第9話:栄光の舞台
今シーズン初のチャンピオン戦は、カントー・ジョウト地方にセンセーションを巻き起こした。昨日のイツキの健闘を報せるスポーツ紙は全社完売、朝のニュースも同じ話題で持ちきりだ。誰もが彼の復活を称え、負けが続いて謹慎を食らっていた事実など忘れ去っていた。
浮足立つ世間にヤナギは呆れ返りながらも、買い揃えたスポーツ紙に目を落としていた。各社が予想する、イツキがワタルに勝利する確率はどの紙も5割を超えている。昨日、ワンセグで共に観戦していたマツバも「ハーレーあるかもな……」と青ざめていたほどだ。ジムリーダー専用端末であるポケギアには、朝からキキョウシティリーダーによる試合のオッズが配信され続けている。彼やカツラ、シジマなど中年リーダー達は賭け事に夢中なのだ。
(くだらん……)
ヤナギの溜め息が、冷え切ったジム内で白く変化しながら反響する。イツキの修行が終わってから、またいつもの閑散としたジムに戻ってしまった。静寂はむしろ心地よかったはずなのに、明るく活発なあの少年がいなくなると、途端に物寂しく感じられる。
(そろそろ、私も仕事を始めなければな……)
凍えるジム内や洞窟に響き渡っていた弾むような若々しい声は、若手を育成するベテランの使命を再認させてくれた。彼は携帯電話を開くと、電話帳から『フジ』を選んで通話ボタンを押す。
+++
「皆様、お待たせいたしました!ようやく始まります、セキエイ・タイトルマッチ――チャンピオン戦!ようやく今シーズン現れたワタルへの挑戦者は、まさかの四天王イツキ!数か月のスランプを経て、彼は新チャンピオンと言う形で完全復活を果たすことができるのか!?はたまたワタルが絶対王者の地位を死守することになるのか――いよいよそれを証明するとき!栄光の舞台が幕を開けます!!」
ハイテンションで捲し立てるアナウンサーの台詞に乗せ、テレビカメラに映る満員の観客席、そして対照的な無人のフィールド。既に人々の期待ははち切れんばかりに膨れ上がっていた。北側ベンチにはイツキ以外の四天王が座り、特等席でチャンピオン戦を待っている。そんな様子を流しつつ、アナウンサーは隣に座っているオーキドを視聴者に向けて紹介した。
「さて、今夜の解説はオーキド博士です。博士、ご無沙汰しております」
一張羅のスーツに身を包んだオーキドは、上着のラテルを正しつつ恭しく頭を下げる。
「よろしくお願いします。ワタル君が戦うので、久々の出番が来たよ……」
「ええ、ワタルさんに負けないような的確な解説お願いしますね」
いきなり釘を刺され、オーキドの作り笑いが固まった。彼は以前からタイトルマッチの解説を行っていたのだが、話が的を射ていない上に脱線すると不評で、チャンピオンになってから出番がないワタルに仕事を奪われてしまっていたのだ。ワタルに負けじと気合を入れていると、会場が大きくざわついてスタジアムDJが興奮を煽り始める。
「いよいよ選手が入場するようです!」
いつも隣で冷静な解説をしている男の出番が来たということで、アナウンサーの声も普段以上に弾んでいた。スタジアムの照明が落ち、スポットライトが南側ベンチを照らしだす。大歓声に迎えられながら、イツキが登場した。爽やかなリネンのシャツに赤い蝶ネクタイ、裾をロールアップしたマスタード色のパンツに、足元は緑地に赤いドット柄のスニーカー。顔には大きなサングラスをかけていた。普段通りのポップな装いは、この興奮に包まれた会場においても彼の平常心をキープさせる。
「可愛い〜!」どこからかそんな声が聞こえてきて、イツキは改めて安堵する。緊張を呑み込んで北側ベンチを向くと、スポットライトがそちらを照らし、ベンチの奥からマントが翻る音が微かに聞こえてくる。声援が1トーン高まった。
『さあ、チャンピオン・ワタルの登場だぁあ!』
スタジアムDJの絶叫と共に、漆黒のマントとロイヤルブルーの衣装を纏った王者が颯爽と姿を現した。彼こそ、このカントー・ジョウト地方に君臨するポケモンマスター、チャンピオン・ワタルである。天井が突き抜けんばかりの盛大な歓声を受け、彼はベンチ前でフィールドに敬意を払って一礼すると、ゆっくりと戦場へ降り立った。その勇壮な佇まいにイツキは思わず息を呑み、途端に怖気づいてしまう。
四天王として、仲間として、一年過ごして忘れかけていた挑戦者を圧倒するチャンピオンの風格。物腰柔らかく、普段仲間の話に楽しそうに耳を傾けている彼はポケモントレーナーの頂点に立つ男なのだ。イツキはやや俯き気味にテクニカルエリアを回りながら、アンパイヤ席へと歩み、ワタルと握手を交わす。
「待っていたよ、イツキくん。やっぱり、君の実力ならここへ来ることは分かっていた」
ワタルはいつもの調子で、曇りのない爽やかな笑顔を見せる。周囲に瞬くカメラのフラッシュに照らされ、チャンピオンは一層輝いて見えた。イツキは臆する気持ちを抑えながら、静かに彼を睨み据える。
「……当たり前じゃん。この場だけは、馴れ合いはしないよ」
「そうだね、オレもこれ以上は何も言うことはないよ。ただどちらが強いか、戦って決めるだけだ。リーグチャンピオンとして、正々堂々と戦わせていただく!」
ワタルはマントを翻すと、風を切って颯爽とポジションへ戻っていく。その姿は挑戦者は勿論のこと、全観客すら圧倒し、イツキは彼を『座っているだけの地蔵チャンピオン』と笑い飛ばしたことを心底後悔した。
「いよいよね……。ねえ、どっちが勝つと思う?」
定位置へつく二人を眺めながら、ベンチ前列に座っていたカリンは隣のキョウに尋ねる。
「5−1でワタル」
これは5勝1敗でワタルの勝ち、と言う意味である。チャンピオン戦は手持ち6匹、交代・持ち物なしで一対一のポケモンバトルが行われる。思わぬ予想に、カリンは目を丸くした。
「あら、厳しいのね。同じ四天王として、イツキを応援しないの?」
「贔屓したいのは山々だが、相手はワタルだからな。マスターシリーズでは俺達は毎度惨敗……。いくらあのヤナギさんの元で修行したといっても、根本的な実力は一月程度じゃ大して変わらんだろう。……お前は?」
「私はオジサマと違って優しいから4−2でイツキよ」
「ふーん、無理だと思うけどな……。で、“アニキ”は?」
キョウは肩をすくめながら、後列ベンチの端に座っているシバに問いかけた。彼は「……3−3」と唸る。どちらも応援しているため、彼なりに葛藤しているのだろう。キョウは苦笑した。
そんな男の苦悩を知らず、カリンは二人に提案する。
「予想が出揃ったことだし……、今夜の祝勝会の食事代を賭けない?イツキの復帰祝いも含め、場所は“蝉しぐれ”ってワタルに言われているの」
『蝉しぐれ』は、タマムシシティにあるポケモンリーグ本部役員御用達の高級料亭である。ワタルや四天王もたまに食事に行き、特にイツキが気に入っている店であった。今夜の祝勝会はそこに予約されている。
「賭け事など、くだらん!仲間の一大事に何を遊んでいるんだ」
憤慨するシバを、キョウは飄々と諭した。
「惨敗三天王はそれくらいしか観る楽しみがないからなー。俺なんか筋肉痛で、動くのも辛いよ……。お前もここまで頑張ったイツキを労う意味で、参加してみたらどうだ?」
「ふむ……。ならば、あいつには悪いが4−2でワタルだ」
「ちょっと、変更はナシよ!」
鋭い口調でカリンに注意され、シバは縮こまりつつ公平な予想をしたことを後悔する。しかし、『プレイボール!』という野太い審判の声に我に返り、視点はフィールドへ釘付けになった。
+++
「GO、エル!」
イツキがトップバッターに選んだのは、エルレイド。昨日のタイトルマッチでも一番手を務めた、切り込み隊長である。ワタルは腰のベルトからボールをひとつ選び出すと、中のポケモンに相手を見せながら話しかける。
「エルレイドか。ブレード状の両腕には要注意しよう。……さあ、行くんだ。フライゴン!」
そう言いながらフィールドに現れたのは精霊ポケモンのフライゴンである。澄んだ歌声のような羽音を響かせながらスタジアムに舞い降りる姿は、さながら神話に登場するニンフで、観衆から多くの溜め息が重なり合った。チャンピオンの持つドラゴンポケモンは、実力は申し分ない上に、皆神秘的で美しく磨き上げられている。登場の機会が少ないからこそ、稀に見るドラゴンの姿はその地位を一層高めていた。
イツキはやや尻込みしつつも、エルレイドに先手を打たせる。
「行くよ、エル!パック用意――」
念力を具現化するエルレイドを見て、ワタルはすぐに対策を講じた。
「フライゴン、砂嵐だ!」
心を洗い流すような羽音が共鳴したかと思った瞬間――フィールドに強烈な砂嵐が吹き荒れ、実体化していたエルレイドの念力を空高く吹き飛ばした。これではアイスホッケーを応用した遠距離攻撃はできない。
「こんな嵐なんて、サイコキネシスで打ち消してしまえばいいんだ!エル!!」
口へ飛び込んでくる砂を防ぎながら、イツキは声を荒げてエルレイドへ指示を出した。彼は頷き、すぐに念じ始めるが――鍛え上げたドラゴンが巻き起こした砂嵐は、簡単に支配することができない。その隙に、フライゴンのカギ爪が飛んできた。「ドラゴンクロー!」エルレイドに直撃し、強風も相まって空高く吹っ飛ばされる。ワタルはそこへ容赦なく追い打ちをかけた。
「フライゴン、破壊光線!」
ふわりと浮き上がったエルレイドめがけて、精霊竜は渾身の破壊光線を放った。狙いは寸分の狂いもなく、相手を一撃で仕留める。それと同時に砂嵐が止み、エルレイドの戦闘不能を報せる赤い旗が舞い上がった。
「……そんな。ほぼ一撃で……」
イツキは愕然としながら立ち尽くしていた。圧倒的な力の差を見せつけられ、会場全体が困惑したようにどよめく。勝ち誇ったようにワタルの元に戻るフライゴンを見て、イツキは悔しさを滲ませたが、すぐに思い直して次のボールを手に取った。
「気にしてる暇はない!行くよ、リンリン!流れを変えよう!」
二番手に選んだのはチリーンである。昨日クロバットにあと一歩及ばず敗北したこともあり、今回何とか勝利をもぎ取るべく息巻いていた。ベンチで観戦していたキョウの表情が曇り、腿に筋肉の疲労感が走った。
ワタルは背中にすり寄っているフライゴンの頭をひと撫でしてボールへ戻すと、二番手のポケモンを手に取った。
「チリーンには君でいこう。頼むよ、オノノクス!」
フィールドを震わせる唸り声と共に、ボールからオノノクスが登場した。60センチ程度の風鈴と、頑強な鎧のような身体を持つ2メートル弱のドラゴン――結果は既に見えているようなものだった。
「そんなドラゴンが何だよ!リンリン、空へ飛びつつ――君の音で鼓膜を破っちゃえ!」
チリーンは上空へ浮遊しながらオノノクスと距離を取ると、身体を大きく震わせて大音響でオノノクスを驚かせる。彼はやや鬱陶しそうに眉をしかめたが、聴覚に影響を及ぼすまでには至らなかった。
「ぜ……、全然効いてない」
イツキの背筋が凍りついた。しかし、チャンピオン戦では途中交代ができない。
「音の攻撃が効果的なのは、クロバットのような耳が良いポケモンだけだからね。ドラゴンタイプではさほど影響はないよ」
ワタルは極めて冷静な口調で言い放った。オノノクスが主人を一瞥する。手を出してもいいだろうか?そんな確認だった。彼は頷き、技を命じる。
「オノノクス、竜の波動」
間髪入れずにフィールドを震わせる衝撃波が放たれ、チリーンを打ちのめした。彼女はなんとか痛みを耐え抜き、体勢を立て直そうとしたのもつかの間――竜がチリーンの眼前へ現われ、強襲する。
「リンリン、逃げろ!」
慌てて浮遊しようとしたチリーンの尾を、オノノクスが鷲掴みにして引き戻した。1キロ程度と、非常に軽量なチリーンはドラゴンに抵抗することができない。その名が表す、鋭利な斧を思わせる牙で相手を挟み――「いいぞ、そこでハサミギロチン!」鈍い音が響いたかと思うと、チリーンはその場に崩れ落ちた。清々しい程の一撃必殺に、スタジアムが一斉に湧き上がった。
やはりチャンピオンは強い、あちこちからそんな声がイツキの耳に届き、彼を焦燥に駆り立てる。
(なんで……)
ワタルと拳を突き合わせて勝利を喜ぶ、オノノクスの表情は誇らしげだ。彼のドラゴンポケモンは、皆主人に忠誠を誓っている。育成が難しいドラゴンポケモンがここまで従うのは、カントー・ジョウト地方では前例がないと話題になっているほどだ。それほど彼は『天才』だが――イツキも同じ『天才』トレーナーにカテゴライズされる身として、その格差に歯ぎしりする。
(なんでこんなに圧倒的なんだよ……)
同僚の四天王は、実力も十分にある一流プロトレーナーだ。彼らに快勝し、自信を取り戻していたのに、この力の差。
(負けたくない!僕はもっと強くなるんだ……。ここで負けるわけにはいかない!)
彼はベルトから次のボールを選ぶと、大きく振りかぶってフィールドへ投げ込んだ。
「流れを変えてくれ、ディン!」
繰り出したのはフーディン。連敗が続いている状況を好転させるには、長年のスタメンしかない、という考えだった。対してワタルが選んだのは、サザンドラである。凶暴な三つの頭は見る者の心胆を寒からしめ、百戦錬磨のフーディンをもたじろがせた。これはタイプ的にもイツキが不利である。
「これでお前は脱落だな」
対峙したポケモンを見ながら、キョウは得意げにカリンに尋ねた。
「そんなことないわよ、ディンは鍛え方が違うもの。預かっていた頃に、とっても賢くてびっくりしちゃった。タイプがバトルに影響するのは、アマチュアだけ。プロならいくらでも覆せる。オジサマだって、そうじゃない」
「しかしなぁ……。相手が相手だからな……」
二人の間を割る様に、シバが声を張り上げる。
「あいつも連敗して黙っている男ではないはずだ!」
牙を剥いて飛びかかってきたサザンドラを、フーディンは浮遊しながらバック転、間一髪で回避する。そして「リフレクター!」と叫ぶ主人の声を聞いて、目の前に素早く光の壁を張った。イツキがフーディンの元へ駆け寄る。
「やりたい技があるんだけど、上手くいくように考えてる暇がないんだ。でも、君ならできるよね?」
彼が小声で詳細を説明するなり、フーディンは二つ返事で了解した。
フーディンにとってイツキは少し頼りない存在だが、それでも長年自分を育ててくれた恩があり、成長を世間へ見せつけられるこの試合では必ず勝ちたかった。ベテランの意地に掛け、彼はサザンドラの攻撃を避けつつ、フィールドにリフレクターを張っていく。
「噛み砕け、サザンドラ!」
「ディン、後ろから来るよ!」
突然背後から飛びかかってきたサザンドラの右腕が、フーディンの足に噛みついた。そのまま足首から軽々持ち上げられ、今度はドラゴンの大きな口が彼の首筋を狙っている――これ以上攻撃を受けては、ひとたまりもない。
「逃げるんだっ、テレポート!」
フーディンは直ぐにサザンドラからすり抜けた。竜の頭上へ浮き上がりつつ、フィールドに張った光の壁を確認する。位置は問題ない、彼は主へ向けて指を鳴らした。
「準備OK?じゃあ反撃だ……、シグナルビーム!!」
イツキの弾んだ声と共に、フーディンは見るものを混乱に導くような不思議な光線を発射した。しかし狙いは外れ、サザンドラを掠める――ワタルが安心したのもつか間、光線はその背後に設置したリフレクターに反射し、ドラゴンを撃った。残光がまた隣のリフレクターに屈折、サザンドラの周囲に張り巡らした光の壁に次々反射していく。絶え間ない光の攻撃に、とうとう凶暴な竜の膝が折れる。イツキはガッツポーズを決めた。
「やった!ビーム反射成功っ!!この調子でどんどん攻めるよ〜!」
更に攻撃を強めようと、フーディンは再びシグナルビームを撃とうとしたが――「サザンドラ、流星群!」ワタルの声と共にフィールドに無数の隕石が降り注ぎ、フーディンやリフレクターを蹴散らした。隕石をよけながら、イツキは大きくバウンドしたフーディンの身体を追う。
「ディン、負けるな!自己再生っ」
フーディンは飛んでいきそうな意識を強引に引き戻し、外傷ごと回復させるように試みる。そこへ漆黒の竜が牙を剥いて飛びかかってきた。「サザンドラ、回復される前にトドメを!!」回復している間に、噛みつかれる――イツキは直ぐに結果を予測し、反射的に命令を変更する。
「迎え撃て!シグナルビームッ」
眼前に迫るサザンドラ目掛け、フーディンは回復用に充填していた念力を、悪タイプが嫌がる虫の光線へ変換して放出した。突き出した腕へ、ドラゴンが食らいつく。二匹はもつれ込みながら、フィールドへ崩れ落ちた。
「ディン!」「サザンドラ……!」
イツキとワタルの声が交錯する。スタジアムは息を呑み、一瞬静寂したが――振り上げられた二つのフラッグが、しじまを直ぐに引き裂いた。
『ドロー!』
しかし、不利な状況を互角の試合に持ちこんだイツキの健闘を称える、大歓声がスタジアムに押し寄せた。もはや誰一人、彼を責める者などいない。皆イツキの復活に歓喜の声を上げているのだが――本人は違っていた。フーディンを戻したボールを握り締める手が、制御できずに震えている。
(勝たなきゃ意味がないよ……!)
再び彼に覆いかぶさってくる敗北への恐れは、ポケモンバトルへの挑戦を尻込みさせる。しかし今はチャンピオン戦、逃げ出すことなど許されない。ベンチへ引き返せば、今度こそトレーナー生命が終わってしまうだろう。だが昨日取り戻した自信はすっかり影をひそめ、また負けることばかり考えてしまっていた。対峙するワタルを直視できない。イツキは目頭に込み上げてくる熱を抑え込みながら、四番手・ルージュラのボールを手に取った。
気づけばスコアボードのイツキの名前の下には、5つの黒星が並んでいた。対するワタルはサザンドラの引き分けを除き、4つの勝ち星が煌めいている。シバは肩を落としながら深く息を吐いた。
「まさか四天王が、これほど大差をつけられるとはな……」
「まあ……棄権せず、ここまで立っていられる根性は大したもんだ」
南側ベンチ前で必死で身体を支えているイツキを見て、キョウは小さく拍手を送る。この一方的な展開には、カリンもさすがに不憫に感じていた。
「いよいよ最後ね……。使うポケモンは、やっぱり……」
ルージュラ、ブーピッグも負けた。ヤナギの元で磨き上げたスケート技も、チャンピオンのプテラとボーマンダの前には殆ど歯が立たなかったのだ。既にイツキの敗北は決定しており、リタイアも認められる状況である。これほど大差を付けられては、降参したところで誰も非難はしないだろう。
イツキは最後に残っているボールを、ベルトから取り外した。六番手に残していたのはもちろん、相棒のネイティオである。ボールに映る自身の瞳は、すっかり光を失っていた。
「ごめん、やっぱり勝てなかったよ……」
力のない言葉を聞いて、ボール越しにネイティオはかぶりを振る。まるで、あなたは健闘した、と励ましているかのようだ。結局、最後まで相棒に慰められてばかりの状況は変わらず、イツキは苦笑する。もはや無理やり笑うことすら辛かった。これ以上醜態を晒し続けたくないと、リタイアばかりが脳裏をよぎるが、ネイティオの鋭い眼光はそれを認めない。
(リタイアしたいけど……)
それでは、また逃げることになる。
(いやいや、戦え、僕!またファンを失望させるのか!!……既にあの子を泣かせてるかもしれないけど)
饅頭屋で楽しそうで語っていた男の子の笑顔を思い出す。
――ぼく、セキエイでイツキお兄ちゃんが一番好きなの。エスパーで戦うとこ、すっっごくかっこいいんだ!特にネイティオを使ってるときはね、とっても楽しそう!またバトルが見たいなぁ……。
「あ……。そっか」
少年の言葉を思い出したイツキは、ふいに顔を上げた。
「まだ一つだけ、あの子の期待に応えることができる」
静かに頷く相棒を見て、イツキは吹っ切れた様に微笑むと、テクニカルエリアで悠々と仁王立ちしている男の名を叫んだ。「ワタル!」乱暴な口調に、チャンピオンは目を丸くする。
「結果はついたけど、試合はまだ終わってないよ。たとえ残り一匹でも……僕は諦めない!ファンの期待に答えるんだ」
そう言いながら最後のボールを掲げるイツキを見て、ワタルも感心した様子で6匹目のボールを手に取った。
「そうだな。最後まで、戦わせてもらう」
「さあ、いくよ!――ネオ!」
イツキは全ての重圧を、ボールと共に投げ捨てた。ネイティオが空に舞い上がり、最後まで戦う姿勢を見せたイツキの勇姿にスタジアムから拍手喝采が湧きあがった。対するワタルが繰り出したのはこちらも相棒、カイリューである。二人を象徴するポケモンの登場に会場のボルテージは急上昇したが、イツキは雰囲気に呑まれないよう自らの両頬を強く引っ叩いて絶叫した。
「ドラゴンが何だ!正統派なんて勝手に決めるな!ランボルギーニやロールスロイスが買えるほど育成にお金がかかるからって、エライわけじゃない!リトルカブが高級車にも勝てるってこと、証明してやるよ!!なあ、ネイティオ!」
突然話を振りながら睨みつける主人を見て、ネイティオは呆気にとられつつもそれがサインだということを察し、カイリューの前へ胸を張って主人を真似る様に“威張り”散らした。この挑発に、ドラゴンは鼻息荒くネイティオをねめつける。
「カイリュー、落ち着け……」
頭に血が上って、カイリューはやや錯乱状態だった。そこを狙って、イツキはネイティオを上空から攻めさせる。
「いくよ!サイコキネシス!」
猛威を振るう強力な超能力――だがそれは運悪く、カイリューを我に返らせる。彼女はすぐに体勢を立て直すと、ワタルに頭を下げ、ネイティオを追って飛翔した。イツキは目を丸くする。
「うそっ、もう平常心!?」
「カイリュー、暴風でネイティオを捕えるんだ!!」
ワタルの命を受け、カイリューは翼を広げ徐々に風を巻き起こしていく。髪を撫でる微風に、イツキはすかさず声を上げた。
「ネオ、風を打ち消しちゃえ!」
即座にネイティオから放たれた超能力はカイリューのそよ風を支配し、身の毛もよだつ不気味な風音へと変えた。「怪しい風!」ドラゴンさえも震撼させる様子は、ネイティオに自信をつけさせる。
「へえ、なかなかやるじゃないか……。風は起こさない方がよさそうだね。カイリュー、ドラゴンクロー!」
カイリューは自我を取り戻すと、今度こそはとネイティオへ飛びかかった。「ネオ、避けろー!」散々コケにされ、カイリューは血走った眼でネイティオを斬りつける。彼は寸でのところで身をよじって攻撃を受け流したが、完全には避けきれず右足を負傷してしまった。宙でバランスを崩した姿を見て、カイリューはさらにもう一撃を用意する。
「ドラゴンテー……」ワタルの声をかき消すように、イツキは絶叫した。「とんぼ返り!」ネイティオは右足をかばいつつ大きく飛翔し、カイリューから距離を取る。すぐに攻撃が来ない場所まで逃げると、彼は静かに閉眼し、瞑想で気を落ち着かせる。
「そう、それでいいよ……」
イツキはカイリューの様子を気にしつつ、ネイティオを見守った。
「今のうちに――カイリュー、高速移動!」
瞑想の隙を狙ってカイリューが疾風の如く飛びかかる。挑発され、苛立っているドラゴンのスピードは計り知れない。瞑想を中断したネイティオの目の前にあっという間にたどり着き、その尾で彼を薙ぎ払う。身軽なネイティオは軽々とフィールドに叩きつけられ、イツキはすぐに傍へ駆け寄った。
「大丈夫!?」
ネイティオは全身を駆け巡る激痛に耐えながら、なんとか身を立て直すと、上空を旋回するカイリューを睨み据えた。これほど闘争心を剥き出しにする相棒を見るのは、イツキも初めてだった。彼は思わず息を呑みつつ、その肩に触れる。
「僕は君を激励することと、技を指示することしかできない。でも、絶対に勝たせてみせるから」
確証は何もないけれど。
それはネイティオの方も理解していた。相手はチャンピオンの一番のパートナーである。もう一撃でも食らったらおしまいだ。
「よし……、いくよっ!!」
イツキが突き出した拳に、相棒は翼を触れて応えると、身を翻して空へ飛び立った。視界に捉えたカイリューに進撃しながら、ネイティオは自己暗示をかける。あの勇壮で、猛々しいドラゴンの姿を自分の心に転写するかのように念じると、不思議と力が湧き上がってきた。
試合の敗北は、既に決している。
だがこの勝負だけは、何としても勝ちたかった。
主人が不調を乗り越えたことを、人々に証明しなければならない。
今、闇から抜けた彼を勝ち星と言う光で迎えられるのは、相棒の自分しかいない。
この使命にかけて――負けるわけにはいかない!
かつてないほど身体の奥底から湧き上がってくる力に、ネイティオは興奮していた。
だが、それはカイリューも気づいている。彼を正面から迎え撃つべく、上空でエネルギーを充填していた。次に放たれる技は『破壊光線』に違いない。パワーで押し返されるかもしれないが、ネイティオは臆せず立ち向かっていく。
「カイリュー、来るぞ!」
ワタルはマントをはためかし、右手を大きく振りながら声を上げた。
「破壊光……」
ワタルの指示を聞きながら、カイリューが閃光が漏れる口をゆっくりと開いた瞬間――イツキが得意げに指を鳴らした。
「ネオ、サイドチェンジ!」
ぱちん、という爽快な音と共に、瞬時にネイティオとカイリューのポジションが入れ替わり、鳥はすかさず相手の背後を取る。試合を観戦していた者は、一人残らず唖然としたことだろう。彼は笑みを溢しながら、鳴らした指をまっすぐにネイティオへ向けた。
「エスパータイプが真っ向勝負すると思ったら大間違いだよ。ゼロでなければ力は無限!ネオ、決めるよ!」
カイリューが振り向き様、ネイティオは体内に蓄積していた力を一斉に放出した。
「アシストパワーー!!」
巨大なドラゴンをもフェンスへ薙ぎ払う強烈な超能力が、暴風となってフィールドへ吹き荒れる。その力は舞台に立つプロトレーナーを転倒させ、ベンチやアンパイヤ席の備品さえも滅茶苦茶にかき乱した。
嵐が去った後のフィールドは、かつてないほど物が散乱し、数多くのハイレベルな試合を目の当たりにしてきたワタルや四天王、審判はじめとするスタッフをも度肝を抜かれてその場に立ち尽くすばかり。技を放ったネイティオ自身も、まさかここまで力を引き出せるとは思っておらず、呆然と宙に漂っていた。
止まったように静まり返るスタジアムに、一人の少年の絶叫が反響する。
「勝ったーーー!!!!」
フィールドの隅に昏倒しているカイリューの様子を確認したイツキが、ネイティオへ向けて誇らしげに拳を振り上げた。
「ネオ、勝ったよーーー!!!!やったぞーーーーー!!!!」
すぐに主人の元へ戻ったネイティオを、彼は抱きしめて離さなかった。一目を気にせず、号泣しながらテレビカメラに向かって手を振る。
「僕は勝ったんだ!ワタルのカイリューに、勝ったんだーーーー!!やったー!!!ヤナさん、これ見てるかなぁ!?やったよおお、ヤナさーん!僕、チャンピオンの相棒に勝ちましたよー!!!ヒャッホウ!!!」
この瞬間、チャンネルを試合に合わせた視聴者はイツキがチャンピオン戦を制したと勘違いしてしまうだろう。それほど、異常な状況であった。呆然と立ち尽くすワタルに、観客たち。まるで王者に君臨したように歓喜するイツキ。しかし徐々に、彼の勇姿を称える拍手が雨の様に降りだしてくる。やがてその音は厚みを増し、土砂降りへと変わった。
「あーあ、全世界に間抜け面晒しちゃって……。状況、分かってるのかしら?」
物が散乱したベンチを片付けながら、カリンが呆れた様に溜め息をついた。それに対し、筋肉痛のキョウは何も手を動かさず、座席にもたれ掛りながら脚を組んで笑っているばかり。
「まあ許してやれよ。試合には負けたが、勝負には勝ったんじゃないか?」
「負けは負けだ」
背後で、シバが仏頂面のまま言い放つ。キョウは思わず苦笑した。
「相変わらず厳しいねえ……。それにしても、賭けは惜しかったな。まさか一分けとは……」
「それも負けは負けよ、オジサマ♪今夜は私たちの驕りね」
一人数万円の負担を強いられることになるが、不思議とカリンに不満は湧いてこなかった。彼女はベンチを片付けつつ、ワタルと握手を交わしているイツキに目を向ける。すると、二人を取り囲んでいる記者陣の間を割って、慌ただしそうにアナウンサーが飛び込んできた。
『お待たせしました、皆様!ヒーローインタビューのお時間です!今日のヒーローは――……』
ちらりと自分へ向けられた視線を見て、ワタルは引きつった笑いを浮かべながらイツキの背を軽く押した。
「今日のヒーローは、君だよ」
目を白黒させるイツキに、ワタルはにこやかに微笑んだ。
「試合には勝ったが、勝負には負けた。正直、悔しいよ。今日はヒーローになる資格はない」
情けを掛けられたようでイツキはすぐに反発しようとしたが、試合を敗北した悔しさは微塵も残っておらず、考え直して記者陣に向き直る。彼らも試合を決めたワタルより、謹慎明けのイツキのコメントを求めていた。それはスタンドを埋め尽くす観客たちも同様である。瞬時に場の空気を察知したアナウンサーは、イツキの顔を覗き込むようにマイクを向けた。
「で……、では。お願いしてもよろしいですか?」
「は、はいっ!」
慌てて四天王の顔を作るイツキを待った後、アナウンサーもプロの声色で観客にアピールした。
『今日のヒーローは、見事チャンピオンの元までたどり着き、復活を遂げた四天王イツキさんです!』
その瞬間、待っていましたとばかりにスタジアム内から拍手喝采が降り注いだ。全てが終わった後のヒーローインタビューは得も言われぬ快感がある。イツキはこの空気を心地よく感じながら呼吸を整えると、ゆっくりと口を開いた。
『チャンピオン戦を見ているみなさん、こんにちは。挑戦者のイツキです。あの……、まずは謝罪させてください』
彼は一歩後退すると、スタジアムを一周見回して深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけして、本っ当にすみませんでしたっ!!!」
騒がしいスタジアム内の隅々まで、はっきりと聞こえた謝罪の咆哮。途端に会場はしんと静まり返り、記者陣がシャッターを押す手も止めさせた。ワタルやカリン達も居住まいを正してイツキを見守る。ゆっくりと顔を上げた彼に、アナウンサーは恐る恐るマイクを手渡した。
イツキは会釈をしてそれを受け取ると、意を決して語り始める。
『僕は先々月……負けが続いて、嫌になって逃げだしてしまいました。一か月の謹慎はその罰です。はっきり言って、プロ失格だと思います。クビでもおかしくない』
本人から語られる謹慎理由に、会場は大きくどよめいた。
『でも……、ポケモンリーグ本部は……ワタルや、みんなは……謹慎ひと月で許してくれた。本当に優しくて……感謝しています。だから僕も修行を頑張ることができました。チャンピオンになるっていう夢を、再認識することができました』イツキはそのまま大きく息を吸い込み――『ありがとうございます!!』と、ワタルに向けて勢い良く頭を下げる。彼は柔和に微笑んだ。
「どういたしまして」
それが少し気恥ずかしくて、イツキは照れを隠すようにぎこちない笑みを浮かべた。
『実を言うと、四天王を3人抜きできたからちょっとチャンピオンに勝てるかも……って思ったんです。……だけど、甘かった。惨敗です。清々しい程に叩きのめされちゃった……。強いなぁ……、ワタルはやっぱり。本当に強い。――だけど!』
上ずった声が、場内に反響する。
『僕は四天王の最終面接をした時に、ワタルに言ったんです!四天王は通過点でしかないと!』
イツキはまっすぐにワタルを見据えた。再びスタンドが困惑に包まれるが、彼はまるで気にも留めず、きっぱりと言い放つ。
『それは今でも変わっていません!僕はいつかチャンピオンになる!ワタルを絶対、倒すよ!』
闘争心に溢れる勇猛な眼差しは、最終面接で自分を倒すと言明した時以上に力強い。チャンピオンは安心したように頷いた。
「望むところだ」
ワタルはマントを翻してベンチ裏へと戻っていく。観客は完全にイツキに釘付けで、これ以上自分がいては無粋だと感じたからだった。背中越しに、時間を気にするようなアナウンサーの声が聞こえる。
「それではイツキさん、最後にファンの方へ一言……」
急かされたイツキは、スタンドを見回しながら浮かんだ言葉を次々に並べていった。
『迷惑かけて、すみませんでした!明日からまた四天王として復帰しますが、ワタルには負けたけど、僕も十分強いのでまた試合を見てください!絶っ対、面白い試合をするので!!お金を払ってでも見る価値のあるバトルをします!だからまた……』
コメントにまとまりがなくなり、焦るアナウンサーの視線が突き刺さる。『えーと、あの、じゃあ最後に……っ』イツキは思い切って声を振り絞った。
『ポケモンバトルって楽しいーー!!!』
ストレートな感想に弾かれ、観客総立ちのスタンディングオベーションが巻き起こった。歓喜の雨は止まず、イツキの四天王復帰を温かく歓迎する。中には厳しい視線を向ける者もいるだろうが、彼はこの反応を好意的に受け取った。自分が再び栄光の舞台に戻ってきたのだと実感する。
(僕はやっぱり、このステージが一番だ……。ファンに応援されて、心強い仲間もいて、ポケモンとも楽しく戦える。天職だよ!もう、逃げないよ。絶対!)
報道陣から焚かれるフラッシュが、スポットライトの様に彼を照らし続けていた。
ワタルはベンチを抜けると、真っ直ぐにロッカールームへと歩んでいた。興奮冷めやらぬスタジアムも、ベンチ裏の通路まで来ると歓声が遠くなり、彼を徐々に現実へと引き戻す。絶対王者であるポケモンリーグのチャンピオンが、一人の男に戻る瞬間だった。数メートル先に壁にもたれ掛る人影が目に留まり、彼は思わず足を止めた。
「総監……」
その姿を見るだけで、ワタルが息苦しくなる存在。彼は待っていたとばかりに身体を浮かせ、ワタルの前へ歩む。
「お疲れ様。さすがチャンピオン、復帰戦は大成功でしたね」
「ありがとうございます……」
ワタルは総監から目を背けるように、頭を下げた。
「君はいつも私の期待に沿ってくれるから、嬉しいよ。優秀なトレーナーばかりで、私は幸せだ」
含みのある言葉に、ワタルは返答に困って口を噤む。早くこの場から逃げることばかり考えていた。
「イツキ君の謹慎は、無駄ではなかった。もちろん一部で批判もあったが、このスタジアムの盛り上がりを見たかね?明日からは何事も無かったかのように、いつものタイトルマッチが始められるよ。チケットの売り上げも影響なし、さっきテレビ局の役員から歓喜の電話が来たけど……今日の試合は今シーズン一番の視聴率を叩き出しているようだよ。それから、これが一番の朗報。この一月で、ポケモントレーナーの数が万単位で急増したそうだ。あの四天王なら自分も倒せるんじゃないか、とね」
ワタルは目を見張りながら顔を上げた。四天王は容易く突破できる存在ではない――そう弁解しようとした言葉を遮り、総監が先取りする。
「もちろん、この二日間の試合を見たら、その考えも変わってしまったかもしれないが。しかしうちとしては、利益が増えるから嬉しい限りだ」
涼しげに微笑む総監を見て、ワタルの背筋が凍りつく。いくらピラミッドの土台が広がっても、頂点に立てるのは自分一人、そしてプロの枠すら少しも大きくなることはない。『君が立ってるピラミッドの一番下には、行き場のないゴミみたいな奴で溢れてる。本部は何もしないがね』――昨年、キョウが漏らしていた不満を思い出した。
「……それで、夢破れる人が増えるんですか?」
ぽつりと呟いたワタルに、総監は眉をひそめる。
「正気かね?チャンピオンの台詞とは思えないな」
思わず口を突いた失言に、ワタルは驚愕しながら慌てて「……失礼しました」と訂正した。
「そういうのは思っていても、言葉にするものではないよ。口は災いのもと、って言うじゃない。君が意外に現実的で、感心したけどね」
総監は嬉しそうに身を翻し、出口へと足を向けた。
冷淡な靴音が、微かに聞こえる歓声をワタルの耳からかき消していった。彼の視界に映るのはスーツを纏った体裁のいい背中と、周りを取り囲むコンクリートの冷たい壁のみ。この世界の中では、マントを羽織った自分は浮いている。まるでヒーローのコスプレをしているかのようだ。ワタルはそれに耐えられず、すがる様に総監を呼び止めた。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
通路に響き渡る足音が止む。「なにかな」と、総監は僅かに顔を傾けた。
「総監にとって、ポケモンとはなんですか」
まるで子供のように問いかけるチャンピオンの言葉に、総監は小さく嗤笑すると、振り返ってきっぱりと返答した。
「ビジネスだよ。そして、ポケモンバトルはショービジネスかな」
ワタルは絶句した。
「軽蔑するかね?」
言葉が出てこない。
総監は呆れた様に、溜め息をつく。
「君も同じ立場にいるのにね。ポケモンを仲間とか友達とか……そんな風に思うのならば、今すぐアマチュアに転向しなさい。王座に固執し、ポケモンバトルで金を貰い続け、ファンに夢を与えたいのならば――ヒーロー・ショーの主役を演じ続けなければならないよ、チャンピオン様」
彼はそれだけ言い捨てると、再び背を向けて出口へと消えて行った。
するとようやく、ワタルの聴覚にステージの歓声が戻ってくる。歩んできた道を振り返ったその先に、栄光に輝く舞台があった。ワタルはそちらへ戻りたい衝動を抑えつつ、一人、ロッカールームへと続く薄暗い出口へと向かって行った。