第3話:罪悪感
カイリキー故障の話題は深夜のトップニュースとなっていた。しかしプロトレーナーにとってポケモンの戦力外とは珍しくない事象のため、例えば今年六月のイツキ謹慎事件ほど世間は騒ぎ立てない。翌朝スポーツ紙の一面を占領していた故障記事も、二日後になると三分の一まで縮小していた。
社会はなんと移ろいやすく、無情なのだろう――イツキはスポーツ紙に目を落としつつ、溜め息をつく。三面のバトルフィールドが並ぶ広大な練習場に、小さな吐息が響いた。ここはセキエイスタジアムに隣接しているプロ専用のトレーニング施設で、最高の訓練設備が整っている。イツキは真ん中のフィールドの端に設置されたベンチに腰を下ろし、ポケモンのメディカルチェックを行う傍ら、新聞を読みながら昼食をとっていた。
「……なんか、寂しいよね」
カルシウムがたっぷり入ったウエハースを口にしつつ、ネイティオに尋ねる。カイリキー故障の詳細を知らない相棒は、真顔のまま首を傾げた。
「四天王の相棒が戦力外になりそうっていうのにさ。冷たいよね、みんな。ネオが故障したら……僕は落ち込むどころじゃないよ」
フィールドに座り込んでいる数十匹の手持ちポケモンたち――彼らの故障を考えるだけで憂鬱になる。勿論そうなった場合は充分なケアをするつもりだが、不安は募るばかりだ。ふと、フーディンが咥えていた体温計が無音の練習場に反響する。
「っていうか、みんな怪我してほしくないけどさ。ディン、体温いくつだった?」
イツキはフーディンの持ってきた体温計を受け取ると、免許端末のメディカルチェックアプリに情報を入力していく。
「平熱だね。問題なし……っと。次はリンリンだね」
使い終わった体温計を消毒すると、傍に寄ってきたチリーンへ手渡した。のんびり作業を続けていると、隅のドアが開いて和装のキョウが入ってくる。下駄の音を鳴らしながらイツキの隣のフィールド前のベンチに腰を下ろすと、左手に携えていた帆布のバッグからモンスターボールを取出し、次々枠の中へ投げ込んでいく。彼もこれから体調チェックを行うのだろう。
「お疲れー」
イツキは牛乳を口にしつつ、キョウに身体を向けた。彼は免許端末を開きながら「お疲れ様」と素っ気なく答える。二人の距離は二十メートルほど離れているが、この静けさの中では小声でもはっきりと届いた。
「……それ、昼飯か?」
キョウは免許を操作しながら尋ねた。練習場に入って来た際、イツキのベンチに置かれている特定保健用食品らしき菓子の数々が目に留まったのだ。イツキはウエハースや牛乳を掲げながら白い歯を見せる。
「うん、デスモに乗るために草食系卒業しなきゃと思って! 二日分のカルシウムを一度に摂ろうとね……!」
彼はキョウに大型オートバイを譲ってもらってから、二年以上先の免許取得に向け、小柄な体型を改善すべく筋トレなどを積極的に始めていた。だが食生活はほぼ、このような特定保健用食品である。キョウはポケモンに小さな試験紙を配りつつ、呆れ返る。
「カルシウムは一日に吸収できる上限があるんだが……過剰摂取は身体を壊すぞ」
「そ、そうなの!?」
イツキは目を丸くした。
ネイティオの冷ややかな視線が突き刺さる。無茶な食生活に、相棒は違和感を抱いていたのだ。
「それと、菓子だけで身体は作れないからな。適切な食生活と運動が必要だ」
「えー……オジサン、人のこと言えるゥ? すぐ息上がるじゃん」
彼は食べかけのウエハースをコンビニ袋の中に隠しながら口を尖らせる。そんな様子を横目に、キョウはコンディションチェックを並行しながら会話を続けた。
「俺はもうバイクに乗らないし、テクニカルエリアを動き回る試合もしないから。筋トレなんてごめんだね」
「開き直っちゃってる〜。でもキョウさんみたいな戦い方するなら、それもアリかなぁ。ヤナさんも似たようなプレースタイルだよね。師匠の師匠だから?」
「俺と同じカテゴリに入れると怒るぞ、あの人。爺さんだけどストイックだから見た目よりずっと体力があるんだよ」
「そっか……ストイックと言えば、シバもだよね」
シバ、と聞いて端末を操作するキョウの指が一瞬だけ鈍った。
「……新聞読んだ? リキさんの故障、まるで“よくある事”のように書かれてて重大さが伝わってこないんだ!」
スポーツ紙を掲げながら息巻くイツキに、彼は素っ気なく告げる。
「まあ実際よくあることだしな」
「SNSやネットの掲示板はもっとひどいよ! “カイリキーはもう終わりだ”とか希望のないコメントが結構書き込まれてて、“クラッシャー・カイリュー”とか不謹慎なネタで溢れてるし……何だよ、僕らが勝ったら称賛してたのに!」
右手に新聞を、左手にスマートフォンを持って不満をぶつけるイツキを、キョウは溜め息をついて鬱陶しそうに振り払った。
「……お前、バックレた時に散々叩かれてたくせに学習してないんだな。世論なんてそんなものだ。ショーの観客は日和見主義で、常に娯楽に飢えてる。気にするな」
結果を出せば認めてくれる反面、失敗した際の風当たりも強い――キョウが十一年使い込んだ本革の免許ケースは、その経験の歴史を刻んでいる。彼は端末を操作しながら、こなれた革の表面を撫ぜた。人差し指に引っかかる古傷は、ジムリーダー就任当初、周囲の非難に疲れて苛立つままに床へ叩きつけた時のもの。
「ま、まあ同情してとは言わないけど……でもシバ、リキさんどうするんだろ? 本当に引退させるのかな」
「そうだろうな。相棒とはいえ代わりはいくらでもいるからな。プロだからこそ、ポケモンに無茶をさせず引導を渡してやらないと」
ベテランはあっさりと答えた。
非情な意見に、二日前の不満が再燃する。ふと、キョウの隣にいる試験紙を咥えているクロバットが目に入った。
「……クロちゃんさ、手持ちになってから目が悪くなったの? もしそうなら矛盾してない? 弱視のポケモンをバトルに駆り出すなんて、それこそ無茶だと思うよ。試合を傍から見てるとさ、ハンデがあるとは思えない程自由自在に動いているけど」
反抗的なイツキに、キョウはほんの一瞬目を丸くしたが――茶化すように頬を緩めた。
「お、痛いところ突かれた」
「馬鹿にしないでよ、僕だっていつまでも子供じゃないし!」
ベンチから立ち上がってわめく同僚を無視して、キョウはクロバットの口から試験紙を引き抜いた。これで毒の精度をチェックすることができるのだ。そのデータを端末に入力しながら、彼は淡々と語り出す。
「クロバットは捕獲時から目を患っていたよ。戦うことも禁止されていたし破る気もなかったが、ポケモンには戦闘本能があるからな。ストレスを溜めないようにとやってくうちに、いつの間にか実力が頭一つ抜けてた。そしたら使わない訳にはいかないだろう。保護団体や医者のバックアップを経て、最適なサインや相性、負傷の少ない戦闘を研究しながらやっとステージに立ってる」
想像以上の努力に、イツキはあまり考えずに責めてしまったことを反省した。キョウはクロバットの頭を撫でながら話を続ける。
「無茶は承知だが、この仕事は“勝てる”ポケモンを万全の状態で維持しないとやっていけないんだ。勝利を追求するシバの姿勢は見上げたものだが、カイリキーの怪我を承知でそのまま戦わせたのは馬鹿な決断だとは思う。また来年機会があるだろうに……一番の主力を失うのは大きいな」
つまるところ彼の意見はプロトレーナーの基本スタンスに落ち着くのだ。まだプロ二年目のイツキには、夢へと続く長い戦いがはっきりと想像できない。
「……僕も同じ場面なら行かせたかも」
「そしたらネイティオはもう二度と戦えないだろうな」
「でもリハビリを続ければきっと……!」
「お前自身は去年それで骨折が治ったが、人間はともかく個々の医療技術に差があるポケモンはどうなるか分からんぞ」
ポケモンはまだ各種族ごとに進んでいる研究状況にばらつきがある。フレンドリィショップで販売している市販薬を服用するだけで湿疹が出る個体もいるのだ。そのニュースはちょうど新聞の隅に記事として残っており、徐々にイツキの勢いが萎んでくる。
「そ、そんなのやってみなきゃ分からないじゃん……」
「そりゃ勿論だが、失敗するリスクも考慮しろよ。世の中、なんでも成功するわけじゃないんだ。相棒の故障ってのは分かるが、ポケモンバトルを仕事にしている以上、駄目なら潔く見限って次の戦力に頼ることも重要なんじゃないか。特にエースの穴はでかいぞ、すぐに塞げるものじゃない」
ヤナギへの弟子入り以降、万遍なく手持ちを育成しているイツキだが、それでも一番の戦力はネイティオに変わりない。彼の離脱を考えると、戦力はもとより自身への精神的ダメージも大きい。希望を持ってリハビリに付き合えるかどうかすら怪しくなってきた。
「……そうかも」
イツキはネイティオに悲痛な眼差しを向ける。まだ大きな怪我を負ったことがない相棒はやや戸惑った。
「でも、ネオにその時が来たら……僕は受け入れられるかな。正直、自信ない」
「なら怪我させないように百パーセントの状態を保持するしかないな。選手寿命をできるだけ延ばすように育成するのもトレーナーの腕の見せ所だよ。お前はヤナさん仕込みの丁寧なケアをしているから、この先も上手くやれるんじゃないか」
不安を取り除くような言葉はイツキに安心感を与える。彼は腕を伸ばしてリラックスしながら緊張を解いた。
「はー、プロトレーナーってシビアな世界だなぁ。やっと二年目終わったけど、まだまだ辛いよ〜。チャンピオンの道は遠い……」
「焦らず進めばいいだろう。ま、当分トップはワタルが居座っていることだろうし。じっくり研究すればいい」
イツキの脳裏にチャンピオンの疲弊した相貌が浮かんでくる。
「ワタルと言えば……やっぱり、かなり塞ぎこんでたよね。あんなに落ち込んでる姿、初めて見た。大丈夫かなあ?」
「そうだな。あいつ、一人で抱え込むタイプだから自己嫌悪に陥らなきゃいいんだが……シバの奴も大人げなく、口を利いてないようだし」
彼があれほど精神的に困憊しきっている姿を見るのは、仲間達も初めてで戸惑いを隠せなかった。セキエイに突然入った亀裂は、想像以上に深い。
同時刻、セキエイスタジアムの公式戦フィールドでは、ワタルとカリンによる練習試合が行われていた。南側にカリンのヘルガー、北側にワタルのチルタリスが対峙する。
「チルタリス、竜の息吹だ」
テクニカルエリアに棒立ちしていたワタルが、心ここに在らずといった声で指示を出す。覇気が全く感じられない主人に、チルタリスは困惑しつつもヘルガーを向いて嘴を開くが――既に相手は眼前に迫っていた。
「チルタリス、コットンガード……」
ワタルから、防御の命令。
その間にヘルガーは横っ飛びでチルタリスの死角へと回り込んだ。そのまま床を蹴って炎の牙を剥く。ドラゴンの華奢な首筋に食らいつこうとした刹那、カリンが南側のテクニカルエリアから鋭い声を上げた。
「ヘルガー、辞めなさい」
すぐにヘルガーはチルタリスへの攻撃を外すと、宙で体を回転させながら距離を取って着地した。思わぬ指示にワタルが呆然としていると、カリンがテクニカルエリアを早足で回りながらこちらへ近づいてくる。ワタル側指示エリアのラインを躊躇せず踏み越え、彼の前に詰め寄った。妖艶な目顔と薔薇の香りが、こんな時でも男の理性をぐらつかせる。
「練習くらい、真面目にやってくれない?」
突き刺すような鋭い眼差し。ワタルは目を見張りながら後ずさった。
「い、いやオレは……」
「それで“いつも通り”なの? 舐めないでくれる?」
返答に困ってチルタリスを一瞥すると、彼女も様子がおかしい主人を心配そうに見つめていた。よく懐いているポケモンはトレーナーの心境の変化を敏感に感じ取る。自分の中ではなるべく平常通りに指示を出していたつもりだが、弱った心は容易く読まれていたようだ。愕然とするワタルを見て、カリンは小さく息を吐きながら北側ベンチへと踵を返す。
「……練習はもう、辞めましょう」
彼は引き留めようとしたが、戦意を失くして主人の元に歩むヘルガーがその行動を遮るように横切った。カリンは最前列のベンチシートに腰かけると、相棒を撫でながらミネラルウォーターを口にする。
「負い目を感じすぎよ。あなたが悪いわけじゃない。もちろん、カイリューもね」
「いや……それは違うと思う」
ワタルは足元に視線を落としながら、苦しそうに告げる。最終戦から二日経過した今でもカイリキーとの試合を頻繁に思い出し、夜も眠れない。
「あの時、オレはカイリキーの様子がおかしいことに気付いた」
「そうね、骨折した個所を狙わないようにと……ちゃんと指示を出していたじゃない。それに試合を止める前にカイリキーはもう動いていたのだから、カイリューで止めようとしたあなたの判断は正しいわ。一体何が不満なの?」
「……どうにかならなかったのか、もっと最善の策があったんじゃないかと今も思う」
これほど苦悩しているのは、やはり親友の相棒を故障させてしまったことが大きい。それはカリンも理解しているのだが、あまりに自己嫌悪に陥っているため、彼女は微笑みを浮かべながら肩をすくめた。
「うーん、それは結果論ね。今更後悔しても仕方がないわ、次に繋げましょ。あなたはチャンピオンだもの。一番上に君臨しているトレーナーだし――その地位を守りたいのなら、対戦相手の故障を気にしていてはダメよ」
それは分かっているのだが、加害者になってしまった現実では、慰めも耳に入らない。ワタルは「……ありがとう」と擦れた口調で礼を言った。分かり易い、口先だけの感謝の言葉はカリンを益々不安にさせる。ベンチから立ち上がり、ワタルの傍へ歩み寄った。
「私はあなたを非難しないから」
「ありがとう」
「だから、もうちょっと色々話してくれてもいいんじゃない?」
「気を遣うかなって……」
「あら、心外ね。仲間でしょう?」
ワタルにとって、今は仲間と言う言葉も負担だった。一刻も早くこの場から離れたくなり、引きつった苦笑いを浮かべながらロッカールームへと足を向ける。
「……ありがとう。ちょっと、頭を冷やしてくるよ。」
カリンの横を通り過ぎようとしたが、すかさず呼び止められた。
「ねえ、一人で抱え込んでいるのは辛くない?」
辛い。だが、それを認めて頷いたところで一層惨めになるだけだ。そんな本音を隠しながら、ワタルは口角を持ち上げ、分かり易く微笑を作った。
「そんなことはないよ。君たちや、ドラゴンポケモンもいるからね。心の支えになっているよ。ありがとう」
「家族とか……」言いかけたカリンの表情が憂いを帯びる。「“恋人”に愚痴を溢したりはしないんだ?」
「愚痴は聞かされる方が辛いかなと思って、なるべく言わないようにしてる」
家族は離れ、恋人がいないのは幸いしている。今、気を緩ませれば身内に贖罪をぶちまけてしまいそうな気分だ。
「その心がけは素敵だけど、いつか反動が来るかもしれないわよ」
柔和なカリンの笑顔に甘えたくなる。
彼女はただでさえ魅力的で、仕事仲間という今の関係が惜しいくらいだというのに。だが、この精神状態で心を開けば一線を越え、仲間たちにより迷惑をかけることになる――ワタルはぐっと堪えて、喉を出かかった不安を押し戻した。
「なるほど、ガス抜きしないとな」
もちろん本心ではない。上辺だけの返答だが、カリンはそれに合わせる様に微笑んだ。
「飲みに行く?」
唇に引かれた赤く瑞々しいルージュが、その五文字の言葉を紡ぐたび妖艶に輝いた。受け入れないよう努めても、心は彼女を向いている。この現状でなければ二つ返事で了承していただろうが、シバのことを考えると今は呑気に飲みに行く場合ではない。カリンなりに気を遣ってくれているのかもしれないが、今は親友への謝罪とケアが必要な時だ。
「いや……今日はごめん。まだ仕事があるんだ」
「誰が今日って言ったの?」
からかう様な無邪気な笑顔。
成熟したルックスにまだ僅かに残る少女っぽさは、ワタルの理性をへし折ってしまいそうな程危うい。
「気が向いたら誘ってね。予定が空いてたら、二人で行きましょう」
心なしか『二人』という単語が強調されていたような気がする。
「あ、ああ……分かった」
ワタルは情けなくも湧いてくる下心を隠すように顔を背けると、足早にロッカールームへと戻って行った。
一人通路へと消えていくチャンピオンの後姿を見送りながら、カリンは呆れる様に息を吐いた。
「私って、女としての魅力がない?」
肩をすくめる主人の問いかけに、ヘルガーは即座にかぶりを振った。カリンは誰もが口を揃えて称賛する美貌の持ち主だ。それは相棒である彼が一番よく理解している。
「ここまで相手にされないなんて、ゲイじゃないかと疑っちゃう。一人の女として見てくれなくても、私は力添えしてあげたいのに……真面目な男なんだから」
再びベンチシートに腰を下ろしながら、ミネラルウォーターを口にした。水は味気なく喉を流れていく。
仲間やスタッフに囲まれていても、彼はどこか孤独だ。チャンピオンという地位を気負いすぎていることが一因だろう――と、カリンは考える。いざとなれば王座を守るのはワタル一人だ。
(一人で戦うのは辛いわよ……)
彼女はヘルガーを身体に引き寄せながらそっと目を閉じた。
自分もかつてはそうだった。幼少期からアパレル店員時代まで――常に孤立していたことを思い出す。ポケモンが傍にいてくれていたとはいえ、やはり会話で意思疎通が可能な人間の存在は大きい。幼い頃、彼女が馴染めたのは今は亡きホームレスの恩師、ただ一人だった。
『カリンちゃんは優しい上にキラキラ輝いてて……おじさんを照らしてくれる存在だ。いつもありがとう。他の人にも同じように、良くしてあげるんだよ』
うん、わかった。
恩師の助言に対し、自分は素直に頷いた。
だが年を重ねるにつれ、自分のような底辺の出身は強かに生きなければこの非情な世を渡れないことを知る。恵まれた容姿とポケモンバトルの才能だけでここまで上り詰めたが、いつ転落するのかも分からない。だからオフシーズンはサイドビジネスにも手を出し、保険を掛けながら将来への布石を打つつもりだ。もう絶対に、惨めな生活には戻りたくなかった。
だがワタルはどうだろう。
元々恵まれた育ちの男で余裕はあるだろうが、金銭的負担も大きいドラゴンポケモンを維持しながら脇目も振らずチャンピオンの道を走り続けている。彼女にとって羨ましいことこの上ない。だからあの逞しい背中を後押ししたくなる。
そして応援すればするほど、傍に寄り添っていたくなる。
ワタルは足を引きずる様にロッカールーム前へたどり着いた。
深く溜め息をついた後、ドアノブに手を掛ける。扉が拒否するように、静電気が指先でぱちりと弾けた。些細な現象だというのに、思わず入室を躊躇ってしまうが――彼は呼吸を整え、ドアを開ける。
そして、すぐに後悔した。
「シバ……」
視覚がいち早く反応したのは、ソファに浅く腰かけ、パンフレットに目を落としている親友の姿だった。まだどういう会話をしていいのか模索していた中、彼と鉢合わせしてしまうなんて。しかも運悪く二人っきりだ。そのまま入室するか少しだけ葛藤していたが、親友はワタルを気にせず無言で資料読みに没頭している。
このまま平行線になってはいけない――彼は、覚悟を決めて後ろ手にドアを閉めた。
「お疲れ……」
そしてシバに挨拶する。
彼はパンフレットをテーブルに置くと、ゆっくりと顔を上げた。