第4話:亀裂
ゆっくりと顔を上げた親友の表情は、普段通りの見慣れた仏頂面だった。
彼は他の仲間たちの様に愛想が良いわけではなく、気の利いた冗談も言わず、空気に逆らう嫌いがある。それは長年の付き合いであるワタルが最も理解しているのだが、今はそれが苦痛で仕方がなかった。憎悪を内に秘めたような双眸に睨まれると、チャンピオンといえども思わず後ずさってしまう。
「それは……?」
ワタルはシバの手元に重ねられている、パンフレットらしき書類に目線を動かしながら口を開いた。たった三文字の質問だというのに、言葉に変えるだけで息苦しい。
「……リハビリの資料だ。病院で貰った」
いつも通りの素っ気ない回答が、一層冷たく感じられた。
「そ、そうか」
そこで話は途切れた。
数分の沈黙の後、手持ち無沙汰になったワタルは冷蔵庫へと歩み、その場しのぎにミネラルウォーターを口にする。するとシバが、パンフレットを読みながらゆっくりと呟いた。
「手術は成功した。経過も順調だ。今日、ハナダの大学病院に移るらしい」
突然話を振られ、ワタルの肩が跳ね上がる。そう、まずは手術の成功を労うことを忘れていた。慌ててボトルのキャップを締め、親友に向き直る。
「新聞で読んだよ……本当に良かった」
「だが、もう試合には出られまい」
畳み掛ける様な一言。ワタルの全身から血の気が引いていく。
「……そ、そうか。残念だ……」
やはり三年のブランクは大きい。
リハビリを続けて容体が回復しても、プロの実力に適うポケモンではなくなるのだ。親友の相棒に選手生命の終止符を打った衝撃は大きい。自分にできることなら何でもしなければ――ワタルが覚悟を決めたとき、シバはテーブルにパンフレットを置いて立ち上がった。
「早速、次を育成しなければな」
ソファに掛けているタオルを首に巻く姿を見て、ワタルは目を丸くする。
「え? 大学病院に行くんじゃないのか」
「おれは大きな戦力を失った。病院の付き添いはスタッフに任せ、これからシロガネで訓練してくる」
たった二日前に相棒の故障を目の当たりにしたばかりというのに、この切り替えの早さ。驚きを通り越し、無神経にすら思えてくる。それともまだショックが抜け切れていないのだろうか?
「そんな……見舞ってやれよ。お前の相棒だろう?」
困惑するワタルに、シバは重々しく答えた。「元、だ」
「いや、しかし……!」
ワタルは傍をすり抜けようとしたシバの腕を掴んで引き留めようとした。だが親友は振り向きざま、その手を乱暴に払うと、強い口調で苛立ちを露わにする。
「カイリキーの抜けた穴は大きい。オフシーズン中に鍛えなければ、来季おれまで戦力外になってしまう。そんな醜態晒せるか!」
その時、控えめにドアが開く音がしてカリンが顔を覗かせる。張りつめたロッカールームの空気に、彼女も入室を躊躇っていた。ワタルはカリンの視線を気にしつつ、それでもシバに一言言わずにはいられない。ポケモンを無慈悲に切り捨てる、親友の真意を確かめたかった。
「それは理解できるが、だからといって故障したばかりのポケモンを人任せにしていいのか? カイリキーは切り捨てられたと思い込んでしまうかもしれない。メンタルに影響し、リハビリの進行が悪くなって回復が遅れるぞ」
至極真っ当な、彼らしい意見だ。
シバにはそれが不愉快だった。打ちのめされているこの状況下において、加害者側に正論を持ち出されると被害を受けた己がより惨めに感じてしまう。まだ現実を直視できないというのに――
「……戦えないポケモンは後回しだ」
しかしワタルは食い下がる。
「じゃあ、オレが病院に付き添うよ。少しでも協力を……」
苛立ちが限界に達し、憤りに変わった。
「余計なことはするな!」
鋭い怒号がロッカールームの空気を汚染する。
ワタルは臆しつつもそれでも何とか反論しようとしたとき、廊下で様子を窺っていたカリンが先制して声を上げた。
「あなた、トレーナーとして終わってるわ」
プライドを踏みにじる言動が、彼の感情を逆撫でる。
「女は黙っていろ」
シバは重々しい口調で跳ね返したが、カリンは物怖じしなかった。怒りに任せてドアを開け放ち、ヒールを鳴らしながら二人の間に割って入る。
「都合が悪いといつもそれね。ポケモントレーナーに性別は関係ない、プロだからってポケモンを蔑ろにするのは最低だわ。いつまでも拗ねてないでワタルの気持ち、汲みとってあげなさいよ!」
「お前らに何が分かる!!」
シバはとうとう逆上し、傍にあった冷蔵庫の扉を殴りつけた。格闘ポケモンと共に鍛えている腕力が表面を陥没させる。自分を見下すようなカリンの態度は癪に障った。相棒を失うストレスと相まって、彼の不満を刺激するのだ。
ワタルは慄いているカリンを守る様に、シバの前に立ちはだかる。
「分かるよ、ポケモンを失いかける気持ちは……」
「それならほっといてくれないか?」
沸き上がる怒気は勢いを増す。
しかし、ワタルはきっぱりと言い放った。
「カイリキーを故障させたのはオレの責任だ。でも、今のお前は間違ってる」
「何だと? 偉そうに!」
反射的にシバの腕が伸び、ワタルの襟に掴みかかった。カリンが止めようとしたが、体格差がありすぎてどうすることもできない。ふいに気配を感じて振り返ると、ドアの外で練習上がりのイツキがこの状況を見て硬直していた。
ワタルは何も抵抗せずに、思いの丈を叫んだ。
「カイリキーはお前の相棒で、それを誇りに思って今まで頑張ってきたんだ。戦うことが生き甲斐で、本当にお前のことを尊敬しているのが傍から見ていても分かる。だからこそ怪我の原因を作ってしまったことは本当に悪いと思っているし、悔やみきれない……でも、今ここでお前がカイリキーを無慈悲に切り捨てると、彼の生き方全てを否定するんだぞ!」
――なぜこいつはおれのポケモンを、おれ以上に理解しているんだ?
シバは一瞬困惑した。
己の不甲斐なさが際立って憤りが込み上げてくる。無意識のうちに、空いていた左腕を振りかぶっていた。
「気が済むまで殴れよ。だが、見舞いには必ず入ってくれ。誇りを踏みにじる真似はお前らしくない」
ワタルは抵抗せず、受け入れる様に歯を食いしばる。その態度が、シバの感情をかき乱した。
彼が少しでも悪者になってくれれば、この怒りも気休め程度には収まるというのに――何故故障の原因が、ワタルのポケモンなのだろうか。そのまま怒りに任せて殴り掛かろうとした時、ドアの前で固まっているイツキを突き飛ばしてキョウが割り込んできた。彼は二人の肩を掴んで乱暴に引き離すと、「お前ら、いい加減にしろ!!」と落雷の如く一喝する。
「故障ぐらい受け入れられなくてプロが務まるか! 殴ってる暇があったらな、リハビリ行け馬鹿野郎!」
激しく色を成した説教はシバを我に返らせるには十分な威力を誇っていた。しかし場はひどく険悪でイツキは半泣き、カリンも黙りこくったままワタルの後ろに隠れている。
これまで何となくまとまっていた五人の間に、木枯らしのような寒々とした風が吹き込んできた。ここまで状況を悪くしたのは他ならぬ自分の責任である――シバは居た堪れず、ロッカーからTシャツとボスゴドラの入ったボールのみを掴むと、立ち尽くすイツキを押しのけて部屋を出て行った。その後ろ姿をワタルはすぐに追おうとしたが、爪先を動かした瞬間、キョウに腕を強く掴まれる。
「辞めとけ」
「でも……」
「今、お前は何をしても逆効果だ。そもそも故障させてまだ日が浅いのに、あいつの神経を逆撫でするなよ。立場分かってるのか?」
的を射た指摘に、ワタルは「……すみません」と擦れる声で謝罪した。
「心配するなって。あいつは腕の立つトレーナーなんだから、わざわざ言わなくてもカイリキーのケアはするだろうさ。本人が頼み込んで来たら、ハンデ持ちで戦うコツだって教えてやるよ」
彼はワタルの背を軽く叩くと、普段通りの飄々とした笑顔を見せた。そして何食わぬ顔でロッカーに置いていた書類をまとめ、「これから取材だから」とそのまま部屋を後にする。ワタルは改めてキョウの性格を羨んだ。
「大丈夫?」
カリンが顔を覗きこみながら心配してくれる。
「ああ……」
ワタルは力なく答え、テーブルに散らかっているリハビリのパンフレットを片付け始めることにした。
使用者が二人も去ったロッカールームは広々として、とても侘しい。吐き気を催すほどの不安を覚えたイツキは、「僕……トイレ!」と言いながら部屋を飛び出した。もちろん嘘であるが、今彼を気にかける者はいない。ドアを閉めて部屋から離れた後、ベルトからネイティオの入ったモンスターボールを取り外した。
「とても居辛いよ……」
溜め息をつく主人を慰めるように、ネイティオはポーカーフェイスのまま頷いた。
「僕はセキエイの雰囲気、すっごく気に入ってたんだ。みんな年上で大人だからさ、大した喧嘩もなかったじゃん。オフに遊んだりしないし、そこまで仲良しでもなかったけど、居心地のいい独特の空気があったのに。今は酷過ぎるよ……どうすればいい? 僕にできることは?」
ネイティオは『口出しするな』と言わんばかりにかぶりを振った。
「時間が解決するってこと? いつ仲直りするのかなぁ……そういう未来は見えないよね」
イツキは期待を込めて相棒を一瞥するが、結果は無反応だった。ネイティオはある程度の未来予知が可能だが、ここで手を貸してしまってはまた主人を甘えさせてしまうと判断してのことだ。イツキは再び溜め息をつくと、虚ろな表情で駐車場へと向かって行った。
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「ここがセキエイスタジアム、栄光のバトルフィールドです」
同時刻、スタジアム内の北側ベンチ上観客席では総監やフジ含むポケモンリーグ役員が来客の対応を行っていた。客人たちは皆、上等な仕立てのスーツを纏い、広大なフィールドを惚れ惚れと眺めている。総監は蓄えた口髭を解しながら、得意げに微笑んだ。
「さっきまでワタル君たちが練習していたらしいんですが、早めに切り上げたらしい。試合が見られず残念ですね」
「いえ……とんでもない。彼らはご多忙でしょう。故障のフォローに追われているでしょうし」
十人ほどの来客のうち、五十代位の眼鏡をかけた恰幅のいい男が総監に向き直って皮肉たっぷりに告げる。本部役員たちは不愉快そうに顔を見合わせたが、総監は眉ひとつ動かさず、貼り付けたような笑顔で返した。
「ええ、そうですね。お役人さんのつまらない視察に付き合っている暇はありません」
彼らは政府の重鎮たちである。総監へシニカルな先制をかけた男はその代表――事務次官だ。国のトップ官僚がわざわざ足を運んでいるというのに、この強気で雑な扱い。事務次官は眉をひそめながら大げさに肩をすくめた。
「それが適当だ。ところで話は変わりますが……本部が省庁から民営化して、何年経ちましたかな」
「四十数年くらいですかね……おや、こちらも役人気質が残っているとでも?」
「とんでもない! 総監はその間ずっと本部の立役者として活躍されておられた……これは素晴らしいことですよ。ただね、ポケモンリーグ本部さんはあまりに我々を気にしてくれないものですから……もう少し各省庁にもご協力いただけますと嬉しいのですが。どうか穏便に、仲良くやりませんかねえ……? 特に警察や防衛省、教育機関はね」
過去に『小さな政府』を打ち出した行政から切り離された環境庁・携帯獣管理局は、ポケモンリーグ本部として民営化した。総監はその当時から活躍している中心人物である。当時この国で害獣扱いされることが多かったポケモンは、彼の力量によって人々のかけがえのない存在となり、いつしかリーグ本部は政府さえ一目置く組織へと変貌していた。
伺いを立てる事務次官に対し、総監は誇らしげに白い歯を見せる。
「うちで協力できることでしたら、いつでも! ……ただ、ポケモンは道具ではありません。それはチャンピオンを見ても分かるでしょう? ポケモンとは、パートナーであり家族なんだ。それを武器や教材にするのはねえ……」
「端的にとらえ過ぎではありませんか? プロのポケモントレーナー方が上手く歩み寄ってくださると、互いのメリットは大変多い。例えば、現在四天王をされているキョウさん。セキチクシティ・ジムリーダーをされていた時は市政や警察とも連携を取って、素晴らしい活躍をしてくれました。それを参考に――」
キョウが引き合いに出されるなり、総監は事務次官の言葉を強い口調で遮った。
「彼はタマムシ大学を出て一流企業で勤務経験のある、元々大変有能な人材です。だが他のリーダーが同じかと言えばそうではない。多くのリーダーはポケモンのプロフェッショナルだが、それ以外には明るくない。彼にできることを他に期待してはいけません。もちろん彼らへの教育も必要ですが、何分多忙なもので……」
「だからトレーナーの学力低下が問題視されるのですよ」
事務次官は不快感を露わにするが、総監はまるで気にする素振りもない。
「しかし、プロのトレーナーとは本来アスリートですよ? つまりスポーツ選手。そんな彼らに、政治家のような能力を求めてどうするんです? 税金で仕立てたスーツを纏い、掃いて捨てるほど存在する本職の方々は一体何をされているのでしょう。満を持して提案してきたのが、『ポケモンの休息日』? なんですかねえ、これは」
彼はそう言いながら、スタジアム視察前に政府から渡された分厚い資料を座席に叩き落とした。表紙には『ポケモンバトル休止提案計画』と書かれている。すぐに事務次官の部下がそれを拾って上司に手渡した。
「……最近ポケモンバトルが激化している傾向にあります。ですから、ポケモンたちを休ませることが必要かと」
これは今回、彼らがポケモンリーグ本部にやってきた本来の目的である。
熱が入りすぎているポケモンバトルに待ったをかけるように、いかにそれがポケモンの負担であるかを昏々と説くが――右から左へ聞き流していた総監の双眸が鋭く光った。
「ご存じのとおり、我がセキエイのプロトレーナー稼働日は週三日です。シーズンは四月から十月末まで。年三分の一程度の試合数ならば、問題ないかと思われますが?」
だが、キャリア官僚である事務次官も譲らない。
「ポケモンはなくてはならない存在になりましたが……あまり戦わせて傷つけるのはいかがなものか。だからこそプロに過度なバトルを抑えるよう、PRしていただきたいのです」
総監の脳裏に、一人の男が浮かび上がった。
先日、マスターシリーズで相棒を故障させたあの男。プロがポケモンを怪我させたばかりでは、こちらも強く出られない。総監は事務次官から再び資料を受け取ると、大仰に手を広げて微笑んだ。
「……ほう、かつては『ポケモンなどペット並みの価値しかない。“獣管局”はお荷物だ』などど仰っていたお役人さんたちが掌返しですか。ま、でも私もねえ……この問題はちょっと気になっていた所ですよ。去年も同様の批判をしてきた組織がありましたが……単純ですしね。誰でも思いつく、掲げるだけでポケモンのヒーローになった気分に浸れる問題点だ」
さすがにこれは度が過ぎている侮辱だ――非難しようとした政府側を制するように、総監は強い口調で言明する。
「まあ、ええ、検討しますとも。前向きにね」
事務次官は憤りを感じながらも、緊張を僅かに緩ませた。
「ありがとうございます。総理もお喜びになることでしょう」
「支持率、また下がったようですしね。ここでテコ入れが欲しいですよねえ。まあバトル数の低減など提案しても、全国に四千万以上存在すると言われる成人トレーナー層はどう思うか……次回選挙の結果が楽しみです」
隙を見せると、すかさず飛んでくるナイフのような言葉。しかしこれも事実であるため、彼は引きつったようにただ微笑むばかり。くだらない政策であることは承知していた。
「それでは、我々はこれから定例がありますので、また。お出口はあちらです」
総監は右手で政府関係者側の出口を示すと、身を翻してその場を立ち去っていく。慌ててフジ副総監はじめとする本部役員達がそれを追いかけ、残ったスタッフが平身低頭で役人たちを見送ることになった。総監のスマートな背中を眺めながら、事務次官はその耳に届かぬよう舌打ちする。
「『ポケモンの休息日』くらい、引き受けてはいかがですかな? 昨年の鳳凰会はともかく、政府を敵に回すのは考え物かと」
足早に本部タワーへと戻る総監を追いながら、フジは懸念を告げた。
「もちろん、それくらいは聞き入れるつもりだよ。獣管局自体、散々コケにされて切り捨てられるも同然で民営化したというのに――当時ポケモンを軽視していた者どもに頭を下げられるのは気分がいい」
誇らしげに口角を上げる総監に、フジは冷や汗をかく。
「あまり、そういうことを声に出されるのは……確かに当時は我々も辛酸を舐めましたが、褒められることばかりやってきた訳ではないでしょう。栄光の裏で、犠牲も……」
次第に萎んでいく台詞。取り巻きの役員たちも皆足元に視線を落とした。
「そうだな。しかし、有害なポケモンは人を襲う前に処分する――獣管局からの基本スタンスではないのかね」
「いや、リーグ本部としてポケモンを切り捨てるのは……」
すると総監はシャツの袖のボタンを外し、上着と一緒に肘まで捲り上げた。白い筋肉質の腕には、生々しい傷跡が三十センチに渡って刻まれている。フジは思わず息を呑んだ。
「私はね、手を噛まれるのは嫌いなんだよ。人間にこんな怪我を負わせるポケモンは、世のためにも駆除して当然だ。あれからもう四十年か……君はいつまで十字架を背負い続ける気かね?」
「あの子を生み出したのは私ですから……人間のエゴで一生を翻弄してしまったことは今も後悔しています……」
苦しそうに俯くフジの白髪頭へ、総監は辛辣な不満を浴びせた。
「ふん、奴のお陰で役員になれたというのにね。まあ好きにしてくれて構わないが、日々懺悔する暇があったらもう少し効率よく働いてもらえないかね? 本来、副総監とはトップのサポートをする存在だというのに私は度々君の助力をしている……全く、もっと要領のいいナンバーツーが欲しいものだよ」
「申し訳ございません……」
フジが堪らず視線を逸らした廊下の先に、大きなシルエットが見えた。“あのポケモン”ではないかと心臓が跳ね上がるが――よく見ると人間である。それも、誰もがその顔を知る有名人。
「シバ君」
その名を聞くと同時に総監は袖を伸ばし、傷を隠して彼を振り返った。役員らも一斉にそれらしい表情を作り上げながら歩き、シバとすれ違う。口を一文字に結び、相変わらずの不愛想――どうやら話は聞こえていないようだ。無言で役員の群れに会釈するシバに対し、総監はにこやかに尋ねた。
「最近、大変だね。カイリキーの様子はどうですか?」
そのままやりすごそうとしていたシバは、眉間に皺を寄せながら足を止めた。先ほど、その件で親友と揉めたばかりである。シロガネと病院で行先を迷っていたが、何となく印象の良い方を選んだ。
「手術は成功し、これからハナダへリハビリに」
ハナダ、という単語を聞いてフジは両肩を震わせた。焦るように総監に視線を向けると、彼は気に掛ける素振りもなく、首を傾げながらねちっこく問いかける。
「おや、リハビリの付き添いはスタッフに任せたんじゃないのかね? 君は今そんな場合じゃないだろう、オフシーズンの五か月でメディア対応をこなしつつ次のエースを用意しなければならない」
総監の意見は事務的で冷徹に聞こえた。ほんの数分前まで、同じことを考えていたのに――その行動は間違っている、と告げたワタルの声が頭に響く。
「相棒ポケモンが故障した心中は察するが、早急に来季へ向けて切り替えていかなければ君自身の地位も危うくなってしまうよ。ワタル君と同期だから、プロ六年目か……もう中堅だね。だったら分かるだろう、最善の選択が」
強引に答えへと導き出す口ぶりに、ひどく嫌気がした。
ビジネスライクで冷徹、カイリキーのことなど微塵も配慮していない。リーグ本部経営者である総監の立場からすると正しい意見かもしれないが――シバは一ポケモントレーナーとして、同等の見解をもっていたことを恥じた。
「……勿論。では、これで」
唸るように頷き、その場を離れる。
不審げな総監の視線も気にならない。これから行く先は決まっていた。