第5話:亡者の巣窟
ハナダシティの大学病院は格闘ポケモンのリハビリ設備が充実しており、カイリキーはそこに移されていた。受付で理由を話して相棒の場所を聞き、清潔感ある廊下を歩いていると病院関係者や患者、ポケモンの治療に訪れていたトレーナーたちが次々と彼を振り返る。
ただでさえ目立つ大柄の体躯。申し訳程度に着たよれよれのTシャツは、熱い胸板ではち切れそうだ。その上、最高峰の格闘使いというだけあって次第に周囲はざわめきだす。シバは好奇と尊敬の視線を鬱陶しそうにはね除けながら、目的の診察室にたどり着いた。
ノックをせずにドアをスライドすると、中にいた医者と付き添いスタッフの肩が跳ねる。次いでシバの姿を見て、驚愕の声を上げた。
「シ、シバさん! どうされたんですか?」
シバは黙って簡易ベッドの上に座っている相棒を見る。
顔を合わせるのは術後初めてだった。共に磨き上げた屈強な身体には、右肩から胴体にかけて幾重にも包帯が巻かれている。人間と違ってすぐに起き上ることができたらしく、カイリキーは目を丸くしながらこちらを凝視していたが、次第にその双眸へ自責の色が滲んできた。
王座を進上できず申し訳ない――そんな表情のまま、深く頭を下げられる。シバはますます、シロガネへ行こうとした自分を悔いた。
(……おれはなんて情けないんだ)
ポケモンに謝罪させるなど、トレーナーとして最も恥ずべき行為である。免許端末を今すぐにでも本部へ返却するに等しい。腰ポケットから引っこ抜いて床に叩きつけたい衝動に駆られたが、いつまでも顔を上げないカイリキーを見ているとその勢いもたちまち萎える。
もうこれ以上、感情的になってどうする――
「お前、もう帰っていいぞ」
シバは狼狽えているスタッフに告げた。
「でもシバさん修行……」
「休んだ分は後日補う」
決意漲るその瞳に、スタッフはそれ以上何も言えず、会釈して診察室を後にした。未だ相棒は顔を伏せたままだ。医者は居心地悪そうにシバの顔を窺う。
「え、ええと……ま、まずリハビリの概要をお話ししますね……」
資料を渡しながら説明しようとした医者の言葉を遮り、シバは真摯な眼差しを向けた。
「怪我が完治すれば、また試合に臨めるだろうか」
テレビ越しに見る、勇猛果敢なプロトレーナーの佇まい。
医者は息を呑んだ。雰囲気に圧倒され、思わず頭が縦に動いてしまいそうになったが――立場上、安易な確約は許されない。
「い、いや後遺症が残る可能性もあります……あまりお勧めできません。特にプロのポケモンは……」
「時間と金がいくらかかっても構わん。治せないだろうか、おれの“相棒”を」
その言葉を聞いて、カイリキーの肩が僅かに震えた。
情けなく敗北し、選手生命の終わりを自覚していたのに、主人はまだ見捨ててはいない。
「次に王座に挑むときも、こいつで勝負したい。ワタルに勝利するまでは、終われないんだ」
人もポケモンも、戦い、鍛え続ければどこまでも強くなる――シバは今でもそう信じている。その信念が最も実現できるポケモンこそ格闘タイプだ。トレーナーを初めて早々からこのタイプを中心にトレーニングを重ねてきた。彼らの闘争心は誰よりも強く、勝利に対する姿勢は貪欲だ。
「格闘ポケモンは戦闘を宿命づけられていると思っている。それはおれも同様で、もはやライフワークだ」
懇々と語るシバの話を、医者はじっと聞き入っていた。
「だからこそ、ポケモンバトルを仕事にできることを誇りに思う。ポケモンの戦力外はこれが初だが――格闘使いとして、できるだけ現場に復帰させてやりたい。おれは相棒として、カイリキーの矜持を守りたい。だから先生、どうか協力してくれないだろうか」
決意をようやく言葉として紡ぐことができ、シバの心がほんの少し晴れる。
もしかすると――自分は最初からこの答えに導きたかったのかもしれない。シビアな現実の中に、僅かな希望を見出したくて足掻いていた。その光を灯したのは他でもない、親友のチャンピオンだ。彼はいつでもひたむきで誠実、栄光をマントのように背負って第一線を走り続けている。そして誰も見捨てない。ここでポケモンを切り捨てるようでは、いつまでも彼に並ぶことはできないだろう。
シバの真摯な眼差しを受けると、医者も無下に断れない。小さく息を吐き、頬を緩ませた。
「……分かりました。私もプロです。最善を尽くしましょう」
「ありがとう」
シバはぎこちなく会釈する。
心からの礼を言うつもりだったが、慣れていないので中途半端になった。医者は苦笑しつつ、未だ顔を伏せたままのカイリキーの右肩に触れる。
「先ほどスタッフさんと診ていた限りだと、右上の腕は下に比べてさほど重い怪我ではありませんね。こちらは一年足らずで完治するかもしれません……ええと、顔を上げてもらってもいいかな?」
カイリキーは躊躇っていたが、シバに名を呼ばれてすぐに面を上げた。その表情はやや強張っているが、感極まって今にも男泣きしそうだ。予想外の反応に、シバは戸惑うように腕を組む。
「右下の腕はやはり二年は覚悟していただいたほうがいいでしょう。その後、リハビリを続け三年目で完治できるように進めていきましょうか。もちろん、ポケモンの医療技術は日々進歩しています。場合によってはもっと早く試合に復帰できるかもしれない」
医者の台詞は、僅かに差し込む希望の光となった。シバはカイリキーと目を合わせ、その熱意をシンプルに告げる。
「諦めんぞ」
カイリキーも覚悟を決め、しかと頷いた。
彼らの間に再び芽生えた闘争心は、医者の心にも火を点ける。
「では一時間後にリハビリを開始しましょう。準備が整いましたらお呼びいたします。すみません、いろいろ立て込んでいるものですから……」
「いや、構わない。むしろ、ありがとう」
「待ち時間は……そうですね、屋上庭園などを歩かれてはいかがですか?ハナダの街が一望できますよ。ハナダは花咲く水の街と言いまして、整備された水路と自然が素晴らしく調和した美しい都市なんです」
病院に来るまでは殆ど目に入らなかったが、今ならそれを楽しむ余裕がある。
シバは組んでいた腕をほどくと、無言で頷きながらカイリキーの左肩に軽く触れた。
「行くか」
カイリキーが心底嬉しそうに頷き、彼の後に続く。
逞しく並んだ二つの背中を、医者は誇らしげに見送った。
+++
病院の屋上に出ると、シバは今日という日が十一月初旬だというのに暖かく過ごしやすいことに初めて気が付いた。心地よい風が頬を撫で、柔らかな太陽の下、高台に位置する大学病院からハナダシティの風景が広がっている。近代的な街並みの中、水と自然が調和しており、あの担当医が言っていたように心が洗われる美しさだ。
(骨を埋めるならこういう町がいい)
街の西方にそびえるのはオツキミ山。晩年はあの麓辺りでひっそりと暮らせればいい――そんなことを、ふと考えた。
「綺麗に整えられた街よねえ」
その時、背後で懐かしい声がする。反射的に振り返ると、一年ぶりにその姿を見るかつての仲間が立っていた。
「……キクコ」
去年旧四天王が解散し、それ以来一度も顔を合わせることがなかった元同僚だ。
解散時に引退を宣言したが、新生セキエイ誕生後にそれを撤回したということはワタルから聞いていた。久しぶりに見る彼女は、小柄だが相変わらず刺々しい雰囲気を醸し出している。傍には一輪の菊の花を持ったゲンガーがおり、連れ歩いているようだ。
「相変わらず、無愛想だね。人気者なんだから、もう少し愛想良くしたらどうなんだい?」
彼女は持っていた杖でシバの足を小突きながら、近くにあった備え付けのベンチに腰を下ろした。シバは目を丸くする。
「何故お前がここに」
「ババアが病院に通うのが可笑しいのかい? この年になるとね、あちこちガタがくるから定期的に医者に診てもらわなきゃいけないんだよ。旅しながら医者に通うのは面倒でたまんないよ。でも、セキエイの大スター様にお会いできたのは光栄だけどね」
ちっとも変っていない、歯に衣着せぬ物言いにシバは安心感を覚えた。皮肉っぽい言葉を選ぶのは総監も同様だが、彼女とは友好が根付いているままなので、少しも嫌悪感はない。
「……で? あんたの相棒は治りそうなのかい?」
キクコはシバの傍に立っているカイリキーを杖で示した。
「ああ、時間は掛かるが……なんとかなりそうだ」
「そりゃ良かった。マスコミの屑どもはカイリキーを戦力外だなんだ言ってるが……あたしは、シバがそう簡単にポケモンを切り捨てたりはしないと思ってたよ」
途端にシバの顔が強張る。
カイリキーとキクコを見ないように、視線をハナダの風景へ移した。
「いや……おれはこいつが怪我してから、迷ってしまった」
屋上に心地よい風が吹き抜け、罪悪感を纏った大きな背中が揺れる。
キクコにとっては意外な反応だった。あれほどストイックでポケモンと共存している彼が、苦悩する姿を見せるなんて。しかし彼女はそれを許容するように、頬をやや緩ませた。
「ふうん、意外と正直なんだね」
シバは目線を少しだけキクコに戻す。
「愛着の湧いたポケモンの故障って現実は誰も最初は受け入れ難いものさ。それが続くと、心を病んでしまう人間だってザラだよ。だからあたしは怪我しにくいゴーストポケモンしか使わないんだ。だからこの年になっても、しぶとくトレーナーを続けていられるってワケ」
「そうなのか」
それは五年間、彼女と共に戦ってきたシバさえも知らない事実だった。勝気で皮肉屋のキクコが、ポケモンの故障を恐れてタイプを選んでいたとは、にわかには信じられない。
「昔はポケモンの医療やバトル制度が未発達だったからさ……ポケモンリーグで試合をするたび、故障する子が多く出ていたね。あの頃のスタジアムはローマの闘技場みたいだったよ。重傷を負って戦力外、日常生活もままならない……そんなポケモンが山ほどいた。そういうの、どうすると思う?」
キクコが鋭い視線をシバへ向ける。彼は少し間を置いた後、いち早く浮かんできた答えを告げた。
「……捨てるのか」
「当たり。ちょうど、そこのオツキミ山の麓にある洞窟にね、捨てちゃうんだ。これはもう、本部の上の連中しか知りえない話なんだけどね。もちろん当時のハナダには袖の下を渡していたと思うよ」
「なかなか酷いことをしていたんだな」
シバは再びハナダシティの街並みへ目を向ける。荒んだ心を洗い流してくれるほど、美しく整備されているが――その事実を聞くと、ひどく汚らわしい風景に見えた。キクコは嘲笑を含みながら話を続ける。
「馬鹿な連中だよねえ。故障に強いポケモンを作ろうと品種改良を進めてたりもしたようだけど……結局失敗しちゃったみたいだよ。ざまあないね……でも、あたしも知ってて何もできなかったんだ」
老女はゲンガーが持っていた菊の一輪花束にそっと手を伸ばした。見事に咲いた菊へ鼻先を近づけると、ふわりと芳しい香りが広がる。
「犠牲の上に栄光が成り立っていると言っても、やっぱり浮かばれない。死んだポケモンの魂がゴーストになってあたしの元へやって来てくれるなら、快く受け入れるよ。この花も、せめてもの供養だ。ずっと昔から週に一度、洞窟の入り口に花を手向けていたんだけど……でも、最近はだめだね。腰をやっちゃってさ、近くへ行けないよ」
無念そうに苦笑するキクコの横顔は弱々しく、ひどく老け込んで見える。愁いを帯びた姿はシバも見捨てておけず、浮かんだ言葉が直ぐに口を突いた。
「……おれが行こう」
キクコは目を見張った。
「えっ? 病院抜けられるのかい?」
彼はゆっくりと頷く。
「リハビリまで一時間待ちだ。洞窟の入り口までなら、ボスゴドラで行って戻ればちょうどいい頃合いだろう」
キクコはやや躊躇していたが、ここまで心中を吐露したのだし、その好意に甘えることにした。
「ふうん……頼もしいね。それじゃあ、お願いしようかな。ああ、この話は内緒にしておいてね。本部に知られると面倒だから」
「ああ、勿論だ。任せてくれ」
菊の花を受け取るなり、彼はすぐに身を翻して屋上の出口へと向かって行く。近況を聞くなどして話を広げないのは昔から変わらない。後を追うカイリキーを目で追いながら、キクコは小さく息を吐いた。
「……相変わらずだね、あいつは。新しいセキエイで上手くやってるのか不安だよ」
隣に座っていたゲンガーも頷く。その時、ふいに冷たい風が吹き抜けキクコの小柄な身体を震わせた。
「寒くなって来たね。そろそろ中へ入ろうか」
彼女は立ち上がって、灰色がかった晩秋の青空を仰いだ。
+++
病院から遠く見えたオツキミ山の麓は、ボスゴドラの背に乗って二十分程度で到着した。洞窟の詳しい場所は聞いていなかったが、常日頃霊峰シロガネ山で修行している身として、洞穴などが存在すればすぐに察知できる自信があった。それらしき入口の前に菊を手向けよう――シバはそう考えていたのである。
麓の林へ足を踏み入れる前に、シバは改めて周辺を見回した。すぐ傍には栄えたハナダシティが隣接しているというのに、この辺りに民家はなく人の気配も感じられない。もし野生のポケモンに遭遇し、深手を負って身体の自由が利かなくなれば誰にも見つからずに命を引き取ってしまいそうなほど閑散としていた。その点ではシロガネ山に酷似している。
(手持ちを多く持ってくるべきだったな……)
カッとしたままロッカールームを飛び出して来てしまったため、手持ちは遠出する際の足にしているボスゴドラと相棒の二匹のみ。勿論ボスゴドラはタイトルマッチでも充分通用する実力を備えているが、百戦錬磨のプロトレーナーといえど戦えるポケモンが一匹のみというのはいささか不安である。
「……頼むぞ、ボスゴドラ。カイリキーは手負いなんだ」
シバは傍でじっと主人の動向を窺っていたボスゴドラに言い聞かせる。鉄鎧ポケモンは主人の腰のベルトに装着されているカイリキー入りのボールを一瞥しつつ、神妙な顔つきで頷いた。カイリキーはシバの手持ちポケモンたちの中でもリーダー的存在で、信頼も厚いためボスゴドラの責任感は大きい。
「さて、洞窟を探そうか」
彼は菊の一輪花束を携え、林の中へ入って行った。
静寂の森林に、枯葉を踏む足音だけが寂しく響いていく。周辺は光が遮られて薄暗く、時折木枯らしによって枝葉が擦れ、不気味な雰囲気を演出していた。ふいに物音がしてそちらを向くと、野生のナゾノクサやコラッタが物珍しげな表情で顔を出す。しかし、ボスゴドラの姿を見てすぐに退散していった。
「あまり強いポケモンはいなさそうだな……」
安堵が混ざった息を吐く。
道を阻む小枝や蜘蛛の巣を払いのけながら前を進むうち、彼はあることに気が付いた。
(……意図的に作ったような道があるな。しかも新しい)
林の中はいくつかの獣道ができていたが、その中でも明らかに違和感のある一本道。まるで巨大な蛇が這ったような跡で、後ろには人間の足跡が複数続いている。さらに周辺の木々や草花は、鋭利な刃物を用いたように刈られていた。これらの状況から、シバの脳裏に一匹のポケモンが浮かぶ。その予想を確信させるため、より注意力を払って木々を観察する――と、ある大木の幹が紫色に腐食していることに気が付いた。
(やはり)
小さな野生ポケモン達を見て緩みかけていた警戒心を引き締める。
「気をつけろ、ボスゴドラ。ハブネークを持ったトレーナーが近くにいるようだ。人間は複数……試合を挑まれる可能性がある」
傍についていたボスゴドラは目を丸くしたが、状況を察してすぐに頷いた。
(ハブネークに先導させ、草木を刈りながら進んだ跡がある。)
何故こんな場所に立ち入るのだろうか。
キクコと同じように、洞窟に供養へやってきたのだろうか? それにしても、道の切り開き方は荒っぽく、ハブネークはあまり良い育て方をされていないように思われた。
その道に添って歩くこと五分――明らかに周辺の空気が一変した。地面を覆っていた枯草の色はどす黒くなり、生温い風がシバを嘲るように撫でる。
(なんだここは?)
茂みから時折顔をのぞかせていた野生ポケモンの気配は一切なくなり、影が落ちた木々が薄気味悪い音を響かせるのみ。これほど生命力を感じない場所は珍しい。まるで冥府の入り口へやってきたようだ。
ふと、緊張気味に周囲の様子を窺っていたボスゴドラが何かを視界に捉えて首を伸ばした。シバもそちらを向く――数メートル先、草木の間から黒い闇が覗いている。洞窟の入り口だ。
「……キクコはこんなところまで来ていたのか」
あの七十を越える老体でよくここまでやって来れたものである。シバは小さく肩をすくめると、そちらへ向かうことにした。ハブネークの這い跡は洞窟へと続いている。不思議に思いつつも、入口に菊の花を立てかけておいた。これで役目は終わりだが――小さな好奇心が、洞窟の奥へと視線を向けさせた。
ボスゴドラがなんとか潜れそうな入り口の向こう側は深淵の闇、ぽつり、ぽつりと水が滴る音が聞こえてくる。意外に規模が大きそうだ。時間と手持ちポケモンに余裕があれば探索でもしてみるところだが、今はその余裕がない。シバがくるりと背を向けたとき――暗黒の底から、唸るような鳴き声が聞こえた。
「なんだ……?」
すぐに身体が反応する。
まるで喉を掻き毟るような悲痛な絶叫は、明らかにポケモンのものだ。ハブネークのトレーナーが関係しているのだろうか? ここは聞かなかったことにして立ち去るべきだったが、足は自然と洞窟の中へ動いた。入り口でつっかえるボスゴドラを一旦ボールへ戻し、照明モードをオンにした免許端末を手に暗闇の中へ。段差上の岩場を降りると、靴の裏で何かを踏んだ。この硬く丸みのある感触は、モンスターボール。
「やはりトレーナーが……」
ボールを拾い上げるなり、シバの心臓が跳ね上がる。そのボールは艶消しの黒塗り加工が施されており、上部に『R』と描かれた赤いロゴが刻印されていた。
「ロケット団……!」
ロケット団はカント―・ジョウト地方で勢力を拡大していたポケモンマフィアである。
友人のランスも犯罪に関与し、彼は塀の向こうに行ってしまった。去年解散したとしきりにニュースでやっているが、何故その組織のボールがここにあるのか。土埃を被っておらず、まだ新しい。
(ここは奴らのアジトなのか?)
見たところボールの中身は空である。シバはそれをカーゴパンツのポケットに仕舞いこむと、これ以上進むべきか躊躇した。ポケモンバトルの腕には絶対の自信があるものの、現在手持ちはボスゴドラ一匹のみ。恐らく相手はルールが通用しないアウトローである。下手に首を突っ込んでは命を落としかねない。
(戻るべきか……)
その迷いは洞窟の奥から響く、ポケモンの断末魔の悲鳴と共にかき消された。
(ここで聞かなかったふりをして逃げるのか?)
免許端末は圏外、電波が届かないため通報することも不可能だ。
つまり、今ポケモンの危機に駆け付けられるのは自分のみ――ボールに納まっている手負いの相棒を一瞥すると、カイリキーは唇を一文字に結び、ゆっくりと頷く。ぜひ守ってほしい――そんな意志と共に芽生えた正義感が、シバを闇の中へと向かわせる。
しかしその足はすぐに止まった。
「……水路か」
陸地はそこで途切れ、茶褐色の河が暗黒の先まで伸びていた。ゆっくりと波打つ水面からはポケモンが中で息を潜めている気配がする。
「行くぞ、ボスゴドラ」
シバはボールからボスゴドラを繰り出すと、河へと潜らせた。鋼の筏の上に乗り、悲鳴の場所を目指す――が、数メートル進んだ途端、泳いでいたボスゴドラが直ぐに危険を察知した。
「きたか!」シバが腰を浮かせると同時に、水面に無数の影が浮かんでボスゴドラを取り囲む。全てゴルダック、それも十数匹はいるだろう。一斉に飛び上がって、シバに襲い掛かってきた。
「アイアンテール!」
彼も隙なく応戦するが――照明の光の中へ飛び込んできたゴルダックたちを見て仰天した。どのポケモンにも、つい先ほど負傷したような生々しい傷が刻まれていたからだ。彼らはボスゴドラには目もくれず、シバただ一人へ憎悪を称えた虚ろげな双眸を向けている。
(これは……)
ボスゴドラは鋼の尾を振り回してゴルダックの群れを薙ぎ払った。しかし水が纏わりついて威力は半減し、弾き飛ばされたゴルダックは再びシバを狙って進撃する。
(おれを殺しにかかろうとしているのか?)
ポケモンがここまで人間に厭悪を示すケースは珍しい。
彼らに手負いをさせたのはロケット団だろうか? そんな考えが脳裏をよぎった時、闇を映した黒い河が大きく波打って津波を形成し、シバをボスゴドラごと飲み込んだ。
それが“水の波動”という技だと理解した頃には視界に暗黒が広がっており、聴覚や嗅覚も水圧によって麻痺してしまう。並の人間ならパニックを引き起こしてしまうところだが、日々極限まで己を高めている四天王シバは冷静だった。
(水面に上がると、また狙い撃ちだ。ここは一旦引くしかない)
すると、足元から突き上げるような気配が身体に伝わる。
ボスゴドラの鋼の皮膚に映し出される赤黒い影――徐々に形を成し、シバはそれがアズマオウだということを察知した。やはり自分を標的にしているのは変わらない。彼はボスゴドラの頭に触れ、アイコンタクトを送った。鉄鎧ポケモンは頷くなり、アズマオウを十分引きつける。一直線に主人へ襲い掛かろうとする巨大な金魚目掛け、大きく頭を振りかぶって、アイアンヘッド。見事顔面を直撃し、アズマオウは悶絶した。
(このダメージなら捕獲できるか……)
シバはカーゴパンツのポケットからロケット団仕様のモンスターボールを取り出すと、中央の開閉スイッチを五秒長押しする。スイッチが赤く点灯し、捕獲モードに切り替わったことを知らせた。使い方は市販のモンスターボールと同じらしい。
ボールをボスゴドラの尾で巻き付け、水流に任せてアズマオウの額に擦りつけると、搭載されているセンサーがアズマオウのDNAを読み取ってポケモンと判断。そのままボールの中へ取り込んだ。アイアンヘッドで脳震盪を起こしているアズマオウは無抵抗のままそれに収まり、ボールのスイッチランプが青色へ変化する――捕獲成功。
すぐにボスゴドラがそれを回収し、シバに手渡した。彼はポケモンを労いながらボールへ戻すと、入れ替えるようにアズマオウを召喚して背びれを掴む。シロガネで鍛えた肺活量により、水中でもまだ息が続いているが、一秒たりとも無駄にはできない。彼は困惑しているアズマオウの背を撫でながら、河の上流へ進むよう指示を出した。なかなか上がってこないシバを見かねて、ゴルダックらが次々水中へ潜り直してくる。
早く逃げなければ――彼はアズマオウを急き立てた。すると身体が引っ張れる感覚と共に、荒っぽく金魚は発進する。
(……専門外のタイプは苦手だ。感覚が掴みづらい)
彼はアズマオウにしがみ付きながら、水の流れに身を任せた。ほとんど暗闇で視覚と聴覚は機能しない。まるで冥府の河をダイビングしている感覚に陥った。平常心まで流され、このまま落命してしまう可能性も含んでいる。つい数時間前まで、恵まれたセキエイのリーグ本部施設にいたというのに。
(あそこは悪くない環境だった……ワタル以外の仲間とは特別仲が良い訳ではないし、仕事以外で交流もなかったが――ただ、居心地が良かった)
そこに亀裂を生じさせたのは、他ならぬ自分だ。徐々に息苦しくなり、心身共に苦痛がじわりと押し寄せてくる。
(おれは戻れるのだろうか)
そんな疑問が浮かんだ時、アズマオウの潜水速度がガタリと急落した。どうやら周囲が岩壁に囲まれている場所にたどり着き、これ以上進めないらしい。
シバはアズマオウの背中を軽く叩き、浮上するよう指示を出す。次第に視界は薄らいでいき、ようやく水上に顔を出すことができた。湿気を含んだ酸素をたっぷりと取り込みつつ、河の周囲を確認するが何故か野生ポケモンの気配はない。
(なんだ……?)
彼は呼吸を整えながら、アズマオウにしがみついて陸地の様子を伺った。辺りを照らしたかったが、免許端末はダイビング中に流されてしまったらしく、夜目をきかすしか術がない。身体に張り付くTシャツを脱ぎ捨て辺りに目を凝らすと、やや遠くに仄明るい場所が目についた。
(灯りがある)
次の瞬間、鈍い音と共にポケモンの悲鳴が反響する。シバはすぐに問題の現場に到着したことを理解した。落ち着きを取り戻しかけていた心臓が、再び早鐘を打ち始める。神経はみるみる研ぎ澄まされ、彼は息をひそめながら現場に近付いた。
「おお、やはりここのポケモンはモノが違いますねェ! そこらの雑魚共とは比べ物にならない」
四十代ほどの猫背の男が、下品な笑みを湛えながら地面に転がったガラガラを眺めていた。息も絶え絶えになっているポケモンの傷口に靴底をなすりつけ、噴き出た血液を精密機器で採取する。数秒後、片手に持っていた小型端末に様々なデータが表示された。
「やっぱり人間もポケモンも修羅場潜っていると強くなるって訳ですかねェ」
彼の背後には一匹のハブネークがとぐろを巻き、周囲の様子を伺っていた。更にその奥にはゴローニャが立っており、漆黒のコートに中折れ帽を被った人間がその岩肌にもたれ掛っている。中折れ帽の男は息を吐く。
「そのゴミが戦力になるとは思えんのだが」
独特の低い声から察するに、中年代の男のようだ。
猫背の男は苦言を気にせず、爪先でガラガラを転がしながら、狂気じみた笑顔を浮かべる。
「ええ、もちろん。こいつらは“種馬”です。これを元手にサラブレッドを生み出すんですよォ! 卵五十個くらい産ませりゃあ、一〜二匹はより強靭なダイヤの原石が見つかるって算段で」
嬉々として理想を語る彼に対し、中折れ帽の男は「……効率が悪いな」と呆れた様に呟いた。猫背は慌ててフォローする。
「いえいえ! 促進剤を注射すりゃあ、産卵スピードも上がりますから! もちろん質はそのままです。ギンガ団さんちの作る促進剤は“育て屋”世界では有名で……アレッ!?」
会話しながらデータを確認していた猫背が、突然素っ頓狂な声を上げた。頭痛がするほど気の利かない悲鳴に、中折れ帽の男は眉をひそめる。
「うっわ、コイツ生殖機能低下してやがる! 卵産めねえじゃねえか!」
「……あれだけ嬲れば当然だろう」
呆れ果てる中折れ帽の男に対し、猫背は必死に弁明する。
「いやいや……だって、ねェ! ポケモンは痛めつけてから捕獲するモンですから……使えない使えない使えない……」
猫背は念仏のように繰り返し唱えていたが、鬱陶しそうな中折れ帽の視線に気付いてすぐに下品な笑みを浮かべた。
「ところでなんでわざわざボスはワタシの“お散歩”に付き添ってくだすったんで? 十人も手下を付けてくださるし……ポケモンの捕獲が目的じゃァないんでしょ?」
「目的はお前と似ている。ただしそんなカスには興味ない。俺が欲しいのは、“最上級のゴミ”だ。それはこれからの計画に大変有益な存在になる」
それを聞いて、猫背の表情がぱっと輝いた。
「へえ、ポケモンですか? そいつはいい卵産んでくれるんですかねェ? コッチにもおこぼれ貰えるとありがてェんですが……」
「種馬に利用するつもりはない」
「ざ、残念っ!」
猫背はソーナンスのようにケタケタと額を叩いていたが、すぐに殺意を宿した眼差しをガラガラへ向けた。
「ほんじゃまあ……卵も産めないクズポケモンちゃんはネンネしてもらいますかねェ〜……おい、ハブネーク」
水中に身をひそめて様子を窺っていたシバでも、猫背が何をしようとしているのかすぐ理解できた。動揺し、ほんの僅かに首を伸ばした瞬間――中折れ帽の男がメガトンポケモンから身体を離し、右手を構えると同時にゴローニャが動く。主が指を弾く音に重ねて、岩肌の隙間から鋭い岩石がシバのいる水面に向けて発射された。
彼は反射的に身を捻って回避すると、アズマオウをボールに戻しつつ、陸地へ転がり込む。猫背の男が吃驚の声を上げながら腰を抜かした。
「ひ、ひェッ! なァんで人間が……」
地に這いつくばる猫背を押しのけ、中折れ帽の男がコートの裏からS&W社製のリボルバー銃を抜くと、シバに照準を合わせながら前に出る。シバの顔を見るなり、男は感心したように眉を動かした。
「見たことがある顔だ」
突きつけられた銃口に息を呑みつつ、シバもゆっくりと顔を上げた。
「お前は……」
猫背の足元に置かれている照明が、中折れ帽の男を煌々と照らす。
体格のいい身体から滲み出る、静かな狂気――現在も度々ニュースに取り上げられるので、その名はよく知っていた。
(ロケット団の首領、サカキ……)
みるみる血の気が引いていく。河に潜っていたことも相まって、体温は急激に低下していた。シバは湧き上がる恐怖を覆い隠しつつ、銃口の先に見えるその男を睨み据える。