第6話:挑戦
翌――7月1日。
雲一つないセルリアンブルーの空は、近づいてくる夏を感じさせる。そんな空の下で生活する人々の多くは、朝から沸き立つ期待を抑えきれずにいた。誰かと顔を合わせるたびに皆同じ話題を繰り返し、夕方の試合が待ち遠しいね、と締め括るのだ。
「それでは、これにてジョウト・ジムリーダー月例を終了します。お疲れ様でした」
夕方5時。コガネシティ市営総合センターの会議室では、ようやくジョウトジムリーダー達による定例会議が終了したところだった。司会が場を締めたと同時に、ヤナギは荷物を手早くまとめて席を立つ。
「ヤナさん、どうですか。今夜一杯?」
会議テーブルの向かいに座っていた、がっしりとした体格の中年男性がヤナギに向けて杯を飲む仕草をする。彼はタンバシティ・ジムリーダーのシジマである。
「結構」
ヤナギは氷の矢を放つように、素っ気なく返した。シジマは思わず肩をすくめる。すぐに会議室を出て行った彼を見て、マツバは慌てて書類をまとめ、後を追った。呼び止める後輩アカネを振り切り、廊下へ。前を歩く小さな後姿の肩を叩こうとしたとき、マツバは思わず「あっ」と声を上げた。
「何だ?」
怪訝そうに振り向くベテラン。その手には、ワンセグが起動された二つ折りの携帯電話が握られている。彼はさりげなく画面に掌を被せようとしたが、スピーカーからハイテンションの実況が音漏れしていた。
『さあ――いよいよ始まります、今夜のセキエイ・タイトルマッチ!今日はスタジアムの熱気が普段とは桁違いです。なぜなら、彼が戻ってくるからです。挑戦者として……!』
クールに澄ましつつも、やはり6年ぶりに育てた弟子の試合は見逃せないようだ。口を一文字に結び、気恥ずかしそうに視線を逸らすヤナギに、マツバは衝撃を受けつつ、トートバッグからタブレット端末を取り出した。
「こっちの方が、画面大きいです」
「……」
ヤナギは仏頂面を作りながら携帯を折り畳むと、それをポケットに仕舞い込んだ。大きくなったディスプレイでは、タイトルマッチのオープニングセレモニーが放送されている。大歓声を受け、北側ベンチの奥から現れる“三人の四天王”。
『そして、今夜の挑戦者は3人!注目は勿論この人!』
フィールドの反対側、南側ベンチから現れたのは3人の挑戦者。通常より声援が厚みを増しているのは、そこに彼がいたからだ。
『スランプ、そして一月の謹慎を経て――帰ってきましたセキエイスタジアム!復帰はいきなり仲間への挑戦状!さあ、彼はチャンピオン・ワタルへたどり着くことができるのか!?今夜、伝説の試合を見守りましょう!四天王・イツキの挑戦がいよいよ始まろうとしています』
大袈裟な煽りと共に、イツキの顔が画面に映し出される。小さな唇を固く結び、フィールドの反対側に並ぶ仲間たちを猛勇な眼差しで睨み据えていた。昨日までのお調子者の雰囲気は影をひそめ、すっかりプロトレーナーの佇まいを取り戻している様子に、ヤナギは感心する。
「俺も今夜のタイトルは気になってて。実は、イツキと賭けをしているんです」
苦笑するマツバに、老ジムリーダーの眉が僅かに動いた。
「ほう」
興味を示したヤナギを見るなり、マツバは嬉しさからこみ上げる興奮をそのままに誘いの言葉をかけた。
「良かったら、ここのカフェスペースで一緒に観戦しませんか。あいつの勇姿を見届けないと」
「……いいだろう」
マツバはほっとしながら、相好を崩す。予定では事務仕事が残っているのだが、憧れの男と試合を見られるチャンスを逃すわけにはいかないと、知らないふりをした。
+++
イツキ以外の挑戦者達は四天王一人目でストレート負けを期してしまい、あっという間に夢破れてしまった。仲間達は今夜も平常運転のようである。
イツキはベンチ裏の挑戦者控え室のモニターでその様子を気にしつつ、手持ちポケモンのコンディションをチェックしていた。ヤナギに指示され、ポケモン免許端末にインストールしたチェッカーアプリは確認項目が多く、作業にとても時間がかかる。挑戦者用の控え室は殺風景で、長テーブルとパイプ椅子、モニターしか置かれておらず、普段使用しているプロ用ロッカールームとは雲泥の差があったが、彼はチェックに集中しているお陰で居心地の悪さなど少しも気にならなかった。
「イツキさん、そろそろ出番ですので……」
もたついている彼を見て、スタッフが申し訳なさそうに尋ねる。
「うん、あと3分で終わります」
イツキは笑顔でそう返しつつ、再び画面に視線を落とした。
以前の自分であれば、コンディションのチェックなど時間の無駄、と放り投げていただろう。だが今は違う。
(プロなら常に、最良のメンバーで挑まなきゃ)
データを分析し、第一試合のメンバーを選出する。彼は持参した数十匹のポケモン達をボールからすべて出すと、皆をゆっくりと見渡し、彼らの緊張を解く様に微笑んだ。
「準備OK!ふふふ、この試合を見ている全員を驚かせてやろうね!僕はさ、もう君たちを二軍だなんて思ってないから。みんな僕の親友、そしてスターティングメンバーだ!だから気負いせずに、思いっきり全力を尽くしてほしい。僕が君たちを勝利へ導く!」
これからのポケモンバトルが待ちきれない、とばかりに目を輝かせるイツキの姿は、ポケモン達のプレッシャーを残らず取り払って更なる忠誠心を生み出した。この主人ならば、一層高みへ上ることができる、安心して戦えると思わせるのだ。
「イツキさん、お願いします」
フィールドの準備が完了したとのシグナルを受け、控え室に待機していたスタッフがイツキに呼びかけた。
「はい!」
イツキはポケモンをボールに戻すと、三個選んで腰のベルトに装着し、壁に貼り付けられた姿見で自分の服装をチェックする。赤い眼鏡に、ドット柄シャツとブルーのカラーパンツには染み一つない。赤いスニーカーをつま先で鳴らし、履き心地に問題がないことを確かめた。これらは彼が四天王試験の最終面接で着ていた服装である。
(ちょっと地味だけど、原点回帰!ここからスタートしたんだから……)
軽快なステップで南側ベンチへと向かう。試合に対する恐怖はなく、足は自然と自分をステージへ案内してくれる。通路を進むごとに、徐々に大きくなっていく声援。通路脇でスタンバイしている警備員やスタッフが、「頑張れ!」と激励してくれた。誰も自分を見捨ててはいない。むしろ、これほど多くの人々に支えられ、改めて自分が恵まれているという幸福を噛みしめるのだ。
(期待に添わなきゃ)
ふいに、視界が明るくなった。彼がベンチへ足を踏み入れた瞬間、今日一番の大歓声が出迎えてくれた。
(帰ってきた!)
逸る気持ちを抑えつつ、イツキは深呼吸してフィールドへ降り立つと、まずは深く頭を下げてその場をどよめかせた。
これはスタジアムへ敬意を表すと共に、観客に迷惑をかけたことを謝罪するためだ。イツキはしばらく頭を伏せた後、ゆっくりと視線を上げた。戸惑うような歓声が再び興奮へと変わっていく。フィールドの反対側には、半裸の大男が腕を組んで仁王立ちしていた。まずは一番手。指名したのは、シバだ。挑戦者はタイトルマッチの対戦相手を四天王の中から自由に指名できるが、イツキは迷わず彼を選んだ。
テクニカルエリアを周り、審判席の前で仲間と握手を交わす。仏頂面のシバを見て、イツキは自信たっぷりに微笑んだ。
「久しぶり!なんで一番最初に指名したか、わかる?」
「知らん」
素っ気ない一言。イツキは気にすることなく、得意げに話を続ける。
「いっつも、僕の後に出番が来てたでしょ?だからトップバッターがどんなものか経験してもらいたくってさ」
「……ふん。いい試合を」
そう言うなり、シバは身を翻してポジションへと戻って行った。その逞しい背中は、謹慎前に見た姿と何ら変わりがない。それは北側ベンチで観戦しているキョウとカリンも同じことだ。この異様な興奮に包まれたスタジアムの中においても、至って普段通りの仲間たちの姿に、イツキは妙な安心感を抱いた。それをきっかけに戻ってくる試合の感覚は、まるで自分が挑戦者を迎え撃つ側だと錯覚させる。これは仲間達なりの気遣いなのかもしれない――そう考えた時、イツキの目頭が少しだけ熱を帯びた。
(でも、僕は負けないよ)
定位置につき、ベルトからモンスターボールを一つ取り外す。
対峙する四天王に、スタジアム全体が息を呑んだ。かつてない異様な空気に、実況席に座っているワタルも口を噤む。フィールドのセンターライン上に、審判席から赤いフラッグが下ろされた。一瞬の静寂の後――戦いの火蓋は切って落とされる。
『プレイボール!』
旗が振り上げられると同時に、二つのボールがフィールドへ投入された。
「行けっ、エル!」
イツキが繰り出したのは、エルレイド。かたや、シバが選んだのはサワムラーである。格闘ポケモン対決と言うことで、スタジアムが一気に沸き上がった。
その盛り上がりは、実況席も同様である。
「なんと、まさかの格闘ポケモン対決……!どう見ますか、ワタルさん」
早口でまくしたてるアナウンサーの問いに、ワタルは興奮を抑えつつ、一つずつ言葉を紡いだ。
「ええ……。格闘使いでシバの右に出るものはそういません。最近彼に格闘ポケモンで挑む挑戦者が激減したほどに、です。あえてこのセレクトというのは、かなりの自信が現れていると、いうか……」
ようやく解説の仕事にも慣れてきたというのに、そんな単純なコメントしか出てこない。復帰戦でいきなりエルレイドとは……。
「ふん、おれに格闘対決を挑むとはいい度胸だな。――サワムラー、格の違いを見せてやるがいい!回し蹴りだ!」
シバはこれを半ば侮辱と捉えつつ、憤りを噛みしめながらサワムラーに指示を出した。風を切りながら、瞬時にバネのような蹴りが飛んでくる。イツキは右手を払い上げ、指示を叫んだ。「エル、テレポート!」エルレイドの鼻先まで足の裏が迫ってきた所で、彼はサワムラーの膝の上へと瞬間移動した。シバとサワムラーが目を見張る。バネ状の脚の上を駆けながら、エルレイドは相手の懐へ飛び込んだ。
「サイコカッター!」
驚愕するサワムラーのボディめがけ、エルレイドが手刀を振りかぶる。
「させん!」
シバの怒号と共に、サワムラーが身体を捻って伸ばした足を引き戻した。カムバックする蹴りと、エルレイドの剣、どちらが早く相手に届くのか――観衆が息を呑んだと同時に、イツキが頭を振り立てる。
「それは想定済みだよ。エル!」
足が飛んでくる寸前で、エルレイドはサワムラーの腿を蹴って宙へ飛び上がった。「早い……!」軽やかな動きには、百戦錬磨のシバさえも思わず息を呑む。それは北側ベンチで観戦しているキョウやカリン、解説席にいるワタルも同様であった。
「そして――眉間にサイコショックだ!」
主人の声を受け、エルレイドは宙を舞いながら念力を素早く具現化する。この間合いでは横へ避けるには遅いため、シバはすかさず「サワムラー、守れッ!」とポケモンに命じた。サワムラーは、身体をやや屈めて両腕を交差させ、守りの態勢を取る。
「“ちゃんと”狙いなよお!」
イツキがエルレイドに目配せすると同時に、彼は空中で一回転しながら実体化したパック上の念力を右腕で叩きつける。強烈なショットは、真っ直ぐにガード状態のサワムラーの元へ――行くと思われた。だが寸前でコースを逸れると、大きく弧を描いてそのまま背中へ食い込んだ。正面しか防御していなかったため、ノーガードのサワムラーの背中には激痛が走り、彼はうめき声を絞り出しながら前へよろめく。
「な……!」
シバが呆然とした隙に、イツキはさらに畳み掛ける。「さあエル、トドメだ!」フィールドへ着地したエルレイドは、両手を広げながら再びサワムラーの懐へ潜り込んだ。迫り来る相手を見て、シバがすかさず声を張り上げる。
「サワムラー、カウンターだ!」
身体を捻り、拳を突き出そうとした瞬間――サワムラーの懐から強力な念波が突風の様に巻き起こり、彼はそのまま後方の見えないフェンス中段へと叩きつけられた。決まり手はサイコキネシス。サワムラーは意識を失い、そのままフィールドへ崩れ落ちる。
戦闘不能を告げるフラッグの先導で、スタジアムは一斉に沸き上がった。嵐のようなスタンディングオベーションが、イツキの背中を後押しするように吹き荒れる。
(嬉しい!本っ……当に嬉しい!!)
彼はエルレイドに右手を挙げて激励を送りつつ、その喜びを十分に噛み締めていた。
戻ってきたスタジアムでの初白星は試合への怖れを完全に取り払い、闘争心を過熱させる。浮かれる自分を睨むシバに気付いたイツキは、慌てて気持ちを切り替えると、白い歯を見せた。
「“インファイト”が来ると思った〜?僕はエスパー使いだからね!イザとなったら念力で勝負するよ。そもそもシバと真っ向格闘対決なんて馬鹿な真似しないから」
「なるほどな……。だまし討ちは本当に嫌いだが、お前はエスパー使いだから仕方ない。次は勝たせん」
次にシバが選んだのはハリテヤマである。体格差のある無差別級の格闘試合は、宣言通りシバが制した。しかし、エルレイドも簡単にのされてしまった訳ではない。出来る限り相手の体力を削り、二番手のエーフィで巨漢を打ち崩して見事2勝目を挙げ、シバを追い詰めた。一ヶ月の謹慎は無駄ではなかった――試合を見ている誰もが、舌を巻く。それはコガネシティ市営総合センターのカフェテリアにて、ワンセグで試合を観戦しているマツバも同じであった。
「うおっ、あいつやるなぁ。エルレイドやエーフィって前は滅多に使わなかったのに……」
隣に座っているヤナギがコーヒーを飲みつつ、頷いた。
「そう、あいつは手持ちが偏っていた」
修行開始時、イツキは二軍を鍛え直すと宣言したはずなのに、トレーニングをするのはルージュラばかり。すぐにヤナギはそれを指摘し、改善させた。
『プロはポケモンを均等に鍛えなければ生き残れん!全手持ちメンバーのトレーニングスケジュールを組み、効率よく強化していかねばならんのだ。ただ練習しているだけでは上達できんぞ。頭を使え!』
そう言って、昔から使っていた横長のスケジュールシートを突きつけた。過去に弟子を取っていた頃は、これをまず最初にやらせていた。イツキは2時間ほどかけてタイムスケジュールを組み上げると、得意げに師匠へと掲げる。
『できました!ヤナさん添削してください』
『添削って……私は教師じゃない!とりあえずそれで回してみて――』しかし穴だらけの訓練予定は彼の目に嫌でも入ってくる。『お前、こんなぬるい修行でどうする!四天王だろう、まだやれるはずだ!』
悪態をつきつつ面倒見がいいヤナギに、イツキは思わず笑みを溢した。そんなことを回想していると、固く結ばれた老ジムリーダーの口元もほんの僅かに綻んでくる。
「ヤナギさんがあいつの偏り癖を直したんですね。素晴らしい!俺もぜひ教えていただきたいです」
何気ないマツバの一言に、ヤナギは照れた顔を伏せつつ「……うむ」と呟いた。
一方、残り一匹と追い込まれたシバは、最後に相棒のカイリキーを繰り出した。
「復帰戦とはいえ、後ろには行かさん!ここで終わらすぞ、カイリキー!」
大人気スターの相棒の登場に、スタンドは一気に熱を帯びた。観客総立ちのまま、カイリキーを大きな拍手で出迎える。四天王同士が戦うマスターシリーズで何度も経験した、思わず怯んでしまう瞬間。しかし今回、イツキは動じなかった。大きく深呼吸した後、交代のアピールをしてエーフィをボールに戻す。
「残念だけど、ここで敗退するのはシバの方だよ。僕はここで負けるわけにはいかない!必ずワタルの元までたどり着いて、あいつをチャンピオンの座から引きずり降ろしてやるんだ」
余裕たっぷりに笑うイツキを、シバが一蹴する。
「威勢だけは充分だな」
いつもならここで煽りに乗ってしまうイツキだが、気にすることなくサラリと右へ流した。
「それは今までの僕ね。ちゃんと実力が伴っているところを見てもらうよ。――GO、チャム!」
声を上げ、フィールドに投げ入れたボールから登場したのはチャーレムだった。再び訪れた無差別格闘戦に、スタンドは大きくざわついた。そんな空気を意に介せず、チャーレムはボールから現れると、両手を合わせて丁寧にお辞儀をする。
「OK!じゃ、さっそく行くよ!チャム!!」
イツキが指を鳴らすなり、チャーレムは仁王立ちするカイリキーめがけて弾かれるように疾駆した。「カイリキー、当て身投げだ!」シバの指示を聞き、カイリキーは4本の腕を広げてチャーレムを迎え撃つ。この技には何度捕獲され、赤子の手を捻るように倒されてきたことだろう。それだけシバのカイリキーは圧倒的なのだ。イツキはチャーレムに注意を促す。
「リキさんの上半身に捕まったら終わりだから気を付けて。ローキック!」
チャーレムは腰を落とすと、素早く身体を捻ってカイリキーに足払いを掛けた。シバがテクニカルエリアを駆けながら、声を張り上げる。
「その程度でおれのカイリキーは倒れん!そいつを掴め!」
さすがにプロの純格闘ポケモンを転倒させることは不可能――カイリキーは踏みとどまりながらチャーレムに腕を伸ばした。
「だから真っ向勝負なんてしないってば!チャム、カイリキーの足に……テレキネシス!」
その命を受け、チャーレムはすかさずカイリキーのふくらはぎ目掛けて念力を放った。伸びてきた20本の指は離れていき、カイリキーが回転しながら浮き上がる。
「飛び膝蹴りをお見舞いだっ」
チャーレムは助走をつけてフィールドを蹴ると、そのまま飛び上がってカイリキーの顔面に膝をめり込ませる。強烈な一撃に鼻血が吹き上がったが、カイリキーは歯を食いしばって痛みに耐え、チャーレムの踝を掴んだ。これしきの苦痛など、主人の過酷なトレーニングと比較すると軽いものだ。
「カイリキー、地獄車!」
カイリキーはチャーレムをホールドしたまま、頭からフィールドへ叩き落とした。
「これは決まったか!?」
実況席で中継していたアナウンサーが腰を浮かせる。隣に座っているワタルは、前のめりになりながらも冷静に告げた。
「いえ……。まだチャーレムは気絶していません」
そのコメント通り、チャーレムはよろめきつつもすぐに持ち直してファイティングポーズを取る。その雄姿を称える観客席の拍手に合わせ、ワタルもデスクの下でこっそりガッツポーズを作った。
(成長しているじゃないか、イツキくん!やっぱり君はスランプで立ち止まるトレーナーじゃない)
傷付いたチャーレムに、イツキは自己再生を命じて痛みを和らげさせる。治癒が終わってすぐ、シバが動き出した。
「準備はいいか!?いくぞ、クロスチョップ!!」
飛びかかってくるカイリキーから振り下ろされる4本の手刀。
「別に回復を待たなくてもいいよ!チャム、見切りだ!」
チャーレムは降り注ぐチョップの軌道を読み切って、巧みにかいくぐっていく。「そんで……発勁!」屈めた身体をバネのように反発させ、掌に渾身の力を籠めてカイリキーの顎を狙い撃った。チョップの隙を突いた攻撃は見事命中、軽い脳震盪が相手に襲いかかる。「決まった!」イツキはチャーレムに目配せした。
「持ち直せっ、カイリキー!」
シバの声が、カイリキーの脳内に反響する。彼は何とか意識を手繰り寄せようとするが、視界は純白で何が起こっているのかすら理解できない。舌打ちするシバの背中に、ベンチから「脳震盪は精神論じゃどうにもならんよ」と呟くキョウの言葉がちくりと突き刺さった。
(そんなこと分かってはいるが、おれは負けたくない!エスパー使いの格闘ポケモンに負けるなど、屈辱だ……っ!)
カイリキーの意識が戻りかける寸前、チャーレムが彼の懐から跳躍する。身軽な身体はカイリキーの頭の高さまで浮き上がり、そのまま膝で相手の首を押さえ込んだ。
「振り落とせ!!」
「チャム、決めちゃうよ!――思念の頭突き!!」
チャーレムは腿でカイリキーの頭を固定したまま、身体を大きく逸らして勢いをつけると、ありったけの思念の力を込めた念を相手の脳天に打ちつけた。物理的な激痛と共に、耐えがたいエスパーの念力がカイリキーの精神を引き裂いた。戻りかけていた意識は完全に吹っ飛び、彼は仰向けにフィールドへ崩れ落ちる。チャーレムはカイリキーの頭の拘束を解いて軽やかに地面に着地すると、アンパイヤ席を一瞥する。とどめを刺したのは分かっていた。
「カイリキー、戦闘不能!」
怒涛の勢いで押し寄せた大歓声が、雨となってイツキに降り注ぐ。それはシャワーのように心地よく、一か月の猛特訓に耐えた彼を優しく労ってくれた。イツキは込み上げてくる涙を堪えながら、自分の元に歩んでくるチャーレムを笑顔で祝福する。
「グッジョブ、チャム!」
すると彼は照れ臭そうに両手を合わせ、恭しく主人に頭を下げた。イツキもそれを真似し、スタジアムはさらに拍手喝采の渦に包まれる。戯れを後押ししてくれる会場の空気感は、とても愉快で気分がいい。なんて楽しいステージなんだろう――イツキの頬が緩む。
「……少しは成長したようだな」
シバがイツキの元へ歩み、試合後の握手を求めた。彼から手を差し伸べるとは大変珍しい。イツキは目を丸くしつつ、白い歯を見せる。
「見直した?ちょっとだけ、僕を見くびってたでしょ」
「さあな。おれは来週のマスターシリーズで必ずお前にリベンジする。覚えていろ。そして、次も頑張れよ」
彼はすぐに握手を解くと、大きな背を向けてベンチへと戻って行った。
「ありがとう!」
イツキは微笑みながら、その姿を見送る。スランプ時は大岩の様に逞しく、気後れさえしてしまった後姿が、今はほんの少しだけ丸く見えた。
復帰初の試合は見事勝利で飾ることはできたが、まだまだタイトルマッチは続いている。彼は気を引き締め直し、挑戦者側ベンチへと踵を返していった。
「惜しかったわね」
北側ベンチに戻ってきたシバを迎えたのは、カリンのやや冷めた言葉だった。
「プロに惜しいも何も、関係ない。負けは負けだ。しかし次は同じ結果にならないよう、今夜から精進するのみ」
シバは素っ気なく答えると、脇に置いてあるスポーツドリンクとタオルを掴んでいつもの席へと戻った。二列になっているベンチシートの後列壁際は彼が死守している定位置である。相変わらず生真面目な仲間にカリンは呆れ返りつつ、今度は隣に座っているキョウに尋ねる。
「次は多分、オジサマが指名されるわね。いつも不利な相性でも完勝してるけど……さすがに今回はピンチかもね?」
「そうだな……。ま、いつも通りやるさ」
普段の調子で飄々としている彼を見て、シバが後ろから口を挟んだ。
「キョウ、気を付けろ。あいつはこれまでと少し違うぞ。雰囲気が変わった」
「へえ、“アニキ”がそんなこと言うなんて珍しいな」
「茶化すな、これは忠告だ。カリン、お前もだ」
「ふうん。確かにイツキ、ちょっとだけ凛々しくなったけど……。一月でそんなに変わるものかしら?」
カリンは首を傾げる。
「まあ、あいつを鍛えたチョウジジムのヤナギさんの育成力には定評があるからな」
イツキが受け入れられてから、キョウの元にヤナギから電話が掛かってくることは一度もなかった――既に着信拒否の設定は解除しているが――身構えていた自分の気持ちが無駄になり、やや残念に感じる。
(さて、どれくらい叩き込んだのか楽しみだ)
ヤナギは自分を鍛えた師匠の、更にその上に君臨していた。必ず対策を入れ知恵しているはずである。彼はイツキではなく、「師匠の師匠」に挑むつもりで深く息を吸い込んだ。