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season.03 背中を認める瞬間
第5話:救い
 リトルカブをトップギア、スピードメーターを振り切った状態でキョウは国道を走っていた。限界までスピードを出しても、原付の最大速度などたかが知れている。スポーツカーを乗りこなし、過去には大型二輪も楽しんでいた彼は速度に不満を感じつつ、ハンドル脇に設置されている通信端末ホルダーに目を落とした。これはイツキが免許やスマートフォンをナビにするため、取り付けている物だ。
 セットしたキョウの免許端末画面には、クロバットの位置情報が表示されている。敏捷な彼女は大変に移動が速く、GPSポインタはあちこちに飛び散っていく。先回りしなければ、追いつくことはできないだろう――彼はリトルカブで疾駆しながら、冷静にクロバットの行動パターンを分析する。
 
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「この度、セキチクシティ・ジムリーダーに就任しましたキョウと申します。よろしくお願い致します」
 ポケモンリーグ本部の会議室内。15人の老練なジムリーダー、本部役員達の前で彼は深々と頭を下げた。そこへ冷たい視線が一斉に突き刺さる。最も離れた席でこの様子を見ていたカツラが、隣に座っている同期のサカキへ小声で囁いた。
「33になる今まで、ポケモン触ったことないんだとさ。お勉強ばっかりしてたエリートさんなんだね」
「ほう、俺と3つしか変わらんのか。よく引き受けたな」
 サカキの疑問を補完するように、キョウの隣に立っていた副総監が口を開く。
「世間やマスコミが大騒ぎしていますからご存知ない方はいないと思いますが、彼はポケモン未経験のリーダーです。このジムリーダー世襲制度によって勤めていた立派な会社を棒に振り、リーダーに就任してくださいましたが、あくまで『繋ぎ』ということで話はまとまっています。そこを理解して、みなさん温かい目でキョウくんを見てあげてください」
 副総監はジョウトおよびカントージムリーダーへたっぷり含みを持たせた説明を行った。彼らは表向きは納得したように頷いていたが、皆軽蔑するようにキョウを睨む。それは当然のことで、未経験のペーパートレーナーがジムリーダーが指名されるなど前代未聞だったからだ。
「我々はこのような悲劇を二度と生まぬよう、制度を変えていかねばなりません。これを機に、一度仕組みを見直しましょう」
 兄の葬式で制度を変えると言っていた副総監は結局何も動いていなかったようで、事が起きてから他人事のように行動している。
 キョウはゆっくりと会議室内を見渡した。当時、ジムリーダーは30歳以上の者しか就任が許されておらず、面子もなかなか渋みのある男達ばかりである。各々スーツなどを纏って取り繕ってはいるが、ジムリーダーは亡き兄の様に勉学を捨ててポケモンバトルに生きてきたことが一目瞭然だ。それを考えると、向けられた軽蔑にも耐えられる。
「さて、一応師匠を決めないとね。メディアには『繋ぎ就任』なんて言えませんから仕事をしています、ってアピールしないと。そうだね……師はサカキくん、どうかな」 
 突然指名され、サカキは思わず目を見張った。隣の席でもたれ掛っていた、師匠のヤナギがぽつりと漏らす。
「やはりな。本部はお前を切りたくて仕方がないらしい」
「私が世襲リーダーではないから?」
「ああ……。それなのに実力ナンバーワン。面白くないのも当然だろう。ペーパーをわざわざリーダーに据えたのも、お前の下につけてまとめて首を斬るためかもしれん」
 ヤナギは眉をひそめながら腕を組んだ。
 世襲制度から外れている弟子は、ずっと周囲から蔑まされてきた。彼がそれに屈しなかったのは幸ある。サカキは小さく舌打ちした。
「ふん、腐っている」
「全くだ……」
 小声のやり取りは副総監へ届いていなかった。
 彼は貼り付けたような作り笑いを浮かべながら、やや強めの口調でサカキへ尋ねる。
「どうかな、サカキくん。ジムリーダー実力トップの君ならペーパーを育てることも簡単でしょう。まだリーダーの弟子を取ったことがないんだよねえ、これは更なるスキルアップを図るチャンスではないのかな」
「……ええ、喜んで引き受けさせていただきましょう」
 サカキは呆れを含んだように頷くと、上等なスーツ姿で立っているキョウを一瞥する。育ちが良いだけに立ち姿や所作は優雅だが、滲み出るエリート然とした態度は副総監と共通するところがあり、非常に不愉快だ。
「一時とはいえ、弟子に何かあれば君の責任でもあるからね。気を引き締めて、面倒を見てあげてください」
 副総監は他人事のように微笑んだ。「ふん、よく言う……」と師匠の呟きが聞こえる。
 そこで会議は終わり、人々はキョウに何も声を掛けず一斉に散って行った。彼は一人残された会議室で書類をビジネスバッグに詰め込みながら、ぼんやりと数か月前を回想する。

「後任にあなたが指名されているんです」
 初七日が終わった頃、父の弟子が血相を変えて一枚の紙を持ってきた。それはジムリーダーの後任の指名した書類で、自分の名前が書かれていたのだ。キョウは目を見張ったが――記入時の日付を見て、その驚きはすぐに覚めた。
 これが書かれたのは約一年半前……初めて父親と酒を飲んだ、あの日の翌日である。
『来年、仕事が落ち着くからさ。ポケモンバトル教えてくれよ』
 父はあの言葉を信じて、自分をリーダーにするつもりだったのだ。
 この世襲制度には彼なりに苦悩していたのだろう。跡継ぎが亡くなった直後、次男から歩み寄られその勢いで後任に指名するなど、自分の想像以上に父親は随喜していたのだ。身勝手極まりないが、これは最後の親孝行――そう考えると勝手に指名されたことに対する怒りも湧かなかった。
 瞼の裏に、和装を纏った小さな後姿が浮かび上がる。あの背中には、どれほどの重みがかかっていたことだろう。苦渋の決断で父親から飛んできたボールを、彼は他人に回すことができなかった。青ざめる弟子に頭を下げ、彼はペーパーながらジムリーダーに転向する道を選んだ。

 キョウは散らかった会議室の椅子を片付け、深く息を吐きながら部屋を出る。
 するとドアのすぐ脇に、スタンドカラーシャツに、チャコールグレーのスーツを着た男が立っていた。自分の師匠になる男だ。
「お疲れ様です。……サカキさん、ですよね」
 彼は無反応のまま腕を組んだ。遣りづらい……とばかりに、キョウは苦笑する。
「なかなか気高いお名前ですね。ご実家は神社ですか」 
「エリートは世辞も下手だな」
 サカキは嫌味たっぷりにそのジョークを跳ね除けた。取りつく島もない態度に、キョウはぴくりと眉を反応させたが、そのまま口角を上げて話を続ける。
「それは失礼しました。……で、何か?」
「俺は“繋ぎ”などの育成に時間を掛けたくない。が、教えている姿勢は見せねばならん。これから毎日30分訓練をするので、トキワシティまで通っていただきたい。嫌なら辞めろ」
 セキチクシティとトキワシティ間は、高速を使っても片道1時間半はかかる。大変に不服だが、今は従うしかないとキョウはにこやかに頭を下げた。
「ええ、分かりました。よろしくお願いします。師匠、とお呼びすればよろしいでしょうか」
「好きにしろ。ところで、ポケモンは揃えたのか?」
「はい。本部から指示され80匹ほど」
 ジムリーダーは挑戦者によりレベルを8段階対応させる必要がある為、ポケモンの所持数が多い。任命から一か月足らずでかき集めた力量に、サカキは思わず感心した。
「大したものだな。どうやって育てた?」
「ボランティアの協力を得てサファリゾーンで捕獲し、『育て屋』に依頼して調整しました。8段階のレベルに対応できるようになっています。あとはピンクバッジのマスターで従わせれば、試合がこなせるかと。これがあればポケモンは何でも言うことを聞くんですよね、あなたのグリーンバッジのように」
 キョウはビジネスバッグの中からピンクバッジのマスターを取り出して、サカキの前に掲げて見せた。金と人脈を利用した鮮やかな手法には、さすがの彼も舌を巻く。
「そうだな。確かに理論上は可能だが……現実は甘くない」
 サカキは肩を竦めつつ、鋭い眼差しで弟子を睨みつけた。
「それで、専門タイプは何だ?」
「“毒”です」
「初心者のくせに、また難しいものを選んだな」
「うちは代々これなので」
 初心者トレーナーは、扱いやすい炎、草、水タイプから始めるのが一般的だ。しかしキョウはそれらを選ぶつもりなど全くなかった。
 全ては父親の意志を継承するため。彼のアイデンティティであった、ジムと家を守るため。 
 
 それだけが、彼を動かす力だった。
 
 それなのに。
 
 ジムリーダー就任から半年後。
 うるさく蝉が鳴き続け、肌を焼くような太陽が照らす真夏の時期。夏休みまであと2週間、と迫っていたサファリゾーンは珍しく客もまばらだ。ライパチは冷房の効いた受付内で、レジカウンターの上に足を投げ出しながら煙草を咥え、週刊誌に目を落としていた。記事の内容はどこをめくってもペーパージムリーダーのバッシング記事ばかり。
『地元の面汚し!』
『バッジ保持率歴代ジムリーダーワースト記録更新』
『ペーパージムリーダー家庭崩壊、離婚調停中!』
『見かねた国政介入、本部へ制度変更を申し出。セキチクリーダーまもなくクビか』
 そんなタイトルが彼の怒りを煽り、思わずカウンターへ雑誌を叩きつける。
「ったく……!本部のクソが!!あいつをリーダーに駆りたてといて……!!なんでこんなことっ」
 やり場のない怒りを抑えきれず、彼は乱暴に雑誌を蹴りあげた。ボロボロになった週刊誌は入口の自動ドアの前にぶつかり、やってきた客の革靴の手前に落下した。
「あっ、スンマセ……」
 慌てて煙草を灰皿にねじ込み、謝罪しようとしたライパチは客の姿を見て硬直する。「よう……」と力なく左手を上げて入店してきたのは、渦中の人物――幼馴染だ。
「キョウ……!」
 この年になると腹が出てくる仲間が多いというのに、彼はすっかり痩せ細っていた。育ちの良さが滲み出る悠然とした顔立ちは影をひそめ、今にも消えてなくなりそうな弱々しい表情にライパチは絶句する。
「大丈夫かよ、お前……!!」
「なんとか生きてる」
 入り口脇のベンチに深く腰かけると、ワイシャツのポケットから煙草を取り出して火を付ける。左手は小刻みに震えており、その本数が増加していることが窺えた。
「……アンズちゃん小っちゃいのに、煙草減らしてないのか?オレも子供できたから、なるべく吸わないように心掛けてるけど……」
「もうどうせ嫁の方に行くんだし、関係ない……」
 彼は溜め息をつくように煙を足元へ吐き出した。育児ストレスとバッシングに耐えきれなかった妻は浮気に走り、現在離婚調停中。椅子の傍に転がっている週刊誌には、まさにその詳細が書かれたゴシップ記事のページが開いている。
「浮気したのは嫁だろ!?なんで親権、あっちなんだよ!?」
「アンズが1歳未満だから……。この国じゃあな、育児ほったらかして男と遊んでるバカ女でも、母親って肩書きだけでそっちに親権を託したいんだとよ。幼い子供には母親が必要、ってな。面倒見てるの、うちの家政婦のばあさんなのにな。ジムリーダー制度より、先にそっちを何とかしてほしいよ」
「育てる気ねえんなら、なんで引き取るんだよ!意味が分からん!」
「養育費目当てに決まってるだろ、月50万提示されたよ。何を育てる気なんだろうな」
「お前……っ、戦えよ!!そんな女にアンズちゃん取られたら、虐待受けるかもしれないんだぞ!」
「弁護士と調整はしているが……。俺もジムが忙しくて家を空けることが多かったから勝ち目がない……」
「な、なんだそりゃ……!何とかならねえのか!胸糞悪いんだが……!」
「何とかならないことが多すぎるなあ……」
 彼はベンチにもたれ掛りながら、ぼんやりと天井を眺めた。これまで順風満帆に、何でも器用にこなしてきていたはずなのに、今は何一つ上手くいかない。ジムバトルでは負けが続き、失望した父親の弟子達は残らず自分の元を去ってしまった。
「……ポケモンも言うこと聞かないし。なあ、どうやって動かすんだ?」
「普通に技を命令すりゃいいだろ。そもそもお前、マスターあるんじゃないのか」
「頭が悪すぎて指示が理解できないらしい。動物だからな、仕方ないが……ポケモンがこんなに馬鹿だとは思わなかった。腹が立つほど使えない」
 キョウは苛立ちを覚えながら、灰皿に短くなった煙草をねじ込み次の一本を咥えて火を付ける。ハイペースな喫煙感覚と、曲がりなりにもプロとは思えない文句にライパチは目を見張った。
「お前どういう指示をしてるんだよ!?」
「例えば……10時の方向に3メートル離れて、ターゲットの左脇をヘドロ爆弾で狙え、とか」
「こ、細かいって!人間でも分からんぞ、それは……」
「ポケモンは各々毒が効きやすいポイントや急所があるんだよ、それはヤマ製で研究したデータを基にしてるから間違いない……。そこを突けば効率よく戦えるはずなんだが……」
 ヤマブキ製薬で得た膨大な知識も、本能で動くポケモン達の前には塵にも等しい。どんなポケモンでも服従するというマスターバッジを以ってしても、難しい指示にポケモンは混乱して全く思い通りに動かなかった。これにはポケモンリーグ本部も騒然とし、彼のスキャンダルの炎に油を注ぐ結果となっている。
「ああ、そりゃあ無理だな。お前が戦った方が早いよ」
 幼馴染は呆れる様に肩を落とした。キョウも無気力に頬を緩ませる。
「そうだな……」

(それで挑戦者のポケモンに特攻かけて死のうかな。)

 間もなくすべてが無くなるなら、いっそ自ら命を絶った方がましだ。
 しかし、あの世で親父はどんな顔をするだろう。
 俺を自慢の息子だと、誇りに思って死んだのに。やはり俺に申し訳ないことをしたと、謝るのだろうか。
 これでは何一つ救われない。
 
(謝罪させたくなかったから、親父の意志を引き継いだのに……)
 ずっと追っていたあの大きな背中は、自分にとってまるでヒーローのようだった。
 いつか成長し、父親の前へ飛び出て正面を向いた瞬間――そこにあったのは、本当に小さな人間の姿。箸で摘まめる、脆く崩れ落ちそうな欠片だった。殆ど分かり合えなかったことは後悔している。だからこそ、自らの生涯を閉じるときは『自慢の息子』のままで終わりたい。
(死ねねぇなあ……)
 無様なまま命を散らすわけにはいかない。
 しかし、家族も仕事も失われつつある今――この小さなプライドだけでは、救いのない人生に希望を見いだせない。
(もう何だってするよ。最終的に結果が良くなるのなら、何だって……)
 キョウは深く、煙草の煙を吐き出した。
 
「副園長、大変です!重症のポケモンがいますっ」
 突然、受付の奥からタオルの塊を抱いたサファリゾーン職員が駆け込んできた。途端にライパチの表情が強張る。
「どうした?」
「外から迷い込んだズバットが、お客さんの投げた石に当たって……。応急処置はしたんですけど、もう虫の息です。どうしましょう……」
 職員はタオルに包まったズバットをそっと床に下ろした。額に血の滲んだ包帯をした蝙蝠が、息も絶え絶えに苦しんでいる。それを見た瞬間、ライパチは顔を曇らせた。
「困ったな……。保険適用外だぞ……」
「なんだよ、助けてやればいいだろ」
 キョウが煙草を咥えたまま、ズバットを覗きこむ。このまま放置しておけば、三日と命は持たないだろう。
「それは山々なんだが、サファリに迷い込んだポケモンの治療は管理外だから保険効かないんだよ。しかもこんな怪我、ポケモンセンターで治癒できるレベルじゃない」
「ふーん、じゃあ見殺しなのか」
 光りを落とした瞳で淡々と告げるキョウに、頭に熱を帯びたライパチが掴みかかった。
「てめえ、人聞きが悪いぞ!!年間何百匹のポケモンがウチに迷い込んできて、処置に困ってると思ってんだよ!こっちだって苦渋の決断なんだよ!管理してるポケモンの治療代も馬鹿にならないのに……いちいち面倒見てたら、商売としてやっていけない。特にズバットみたいなポケモンは……」
 ありふれたポケモンは保護するに値しない――思わず口を滑らそうとした親友を、キョウはそっと宥める。
「お前の言うことは正しいよ」
「そ、それは今の立場上、鵜呑みにする訳にもいかないが……。こいつは額をやられてるから、この先ゴルバットに進化しても目が見えないだろう。それで野生でやっていけるか?答えはノーだ。お前も一応ジムリーダーなんだから、これくらい理解しろよ」
 昔は全てが劣っていた『ライパチ』も、すっかり一人前のサファリゾーン副園長になったものだ。キョウはやや感心しつつ、今にも死にそうなズバットに目を向けた。
 自分は死にたくても死にきれないというのに、この小さな蝙蝠は世界を見ることがないまま、間もなくその命が終わろうとしている。なんと羨ましくも儚い一生なのだろうか。慈悲と不愉快さが混ざって、彼の中に不思議な感情が湧き上がった。
「可哀想だが、仕方ない。運の悪さを恨んでもらうしか……」
 ライパチが苦悩を浮かべながらズバットの顔にタオルを掛けようとしたとき、その日に焼けた腕をキョウが掴んだ。
「俺が引き取ろう」
「え?」
 彼は仰天しながら親友に振り返る。
「今から病院連れてって、治療してくる」
「でも……、この傷だとかなりの治療費が……」
「金だけはあるから」 
 乾いた笑いを浮かべるキョウに、ライパチはすかさず引き取りを拒否した。
「こいつの世話は大変だぞ。おそらくハンディを背負うことになる!善意だけで何とかなると思ったら大間違いだ。マスターでポケモン従わせればいいなんて思ってるお前なんかに――」
「何とかならなかったら、」
 捲し立てる親友の言葉を、キョウは強い口調で遮った。
「こいつと心中するからさ」
 その言葉にライパチは絶句し、目を見張った。「頼むよ」と、懇願する双眸は真剣そのものだ。
「俺は希望が欲しいんだよ。目が見えなくたって……」
 彼はズバットに手を伸ばしながら、ぎこちない苦笑いを浮かべた。
「生きたいだろうよ、こいつも……」

 ――その時、闇の中でとても温かい感覚が私を包み込んだ。

 地元民の痛々しい視線を感じつつ、タクシーで向かったセキチクシティ・市立ポケモン病院。急患で手術を行い、ズバットはなんとか一命を取り留めた。意識を取り戻した彼女の羽根を、老いた女医が微笑みながらそっと撫でる。
「よかったねえ、助かって♪いいご主人様に会えたのよ〜」
 状況が分からないズバットは、困惑しながら首を傾げていた。あれだけの深手を負っても彼女はそれが人間の仕業だと認識できなかったので、ポケモン用簡易ベッドの上に不思議そうに寝転がっているだけだ。その様子をほっとしながら眺めるキョウに、女医が微笑む。
「キョウさん、この子は引き取られるんですよね」
「ええ……。目はどうなるんでしょう」
「治療を続ければある程度は回復するかと思いますが……、視力を完全に取り戻せる可能性は低いでしょう。並のポケモンと同じように、バトルをしたり作業を手伝わせたりということは非常に困難です。ジムバトルに駆り出すのは辞めてくださいね」
 釘を刺す女医に、キョウは「もちろんです」と居住まいを正して頷いた。
「ハンディを負ったポケモンの支援団体はこの町にも多くありますから、ぜひ参考にしてください。治療を続けていきましょう」
「ありがとうございます」
 医療機関で勤務経験がある彼は女医の話をすぐに理解した。渡された参考資料に目を落とし、真剣に治療を考えるキョウの姿に彼女は好感を持つ。
「ジム、頑張ってくださいね。応援しています」
 その激励に、彼は目を丸くしながらぎこちなく頷く。

 病院からはタクシーが拾えず、仕方なく彼は自宅までの徒歩1時間の道のりをズバットと帰ることにした。身体をふら付かせながら羽ばたくズバットの隣にピタリとついて、真夏の道路をとぼとぼと歩いていく。視界の先には陽炎がぼんやりと浮かび、景色が霞んで見えた。思い切って拾ってきたものの、この先の未来もこのように不透明だ。
「お前、目が見えないままだってよ」
 彼は首に巻いたタオルで額に浮かんだ汗をぬぐいながら、ズバットに呟いた。彼女は首を傾げる。何も分かっていないようだ。
「……まあ、視界が開けたってそれほど良い世界が広がってる訳じゃないけどな」
 ズバットはただひたすら、キョウの革靴の音を頼りについていく。コツコツと鳴る独特のリズムは、彼女の耳にずっと付いて回っていた。意識を取り戻してからこの音が鳴り続いている。蝉の声や様々な雑音が煩く耳を支配したって、この足音だけは傍にいてくれる。
「どうするかなぁ……。これ読むと、想像以上にハンデ治療は辛そうだ」
 貰ったハンデ支援団体のパンフレットを一瞥しながら溜め息をついた時、同じような会社員風の男とすれ違った。微妙に異なる音にズバットは困惑しつつも、その男の方へ行こうとする。すかさずキョウは彼女の足を掴んで引き寄せた。
「そっちじゃない。お前は一応、俺のポケモンだから」
 その時、ズバットはこの足音と低い声が自分の主人なのだということを何となく認識した。これほど安心できる存在はない――彼女は牙を見せ、嬉しそうに微笑む。それはポケモンバトルを教えてほしいと頼んだ時の、父親の表情と似ていた。救いを得られた者の、安心した眼差し。キョウは思わず息を呑んだ。
 自分が誰かの救いになっているのなら、それだけで生きている価値が見出せる。彼は覚悟を決めると、ズバットに向き直ってその小さな頭を撫でた。
「よし、俺が目になってやるよ。この世は見ない方がいいものが多すぎる。たとえ目が見えなくても、他のポケモンと遜色ないくらいに育ててやるから。離れるなよ」

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 その言葉が何より嬉しかったから、私はあなたに一生ついていこうと決めたのだ。
 真っ暗な闇の中で、私はあなたと離れたことを後悔した。
 光がない世界はこんなにも怖くて不安で、何もかも絶望に満ち溢れている。

 クロバットは無我夢中で空を飛びながら、主人を必死で探し続けていた。


鈴志木 ( 2013/05/22(水) 18:00 )