カリンの肩に両手を置いて、まっすぐに彼女を見据える。
「オレのこと、一人の男として見てくれているはずだ」
すると彼女は白い歯を見せ、「正解」と上機嫌に答えた。生娘のような純粋な笑顔に、激しく揺さぶられる。
ほんの僅かな間、二人の呼吸が止まり――そして再び動き出した。
「だけど……ごめん、今はその想いには応えられない」
ワタルは両手にありったけの欲望を籠め、カリンごと引き離した。
予想外の答えとその力に彼女は思わずよろめいたが、すかさずヘルガーが支えに走る。いつもならここでポケモンに礼を言う彼女だが、あまりの衝撃にそれも忘れていた。まだ状況も整理できない。
「……どうして?」
手ごたえはあったはずなのに――赤いルージュを引いた唇が小刻みに震えた。火照りさえ感じていた身体が、急激に熱を失っていくのが分かる。
「本当にごめん……」
ワタルは苦しげに、彼女から視線を逸らしながら話を続けた。
「今本部で立場が危ういオレが君に手を出したなんて知られたら、いよいよ現リーグ体制の存続が難しくなるかもしれない。オレのせいで……君たち四天王の地位を揺るがせたくないんだ」
その理由はカリンにとって、呆れるほどに実直だ。これならいっそ、「タイプじゃない」と振ってくれた方が気が晴れる。彼女は意地になって抵抗した。
「大袈裟に考えすぎだわ。スキャンダルになるのが怖いの? 公にならなきゃいいだけじゃない!」
「でも何かあったら君が……」
狼狽えるワタルの表情を見て、彼女は徐々に苛立ちを覚える。こんな反応、見たくもなかった。フィールドで戦っている時のような猛々しい姿も、先ほどまでの穏やかな表情のかけらもない。保身に走らず、感情のままに受け入れてくれさえすれば良かったのに。本能のまま迫った自分が惨めだ。
「私じゃなくて、自分がこれ以上ダメージを負いたくないだけでしょ。気持ちは分かるけど」
きつい口調で告げると、彼は核心を突かれたのか、動揺の色を露わにしている。
「もう少し待ってくれないかな。今の状況が落ち着いたら――」
未練がましい様子から察するに、彼もその気があったのだろう。それでも手を出してこないのは、早くからチャンピオンという立場を手にした真面目過ぎる若者故か。一度でも負ければ夢が終わりリーグを追われてしまう、そんな中で彼は現実と向き合い、戦い続けている。カリンはその苦労を分かち合いたかったし、支えたいと願っていたのだが、優しすぎるワタルはそれすらも一人で抱え込んでしまうようだ。
こうなると、彼を踏み留まらせる四天王という立場が憎かった。
だが自分も仕事を捨てて彼の元へは走れない。徐にヘルガーへ視線を動かすと――貧困時代からの相棒は、主へ同情的な眼差しを向けた。もうやめよう。そんな意図が伝わり、そこで彼女は決断した。
「ごめんなさい。“キープ”って嫌いなの」
無表情を作り、入口へと踵を返す。苦悩に歪むワタルの顔は見ないように努めた。
「さようなら。明日から仕事仲間としてよろしくね」
もうこれでロマンスごっこはおしまい――大袈裟にコートを翻し、足を速めて彼の元を去ろうとしたとき、ヒールが地面に引っ掛かり身体のバランスが崩れた。「カリン!」すぐに駆け寄ろうとしたワタルを押しのけ、いち早く我が身を支えてくれたのはヘルガーだった。
「ありがと……」
生涯忠誠を誓った真紅の瞳が、彼女の心の傷を舐める。
「大丈夫か?」
おそるおそる首を伸ばそうとしたワタルを叱責するように、ヘルガーは嫌悪が籠った声で吠えて追い払った。主人の好意が無碍にされたことで、リザードンは応戦すべく前へ歩み出たが、すぐにワタルが制する。
「やめよう。オレが悪いんだ」
それでもリザードンは不服であったが、苦しそうに微笑む主人を見ると状況を悪化させてしまうだけだと考え、憤りの炎は体内に溜め込んでおくことにした。
カリンは一度もワタルを振り返らずに、相棒と共に洞窟を後にする。明日からはまた仕事、セキエイで彼と顔を合わせるのは億劫だが立場上仕方がない。憂鬱になりながらようやく月の光を浴びると、穴の出口で野暮ったい格好をしたイブキが唖然とした表情で出迎える。一人で戻ってきたカリンに驚いているようだ。
「私の負けよ。寒くてもう無理」
呆れながら通り過ぎようとすると、すかさずイブキがその腕を掴んだ。
「お兄様は!?」
カリンは白い溜息を吐きながら、洞窟の先を指す。
「リザードンで焚火してるわよ」
「はあ!? なんで置いてきたの!」
たちまちイブキは怒りを噴出させるが、そんな単純な反応がカリンには羨ましく思えた。もう自分はこんな風に素直にはなれない。やはり彼に相応しくない女だと実感する。
「一緒に暖まってくれば? 私のことは気にしないで」
覇気が抜け、対抗心もないカリンを見て、さすがにイブキも首をひねった。
「い、一体何があったの……?」
「さぁね」
そのまま場を去ろうとした時――彼女はふと思い立って、イブキを振り返った。上品な薔薇の香りが辺りに漂う。
「ああ、そうだ彼を狙ってるあなたにアドバイスしておくわ。本気になるなら、プロを辞めることよ。その覚悟があるのなら、恋は実るかもね」
キャメルのウールコートをひらりと揺らし、彼女はヘルガーを引き連れて駐車場を目指した。竜の穴へと駆け込むイブキの足音から遠ざかり、思いを吹っ切ろうと早足になる。この時期、夜のフスベは身体の芯まで凍りつかせるような寒さで、一層の虚脱感に支配された。ふと視線を感じて隣に目をやると、ヘルガーが心配そうに見つめている。
「平気よ、すぐに持ち直すから」
そう言って撫でた彼の頭は熱を帯び、とても温かい。デルビルがやってきた冬の夜をまた思い出した。あの時も恋人に振られたばかりだった。それからずっと彼は傍にいてくれるが、蘇った孤独感が彼女の表情に影を落とす。
――でもやっぱり、私は寂しい。
(最近気苦労が増えていたから、彼女の好意は本当に嬉しかった……カリンはポケモンへの愛情が人一倍厚いし、そういうところに惹かれていた自分もいたから)
ワタルは洞窟の壁にもたれかかりながら、ぼんやりとリザードンの炎を眺めていた。冷え切った両足は鉛に変わり、出口へさえ向けられない。虚脱感が支配し、先ほどの愚行を悔いた。心惹かれる女性が支えてくれると言っていたのに、自分はそれを拒否したのだ。スキャンダルを恐れ、これ以上の迷惑を掛けられないから、と言う理由で断ったのはいくらか冷静になった今考え直すと、身勝手にもほどがある。
「プロならスキャンダル覚悟で交際すべきだよな……これじゃいつまでたっても独り身だ」
ワタルは暑すぎない距離を取り、主人に向けて燃え盛る尾を向けるリザードンに話しかけた。彼は迷いなく相槌を打つ。
「キョウさんが言ってた通りバランスが大事なのは分かってるんだが、彼女は紅一点だしセキエイの人間関係が崩れそうで……去年の改組で苦労したから、あまり和を乱したくないんだ」
各々適度な距離感を保っている職場が気に入っていることも踏ん切りが付けられなかった理由の一つだ。
ベンチやロッカールームでは穏やかであるが、フィールドで向かい合えば途端に馴れ合いを許さない真剣勝負を繰り広げる。そんなメリハリある居場所が心地よかった。
情が移ることを懸念し、他のトレーナーが所有するポケモンとの交流を控えているリザードンは理解できずに首を傾げる。そんなことは気にせず、あの女を物にすれば良かったのに。育ちがいい主人はお上品すぎる。
「愚痴っぽいな。振られたんだ、諦めよう……」
これ以上考えても結果は変わらない。ワタルは冷たい壁から身体を離そうとしたが――出口の方から足音がして、反射的に顔をそちらに向けた。一縷の望みを抱いたが、やって来たのは従妹だ。
「イブキか……」
カリンだと期待した自分が情けない。途端に膝が崩れ、その場に腰を下ろした。
「あの人じゃなくて残念でした」
見間違えたのはイブキもお見通しだったらしい。白い歯を見せ、意地悪な笑みを浮かべる。
「ふふ、こんなカッコ悪いお兄様始めて見ました。振られちゃったんでしょ」
「……周りに言わないでくれよ」
ワタルは霞んだ溜め息を吐きながら垂れた前髪をかき上げる。口止めは彼女が気に入っている地元ドーナツ屋のチョコフレーバー全種類だ。