第2話:憧れのドラゴン
その夜遅くに帰宅したワタルは、食事も摂らずにモノズの孵化環境を整えることにした。場所は人目の届かない小さな裏庭、自宅でタマゴを産ませる時はいつもこの場所を使っている。ドラゴンの産卵は身体への負担が小さくないので滅多に行っていなかったが、今はオフシーズン中なのでその心配もない。
ワタルはモンスターボールからサザンドラと、手持ちの中でもカイリューに次いで優秀なメスであるチルタリスを召喚した。この組み合わせであれば通常チルットが産まれるとされているが、ドラゴン使い一族に伝わる“竜の牙”から作った秘薬を飲ませればオス側の種族を宿せる可能性が高くなり、メスの手持ちが少ないワタルはこれを使うことがままあった。
「タマゴを作るのって久しぶりだな。良いモノズが生まれるといいね」
謙虚で真面目なサザンドラは素直に頷くが、チルタリスは違っていた。嫌悪感を露わにしながらワタルの背後に回り込み、シャツの裾にしがみ付く。
「えっ、嫌なのかい?」
チルタリスは勢いよく頷いた。思えば彼女は産卵を経験したことがない。不安なのだろうと考えたワタルはしゃがみこんで目線を合わせ、やんわりと言い聞かせた。
「大丈夫、君とサザンドラならきっと素晴らしいモノズが生まれるよ」
実直で澄みきった主人の笑顔は月光の下、惚れ惚れするほど端整だ。チルタリスの表情はますます悲痛に歪み、とうとう耐え切れなくなって屋敷の中へ逃げ出した。ワタルがサザンドラと共に後を追うと、彼女は主の寝室のベッドで毛布に包まったまま震えている。これほど拒絶されては手の出しようがない。
「困ったな。じゃあカイリュー……」
彼はすがる様に相棒のカイリューをボールから出そうとするが、彼女もチルタリス同様身体を丸めて拒否の態度を露わにしていた。従順な相棒が自分に背くのはこれが初めてである。二匹とも、よほどサザンドラが気に入らないのだろうか――ワタルはこれ以上無理強いするのは辞めた。
「そもそもメスのポケモン、あまり持ってないんだよな……明日イブキから借りて来るか。ごめんな、サザンドラ」
呆然としていたサザンドラは主人に会釈すると、裏庭に戻ってふて寝することにした。しばらくして、様子を見に来たオスのリザードンが慰めるように寄り添ってくれる。彼らはメスのドラゴンにアプローチしても拒まれるであろうことは薄々理解していた。自分たちの主人はとても魅力的で、束になっても敵わない。
それから一週間後、イブキが提供したメスのサザンドラとの間にモノズが生まれた。
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タマゴが孵ったことをカリンにメールで知らせた日の昼過ぎ、小間使いが中庭でモノズの沐浴をさせていたワタルを呼んだ。どうやら来客らしい。アポイントメントの記憶がないので首を傾げていたが、その名を聞いてすぐに玄関へ飛んで行った。
「来ちゃった」
ヘルガーを脇に従えたカリンが、大きなサングラス越しに片目を瞑って見せる。
上品なキャメルのウールコートにクラシカルなベルベット帽姿の彼女はさながら往年のシネマ女優、老いた小間使いたちはワタルの背中越しに羨望の溜め息を漏らし、二人の関係を疑った。ワタルはすっかり参りながら、アップにしていた前髪を後ろへなぞる。
「明日セキエイで渡すってメールしたよね?」
「だって前々からとても楽しみにしていたんだもの。フライングしたっていいじゃない」
その幼い娘のような言動で、コケティッシュな容貌が僅かに崩れた。彼女は近寄りがたい程美しいのに、時々垣間見せる初々しい表情が親近感を抱かせる。困惑するワタルにトドメを刺すように、外を確認していた小間使いが指で丸を作り、パパラッチがいないことを合図する。ワタルの本能は直ぐに作用した。
「……上がって」
すぐに小間使いの老女がカリンの帽子と上着を預かりに駆けつける。コートを脱ぐなり、理性を奪うような薔薇の香りが玄関先に広がった。その上追い打ちをかけたのは、カリンの今日の私服である。ダークブルーのタートルネックニットにツイードのタイトスカート、艶やかな黒のストッキングという、彼女のメリハリあるセクシーな体型を強調する格好だ。一瞬心を奪われそうになったワタルは、この場に小間使いがいたことを感謝した。老女はすっかり夢中になっているが。
「とても広いお家ね。フスベで一番大きいんじゃない」
カリンはサングラスをバッグに仕舞うと、高い造りの天井を見渡しながら感心した。
「どうだろう。でも有り難いことに、ドラゴンを飼うにはちょうどいいよ」
謙遜気味に答えて居間を通り、中庭へ案内する。縁側に置かれた琺瑯のタライの中でぷかぷかと浮かんでいる小さなドラゴンが目に留まるなり、カリンは直ぐに傍へ駆け寄った。
「可愛い!」
今朝生まれたばかりのモノズは身長もまだ五十センチ程度、さながら人間の新生児である。カリンが近付いた途端、警戒した粗暴ポケモンは噛みつこうと牙を剥いたが、ヘルガーに阻まれ失敗に終わった。目は見えなくとも相手が強敵であるという雰囲気を察知し、恐怖を覚えた赤子はピーピーと愚図り始める。
「ごめんなさいね。ヘルガーは怖くないわよ」
カリンはリブニットの袖をまくりあげ、温水からモノズを抱き上げる。濡れることも気にせずに鼻歌を口ずさみながらあやしていると、次第にモノズは彼女に母性を感じて腕の中で眠りについた。ワタルは心底感心する。
「上手いな」
「当たり前でしょう、プロだもの」
自信たっぷりに微笑む彼女だったが、途端に庭へ北風が通り抜け、その身体を震わせる。真冬のフスベシティは特に寒さ厳しい。ワタルは庭先で寝ていたリザードンを呼び起こした。
「リザードン、カリンの傍にいてあげてくれ。何か羽織る物持ってこようか」
「お気遣いありがと。リザードンとヘルガーがいれば平気よ」
カリンはモノズを抱いたまま縁側に腰を下ろす。その膝の上にヘルガーが頭を乗せ、緊張気味に近寄ってきたリザードンが炎の灯る尾を差し出して彼女を温めた。これだけで縁側はストーブを必要としない暖かさになる。彼女は満足げに微笑むと、バッグの中からスワロフスキーのICマーカーを取り出してモノズの頭に装着した。
「これで私もドラゴン使いね」
彼女がこれほど無邪気に喜ぶ姿はあまり見たことがなく、ワタルの心の隅をつついた。小間使いが持ってきたティーセットを預かり、傍に置きながら彼女の隣に腰を下ろす。
温めたティーカップに紅茶を注ぐ――二人の間に流れる穏やかな緊張を解す、アールグレイの香り。ワタルはモノズを抱きながらゆったりと庭を眺めているカリンに尋ねた。
「砂糖とミルクは?」
「結構」
ルージュを引いた官能的な唇がゆっくりと動いた。そのまま淹れたてのアールグレイをヘルガーの鼻先に置くと、彼女は礼を言いながらすぐに口へ運んだ。まだ身体を温めきっていないのだろう。一口含んでカップを置くと、白磁の上にほんの少しだけ赤い口紅が付着しているのが目に留まる。彼女は左手でモノズを抱いたまま、右手の指でそれを拭って絹のハンカチで汚れを拭き取った。
そこでワタルはようやくこの一連の動作に釘付けになっていることに気付き、慌てて紅茶を飲んで誤魔化した。
「な、何かあればいつでも相談に乗るから」
「チャンピオン様に助言していただけるなら間違いないわね」
愉しげに微笑むカリンを見ていると、こちらも頼られていることを光栄に思う。
「モノズは小柄な割に食が太いから、最初は手が掛かるかもな……」
「平気よ、今はお金に余裕があるから」
今は?
意外な答えに、彼は目を丸くした。
「子供の頃はねえ……服を一着買うだけでも大変だったのよ。だからずっと同じ服を着ていたりとか、ザラね。信じられないかもしれないけど」
現在の着道楽な姿からはとても想像できない発言であるが、年齢の割に大人びているのはその苦労に裏付けされているのかもしれない。カリンは紅茶で喉を潤し、再び胸中を吐露する。
「その反動かしら――お洒落ってすごく憧れていたの。高校卒業してアパレルに就職したのもそれね。綺麗な物で飾り立てれば、くすんだ世界も変わって見えるかもって思ってた。それは正解ね、呆れるくらい他人の見る目が変わるの。逆に人間不信になりそうだったくらい。セキエイに来てからそれもないけどね」
彼女はそう言って白い歯を見せ、子供っぽく微笑む。
「悪タイプで手持ちを固めてる理由も同じ……彼らはスタイリッシュでとても魅力的だわ。でもつい飼いすぎちゃって、アパレル店員しながらポケモンを沢山所持するのって大変だったのよ。どちらも維持費がね」
ポケモンの飼育はリーグ本部からある程度補助が出るが、社会人になれば収入に応じてその額が少なくなる。その上アパレル店員は毎月自社商品を数点購入する必要があるため、なかなか金銭面での苦労が多かったようだ。ワタルはカリンが四天王に就任する際、契約金や年俸を見て一番喜んでいたことを思い出した。
「ああ……確かに金はかかりそうだ」
「ふぅん、お坊ちゃまのワタルにも分かるんだ?」
彼女は少し嫌味っぽくこちらを睨む。
「分かるよ。ドラゴンの育成はとにかく手間がかかるから……」と、言いながらワタルは庭でくつろいでいるドラゴンポケモンたちを一瞥する。殆どが恐縮していたので「上手く育てれば、その強さは天下一品だけどね」と付け加えた。
「ええ、それは身をもって理解しているわ。ねえ、ヘルガー?」
カリンは膝の上でむくれているヘルガーの頭を撫でた。彼はマスターシリーズにおいて、まだ一度もワタルのポケモンに勝利したことがない。そのためここへ来て一度もドラゴンに目を合わせず、だんまりを決め込んでいる。
「モノズを手塩にかけて育てれば、いつかあなたに勝つことができるかしら」
「どうかな。負けないよ」
ワタルが堂々と微笑むと、ふいにカリンの表情が曇った。
「いつまで経っても勝てないから、心が折れそうなんだけど」
彼女らしくない弱音にワタルの心が揺れる。四天王と戦うマスターシリーズで無敗記録を続け、シバやイツキが焦り始めていることは察していたが、それは彼女も同様らしい。
「ごめん。でも立場上、手加減は……」
慌てて無意味な謝罪をする彼に、カリンはたちまち噴き出した。
「ふふ、分かってるわよ。チャンピオンは大変ね」
「そうだけど、四天王もシビアな世界だと思うよ」
そうフォローすると、彼女は肩をすくめて苦笑した。
「私たちは不振さえ長引かなければ契約は更新されるわ、きっとね。でもあなたは違う。公式戦で一度負ければその立場がたちまち危うくなる。その上、フロントに喧嘩売っちゃったから選手生命を引き延ばす必要があるわね」
「ごもっともだよ。だけど自分で選んだ道だから」
シバの故障の件で総監の機嫌を損ねたことにより、本部内では立場が悪い。チャンピオンの座を明け渡せば、たちまち打ち捨てられることだろう。先日キョウに告げたように王者として邁進する覚悟を決めていたが、幾分負ける余裕がある四天王を時々羨むことがある。カリンはそんな彼の心の隙間から弱みを掻き出すように尋ねた。
「……一人で戦うの?」
黒いアイラインで引き延ばした流し目が艶っぽくて見入ってしまう。「いや、ポケモンがいるし……」と誤魔化したが、カリンには見抜かれていた。
「そうかしら。私にはあなたが、一人で戦っているように見える」
相棒のカイリューがいち早く顔を上げた。
「あなたは精神的には孤独なんじゃないかしら。それは当然ね、トレーナーとして自分のメンタルをポケモンに押し付けることはできないもの。何があっても弱みを見せちゃダメ。そして四天王である私たちにも」
まさにその通りだった。
北風が厳しく頬を撫で、ワタルの肌を震わせる。周囲に恵まれていることは自覚しているが、仕事上では孤独だ。この冬の寒さが、その想いを一層強くする。
「そうねえ、トレーナーの友人だと心休まらないだろうし……恋人でも作ったら?」
彼女はやや冗談めいたような口調で助言したが、恋人という単語に心の弦が反応して音を立てた。いつも以上に敏感になっているのは、今この場に人間の男女が自分と彼女しか居ないからだ。仲間と言う建前があっても、人並み以上に美しい姿には心惹かれてしまう。外見だけではなく、トレーナーとしての彼女は一流で、また別の魅力がある。
「それは良いアイディアかもしれないな」
仲間の線引きを越えるべきなのだろうか。
視線を逸らすように紅茶を含むと、作為的な目つきをしたカリンが首を伸ばして尋ねてきた。
「好みのタイプは?」
その問いかけにワタルの心臓が跳ね上がる。ごく一般的な質問だというのに、何故だか期待を抱いてしまう。彼女が導きたい終着点がうっすらと見えるような気がした。思い上がりかもしれないが、それでも意識せざるを得ない。
「……ポケモンに思いやりがある子がいいかな」
カリンが僅かに身体を摺り寄せる。「それだけ?」官能的な双眸に見据えられると、紅茶に頼っても誤魔化しきれない。
「ドラゴンに理解あると尚……」
ふとポケモンたちを一瞥すると、皆二人の動向に釘付けだ。特にメスのカイリューとチルタリスは眉間に皺を寄せ、不愉快さを露わにしているがそれが嫉妬であることにワタルは微塵も気付かない。
「普通ね。じゃあ、外見は?」
カリンが首を傾けて問うなり、首筋に張り付いていたおくれ毛がデコルテへ垂れ下がった。ダークブルーのリブニットは豊かな胸元と艶やかな髪を強調し、ワタルの本能を刺激した。
「……美人だと嬉しいかな」
再びアールグレイを含む。ついに飲み干した。
「例えば?」
彼女は容赦なく切り込んでくる。まるで、一つの答えを求めているかのように。
――例えば君のような。
とでも言ってしまえば、彼女はきっと喜んでくれるはずだし、そこから進展しそうな気がする。実際、彼女は先ほど述べた好みのタイプに合致している。美人であることは元より、普段クールにしている裏でポケモンをパートナーとして大切に育てている心優しい姿は感心以上の想いを抱かせた。
カリンは嬉しそうに答えを待っている。
手持ちのドラゴンたちが、主人の動向を固唾を飲んで見守っている。
唯一、彼女の膝の上にいるヘルガーだけが、こちらをキッと睨み据えていた。悔しそうな、憎悪を含んだ瞳がカメラのフラッシュのように瞬いた。
――今年だけで四天王さんたち、何度大きな不祥事を起こしているんだろうね……私の目にはカリンちゃんくらいしかマシな人間がいないように見える。
つい先月、総監に言われた皮肉が蘇る。
本部の風当たりが悪い現在、カリンを巻き込んだスキャンダルでも起こせば四天王もろとも終わってしまう。彼らの仕事を、地位を、何もかも奪いかねない――動いた食指が急停止した。
「お兄様は居るわよね!?」
玄関から聞き慣れた甲高い声が響き、完全に現実へと引き戻される。
ああ、面倒事がやってくる――思わず頭痛がしたが、覚悟をする前にその人物は小間使いの制止を振り切って屋敷に上がりこんだ。そして縁側で並んで座っている男女を見つけると、鬼の形相で駆け寄り、その間に割って正座する。
モノズを抱いたまま唖然とするカリンを守るようにヘルガーが立ち上がったが、来訪した女は少しも怯まない。ライジングバッジが大きくプリントされたグレーのトレーナーにだぼついたシルエットのボーイフレンドデニムという、高身長でスタイルのいい彼女の魅力を殺すようなワンマイルウェア姿だが、そこにはプロトレーナーの風格が滲み出ていた。
「や、やあイブキ……」
ワタルは呆然としつつ、突然やって来た従妹のイブキに挨拶する。するとヘルガーを睨んでいた彼女が勢いよく振り返った。
「どういうことですかお兄様! なぜこの女が私たちのモノズを抱いているんですか!」
「お、お兄様?」
仰天するイブキに、ワタルが慌てて補足する。
「ああ、彼女はオレの従妹なんだ。この町のジムリーダーでもあって……」
「お兄様、そんなことはいいから説明してください! 何故この女にモノズを渡したのか!」
「ええっ、せ……説明したよな? 同僚に譲るって……」
「女にあげるなんて聞いてません! しかもこの女は四天王じゃないですか!」
軽蔑するように人差し指を向けられ、呆然としていたカリンも我に返って反発した。
「あら、四天王がドラゴンを譲ってもらっちゃいけないの? 私は悪タイプを専門にしているから、モノズを育ててみたかっただけなんだけど」
「だったら直接捕獲に行けばいいじゃない!」
イブキは高く結ったポニーテールを振り乱しながら立ち上がる。かなり伸ばしているので、傍にいたワタルの顔を鞭のように打ちつけた。顔を覆う彼を気遣ったのはカイリューのみで、知らずにイブキは捲し立てる。
「あなたそれでもプロなの!? プロのトレーナーなら、欲しいポケモンは自分の手で捕まえてこそ! じゃなきゃ本当の絆なんて築け――」
「ごめんなさいね、イッシュに行く時間がなくて」カリンが彼女の言葉を遮り、満面の笑みを浮かべる。「だからわざわざタマゴを作ってくれたあなたと、そのお兄様には感謝しているわ。ありがとう。今度お礼させてね」
余裕たっぷりに微笑みながらモノズを抱きしめると、冬空の太陽光にスワロフスキー製のICマーカーが反射して煌めいた。ジョウトの女ジムリーダーらもこぞって装着している、可憐なアクセサリーである。いかにも女性らしく、それがイブキの怒りを増長させる。
「何よ、そのキラキラしたマーカー! ミーハーね、外しなさいよ! ドラゴン使い一族のポケモンとして恥だわ」
「イブキ、その辺で口を慎め。オレの相棒を愚弄にしているのか?」
語気を強めた従兄の言葉に、イブキははっとして後方を振り返った。主人を気遣いながらこちらを睨んでいるカイリューは、フスベシティ最北端にある竜の穴の奥で生まれ、ワタルが長老から譲り受けた一族屈指の強豪ドラゴンだ。その上彼女のICマーカーは青いスワロフスキー製。先ほどからのイブキの発言は、全てカイリューを否定している。
「あ……いや、そういう訳じゃ……」
真っ青になって狼狽える彼女に、カリンは思わず噴き出した。
「ふふ、あなたって面白いわね。いいじゃない、綺麗なマーカーを付けてお洒落した方がポケモンも喜ぶわよ。あなた自身も美人で背が高くてスタイルがいいのに――そんな野暮ったい格好してるなんて勿体無いわ。しかもすっぴんでしょ?」
女らしさをかなぐり捨て、訓練に勤しむイブキはお洒落に縁がなくオフも仕事もほぼノーメイクである。それでも周囲から何も言われないのは、彼女の飛び抜けた実力と美貌、そして二十二歳と言う若さがあってこそ。だがアカネやミカン、エリカなどファッションと仕事を上手く両立し、男性人気が高いリーダーたちを見ていると嫌でも焦りやコンプレックスを覚えてしまう。イブキはしどろもどろになりながら「今日は……オフだから……」とはぐらかした。
優勢になったカリンはモノズを抱いたまま立ち上がると、イブキを上から下までじっくりと眺めてその耳元で囁いた。
「せっかく“大好きなお兄様”の前なんだから、メイクくらいしたら?」
イブキは香水が苦手だったが、嫌みのない薔薇の香りは理性を刺激し対抗心がぐらついた。
「近所なんだから化粧なんて……肌が悪くなるし……」
「外出するときは小奇麗にしなくっちゃ。素を見せていいのは家族と、付き合って一年経ったカレだけにしておきなさいよ。それにほら――ココ、吹き出物できてる。ナチュラル路線でいってるのなら、お手入れはしっかりね」
桜色のネイルが塗られた爪の先で示されたのは、今朝唇の下にできたばかりの吹き出物である。特に気にも留めていなかったのだが、改めて指摘されると居た堪れない。
「こ、これは……フスベのドーナツ屋が最近チョコフェアをやってて……そしたらドラゴン使いとして制覇しない訳にはいかないんだ!」
思わず本音が出てしまい、背後で「それはお前の好みだろう」と呆れているワタルの声が後悔を煽る。傍で悠々と微笑んでいるカリンの肌はチョコレートの欲望に打ち勝ったように滑らかでシミ一つない。頭から爪先まで隙がなく飾っている彼女はトレーナーとしても四天王という栄光の地位につき、バトルの実力も申し分なし。そして憧れの従兄にも接近している――何も勝るところがなく、悔しくて仕方がない。せめて、ポケモンバトルくらいは勝ったっていいじゃないか。
「大体ニキビなんてなぁっ、一族に伝わる秘薬を使えばすぐに治る! それより私はお前みたいな、お洒落振りかざして“ナチュラル志向”の人間を見下し、余裕かましてる女が気に入らないの! プロトレーナーが色気づく必要なんてないわ。大事なのはポケモンとの絆を大事にして試合に勝つことよ。それをチャラチャラしてるあなたに教えてあげるわ、ポケモンバトルでね!」
イブキは憤りに弾かれ、高ぶる感情のまま捲し立てた。
「イブキ、お前何言って……」
突然の挑発に狼狽えるワタルに対し、喧嘩を売られたカリンも黙ってはいられない。ヘルガーを引き連れ、イブキに詰め寄った。
「あら、私はファッションにかまけてバトルが厳かになっているとでも? これでも四天王なんですけれど」
「だから何? 私はジムリーダーだけど四天王にだって匹敵する実力を持っていると、色々なトレーナー雑誌で評価されているもの! あなたになんか負けるはずがない」
「ふぅん……四天王も舐められたものね。いいわ、相手になってあげましょう」
相棒のヘルガーと共に向ける鋭利な視線は、挑戦者を睨む四天王の表情そのものだ。先ほどまでの浮ついた雰囲気は身を隠し、この地方最高峰と謳われた悪タイプ使いがイブキに牙を剥く。しかし対するイブキも怯んでおらず、それどころか武者震いしながら余裕たっぷり笑って見せた。
「ええ、ジムを開けるから来なさいよ。ジム内の練習試合ってことにすれば、プロ同士でもポケモンの使用申請は不要だから。勿論、“練習”なんて呼べる生温いバトルをするつもりはないけどね」
イブキはベルトループに引っかけていたキーリングを取り外すと、ジムの鍵を示しながら玄関へと踵を返した。
「ちょっと預かってて」
カリンも毛布に包んでいたモノズをワタルに手渡し、ヘルガーを引き連れイブキの後に続く。彼は慌てて引き留めようとしたが、彼女たちはあっという間にその場を離れ、もう手の出しようがない。モノズを抱えたまま呆然とするワタルの背中に、カイリューはじめとするドラゴンポケモンたちの急かすような視線が突き刺さった。
「ったく……イブキの奴!」
ワタルは両手を差し出すサザンドラにモノズを預けると、カイリューや他の手持ちをいくつか引き連れて二人の後を追う。物陰から一部始終を覗き見していた小間使いが「色男ね!」などと騒いでいたが聞こえないふりをした。