第4話:傘の中の青空
その日の昼過ぎ、セキエイスタジアムでキョウがポケモンのコンディションチェックをしていると、傍に置いていたスマートフォンが電話の着信を知らせた。画面に表示された発信者の名前を見て、彼は目を見張りながらも直ぐに応答ボタンをタップする。
「……はい」
『どういうつもりだ』
受話口から吹き込んでくる冷気のような声に、キョウは思わず苦笑する。
「何ですか唐突に。ご無沙汰してますね、“ヤナさん”。最近どうですか?ジムの方――」
挨拶代わりに様子を伺おうとする彼の声を、電話主のヤナギはきっぱりと遮った。
『お前の仲間が私に教えを乞いに来たぞ。一体どういうつもりだ』
それを聞いて、キョウは目を丸くした。
「えっ!?……まさか、イツキが?」
『そうだ。謹慎中と聞いたが、何故私の所へ来る?お前がけしかけたのか?』
「いやいや、そんな訳ないでしょう。もう弟子を取らない人に押し付けるような真似はしませんよ」
『ならば何故、あの少年を野放しにしている?そっちで訓練しているんじゃないのか』
「ああ、あいつは本部の意向でセンチメンタルジャーニーさせているんですよ。ほら、16だし」
と、昔流行っていた歌に掛けたキョウの冗談を、ヤナギは冷酷に一刀両断する。
『くだらん……!氷の抜け道を荒らしおって、非常識にもほどがある!さっさとそっちで引き取れ』
「いや私に言われてもね。上には報告しておきますが……ご期待に添えるかどうかは分かりかねます」
そのまま電話を切ろうとしたキョウだが、ふいに別の用件を思い出し、再びジョークを交えながら話題を変える。
「それより、ヤナさんの方もそろそろセンチメンタルジャーニーを終わらせるべきだと思いますよ。ほら、もう60だし」
すかさず反発しようとしたヤナギの息を聞いて、キョウは遮るように話を続けた。
「これは冗談ではありませんよ。あれから6年も経つんだ、もうサカキの失態なんて水に流して、新しく弟子を取りませんか。“ジムリーダーの鑑”と呼ばれる方が若手リーダーすら育成しない、って本部も困ってる。本当に鑑だった頃は、弟子でもない私にも丁寧にサインのコツをご教示くださったのに」
『ろくに責任を取らず、リーダー業を軽視して仕事を増やし続ける本部など、もう従いたくもない』
「ごもっとも。でも我々、その本部から給料もらってますからね。表面だけでも言うこと聞かないと」
『私はお前のような日和見主義じゃないんだ』
そこで通話は途切れた。
「相変わらず、ひどいねえ……」
彼は自分の毒ポケモン達と顔を見合わせながら、苦笑いを浮かべた。あの頑固な態度、昔から何も変わっていない。
(それにしてもあいつ、ヤナさんに目を付けるとは。なかなかやるな……)
ふと、彼にある考えが浮かんでくる。
+++
「ヤナギさんに弟子入り申し込んだ!?」
その夜、夕食中にイツキから氷の抜け道での顛末を聞かされたマツバは、驚きのあまりカーペットの上に箸を落としてしまった。すぐにキッチンへ洗いに向かうと、イツキがむくれるように口を尖らせる。
「でも断られた。ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃんね」
「はぁ!?あの人はもう弟子を取ってないって言っただろ」
「なんで」
「いや、何でかは知らないけど。お前、本当非常識だよな。俺の服を勝手に着ていくし!メールすりゃ許されるってレベルじゃないぞ。もう貸さないからな」
それを指摘され、イツキは大目に見て、とばかりに肩をすくめる。この件で、マツバは帰宅してから機嫌が悪い。お陰でおかずを一品減らされてしまった。これはイツキにとっては救いだったのだが。
「ごめん……。僕のアパート、マスコミ見張ってて荷物取りに行けなくて。明日買いに行くから」
とりあえず反省している友人の顔を見て、怒りが引いてきたマツバは、取り上げていたおかずを彼の前に無言で差し出した。イツキは露骨に眉をしかめる。
「いや、おかずは別に……」
「な……!お前、やっぱり常識がない!」
+++
翌日もさっぱりとした晴天だった。
マツバが出勤して2時間後、イツキも支度をしてアパートを出る。鍵をかけ、空へ向かって背伸びするとアパート前の道路に見慣れたレクサスが停まっていることに気が付いた。古都エンジュシティの下町に建つアパートに不釣り合いな高級車。イツキは周囲に誰もいないことを確認しつつ、階段を足早に降りて恐る恐る車の前へ出る。運転席に座っていた着物姿の中年男が、助手席へ座るように左手で指示を出した。イツキはやや戸惑っていたものの、目立っている車を動かさなければならないと渋々ドアを開ける。
「な……、なんでここが」
「本部に頼んで、免許の位置情報教えてもらった」
運転席に座っているキョウが、お見通しとばかりに微笑んだ。免許にはGPSが搭載されているが、プライバシーの問題から他人の位置情報は開示されないはずである。しかし彼は役員達と仲が良いので何か手回しをしたのだろう。怪訝そうなイツキを受け流しながら、キョウはバックミラーを調整する。
「どこへ出かけるんだ?送って行こうか」
「じゃ……、エンジュモール」
キョウはカーナビに行先を登録しながら、ここへきた目的を話し出した。
「お前さ、チョウジジムのヤナギさんに弟子入り申し込んだんだって?」
「えっ!?なんでそれを……」
驚愕するイツキを後目に、彼は呆れたように息を吐いた。
「本人から苦情が来たんだよ。あの人、見かけによらず短気だから何かあったらすぐ文句が来る」
「繋がりあったんだ……」
「俺の師匠の師匠だったからな。今もたまに飲みに行く」
「じゃあさ、あの凄いボード技を僕に教えてくれって頼んでくれない!?あれ、絶対使える!」
と、イツキはカーナビを操作するキョウの左袖を勢いよく引っ張った。利き腕が大きくぶれ、入力を誤ってナビの画面にエラーが表示される。彼は苛立ちを含んだ強めの口調で、「自分で言え」と突き放した。
「だってあの人さぁ……!!」
すがりつくイツキに、キョウは後部座席に置いていた大きな紙袋を突きつける。
「これ使え。頑固だが、悪い人じゃないんだよ」
ずしりと重い袋を覗き、その中身にイツキは目を丸くしながら同僚へ顔を向けると、彼は穏やかに一笑した。すっかり仲間に見捨てられていたと思っていたイツキの胸のつかえが取れ、目頭がジワリと温かくなる。
「あ、ありがとう!……怒ってたのかと思った」
「カリンとシバはカンカンだけどな。俺はまあ、お前みたいなことはよくあったから。ちなみにワタルはずっと心配している。お前が置いてったポケモンの世話、あいつがやってるんだぞ。謹慎明けには菓子折り持って一番に謝りに行けよ」
「ワタルが……」
紙袋を抱え込みながら、イツキは手元に視線を落とした。
「ばっくれた僕のことなんて、どうでもいいのかと思ってた……」
「すぐに見捨てるわけないだろう、去年あれだけ時間と金をかけて選んだ仲間なんだから。だからこそ、チャンピオンの期待を裏切るような真似はするなよ」
厳しくもどこか優しいその口調に、彼は唇を噛みしめた。誰も理解してくれないなんて、とんだ思い込みだったのだ。皆、自分を気にかけてくれている。仲間も、ファンも。それからポケモン達も。呑気にショッピングに行っている場合ではない。彼は再びカーナビに手を伸ばそうとしたキョウの腕を制止させるように、声を張り上げた。
「キョウさんっ、ワタルに必ず強くなって戻ってくるって伝えておいてくれる?僕、絶対復活するから!これ持って、もう一回ヤナギさんに直談判してくる!」
「お、おう……。送ろうか?」
目を丸くするキョウに、イツキは弾ける様な微笑みを浮かべながらドアに手を掛ける。
「だいじょぶ、カブで行くから!」
「分かった。じゃ、あとで“ヤナさん”の様子メールしてくれ。副総監のフジさんが心配してるんだよ」
違和感のある呼び名を耳にして、イツキは噴き出しそうな笑いを堪えながら振り返った。
「……ヤナさん?」
「そう、“ヤナさん”」
それは仲間からの、形のないもう一つの手助けだ。氷像のようなあの老人に、彼はたちまち親しみが湧いた。
「オッケー!それじゃ、みんなによろしくね。キョウさん、ありがとうっ!」
イツキは満面の笑みでドアを閉めると、そのままアパートへと戻って行った。弾むような後姿を見送って、キョウはカーナビの設定をキャンセルして車を発進させる。
(あ……。アレ返すの忘れた)
彼は慌ててダッシュボードを開け、絹のハンカチに包んでいたネイティオのキーホルダーを取り出した。アパートを振り返ろうとすると、フロントガラス越しにリトルカブに乗ったイツキが手を振りながら走り去って行く。スランプ前の明るい表情を見て、キョウは彼を呼び止めるのを控えた。
(謹慎明けにするか)
そう思いながらキーホルダーを再びにハンカチに包み、ダッシュボードへ戻して蓋をする。合わせて、ヤナギの番号を一時的に着信拒否にしておいた。数時間後、彼から苦情の電話がかかってくるのは間違いないからだ。
+++
「たのもう!」
大きな紙袋を手にし、満を持してチョウジジムの重い扉を開いたイツキだったが、どっと吹き込んできた冷気に身体を震わせ、思わず数歩退いた。気を取り直して覗き込んだジムの中は、冷凍倉庫と錯覚してしまいそうなほど殺風景で、底冷えがする。
各地に存在するジムは、町の雰囲気やリーダーが使用するポケモンのタイプに合わせて多種多様な造りをしており、それを楽しむのもアマチュアトレーナーの旅の楽しみでもある。マツバの担当するエンジュジムは、古都に馴染むよう道場風の建物になっていた。ヤナギは氷タイプ専門のポケモン使いであるため、このような仕掛けを施しているのだろう。
「維持費かかってそう……」
イツキは率直な感想をこぼしながら、人気のないジムへ足を踏み入れた。
「すみませーん、誰かいませんかー」
室内に彼の声が虚しく反響した。照明も薄暗く、さながら人工の氷の抜け道である。しばらく待っていると、部屋の隅から氷のスノーボードを抱えたユキメノコが顔を出した。氷の抜け道でイツキを救ったヒロインだ。
「……あ、君は!この間は、助けてくれてありがとう」
イツキが相好を崩して礼を言うと、彼女ははにかみながらも嬉しそうに微笑んだ。そして、新しく作ったらしいボードを自慢げに掲げる。紫陽花を入れて凍らせた、ユキメノコのように可憐な作品だ。
「新しいやつ?可愛いね!……あのさ、僕のポケモンにも君のスノボ技教えてくれないかな〜」
途端に、ユキメノコは表情を曇らせる。彼女自身、レクチャーすることにはまんざらでもなさそうだが、やはり主人がネックである。イツキがどう丸め込もうか考えていると、杖を突く音が響いて部屋の奥から水色のウールコートを纏ったヤナギが現れた。
「……しつこいぞ。何も教えんと言っただろう」
その表情は苛立ちと憎悪が露わになっていた。イツキは臆さず構える。
「僕は諦めません!」
「一か月程度訓練したところで何も変わらん……」
踵を返す小さな背中へ、少年は思い切って感情をぶつけた。
「僕が変わります!!」
ジム内に響き渡る勇壮な声に、ヤナギの足がぴたりと止まる。
「僕が変わって、ポケモンを勝たせます!それがプロのポケモントレーナーだと思うから……!でも、はっきり言って今の僕はやる気しか持ち合わせがありません。一人じゃ打開策を一か月以内で考えられない……。だからどうか――力を貸してくださいっ!」
イツキの率直な悲鳴が、ヤナギの耳に雨粒のように吹き込んでくる。
肌に雫が触れるような不思議な感覚は、彼の記憶を10年ほど前に引き戻した。
その日も、雨が降っていた。大地を洗い流すような篠突く雨。朝は晴天だったのに、ここまで崩れる日は珍しい。早朝からサイホーンでこのジムを訪問していた“彼”は、窓の外を覗きながら怪訝そうな表情を浮かべていた。ヤナギは、その背中へ声をかける。
「タクシーを呼びなさい」
「いや、このまま出ます」
可愛げのない一言。“彼”はいつもこうだ。あえて、苦を選ぶ。
ヤナギは眉をしかめた。
「サイホーンは雨に弱い」
「これも修行のうち」
「では、これを」
そう言ってヤナギは“彼”の前に、水色の傘を差し出した。
「ありがとうございます。傘があるだけで、救われる」
その男は口角を少し上げて、笑った。あまり笑顔を見せない男だったので、その表情はとても印象に残っている。
思い返せば、それから一度も誰かに傘を差し伸べたことがない。この依頼を引き受けることで、自分の心に降り続く長雨から抜け出せられるかもしれない――思いを決してイツキへ振り返ると、彼は満面の笑みで大きな紙袋を掲げた。
「あのっ、もちろんタダとは言いません!これ、お土産です」
訝しげに顔をしかめるヤナギの前に、イツキは意気揚々と手土産をアピールした。それはセキチクシティの名酒、大吟醸『石竹の海』と高級魚の一夜干し詰め合わせである。どちらもヤナギが非常に気に入っている好物だが、未成年のイツキに揃えられるはずがない。ヤナギは瞬く間に色を成した。
「……あいつっ!!なんだっ、やはり貴様キョウの差し金か」
すぐに文句を言おうと、携帯電話を取り出し電話帳からキョウを選んでダイヤルするが、『この電話は、お客様のご希望によりお繋ぎ出来ません』というアナウンスが流れ、彼は舌打ちしながら携帯をコートのポケットへ押し込んだ。苛立つヤナギを見たイツキは、慌てて弁解する。
「違います!弟子入りはちゃんと僕の意志だからっ!いらないんだったら、これ実家に送ります」
「待て。土産は貰っておくっ」
ヤナギは彼の手から土産の入った紙袋をもぎ取ると、指を鳴らしてジムの隅でくつろいでいたトドゼルガを呼びつけそれを手渡した。大事そうに仕舞い込む様子に、イツキは思わず頬を緩ませるが、厳しい指摘は直ぐに飛んでくる。
「何を笑っている!早速、今から氷の抜け道へ行くぞ。弱音を吐いたら、容赦なく切り捨てるからな」
「はいっ、了解です!」
イツキは嬉しそうに敬礼すると、いち早く出入り口へ駆けだした。重い扉を開けた瞬間、霧雨が顔に降りかかって目を細める。
「あ〜、雨が降ってきてるっ!さっきまで晴れてたのにな〜。傘持ってきてない……」
すかさず後ろから水色の傘が差し出され、イツキは目を丸くしながら振り返った。仏頂面の老人は無言のまま、早く受け取れとばかりに彼を傘で小突く。
「ありがとうっ、“ヤナさん”!」
イツキはすぐに傘を受け取ると、開きながら弾ける様に外へ飛び出していく。ベテランリーダー達しか知りえない愛称で呼ばれ、ヤナギは度肝を抜かれた。「待て、今なんと……」と、狼狽えるがイツキには届かない。
「ヤナさん、早く早く!」
スランプから抜けようともがいているのに、ヤナギを手招きする彼の表情は明るい。それを見ていると、呼び名ごときで咎めるのは野暮のように思えた。
「む……。そ、そうだな……」
ジムを出ようとしたヤナギの前に、ユキメノコがさっと黒い傘を差し出した。凍りついた主人の心がようやく溶けそうなことで、彼女は顔いっぱいに喜びを浮かべている。ヤナギは白い息を吐くと、何も言わずに傘を広げた。その瞬間、彼の頭の上に小さな青空が広がる。
「わあ、ヤナさんお洒落〜っ!僕そっちがいいです」
ヤナギの傘は外側は黒の無地だが、内側には爽やかな晴天がプリントされている変わったデザインをしていた。羨ましそうに駆け寄るイツキを、彼は足早に追い抜いて引き離す。
「これは私の傘だから、やらん!それより貴様、礼儀を知らなさすぎる!キョウは何を教えているんだ!」
「キョウさんは仕事仲間だもん、そういうのは……。あ、でも綺麗な魚の食べ方とかは教えてくれます!」
「それは親の仕事だろうがっ」
「旅に出てる間に雑になってきちゃって。そうだ、今度あの干物一緒に食べましょう!僕のお箸技見てくださいよ〜」
「ならん!あれは私の干物だっ」
イツキは楽しそうに、新たな師の後を追う。霧雨の中に、二つの傘が揺れていた。