第3話:キャットファイト
フスベジムは代々地元ドラゴン使い一族がリーダーを継承してきた由緒あるジムである。ドラゴンが飛翔しても閉塞感を抱かないよう天井は非常に高く、他のジムより広々とした神殿風の造りが竜の如き神聖な雰囲気を醸し出していた。このジムに初めて訪れたカリンはその重厚感に尻込みし、コートを纏っても身体を刺すような寒さも相まって身体を震わせたが、ここを守るジムリーダーが緊張を一掃する。
「早く来なさいよっ!」
子供っぽい声が閑散としたジム内に反響し、カリンは思わず頬を緩めた。
「はぁい、ジムリーダー様」
「余裕かましていられるのも今のうちよ。大体あなた、そんなハイヒールでTA(テクニカルエリア)走れるの?」
暗がりのジム内に照明が灯り、リーダー側のテクニカルエリアに着いたイブキが顔をしかめた。挑戦者側のエリアにヘルガーと並んでいるカリンの足元はヒール十五センチのロングブーツである。一般的には動きづらいことこの上ないが、彼女はセキエイリーグでも毎度ピンヒールで立ち回っている。
「あら、残念。私の試合観たことないのね。利便性を優先し、お洒落を犠牲にするトレーナーにはなりたくないの」
「試合はお兄様のしか見ない。大体、四天王はプロ意識が低すぎるのよね。尊敬に値しない」
イブキは腕組みしながら、得意げに胸を反らした。自宅のハードディスクレコーダーはワタルの試合及び彼がゲスト出演した番組で埋め尽くされている。尊敬を通り越した憧れの本心は、カリンにはお見通しだ。
「あなた、ワタルの事が好きなの?」
するとたちまちイブキは身体を真っ赤に染めながら数歩後ずさる。
「なっ……ち、ちが……! そ、そそそういう訳じゃ――お、お兄様はた、ただの憧れのた、対象で……」
あまりに明確な反応に、カリンはヘルガーと顔を見合わせながら「分かりやすいわね」と肩をすくめる。しかし自身のプライドに傷をつけたことは見逃せず、呆れるようにイブキを睨み付けた。
「だけど他人を頭ごなしに否定しようとする女は外見以前の問題よ。二十歳過ぎなんだし、いい加減大人になれば?」
「う、うるさい! さっきから何なのよ! 年も少ししか違わないのに上から目線で――」
憤慨するイブキの頬が更に火照ったが、控えめな靴音を耳にした途端、その炎も沈下する。
「君たち、あまり暴れないでくれよ」
メルトン地のブルゾンジャケットを羽織り、底冷えするジムに身体を縮こまらせながらようやくワタルがやって来た。彼は久々に訪れたジムを見渡しながら、白い息を吐いて尋ねる。
「ここ寒いな。暖房を入れたらどうだ? 女性が身体を冷やすのは良くない」
「こ、これも修行のうちです!」
イブキは頬を染めながら突っぱねたが、彼女がシバ並みにストイックであることを従兄であるワタルはよく理解していた。眉をひそめつつ、カリンを気遣えとばかりに視線を彼女へ向ける。
「ヘルガーを抱いたままじゃ戦えないのよね。リザードンが傍にいてくれたら嬉しいわ」
肩をすくめて呆れるカリンに同意するように、ワタルも上着のポケットからリザードンのモンスターボールを取り出した。
「そうしよう。オレもあまり着てこなかったから、ここはちょっと寒……」
開閉スイッチに指を掛けようとした途端、室内の暖房設備が一斉に稼働した。生暖かな風が頬を撫で、ワタルとカリンが目を見張りながらジムリーダーを向くと、彼女はすこぶる機嫌悪そうに暖房のスイッチを入れたことをアピールする。
「暖房、入れました!」
「ありがとう」
ワタルが軽く礼をすると、イブキは嬉しそうに口元を綻ばせた。露骨なアピールだが幼少期からまとわりつく従妹に対し、彼は親戚以上の感情を抱いていない。出番を失ってふて腐れているリザードンをフォローしつつ、フィールド傍の段差に腰を下ろそうとすると、連れてきたカイリューがどこからかオフィスチェアを持ってくる。まだ冷たい床に主人を座らせたくないのだ。
「わざわざありがとう……でも、これどこから持ってきたんだい?」
素直に腰を下ろせず戸惑っていると、テクニカルエリアからイブキの「どうぞ、気にせずお使いください!」という弾んだ声が飛んでくる。キャスターが動かないよう、背もたれを押さえる相棒に礼を言いながらようやく着席すると、膝の上に薔薇の香りがするウールコートが被せられた。すぐに顔を上げるなり、悪戯っぽく微笑むカリンと目が合う。
「ふふ、審判席の出来上がりね。ジャッジとコート、よろしく」
そう告げる彼女の笑顔は魅力的だ。先ほど手を引くべきだと決意したばかりなのに――
「分かったよ……」
仕方ないとばかりに苦笑したが、内心は嬉しかった。やはり自分は彼女に惹かれているのだと実感し、再び悩ましくなったがイブキの金切り声がそれを打ち破った。
「ちょっと! あなた、お兄様に気安く頼みすぎでしょ! いい加減にしなさいよ」
カリンが心底うんざりしながら溜め息をつき、持ち場へと戻っていく。後ろ髪を引かれながらも、ワタルは渋々怒り狂う従妹を諭すことにした。
「オレは構わないよ。イブキの試合を見るのは久々だな。どれほど上達しているのか楽しみだ」
「は、はいっ! 見ててくださいね」
イブキの表情がぱっと華やぎ、彼女は嬉々として支度を急いだ。
――そこでうやむやにするから、勘違いさせちゃうのよ。
一方で、カリンは苛立ちを感じていた。身勝手な従妹を面倒だと思うのならばはっきりと釘を刺して欲しいところだが、諦めた末の対応かもしれない。だが彼は基本的に誰にでも親切で、そうやって人の心を掴む。先ほどから自分のアピールになびいている様子は見せているが、こちらが気を揉んでいることを何故知ってくれないのか。もしくはイブキが本命なのか? 不満げな姿を、ヘルガーだけが気に掛ける。
「三対三にしましょう、行くわよ! さあお兄様、号令をお願いします」
イブキはベルトに装着していたモンスターボールから一つ選び、腕を振りかぶる。その様子を気にかけつつ、ワタルが右手を上げながらカリンに視線を向けた。彼女はヘルガーを一旦ボールへ戻すと、ミニショルダーから装飾の施された別のボールを取り出す。無表情だが、その瞳には静かな闘志の炎が揺らめいていた。
「プレイボール!」
ワタルが右手を振り下ろすと同時に、フィールドへ二つのボールが投げ入れられた。フィールド北側、フスベジムリーダー・イブキが繰り出したのはボーマンダ。対する南側、四天王のカリンが召喚したのは艶やかな毛並みが美しいアブソルだった。身長はさほど変わりないが、体格は圧倒的にドラゴンが勝っている。しかし、毛並みを逆立て竜に立ち向かうアブソルの勇敢な佇まいはボーマンダを怖気づかせた。
「へえ……」
思わず感心するワタルに、イブキは焦りを感じて金切声を上げた。
「ボーマンダ、何ビビってるの! あなたは我が一族が所有する中でも、特に剛勇なドラゴンじゃない! さあ見せてやりましょう、まずは“竜の舞い”!」
ボーマンダは深紅の両翼を広げ、自身を鼓舞するように雄たけびを上げる。ジム内を震わせる唸り声は彼の緊張を払いのけ、解放感に満たされたドラゴンは大胆に宙返りしながらその風格を見せつけた。
「……あら、素敵ね」
カリンは僅かに口元を緩ませ、そのままアブソルに視線を送る。彼はすぐに求められている技を理解し、角を振って返答すると、ボーマンダ目掛けて疾駆した。
「ドラゴンに正面から挑むなんて、いい度胸ね! ボーマンダ、薙ぎ払いなさい!」
度胸がついたボーマンダが屈強な長い首を振るい、アブソルを薙ぎ払った。わざわいポケモンは直ぐに受け身を取って軽やかに攻撃を受け流し、後退する。まるで技を予期していたかのような身のこなしを見て、ワタルは彼女が出したアイコンタクトの意図を理解し、舌を巻く。
「アブソル、サイコカッター」
ボーマンダの死角へ回り込んだアブソルが、間髪を容れずに念の刃を放った。すかさずイブキが応戦する。「ボーマンダ、ドラゴンクロー!」
ボーマンダはとっさに腕を振り上げようとしたが、違和感を覚えて動揺した。身体に力が入らない――僅かな隙を見せたのが命取り、その首筋に鋭い痛みが走り、ボーマンダは横転する。
「ボーマンダ!」
イブキはテクニカルエリア内のドラゴンにほど近い距離へと走る。不可視の太刀による傷は深いが、ボーマンダはすぐに首を持ち上げ主人に無事であることをアピールした。
「ふふ、結構簡単に決まっちゃった」
得意げに微笑むカリンを見て、ようやくイブキは何を仕掛けられたのかを悟った。すぐ後ろで観戦していたワタルが息を吐く。
「“横取り”を食らってしまったようだな。四天王に“舞い”は命取りだよ」
先ほどのアイコンタクトからの一連の動作は、“横取り”の技だったのだ。
相手のポケモンが引き上げた能力を利用することは、シバ以外の四天王の常套手段である。彼らの対戦動画を研究していれば対策できたことだが、ワタル以外の試合を見ていないイブキは容易く引っかかってしまった。
「い、いいハンデよっ! ボーマンダ、気にすることないわっ」
彼女は唖然としながらも、再び気持ちを試合に切り替えた。テクニカルエリアから腕を伸ばし、体制を立て直したボーマンダに檄を飛ばして攻撃を指示する。熱くなりやすいイブキの性格にうんざりしていたカリンは、相手が攻めてくることを読み、指を鳴らしてサインを送る。アブソルはボーマンダの振り向きざま、不意を打って太刀傷めがけ鉤爪をお見舞いした。ドラゴンはもんどり打って再び崩れ落ち、イブキの身体から血の気がさっと引いていく。
神聖なドラゴンが、こんな小柄なポケモンに手玉に取られるなんて――「やるなぁ」とワタルがカイリューと微笑んでいる声がじりじりと彼女を逸らせる。少しでも成長を見せなければ、いつまでたっても子供扱いされるままだ。
「ど、どんなトレーナーでも全力でぶつかるけど、姑息な戦いは好きじゃないわ! ボーマンダ!」
イブキにシンクロするように、ボーマンダは起き上りつつ身体の奥底から地響きのような唸り声を絞り出す。身の毛もよだつ声はアブソルを震撼させ、彼はテクニカルエリアで耳を押さえている主人の足元へ絡みついた。
「あら……怖いの?」
アブソルは恐怖を恥じるようにかぶりを振るが、その身体は小刻みに震えていた。ポケモンの遠吠えには闘争本能を減退される作用があるとされている。主人の名誉にかけてアブソルは戦闘を続けたかったが、それでも身体は安息を得られるモンスターボールを求めている。その葛藤を見たカリンは、柔和な笑顔を浮かべながらアブソルを抱擁した。
「それじゃあ、戻りましょうね。お疲れ様」
アブソルは歯がゆさを露わにしながらボールへと帰還する。面倒なポケモンが退き、イブキが胸を撫で下ろした刹那――ジムが大きく揺れ、傍にいたボーマンダが遥か後方へ吹っ飛ばされた。状況は直ぐに飲み込めた。砂嵐を纏いながら目の前にそびえる緑がかった強靭な肉体はさながら巨大な鎧、バンギラスだ。召喚直後のメガトンパンチは見事ボーマンダにクリーンヒットし、誇らしげなバンギラスの後ろでカリンが不敵な笑みを溢す。
「真正面からのぶつかり合いもできるのよ?」
呆然と立ち尽くすイブキを動かすように、ワタルが右手を上げた。
「ボーマンダ、戦闘不能」
その結果を聞き、彼女は呆然自失のまま気絶したボーマンダの回収に歩む。試合をスムーズに運ばせるためワタルは急かしたくなったが、従妹のショックは想像以上に大きかったらしく、彼はカリンと顔を見合わせ困惑する。
「バンギラスか……なかなかセキエイではお目にかかれないポケモンだな」
「アガリ症なのよね、この子は」
カリンはつま先立ちし、バンギラスを撫でながら勝利を褒めた。彼は一般的なバンギラスの身長より一回りほど大きいが、中身はヨーギラスのままらしく、主人に甘える様に満面の笑みを浮かべている。気性が荒い種が多いバンギラスらしくない無垢な一面に、ワタルは目を丸くした。
「ほらほら、だらしない顔しないの。ヘルガーに怒られちゃうわよ?」
主人が見せつける様にヘルガーのボールをかざすと、バンギラスは途端に表情を引き締めフィールドに向き直る。どうやらヘルガーは幼稚な彼の御目付役のようだ。迫力のある見た目ながら比較的小柄なリーダーポケモンに頭上がらない、そんなやりとりにワタルは思わず頬を緩ませる。
しかし場が和んだのも束の間、テクニカルエリアの端からイブキがフィールドへ速球を投げ込んだ。
「行けっ、ギャラドォース!!」
建物内に絶叫を響かせ、弩級のドラゴンが降臨する。万人を圧倒する神秘的な佇まいだが、既に手持ちに加えているワタルやその練習相手をしているカリンは全く物怖じせず、バンギラスのみがその迫力に慄いていた。
「ふん、バンギラスのくせに肝っ玉が小さいのね。ギャラドス、ハイドロポンプ!」
立ち尽くすバンギラスに激流が襲い掛かり、南側エリアに飛沫が舞う。カリンはそれを軽やかに避けながら、嫌いな水を被ってしまい、必死に顔を拭っているバンギラスの背後に回り込んだ。
「大丈夫、大した攻撃じゃないわ。もっと自信を持ちなさい、あなたは強いんだから――もっと“威張り”散らしちゃっていいのよ」
母性を感じる柔和な微笑みに、バンギラスは素直に頷いて立ち上がると、胸を張って何故か美貌の主人をアピールした。我が主は四天王、そしてお前の主人より遥かに美人であると言わんばかり。コミカルな仕草にワタルとカイリューは思わず吹き出したが、イブキとギャラドスは憤慨した。特に主人を卑下されたことで凶悪ポケモンは怒り狂っている。
「ギャラドス、そんな挑発に乗らなくていい! 私は一切気にしてないからクールダウンしなさい! 落ち着きなさーい!」
イブキが苛立ちながらもポケモンを諭すと、ギャラドスはすぐに我に返った。彼女の言動は荒っぽいが、ワタル同様、ポケモンの混乱を解くのが上手い。カリンは不満げに唇を尖らせた。
「あなたもメンタルケアが上手いのね。ポケモンが取り乱しても直ぐに元通り。それじゃあ……“かみくだく”」
主人が片目を瞑り、バンギラスに合図を送る。サインを理解した彼は苦手な水たまりを避けながらギャラドスへ接近、身体をしならせ迎え撃とうとした相手の尾を掴み、それをエラめがけて勢いよく突っ込んだ。深手を負い、ギャラドスはくぐもった悲鳴を上げながら横転する。
「な……噛み付かずにエラを攻撃するなんて……そ、それイ、イ、“イカサマ”じゃないかあっ……!」
口頭と異なる技の指示に、イブキは愕然とした。ルール上は問題ないが、地域柄正統派の試合を好むフスベ民はこのような姑息な指示を殆ど行わない。正攻法が通用せず、彼女は頭の裏をくすぐられるようなもどかしさを覚えた。
「別に悪いことじゃないでしょ? 不満があるなら、私に勝ってからどうぞ。だけど、そのギャラドスで大丈夫?」
悪びれなく告げるカリンの指摘通り、ギャラドスはイカサマ一撃で既によろめいている。その姿はイブキを焦燥に駆り立て、ここは交代させ切り札を出すべきだという結論に至らせた。
「一旦退け!」
イブキはボールを構え、深手を負ったギャラドスを帰還させようとしたが――それより先に、相手が動いた。
「バンギラス、仕留めなさい」
バンギラスがギャラドスに“追い打ち”をかけ、その鋭利な鉤爪で再びエラを切り裂いた。精神は幼くとも四天王が育成しただけあり、その力は並の同種を超えている。爪のたった一振りとはいえ、相手を気絶させるには十分な威力であった。
「ギャラドス、戦闘不能」
ワタルは冷静に判定を告げながらも、内心はカリンに大変感心していた。先ほどの“追い打ち”は、イブキの交代を煽った上で仕掛けた技だろう。彼女はこのように、ポケモンやトレーナーをコントロールして自分のペースに持っていくことに長けている。
そして、いつの間にか自分も彼女の動向に釘付けだ。
「リーチ」
絶句するイブキを嘲笑い、カリンは王手をかけるポケモンのボールを手にした。
「アブソル、借りを返しましょう」
迷いなく選んだのは先ほどボーマンダに吼えられ、悔しさを滲ませているアブソルである。ここで挽回したいところだが、対するイブキが繰り出したのはとっておきの相棒だった。
「行くわよ、キングドラ! これからが本当の勝負よ!」
天井照明に雅やかな外貌が照らされる。思わず溜め息を漏らしてしまう、神秘的なドラゴン・キングドラがフィールドに降り立った。彼女はタッツーの時にイブキが初めて捕獲したポケモンで、これまでの成長を傍で見ていたワタルはその完成度に感嘆を溢した。
「さあキングドラ! 渾身のハイドロポンプをお見舞いしてやりなさい!」
間髪を容れず、キングドラが激流を発射した。そのスピードはギャラドスの比ではない。「アブソル、何とか避けて……!」と、カリンは叫んだが間に合わず、アブソルは心から無念そうに舌打ちすると、そのまま南側フィールド後方の壁に打ち付けられ、意識を失ってしまう。この様子に、キングドラ
は何故か動揺の色を示した。
「アブソル、戦闘不能……」
ワタルは思わず腰を浮かせてアブソルを心配したが、突き刺すような従妹の視線を感じて席に着いた。
「良く頑張ったわね。お疲れ様」
カリンはアブソルをボールに戻すと、ミニショルダーの中で揺れ動いているヘルガーと視線を絡ませる。相性の悪さは明確だが、それでも彼は戦闘に出たがっている。四天王の右腕として、その実力をイブキに示したいのだろう。
「行ってみる?」
ヘルガーは真っ直ぐに頷いた。
「そうね、私たちならジムリーダーの相棒にだって負けない。行きなさい、ヘルガー!」
一際輝くデコレーションを施したボールを投げると、水浸しのフィールドにヘルガーが颯爽と現れた。鋭い双眸でキングドラを一睨みすると、百戦錬磨のドラゴンさえも震え上がる。アブソルをやられた“恨み”を湛えた禍々しい視線だ。
「平気よ、キングドラ! ヘルガーなんてハイドロポンプで一撃だわ! 行け――」
イブキは相棒へ檄を飛ばしたが、キングドラは泣き出しそうな面持ちでかぶりを振る。イブキが唖然としていると、事態に気付いたワタルが膝を打った。
「なるほど、さっきアブソルに“イチャモン”付けられた? その上“恨み”も買ってしまったようだし……」
アブソルはやられる前に放った舌打ちに悪意を込め、キングドラの精神を揺さぶっていたのだ。
「当たり、もうハイドロポンプは使わせないわよ。ヘルガー、“辻斬り”!」
ヘルガーはキングドラに飛びかかり、すかさずその腹を斬りつける。相手がよろめいた隙を見て懐に潜り込み、その筒状の吻に灼熱の“熱風”を吹きかけた。掻き毟りたくなる痛みがキングドラを反り返らせる。彼女が炎を食らってここまで苦痛している姿を目の当たりにするのは初めてで、イブキは震撼した。
「ふふ……ヘルガーの炎は毒素を持っているから、火傷すると冷やしてもひどく疼くのよね。そこから水や光線を発射すると、すごーく痛いかも。いくらドラゴン使いさんのポケモンでも耐えられるかしら?」
キングドラの光線や大半の水技は吻から発射されるため、ここを突かれたことは痛手である。同じくキングドラを手持ちに加えているワタルは来季のマスターシリーズにて注意を払おうと心得た。
「ふん、キングドラの得意技は水だけじゃないのよ!――逆鱗!」
イブキは激痛で困惑しているキングドラの精神状態をそのまま武器にすることにした。するとキングドラはたちまち唸りを上げ、ヘルガーに飛びかかって渾身の体当たりを食らわせる。ダークポケモンは主人の足元へ軽々と跳ね飛ばされた。
「ヘルガー」
主人に名を呼ばれ、ヘルガーは濡れたフィールドに身体を滑らせながら、軽やかに体勢を立て直す。すぐに第二打を放とうとするキングドラが飛びかかってきた。痺れるような痛みが腹に残っているが、隙を作って再び攻撃をくらう訳にはいかない。
「しっぺ返し!」
カリンの声に弾かれるように、ヘルガーは身を翻してキングドラの攻撃を回避。フィールドを滑りながらその背後に回り込み、前足を振りかざしてキングドラを斬り付けた。急所を突いたのか、相手は激痛に顔を歪ませながら悲鳴を上げ、フィールドに崩れ落ちる。意識を失った様子を見るなり、ワタルは腰を浮かせながら右手を上げた。
「キングドラ、戦闘不能」
切り札の相棒が倒れ、イブキは二の句が継げず、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。眼前のフィールドには、水浸しのフィールドに倒れるキングドラと、主人と勝利の喜びを分かち合うヘルガーがいる。相手が四天王とはいえ、まさかここまで圧倒されるとは予想だにしていなかった。ワタルの背中を追いかけて日々修行に励み、ジョウトリーダーの中では随一の実力を誇っているはずなのに――ジムリーダーと四天王ではこれほどまでに差があるのか?
(……そ、そんなことはない)
セキエイの四天王と言えば、あの浮ついた女を始め無断欠勤が問題になる少年、自分より格下のはずなのにジムリーダーから出世した中年、ロケット団に遭遇しても対処できない男と、実力を疑う者ばかりのはずである――と、イブキは思い込んでいた。
「素晴らしい戦いだったよ。参考になった」
「ふふ、ありがと。来季、どんな対策してくるのか楽しみ」
憧れのチャンピオンはまず、カリンを称賛した。まるで自分の事のように彼女の勝利を祝福する。イブキは悔しくて仕方がなかった。震える手でボールを握りしめ、キングドラを帰還させるとようやく彼がこちらを振り向いてくれる。
「イブキの方も、今回は残念だったけどなかなか成長しているな」
その表情はごく普段通りの“従兄”の顔だ。
カリンとは違う。
だから余計に、虚しい怒りが押し寄せてくる。
「私は認めないわ」
ワタルとカリンが目を丸くする。負け犬の遠吠えかもしれないが、それでもお構いなしにイブキは捲し立てた。
「こんなせこいバトルする女が四天王だなんてお兄様が可哀そう! 私はこの勝負も、あなたが一端のプロトレーナーだってことも認めないんだから!」