プロローグ
season.05 悪女未満
コガネ百貨店入口脇のショーウィンドウはテナント栄光のエリア、店を表す鏡である。
一流ブランドが素晴らしいアイディアとセンスを発揮して、一畳程度のスペースに夢のような空間を作り上げる。どんなに高額な商品でも富裕層の購買意欲を掻き立て、庶民は憧れを抱きながらその前を通り過ぎる――そんな中、一人の少女がウィンドウ前で足を止めた。
きらきらと輝くビーズカーテンの中に置かれた一足のグリッターパンプスが、まるで女王のようにショーウィンドウ内に鎮座する。ガラス一枚隔てた先にあるのは夢の世界。夢のような値段の、夢のようなお召し物。こんなパンプスを履いてコガネの街を歩けたらどんなに楽しいだろう。きっとそれだけで、このどんより曇った世界が輝いて見える。
少女は徐に足元に視線を落とした。
履き古したぼろぼろのスニーカーは靴底が剥がれかけ、靴ひもは真っ黒でみすぼらしい。女王様の靴もガラスの向こう側でせせら笑っていることだろう――彼女はぼんやりと数十分前の会話を回想する。
「カリンちゃんは将来何になりたいんだい?」
いつも立ち寄るオフィス街の小さな公園にいる、毛並みのいいデルビルを従えたホームレスの中年男。
唯一の話し相手だった。
大人である彼の話は大変愉快で、まだ十歳に満たない彼女にポケモンの扱い方を教えてくれる。それは周囲の子供より数歩も先へ進めているような気がして誇らしかった。
「……モデルになりたいの」
少女は小さな声で答える。
思い上がった発言ような気がして、恥ずかしそうに男のデルビルを抱き寄せた。ホームレスの体臭には鼻を覆いたくなるものの、このダークポケモンは毎日公園の水道で洗っているらしく、獣特有の臭いも薄い。自分を包み込んでくれるような芳香がした。
「へえ、カリンちゃん可愛いからぴったりじゃないか」
男は日に焼けた顔を微笑ませた。
「可愛いだけじゃなれないわ」
少女はデルビルを一層強く抱きしめながら自分を卑下した。男は心配そうに少女の顔を覗き込む。
「そうかな。美人っていうのはそれだけで武器になるんだよ」
主人の想いを悟ったデルビルも、少女を慰めるようにその頬を舐める。
「そして心がキラキラ輝いているとね、眩しくて太陽みたいになるんだよ!」
その言葉の意味が分からず、少女は首を傾げる。
「どんなにみすぼらしい外見でも――内面が美しいと人は輝く。貧乏で親に愛されなくとも、挫けず前向きに生きなさい。それを心がけていれば、その努力にきっと誰かが気付いて、カリンちゃんを幸せにしてくれるから。心が綺麗になればお洋服まで良く見えて、素敵なモデルさんになれるよ」
この男は身なりこそ酷いものの、境遇を嘆かず毎日楽しげに公園生活を送っている。
同じように貧乏で、信じられる家族もいない――それなのに、いつも前向きだ。鼻を刺すような体臭と共に、その自信が滲んでいる。
貧乏でも内面を磨けば自分を分かってくれる人が現れる? 少女の瞳に希望が宿る。
「そうかなぁ?」
ふいにデルビルに視線を移すと、彼も満足げに頷いた。希望が目標へと変化し、思わず頬が緩む。
「カリンちゃんは優しい上にキラキラ輝いてて……おじさんを照らしてくれる存在だ。一時期人間不信になりかけていたけれど、君のお陰で立ち直ることができたよ。いつもありがとう。他の人にも同じように、良くしてあげてね。そしたらきっと、誰もが羨む素敵な女性になれるから。」
男は柔和な笑みを浮かべ、少女の頭を撫でる。彼女は嬉しそうに頷いた。
それが、ほんの数十分前のやりとり。
現実に頭を引き戻すと、ガラス一枚隔てた先にあの靴が鎮座したままだ。それは今のところ、少女より価値があるとばかりにふんぞり返っているように見えた。実際その通りだろう。
(でも……)
恐る恐る値札を一瞥する。途方もない金額に眩暈を覚えた。
(私だって、いつかあの靴を履ける日が来るように頑張るの)
そう決意すれば、女王の靴だって怖くない。
少女は鼻で笑う素振りをすると、ショーウィンドウから少し離れて胸を張り、深呼吸した。うっすらとガラスに映る自分は幻想的なビーズカーテンの中できらきらと輝いている。まるでモデルの様だ。脚をクロスさせ、ポーズを取ってみる――すぐに通行人に笑われた。途端に気恥ずかしくなり、その場を離れる。
それでも幸福感が後を引き、帰路へ向かう足取りは気取ったモデル歩きになった。コガネ百貨店前の真っ直ぐな大通りはさながら壮大なランウェイだ。通行人は観客、意識しながら歩けば彼らの憐れむような視線も気にならない。
彼女は誇らしげな微笑みを湛えながら、街を歩いていく。
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『それでは最後に本日のビッグ・サプライズゲストに登場していただきましょう――コガネ・ガールズ・ファッションウィーク最終日、トリを務めますのはこの方!』
最新のクラブサウンドに乗せてコガネアリーナ内では無数のスポットが躍り、三万人の観衆の興奮を煽る。コガネ・ガールズ・ファッションウィーク秋冬コレクションに詰めかけた若い女性たちは皆頭からつま先まで手を抜くことなく着飾り、自慢のコーディネートを競っている。彼女たちが興奮気味にランウェイへと視線を注ぐ中――スポットライトが舞台を照らし、袖からヒールの高いグリッターパンプスを履いたモデルが現れる。たちまち歓声はピークとなった。
『女性トレーナー随一のファッショニスタ、四天王のカリンさんでーす!!』
黄色い大歓声に迎えられ、ヘルガーを引き連れたカリンが颯爽と登場する。
ハイブランドのグリッターパンプスに黒のストッキング、歩くたびにベージュのAラインワンピースがふわりと揺れて危うい淑女を演出する服装だ。シルクの生地には黒のレースがチェック模様に縫い付けられており、あちこちで「あのワンピ素敵! 似合ってる!」という声が上がる。胸元には相棒のヘルガーを思わせるような漆黒のファーショールが巻かれており、一体感を出していた。
『来季、人気ブランド“ローレライ”にてポケモントレーナー向けのファッション小物をプロデュースされるカリンさん! 今回はいち早くアイテムをお披露目です!』
イベントDJの煽りと共にカリンは観客席に向けて、にこやかに首を傾ける。アップにした髪に留めているコームやピアスが揺れ、ライトに反射して煌めいた。これがトレーナー用に彼女が開発したアクセサリー。次に傍に寄り添って歩くヘルガーの耳に装着しているICマーカーと、チェックのバンダナを撫でた。これも同様である。
「あのマーカーめっちゃ可愛いー! カリンさーん!」
ランウェイ傍のゲスト席でショーを見ていたアカネがカリンに夢中で手を振った。するとステージ端まで歩んできた彼女は、ポーズを取りながらアカネと隣に座っているミカンへ片目を瞑って見せる。コケティッシュな眼差しに、二人はあっという間に陥落した。
「す、素敵……」
この僅か数分のために用意した一眼レフがミカンの手元から滑り落ちる。
女王のウインクはそれだけで効果があった。
スポットライトの光を浴び、羨望と大歓声を受けながらランウェイを歩く彼女はどんなモデルより輝いている。その姿を収めるべく、再びカメラを構えたミカンにアカネが話しかけた。
「カリンさん、去年より綺麗になってへん?」
「そ、そうだね……」
ズームにしたカリンの笑顔――去年、アパレル店員として接客してもらった時に見たそれより明るく、色気がある。同性のミカンの心をも高ぶらせた。
「恋してるんかなー」
ぽつりと呟く友人の言葉に、彼女は過敏に反応した。
「えっ、そうなの!? だって週刊誌には誰とも付き合ってないって……」
入れ込み過ぎのミカンに、アカネは呆れ返りながら肩をすくめる。
「憶測だってば。でもほら、女の子は恋すると綺麗になるって言うやん?」
「そうだね……」
あれだけの美人、男たちが放っておくはずがない。
その上セキエイリーグメンバーでは紅一点のため、週刊誌では様々な憶測が定期的に飛び交い、ほんの少しでも情報を掴もうと躍起だ。ミカンは悪い想像をかなぐり捨て、純粋に美しい女王だけを撮ることに集中した。ヘルガーと並ぶ彼女は、ランウェイやスタジアムのフィールドでも際立って華があり、地味な自分にとって夢のような存在だ。
同じプロのポケモントレーナーだというのに、見た目も立場もこんなに違うなんて――ミカンは諦念を含んだ溜め息を漏らした。
「お疲れ様でしたー!」
ステージ裏へ戻ったカリンを出迎えてくれたのは、大勢のモデルやスタッフだった。
トレーナー界のファッショニスタとして確たる地位を築きつつある彼女は、国内アパレル業界でも羨望の的だ。
「カリンさんすっごく綺麗でしたぁ! 私、そのアクセ出たら買いますうっ」
長身の黒髪モデルがカリンの手を取り、瞳を輝かせながら勢いよく詰め寄った。ヒールがぐらついたが、すかさずヘルガーが背後に回り込んで支えてくれたため、上手く持ち直すことができた。
「ありがとう、よろしくね」
カリンは苦笑しながらモデルたちの間を縫い、メイクスペースへと帰還した。すぐに担当のスタイリストが飛んできてファーショールを回収し、アクセサリーが盛られた彼女の髪を崩し始める。
「お疲れ様でした、カリンさんとても素敵でしたよ」
「ありがとう。ランウェイを歩くのは夢だったの」
職業上、高身長揃いのモデルの中に紛れると百六十五センチ余りのカリンさえ小柄に見えた。幼い頃はファッションモデルに憧れていたものが、身長に限界を感じていつの間にか夢を諦めてしまった。だが今こうしてポケモントレーナーとして成功し、その真似事ができることを幸運に思う。傍で大人しく伏せている相棒も、主人の夢に付き添うことができ満足げだ。
「オフはファッション関係のお仕事も積極的にされるようですね。将来的にはそちらの方向へ?」
スタイリストがカリンの髪を解かしながら尋ねる。
「そうねえ……考えてはいるわ」
迷いなく答える四天王に、スタイリストは目を丸くした。
「てっきりチャンピオンを目指されているのかと思っていましたよ。今年、シンオウ地方で女性初のチャンピオンが誕生したってニュースやってたじゃないですか!」
「ふふ、相当な美人だったわね」
カリンは今春ニュースを騒がせていた、シンオウ地方新チャンピオンの容貌を思い出す。実は何度か会合に同席したことがあり、メールアドレスも交換していた。先方は筆不精らしく滅多に連絡は取らないのだが、長身痩躯の麗人のため印象に残っている。
「だからカリンさんも……って思ったんですけど」
スタイリストはカールブラシで緩い巻き髪を作りつつ、唇を尖らせた。その反応に、彼女は思わず頬を緩ませる。
「しばらく王座交代は難しいんじゃないかしら。私だってチャンピオン様にはまだ一度も勝てていないもの」
昨年、四天王採用試験をトップの成績で通過し、輝かしい記録を残してきた彼女だが――それでもマスターシリーズではワタルに一度も勝利することはできなかった。練習試合も同様である。彼の並々ならぬ王座への執念を見ているとモチベーションは少しずつ低下していき、今季の成績は仲間内ではシバにトップの座を譲ることとなってしまった。
しかし、悔しいとは思わない。
むしろずっとワタルにチャンピオンでいて欲しい、と願っている。
「あのっ、カリンさんてリーグの誰かと付き合ってるんですか?」
突然、鏡台の隅から先ほどの黒髪モデルが興味津々に顔を覗かせた。
「その質問、今年だけでもう千回は聞かれたわ」
カリンは呆れる様に肩をすくめる。すっかり慣れたが、紅一点ならではの悩みとも言えるだろう。
「だって……ねえ? あんなにカッコいい男性の中に混じってたら何かありますよねっ」
格好いい?――確かに客の前では気取っているが、ロッカールームでの肩の抜け様を見せてやりたいと思った。特に四天王の男たちは、カリンにとって幻滅する程頼りない。
しかし何となくからかってみたくなり、カリンは首を少しだけ傾けながら妖艶に微笑む。
「ふふー、知りたい?」
含みを持たせたような笑顔に、モデルは「はいっ」と威勢よく食らいついた。
「ナ・イ・ショ」
銀色のマニキュアが塗られた人差し指でモデルの頬を小突く。彼女は赤面しながら、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「ええーっ! でも、はぐらかすってことはやっぱり……」
カリンはさあね、とばかりに肩をすくめる。
「クリスマスは誰と過ごすんですか?」
「さあね」
「もーっ! 私、今年“シングルベル”なんですっ。クリスマスを一人で過ごすなんて絶対ヤダァ! だからあの、どうか……合コン企画してくれませんか?」
その提案に、カリンは「合コン〜?」と眉をひそめる。
これも四天王に就任してから数百回はお願いされた。結果は見えているので一度もセッティングをしたことはないのだが。
「そんなにいい男はいないわよ?」
と、諭してみるが彼女は引かない。
「ワタルさんとか最高に素敵じゃないですかぁっ! ダメですか?」
これも多い意見だ。
確かに彼は魅力的だが――一番近くにいる自分でさえ、振り向いてくれない。誰かに先を越されるのは嫌だった。
「うーん……」と考える素振りを見せるカリンに、バッグを咥えたヘルガーがすり寄ってくる。それをきっかけに、彼女は席を立つことにした。髪はとっくに整えられている。
「また今度ね。次の用があるから」
ヘルガーからバッグを受け取り、スタッフや他のモデルたちに会釈してステージ裏を後にした。次の予定までは時間に余裕があるのだが、これ以上絡まれては面倒なので早々に離れるしかない。
「検討お願いしまーす!」
遠くから声を弾ませるモデルに作り笑いを送ると、つられて他のスタッフやモデルたちも彼女にうっとりと見とれている。
かつては誰の視界にも入らない薄汚い子供だったが、今は皆が自分に夢中だ。履き替えたパンプスも、コガネ百貨店で購入したあの憧れのブランド。ヒールを鳴らしながら、駐車場までの通路を誇らしげに歩くと、誰もが自分を振り返る。その現状に満足しているヘルガーに、カリンは礼を言った。
「助けてくれてありがとう。あの子、私のアドレス知らないのにどうやって連絡を待つつもりなのかしら。合コンなんてセッティングしないけど」
ヘルガーは鼻で笑う。
「そういえばもうクリスマスなのね……どうしよう、私もこのままだと二年連続で一人なのかも」
と、カリンは自嘲的な笑みを浮かべた。
四天王になってから、恋愛に耽る暇もなくなった。シーズン中はトレーニングに本戦、ポケモンのケア。バトルがなくなったオフシーズンも、それが取材やメディア出演などに変わっただけで依然多忙である。女性誌のインタビューでは『美の秘訣は恋』などと適当な発言をすることもあるが、肝心の想いは実らないまま二年が過ぎようとしていた。
影を落とす主人の顔を、ヘルガーが首を伸ばして心配そうに覗き込む。
彼はデルビルの頃から心配性だ。カリンは思わず苦笑した。
「……焦ってるように見える?」
ヘルガーは黙って頷く。彼には心中がお見通しだ。
「まあ……ちょっとだけ、ね。でも大丈夫よ、平気」
ふいに屈んでヘルガーの首に腕を回す。毎日薔薇のシャンプーやボディミストで手入れしているせいか、かつての獣臭は一切しない。鼻孔に広がる広がる薔薇の香りに、心が解れる。
「本当は、あなたみたいな男が居ればいいのに」
耳元を撫でる甘い声――ヘルガーはびくりと身体を跳ね上がらせ、目を見張った。眼前にはいつも他人をからかう時の表情をしている主人がいる。
「なんてね。さあ行きましょ」
彼女は妖艶に微笑むと、立ち上がって再び駐車場へと歩き出した。
ヘルガーが慌ててその後を追う。窓ガラスに己の姿が映った。早く日が落ちた冬空に溶け込む、漆黒の身体――二人の主人に飼われ二十数年、四天王の右腕になれるほど戦闘能力は飛躍し、知恵もついて理性的なポケモンになった。込み入った内容でなければ人間の会話も何となく理解できるし、カリンの感情も本能的に察することができる。
だからこそ時々胸が痛む。何故人間に生まれなかったのだろうかと。
「ヘルガー?」
立ち止まるヘルガーを呼ぶ、澄んだ声。
いつの間にか主人との距離が三メートルほど開いている。彼は我に返ると、足を速めてその後を追った。