第6話:家族のヒーロー
病院からようやく帰宅したキョウを出迎えたのは、まだ1歳に満たない娘を抱いた家政婦のアキコであった。裁判が始まって妻とは別居しているが、子供の面倒は彼女に押し付けられている。それでも親権は向こうに渡る可能性が高いらしい。
「どこに行かれていたんですか、旦那様!弁護士さんが見えていますよ」
血相を変えて詰め寄るアキコに、キョウは呑気に謝罪した。
「……あ、忘れてた。すみません」
「もう!お嬢様がどうなってもいいんですか!?」
「いや、親権はもう諦めています……」
「何を仰るんです!あの方が引き取ったら、お嬢様はどうなることか……!私はね、あの人に親権を渡すくらいならお嬢様と心中しますよ!!」
「勘弁してくださいよ……」と、キョウは苦笑しながらアンズを抱き上げた。状況が理解できない彼女は、父親にまとわりついているズバットを嬉しそうに眺めている。喃語でその興奮を表現する娘に、彼はふと「いつから喋るのかな」と呟いた。
「そろそろですよ。あとほんの数か月後に“パパ”って呼んでくれるんです。いいんですか、このままで?旦那様、戦わなくちゃ!アンズちゃんを救える家族は、旦那様しかいないんですよ!」
悲痛なアキコの叫びは、彼の胸に深く突き刺さった。
(救い……)
無垢なアンズは父親の首に巻かれたタオルを引き寄せ、上下に引っ張って楽しげに遊んでいる。彼の背中にピタリとくっついているズバットも、その声を嬉しそうに聞いていた。彼女たちはその幼なさ故、置かれている状況の深刻さをまだ理解できない。手を差し伸べなければ絶望が待っているであろう未来を修正する時は今しかない。彼女達を救うヒーローにならなければいけないのは、他ならぬ自分である。
(……これ、チャンスじゃないか?)
うだるような暑さにぼんやりとしていた頭が、みるみる冴え渡ってくる。
一日二箱消費し、暇があれば吸っていた煙草が欲しい欲求も不思議と引っ込んでいた。彼は娘とズバットをアキコに預けると、装いを正して応接室で待ちわびている弁護士の元へと急ぐ。
「お待たせして申し訳ございません」
突然現れた主人に、冷房の効いた部屋で涼んでいた若い弁護士が慌てて立ち上がって会釈した。
「あ、いえ……!キョウさんはご多忙ですしね……。ええと、今回は財産分与の件ですが……」
早速用件に入ろうとする弁護士の言葉を遮り、彼はすかさず切り込んだ。
「あの、ちょっと方針を変えたいんですが」
「はい?」
思わず背筋が伸びる様な真摯な口調に、弁護士はさっと顔を上げた。キョウは彼の前へ居直ると、礼儀正しく頭を下げる。
「どれだけ手間と費用が掛かっても構いません。娘だけは手放したくないのですが、ご協力していただけませんか」
弁護士は度肝を抜かれた。離婚を相談されてから、ずっと死んだ魚のような目をしていた依頼主の雰囲気が、まるで人が変わったように猛々しくなっていたのだ。彼はその雰囲気に圧倒され、慌てふためいた。
「……それは、あの」
「親権を得るために、戦います」
「た、大変ですよ?」
「望むところです。最終的に良い結果を生むのであれば、プロセスは問いません。家族を守る為なら何でもします」
父と兄の保険金を始め、財産だけはあるし形だけの地位もある。使えるものなら何でも利用する覚悟だった。
その2週間後、キョウはトキワジムへやってきた。事務所のデスクに足を投げ出しながら、サカキは弟子を出迎える。
「もう来ないかと思っていたが……」
就任直後に離婚裁判に巻き込まれた彼は、ずっと師匠との訓練に参加できずにいた。サカキはすっかり見限っており、呼び出す手間さえ惜しんで放置していたのだが。
「すみません、裁判が長引いていまして。ジムも閉めていましたが、来週から再開します」
彼は恭しく頭を下げる。サカキはそれを無視して、弟子が作ったスコアレポートに目を通しながら突き離すように皮肉を口にした。
「再来月、ようやく世襲制が見直されるそうだ。良かったな、これでお前は見事クビ。前の会社に戻れるんじゃないのか」
「その首の皮一枚、繋いでおきたいのですが」
きっぱりと告げたその一言に、レポートをめくるサカキの手が止まった。
「私にポケモンバトルを教えてください」
キョウは更に深く頭を下げた。数か月前の頼りない姿は影をひそめ、光を落としていた瞳には火が灯っている。その様子はサカキの興味を誘った。
「どういった心境の変化かな」
「いえ、特に。私は最初から、“繋ぎ”でジムリーダーを引き受けたつもりはありません。ようやく時間ができ、あなたに師事をすることができるので、ぜひそのスキルをご教授いただきたいと思ったまでです」
「……確かに、変わってないな。そのエリート然とした態度」
彼の心がふっと覚めようとしたとき――キョウは居直る様に顔を上げた。
「あなたのような方には、媚びへつらうのは逆効果だと思ったものですから」
生意気な返しにサカキは目を見張りながらも、思わず頬を緩ませる。
「ふん、面白い奴だな」
「ありがとうございます」
「まあこれだけ世間に叩かれても、そうやって堂々と構えていられるのは大したものだ。トレーナーには向いているかもしれんな」
「お褒めに預かり光栄です」
「しかし私は、まもなくクビになる男の世話に時間を割きたくない。とっとと帰れ」
「いいんですか?このまま私がバッジ保持率歴代最低記録を更新し続ければ、師匠の顔に泥を塗ることになりますが」
弟子の失敗は師匠の責任――そういった風潮が、この時のポケモンリーグ本部には根付いていた。これを利用し、副総監は気に入らないサカキをプロの世界から追放しようと考えていたのである。それはキョウもいつの間にか理解していたようで、堂々と彼の前に持ち出してきたのだ。
不遜な弟子を殴り飛ばそうと動こうとしたサカキの前に、キョウは一枚に紙を突きつけた。
「これ、お弟子さんに聞いたあなたの大まかな一日のタイムスケジュールです。デスクワークに割いている2時間、私がサポートして30分に短縮しますから、訓練の時間を伸ばしていただけませんか」と、言いながらキョウの目線がサカキの秘書を担当している赤毛の女性に動いた。続けて彼は声のトーンを抑えながら、「私は大手企業での勤務経験があり、結果も出しています。そこにいる顔だけの事務員より使えますよ。もちろんオンタイムだけですけどね、敵うのは」と、白い歯を見せる。これにはさすがのサカキもうなり、怒りも鎮火した。
「……なかなか面白い奴だ。お前のような男は初めてだ」
期待を込めた眼差しを向けるキョウに、サカキは肩をすくめながら降参する。
「いいだろう……。明日から遅れずに来い。お前の用事など知らん」
「ありがとうございます。親権裁判も勝てそうで、ようやく落ち着けそうですから」
「……親権か」
サカキはぴくりと眉を動かした。
「ええ、なんとか娘を引き取れそうです。金を積んだ甲斐がありました」
「お前、なかなかのクズだな。何でも金で解決か……」
そんな師匠の言葉にも屈せず、キョウは悪びれなく胸を張った。
「何とでもどうぞ。ネグレクトの嫁から娘を救えるのであれば、どんな手も使います」
「なるほどな。ポケモンは失敗したが人間相手だと強いな、お前は。さすが30過ぎまで“優秀なペーパー”だっただけある」
「ポケモンはあなたに教えていただくしかない。明日からよろしくお願いします」
そう言ってキョウは出口へと踵を返す。スラックスとワイシャツ姿は会社員の様で、彼のビジネスライクな振る舞いを強調する。サカキはその背中へ尋ねた。
「お前にとってポケモンとはなんだ?プライドを保つ道具なのか?」
「そうです。何か問題でも?これは仕事じゃないですか」
キョウは迷いなく答えながら、振り返った。
「失った家族の誇りを取り戻すには、この仕事を成功させるしかない。世間に馬鹿にされたままでは終われない。娘が物心つく前に、立派になっておきたいんですよ。子供は仕事に向かう父親の背中を見て成長します。その時に格好が悪い後姿、見せたくないでしょう?」
+++
アンズはあふれる涙をぬぐう暇もなく、自転車を漕ぎ続けていた。辺りは日が落ち、すっかり闇に包まれている。ライトを点灯するとペダルはさらに重くなり、草むらから響く蛙の合唱と照明の発電音がシンクロする。
「クロちゃーん!クロちゃーーんっ!!」
彼女はひたすらクロバットの名を呼びながら、夜のセキチクシティを走り続けていた。祭りの会場から離れる程、人通りは減って街はひっそりと静まっている。
(お父さん、ごめんなさい……!本当にごめんなさい……!)
可憐な顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ、頭はパニックになっていたが、通学路に合流するとクロバットの行先が浮かんでくる。
「やっぱり……、家に帰ってるのかな……」
彼女はペダルを立ち漕ぎしながら、土手の上へと駆け上がって屋敷へ戻ることにした。闇に包まれているとはいえ、通い慣れた通学路の風景が彼女の不安を僅かに取り除く。
「うおーっ、なんだあれ!」
と、土手の下――バトルフィールドが並ぶ河川敷から弾んだ声が響いてきた。
アンズは思わずそちらを向く。光が集まっているフィールドの中央にワゴン車やバイクが並び、ガラの悪い暴走族たちが集会をしているのだと一目で理解した。不良達の溜まり場サイクリングロードが近いセキチクシティでは時折目にする光景である。年々数が減っており、アンズの目には新鮮に映った。その数、30人程度だろうか。普段なら関わることを避ける状況だが、照明の中に舞い込んできた大きな影を見て、アンズの身体が硬直する。
「スゲーッ、クロバットじゃん!野生か?」
フィールドの真ん中で酒盛りをしていた暴走族の青年が立ち上がって空を指す。ワゴン車の照明の端にふらりと音もなく飛び込んできたのは、憔悴しきったクロバット。
「マジ!すっげえ、かっけえ!」
「四天王が持ってる奴だよなー。オレ欲しかったんだよ!」
次々にガラの悪い連中が立ち上がってクロバットの後を追い、手に持っていた鉄パイプで小突き始めた。彼らは次第に、誰が捕獲するかで揉め始める。
「おいおい、先に見つけたのはオレだろうがっ!」
「お前ら、頭のキンジさんに譲れよ!」
罵詈雑言がひとしきり飛び交ったところで、派手な頭をしたリーダー格が捕獲するということに決定した。仲間たちは鉄パイプでクロバットを乱暴に叩き落とし、フィールドへ組み伏せる。すっかり弱りきっているクロバットは無抵抗でされるがまま。リーダーの男がレザージャケットのポケットからモンスターボールを取り出したとき、意を決したアンズがその輪の中に突入した。
「やっ、やめてーっ!!」
「なんだァ?」「……女?」
アンズは目を丸くする暴走族の隙をついてクロバットの上に被さると、必死で抱き着いて懇願する。
「こ、この子はお父さんのポケモンなの!やめてください!」
滅茶苦茶に泣き叫ぶ美少女に彼らは目を合わせていたが、すぐに下品な笑い声を上げた。
「わお、可愛いお嬢ちゃん!」
「お前らロリコンかよ?キモッ」
「うるせえ、可愛いけどガキ過ぎるなぁ……」
吐き気がするほど露骨な、下品でみだらな視線にアンズは歯をがちがちと鳴らしながら慄いていた。バイクや車の照明が彼女を品定めするように集中する。「でも結構いけるよな?俺のオンナより可愛いし」という言葉が何を意味しているのかは分からないが、無事にこの男たちの中から抜け出すのが困難なことは理解していた。しかし膝の上ではやつれたクロバットが小刻みに震えている。
(ク、クロちゃんはあたしが守らなきゃ……)
ようやく見つけた姉妹のような存在を置いて逃げるなど考えられない。
(お父さん……。助けて……!)
アンズは嗚咽を漏らしながら、クロバットを強く抱きしめた。その儚げな姿は、男の欲望を駆り立てる。タガが外れたスキンヘッドの大男が、アンズの前に躍り出た。
「助けに来たくせに泣いてるゥ!そそるなァ!もうオレ我慢できねーわ」
「うはっ、抜け駆けすんなよ!見た感じ、お前が初めてになるんじゃねーの!?」
「そうか!!やべー、興奮止まらねーわ!痛いけど我慢してねえ〜」
下種な笑い声と共に、丸太の様な腕がアンズの前に伸びてきた刹那――視界に彼女の危機を捉えたクロバットが身を起こし、男の手をその翼で払い上げた。「クロちゃん……!」驚愕するアンズを守るように、クロバットがその前に立ちはだかる。牙を食いしばり、暴走族達を鬼の形相で睨みつけると、彼らは一斉に怯み上がった。
「ったあ!!コイツ……!!」
スキンヘッドは舌打ちしながら傍に置いていた鉄パイプを拾い上げた。右手には鈍い痛みが走っている。
「まだ動けるのかよ!キンジさん、とっとと捕まえましょうよ」
「おう、任せとけ」
キンジと呼ばれたリーダー格の男は、腰に装着していたメタルカラーのモンスターボールを一つ選び出すと、フィールドにバクオングを召喚した。河川敷を揺らすような唸り声に、クロバットは不快感を露わにする。アンズも思わず耳を塞いだ。
「効いてる、効いてる!こないだのタイトルでチリーンがクロバット攻めてたじゃん?あれ、マジだったんだな。蝙蝠は音に弱いってやつ」
「さすがキンジさん!うちのグループの頭だけある!」
持ち上げる部下に、キンジは得意げに空のボールを取り出した。
「おうよ〜。じゃ、弱ってるっぽいしそろそろ行くか!」
「や、やめ……っ」前に出ようとしたアンズを、クロバットの大きな翼が遮った。この少女だけは、何が何でも守らなければならない――彼女は牙を食いしばりながら、ボールを叩き落とす覚悟を決めた。大げさに腕を振りかぶり、放たれるボール。暴走族から歓声が上がる。
ボールが山なりにクロバットに向かって行った時、横から飛んできた石がすかさずそれを撃ち落とした。弾き飛ばされたボールはスキンヘッドの頭に当たって地に落ちる。「ってぇ……!!」悶絶する仲間を差し置いて、彼らは一斉に石が飛んできた方を向いた。
「何だ!?」
心地よい下駄の音と共に、しじら織の着流しを着た男が現れる。
「人の物を盗ったら泥棒!この程度も分からねえのか、屑が」
「何だてめぇはっ!!!」
暴走族が揃って鉄パイプを構える中、アンズが「お父さん……!」と擦れる声を振り絞った。その姿を見た瞬間、安堵が満ち溢れたが、恐怖で膝が笑って立ち上がることができない。キョウは臆することなく相手の人数と武器、距離を確認しつつ、アンズの状態を見て帯に差した扇子を手に取って打ち鳴らした。手遊びにも見える仕草だが、クロバットはその音だけで周囲の状況を全て把握する。視界はたちまち澄み渡り、彼女はプロの表情に切り替わった。アンズを足と後ろ羽で抱え込んで、主人の背後へ飛び上がる。
「あ、クロバットが……!」
キンジはすかさず手を伸ばそうとしたが、素早い動作は誰にも止めることができなかった。腕を組みながら暴走族を睨みつけるキョウは、黙っていても周囲を圧倒する。彼らは怯みつつも「オッサン、やんのか!?」と威嚇するが、数々の修羅場を潜り抜けてきた男には口だけの脅しなど通用しない。アンズはその逞しい背中がヒーローのように見えた。
「お父さん……。ごめんなさ……」
ぼろぼろと泣く娘に、父親が落ち着き払った口調で尋ねる。
「土手の上に逃げてろ。立てるか?」
アンズはかぶりを振り、地面にへたり込む。
「む、無理……。足が……動かないよ……」
「分かった」
リトルカブを停めている土手の上までは少し距離があり、目が悪いクロバットに指示が出しづらい。そこで彼は着物の袂からモンスターボールを取り出した。その様子を見て、暴走族が一斉に武器を構える。
「おう、オッサン!ポケモン勝負か!?」
キョウは気にせずスカタンクを繰り出すと、尻尾でアンズを包んで少し後ろへ下がらせた。
「キンジさんはな、バッジ5個の実力者だぞ!」
免許端末を開き、ポケモン使用申請画面を操作しながらその言葉を鼻で笑い飛ばす。
「バッジ5個程度で胸張るなよ、小せえ小せえ!まとめて相手してやるから、何匹でもかかってこい」
「何だと!?」
激高する暴走族を無視し、キョウは画面へ視線を落とす。予想通り、イツキによるポケモンの『プロモーション』目的での使用申請が行われていた。彼は慣れた手つきで不正操作を行い、その申請へ自分の名をねじ込む。この犯罪にも絡む状況では、申請と同時に通報も行われる『緊急』カテゴリを選択するのが正解だが、彼はそんなことをするつもりなど微塵もなかった。落ち着きを取り戻したクロバットの傍にボールを投げ、ドクロッグを召喚する。
「よし、お前ら全員行くぞ!」
暴走族のリーダー、キンジの掛け声の元、彼らは一斉に各々の相棒ポケモンをボールから呼び出した。30匹のポケモンに囲まれる父親を見て、アンズはスカタンクにしがみつく。
「スウちゃん……、お父さん大丈夫だよね……?」
その問いに、スカタンクは無言で頷いた。このような状況は前科者を弟子に揃えている主人の傍にいると、何度も経験してきたことだ。こっそりと送られるハンドサインに従いながら、彼をアンズを包み込んでダーティなシーンを見せないように視界を狭めた。
外野の準備が終わると、キョウは深く息を吐きながら相手ポケモン達とその距離などを確認する。照明に照らされ、うっすら浮かび上がる周囲の景色を見ていると、既視感が訪れた。
(ああ、ここは……)
ここはちょうど、最後の試合を行ったマウンドだ。
(懐かしいな)
一体何の因果だろう。
何となく父親が見ているかもしれないと土手に目をやるが、そこは闇に包まれていた。当然のことに彼は苦笑し、置かれている状況を思い出して扇子を握り直す。あの試合は仲間のミスで負けてしまったが……。
「行けっ、マンキー!」
先制を掛けようと動くマンキーを見て、キョウは扇子を叩いた。猿が一歩目を踏み出す前にクロバットがその眼前にあらわれ、翼で薙ぎ払うと同時に背後にいたトレーナーへ押し返す。自分のポケモンに衝突し、暴走族は転倒した。仲間が呆気にとられたのもつかの間――主人の「不意打ち」の声を聞いたドクロッグが、近くにいたニューラを斬りつける。その背中を取ろうとしたラッタにも、身を翻して「だまし討ち」で応戦。クロバットもその間に、次々相手ポケモンを切り払って行った。
彼女には扇子の音で、ドクロッグには声で指示すれば同時に二体動かせダブルバトルにも無駄がない。サインプレーの真骨頂だった。サインを徹底し、ポケモンを思い通りにリードすれば、つまらないミスに失望することがない。
「やべえっ、なんだよあのオッサン!強い……っ!ってかあの戦い方まるで四天王の……」
スキンヘッドはたまらず弱音を吐いた。そこへクロバットが飛んできて、彼のゴーリキーに素早く足払いを掛ける。疾風のような攻撃は、スキンヘッドのふくらはぎをも巻き込み、深く斬り込んで出血させた。悲鳴を上げる男に、キョウは涼しい顔で微笑む。
「ああ、すまないね。だけど君……そんなにポケモンの近くにいるとさ、とばっちり食らっても仕方ないんじゃないか?何のためにテクニカルエリアがあると思ってる?」
全く笑っていない目を見て、スキンヘッドの全身から血の気が引いていく。もはや痛みも気にならなかった。次に、キンジのバクオングがドクロッグへ飛びかかってくる。キョウは右手でハンドシグナルを送りながら、「泥爆弾」と淡々と指示を出す。ドクロッグはフィールドの土を掘り返し、爆弾を生成して相手の巨大な口目掛けて放り投げた。サイン通り、狙いを少し外して後ろにいる暴走族達へぶつけるのも忘れない。泥まみれになって慌てふためく不良達を見ながら、キョウは過去を回想する。
それはサカキに本格的に弟子入りして間もない頃だった。
「ペルシアン、切り裂く」
トキワジム内のバトルフィールドで、サカキは指を鳴らしながら淡々と指示を出した。
ペルシアンはキョウのモルフォンを捉え、真っ直ぐに飛びかかってくる。彼は瞬時にその鼻先を毒粉で冒すことを考え、指示を出そうとしたが――ペルシアンの爪が先に伸び、モルフォンの羽根の端を引っ掻きながらキョウめがけて威嚇し、出かかっていた命令は喉の奥へ引っ込んだ。攻撃を外したのではない、明らかに自分を狙っていた。
「危ねえッ!何するんですか!?」
キョウは思わず声を荒げる。しかし、サカキは顔色一つ変えない。
「余所見するな」
「いやいや、明らかに俺を狙っていましたよね。殺したいなら自分でやったらどうですか?」
「そうだな、そろそろ考えておこう」と無表情で頷きつつ、サカキは「トレーナーを狙えば、指示を封じることができる」と続けた。キョウは呆気にとられる。
「は?」
「多くのトレーナーは、試合ではポケモンに指示を出せばいいだけだと思っている。油断しているんだ。狙われる可能性があることを、想定していない」
真顔で言明するサカキに、キョウは目を丸くした。
「指示妨害ってルールご存知ですよね?」
トレーナーの指示を故意に妨害するのは、当然違反行為だ。先ほどのペルシアンの行動などは妨害どころか相手トレーナーに危害を加える気があり、審判に認められれば反則負けにもなりかねない。
「ペナルティなど、間抜けがすることだ」
全く悪びれる様子もないサカキに、弟子は引きつった笑いを浮かべた。
「……清々しい程の屑ですね」
「さて、弟子が一人前になるより早く落命しないことを祈ろうか」
そして彼は有無を言わせず、中断した試合を再開する。
その時キョウは最低最悪の男に師事したことを後悔したが、他のジムリーダーは取り合ってくれないため他に教えを乞うことができない。なんとか死なないようトレーニングをこなしているうちに、彼も次第にコツを掴み、師匠仕込みのラフプレーを体得した。最初はモラルに躊躇していたが毒タイプと相性が良いことが分かり、今では5万人の観客やテレビカメラさえも欺いている。
暴走族のポケモンは、僅か10分足らずで残り一匹となっていた。最後はリーダー・キンジのバクオングである。弱ったクロバットとドクロッグだけでここまで攻め立てた父親を、アンズはぽかんと口を開けてただ眺めていた。
「キンジさん、頼んます!」
「俺達のカタキ討ってください!」
一方的な攻勢にキンジは内心怖気づいていたが、仲間の手前逃げ出すこともできない。
「お、おう任せとけ!お前らのカタキ、必ず討つ!」
「泣けるねェ〜。なかなか信頼されてるんじゃないの」
わざとらしく白い歯を見せるキョウに、彼は容易く憤慨した。
「ざけんな!オッサン、オレのバクオング舐めんじゃねぇぞ!こいつはな――」
キンジが傍に立っていたバクオングに触れた瞬間、ポケモンはそのままフィールドに突っ伏した。暴走族達は絶句し、目を疑う。キンジはレザーパンツのポケットに突っ込んでいた免許端末を慌てて取り出し、バクオングのコンディションを確認した。状態は毒による気絶と記載されている。
「毒で……」
一体いつの間に?
必死で記憶を手繰り寄せ、彼はようやく思いだした。ドクロッグの泥爆弾がバクオングの口内に直撃したあの時だ。
「あの爆弾の中に……!」
「正解」キョウは笑顔で指を鳴らす。
「てめえ!馬鹿にしやがってッ!!」
激高したキンジは、足元に転がしていた鉄パイプを手に取った。ポケモンで敵わないのであれば、武力行使に出るまでだ。リーダーを真似して、仲間たちも次々武器を手に取り始める。中年男性にしてはやや細身のキョウは不良達からは弱々しく見え、勝利を確信させた。
「お父さん……!」
アンズの全身から血の気が引いていく。プロのトレーナーがそのポケモンを武器に人間を迎撃することは絶対のタブーだが、これだけ人数が多くては父親の腕力だけでは敵わないかもしれない。なすすべのない状況に、再び身体が震えあがった。蒸し暑い夜だというのに、ひどく寒気がする。
(どうしよう……っ!)
その時、河川敷フィールドを照らす照明の光度が数段増した。土手から伸びる光に、キョウは小さく息をつく。
目を細め、同時に土手を振り返る暴走族達。そこには大型バイクやワゴン車、業務用ライトを手にし彼らを照準に捉えた大男たちが20人ほど仁王立ちしていた。各々釘バットやバールなど如何わしい武器を手にしている上に、タンクトップや半袖シャツから覗く太い腕にはもれなく入れ墨が入っていた。誰がどう見ても警察ではないし、一般人でもない。
「オジキ、お待たせしましたっ」
大男たちは速やかに土手を駆け降りると、キョウに向けて一斉に頭を下げる。彼は着物を直しながら舌打ちした。
「遅えんだよ」
「すんません、仲間かき集めてたら時間かかっちゃって……。後はお任せください!」
「頼んだ。アンズ、行くぞ」
キョウは左手でスカタンクに指示を出し、アンズを抱えさせて傍にやってこさせた。突然登場した元弟子たちに、アンズは目を丸くする。
「弟子の皆さん!」
「お嬢さん、お怪我ないッスか?後は我々セキチク自警団が悪い奴をぶっ飛ばしますよっ」
ニコニコと微笑む大男たちに、すかさず師匠が釘を刺す。
「人聞きが悪いんだよ」
「すんませ……」慌てて縮み上がる彼らに、キョウがそっと耳打ちした。「10分後にやれ」娘には届かない程の冷徹な声。その程度の時間があれば、断末魔の悲鳴が届かない場所まで離れることができるのだ。弟子は無言で頷き、武器を構えて暴走族に向き直る。彼らは怯み上がった。
「セキチク自警団って……」
その組織は、セキチクジムの元弟子達で構成された地元自警団である。立派に更生した前科者揃いの集団は腕っぷしと実績には定評があり、地元住民から強く支持されていた。弟子たちに見送られながら土手の階段を上がっていく着物を纏った背中を見て、キンジはようやくその男が何者なのかを思い出した。
「あ、あいつ……!四天王だ!四天王の――」
そう叫ぼうとしたキンジの喉元を、弟子の一人が強引に掴んで引き寄せる。
「おう、どこ見てんだ!お前らの相手はこっちだぞ」
「ざけんなっ、プロがアマと勝負していいのか!?こんなのバレたら――」
「お前らがチクんなきゃ問題ねえよ、な?」
そう言いながら、弟子は黄ばんだ歯を見せて引きつった笑いを浮かべた。
土手を上がったキョウは、ポケモンとアンズを引き連れ、早足で帰路を目指していた。煌々と照らされた河川敷フィールドはどんどん小さくなり、次第に辺りは静まり返ってキョウの下駄の音だけが響き渡る。無言で歩く着流しの背中はどす黒い闇に包まれているようで、スカタンクに乗っていたアンズは声をかけるのを躊躇したが、とうとう意を決して口を開いた。
「お……お父さん、お弟子さんたちだけで大丈夫なの?警察呼んだ方が……」
「問題ない。警察も呼んでるだろう」
平坦な口調は凄みがあり、アンズに疑う余地も与えない。再び黙り込んでいると、父親がこちらに目を向けた。
「そんなことより、まず先に言うことがあるだろう」
アンズは肩を跳ね上がらせながら委縮する。
「……は、はいっ。お、お父さん!あの……、」
「クロバットに!!」
キョウは声を荒げて娘を叱り飛ばした。ずっと教え諭すような躾をしてきた彼が、子供に怒りを見せるなどほぼ初めてのことで、アンズの表情は恐怖と自責の念でみるみる崩れていく。大きな瞳いっぱいに涙をためて「はいっ」と叫ぶと、嗚咽を漏らしながらクロバットに抱きついた。
「勝手に連れ出してご、ご……ごめんなざい……」
クロバットはアンズに対して特に怒りなどは感じていなかったのだが、主人の視線を感じてひとまず頷くことにした。
「もう二度と、お父さんのポケモンを持ち出さないように!そこまでして勝ちたいと思うな!」
「は、はい。ごめんなさい、お父さん……本当にごめんなさい……」
むせび泣くアンズの前に、キョウはしゃがみこんでリネンのハンカチを手渡した。使い込まれた、柔らかな肌触りがアンズを安堵で包み込む。涙をぬぐう娘を見て、彼は頬を緩ませながら頭を撫でた。
「まあ……目を離してた俺も悪いから、これ以上強くは言えないけどな。で、そろそろ歩けるか?」
アンズを抱え、既にバテているスカタンクに目をやりながらキョウは尋ねる。彼女もポケモンに申し訳なくなり、降りてみるがまだ膝は笑っておりその場にへたり込んだ。
「仕方ないな……。ほら、交代」
彼は息をつくと、娘に背を向けてスカタンクから移るように促した。
「ごめんなさい……」と、申し訳なくも嬉しそうに飛び移るアンズを背負い、彼は立ち上がる。娘を背負うのは何年振りだろう。華奢な彼女とはいえ身体にずしりと重みが伝わり、思わずよろめく主人の背中をドクロッグがそっと支える。
(重……。こんなに成長したのか……)
キョウは娘をおぶったことを一瞬後悔したが、思い直して帰路へ足を進めることにした。久しぶりに父親に背負われたアンズもすっかり心は落ち着きを取り戻し、しじら織の肌触りに頬を擦り付ける。ほんの少しだけ煙草が混ざった温かな香りが懐かしい。昔はこの場所が好きで、よくおんぶをせがんでいたことを思い出した。
「……お父さん」
「なんだ?」
「お父さんの背中って大きいね」
「まあ男だからな」
キョウは娘の漠然とした問いに困惑しつつ答える。すると彼女は、頭をもたげながらぽつりと呟いた。
「それもあるけど、ちょっと私には大きすぎて最近怖くなってたの……」
彼は無言で話に聞き入っていた。やはり、最近の反抗心はそれが原因だったのか。
「みんなから余計な期待の目で見られてさ……。サインできるの?とか勉強も完璧だよね?みたいな……」
「俺も昔はそういう目で見られてたよ」
父親の意外な台詞に、アンズは顔を起こす。
「そうなの?」
「お前くらいの頃は、ポケモンしてなかったから……。ジムリーダーの息子なのに、何故?ってね」
「そういう時は、どうしてたの?」
「別に、気にしない」
「お祖父ちゃんは何て言ってた?」
「特に何も。好きなようにやらせてくれたから、それでいいと思ってたんじゃないか」
「それ、嫌じゃなかった?」
「当時は俺も反発してたけどな、後になって和解したからいいんだよ。結果が良ければ、俺はそれでいいんだ。……お前も体裁を気にせず、好きなようにやるといいさ。なるべくいい環境になる様に手助けするから」
思えば、周りが何と言おうと父親は自分のやることを止めなかった。それがジム以外に居場所を作ってくれようとした優しさだと気づいたのはいつだったのだろう。当時、不器用な父親を理解できなかった自分を悔やむ。だからこそ、娘の支えにはなりたかった。その上彼女はたった一人の家族なのだから。
そんなキョウの思いまでは分からなかったが、アンズは無邪気に声を弾ませた。
「じゃあ、明日からポケモンバトル教えてよ!」
「サインは……」と、言おうとした父親の言葉を彼女は遮った。
「サインはいいの。まずは基礎から!タイトルマッチの録画をず〜っと観て気づいたんだけどね、すみれちゃん達でワタルさんみたいなポケモンバトルをするのは向いてないと思うんだ。あたしはやっぱり、お父さんみたいなバトルをしたい!」
「ああ、そう……」
娘からは、照れ臭そうに目を細める父親の顔は見えない。彼女は甘える様にその背中へしがみついた。
「さっきのクロちゃん達のバトルかっこよかったよ。お父さん、ヒーローみたいだった!助けてくれて、ありがとっ」
「……どういたしまして」
彼は擦れるような声で礼を言った。
それからしばらくして、まどろみ始めたアンズはとうとう睡魔に負けてしまった。更に重さが増した愛娘を背負って歩きながら、彼は傍にくっついて離れないクロバットに苦笑する。
「ヒーローだとよ……」
照れ臭そうに笑う主人の表情は、暗闇からも察することができる。何はともあれ仲直りに一役買うことができ、満足げに微笑んだ。
「それもまあ……、悪くないな」
いつかは自分のもとを離れていくだろう。
その時まで、ヒーローであるのもいいかもしれない。
彼はそんなことを考えながら、下駄の足音を響かせ、帰路を目指した。