第1話:イツキくんの告白
十一月末のセキエイ高原は寒さ厳しく、スタジアムもオフシーズン中であるためオフィスのある本部ビル周辺以外は閑散としていた。プレーオフには満員の観客の熱気で汗が噴き出たセキエイスタジアムも、今はがらんどうで底冷えがする。しかしバトルフィールドでは、相変わらず半裸のシバが寒さを跳ね除けワタルと共に練習試合を行っていた。彼が使用するのはハリテヤマ、対するチャンピオンのポケモンはサザンドラである。
この選択に、北側ベンチでストーブに当たりながらダウンコートに包まっているイツキが不満の声を上げた。
「なぁんでその組み合わせなんだよー! 寒いんだからエンブオーとかリザードンでいいじゃん! あったかくしてよ」
「黙れっ、これも特訓だ」
南側エリアに仁王立ちしているシバが唸るように叱責する。ワタルもベンチを振り返り、彼を止められないとばかりに苦笑した。
「カリンだって寒いでしょ?」
同意を求めようと、イツキは右隣に座っている彼女を振り向くが――カリンは膝の上にヘルガーを乗せ、ショールを羽織りながら防寒していた。
「私は平気よ。ヘルガーの身体ってあったかいの」
柔和に微笑む膝元で、ヘルガーがイツキを睨みつける。
「羨ましいねえ、ヘルガー君。そこ代わってもらいたいよ」
彼の左隣で試合を観戦していたキョウが茶化すように告げると、カリンは眉をひそめながら牽制した。
「あら、オジサマも毒ポケモンに温めてもらえれば? ベトベトンとかいいんじゃない」
「いい案だが、臭いが取れなくなるのは困るな」
彼は肩を軽くすくめながら苦笑した。チャコールグレーのタートルネックに黒の長着を合わせ、ウールの羽織で傍観しているが寒さ厳しいスタジアムではそれでも足りないようで、イツキ共々ストーブの前から離れられない。
炎ポケモンを所有していない彼らは大変である。カリンが頬を緩めたとき、膝の上に頭を乗せていたヘルガーがさっと身を起こした。
「ハリテヤマ、発勁!」
ハリテヤマが発した波動がサザンドラの腹に炸裂し、ドラゴンはもんどり打って北側ベンチ前まで吹っ飛ばされる。その巨体は一直線にカリンへと向かって行き、ヘルガーは主人をかばおうと構えるが――すぐに横からワタルがサザンドラを受け止め、テクニカルエリア内でもつれ込むように崩れ落ちた。
百八十キロ近くのドラゴンを受け止めるのは容易ではない。ベンチで観戦していた仲間たちが一斉に立ち上がって首を伸ばす。
「うわ、大丈夫?」「おいおい、無茶するなよ」
イツキとキョウがあっさりと気遣う中、盾になってくれたチャンピオンにカリンは気が気ではなかった。ショールを投げ捨て、ベンチから身を乗り出す。
「ワタル! 大丈夫?」
「な……なんとかね。いたた……」
彼はサザンドラを起こしながら立ち上がる。ダークブルーのフランネルシャツはすっかり袖が擦り切れ、右手首には血が滲んではいるが、どうやら軽傷のようだ。
「サザンドラ、平気かい?」
よろめきながらサザンドラに尋ねると、彼はすぐに体勢を立て直して頷いた。
「よし、行こう!」
ワタルはにこやかにドラゴンをフィールドへ送り出す。この行動に、向かいのテクニカルエリアにいたシバが罵声を飛ばした。
「ポケモンを受け止めるなど、余計なことするな!」
「ごめんごめん、ベンチに突入しそうだったからさ。危ないじゃないか」
擦れた袖を捲り、服の汚れをはたきながらワタルは元居た指示位置へと戻る。
「本戦では関係ない。フィールドは戦場だ」
「そうだな。さて、試合再開といこうか」
崩れた前髪を後ろへ撫でつけると、彼の眼差しに再び戦士の闘志が宿った。
「かぁっこいいねぇ」
キョウが感心するように顎を撫でる。
一方で、その気取らずとも画になるパーフェクトな様相は、イツキの嫉妬心を生んだ。ふと隣を見ると、カリンはベンチ前で身を乗り出したまま、ワタルとサザンドラに釘付けだ。それがまた面白くない。
「……そういえばカリンはサザンドラ持ってないの? 悪タイプとしても良い戦力になるよね」
気を引こうと専門タイプの話を振ってみる。
「ないわね」
彼女は冷え切った調子で答えた。
予想を超える素っ気なさに、イツキの胸中に後悔が渦巻く。慌てて何か弁解しようとしたとき、カリンが愁いを帯びた眼差しを向けながら振り返った。
「ドラゴンってお金がかかるから、アマチュアから持っていなかったの」
そのままベンチシートへと戻り、イツキの隣に席ひとつ開けて腰を下ろす。すぐにショールを咥えたヘルガーが寄り添い、主人を温めた。どうやら完全に機嫌を損ねてしまったようだ。
「そ……そうだよね。高級車くらいの維持費がかかるもんね……」
慌てて弁解しようとすると、カリンがからかうような笑顔を向けた。
「だけど私も稼ぎが良くなったし、イツキ対策としてサザンドラを検討してみようかしら」
「ええー……」
完全に遊ばれ、背後ではキョウが堪らず噴き出している。
メンバー内では最年少と言うこともありその立場に甘えがちなイツキだが、気になっているカリンに子供扱いされると自尊心も傷ついてしまう。普段から積極的に話しかけているつもりだが、日を重ねるうちに彼女の視線がワタルに向いていることを嫌なほど感じ取っていた。恋に関しては一人前の男でありたいのに。
「サザンドラ、逆鱗!」
力強い命令が響き、サザンドラがハリテヤマに捨て身で突進した。マウントポジションを取り、隙を与えず大暴れすると既にダメージが蓄積されていたハリテヤマは意識を失い、ベンチに設置していた自動バトル判定装置がワタルの勝利を知らせる。
「さすがだな」
シバは白い息を吐きながら、ハリテヤマをボールに戻した。なかなか勝利できない状況に変わりないが、彼は引きずることなく気持ちを次に切り替える。
「お前もなかなか良かったよ。じゃ、オレはちょっと休憩」
ワタルは破顔しながらサザンドラを労い、ベンチへと戻る。すぐに救急箱を持ったカリンが出迎えてくれた。
「敵なしね」
「ありがとう。手当ては自分で……」
救急箱に伸ばそうとした右腕を、撫でるように掴まれる。
「守ってくれたお礼よ」
ルージュを引いた深紅の唇が妖艶に持ち上がり、ワタルの心を引っ掻いた。最近の彼女はいちいち自分に好意的だ。「そういうつもりじゃ……」と慌てて訂正しようとすると、キョウが囃し立てるように笑い出す。
「さすがチャンピオン、ヒーローだな」
「茶化さないでくださいよ。やっぱりベンチ前には見えない壁が必要だな、と思って色々検証しているんです」
説明しているうちに右腕は消毒され、幅広の絆創膏が貼られて治療は完了した。すぐに腕を離そうとしたとき、カリンが首を傾けながら彼に尋ねる。
「ふぅん、お礼しなくてもいいんだ」
「でも好意は有り難いよ」
すると彼女はワタルの顔を覗き込みながら、企むような艶っぽい笑顔を浮かべる。ほんのり漂う薔薇の香りと相まって、理性が握り潰されてしまいそうだった。至近距離まで近づくカリンに、イツキとヘルガーは気が気ではない。
「それじゃあ“手当てのお返し”にお願い、聞いてもらおうかしら」
「な、何……?」
「私もサザンドラを持ちたいの。だから、モノズを一匹譲ってくれないかしら」
身構えていたワタルは目を丸くする。彼にとって拍子抜けするほど簡単な依頼だ。
「あ、ああ……そういうこと。構わないよ」泳ぐ目を隠すように、ベンチ脇で待機していたサザンドラに顔を向ける。「そうだな……じゃあ、オレのサザンドラでタマゴを作ってみようかな。いいかい?」サザンドラは素直に頷き、カリンの相棒であるヘルガーに会釈した。見た目は凶悪だが、律儀な性格のようだ。
「その子オスじゃないの? メスのサザンドラいた?」
種族が異なるポケモン同士で子供を作るとメス側の種が生まれてくるのが一般的である。首を傾げるカリンに、ワタルがにこやかに捕捉した。
「ドラゴン使い一族に伝わる“竜の牙”で作った秘薬を使えば、オス側の種族を宿せることが多いんだ。産み分けはあまり推奨したくないけど、カリンの頼みだし一度くらいならいいかなって」
「ああ、製薬会社時代に話題になってたな。染色体に影響する薬があるとか……さすがチャンピオン、人知を超えた秘薬をお持ちで」
キョウはやや呆れを含んだように肩をすくめた。「いやあ……」とワタルがばつが悪そうに苦笑していると、南側ベンチで待機していたシバが痺れを切らし、スタジアムを怒声で震わせた。
「おい、喋ってる暇があったら誰かおれと試合しろ!」
誰が手合わせする?――ベンチメンバーが無言で顔を見合わせると、ボールが収納されているミニショルダーバッグを携えながらカリンがテクニカルエリアに歩み出た。
「いいわよ、私が相手になってあげる」
すぐにヘルガーが後を追い、スワロフスキーで飾られたボールに収まる。定位置につく前にカリンが振り返り、ワタルに向けて微笑んだ。
「ドラゴンって憧れだったの、楽しみだわ。よろしくね」
「それは良かった。じゃ、ちょっと急がないとな……」
天井の証明に照らされ、美しい彼女の笑顔は一層輝いて見えた。思わず息を呑むワタルに、キョウが疑問を投げかける。
「お前らデキてるのか?」
「い、いや……そんな訳ないでしょう!」
狼狽しながら否定するが、ますます怪しまれた。
「別に不思議じゃないけどな。さっきのやり取りなんて、まるで恋人同士だ」
「うん、付き合ってるんならハッキリ言ってよ! 僕も諦めがつくよ」
同じようにカリンにからかわれようとも、イツキとワタルでは程度に差がありすぎる。熱意あるアピールに、ワタルは尻込みしつつ否定した。
「付き合ってないし、そんな気もないから……」
「勿体ねえなあ。お前、仕事とポケモン漬けでロクに息抜きしてないだろう。何事もバランスが大事だよ」
キョウが呆れたように苦笑する。彼はまさにその均衡を保っている良い例であるため、この言葉には説得力があった。チャンピオンという仕事は精神的負担が大きく、時に孤独を感じて人恋しいこともある。そこでカリンのような秀麗な女性に接近されると心も揺らぐのだ。しかし世間的に大きな名声を手にした者同士、手を出すリスクは非常に大きい。ただでさえ、週刊誌ではあらぬ噂を立てられているというのに。
「全くですね……でも彼女は仲間だしなぁ」
「俺たちに気を遣ってるのか? 惨憺たる対抗馬どもだよ、眼中になくていいから。ただしパパラッチには気を付けろよ」
と、白い歯を見せて自虐的に笑うキョウに、イツキが目を血走らせながら叱責した。
「若い頃遊びまくってそうなオジサン! 余計なことは言わなくていいよっ。あのさあ……ワタル、その気がないなら手を出さないでくれるかな! 僕はまだカリンの事が好きなんだけど。超美人で強くて頼り甲斐のある……僕の理想の“大人のお姉さん”なんだよ!」
少年の双眸は至って真剣だ。彼がカリンに恋心を抱いていることは昨年四天王を結成した頃から気付いていたし、あからさまにアピールしているがその度にかわされている。それが哀れで、ワタルはイツキに遠慮している部分もあった。
「そ、そうだよね。邪魔はしないよ。むしろ応援してるし、キョウさんも言うように写真を撮られないようにしてくれればオレは構わないよ」
スキャンダルを避け、めでたく二人が結ばれればこの気の迷いも晴れるかもしれない――複雑な心境を隠しながら、ワタルは微笑んだ。一見屈託のない爽やかな笑顔に、イツキは思わずたじろぐ。
「……なんか敵に砂糖貰った気分」
キョウが呆れるように溜め息をついた。
「それは、塩」
イツキはカリンに一目惚れしていた。
昨年、本部タワービルで顔を合わせた時から、そのセクシーで端麗な容姿に夢中だ。彼女のように頭から爪先まで隙がなく飾り立てている女性を見たことがなく、その意識の高さに驚かされ、すぐに憧れへと変わった。
四天王になってから様々な女性に言い寄られるようになったが、人生初の恋人は彼女にすると決めていた。恋人同士の具体的な交流の内容は全く想像もつかないが、カリンならばきっと自分をリードしてくれる。最近、ワタルに接近している姿が多く見られたので既に取られてしまったのかと不安だったが――彼本人が否定したので安堵した。
ならば、同じ職場で働いている自分にだってチャンスがあるはず。
ワタルに激励されてから根拠のない自信が湧き、浮足立ってトレーニングも全く頭に入らない。余計なことを巡らせているうちに午後の練習試合は終了し、ロッカールームに戻って帰り支度をする時間となった。
「五時なのに、もう外は真っ暗ね」
部屋に向かう間、カリンが話しかけてくれる。心臓が跳ねた。
「そ、そうだね」
「もうお腹空いちゃった。今夜は何を食べようかしら」
何気ない会話だが、これは食事に誘うチャンスである。前を行く男たちと少し距離を取りつつ、高ぶる興奮を抑えながら弾ける笑顔で切り込んだ。
「パスタとか、いいんじゃないかな!」
「それは昨日食べちゃった。ボロネーゼ」
カリンは首を傾けながら艶っぽく微笑み、イツキを逸らせた。
「そ、それじゃあ……」
「どうしようかな〜。カンナを誘ってみようかしら」
カリンはミニショルダーのポケットからスマートフォンを取り出すと、インスタントメッセンジャーを利用してカンナに気軽なメッセージを送り始めた。このままではせっかく二人きりになれる機会を逃してしまう――どこか良いレストランはないかと、急いでポケットからスマートフォンを引っ張りグルメサイトを検索する。と、サーチエンジンに登録している占いサービス欄が目に留まった。今日の自分の運勢は、総合二位。徐にタップしてみると恋愛運は絶好調である。『積極的に攻めると吉! 相手の心を強く惹きつけられるハズ!』その一文がイツキを煽った。
勝負をかけるなら今しかない。
機を見て攻める、それはポケモンバトルでも同じことだ。
「あのさ……!」
彼は意を決して顔を上げる。すでに彼女は通路突き当りの角を曲がり、視界から消えていた。
「早くしないと食事に誘えなくなっちゃう……」
急いでスマートフォンをジーンズのポケットに突っ込んでいると、腰のベルトに装着しているボールに入ったネイティオと目が合った。彼は未来予知ができると言われている。
「ネオ、あのさ……」
ベルトからボールを外して相棒に助言を求めようとしたが――
「いや、やっぱりいい! 結果は自分で出す!」
思い直し、ベルトに戻した。呆れ返っているネイティオの気も知らず、彼はロッカールームへと疾駆した。勢いよくドアを開け、部屋を見回すがそこには男しかいない。
「あれっ、カリンは!?」
レポートを書いていたワタルが真っ先に顔を上げる。
「すぐ帰ったよ」
食事の約束を取り付けたのだろうか。すぐに後を追えば間に合うかもしれない。
「そ、そう! 僕も帰るっ、お疲れ!」
ロッカーからボディバッグを引っ張り出しドアへ駆け込む小さな後姿を見て、ソファで書類に目を通していたキョウが冷やかした。
「おっ、早速誘うのか。気が早いなー」
「へへっ」イツキは白い歯を見せながら振り返る。「今年のクリスマスは充実するかもね!」
イツキはそのままドアを閉めずにロッカールームを出て行った。余裕のない姿は初々しく、キョウはワタルと顔を見合わせて笑みをこぼしていたが、唯一シバだけが首を傾げていた。
「……練習か? それならおれも参加したいんだが」
二人は頭を抱え、呆れ返る。
「カリン!」
駐車場に少年の声が響いた。
ヘルガーと共に自家用車へ乗り込もうとしていたカリンが振り向く。ふわりと揺れる黒のAラインコートに白いブラウス、タイトなグレンチェックスカートと、その姿は妖艶で品がある。イツキの心臓が早鐘を打ち始める。
「あ、あのさ……これから食事行かない?」
カリンを直視することができず、目線を落としながら尋ねた。ゴールドのグリッターパンプスから伸びる、黒いストッキングを纏った長い脚が刺激的で、彼の心を更に煽る。占い通りならば同行できるはずなのだが――
「ごめんなさい、先約があるの」
現実は非情だった。
「えっ、あ……やっぱり」
そう、彼女は先約があるからこそロッカールームをすぐに立ち去ったのだ。火照っていた頭がたちまち冷たくなり、何故もう少し考えなかったのかと後悔させる。畳みかけるような仕打ちに、彼は過去の自分を恨んだ。
「残念でした。また今度ね」
「……それ男の人と行くの?」
車のドアに手をかけようとしたカリンが振り返った。
「気になる?」
薄暗い地下駐車場の照明に赤い口紅が照らされ、その微笑みを一層コケティッシュに飾り立てる。イツキはすっかり見惚れながら、三回頭を縦に振った。素直な反応に、カリンは顔を綻ばせる。
「さあね?」
思わせぶりな答えが、イツキの心に爪を立てる。
「もしかして、ワタルだったりして……」
「なぁに、妬いてるの?」
「そうだよ!」
ムキになって張り上げた声が駐車場に響き渡る。オフシーズン中というだけあり、車も少なく人やポケモンも彼らしかいないことがイツキの高ぶる感情に拍車をかけた。予想外の反応に目を見張るカリンを気にし、まずは様子見の“ボール球”を投じるべきだと、話題を逸らすことにした。これは日ごろワタルやキョウの言動を見ている中で導き出した方法である。
「カリンは……カリンは、すごく美人で隅々までお洒落してて僕の憧れなんだ。今日の服装だって落ち着いてるけど華やかでとっても似合ってる! 爪の色や髪型だって毎日違うし、人からあまり見られなくなるオフでもそれを続けてるのは凄いよ。お洒落に気を遣ってる女の子って、すっごく良いよね……トレーナーってさ、ポケモンばかり手入れしすぎて自分そっちのけになるんだもん。だけどカリンはそれを両立しててしかもプロだし、すごいなって……」
一番好きな彼女の容姿を捲し立てると、ぽかんとしていたカリンの表情も次第に和らぎ、「ありがとう」と笑顔を言ってくれる。彼女の気持ちが、ようやくこちらへ向いてくれた――嬉しくて、胸の高鳴りはピークを迎える。興奮し、これ以上の駆け引きなんて考え付かない。
「だから僕はカリンの事が……!」
今なら言える。
結果は何となく見えていたが、それでも想いを明確したかった。しかし――声が出ない。生まれて初めて打ち明ける恋心に、少年は最後の一手をかける勇気が出ない。しばらくの沈黙の後、カリンが表情を曇らせながら口を開いた。
「……ごめんなさい。私は常に対等な関係でいられる男性が好き。あなたはまだ……ちょっと頼りないわ」
彼女にリードしてもらうことを夢見ていたが、断りを先に言われてしまうなんて。そもそも、その考えも思い上がりだったようだ。
「僕……子供だしね」
イツキは掠れる声で呟いた。目元がじんわりと熱くなる。
「今はね」
憐れむような口調に一層虚しくなる。押し寄せる絶望感を抑え込みながら、イツキは普段通りの陽気な笑顔を必死で作った。
「そ、そっか。でもそれってポジティブに考えると、数年後にチャンスがあるってことだよね……!」
「そうかもね」
カリンが困惑したように口元を緩ませる。呆れているようにも映った。明日からまた顔を合わせる際に気まずいので、イツキは慌ててカラ元気を続ける。
「そ、それなら頑張れるかも! 身長伸ばしてドカに乗って世界中のエスパーポケモンを揃えてチャンピオンになったら――きっとワタルより格好いいよ。ずっとね!」
「それは楽しみだわ。さっき私を褒めてくれた時、とても嬉しかった。ありがとう」
悠々と微笑むカリンの姿は、イツキが求めていた“大人のお姉さん”だった。まるで敵いもせず、永遠に子供扱いされて終わってしまう、ままごとのような恋。虚しくて身体はみるみる熱を帯びていく。いたたまれなくなり、わざとらしくジーンズのポケットを叩いた。
「で、でしょ……あっ、スマホ忘れた! 戻らなくちゃ。じゃあね、お疲れ!」
踵を返し、逃げるようにその場を離れる。小さな背中に「お疲れ様」と優しい声が届いた。
イツキの姿が見えなくなった後、ヘルガーは複雑そうな面持ちで主の顔を覗き込む。
「何となく分かっていたけど、急に言われると上手く断れないものね……結構、装いを見てくれていたみたいだし」
彼女は重苦しい息を吐いた。
何の交流もない男からの告白であれば心痛まず即答で拒絶できるが、同僚は違う。表向きは翻弄するような素振りを見せても、これからも共に仕事を続けていくであろう彼を傷付けたことを申し訳なく感じた。しかし自分はそれでもワタルの気を引きたくて仕方がない。張りつめる寒さが男の熱を欲していた。
「……ごめんなさい」
吐息のような謝罪が、彼女とヘルガーしかいない駐車場に反響する。
目を真っ赤に染め、憔悴しきったイツキはロッカールームに戻ってくるなりソファへ倒れ込んだ。まだ居残りしていた男仲間たちはぎょっとしながら彼を取り囲む。この様子、大方食事の約束にかこつけて想いを伝えたのであろう――ワタルとキョウには察しがついたが、シバは呆れ返りながら傷口にたっぷり塩を塗りこんだ。
「交際の申し込みでもしたのか。大して交流がないくせに早すぎる。急いては事をし損じるとは言い得て妙だ」
「シバに言われるなんてムカつく!!」
イツキはソファから飛び上がったが、的を射ているので怒りはたちまち萎み、背中を丸めて再びソファに身体をうずめる。
「ああ、僕もう明日から仕事したくない……生き恥晒すだけじゃん。このまま一人寂しいクリスマスを過ごすことになるんだね……」
めそめそと泣く女々しい姿を叱り飛ばそうとするシバを止めながら、ワタルがどう慰めようかと悩んでいると、ふいにキョウが指を鳴らした。
「よし、風俗行って発散するか!」
「駄目です!」
間髪を容れず阻止するワタルに、キョウは悪びれずに苦笑する。
「冗談を真に受けるなよ……」
しかしイツキは乗り気だった。突然飛び起き、彼の袂にすがりつく。
「行く、行くよー! お願いキョウさん、僕を男にして!」
「駄目だよ、未成年なんだから! またすぐにいい出会いがあるよ」
ワタルは慰めてみるが――つい先ほど、彼を引き合いに出して振られたイツキには堪えられない。
「何だよ、イケメンチャンピオンに慰められたってちっとも嬉しくないよ! それにカリンは僕よりワタルの方がいいっぽいよ。本当に付き合ってないの!?」
「ほ、本当だよ……」
と胸を突かれたが、ワタルはなんとか頷いた。
気があると言われれば、イツキには申し訳ないが意識してしまうし、この結果にやや安堵している自分が信じられない。
「今からおれが手合わせしてやるから頭入れ替えろ! 女に振られたぐらいでめそめそ泣くなんて男じゃないぞ!」
とうとう見かねたシバがイツキをソファから投げ落とし、襟首を掴んで入口まで引きずっていく。イツキも抵抗しないので、誰も止めなかった。
「こうして僕は女の子を知ることなく、シバみたいなポケモンバトルマニアになるのかあ……」
「何が悪い! 行くぞ!」
イツキはようやく立ち上がると、不平を漏らしながらもシバの後に続いていく。ドアは開け放たれたままで、ワタルが閉めに歩んでいると、背後でキョウが「若いねえ」と軽い羨望の声を上げた。彼の事だから、もちろん口先だけだろう。ワタルはドアを閉ざしながらにこやかに振り返った。
「シバもほんの少し前に大怪我したかと思えば、すっかりピンピンしてるな」
「驚異の治癒力ですよね」
数週間前にロケット団に襲われ深手を負ったシバだったが、二日で退院し、その後通院しながらシロガネ山で訓練を続けている。救いようのないストイックさに、親友のワタルもすっかり呆れていた。
「ところであいつ、そもそも何故ロケット団に遭遇したんだ? 聞いてもあまり答えないんだが……」
キョウがふとした疑問を口にする。実は怪我の件はシバにとって屈辱でもあったらしく、彼はあまり仲間に対して詳細を語ろうとしない。警察には詳細を伝えているらしいので、ワタルは過去を穿り返すのを遠慮していた。
「オレもよく分かりません。オツキミ山の地滑りで捜査は頓挫しかけているし……ああ、それでご相談したいことが……」
「警察にでも協力した方がいいんじゃないか、って?」
ワタルは目を丸くする。
「同じこと考えてました?」
キョウは頷きながらお見通しとばかりに微笑んだ。夏に酒を酌み交わして以降、彼とはよく本部の脇の甘さを談ずる時間が多くなった。
「シバの一件で警察のポケモン犯罪の対応力がやや弱いように感じたんです。それでプロである自分が何か力になればって……総監にプロトレーナーの管理体制の強化を命じられたところですし、互いに協力していけば良い結果が生まれるのではないかと」
ビジネスだけではない様々な協力体制を作っていくことは、総監への反旗だった。セキエイ高原でのポケモンバトルは商売だけではないということを証明したい――ワタルは真っ直ぐに顔を上げ、話を続ける。
「また事が起きてからじゃ遅いですからね。オレはこの栄光の舞台に立てる身として、セキエイをより良い環境に変えていきたいんです。ここまで様々なプロセスを経て本部の仕組みが理解できるようになりました。そして分かったんです。誰かが動かなければ、ここは何も変わらない。もうスポーツ選手だからと、与えられた仕事だけこなしている訳にはいきません。総監に、我々は組織の歯車だけではないということを分かってもらいたいんです」
そう告げる彼の熱意は、昨年“見えない壁”の提案資料を作成した頃から何も変わっていない。ワタルはセキエイに籍を置くプロのポケモントレーナーとして誇りを抱き、真っ直ぐな理想を描いてチャンピオンとしての揺るぎ無い信念を持っている。これだけ苦労しても、彼は少しも折れることはないのだ。実直すぎる人間性はともかく、トレーナーとして彼に敵う日は来ないだろう――キョウは確信し、深い息を吐いた。
「……なるほどね」
昔似たようなことを言い、離別した師の背中を思い出す。
「あんまり正義感が強すぎるってのも、組織じゃ上手くやっていけないと思うけどな」
するとワタルは肩をすくめて苦笑した。
「だから後がないんです。負けたら、終わりです」
この愛嬌が、無愛想だった自分の師とは違うところだろうか。揉まれているのに裏がなく、好感が持てる。まさにセキエイのヒーロー的存在だ。年若く、しかし確かな可能性を持つ彼ならば、閉鎖的なトレーナー界に変化をもたらしてくれるかもしれない――ならば、穢れた手段に出る必要がある時は、それを請け負おうか。先祖が隠密を得意とする忍者だからか、嫌悪感はない……と自らに言い聞かせた。
「お前本当に不器用だな……でもそういうの、ちょっと羨ましいよ」
キョウは頬を僅かに緩ませながら、呟いた。