エピローグ
残暑も厳しい8月31日。
相変わらず蒸し暑い日々が続く中、セキエイスタジアムのロッカールーム内は程よく効いた空調が早朝からオアシスを作り上げていた。早くから出勤したワタルが入室すると、壁際のホワイトボードに描かれている大きな文字とネイティオのイラストが目に留まる。
『引っ越しました! イツキ』
その下には、彼の新住所が書かれていた。近寄って確認していると、バッグを携えたイツキとシバが入室してくる。出勤時間がバッティングしたようだ。
「あっ、ワタルおはよう!今日も暑いね〜」
「イツキくん、引っ越したの?」
前触れもない引っ越しに、ワタルは目を丸くする。するとイツキは白い歯を見せながら、得意げに頷いた。
「そうなんだ〜。今度遊びに来てよ!新築マンションでさ、綺麗でとっても広いんだ」
「ふん、一人暮らしに広さなどいらん」
素っ気なく言い捨てるシバに、イツキは唇を尖らせた。
「だってドカを置く場所が欲しかったからさ〜」
「え?レンタルガレージでいいんじゃ……」
首を傾げるワタルに、彼は目を輝かせながら反発した。
「あんなにかっこいいバイク、コンテナの中に入れとくなんてもったいないじゃん!リビングの真ん中に置いて飾ってるんだ。毎日眺めて幸せだよ!仕事から帰ったらお手入れ欠かせないし〜♪」
「ほう、新しいバイクを買ったのか?」
楽しげなイツキの話は、シバの興味を引いた。
「ううん、キョウさんから貰ったんだよ。お祭りで僕のカブを無くしちゃったから、代わりにって。これこれ〜!」彼は声を弾ませながら、スマートフォンの待ち受けにしているドゥカティをシバに見せた。「超クールでしょ?」真新しい新築マンションのリビングに鎮座する、重厚感のあるデスモセディチRR。脇には赤いフォルムを引き立てる様に、ネイティオとネイティが並んで立っている。
「祭り……?」
「先々週のオフに、セキチクで夏祭りがあってねー。みんなで行ってきたんだよ」
オートバイより何より、その事実を聞いてシバは驚愕する。自分一人を差し置いて、あの子の地元へ行くなんて。
「な……、なんだと!?」
「キョウさんちにもお泊りしちゃったー。静かで広いしご飯もおいしいし〜、最高だったよね」
彼の気も知らないイツキは、ワタルとオフの感想を朗らかに語り合う。『泊まり』という単語は、シバの頭へ電撃を落とした。
「な……!な……!!」
絶句する親友の反応は意外過ぎて、ワタルを動揺させる。
「もしかして……誘ったほうが良かったか?ご、ごめん……。きっと修行するから断られると思って……お前、いつもそうだから……」
「た、確かにその日は修行していたが……ッ!!おれも、その……ッ」
行きたかった、とはプライドに掛けて口が裂けても言えず、彼は「トレーニングしてくる!!」と叫んでロッカールームを後にした。慌てて部屋を出ていく大きな背中を見送りながら、イツキは肩をすくめる。
「ほら〜、やっぱりアニキは修行第一だよね」
「うーん、でも誘えばよかったな。悪いことしたな……」
とはいえ、今まで食事以外のオフの誘いはほぼ全て断られてきていたので、あの反応は想定外であった。堅物のシバが、祭りに行きたそうな気を見せるなど初めてのことだ。
(シバも新しい四天王の雰囲気に馴染んできたのかな?)
ワタルは改めて、親友を誘わなかったことを後悔した。
+++
同時刻、アンズは朝から自宅敷地内の片隅にある蔵を漁っていた。山積みにされた段ボールの中を次々に開封していきながら、父親が片付けたノートを集めていく。未だ煩く鳴き続ける蝉の合唱に混じり、庭先から父親が呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、進路は本当に私立でいいのか?」
「うん、いいよ。お父さん進路希望の紙書いといてーっ!」
彼女は蔵の中から声を張り上げると、再び作業に戻ることにした。傍ではコンパンが不思議そうに彼女の姿を見つめている。
父親と和解してから、アンズは毎日空き時間にポケモンバトルのトレーニングを行ってもらっていた。目標とするトレーナーは再びキョウに戻ったのである。熱心に修行に明け暮れ、勉強とも両立すべく中学校は私立に進学することにした。明日は学校にその書類を提出するのだ。進学先はこの近辺では最もバランスよくスキルアップが図れると評判の、中高一貫校・タマムシ学園に挑戦することに決めた。
「すみれちゃん、見て!お父さんのジムリーダー時代のノート発見!」
ある段ボールから、アンズは父親がジムリーダー新人時代に書き溜めたノートを発見する。先日アキコから、親により近づきたければ蔵に資料があるので探してみては、と提案されてから彼女はここに入り浸っていた。中はひんやりと涼しいため、避暑にも最適である。ノートをめくってみると、達筆な字でぎっしりとポケモン一匹一匹に関するデータが敷き詰められていた。
「すごーい……」
アンズは思わず感嘆の声を漏らした。毒や餌の配合、特徴や実験データを記したページには、一目見ただけで頭が拒否反応を起こしそうな数式や小学生には読めない漢字が並んでいるが、父のようになるためには改めて勉強が必要だと思い知らされる。
「あたしも頑張ろう!」
彼女はノートを胸に抱き、立ち上がった。その反動で、小さなダンボールがひっくり返り中の道具が床に散らばった。慌てて拾い上げようとしたが、それを見たアンズはふと手を留める。
「これは……」
「良かったですねえ、アンズちゃんの関心がお勉強にも向いて」
縁側で麦茶を飲みながら娘の提出書類を書いている主人に、アキコが帆布のバッグを持ってくる。これは彼の仕事鞄だ。わざわざ部屋から持ってきてくれた老家政婦に会釈しつつ、キョウは安堵の息をつく。
「本当だよ。これで反抗期は終わり?」
「いえいえ、あの程度では反抗期とは言えません!本当の戦いはこれからでございますよ」
アキコは得意げに微笑んだ。主人は苦笑する。
「まだ嫌われるんですか」
「それは旦那様の努力次第でございます」
この話を傍で聞いていたクロバットは、今度こそ自分が架け橋になるのだと勝手に意気込んでいたが、すかさず主人に万年筆で小突かれる。
「お前、もう余計な手出しはしなくていいからな」
自分は役不足なのだ……と、しょげる相棒に彼は目線を外しつつ、照れ臭そうに告げた。
「家族の問題は家族で解決するから。俺から離れるな、ってこと」
それを聞くなり、たちまちクロバットの表情が華やいだ。嬉しそうに何度も頷き、この暑苦しい時期も気にせず主人の傍にぴたりと張り付いて離れない。
「旦那様、その優しさを人間の女性にも向けないと独身で終わりますよ」
水を差すようなアキコの一言に、彼は自嘲的な笑い声を上げた。
「厳しいねー!アキコさん、俺の介護までよろしくお願いしますよ」
「そうしたいのは山々ですが、あいにく幽霊になっては家事さえも儘なりませんので」
老い先短いアキコとしては、雇い主と添い遂げる後妻が現れて欲しいものだが、この様子ではその望みも薄そうだ。呆れるように溜め息をついていると、段ボール箱を抱えたアンズが庭へやってくる。
「お父さん、まだ仕事行かないの?」
「あと1時間くらいで出る。どうした?」
アンズは縁側の上に箱を置くと、中から古びたグラブを取り出した。
「お蔵の中で野球グラブ見つけたんだー!キャッチボールしようよー!この間体育の授業でやったんだけど、とっても楽しかったんだよ!」
少しかび臭い少年用の左利きグラブ。キョウは思わず息を呑み込んだ。涼しげな風が吹き、縁側に吊るしていた風鈴が小さく音を立てる。そこから引き出される記憶は、リトルリーグ時代の過酷な練習の日々ではない。真っ先に蘇ったのは、二十歳の時に父親とキャッチボールをした、あの瞬間。
「……それ、左利きだぞ。お前は右だから」
あの時と同じことを指摘した。
本当は娘も左利きだったのだが、自身の経験から不便を実感し、矯正してしまったことを今初めて後悔する。
「あ、そっか!じゃあこっちなら大丈夫かな?」
そう言いながら、アンズは大きなグラブを取り出した。
右利きで、新品の、大人用。
「それ……」
途端に胸を締め付ける様な感覚が走り、息が止まりそうになった。
アキコも声を呑み、思わず顔を背けている。
「ちょっと大きいけど、これならあたしにも大丈夫だね!お父さん、キャッチボールやろうよー!」
事情を知らないアンズはグローブをはめ、箱から古びたボールを持って庭の中央へと駆け出していく。小さな背中を見つめる彼の耳に、24年前の冬に聞いた言葉が風鈴の音の様に鳴り響いた。
――いつでも帰ってきなさい。また、続きをやろうじゃないか。
父親は待ってくれていたのだ。自分の帰りを。
硬直している彼の前に、クロバットが段ボール箱の中から左利きのグラブを咥え、主人の前に差し出した。もう父親とはキャッチボールができなくなってしまったが、世代は変わり、今度は自分が親になって子供のボールを受ける番が来たのだ。
「小さいな……」
久しぶりに眺めるグラブは、24年前に見た時より更に縮んでいるような気がした。革はさらに固くなっていたが、指を押し込むとなんとかフィットしてくれる。
「入りましたねえ」
アキコが柔和な笑みを浮かべて喜んだ。庭先から、「お父さん、まだー?」と娘の声が聞こえて来る。感傷に浸っていた父親は我に返り、下駄を引っかけて縁側から外へ出た。
「おう、今行くから」
涼しげで心地よい夏の風に着物が揺れると、庭に放し飼いしているポケモン達が一斉に彼に注目する。クロバットもピントレンズ越しに、この様子を満足そうに眺めていた。
「いっくよー!」
アンズがボールを右手に掲げ、アピールするように飛び跳ねる。距離感は、あの時とほぼ同じだ。
「いいぞ」
「それっ」
緩めのボールが、キョウのグラブに快活な音を立てて収まった。
小学6年生の女の子だというのに、それなりに力強い球。彼は目を見張る。
「結構いい球投げるじゃないか」
「でしょ!伊達にモンスターボール投げてないよ!」
「ああ、なるほど」
アンズは得意げに笑みを溢した。
同じ親子のキャッチボールでも、あの頃とはすっかり状況は変わっているのだ。次は自分が、子供にボールを投げる番になった。彼は左腕を振りかぶり、力強くボールを投げる。現役当時に比べるとやや衰えた音を立て、ボールは娘のグラブに収まった。
「うわ、お父さんもすごい!」
思った以上の速球に、アンズは興奮を隠せない。
「野球やってたから」
「え、そうなの?だからグラブがあるんだね。ポジションどこだったの?」
質問と共に飛んでくるボール。
「ピッチャー」
キョウは答えと合わせてボールを投げ返した。
「すごい、すごい!上手かった?」
再び、ボールと共に父へ。
「まあそこそこ。サファリの副園長も同じチームだったな」
「そうなんだ!ほーんと、お父さんは器用だね〜。あたしもお父さんみたいになりたいなぁ」
「変に意識せずに、やりたいようにやってくれればいいさ」
父は娘を諭すように、ボールを投げ渡す。
「そうかなー。でもね、今空いてるセキチクジムのリーダーとか、ちょっと狙ってるんだ」
彼女はそれを上手にキャッチした。
「ほう、頑張れよ。リーダーはバトルが上手いだけじゃやっていけんぞ」
「だよね。だから勉強しながら頑張るの!」
決意と共に飛んできたボールを、父がしっかりと受け取る。
「その意気だ。……そういえば夏休みも終わりだな。宿題終わってるかー?」
キョウが腕を振りかぶろうとしたとき、重大な忘れ物に気付いたアンズはグラブを構えたまま硬直した。
「お前、まさか……」
「わ、忘れてた……!ポケモンにのめり込みすぎてて……」
アンズはみるみる青ざめていく。
夏休み前半は父親に反発してポケモンバトル研究に傾倒し、和解した後半もポケモンにより没頭して宿題の存在などすっかり忘れ去っていたのだ。一つも手を付けていない。キョウは呆気にとられた。
「あれだけスケジュール組んで早めに片付けておけって言っただろう!そもそもあんなもの、最初の1週間で終わるもんだぞ」
「む、無理だよー!うわああっ、どうしよう!お父さん、手伝ってー!」
「自分で解決しなさい!」
彼は呆れる様に言い放つと、娘に背を向けグラブを外して箱に戻した。間もなく出勤時間である。クロバットは慌てふためくアンズの傍を気配を消しながら横切ろうとしたが、その後ろ羽をがっしりと掴まれ引き止められた。
「クロちゃ〜んっ、手伝って!」
それはさすがに無理なお願いと言うものだ。目を白黒させるクロバットの背を、バッグを携えた主人がぽんと叩いた。
「行くぞ、クロバット」
彼女はアンズを構わないでおくべきか一瞬戸惑ったものの、やはり大事なのは主人だ。屋敷門へ向かって行くその背中を追うと、「薄情者〜!」と喚く可憐な声が突き刺さったが、それをフォローするようにキョウが囁いた。
「気にするな。帰宅しても片付いていなかったら、少しは手を貸してやろうかな」
クロバットは笑顔で頷く。彼は少し甘やかせすぎかもしれない……、と思ったが明日は始業式なので今回限りだ、と自らに言い聞かせた。
真夏の空気を吸い込むと、メンソールの煙草より爽快で蒸し暑い。明日は暦上では秋、しかしまだこの熱に浮かされた日々は続きそうだ。