エピローグ
それから二日後の新聞の一面を賑わせたのは、オツキミ山で大規模な地滑りが発生したというニュースだった。付近に住民はいなかったため被害者はゼロ、ただ野生のポケモンは何十匹か巻き込まれてしまったという。シバがロケット団と遭遇した洞窟も土砂が堆積して中に入れず、捜査は一旦中止となった。警察は何者かがポケモンを使って故意に引き起こしたと疑っていたが、証拠も得られず自然災害で片付けられる方向だ。
ワタルはロッカールームのソファに腰を下ろし、その記事を読みながら首を捻った。
(……最近、ずっと天気も良かったのに。変だな)
シバの捜索のため、山に入ったときは特に異変を感じなかった。彼がロケット団と鉢合わせた直後にこの災害――あまりにも都合が良すぎる。
(ロケット団が証拠隠滅を……?)
それは警察関係者の見解でもある。昨年、ロケット団はシルフカンパニーを占領した際、レッド一人のポケモンによって壊滅させられたというが、徐々に再生しているのかもしれない。
(警察には頑張って貰わないとな。キョウさんはリーダー時代、地元市警を手助けしていたらしいし……オレもサポートした方がいいのかな)
彼は新聞をテーブルの上に置くと、スラックスのポケットからパスケースを抜き、古びたサカキの名刺を取り出した。皺の寄った名前をじっと眺める――彼は現役時代、史上最高のジムリーダーと謳われていたらしい。昨年レッドはそれに打ち勝つことができたようだが、警察はどうだろうか。シバを運び込み、通報した際やってきた捜査員たちのポケモンはチャンピオンである自分の目で見れば、まだ育成が甘く感じられた。
(検討してみるか……)
そんなことを考え込んでいると、入口の扉が急に開き、汗ばんだ上半身を晒したシバが入ってきた。がらんとした室内を見て、彼は眉間に皺を寄せる。
「ああ、他の皆は取材や会合で不在だよ。でもあと二〜三時間で戻ってくるんじゃないかな」
と、ワタルはホワイトボードの隅に新しく作った予定表を指差した。
これで行先を共有し、勝手な行動を監視しようという訳だが、急な予定が入ることが多く、開始早々ワタルしか律儀に記入していない。
「あいつらまともに訓練しているのか?」
シバは冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出すと、紙コップに三等分し始めた。
それをワタルが不思議そうに見ていると、包帯の巻かれたガラガラを引き連れたカイリキーが入室してくる。シバの相棒は礼儀正しくワタルに一礼した。それを見たガラガラがつられてぎこちなく会釈する。なるほど、休憩に来たのか――感心していると、返答がない友人をシバが睨んだ。
「ああ、ごめん。カリンは毎日二時間はトレーニングに時間を取るって言っていたけどな。オレも結構、相手を頼まれるよ」
「少ない、少なすぎる……」
ワタルは苦笑しながら、ぶつぶつと不満を垂れる友人の元へ歩む。
「オフシーズンの広報活動も大事だよ。ところで、そのガラガラ……洞窟で救ったポケモンか?」
彼がちらりと視線を向けるなり、ガラガラは骨を被り直しながらカイリキーの後ろへ引っ込んだ。人間にかなりの警戒心を抱いている。それはシバに対しても同様である。
「ああ、ロケット団に虐げられていてな……まだおれには慣れていないが、何故かカイリキーには懐いている。洞窟から脱出した際、同じボールに入れたからだろうか」
「なるほど、それもあるかもな」
モンスターボールは本来一個当たり一匹しか収容することができず、心音を検知して二匹目を弾き出してしまう仕組みになっているが、その身に卵を宿しているケースもあるため、ポケモンが二匹目を抱きかかえるようにボールに入れば一定時間受け入れられる仕様になっている。
元々ガルーラのために作られたシステムだったようで、抱えられたポケモンはボール内で卵の中に戻ったような安心感を得られるという。そこで一匹目のポケモンに母性にも似た感情を抱くことが多いようだ。
複雑そうな面持ちのカイリキーに噴き出しそうになりながら、ワタルはガラガラの前にしゃがんで目線を合わせた。
「君、これから大変だぞ。新しい主人はストイックで厳しく、容赦はしない――だが、虐げることもない。これまで以上に強くなり、君を守ってくれるだろう。良い主人だぞ、オレが保証する」
満面の笑みを浮かべると、ガラガラは複雑そうに視線を背けた。まだ人間の言葉は完全には理解していないようだ。
捕獲したばかりのポケモンを手懐けるのはプロでも時間が掛かるが、親友にかかれば問題ないだろう。照れをスポーツドリンクを飲んで隠すシバの胸には、生々しい傷跡が刻まれていた。そういえば洞窟の件をあまり詳しく聞けていない。
「そうそう、洞窟の件なんだが――」
詳細を知ろうとワタルが立ち上がったとき、ロッカールームのドアがノックされ、「ごめんください!」と若い娘の声がした。シバと顔を見合わせ、入室を促す。
控え目に開いたドアから顔を覗かせたのは、よく知った黒髪の美少女。
「あっ! お、お二人とも……こんにちは!」
「アンズちゃん、お久しぶり」
爽やかなワタルの笑顔に、アンズが頬を染めながら頭を下げると、高く結ったポニーテールがふわりと揺れた。初々しく可憐な仕草にシバは圧倒され、思わず目を背ける。
「ご、ご無沙汰してます……あの、父は……」
アンズはロッカールームを一応見回すが、父親の不在は明らかだ。
シバは急ぎ足でホワイトボードへと近付き、そこに書かれている予定を読み上げる。
「“役員会合”とある」
「すぐ戻ってくるんじゃないかな。どうしたの?」
いつになく積極的な友人に驚きつつ、ワタルはアンズに向けて首を傾けた。親しみやすい笑顔に彼女の緊張はたちまち解され、本来の溌剌としたムードが戻ってくる。
「あ、あのお弁当を差し入れにと思いまして! でも居ないなら仕方ないですね……」
アンズは胸に抱えていたコンパン柄のランチバッグを後ろ手に隠した。やや残念そうな表情を見て、すかさずシバが前に出る。
「おれが渡しておこう」
「いいんですか? ありがとうございますっ!」
弁当を渡してもらうのは実はこれで十回目。アンズは遠慮なくシバの前にランチバッグを差し出した。持ち手はまだ温もりが残っており、彼は喜びを噛み締めるようにそれを抱きかかえる。
不思議そうに主人を眺めるカイリキーとガラガラが目に留まり、アンズが尋ねた。
「カイリキー、もう怪我は大丈夫なんですか?」
「……い、今はリハビリ中だ」
「そうなんですね〜。復帰できますよねっ? 私、またカイリキーの試合観たいです! リハビリ頑張ってくださいね」
弾けんばかりの笑顔に眩暈がする。 「お、おう……」と頷くのがやっとだった。彼女と同じ時間を共有するだけで心が満たされ、幸福を得られる。これはまさに恋だろう。
「良かったらちょっと見学していく?」
口下手なシバに対し、ワタルはいかにも親しく彼女に接する。思わぬ誘いにアンズは乗り気になってしまったが、弁当の差し入れをあまりよく思っていない父親の顔を思い出し、その欲求を引っ込めた。
「長居すると悪いですし、父にお弁当よろしくお願いしますっ」
アンズは丁寧に頭を下げると、そそくさとロッカールームを後にする。
この場に父親のキョウがいればあと一時間は引き止めることができただろう。シバはホワイトボードに書かれている『役員会合』の文字を恨んだ。
「アンズちゃん、礼儀正しくて良い子だよな」
ワタルはただ感心したように述べたのだが、その台詞は親友の対抗心に火を点けた。あの娘は今でもワタルのファンである。
「ま、負けんぞ! お前には!」
つい発してしまった嫉妬。
ワタルは目を丸くする。
「何が……?」
それが何を意味しているのか一瞬理解できなかったが、友人の「しまった」と言わんばかりの表情を見てすべてを悟り、青ざめた。
「お前、まさか――」
「違う! おれはただ純粋にあの子のことが好きなだけで……断じてロリコンなどではない!」
彼は全てを曝け出しながら弁解したが、今まで女の影がなかっただけに説得力がない。ワタルは頭を抱え、一線を越えないよう釘を刺した。
「いやいや、同じだろう! いいか、絶対に手を出すなよ! 絶対にだ!」
「そんなこと言われんでも分かってる!……み、未成年のうちは見守る」
諦めるつもりはないらしい。
だがこれまでのキョウの態度を回想すると、気付かれてはいないように思われる。この件が彼に知れればまた新たな亀裂を生じさせることだろう。親友の言動を見張って危機回避しなければ――ワタルの悩みの種がまた増えた。
「まあ、あの子は可愛いとは思うが……恋愛など二の次だ」
冷蔵庫にランチバッグごと突っ込みながらシバが告げる。浮ついた雰囲気が消えた、真摯な口調だ。ワタルはやや呆れ気味に親友を一瞥した。
「まずはトレーニング?」
「一週間以上訓練を休んでしまったからな」
シバは勢いよく冷蔵庫を閉めながら立ち上がる。
さながら大樹が現れるような動作に、ガラガラは圧倒された。この人間は他と違う――野生の感性でさえ敏感に伝わってくる。思わずたじろぐ新入りに、カイリキーは誇らしげだった。
「カイリキーの抜けた穴は大きいが――おれはプロ。壁は高い程挑み甲斐がある。さて、練習再開だ」
闘争心溢れる姿は、出会った頃と少しも変りない。
「付き合うよ」
ワタルは頬を緩ませる。
「ああ、頼む」
シバはロッカールームを消灯すると、ポケモンを引き連れて先に部屋を出た。親友はドラゴンポケモンの入ったボールを装着したベルトを巻きながら後に続く。そしてすぐに追いつき――二人はスタジアム・フィールドへと続く通路を並んで歩いて行った。