プロローグ
ワタルがシバと出会ったのは六年前のことだった。
カントー、ジョウト地方の境にそびえる国内最高峰シロガネ山は強靭な野生ポケモン達が徘徊し、国から許可が降りたトレーナーでなければ足を踏み入れることさえ許されない。当時その許しを得たばかりのワタルは四天王に就任してまだ二日目だった。カイリューに跨ってその地に降り立つと、早速目的の男を探す。
「本当にこんな辺鄙な場所で修行しているのかな?」
後ろをついてくるカイリューに話しかけると、彼女は小さく首を傾け疑問を示した。しばらく道なき道を進んでいると、林の奥から威勢のいい鳴き声が漏れ聞こえてくる。その野太いトーンから、ワタルはすぐに彼のポケモンだということを察知した。飛び出してくる野生ポケモンに警戒しながら、カイリューと共に向かって行くとやがてその場所にたどり着く。踏み固められた荒れ地で多くの格闘ポケモン達が筋力トレーニングに励んでおり、その中央では両手にミットを嵌めた大男がカイリキーに声を張り上げていた。
「さあカイリキー、かかってこい!」
大男に対峙する四本腕の怪力ポケモンは下半身に力を込めると、ミットめがけて次々にジャブを繰り出していく。鍛え上げた屈強な肉体から放たれる、一つ一つのパンチは決して軽くはない。だが男はそれを容易く受け止め、より強力な拳を要求した。
「そんなものか? もっと力を籠めろ! 腰を落とせ!」
カイリキーは必死でパンチを放つが、それでも主人の希望には叶わない。周囲で訓練している仲間たちの視線が突き刺さる。誰が彼の相棒に相応しいのか? このスパーリングはそれを証明する時、頭一つ抜けた実力を見せようと気持ちは逸るが、パンチは回避され、主人のミットが頬にめり込んだ。そのまま身体は浮き上がり、地面に打ち付けられる。
「まだまだ、修行が足りん!」
大男はそう吐き捨てると、首に巻いていたタオルで滲んだ汗を拭いながらワタルを向く。上半身は何も纏っておらず、長身のワタルさえ圧倒する隆々とした筋肉質の肉体を晒していた。
「なんだ」
鋭い双眸で睨みつけられ、ワタルの肩が跳ね上がる。彼はたじろぎつつも、親しみやすい笑顔を向けた。
「……ポケモンとスパーリングをやってるトレーナー、初めて見たよ。その上、あのカイリキーを打ち倒すなんて」
「おれはポケモンと共に訓練を積んでいる。これくらい当然のことだ」
大男は素っ気なく答えながら客人の元に近寄った。格闘ポケモン達の視線がカイリューとその主に集中するが、訓練の手は休めない。主人が自分を敵と認識していないことを悟っているのだろう――ワタルは感心した。
「ストイックなんだな、君は」
「これくらい鍛えなければ、四天王としてはやっていけん――カイリキー、いつまで寝ている!」
男がまだ立ちあがらないカイリキーを叱責すると、彼は急いで体勢を立て直す。頬にはまだ鈍い痛みが走っているが、主人の命とあらばそれも耐えられた。その姿からは主への強い忠誠心が窺える。
「なかなか手厳しいな」
ワタルが呆気にとられながら立ち上がるカイリキーを眺めていると、男は冷淡に呟いた。
「甘やかすことはしない……ところでお前、名は何だったか」
「ワタルだよ。君は、シバだよね。昨日の顔合わせで開口一番、『敬語は使うな』って釘を刺してきたから印象に残ってる」
彼らは昨日出会ったばかり。同性の同僚であり、ポケモンバトルへの情熱を誰より感じ取ったワタルは早速親交を深めようと、彼がトレーニングしているというシロガネ山まで足を運んだのだ。頬を緩ませる同僚に、シバはやはり素っ気なく告げる。
「堅苦しいのは嫌いだ。ポケモントレーナーに年など関係ない」
「確かにそうだね……いつもここで修行を?」
ワタルは辺りを見回しながら尋ねた。訓練場の周囲は切り立った岩山で形成され、崖崩れにでも巻き込まれれば軽傷では済まされない。
「ああ、大体この界隈で訓練している」
「すごいな。この辺り通信機器の電波が届かないから、何かあったら大変じゃないか」
「大怪我をしたことは一度もない。おれも、ポケモンも。気を緩ませるから負傷するのだ」
自信に満ち溢れた台詞は恐怖をまるで感じさせない――ワタルはその精神に感服した。
「オレは免許取りたての頃、死にかけた経験があるから耳が痛いよ。プロ意識が高いんだな」
「人もポケモンも、戦い、鍛え続ければどこまでも強くなる。おれはずっと、そんなポケモン達と生きてきた。その信念はこれからも変わらない。たとえ四天王になろうともな」
豪胆な姿に、ワタルは思わず息を呑んだ。彼のように人生をポケモンバトルに捧げ、成功している者がどれほどいるだろうか。実直でストイックな精神はドラゴン使いとして名を馳せている自分さえまだ到達していない域であり、彼の同僚になれたことを光栄に感じた。
「君のような同僚に恵まれて嬉しいよ」
ワタルは破顔すると、この仕事関係が続くことを願って彼の前に拳を突き出した。
「これからよろしくな」
シバはやや戸惑いを見せていたが、それが何を求めているのかを察し、「ああ」と頷きながらぎこちなく拳を突き合わせた。カイリキー始めとするシバの格闘ポケモン達は、友情が誕生する瞬間を沈黙してじっと見つめる。極端な性格の主人にここまで積極的に歩み寄ってくれる者はなかなかおらず、内心ホッとしていた。
「……ところで、時間があるならおれと手合せしてくれないか」
フィストバンプの後、シバはワタルの後ろに立っているカイリューを探る様に睨み付ける。大きさは並みのカイリューと変わりないが丁寧に手入れされており、皮膚は太陽に照らされ黄金に輝いていた。そして凛とした顔立ちに、荘厳な佇まい――
「お前のカイリュー、一見しただけで分かる。相当鍛え上げられているな」
さすがの目利き、トレーナーのプロフェッショナルになるだけのことはある。ワタルは目を見張った。
「ありがとう。オレの相棒だからね」
シバは納得したように頷いた。
「君の相棒は?」
ワタルがシバのポケモンを見回しながら問う。
「まだ、いない。右腕と呼べるに相応しいポケモンはな」
きっぱりと言い放つと、トレーニングに熱中していた格闘ポケモン達の動きが一瞬鈍った。無念を隠しきれない表情を見て、ワタルはすかさずフォローを出す。
「厳しいな! ただ、トップを決めておかないとポケモンの訓練にも張りが出ないと思うぞ? 競争心もプロのポケモンの育成には重要だと言うし」
「……そういうものか。まだ足りない、皆おれが満足するレベルには達していない。だが、しいて言うなら……そうだな。カイリキーだ」
自分の名を呼ばれ、カイリキーの胸中が熱を帯びる。仮とはいえ、相棒として認められていることは純粋に嬉しかった。誇りだった。
「ふーん、やっぱりそうか」
予想が当たり、得意げな笑みを浮かべるワタルに、シバは目を見開いた。
「分かるのか?」
「君と同じ理由さ。一番鍛えているポケモンは一目で分かる」
おそらくシバは偏りなくポケモンを訓練しているだろうが、その中でもカイリキーの身体つきは頭一つ抜けており、並々ならぬ努力の結果が表れている。
「お前、なかなか出来そうだ。さあ、試合を始めようじゃないか」
「そうだな……最初の手合せだし手持ちはフル、つまり六対六でどうだ?」
「まるでチャンピオン戦だな。悪くない」
ようやく口元を緩めたシバを見て、ワタルは嬉しそうにカイリューをボールに戻しながら、溌剌とした笑顔を浮かべた。
「いつか二人でチャンピオン争いができるよう、切磋琢磨していこうじゃないか。さあ、勝負しよう!」
「ああ」
二人は頷き合うと、訓練場の奥に作られた簡易バトルフィールドへと歩んで行った。