第2話:キャッチボール
アンズの反抗は長期戦に及んでいた。
一晩寝ればすぐに機嫌を取り戻すと安易に考えていたキョウだったが、ここ三日間、全く口も利かず、顔も合わせようともしないのだ。帰宅すれば必ず部屋に籠っており、アキコが呼んでも頑として出てこない。
「お嬢様、旦那様が帰られましたよ〜」
「知らない!」
アンズは襖を閉め切り、エアコンをかけっぱなしで自室に籠城していた。タオルケットを被ってコンパンを抱きしめ、タイトルマッチの映像をテレビで流し続ける。もちろん内容は四天王時代から撮り溜めしているワタルの試合であった。音漏れしないようにイヤホンで音声を聞きながら、その戦略を研究する。
(絶対、ワタルさんみたいなトレーナーになるんだもん!)
彼女は壁に飾っているワタルのサイン入りマントを一瞥した。
昨年本人から貰った、何より代えがたい宝物。友人たちが自宅に遊びに来た際、誰もが口を揃えて羨む自慢の品である。憧れのワタルに少しでも近づけたことが嬉しくて、今は彼の様になりたくて仕方がなかった。
(私だって頑張れば強くなれる!)
アンズはテレビを凝視しながら、ピッピ柄のノートにワタルの手持ちポケモン、使用した技を書き連ねていく。ページはあっという間に猛々しいドラゴンポケモンの名で埋め尽くされた。
(ドラゴンタイプかあ……)
あの勇ましく豪快な試合をするためには、相応のポケモンが必要である。アンズは胸の中で眠っているコンパンや、部屋の隅でボールをつついて遊んでいるニドラン、ズバットに目をやった。自分の手持ちポケモンは、父親に影響され毒ポケモンしか選んでいなかった。彼らはドラゴンほど力で押しきるようなタイプではない。
ふと、アンズの脳裏に『タイプ転向』の文字がよぎる。
――アンズちゃん、お父さんと同じ毒タイプ使いなんだね。
こんなことを、何度言われたことだろう。もう耳にタコができた。少し前まではちょっとだけ誇らしかったのに、今は転向したくて仕方がない。しかし、コンパンたちは自分の大切なポケモンだ。
(すみれちゃん達を見捨てるわけにはいかないよ。どうすれば勝てるのかな……)
リモコンを操作する手は、自然に父親の試合集へと動いていた。不服だが、コンパン達の戦法はこちらの方が参考になるので仕方がない。それでも数部屋隔てた先にいる本人には意地でも教えを乞う訳にはいかなかった。
(みんなを勝たせるためだもん!)
コンパンの進化系モルフォンを巧みに操り、苦手としている炎タイプのポケモンをあっという間に打ち崩す様は、何度見ても爽快だ。息を呑むアンズに、イヤホンから流れる実況の言葉が興奮を後押しする。
『実に素晴らしいですね、ワタルさん!モルフォンが炎タイプをあっという間に陥落させるとは……』
『キョウさんは毒ポケモンの知識に関しては学者も顔負けだと思います。勉強を怠らず、新しい戦法を編み出している。ポケモントレーナーは常に学んでいかなければ成長は有りません。私も見習いたいですね!』
父親と同じことを言うワタルの台詞に、アンズは放心した。学習机の上には手つかずのままになっている山積みの宿題――この世は勉強をしなければ成功はないのだろうか?と、不安がよぎる。
(……あたし、間違ってるのかな)
+++
翌日。
この日も抜けるような青空が広がり、暑い日差しが気温を容赦なく上昇させる。セキエイスタジアム外の街路樹に留まった蝉は忙しく鳴き続け、真夏を煩く演出していた。
8月になると試合は全てナイターである。昼前に出勤したイツキは、エアコンが効いたロッカールームに籠って動かなかった。アイスバーを咥えてソファに寝転がる彼を、練習場から汗だくで戻ったシバが一喝する。
「お前っ、少しは練習しろっ!また謹慎食らいたいのか!」
「練習場、エアコン効いてないから行きたくなーい。朝、氷の抜け道行ってトレーニングしたから十分だよ。修行のスケジュールはちゃんと組んだからヘーキ」
と、言いながらイツキはポケモン免許端末にインストールしたスケジュールアプリをシバに見せつけた。念密に組まれた予定に、彼はそれ以上叱責することができない。謹慎を経て、イツキは以前より熱心に練習に取り組むようになった。態度の悪さは相変わらずなのだが。
「……まだチョウジジムリーダーのヤナギと練習しているのか?」
「ううんー。復帰戦から連絡取れなくなっちゃった。氷の抜け道でも会わないんだよねー。まあそのうち許してくれるでしょ」
ヤナギがへそを曲げても、自分を気にかけていることは何となく想像がつくため、イツキは楽観的だ。くつろぎながらテレビを見ていると、カリンとワタルが汗をにじませながら部屋に入ってくる。
「練習終わったわよー。次、スタジアム使うならどうぞ。はー、ここ涼しい〜♪」
「やっぱりフィールドは蒸し暑いからね。こんな日は水タイプのポケモンで試合をしたいよね」
二人はロッカールームに置いていたタオルで軽く汗を拭うと、冷蔵庫から炭酸水を取り出して口にする。仲睦まじい様子を見て、イツキがソファから跳ね起きた。
「ちょっと、なんで二人が一緒に入ってくるの!?」
「練習試合してたの。何、妬いてるの?」
カリンからの直球の返しに、イツキは仰天しつつも「うっ、……うん!!」と頷く。
「いちいち妬かないでよ、あなたも誰かと試合してもらえばいいじゃない」
「やだよ〜!!ただでさえ暑いのにさ、男となんて……」
「私はもう本番に備えるからイヤよ。……ところで、オジサマ見ないわね?遅いのかしら?」
始業まであと5分と迫っていたとき、ロッカールームをノックする音がして和装のキョウが扇子を片手に入ってきた。メンバーは一斉に彼に注目する。
「おはよう……。ここ涼しいな」
彼は扇子を閉じて帯に差すと、持っていたバッグを乱暴にロッカーへ突っ込んだ。普段と何か様子が違うキョウを見て、ワタルが気遣うように挨拶する。
「おはようございます。珍しいですね、ちょっと遅く出勤なんて」
「すみませんね、高速が混んでまして」
ぶっきらぼうに答えるキョウの気も知らず、シバは普段通り練習を願い出る。
「キョウ、今からおれとスタジアムで手合せしてくれないか」
「……すまないが、まだチェックも終わってないから他の奴に頼んでくれ」
彼は必ずポケモンのコンディションチェックをしてから試合を行っている。シバは室内を見回したが、他の仲間たちはすかさず目を逸らした。
「ふん、なら一人で訓練する!」
彼はタオルと冷えたスポーツドリンクを手にすると、そのまま部屋を出て行った。逞しい背中を見送った後、キョウは傍にあったチェアへ身体を投げ出す。仕事前だというのにすっかり疲弊した様子を見て、ワタルはますます不安になった。
「どうしたんですか?」
すると彼は深い溜め息をついた。
「ここ数日、娘が口聞いてくれないんだよなー……。機嫌損ねてから試合は気合入れてストレート勝ちしてるし、飲む約束もすべて断って早く帰宅してるってのにな。格好悪い姿は見せてないのに、理解不能」
「反抗期だ!ついにアンズちゃんにも反抗期が!」
イツキが面白そうに声を弾ませる一方、カリンは冷静に分析する。
「意外と早かったわね。アンズちゃん、ファザコンっぽいところがあるから心配してたの。それよりオジサマ、格好つければ子供はずっとついてきてくれると思ったの?それは間違いよ。成長すればするほど、子供って親の汚い所が分かってくるものなの」
「その言葉、刺さるな……」
キョウは肩を落としながら、再び深く息を吐いた。
子供にいい顔をしてなるべく家族の時間を取りたい、というのは彼の昔からの願望であった。かつての自分の様にはならないよう努力してきたはずなのに。何故上手くいかないのだろう。
珍しく頭を抱える年長者の姿に、ワタルは妙な親近感を抱きつつ労りの言葉をかける。
「オレはキョウさんみたいな父親、憧れますけどね。仕事もできるし人望もある。アンズちゃんにはそれがプレッシャーになってきているのかな?」
これにはイツキも同調する。
「まあ、親が四天王だと周りから色々言われちゃうのかもねー。今、夏休みなの?」
「ああ……。ひとまず修行には出ず、家で訓練しているようだが……」
あの様子では、今にも出て行かれてしまうだろう。
寂しげな父親の様子に、仲間たちは顔を見合わせた。励ましたいのは山々だが、皆独身のためその気持ちが完全に理解できない。
「そ、そうですか……」と、ワタルは苦笑しつつ話題を切り替えた。「それにしても夏休みかあ。いいですね、思いっきり楽しんだ記憶がないから羨ましい」
この話題には、イツキもすかさず食いついてくる。
「僕、小学校の夏休みは毎日海水浴してたなー!タンバ出身だから海が近いんだ。いーなー、セキエイは夏休みどころかお盆も休めないし……」
「あら、オフシーズンがあるじゃない」
「オフだって取材とかあるし、そもそも休みは夏の方が楽しいよ!海水浴でしょ、潮干狩りに……花火、ライブ、お祭り……行きたい!遊びに行きたーい!仕事ばっかり嫌だなあ〜」
と、イツキはわざとらしい口調でワタルを睨んだ。しかしチャンピオンに休みの調整はできないので、彼はそっと視線を逸らすのみ。口を尖らせるイツキを見て、キョウはふと来月に地元の祭りがあったことを思い出した。
「……ああ、祭りと言えば。オフの日に地元の夏祭りが被っていたな。花火はないけどな」
「ホント!?行きたい!」
イツキはたちまち顔を輝かせる。素直に喜ぶ姿は実子より内面が分かり易く、キョウはほっとしながら「来いよ」と頬を緩ませた。すると彼は一層高揚する。
「やったあ、どうせならみんなで行こうよ!カリンも!」
「あら、いいわね。夏祭りなら肌も焼けないし♪ワタルも行きましょうよ」
恋敵に話を振られ、イツキはふくれっ面を浮かべた。いちいち絡まれては面倒なので、ワタルは見なかったふりをしつつ話を続ける。
「うん、いいね。シバはどうだろう。来るかな?」
「“アニキ”はどぉーーせ、いつも通り『修行!トレーニング!訓練!』の、どれかでしょ」
シバの真似をするイツキの軽妙なパフォーマンスに、仲間たちは思わず噴き出した。イツキ復帰戦で敗北してから、シバはますます訓練に精を出している。やや過剰ともいえる情熱は気にかかるが、結果は出ているし、ワタルはそっとしておくことにした。
「そうだな、確かに。誘っても無駄か」
「じゃ、俺の家に集まれよ。お前らが来たら、娘も機嫌直すんじゃないかな」
思いつきで提案したキョウだが、イツキはさらに歓喜した。もうこれ以上ないと言った喜びようだ。
「やったー!キョウさんの家に行くの初めてだー!Ninja見せてね!」
「おう、いいぞ」
イツキは軽やかなステップでテーブルに置きっぱなしのスマートフォンを取りに戻ると、早速祭りの詳細を検索し始めた。カリンもそれが気になるようで、浮足立ちながら画面を覗き込みに行く。和やかな二人を眺めながら、キョウは傍に立っているチャンピオンに向けて肩をすくめた。
「娘にお前みたいなトレーナーになりたいって言われちゃってさ。妬む気はないんだが、あいつ……今のところ手持ちを毒タイプで固めているのに、どう訓練するつもりなんだろう。破壊光線でも覚えさせるのかね?」
「ポケモンに合った試合をしないと実力は伸びませんから、すぐにお父さんを見直すと思いますよ。反抗期なんて、人生で見たらほんの僅かな期間ですよね」
ワタルは苦笑しつつ、解説者仕込みの真面目な回答を返した。真摯で誠実、ポケモンバトルも小細工に頼らない男だからこそ、娘が尊敬するのも理解できる。キョウは視線を足元に落としながら、力なく呟く。
「若いのに達観してるねえ……。お前さんは反抗期あったのか?全く想像できないんだが」
その質問を聞いて、ワタルの脳裏に父の輪郭がぼんやりと浮かんだ。
『お前なら、安心してこの家を任せられる。頼むぞ』
18歳で四天王になった時、父親はこう告げ、自分に家督を譲り母親を連れシンオウ地方へ修行に出た。現在も2年に一度ほどしか自宅には戻らない。出発際、小さく見えた背中を回想しながら、ワタルはやや寂しげに語り始める。
「ちょっと意見が食い違って、父親のやり方に疑問を持ったことはありますよ。でも成人して、一緒に酒を飲んだ時に和解しましたね。俺の父はフスベのドラゴン使いの本家で、幼い頃は大きな背中が遠く感じられたんですが……」
背中、と聞いてキョウは顔を上げた。
「話してみると、父も父で苦労しているみたいで。子供の頃は理解できなかったなぁ……。ヒーローみたいな偉大な存在だったんですよね。でも、距離が縮まってくるとやっぱり一人の人間だと気づくんですよ。父親が人間って当たり前のことですけど、子供だともっと特別に感じられたんですよね……」
ワタルが20歳になったばかりの頃、突然父親が帰ってきて酒に誘われ、胸の内を話し合った。あの時程、実父を人間臭く感じたことはない。それを思い出すと、自然と頬が緩んでくる。そんな姿はキョウから見ても、詳細を聞かずとも良好な親子関係が伝わってきた。
「……子供の頃に父親が遠く感じたのは、家の立場があるからだろうな。歴史ある家なんだろう、一般家庭の父親と同じようには振る舞えないさ。跡継ぎが失敗しないか、内心心配でたまらなかったんじゃないか」
部屋の隅をぼんやりと見つめるキョウを見て、ワタルは口を滑らせすぎたことを後悔した。詳細は知らないが、彼の四天王まで上り詰めた経緯はなかなか複雑である。狼狽える彼を見て、キョウは一笑した。
「うちは娘しかいないしお転婆すぎるから、嫁の貰い手がいなくて俺の代で家は終わるかもな」
ワタルはすかさず否定する。
「そういうことは言わないでくださいよ。ぜひ意志を継承してください」
「ありがとう。じゃ、今から真面目に婚活してもう少し頑張ろうかな!こんな枯れた親父だけど、金だけはあるから」
いつものように飄々と笑い飛ばすキョウを見て、ワタルは胸を撫で下ろした。助け船を出すようにカリンが自分を呼ぶ声が聞こえたため、彼に会釈をしてその場を離れる。
祭りの詳細を聞いて楽しむ若者たちの輪を眺めながら、キョウはふと目を閉じた。
(一人の人間だと気付く瞬間か……)
+++
それは彼が大学2年――正月を少し過ぎた頃のことだった。
タマムシ大学に進学したキョウは、家を出てタマムシシティのアパートで一人暮らしを始めていた。ようやく手に入れた一人の空間は大変に居心地が良く、アルバイトやサークル活動などの理由を付けてそれまで全く帰省していなかったのだが成人式という壁が立ちはだかり、渋々式前日に実家へ戻ってくることとなったのだ。
予想通り、彼を出迎えてくれたのは高校の頃家に雇われた家政婦のアキコのみ。父親と兄はジムが忙しく、ずっと不在。それはむしろキョウにとって好都合だったのだが、一人の屋敷はあまりに広すぎて退屈だ。高校卒業から時間が止まった自室に寝転がっていると古い教科書やアルバムばかりが目につき、彼はそれを自宅の蔵に片付けることを決意した。
「そのままで結構ですよ、家族の皆さんがキョウさんを身近に感じますから」
と、アキコは嫌がったが自分には理解できなかった。
「俺は家を出なければならない人間だから」
次男でペーパートレーナーの自分など、ジムを運営するこの家系の面汚しだ。彼は自虐的になりながら、家で暮らした過去を捨てる様に、次々と私物をダンボールへ詰め込んでいった。作業をしながら、家族に関するアルバムや手紙の類の少なさにうんざりする。この家にとって、自分の存在とはなんだったのだろう。
段ボールが満杯になると、蔵へ運びやすいように縁側から庭へ出していた。野放しにしている家族のポケモン達が不思議そうに近寄ってくる。
「触るなよ」
鋭く言い放つと、ポケモンは逃げていく。
(……ふーん、人間の言葉は理解できるのか。本能で動いてるただの動物じゃないんだな)
その様子をやや感心したように眺めていると、屋敷門の外から弾んだ声がした。
「兄ちゃーん!」
背の低い少年が、激しく手を振りながらキョウにアピールする。彼は近所に住んでいる亡き祖父の友人の孫だ。マサキと言う名前で、普段はコガネシティに住んでいる。夏休みや年末年始に帰省した際、キョウはよく遊び相手をしていたため、彼が幼い頃からとても慕われていた。
「お、マサキじゃねえか!お前も帰って来てたのか」
キョウが手招きすると、マサキは満面の笑みで駆け寄ってくる。底冷えする寒さにも構わず、元気な少年だ。キョウとは10歳下なので、ようやくポケモントレーナー免許を取得できる頃だろう。
「昨日、祖母ちゃんの法事やったからさー。おっちゃんから、兄ちゃん帰って来てるって聞いて顔出しに来たで!」
“おっちゃん”とは、自分の父親のことである。予想外の話に、キョウは目を丸くした。
「うちの親父?」
「そーそー、昨日来てくれてて。めっちゃ嬉しそうに話してたで」
にわかには信じられない話だが、マサキの純粋無垢な性格をよく知っているキョウは思わず息を呑んだ。嬉しそう……?あの、自分などまるで気にする素振りもない父親が?驚愕のあまり硬直していると、マサキが不思議そうな眼差しでこちらを見ているので、彼は慌てて話題を変えた。
「そ、そうか。……あ、ごめんな。法事のこと知らなかった……。一日帰省を早めるべきだったな」
「ぜーんぜん、気にしてないから!……ところで兄ちゃん、何してるん?」
マサキは笑顔で笑い飛ばして、傍へ寄ってきたニドランを抱え上げると、辺りに積まれている段ボールに注目する。
「ああ、実家に置いてた物を蔵に片付けようかなって。埃被ってるとアキコさんの仕事増やすからな」
「アキコさん結構いい年やもんな〜。さすが兄ちゃん!」
ニドランと顔を見合わせるマサキを見ていると、罪悪感が込み上げてくる。これほど慕ってくれているのに、法事を忘れていたとは情けない。段ボールからちらりと覗く本を見て、彼はマサキに尋ねた。
「……ああ、良かったら何か持ってくか?何でもやるぞ」
「マジで!?じゃ……、ポケモングッズとかあるん?」
「それはねえなー……。思えば、参考書や教科書ばかりだな。あげられそうなものは……」
積み上げられた段ボールを漁っていると、ある箱の中から二つの野球グラブとボールが出てきた。それはリトルリーグチームが解散してから、箱の中に詰めて箪笥の上に片付けていた懐かしの品である。中身を確認せずにここへ運んできたことを、すぐに思い出した。懐古しながらグラブを眺めていると、マサキが首を傾ける。
「兄ちゃん野球やってたん?」
「……ああ、お前くらいの頃リトルでちょっとだけ。でもこれ、左利き用だから右のお前には無理だな」
「そもそもボク、野球せぇへんからな〜。インドアやもん。……あ、兄ちゃんコレ何?」
マサキはダンボールの一つから、分厚い長方形の箱を取り出した。それは高校生になったばかりの頃、貯めた小遣いで購入した勉強用のノートパソコンである。大学進学時に買い替えたため、アパートには持っていかなかったのだ。
「5年前に買った型落ちのノートパソコン。それはちょっと……古いよ」
「このまま捨てるん!?勿体ない!ボク、パソコン欲しかってん。よかったらこれ、ちょうだい!」
と、声を張り上げながらマサキは胸の中にノートパソコンをニドランごと抱え込んだ。古い型だというのに、彼はよほど気に入っているようだ。
「それはいいけど、重いし古いし……はっきり言ってゴミだぞ。動くとは思うが」
「全然っ、ヘーキ!ありがたく頂戴いたしますっ」
彼は満面の笑みで頭を深く下げた。調子のいい様子に、キョウの頬も思わず緩む。
「まあそれでパソコンに興味があることをアピールしたら、すぐ新型買ってもらえるかもな」
「そ、そうかっ。その手があったか……!ありがとう、兄ちゃん!」
マサキはしばらく立ち話をした後、ノートパソコンを大事そうに抱えて家に帰って行った。自分にとってはゴミ同然の代物でも、あれほど嬉しそうにされると気分がいい。楽しげな休息の余韻を味わいながら、散らかった段ボールを片付けていると、背中越しに聞き覚えのある声がした。
「帰ってきていたのか」
20年間耳にした音の中で、この声が占める割合はどれくらいだろう。
他の家庭より、圧倒的に少ないはずだ。
「昼前に」
と、言いながらキョウは父親を振り返った。5メートル先に立っていたのは、見事な冬の日本庭園に溶け込んだ、品のいい和装姿。息が上がっているようで、その顔には白い靄がかかっていた。
「迎えに行けなくてすまなかったな。ジムで手が離せなくて」
突然の謝罪に、キョウは肝を潰されたように硬直する。父親が自分に対してこのような台詞を吐くのは初めてである。
「いや、別に……」
戸惑いつつ父親から目線を外したが、その少し離れた先――屋敷門の辺りで弟子が待機していることに気が付いた。彼は父親がジムリーダーになってから運転手を務めている男だ。どうやら父親は仕事を途中で抜け出してきたらしい。兄の姿は見えなかった。
「仕事に戻れば?」
自分のために時間を取ったことが信じられず、突き返してみるが父親は口元を緩ませながらこちらへ近寄ってくる。庭に放されていた毒ポケモン達も集まってきた。
「折角タマムシから息子が帰ってきているんだ。顔を出したくてな。――部屋の片付けを?」
彼はポケモンを撫でながら、積み上げられた段ボールに注目する。
「……蔵に入れようと」
キョウはぎこちなく頷きつつ、やはり視線を逸らした。あれほど厳格で会話もなかった父親が、突然砕けるなんて信じられない。
「そうだな、捨てずに取っておくといい。――おお、野球グラブか。懐かしいな」
困惑する子供の気も知らず、父親は封の開いた段ボールから野球グラブを見つけると、それを取り出してしばらく眺める。僅かな静寂の後、彼は息子に向き直ってゆっくりと尋ねた。
「キョウ、キャッチボールをしないか」
初めての誘いだった。
逸る鼓動を抑えつつ、なんとか冷静さを保とうとキョウは小声で反発する。
「小さいし、それ左……」
内心は小さな興奮が沸き立っており、ここに大人用グラブがあれば何と良いことだろうと野球を辞めたことを後悔する――が、その感情は直ぐに吹き飛んだ。父親は自分の右手に古いグラブを押し込み、満足げに準備をして見せたのだ。
「そうか、お前はサウスポーだったな。まあ何とかなるだろう」
ボールを持って距離を取っていく父親は、もはや止めても聞かないだろう。キョウは呆れつつも、箱に残っていたグラブを手にする。現役の頃は毎日手入れして馴染ませていたのに、それから10年放置したままの道具は固く、使い心地が悪い。しかし今はまるで気にならなかった。
「リーダー、お時間が……」
離れて待機している弟子が慌てて父親に声をかけるが、彼は羽織の袖を少しまくりながら楽しげに微笑んだ。
「少しくらい、いいじゃないか。夢だったんだよ、息子とキャッチボールをするのは」
――夢?耳を疑った。
5メートルほど離れた後、和装の父親の左手からぼろぼろの硬球が放たれる。毎日モンスターボールを投げているだろうが、軌道もぶれている緩い球だ。キョウはすかさず前に出て、それを溢さないように上手くキャッチした。力のないボールは、マサキの方がまだ早い球を放れる気がする。あまりの衝撃に、彼は窒息するような感覚に陥った。
「よし、来い」
息子の気も知らず、父親はグラブを向けた。
利き手が違うから遅いんだ――そう言い聞かせながら、キョウは軽く腕を振りかぶり球を投げる。ぱん、と爽快な音が響いてボールは父親のグラブの中へ吸い込まれていった。
「いい球だな、衰えてない」
「……試合、観に来たことあったっけ」
「一度だけ……。お前が10歳の夏だったかな。本当はもっと、行きたかったんだが。なかなか実力があったそうじゃないか」
また、力のないボールが飛んでくる。
「別に……」掠れた声でキャッチした。
一歩後退し、今度は少し力を込めて投げ返す。静寂の庭園に、ボールの音が心地よく響き渡った。
「すまないな、チームは何とか存続するよう掛け合ってみたんだが……。結局解散してしまった」
「えっ」
突然の事実と共に飛んできたボールを、キョウは思わず取りこぼしてしまった。足元に転がった硬球を、アーボが拾って彼に手渡す。「あ、ありがとう……」と礼を言いながら、左手の中でボールを握り直した。
「ところで、大学はどうだ?」
そう尋ねる父親に、彼はボールを投げた。
「順調」
グラブを打ちつける音がして、父親が微笑む。
「そうか。誇らしいよ」
また、弱々しいボールが飛んでくる。
再び投げ返そうとしたとき、弟子が申し訳なさそうに口を挟んだ。
「リーダー、そろそろ時間が……」
「もう少しくらい良いじゃないか」
父親は直ぐに反発する。キョウはグラブを外して、白い息を吐いた。
「待たせるなよ。もう、いいから」
「そうか……」
本心ではなかったが。
できることなら、このまま一日中キャッチボールをしていたい。ボールを交わしながら20年分溜めた話を聞いてもらいたい――そんな幼稚な考えばかり浮かぶ自分に嫌気がさして、弟子が止めたことを内心感謝していた。
「明日は私も地元代表として、成人式でスピーチをするんだよ。式が終わったら写真を撮ろう」
父親はグラブをダンボール箱に戻しながら、嬉しそうに告げる。
「振袖着るんじゃないんだからさ……」
気恥ずかしくなり、思わず視線を足元に落とした。
「親としては喜ばしいことだ、息子が立派に成長してくれるなんて。帰ってきてくれて嬉しいよ。明日は楽しみにしているぞ」
そう言って父親は身を翻し、門戸へと戻っていく。ひらりと羽織が舞い、名家の主として様になっていたが――背を向けた瞬間、息子はその背中がさほど大きくないことに気が付いた。今までずっと遠くで大山の様にそびえ立っていたはずなのに、その時は父親の後姿がとても小さく見えたのだ。
「……ありがとう」
キョウは身体を震わせながら、ただその言葉を振り絞った。父親が立ち止まって、ほんの少しだけ顔を向ける。
「お前の部屋はあのまま残しておくから、いつでも帰ってきなさい。また、続きをやろうじゃないか」
彼はそのまま弟子と共に、屋敷の外へ消えて行った。
庭園に残されたのは、自分と家族の毒ポケモンのみ。ポケモン達は、呆然と立ち尽くすキョウの顔を不思議そうに眺めている。しばらく棒立ちのまま、彼はその場から動くことができなかった。溜めに溜めこんだ反抗心が、足元から呆気なく抜けていく。
「なんだ……」
白い息が、冬の空に舞い上がる。
「ちゃんと、父親してくれるんだ……。あんな風に、喜んでくれるんだ」
それが今までできなかったのは、ジムリーダーという仕事の重圧からだったのだろうか。その仕事はどれほど苦労するのだろう。庭にいる毒ポケモン達はどれもひ弱そうで、とても激務とは想像しがたい。
(そんな風に考えるのも、親父の気遣いなのかな。俺が好きなようにさせてくれるための)
それに今、ようやく気づくなんて。
キョウは父親が出て行った門戸を見つめながら、再び真っ白な吐息を漏らした。
鮮烈に焼き付けられた、小さな後姿。
彼がようやく、親の背中を認めた瞬間だった。