プロローグ
木々にとまった蝉の鳴き声が、河川敷のグラウンドにこだまする。
木陰のないマウンドの上は、気を緩ませると暑さに意識を奪われてしまいそうだった。少し離れた先に構えられたキャッチャーミットを、少年は注視する。外角低め……バッターに視線を移し、挑戦者をねめつける。
少年の鋭い眼光に、相手打者は一瞬怯みあがった。その顔には滝のように汗が流れ、この真夏の猛暑に耐えきれず、早く試合を終わらせたがっている。一瞥したスコアボードは最終6回裏、2-1のビハインド。しかしツーアウト、ランナー2、3塁……一打サヨナラのチャンス。
だが、マウンドに立つ少年も闘争心を燃やしていた。
(打たせてたまるかよ)
絶対に相手に塁は踏ませない。
負けず嫌いなリトルリーグチームのエース左腕が、大きく腕を振りかぶる。
左手から放たれたストレートボールが、キャッチャーミットめがけて真っ直ぐに飛んでいった。すかさず、打者がバットを振る。くぐもった音が響いて、ボールは緩やかに弧を描きながら空へ舞い上がった。
(取れる!)
これはフライ間違いなし――彼は頬を僅かに緩ませた。ライト方向へ飛んでいく球を目で追っていくと、ふいに土手の上の人影が目についた。陽炎の中に立つ、和装の男。少年は思わず息を呑む。
(親父……?)
視線はそちらへ釘付けになった。
土手の上には、この試合を見守る数十人の観客がいたが、少年の目にはその男の姿しか映っていなかった。離れていても、はっきりと分かる家族の姿。しかし自分の家族が試合を見に来るなんてありえない――幻想だろうか?この僅か数秒の時間が、彼にはひどく長いものに感じられる。
「あっ、落とした!」
突然、騒然とする周囲の声が彼を現実へと引き戻した。外野を振り返ると、右翼手がフライ球を落球したのが目に留まる。「走れ!」ベースコーチの怒声が耳をつんざき、ランナーが塁を駆け抜けていく。少年は舌打ちしつつも、もう一度土手を振り返ろうとした。
「キョウ、何やってる!」
カバーを求めるキャッチャーの声を聞き、彼は慌ててその行為を中断する。しかし時すでに遅しで、既に2人のランナーは生還。見事サヨナラ勝ちを収め、仲間の元へ駆け寄って互いに拳を突き合わせながら、勝利の喜びをを共有していた。
(負けた……)
蝉の鳴き声が、一層強くなったような気がする。
少年は肩を落としながら、再び土手に目をやった。和装の男が身を翻し、少し先に停まっている車へと戻っていく。あれは幻想ではない、紛れもなく自分の父親だ。この無様な姿を見に来たのだろうか――彼は車に乗り込む父親の背中を見つめながら、深く息を吐く。
とても遠くにいるのに、その背中は眩暈がしそうなほど大きく見えた。
試合後、河川敷グラウンドでのミーティングで、監督は浮かない顔で選手たちに話を切り出した。
「今回の試合は残念だったな。……ところで、負けた矢先申し訳ないが、残念な知らせが二つある」
どよめくチームメイト。
「この市営グラウンドだが、来年にも全面ポケモンバトルフィールドになることが決まった。つまり、野球の練習はできないということだ」
チームメイトたちは顔を見合わせるが、その表情は輝いていた。ポケモンバトルはこの世で最も人気のあるスポーツである。一部のまだ10歳に満たない選手たちは、早くポケモンを所有し、試合をしたいと常々漏らしていた。エースピッチャーとライトの少年だけが浮かない表情で膝を抱える。
「この辺じゃ、もう野球ができるところはなくなっちまったなぁ……。ここの河川敷は最後の希望だったんだが、前々からバトルフィールドにして欲しいという要望が多かったそうだから、仕方ない」
悔やむように告げる監督も、野球よりポケモンバトルにのめり込んでいることは子供たちの誰もが知っていた。試合後はよく手持ちポケモンの自慢をしており、彼もグラウンドがバトルフィールドに変わることを喜んでいる一人だろう。浮き立つチームの空気を伺いつつ、先ほどエラーをしてサヨナラ負けの原因を作ってしまったライトの少年が手を上げる。
「これから練習はどこでやるんですか?隣町?」
「……その予定だったんだが、このチームの中で、秋からトレーナー修行に出るやつが8人いる。人が足りないので、しばらくチームを休止することが決定した。これが二つ目の残念な報告だ」
このリトルリーグチームは小学校高学年の選手が多いため、こうなることは仕方のないことだ。子供たちの多くは10歳になるとポケモントレーナーの免許を取得し、修行の旅に出てしまう。それほどポケモンは魅力的で、ジムリーダーや四天王、チャンピオンなどのプロトレーナーは子供たちの憧れの職業ナンバーワンだった。
「みんなには申し訳ないが……。希望者は他のリトルリーグチームを紹介するから、この夏休み中に申し出てほしい。」
ミーティング終了間際、監督はチームのメンバーにこの報告の詳細を記したプリントを配布する。大半の少年たちが、読まずに丸めて鞄の奥底へ押し込んでいた。
早く旅に出たいなあ!と言い合い、解散していくチームメイトの背中を目の端に入れながら、ピッチャーの少年はプリントに羅列された文字を眺める。受け皿になっている他チームの練習場は、自宅から自転車で片道1時間はかかる距離だ。溜め息をつく彼の肩を、ライトの少年がぽんと叩いた。
「どうするよ、キョウ?お前トレーナーにならないんだろ?」
「……ああ」
彼はプリントを丁寧に四つ折りにしながら頷いた。ライトの少年は、真っ黒に焼けた顔を傾かせながら更に問い詰める。
「じゃ、他のチームに移籍すんの?」
「通うには遠いし、辞める」
「もったいねえな。お前、左投げだし結構センス良いじゃん。ホントごめんな……、さっき落として」
と、上辺だけ申し訳なさそうに頭を下げるこの少年は、チームでも一番の運動音痴であった。人手不足でなんとかレギュラー入りしているが、足を引っ張っていることは明らかである。その打順とポジションから、蔑称のニックネームが定着していた。
「別に気にしてない。“ライパチ”はどうするんだ?」
ライトの彼はこのあだ名を気にも留めておらず、スポーツバッグのサブポケットにプリントをねじ込みながら、持参したドリンクを口に含む。
「うーん、オレは下手くそだし練習ダルかったから、これを機に辞めようかなって」
「トレーナーになるのか?」
「あんなのならねえよ。親父見てると、ポケモンと関わるって何かやなんだよな。家族ほったらかしてのめり込んでるの見てるとさ、ムカつく」
ライパチは噴き出る汗を、首に巻いたタオルでぬぐいながら太陽を仰ぐ。彼はこの街で最も有名な観光名所、サファリゾーンの跡取り息子であった。今頃、自分の父は同じ太陽の下、新種のポケモンを探し外国を駆けずり回っていることだろう。いつもそちらが重要で一度も試合を見に来てくれたことがなく、野球を頑張るモチベーションに繋がらなかった。
「バオバさんか。気持ちわかるよ。俺の家もジムやってるから」
ピッチャーの少年もぽつりと呟いた。土手へ向けた視線の先に、見知らぬ父親とその息子が楽しげに会話している姿が目に入る。遠く離れていても、彼らが自分の父親と兄程の年齢だということが察知できた。
「お前は次男だからいいじゃん。ジム継ぐのキョウの父ちゃんと、その次に兄ちゃんだろ?オレはさー、長男だから跡取りがどーのってうるさく言われててさ〜。うっぜ〜の!」
あっけらかんと話すライパチを睨み付け、少年は早足で土手へと上がる。絶え間なく鳴き続ける蝉の声に混ざって、「待ってくれよ!一緒に帰ろうぜ」と叫ぶライパチの足音が近づいてきた。幼馴染の彼は待たなくても追いかけてくることを知っているので、少年はそのまま歩を進める。
土手の少し遠くにあの親子が歩いているのが見えた。余裕が垣間見える悠々とした背中は夏の太陽に照らされて、一層眩しい。早足でも追いつきそうにない間隔は、自分と家族の距離を表しているかのようだった。
『次男くんもトレーナーを目指しているんですか?』
自分を見かけた親戚や客人が、いつも父親にする質問だ。
『あいつは球遊びばかりしていて。野球選手でも目指しているのだろう』
憶測で答える父は、自分のことを何も知らない。
そんな非現実的な職業などに興味はないし、遊んでいる訳ではない。
チームがこうなることは予想していたから、ずっと勉強にも力を入れていて常に成績はトップだ。夏休み前に学校から持ち帰った通知簿の成績はオール5、備考欄では担任が品行方正な生徒だと絶賛している。それなのに、家では仏壇の母の写真の前に置かれたまま誰にも触れられない。
忍者を経て、代々ジムリーダーとして続いてきたこの家では、誰も自分のことなど見ていなかった。ポケモンの腕を磨いたところで、家を継ぐのは結局長男だ。それを考えるとトレーナーの修行に出る気にもなれない。この環境では、ポケモンに対して嫌悪感が湧くばかりだ。
彼は深い溜め息をつきながら、帰路に続く道を重い足取りで進んでいく。街のあちこちから響く蝉の大合唱が、ポケモントレーナーの道を逸れる自分への嘲笑の様に聞こえていた。
+++
それから33年後の現代。季節は7月半ば。
今年も気だるい暑さが支配する夏がやってきた。セキチクシティの都市部ではあちこちで蝉の声が響き渡り、充分なほどこの季節を思い知らせている。
だがこの街でも一つだけ、そんな蝉の悲鳴すら霞んでしまう場所がある。それは河川敷のバトルフィールド場だ。かつて野球の練習が盛んに行われていたこの場所は何度も整備され、立派なポケモンバトル練習場へと変貌していた。昨年、チャンピオンのワタルと四天王カリンの練習試合が行われてから更に話題を呼び、拡張工事が実施されたほどである。常にトレーナーや近隣住民たちで賑わっている地元の名スポットだ。
そんな河川敷試合場の一角では、ひときわ初々しい歓声が上がっていた。学校帰りの地元小学生たちがフィールドを囲み、食い入るように試合を見入っている。フィールド内で睨み合っているのは、ビリリダマとコンパンだ。
「頑張れー、アンズちゃん!」
少女達が西側テクニカルエリアにスタンバイしていた友人の女の子を激励する。彼女はコンパンのトレーナー、アンズだ。地元では知らぬ者がいない、四天王の一人娘である。
「うん、応援してねー♪」
アンズは試合を見守る友人達振り返って、ぎこちない笑顔を作った。しかし内心は不安でいっぱいだ。
「トモユキ、気を付けろよ!あいつ、父ちゃん仕込みのサインプレーが得意なんだ」
東側エリアに構える相手トレーナー、同級生の少年トモユキに仲間たちがアドバイスを送る。彼は「一応研究してるから大丈夫!」と頷いた。アンズの父親キョウは、ブロックサインで巧みにポケモンをリードするプレーを得意としている。サインは並みのトレーナーでは到底真似できるものではなく、プロの試合でもあまりお目にかかれない高等技術である。しかし、試合を観戦する誰もがアンズに期待の眼差しを向けていた。彼の一人娘ならば、きっと可能だろう――その重圧がアンズの小さな背中に伸し掛かる。
(えーと……。あたしサインなんてできないよ……)
アンズが物心ついたころから父はジムリーダーの仕事に追われ、子供のバトル練習に時間を割いてもらえなかった。ブロックサインなどもっての外。それでも自慢の父親だが、今はそれがとても重い。
(とりあえず、毒を仕掛けよう)
彼女は相手ポケモンを指さしながら声を上げた。「すみれちゃん、毒の粉!」コンパンはビリリダマめがけて、毒粉を噴射する。粉がかかる前に、相手がすかさず策を打った。
「ビリー、ソニックブーム!」
ビリリダマは猛暑の空気を吹き飛ばすような衝撃波を放つと、毒粉ごと相手へ突き返した。その影響でコンパンは転倒し、無様にフィールド上でもがき続ける。
「すみれちゃん、起き上って!頑張れ!」
アンズはフィールド内に駆け込みたい衝動を抑えつつ、両手を叩いてコンパンを鼓舞する。あちこちから「何のサインだ?」という声が聞こえてきた。
(何も意味はないってば……)
ビリリダマが転がりながらコンパンへと接近する。起き上っていては間に合わない――すかさずアンズは指示を出した。
「すみれちゃん、念力っ!」
体勢を崩していても、念力は発動できる。しかし相手は想定済みだった。
「ビリー、スパークでとどめだっ!」
地面にうずくまるコンパンが念力を放つ前に、ビリリダマの電撃が一閃する。技は見事命中し、その一撃でアンズのコンパンは昏倒してしまった。互いのトレーナーが右手に持っていたポケモン免許から戦闘不能のアラームが鳴り響き、試合の結果を周囲に知らせる。
「負けちゃった……」
アンズはコンパンを抱き起すと、そっとひと撫でしてボールへと戻した。
「サイン使えないの?」「四天王の子供なのに……」「なんか期待外れだな」
友人たちのどよめきが、鋭い刃になってアンズの小さな背中へ突き刺さる。彼女はクラスでもポケモンバトルは上手いほうなのだが、それでも飛びぬけている訳ではない。だが名選手を親に持つ子の宿命か、アンズへの期待は親が活躍すればするほど膨らんでいた。
「やったーっ、四天王の娘に勝ったぜ!おれ、チャンピオンになれんじゃね!?」
同級生男子の調子に乗った一言が、焦燥に駆られるアンズに火を付けた。
「なれるわけないじゃん!お父さんもワタルさんも、トモくんなんかとは比べ物にならないほど強いんだよ!」
「そんなの負け惜しみにしか聞こえねーよっ」
顔を真っ赤にして憤慨するアンズの姿は可憐で、トモユキはつい調子に乗って悪態をついたが、本気で彼女を怒らせてしまったことに気付いていなかった。すぐさま彼の顔面に、鋭い張り手が飛んでくる。
「昼間は本当に申し訳ございませんでした……。近日中に改めて謝罪にお伺いいたしますので……」
帰宅してすぐ、アンズが同級生と喧嘩したことを老家政婦のアキコから聞かされたキョウは、直ぐに相手男子の自宅に電話を掛けた。地元を代表する大スターの電話に度肝を抜かれた相手親は恐縮しきりで、事はたちまち収束する。ポケモンマスターを目指しているというトモユキを激励し、彼はそっと受話器を置いた。縁側でふて腐れている娘に目をやると、微かに音を奏でる風鈴の下で、コンパンを抱きしめながら丸くなっている。
「……小学6年生にもなって、男の子と喧嘩なんて」
キョウは呆れつつ、娘の隣に腰を下ろした。
「だってお父さんのこと馬鹿にしたんだもん。トモユキくんさあ、あたしのコンパンにビリリダマで勝ったくらいでチャンピオンになれるとか言うんだよ!?なれるわけないじゃんっ」
憤慨する娘を、父親は冷静に諭した。
「それは『これから修行を積めばチャンピオンになれる』というニュアンスだと思うんだが。人の夢やポケモンを馬鹿にするもんじゃない」
「ごめんなさい……」
落ち着いた口調で丸め込まれてしまえば、アンズも素直に謝るしかなかった。父親は聡明で親しみやすく、ずっと尊敬している人物だ。いつもこうして安らぐような低い声で自分を導き、母親のような温かさも持っている。だから彼に再婚を望んだことは一度もない。
「旦那様、お夕食の準備ができていますよ」
台所から家政婦のアキコが彼を呼ぶ声が聞こえ、キョウは思わずそちらに気を取られる。夜9時に帰宅してすぐ、謝罪対応に追われたためまだ夕食は取っていないのだ。本当はまだ色々と話を聞いてもらいたかったのだが、空腹の父親を気にしてアンズは彼を開放することにした。
「ご飯食べてきて」
「いいのか?」
アンズは甘えたい気持ちをぐっと堪えて頷いた。
「うん。あのね、おかずのハンバーグ、あたしが作ったんだよ。アキコさんと先に食べたけど、褒められちゃったー!」
料理は彼女の日課である。父親に食べてもらいたいという気持ちが強く、落ち込んでいた今夜もサボらなかった。彼は娘の期待を裏切らず、感心するように微笑んだ。
「ほう、ハンバーグを作れるようになったのか。上達したな。楽しみだ」
キョウは嬉しそうに膝を上げると、浴衣の裾を直して居間へと向かって行く。美しい所作はそれだけでアンズの背筋をぴんと伸ばした。意識していなくても視線はつい父親を追ってしまう。
しかし最近では、傍にいるのにとても大きな背中を見るだけで、胸が苦しくなっていた。誰もが羨む優秀な父親だけど、あまりに完璧で自分が不甲斐なさすぎる――ずっとそのように感じている。
「お父さん、ご飯終わったらポケモンバトル教えてよ。ブロックサインを覚えたいの……」
彼女はコンパンを抱きしめながら、その雄大な背中へそっと尋ねてみた。父親は目を見張りながら振り返る。
「サイン?バトルは教えるが、サインはもっと基礎を学ばないと習得は難しいぞ」
「基礎はできてるよ……」
彼女は自信なく答えた。
とりあえず口だけで反発してみたのは、親であるキョウには直ぐに分かる。
「ちゃんとポケモンと意思疎通が図れているか?特性や身体の造り、思考に癖……全て見抜かないとサインは出せない。人間とは違うからな。学校の勉強に力入れると、割とすんなり理解できるようになるぞ」
アンズは不満そうに唇を噛みしめた。
ポケモンバトルを教えてほしいと言っているのに、何故勉強の話になるのだろうか。
(……関係ないじゃん)
居間へと向かって行く父親の背中を見つめながら、彼女は悔しそうに拳を握りしめた。初めて抱いた違和感に、アンズの心が僅かに綻ぶ。