第7話:泥仕合
(あのクソジジイ……)
キョウはテクニカルエリア上で歯噛みしながら、スコアボードをゆっくりと仰いだ。自分の名前の下には既に二つ並んでいる黒星。かたや、挑戦者――イツキの生存手持ち数を示すアイコンは、3つ、一等星の様に燦然と輝いていた。困惑を隠せないスタジアムがどよめきに包まれる。この中に愛する一人娘がいないことが、ただひとつの救いだろう。テレビ観戦しているとはいえ――既にあと一手に追い詰められた、無様な醜態を晒し続けたくはない。テレビならば度々アングルが切り替わるので、常に娘の視界に映ることはないのだ。
爪が食いこむほど握りしめた左拳をカメラがクローズアップし、その上へ実況が狼狽えながら言葉を乗せた。
「これはワタルさん……、どういうことでしょう!?キョウがここまで追い込まれるなんて……」
「そうですね……、」
ワタルも唖然としつつ、状況を整理しながらなんとかコメントを絞り出す。
「サイン対策が万全ですね……。ブロックサインはポケモンに伝わらないと意味がない。だから、イツキくんのポケモンはキョウさんの前に回り込んでサインを見えなくしたり、相手ポケモンを混乱させるなどして伝達を阻止しています。上手いな……」
「それは、指示妨害では……?」
「ブロックサインにおいては、そういう規則は有りませんからペナルティにはなりません。サイン自体がトレーナー界にはあまり浸透しておらず、取り決めも殆どないに等しいですし」
キョウはそれを逆手に取って、ルールに抵触しそうなプレーを平気でやっていた。サインはトレーナー各自で編み出すため、ラフプレーなどやっていないと言えばそれまでだからである。ところが、イツキはこれを見事に対策して2連勝を収めたのだ。
(すごいな……。だが、イツキくんだけでここまで万全に対策できるものなのだろうか?)
ほぼすべてのサインを妨害する念の入れように、ワタルは首を傾げた。イツキの性格上、ここまで用意周到にやるとは考えにくいのである。となれば、残りの要因はただ一つ――。
+++
「……これ、ヤナギさんの口添えですか?」
一連の様子を視聴していたマツバは、真っ青になりながらヤナギを一瞥する。
「あの調子に乗っている男に、一矢報いたかっただけだ。いつまでも手の内を晒さんと、伸び代がなくなって容易く打ち取られてしまう」
ヤナギはすっかり温くなったコーヒーを一口含んだ。彼はいつまでもブロックサインのノウハウを隠したままの後輩に、前々から苛立ちを感じていたのだった。
(あそこまで高めた技術は、確かに目を見張るものがある。……が、いつまでも一人で抱え込むなどと、器の小さな真似をするな)
タブレットのディスプレイには、無表情のキョウの立ち姿が映し出されていた。背筋をぴんと伸ばしてテクニカルエリアに立つ様子は、袴姿も相まって大変勇壮だが、画面越しからもその怒りが伝わってくる。キョウは激しい憤りを感じるほど、その怒りを内に秘めていく傾向があった。今、彼の中では灼熱の業火が渦巻いていることだろう。
「怒ってるなぁ、キョウさん。後で相当文句を言われるんじゃないんですか。普段穏やかそうにされてますけど、実は結構厳しい方ですよね……」
震え上がるマツバに対し、ヤナギは気にしないとばかりに落ち着き払っていた。
「ふん、あいつが連絡してこなくなったところで、何も問題は――」
彼の脳裏に、差し入れの干物と大吟醸が浮かんで消え去った。
(……しまった)
+++
キョウは唇を固く結んだまま、最後の一匹――クロバットをボールから繰り出した。視力が著しく低下していても、相棒の彼女には主人の怒気が痛いほどにに伝わってくる。クロバットは委縮しつつ、彼の傍についた。
「やっぱり、最後はクロちゃんか!そっちの対策もばっちりだよ。キョウさんには申し訳ないけど……」
イツキは右手を挙げてアンパイヤに交代をアピールすると、フィールドに出していたバリヤードをボールへ戻した。代わりに投入したのは、チリーンである。宙を華麗に翻りながらぺこりと小さくお辞儀すると、その愛くるしい姿に観客席から微笑ましい拍手が巻き起こった。一方で、キョウは仏頂面のまま帯に差していた扇子を用意する。
「リンリン、相談した通り頼むね。さあ、行くよ――」
イツキとチリーンが片目を瞑って意志を共有していると、「行け、アクロバット!」という鋭い声が飛んで牙を剥いたクロバットが襲い掛かってきた。不意を突いた攻撃に、チリーンの華奢な身体は軽々と弾き飛ばされる。扇子の音と共に、蝙蝠は畳み掛けるようにチリーンへ噛みつき、フェンスへと叩きつけた。その上、追い打ちをかける様にスコアボードに毒を知らせるランプが点灯する。
「リンリン、毒消しの実を――」
なんとか身体を持ち直すチリーンは、眉をハの字に曲げて困惑したように主人にアピールする。持っていた毒消しの実は、空を舞うクロバットの口の中だ。口頭で攻撃技を指示しつつ、サインで“泥棒”を命じて持ち物を奪い取る――これはキョウの常套手段である。注意していたものの見事術中に陥ってしまい、イツキは思わず苦笑した。
「予備の毒消しが盗られちゃった……。じゃあリンリン、“癒しの鈴”ね」
チリーンがハンドベルのような柔らかな音色を奏でると、身体から毒が抜けてスコアボードの状態異常ランプも消灯した。
「ふん、それが使えるんだから最初から木の実なんざ持たせるな」
「技で治癒する時間勿体ないじゃん?バトルはテンポが大事だよ、せっかく3タテまであと一歩なのにさ」
「馬鹿言え、クロバットで負けてたまるか。ストレートで全敗するくらいなら、死んだ方がましだ」
そう語るキョウの眼差しは、いつになく真剣だ。空気がピンと張り詰め、普段のくだけた雰囲気は全く感じられない。
「だよね、四天王が3連敗することは本当に辛いよ。僕もスランプは打ちのめされそうだった。でも――手を抜くつもりはないよ!」
「上等だ、かかってこい!――クロバット、クロスポイズン!!」
扇子を振る左手首が動く前に、イツキがチリーンに指示を出した。
「きたよっ!リンリン、シンクロノイズだ!」
「はあ!?」
その指示には、誰もがキョウのように呆気にとられたことだろう。それは本来、自分と同タイプのポケモンにしか効かない不思議な技である。少し早めの夏を感じさせる、清涼感のある風鈴の音がスタジアムに響き渡ると同時に、空中を舞っていたクロバットが硬直した。
「おい、何止まって……」
テクニカルエリアから、制止する相棒を見上げていたキョウが、舌打ちしながら扇子を叩く。だが彼女は、慌てた様子で目を白黒させるのみ。
(まさか――!)
愕然とするキョウを見て、イツキは慌ててチリーンへ近寄った。
「やばっ、もう気づかれたかも。リンリン、早いとこ片付けよう!ノイズはそのまま――サイコキネシス!」
チリーンは風鈴の音を鳴らしながら、クロバットの傍まで浮き上がると、強大な念力を放出しようと試みる。
「逃げろ、クロバット!」キョウは左手に持った扇子を右手首に叩きつけ、サインの音を高めるが――鈍い痛みだけが己の右腕に届いた。サイコキネシスはクロバットに命中し、彼女は悲鳴を上げながらフィールドへ墜落する。
クロバットには何が起こっているのか、全く理解できなかった。
磨りガラス張りの視界に、全身を麻痺させるような激しい痛み。そして、耳触りな雑音――聞き慣れた扇子の音が、遮断されていた。敬愛する主人の声もほんの僅かに耳にしたけれど、“逃げろ”の一言だけでは、どこへ散ればいいのか分からない。いつもは細かく指示してくれるのに、何故?
その混乱は、恐怖となって彼女に襲いかかってきた。
「リンリン、ハイパーボイス!」
耳をつんざくような激しい音が、体内をかき乱す。耳を引きちぎるような不協和音が余韻として残り、主人の指示が全く聞こえなくなった。音だけを頼りにしているクロバットの牙が恐怖でがちがちと打ち鳴らされる。
「サイコショック!」
どこからから飛んできた念力の塊が、追い打ちをかける様に蝙蝠の眉間に命中した。
――またズバットかよ。こんな雑魚いらねえよ、鬱陶しい!
『あの尖った石』が額に突き刺さる感覚が、生々しく蘇る。
クロバットの混乱は最高潮に達し、喉を掻き毟られるような悲鳴が出かかったとき――彼女の顔を、清涼感のある煙の香りと共に、温かな感触が覆った。薄暗い視界に広がる北欧風の、青葉に降り注ぐ雨をモチーフにした柄は昼間見たことがある。
これは主人の羽織の裏だ。試合前の衣装合わせの際、『またこんな派手な羽織裏を……』と、呆れた様に溜め息をついていたことを覚えている。微かにメンソールが混じった着物の香りを大きく吸い込み、身体から恐怖を押し出すと、視界が明るくなって眉をしかめたキョウが目の前に現れる。
「落ち着け!音が消されたくらいで慌てるな」
気持ちを引き戻す、鋭い眼光。
「昔言っただろう、俺はお前の目だ」
甘さを含んだ低い声を聞いて、クロバットは我に返った。気を持ち直して、主人の後ろへと舞い上がる。テクニカルエリアに並ぶキョウとクロバットを見て、イツキが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね、クロちゃん」
「扇子の音をシンクロノイズで同調し、マスキングするなんてエグい真似しやがるな!どうせ、ジジイの入れ知恵だろう?こういう汚いやり方は、若い内からするもんじゃねえぞ。ガキはワタルを参考に、正々堂々と戦ってりゃいいんだよ」
キョウはフィールド上にしか聞こえない声量で悪態をついた。このような発言は、ファンやマスコミが耳にすれば集中砲火を浴びかねないだろう。だが彼らはイツキの快進撃に酔いしれており、誰の耳にも届いてはいない。これを頭に入れての発言であることは、イツキにも察しがついていた。
「まあね、ワタルはこんなダーティなプレーはしないよね。強力なドラゴンで押せば勝てるから。――でも、僕の専門はエスパータイプだよ?力押しなんて、無粋じゃない?僕はあんな優等生にはなれないよ」
イツキの脳裏に、修行の日々が浮かんでくる。
タイトルマッチ参加が決定し、四天王の対策を考えていた時だ。ヤナギにキョウのサインプレー妨害策を伝授され、彼は思わず戸惑った。
『クロちゃんの扇子サインを、シンクロノイズで打ち消すなんて……ルール違反じゃないですか?』
『サインはトレーナーによって違うから、指示妨害などしていないと言えばそこまで。現に、あいつはそれを上手く利用して小汚い試合をよくやっているじゃないか』
『でも……。クロちゃん、目が殆ど見えないからそういうことをするのは可哀想……』
『そこもあいつの思惑通りだ。人のモラルに付け込んで、弱点を狙われないようにする――外道としか言いようがない。外面が良いから、ああいう試合をしても恨まれにくいようだが。……まったく。師匠が屑だと、弟子も屑になる典型例だ。揃って悪辣な師弟など、たちが悪い』
ため息をつくヤナギに、イツキは口を噤む。何やら確執があるようだが、巻き込まれるのは面倒なので、問い詰めるのはやめておいた。
『うーん、だからって同じレベルに落ちるのはな……』
『貴様は最終的に、どういうポケモントレーナーになりたいんだ?私には貴様のビジョンが全く見えないのだが』
『それはもちろん、チャンピオンです!ワタルみたいな……、正統派バトルトレーナー!』
するとヤナギは彼に背を向け、無情に切り捨てた。
『ならば、今すぐ手持ちを全て逃がしてドラゴンポケモンを育成しろ。まあ貴様のメンタルと財力では、あの気難しい竜どもを育てるなど無理に等しいがな』
『ぼ、僕は曲がりなりにも四天王です!お金はあります。多分ヤナさんより貰ってます!』
『貴様、ドラゴンポケモンの年間育成コストを知っているのか?税金、餌代、医療費、トリミング、保険等……全てまとめて、だ』
ポケモンを育成するには、費用が掛かる。ただ戦わせればいいというものではない。一定数ならばポケモンリーグから補助が出るが、プロとして百近くのポケモンを所有する場合はそれでは賄いきれない程、膨大な金を要するのだ。
『ワタルは何も言ってないけど……、例えばカイリュー一匹で僕のカスタム・リトルカブ一台分とか……』
『カイリューならば高級外車が買える!ドラゴンの育てにくさと必要コストはポケモンのタイプ随一だ』
それを聞いてイツキは腰を抜かした。ワタルは良い家柄の出と聞いていたが、普段全く金の話をしないし、金欠という様子も感じられない。いつも余裕に満ち溢れているが、維持には苦労しているのだろう。彼は改めてチャンピオンの器量を見直した。
『エスパーで良かった……。それでも毎月の費用は、結構痛いけど……。それを気にしないワタルはすごいなあ』
『そうだろう、あいつはよくやっている。正攻法で戦いたいのならば、相応のリスクを負わなければならない。その問題をクリアし、且つ充分な実力を付けたからこそチャンピオンの椅子に座っていられるのだ。貴様も、エスパータイプのみを使うというポリシーがあるのなら、その利点を活かした試合をすべきだ。打たれ弱いエスパーが、正々堂々真っ向勝負など片腹痛いぞ』
『……僕はワタルみたいなヒーローにはなれないってことですか』
『違う道から同じゴールを目指すことも可能だ。だが、自分がプロだということを忘れるな。プロは結果が全て!プロセスにばかりこだわっていては、己を見失う。特には非情になる勇気も必要だと、私は思う。それが嫌ならアマチュアに戻ればいい』
イツキは時々こんなプロの冷徹さを垣間見て、ふと覚めてしまうことがあった。昨年のデビュー戦直前、無理な修行をして骨折した時も、仲間はさほど自分を気遣ってはくれなかった。代わりはいくらでもいる――そんな本音が痛いほど突き刺さる。この謹慎はかなりの温情だ。
(それでも僕はチャンピオンになりたい)
ならば受け入れなければならない。エスパータイプで戦うと決めた以上は……。
「僕はエスパータイプでチャンピオンになる男だから!チョイ悪くらいがちょうどいいんだ。キョウさんみたいなね」
イツキはにっこりと微笑む。
「ふん。褒めてるのか、それは?」
キョウは呆れながら、羽織をベンチへ向けて乱暴に投げ捨てた。一着数十万円は下らないが、今はそれを気にしている場合ではない。彼はすぐにクロバットの元へ歩むと、背中をさすりながら相手の位置を伝える。
「南東3メートル先に、ターゲット!翼で撃て!」
彼女は頷くと、羽音を立てずにチリーンへ疾駆する。イツキは声を上げた。「リンリン、迎え撃つんだ!サイコキネ――」再び念力を仕掛けようとしたチリーンに、キョウはがなり立てる様に妨害を指示した。
「怪しい光!」
チリーンの足元から現れた蝙蝠が、不気味な光を放出する。それは精神を冒し、チリーンを恐怖で支配した。風鈴の音が止んだほんの一瞬の隙をつき、キョウが扇子を振る。聞き慣れたシグナルが戻ってきたことで、クロバットは嬉々としながら空へ舞い上がった。視界はずっと霞んでいるが、その音を聞いただけで世界は瞬く間に鮮明になった気がした。
「アクロバット行くぞ!」
またいつノイズに消されるか分からない。キョウはテクニカルエリアを疾駆し、クロバットの真下に付きながら声を張り上げた。これほど絶叫したのは久しぶりだ。煙草に喉を潰され、思ったより発声ができないことに驚く。
「リンリン、上からクロちゃんが降りてくるよ!ハイパーボイス!!」
イツキの弾むような若々しい声を聞き、チリーンは直ぐに反応する。空から急降下してくるクロバットを迎え撃つように大きく息を吸い込むと、スタジアム全体を震わせるような大音声を――発声する前に、蝙蝠が先手を打って不協和音のような金切声をあげた。チリーンは肝を潰し、出かかっていた声を呑みこむ。その隙をついてクロバットは軽やかに翼をチリーンに叩きつけ、再び天井へ飛び上がった。
「大丈夫、リンリン!?驚かされちゃったね」
やや混乱気味のチリーンを、イツキが傍に寄って宥めながら、そっと耳打ちする。
「……反撃するよ。まずはもういっちょ――シンクロノイズ」
再度、フィールドに風鈴の涼しい音色が響き渡る。キョウとクロバットにとってはノイズでしかなかった。
「鬱陶しい!クロバット、追い風!」
クロバットは心を鎮めながら、ゆっくりと羽ばたいて風を巻き起こす。風音でノイズが少しは軽減されるか――そう思われた時、イツキはしめたとばかりに笑みをこぼした。
「リンリン、サイコウェーブで風向きを変えちゃえ!」
チリーンは念力で風を歪ませると、みるみる竜巻へと変化させ、クロバットを捕えた。キョウはテクニカルエリアからその動向を追おうとするが、既に息が上がって鉛の様に身体が重い。彼は横腹を抑えながら、唾を吐き捨てた。
(情けねえ……)
明らかに動きが悪くなったキョウを見て、イツキは勝利を確信した。もうペースはこっちのもの。畳み掛ければ、勝てる!彼は高鳴る気持ちをそのままに、早口で命令した。
「リンリン、クロちゃんを確保するよ!」
クロバットの周囲に吹き荒れていた暴風が、うねりながら緩く変化していく。
「トリックルーム……!」
その技にキョウが気づいた時、チリーンが蝙蝠の目の前へ浮かび上がってきた。
「行くよ、リンリン!サイコキネシスだ!!」
不思議な念力の小部屋に閉じ込められたクロバットめがけて、チリーンは体中の念力を絞り出すような渾身のサイコキネシスを放出した。全身を袋叩きにされるような衝撃が走り、クロバットの意識が飛ばされていく。ここで気を緩めては、敗北してしまう。主人の顔に泥を塗ることなんて、絶対にしたくない――彼女は歯を食いしばりながら、なんとか激痛を耐え抜いた。しかし命を繋いでも、もう羽ばたく余力がない。
「クロバット!」
フィールドから主人の声と扇子の音が聞こえた。
勝たなければ……。
「すごい、耐え抜いた!リンリン、もう一度サイコ――」
イツキが命じるより早く、クロバットが動いた。身体を回転させ、激痛を堪えながらチリーンを翼で一閃、怯んだところへ牙を突き立てた。二匹はもつれ合いながらフィールドへ落下する。
「うわああっ、リンリン!」
まさかの“しっぺ返し”に、イツキは悲鳴を上げる。サイコキネシスで仕留めたと確信していたのに、ここまで動けるとは予想外だったのだ。それは観客やワタルを始めとする関係者も同様で、スタジアム全体が騒然となった。彼らの視線は、フィールドに崩れ落ちた二匹のポケモンに集中する。
「さあ、立ち上がるのはどっちだ!?」
喉を嗄らして実況席の窓に張り付くアナウンサーを横目に、ワタルも息を呑んだ。フィールド上に突っ伏したポケモンの背がぴくりと反応し、人々の興奮をかき立てる。
「立ち上がったのは――」
満身創痍の身体が起きあがった。
「クロバットだああ!!!」
大地を震わせるような大歓声が沸き上がり、クロバットの勝利を称える。彼女は傷だらけの翼を主人に掲げて、死に物狂いで掴み取った白星を嬉しそうにアピールした。今にも倒れてしまいそうな痛々しい姿に、キョウは笑みを浮かべず唇を噛みしめる。この表情が彼女の視界から見えていないのは幸運だろう。
そんな一人と一匹の距離を見つめながら、実況がワタルに尋ねた。
「しかし――キョウにはもう戦える余力がありません。ワタルさん、彼はここからどう攻めると思われますか?最後まで戦ってくれるのでしょうか!?」
「いや、残念ながら……」
ワタルの予想通り、キョウはアンパイヤ席に向けてクロスさせた両手を掲げ、降参をアピールした。これにより、タイトルマッチ第2戦は、2勝1敗でイツキの勝利が確定する。三番手に負け、相手が降参という終幕をイツキはやや不服に感じつつ、健闘したチリーンを激励しながらボールへ戻した。
「お疲れ、リンリン。すぐに回復させるからね」
勝利によって軽くなった足取りで、アンパイヤ席へ向かう。そこには既に、息切れして疲弊した様子のキョウが苛立ちながら待っていた。
「ありがとう、キョウさ……」
イツキが会釈するより早く、キョウは左手で彼の右手を掴むと、無理やり握手をしてすぐに解放した。
「今頭に血が上ってるから、復帰祝いはまた改めて」
彼は憤りを押さえつけながら、極めて静かな口調で言い放った。圧倒する様な雰囲気にイツキは「ハ、ハイ……」と小さく頷いて委縮する。
「二勝目おめでとう。次も頑張れよ」
小さな肩を乱暴に叩くと、彼はそのまま踵を返す。息が詰まる様なひと時から解放され、イツキはほっと胸を撫で下ろした。
(やっぱり、ダーティプレーは勇気いるよ……)
+++
すこぶる機嫌を損ねて帰還したキョウに、カリンが「お疲れ様」と言いながらタオルとスポーツドリンクを手渡した。彼は「おう……」と低い声で礼を言いつつ、後列のシートに深く腰を下ろす。
「とんだ泥仕合だったな。こんなひどい試合は見たことがない」
隣に座っていたシバが、率直な感想を口にした。他のメンバーならばここで口論になっているところだが、キョウはもう言い返す余力もなく、ただ深い溜め息をついた。
「すみませんねえ……。あいつ、一月で可愛げがないクソガキになっちまったなぁ。ヤナギのジジイに育てられると、弟子の性格が悪くなることを忘れてた」
「ひどい言いようね。それがセキチク名家の旦那様の言葉?幻滅しちゃう」
前列のシートから振り返って睨みつけるカリンを見て、キョウはすぐに訂正する。
「冗談だよ。それにしても、ポケモンバトルでこんなに走ったのはトキワの慈善イベント以来だ。はあ……、体力無くなったなぁ……。煙草やめようかな」
これまで運動不足をサインプレーで補っていたキョウは、反省したように肩を落とした。明日は筋肉痛だろう。突然の禁煙宣言に、カリンは目を丸くする。
「あら、もうすぐ梅雨明けなのに。また大雨になるのはイヤよ」
対して、シバが嬉しそうに口を挟む。
「何を言う、いいキッカケだ。とっとと禁煙して、おれとシロガネ山で訓練し、強靭な肉体を作ろうじゃないか」
「それは勘弁」
一刀両断され、シバは閉口した。
「でも、正直イツキがここまで来るとは思わなかったわ。試合見てても、ちゃんとステップアップしているようだし……。私も協力してあげなくちゃね」
カリンは履いていた15cmのピンヒールを8cmの物に脱ぎ替えながら、自分の出番に向けて支度を始めた。レザーパンツに通したベルトに、何も装飾のないボールをセットする彼女を見て、シバが思わず引き止める。
「やはり、あの手持ちを使うのか……?」
「そうね、ここまでたどりついたんだもの。リクエストに答えてあげなくちゃ」
その言葉にキョウは感心しつつ、ベンチシートへ身体をうずめた。
「優しいねえ。イツキが無断欠勤した時は、あんなに怒ってたのに……」
「頑張ってる子には手を差し伸べるわ。だからといって、花を持たせてあげるつもりはないけどね」
彼女は微笑むと、意を決してベンチから立ち上がる。
バトルフィールドの整備が終わり、いよいよ四天王最終戦が始まろうとしていた。