第5話:帰路への階段
三週間後。
この日も朝から鬱蒼とした雨が降り続き、氷の抜け道の気温を下げる。だが、洞内では密かな熱気に溢れていた。巣に隠れていたデリバード達が足を忍ばせ、天然のシャンデリアが下がっているその場所へと覗きに来る。
「アンジー、GO!」
星柄の派手なダウンジャケットを着こんだイツキがルージュラへ指示をすると、彼女は氷の床の上を大きく弧を描きながら滑走し始めた。シャンデリアの真下へ来る直前で、イツキが大きく手を叩く。
「そこで、ジャンプ!」
ルージュラは助走をつけ、氷を蹴って飛び上がった。そのまま空中で二回転半。鮮やかな動きは、まるで大輪の赤い花が舞っているかのよう。着地際、こっそり観戦していたデリバードの群れから小さな拍手が沸き上がった。
「イエーイ★ダブルアクセル成功ー!」
彼がデリバードにピースを掲げて応えていると、奥からヤナギの鋭い罵声が飛んでくる。「遊ぶな!」観客は蜘蛛の子を散らすように去って行った。イツキは無粋、とばかりに唇を尖らせる。
「だって……、セキエイのポケモンバトルには魅せ方も必要ですよー!ショーの側面もあるから……」
「だから最近のセキエイはいかんのだ。利益重視で興行化などしおって……ポケモンバトルに派手さは必要ない!それと何故、デリバード達と勝負しない。貴様、ここ一週間野生のポケモンと全く試合をしていないだろう」
「それが、みんなトレーニングが気になってるみたいでギャラリー化しちゃってて……そうそう、巣を壊したのも和解したんです!たまに差し入れもくれます!」
と、言いながらイツキはスマートフォンに保存していた、差し入れの写真をヤナギに見せびらかした。洞窟の外で採取した木苺で、ポケモンも自分も食べられ、美味しい!……と、軽妙に話す弟子を見て、ヤナギの眉間に皺が寄る。
「馴れ合いしてどうする!」
「でも、僕的には観客がいた方がやりやすいし……。それに、もうここの洞窟にはヤナさんのポケモン以上に強い野生ポケモンはいません。骨がないし、ヤナさんと手合せしてた方が効率的って言うか」
「……まあ、一理あるが」
ヤナギに弟子入りしてから三週間、イツキは目覚ましい進化を遂げていた。師匠の教えをすぐに呑み込み、応用も利いて確実に自分のものにしていくのだ。スランプだったとはいえ、やはり四天王に選ばれるだけの実力がある。ヤナギは舌を巻いた。フランクで礼儀知らずだが、それに目を瞑っても、できる限りその能力を伸ばしてやりたい――久しぶりに、そんな気持ちに駆られたのだ。
「よおーっし!次はエル、いくよ!」
イツキは天然のアイスリンクの上にカラーコーンをいくつか置いていくと、フロアの隅で待機していたエルレイドを手招きする。
「ヤナさん!見ててくださいね。――エル、シャドーボール!」
エルレイドは念力を凝縮してテニスボール大の漆黒の球体を作り出すと、手中に収めたまま天然のアイスリンクを滑走し始める。カラーコーンの間を軽やかにすり抜けていきながら、主人の動向を目の端で確認した。その手には小さなくす玉が握られている。
「これ、狙って!」
イツキが山なりにくす玉を投げると、エルレイドはシャドーボールをリンクに滑らせ、肘のブレードで打ち放った。鋭いジャンプショットは見事くす玉に命中し、粉々に割れて中から黄金色の紙吹雪が舞い上がる。それはさながらダイヤモンドダストで、幻想的な情景に引っ込んでいたデリバードの群れから再度、拍手が起こった。
「ナイスショット!」
イツキはエルレイドと拳を突き合わせ、成功の喜びを分かち合う。これにはヤナギも顎を撫でながら感心する。
「ふむ、精度を上げたな」
「やったー!」
「……だが!くす玉など投げるな!!ゴミはちゃんと片付けておくように。ポケモンが口に入れるかもしれんのだぞ!」
ヤナギがアイスリンクの上に散乱した紙吹雪を指差すと、野生のデリバード達が興味津々に摘み上げているところだった。イツキは慌ててブーピッグに命じ、念力で全て回収する。ほっと一安心したところで、ふと空腹を覚えて腕時計に目をやった。
「あっ、もうお昼ですよ!お腹空いたし、ランチにしましょう!」
「私はジムに戻って一人で昼食をとる」
それを聞いて、奢ってもらおうと思ったのに……とばかりに眉をひそめる弟子を見て、ヤナギはみるみる赤くなった。
「貴様と食事すると、ラーメンだのチャーハンだの……脂っこい物ばかりでウンザリするわ!若いからとはいえ、あんなものを毎日食っていると、そのうちツケがくるぞ」
「寒い場所で修行してると、ラーメンが美味しいじゃないですか〜。朝と夜はマツの不味いけど栄養たっぷりのご飯食べてるから大丈夫です!……じゃー僕は先に出ますね!1時に戻ってきま〜す」
イツキはポケモンをボールへ戻すと、軽快な足取りで洞窟の出口へと向かって行った。置き去りにされ、ヤナギは舌打ちしつつ傍に転がっていた岩の上に腰を下ろす。天井を見上げながら白い息を吐くと、天井に煌めくシャンデリアが目に留まった。
6年前、最後の一番弟子と決別した場所もここだった。
あの日も、やはり雨が降っていた……。
「何故、ジムの金を横領など……」
「組織の運営に必要だからです」
弟子は無表情のまま答えた。ジムリーダーは副業を許されているが、本業を疎かにしてはならない――最初に言い聞かせていたはずだったのに、何故そこまで入れ込むのか。私は頭に血が上るのを感じた。
「ジムより会社が大事なのか?ジムリーダーならば、まずはその職務を全うしろ!」
「本部もリーダーも……ぬるま湯に浸かった屑ばかり。もううんざりだ。俺は新たな道を切り開く」
「ヒーロー気取りか?やっていることは犯罪だというのに……」
あいつは何故か『ヒーロー』という言葉に反応し、目を見開いて吹き出した。
「ヒーロー!?まさか!」
何がおかしい。
だが、その笑いには狂気を感じた。背筋が凍りつくような、異常な雰囲気。
「何をするつもりだ?好きにはさせんぞ。このまま、警察に連絡する。」
手の震えを抑え込みながらポケットから取り出した携帯電話を、奴の傍にいたドンカラスが目にも留まらぬ速さで奪い取り、翼を一振り――粉砕した。宙に舞う部品越しに、弟子が不敵な笑みを浮かべる。
「あなたに俺は止められない。もう、師など脅威ではないのだ。……ああ、教えていただいたスキルは役に立っていますがね。そこは感謝していますよ」
私は恐怖を感じていた。殺されるかもしれない――60年生きているが、この時ほど死を身近に感じることはなかった。
「何がお前を変えたんだ、新人の頃は……」
私の育成が悪かったのか?
お前は教えに忠実で、礼儀もそれなり。毎年最優秀リーダーとして表彰され、私には一番の傑作ともいえる弟子だったのに。
「最初から現在まで、俺は何も変わってはいませんよ」
そう答える眼差しは、氷のように冷たかった。
その時、私は悟ったのだ。この男が私から本当に得たものは何もない。育成など、無意味だということを。
シャンデリアが真っ白な吐息越しに揺れる。
「……だが、それももう辞めだ」
ヤナギはようやく腰を上げると、自身のポケモンを引き連れて出口へと歩き出した。
+++
「あっ」
洞窟の出口を潜り抜けたイツキを出迎えてくれたのは、鞍を装着したカイリューとワタルであった。小雨の中、ロイヤルブルーの傘を差して待っていたようだ。
「やあ、調子はどうだい?」
謹慎中など気にする様子もない笑顔。イツキは戸惑いつつ、小さく頷いた。
「う、うん……。まあ、いい感じ」
「良かった。今からお昼?」
「そ、そうだよ……」
「それじゃ、どう?一緒に。ご馳走するよ」
ご馳走、と聞いてイツキの表情がほのかに明るくなった。セキエイに勤務していた頃は、仲間内でも一番年下ということで奢ってもらってばかりだったのだが、マツバやヤナギは彼が格上ということで必ず支払いを要求してくる。それが不満だったイツキは、ワタルの誘いに容易く釣られた。
「じゃ、じゃあ……。近く美味しいラーメン屋さんがあるから、そこで……」
「いいね、ラーメンって久しぶりだ」
純粋に微笑むワタルを見て、庶民生まれのイツキはつい悪態をついた。
「そりゃ……、チャンピオン様はいつも高い物を食べてるからね!ラーメンなんてB級グルメでごめんなさーい」
ワタルは目を丸くする。
「君だって、よく料亭に行っているじゃないか」
「あ……あれは、キョウさんが連れて行ってくれるから!いいじゃんっ、僕の密かな楽しみなんだよ……!」
「なるほど。それじゃ、復帰祝いはそこにしようか」
「ホント?その言葉、確かに僕は聞いたからね」
ぎこちない空気はいつの間にか雨に流され、二人の足は自然にラーメン屋へと向かっていた。
氷の抜け道から徒歩で10分ほど、国道沿いにそのラーメン屋は建っていた。中へ入ると、昼時というのに誰一人客がいない。それでもイツキは修行を始めてからほぼ毎日通っており、店主とも顔なじみになっていた。いつもの調子で彼を出迎えた店主は、その連れを見て腰を抜かす。
「おじさんっ、豚骨二つ〜!あと餃子二皿!」
イツキはカウンター席に腰を下ろしながら、メニューを見ずに注文した。ワタルは仰天する。
「えっ!?選ばせてくれよ」
「ここ、豚骨ラーメンが一番美味しいんだ!絶対いっとかなきゃ」
「そ、そう……」
店主はお冷を持ってくると、緊張しつつワタルに尋ねる。
「あの……、後で写真とサインをいただいてもいいですか?ファンなんです!私も昔はあなたのようなポケモンマスターを目指していまして」
「構いませんよ」
にこやかに答えると、店主は小躍りで厨房へと入っていく。その様子を見て、イツキは不満そうにわざとらしい声を上げた。
「えー、おじさん僕のファンだって言ってたのに!」
「イ、イツキくんもだよ!」
店の奥から響く狼狽えるような声を聞き、あまりからかわないように……と、ワタルが釘を刺す。
「ここのおじさん、僕が謹慎中でも何にも言ってこなくて居心地いんだ。昔プロを目指してて、その苦労を分かってるみたいでさ。今日はたまたまお客さんがいないけど、ここのラーメンすっごく美味しいんだよ!復帰したらテレビで紹介しまくろうと思うんだ。そしたら行列間違いなしだね!」
と、楽しげに話す彼の姿は、すっかりいつものお調子者のイツキである。それを見たワタルは、テーブルの下に置いていた自身のショルダーバッグからネイティオのモンスターボールを取り出すと、イツキに見つからないよう掌の内側に隠して膝の上に乗せた。こうすればネイティオにも二人の会話が聞こえるのだ。復活した主人の様子を伝えようという、ワタルの配慮である。
「だいぶ立ち直ったようだね。安心したよ。チョウジジムのヤナギさんに弟子入りしているって聞いて、氷の抜け道の前で待っていたんだ」
「うん、いろいろ教えてもらってて。三週間だと何も変わらないと思うでしょ?自分で言うのもなんだけど、目覚ましいほど進化してるんだ。今度のマスターシリーズでは絶対、ワタルに勝つから!そしたら僕がチャンピオンだね」
得意げに胸を張るイツキの声をボール越しに聞きながら、ネイティオは感極まった。そこに、連敗がかさんで自暴自棄になっていた主の面影はない。四天王の最終面接でチャンピオンを倒すと豪語した、あの勢いを再び取り戻したのだ。目頭が熱くなるのを感じていた。
「頼もしいな。良かった、君らしさが戻ってきた感じがする。よかったら謹慎、短くするように掛け合ってみようか?」
それを聞いてイツキは思わず揺らいでしまったが、何とか踏みとどまった。
「だ、大丈夫。みんなには悪いけど……ギリギリまでトレーニングして力付けたい」
「分かった。楽しみにしているよ。今の予定だと、君の復帰戦は7月1日のタイトルマッチだから」
ワタルは感心しつつ、お冷を口にする。
「タ、タイトルマッチかあ。文句言われそうだけど、仕方ないよね……」
あいつは挑戦者より弱いくせに、それを迎え撃つのか?
そんな風に叩かれるのは目に見えていた。見返さなければならないが、復帰を思い出すとまだ腰が重く、憂鬱な気分になることがあるのだ。
「仲間同士の方が、試合はやりやすいんだけどなぁ。でもこれ以上迷惑かけられないし……」
そう溢す彼の姿は、まだどこか頼りない。ネイティオは主人の背中を押したい衝動に駆られた。このようなシーンで、いつもイツキを激励するのは彼の役目だったのだ。羽をぐっと収めながら、話を聞き入る。
まだまだ不安げな仲間を見て、ワタルはふとアイディアを思いついた。
「ところで、イツキくん。君、四天王になる前に集めていたバッジ、どうしてる?」
「へ?何、急に。バッジは使わなかったから部屋に飾ってるけど……」
彼はジムバッジを8個集めていたのだが、セキエイリーグに挑む前に四天王入りした為、それを額に入れて自宅の靴箱の上に飾っていた。もちろんろくに手入れしておらず、現在は埃を被っている。それを聞いたワタルは、嬉々として一つ提案をした。
「良かった。それじゃ、こういうのはどうかな。それを使って、タイトルマッチに挑むんだ。四天王ではなく、一人の挑戦者として。もちろん、それでオレが負けたら君がチャンピオンだ」
「えっ!?」イツキとネイティオの肩が跳ね上がる。
「挑戦者として試合をすれば外部からの文句は少ないだろうし、君的にも復帰しやすいんじゃないかな。こちらは四天王が一人欠けていることになるけど、君の不在を守っている実力者たちだ。簡単に後ろへは行かせないよ。本部にはオレから掛け合ってみるから」
イツキは唖然と話を聞いていたが、確かにいきなり四天王として戻るよりは、挑戦者の方が幾分気が楽である。直ぐにワタルの意見に同意した。
「なるほど……。分かった!じゃあ、それで!」
「決まりだね。一軍ポケモンは返却するよ」
ワタルがネイティオのモンスターボールをテーブルへ置こうと、腕を動かしたとき――イツキは「構わないよ!」と即座に反発した。
「今のままだと、またすぐネオに頼っちゃいそうだから」
ボールの中でネイティオは主人の成長を噛みしめつつ、役目が減った無念さに胸を痛める。そんな思いなどつゆ知らず、イツキはチャンピオンへ向けて、申し訳なさそうに切り出した。
「むしろ……、ちょっと頼みたいことがあるんだけど。このお願い、許されるかな?」
首を傾げるワタルに、イツキはある提案をする。
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「タイトルマッチに挑むーー!?」
その日帰宅したマツバは、夕食の支度をしながらイツキの話を聞くなり、呆気にとられていた。毎晩このように、彼の突拍子もない話に振り回されてばかりである。
「ほら、バッジ8個集めてたじゃん。だから僕にもセキエイに挑む権利がまだ残っているわけで」
「お前ってやつはどこまでも世の中舐めてんな……!!ヤナギさんにすんなり弟子入りするし!!」
マツバは友人に包丁を向けながら憤慨する。これは修行を始めてから三週間、ずっと根に持っていた。憧れのヤナギにどうやって取り入ったのか、気になって仕方なかったのだが、プライドが邪魔をして聞けていなかった。
「これワタルのアイディアだもん、戻りやすいんじゃないかって。すぐ許可が下りたって、ワタルからさっき連絡があったよ。マツもバッジ揃えたらセキエイに挑戦できるんじゃない?」
イツキは飄々としながらマツバの怒りなど、意に介していないようだ。その態度は、彼の怒りを増長させた。
「ぐぐ……。一回戦で負けちまえ!」
「悪いけど、僕はワタルを撃破するよ。そして夢のチャンピオンになるんだ!スランプから復帰のチャンピオン撃破、ドラマティックだよねー!」
そう話す友人の表情は、かつて四天王試験に挑戦した時そのものだ。脇目も振らず、羨ましいほど夢へ一直線のその姿は、マツバ自身の悩みをちっぽけなものへと変えてしまう。改めて才能の差を実感しつつ、認めたくない悔しさで、彼は憎まれ口をたたいた。
「ふん、そう簡単じゃねえよ。無理に決まってる。お前がワタルを倒したら、ハーレー5台買ってやるよ」
「マジ!?言ったね!それ、絶対だよ!約束だからね!」
ハーレー・ダビッドソンを5台、と聞いてイツキの瞳が一等星の様に煌めいた。瞬時に、頭の中に欲しいモデルが浮かんでくる。
「ただしっ!お前が負けたら、うちのジムのトイレ掃除な」
マツバは意地悪く白い歯を見せた。友人は簡単に煽りに乗ってくる。
「いいよ、やってやろうじゃん。そんな簡単なのでいいんだ」
「負けるに決まってるだろうからな」
「な……!それは僕の師匠のヤナさんを侮辱するに等しいよ」
「うるせえよ、その理屈はおかしい!あと、ヤナさんとか気軽に呼ぶんじゃねえ!……まあ、せいぜいトイレ掃除の腕を磨いておくんだな。うちの弟子たちは年食ってるだけあって姑根性すごいぞ。いくら“可愛いイッちゃん”でも、掃除に関しては甘くないぞ」
「平気、掃除なんてしないから。僕の試合、テレビで観ててよね」
「ふん。その日はリーダー月例会議で、そのあと戻って事務仕事だからリアルタイムは無理だ。まあ、夜のニュースで結果見て、慰めてやるから」
性格悪いな……と、イツキは眉をしかめたが、何だかんだ言いつつもここまで気にかけてくれた友人に感謝した。料理は相変わらず酷い味なのだが、それを覗けば最高の友だ。彼は「絶対、VRSCDXを買わせる!」と意気込みながら、見た目だけはいい出来立ての料理をテーブルへと運んでいく。
+++
6月末日、ヤナギとの修行最後の日。この日も朝から雨が降っていた。
氷の抜け道深部にある、氷柱のシャンデリアが降りるフロアは、隅々まで緊張感に満たされていた。岩陰から野生ポケモン達が、天然のアイスリンクの上に立つルージュラ、そしてやや離れたところに待機しているイツキをじっと見守っていた。彼らは自分たちの巣を破壊した張本人が目の前にいることをとっくに忘れ去っており、これから始まるショーを待ちわびている。巨大なマンムーも、子供のイノムーたちを頭の上に乗せて視界を確保していた。
「いきます!」
イツキはフロアの隅で直立しているヤナギに向けて会釈すると、ルージュラとアイコンタクトを取る。
「アンジー、GO!」
彼女は小さく頷くと、そのままリンク上を滑走する。
まずはカラーコーンを置いたエリアを滑り、コーンを軽やかに避けていきながら容易くクリアー。ドレスのような下半身を翻しながら、舞踏会の様に氷上を舞う。イツキが指を鳴らすと、彼女は滑走する身体を捻ってリンク脇に突き出ていた岩へ強烈な突きを食らわせ、粉砕した。
「ハートスタンプ、成功っ!」
難しいハンドシグナルの腕も上がっていた。跳ね上がって歓喜する弟子を見て、ヤナギの眉間に皺が寄る。イツキは慌てて次の技へと移ることにした。
「それじゃアンジー、決めようか」
彼は腕を回しながら、ルージュラにリンクを滑走するスピードを上げるよう指示を出した。大きく弧を描きながら、風を切ってスケーティング。カラーコーンを念力で蹴散らし、障害物が無くなったところで、イツキは天井のシャンデリアを見上げた。
(リンクの端でジャンプして……、あの技を……。よし!)
脳内で検証した後、ルージュラの動きを観察する。彼女が大回りでリンクの端へ来たところで、イツキが声を張った。
「アンジー、そこでジャンプ!そして――」
ルージュラは前足を踏み切りながら、宙へ舞い上がった。そのまま華麗に四回転、常夏のハイビスカスが氷点下の洞窟内に花開く。野生のポケモン達がうっとりと彼女を見上げた。イツキはその空気に呑まれず、ルージュラの位置を確認しながら「テレキネシス!」と叫んだ。最も高く飛び上がったところへ、彼女は自身に念力を掛けて身体を浮かび上がらせる。目線がシャンデリアと並んだ。何度も練習して、ようやくたどり着いたこの高さ。翼がなくとも、空中戦はできる――ルージュラの身体の奥底から、高揚感がこみ上げてきた。
「そこで、サイコショックだ!付け根を狙って!」
シャンデリアを支えているずんぐりとした氷柱を、彼女は実体化した念力で撃ち抜いた。ガラスが割れるような音がフロアに反響し、たちまちルージュラとシャンデリアは重力に支配される。
ヤナギは目を見張った。
あの見事な芸術品が今日を以って終わる。
「相変わらず、見事なシャンデリアだ。昔はよくここで訓練しましたね。これだけは不変の美だ」
6年前。私はここで弟子を止めようとしたが、失敗に終わった。足の骨を折られ、リンクの上に突っ伏し――あいつと、シャンデリアを見上げていた。どちらも私を押しつぶすような威圧感があったことを記憶している。
「……壊す気か?」
「そんな無意味なことはしませんよ。……では」
去りゆく弟子の背中を、ただ眺めることしかできなかった。
「待て……、サカキ!!」
あいつの頭の上に輝いていたシャンデリア。これを見上げるたびに、私は過去を回想する。破壊することなど私には容易いが、これに手を出そうとする度に、非力過ぎて彼を止めることができなかった罪悪感が、吐き気がするほど鮮明に蘇ってきてくるのだ。
粉々に、砕け散ってしまえ――。
「もういっちょ!テレキネシス!」
弾んだ声が、ヤナギの期待を打ち砕いた。
ルージュラの念力はシャンデリアの落下を地上20センチ手前で食い止め、ふわりと浮き上げた。その後、彼女は軽やかにリンク上に着地すると、演技を終えたスケーターの様に丁寧にお辞儀をする。一部始終を見守っていた野生のポケモン達から、洞内を震わせるような拍手喝采が沸き上がった。
「何故止めた!」
詰め寄るヤナギに、弟子は無邪気に笑いながら返答する。
「だって、こんな綺麗なのに壊すの勿体ないじゃないですか。こういうのって、何十年もかかって出来上がるんですよね?そんな大事なのを割っちゃうなんて、いくら僕でもやりませんよ〜」
イツキは至極まともなことを言っている。ヤナギは我に返った。
「そ、そうだな……」
シャンデリアに罪をなすりつけようとした自分を恥じ、視線をそむけようとするが、イツキは気にすることなく興奮気味に評価を求める。
「で!どうですか、内容は!!完璧じゃないですか!?」
厳しいプロの世界にいるというのに、彼はなんと楽しげなのだろう。ヤナギは呆れつつも、僅かに頬を緩ませる。
「……まあ、いいと思うぞ」
それを聞くなり、弟子はギャラリー向けてバンザイをしながら弾んだ声を上げた。
「やったーっ!合格ーーっ!!みんな、やったよぉー!!」
心から嬉しそうな様子に、野生のポケモン達もつられてその動きを真似し始める。異様な光景に呆気にとられつつ、ヤナギは一喝した。
「声が響いてうるさい!静かにしろっ」
たちまち場は静まったが、すぐにイツキが吹き出した。
「ヤナさんの方がうるさいって〜!」
「黙れ、はしゃいでる暇があるのか!?貴様、明日タイトルマッチだろう。とっとと帰って準備しろ!」
「ハーイ」
イツキはあっけらかんに頷くと、ルージュラにシャンデリアを取り付けるように指示を出す。後片付けを始める弟子の背中を眺めながら、ヤナギはほっと胸を撫で下ろした。これで自分の役目も終わりだ。
洞窟から出ると、いつの間にか雨は上がっており、雲間から水色の空が覗きつつあった。
「やった、雨やんでる!」
「そろそろ梅雨も終わりだな。ふう、ようやく傘が要らなくなる」
「そうだ、ヤナさん!最後だからお昼一緒に食べに行きましょう!」
「ラーメンは食わんぞ」
ならば、とイツキが返す前にヤナギが先制する。
「チャーハンもだ」
弟子は顔を歪ませ、不満を露わにする。彼を追い抜き、その前を歩きながら、ヤナギはぽつりと呟いた。
「ただし、餃子なら食ってやってもいい」
それを聞いて、イツキの表情はみるみる晴れ渡っていく。そのまま小走りで師の背中を追いかけた。
「僕の行きつけ紹介します!餃子がすごく美味しいんです!」
「たった一月滞在して行きつけだと……。ここが地元の私を舐めているのか」
「そんなつもりはないです。あ〜、お腹空いた〜」
雲間から薄ら日が漏れていた。天使の階段とも呼ばれる現象である。一筋の光が、二人の道を照らしていく。