第3話:しずく
翌日は珍しく太陽が現れ、爽やかな朝が訪れていた。
マツバのベッドの足元で眠っていたイツキは、朝5時から忙しく行きかう足音に睡眠を妨害される。布団を頭から被って防音しつつ、半分夢に浸った意識の中でマツバに尋ねた。
「もう出るの……?早くない?」
「やっと晴れたから、溜まった洗濯物を外干しするんだよ。どけ、邪魔」
洗濯かごを抱えながら、マツバはカーペットの上に丸く膨らんでいる布団を軽く蹴飛ばした。
「うへえ……ねむい……」
「謹慎だからってダラダラ寝てないでトレーニングに行け!俺はこれを干し終えたら出勤するからな。朝飯はキッチン、合鍵は靴箱の上!」
「ふえい……。お母さん、ありがとう……」
寝ぼけながらふざけるイツキに苛立ちを覚えたマツバは、ベッドに上げていた自分の布団と枕を抱えると、そのまま彼の上に投げ落として大山を作り上げる。「く、くるし……」と呻く声を無視して、彼は鞄を持ってアパートを後にした。
それから1時間後にようやく目覚めたイツキは、キッチンに置かれていたおにぎりと味噌汁を温め直して朝食をとった。一見ごく普通のおにぎりで一安心していたのだが、真ん中に入っていた自家製と思われる昆布の佃煮はやはり口に合わなかった。
「……おにぎりすら不味いってどういうこと」
なんとか食べ終わり着替えをしようと思い立つも、昨日着ていた衣服はベランダの物干し竿で揺れている。帰宅できなかったため、替えの服はない。イツキは少し悩むと、意を決してマツバにメールを入れた。
『着替え持ってくるの忘れたから、ちょっと借りる』
彼は恐らく仕事中であるため、すぐに返信は来ない。イツキはマツバのクローゼットから地味な色の厚手のパーカーとカーゴパンツを選んで着替えると、頭に縁なしの黒いニット帽を被って眼鏡をかけ直す。
姿見で全身を確認するが、普段の自分からはとても想像がつかない地味な格好に、思わず吹き出してしまった。これなら誰も自分のことを、派手な装いが好きな四天王のイツキだとは気が付かないだろう。
「これでよし!結構あったかいし……今日は氷の抜け道でトレーニングだ」
勿論、あのシャンデリアに挑戦するためである。
彼はボディバッグを肩へかけると、ヘルメットを抱えてアパートのドアを開ける。目の前に、晴れ渡った青空が飛び込んできた。爽やかで心地よい空気に背伸びをして、イツキはアパートの階段を駆け下りていく。
+++
リトルカブへ跨り、再び氷の洞窟へ。
派手なデザインのカブにすれ違う人々が次々振り向くも、運転手が謹慎を食らっている渦中の四天王イツキだとは誰も気が付かなかった。チョウジタウンを抜けようとしたとき、国道沿いに立つ『いかりまんじゅう』と書かれたのぼりを見て、イツキはふとスピードを緩める。
(そういえば、チョウジタウンはいかり饅頭が有名だったな)
のぼりに惹かれて停まった店は、ずっと昔からそこにある様な、古風で大きな構えの老舗である。入口に掛けられた木彫りの看板は年数が経過して味わいがあり、『元祖いかり饅頭・本店』と表記されていた。いかり饅頭といえばチョウジを代表する名産品で、そこかしこに似たような店があったが、どうやらここが総本山の様だ。
イツキはバイクをパーキングへ駐車すると、眼鏡の位置を直しながら俯き気味に入店する。幸いにも、客は彼以外誰もいない。ほっとしていると、すぐ傍で可愛らしい声がした。
「いらっしゃいませー」
すると、ショーケースの上から小さな男の子が顔を出した。5歳くらいだろうか、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳が印象的でとてもキュートだ。イツキの頬が思わず緩む。
「もう、お客様の邪魔をしちゃだめでしょう」
すぐに店の奥から母親らしき女将が駆けつけて男の子を抱えると、即座にイツキへ頭を下げた。その腰の低さに彼は目を丸くしつつ、苦笑する。
「大丈夫です。小さいのにお店番、えらいね」
それを聞いて、男の子は心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとーございます。いかりまんじゅう、おいしいから買ってね!」
無垢な姿に心が和む。
イツキは頷きながら、ショーケースに近づいた。
「うん、それください。えーと……、一人で食べるから9個入りの簡易包装のやつを」
それは自宅消費向けに販売されている、ビニールのパックに入った簡素な商品である。彼はこれを今日の昼食にするつもりであった。
「畏まりました。税込で840円になります」
と、女将に言われバッグから財布を取り出していると、イツキを凝視していた男の子が突然、上ずった声を上げる。
「……お兄ちゃん、イツキさん!?」
「えっ……」イツキの肩が跳ね上がった。こんなに地味な格好をしているのに、何故ばれた?男の子は弾けるようにショーケースから身を乗り出すと、更に彼を注視する。女将が慌ててそれを制した。
「何言ってるの?お客様の邪魔を――」
「してんのうのイツキお兄ちゃんですか?ぜっったい、そうでしょ!?」
「ち、違うよ。よく言われるけど、似てるだけ!」
イツキは帽子を深く被り直しながら、きっぱりと否定した。彼の不快を察した女将が、急いで頭を下げる。
「申し訳ございません!この子、四天王のイツキさんのファンでして……。ほら、謝りなさい」
「ファン……」
その言葉は、彼の胸を突いた。
硬直したイツキを気にすることなく、男の子はショーケースから顔を出しながら意気揚々と話し始める。
「ぼく、セキエイでイツキお兄ちゃんが一番好きなの。エスパーポケモンで戦うとこ、すっっごくかっこいいんだ!特にネイティオを使ってるときはね、とっても楽しそう!今はお休みしてるけど、早くバトルが見たいなぁ……。ねえねえ、お兄ちゃん!イツキさんは強くてカッコいいと思うよね?」
うん、そうだね。
そんな風に聞き流せばいい、ただそれだけなのに。
「そ、そうかな。弱くて休んでるし……」
彼は同意することができなかった。
ポケモンバトルから逃げている自分が不甲斐なく、胸を張って『自分は強い』と言明することができない。
すると瞬く間に、男の子の大きな瞳が潤んでいく。イツキは我に返った。「ごめ……」慌てて訂正しようとすると、それより先に女将が彼を抱き上げてショーケースから引き離した。
「本当に申し訳ございません。奥へ連れて行きますので……」
男の子は母親の腕の中でもがきながら、イツキへ向かって泣きわめく。
「違うもん、イツキお兄ちゃんは強くてすごいんだもん!弱くなんかない!ぜったい、強くなって戻ってきてくれるんだ!!」
その期待は彼の胸を深くえぐった。同時に、頭も撃ち抜かれた様に眩暈がする。
これほどまでに打ちのめされたのはイツキにとって初めてで、たちまち血の気が引いていくのが分かった。
遠ざかっていく泣き声に身体を締め付けられながら、男の子を直視できず足元に目線を落とす。両足を踏みしめ、何とか立っていると、すぐに女将が戻ってきた。彼女は苦笑しながら、イツキの前に商品の入った紙袋を差し出した。
「はい、これお買い上げいただいたお饅頭です。ご迷惑おかけして申し訳ございません。イツキさんはあの子のヒーローなんですよ……。のめり込みすぎて、ちょっと困っちゃうわ」
その言葉に、イツキは目を見張った。
「……ありがとうございます」
彼は紙袋を受け取ると、俯き気味に店を出る。
――僕が誰かのヒーロー?
ボディバッグへ紙袋を仕舞う手が震えていた。
(僕は、最低だ……)
今、自分はようやく気付いたのだ。
プロとして最低の行為をしていたことに。
ファンを失望させていることに気付かなかったなんて。
ファンがいなければ、プロは成り立たないというのに。
(僕はプロなのに!)
目頭に熱いものが込み上げ、みるみるうちに視界が霞んでくる。
ふと、手にしているヘルメットの『DREAM CATCHER』と描かれたステッカーが目に入った。ワタルのシルエットの上に書かれたその文字は、ポケモンマスターを夢見て旅に出た頃の自分を思い出す。
真っ直ぐに頂へ向かって突き進むワタルは、自分の憧れのヒーローだった。自分もあんな風になりたいとプロを目指し、四天王になっても、これを夢の通過点だと信じて疑わなかったのに。
今は負けるのが怖くて、ポケモンバトルが嫌だと逃げている。
そんな気持ちを誰かに認めてもらいたいと、甘ったれたことを求めている。
(こんなの、誰にも理解されるはずがない。ただのクズだ。だから僕は置いていかれるんだ。マツにも怒られ、ファンを泣かせてネオには迷惑をかけて……。最低だ。謹慎食らってからやっと気づくなんて……)
イツキは鼻から息を勢いよく吸い込み、涙に蓋をすると、ヘルメットを被り直してエンジンをかけた。痺れるような振動が、小柄な身体にも伝わってくる。彼は脇目もふらずに、前だけを向いた。
『DREAM CATCHER』のロゴが、高く昇った太陽に反射して煌めく。
+++
氷の抜け道に到着すると、イツキはルージュラとブーピッグを伴ってすぐに足を踏み入れた。着込んでいるため、あまり冷えは感じない。と、いうより寒さに怯えている暇などないのだ。トレーニングには一分一秒たりとも無駄にはできない。なんとしても、この一か月で二軍メンバーを強化しなければならない。
「アンジー、ピギー。今日は君たちをメインで特訓するよ、ついてきてね」
その言葉に、ルージュラとブーピッグは神妙な面持ちで頷いた。主人の雰囲気が少し変わったことは、彼女たちも敏感に感じ取っていた。氷の床に気を付けながら、イツキは二匹をリードしつつ野生のポケモンを倒していく。
ふと、彼は4メートルほど高い位置にある岩の隙間から覗くツボツボを見つけ、すかさず声を上げた。
「アンジー、あそこっ!ツボツボが隠れてるよ。冷凍ビーム!」
ルージュラは氷の床を滑りながら助走をつけて飛び上がると、掌から冷凍ビームを放った。だが高さが足りず、ビームは標的1メートル下の岩石を粉砕するのみに終わる。イツキは肩をすくめた。
(うーん……。もっと高くジャンプできたらシャンデリアも落とせるし、浮遊してる相手とも対等に戦えたりできると思うんだけどな〜)
他の策を考えていると、ブーピッグが彼のパーカーを勢いよく引っ張った。「なに?」と首を傾げると、ポケモンは必死に先ほどのツボツボがいる辺りを指さしている。
「どうし……」
そちらに顔を向けると、大量の赤と白のツートンカラーの鳥が彼めがけて飛びかかってきた。その前を、ルージュラが必死の形相で疾駆している。どうやら先ほどの冷凍ビームで、デリバードの巣を攻撃してしまったらしい。憤怒を称えたデリバードが、イツキとそのポケモンを敵とみなし、一斉に襲い掛かってきたのだ。
「わああああっ!!!!」
彼はポケモンと共に身を翻すと、全力で洞窟内を駆けだした。ルージュラの念力でなるべく氷が張っていない道を探させ、無我夢中で逃げ回る。しかしデリバードは追撃の手を緩めない。後方から次々に“プレゼント”攻撃が放たれ、岩壁に当たって爆発した。ポケモンはともかく、自分がこれに直撃すればひとたまりもない。イツキは全力疾走したが、直ぐにここへ来た目的を思い出した。
(ぼ、僕は何逃げてるんだっ!戦わないと!ポケモンマスター――チャンピオンになる男だぞ……!)
相手は30羽はいるであろう――とはいえ、育成されていない野生のポケモンである。ただ本能で動く彼らは、プロが育てたポケモンには敵わないはずだ。イツキは軽やかに身体を反転させながら、ブーピッグの肩をポンと叩いた。
「ピギーッ、サイコキネシス!!」
ブーピッグは後方を振り返りながら、あられの様に襲い掛かるプレゼント攻撃を残らず念力で受け止めると、デリバードめがけて突き返した。集約された爆弾は両側の岩壁ごと爆破し、デリバードの群れを一掃する。
「やっほう!イヤゲモノは受け取り拒否!」
イツキはブーピッグと拳を突き合わせて勝利を分かち合った――のも束の間、破壊した岩壁の瓦礫を突き破って巨大なマンムーが現れた。平均2.5mという身長を遥かに凌いでいるであろう、大山のような佇まい。その表情には湧き立つような怒りを浮かべている。イツキは絶句した。
「うっそぉ……」
マンムーの足元から、10匹ほどのウリムーがひょっこりと顔を出した。
どうやら壁の反対側に巣があったらしく、先ほどの爆撃で破壊してしまったらしい。二度目の失態だが、イツキはマンムーが動く前にルージュラへ指示を送った。
「ア、アンジー!サイコショックッ」
少し怯ませている間に逃走……と考えていたのだが、その攻撃にマンムーはぴくりとも反応しない。どうやら全く効いていないようだ。身の毛もよだつような形相を見て、イツキのポケモンは肩を震わせる。とても敵うような相手ではないことが直ぐに呑み込めた。
「あ、あれは……逃げるっきゃないよぉっ!」
背を向けて逃走するイツキを、マンムーが地面を踏み鳴らしながら追従する。洞窟全体を大きく揺らし、岩石や岩肌に設置されていた照明を蹴散らしていった。今度こそ、本当に命の危機だ。
「助けて〜っ!!」
だが巣を破壊されたマンムーもイツキに鉄槌を食らわせるべく、追撃の脚を緩めなかった。その距離、僅か5メートルと近づいた時、イツキはボディバッグを肩から外す。
「ヤバイ、殺される!やだよっ、こんなところで死にたくないっ……僕の手持ちを総動員すれば――」
この中には20匹ほどの二軍ポケモンが入っている。一斉に渾身のサイコキネシスを放てば、さすがのマンムーも昏倒するはずだ。走りながらジッパーを開けていると、突然彼は氷の床に足を取られた。バッグに気を取られ、そこが滑りやすい足場だと気づかなかったのだ。「ひええええっ!!」そのまま派手に転倒し、眼鏡が外れてどこかへ飛んで行った。バッグの中身が散乱し、彼は床の上を3メートルほど滑走する。全身に強い痛みが走ったが、並走していた自分のポケモンの存在を思い出して彼は反射的に絶叫する。
「アンジー、ピギー!!逃げて!!」
その声に弾かれるように、ルージュラとブーピッグがさっと岩陰に隠れた。数秒経って、怒りを称えたマンムーがイツキを狙って現れる。
「……や、やばっ」
彼は氷の床を這いながら、できるだけマンムーとの距離を離していくが、すぐに詰め寄られてしまう。
眼鏡がないため、視界がぼやけてフロア全体の様子がつかめない。ただ、両側にそり立った岩壁があることは分かった。その表面にはうっすらと氷が張っている。
射程距離にイツキを仕留めたマンムーは、その逞しい牙を大きく振り上げた。
「た……助けてネオ!!」
彼は思わず身体を丸めて、床の上に伏せる。
こんなところで、人生を終わりたくない!ネイティオが傍にいないまま死にたくない!
その時、遠くから重厚感のある靴音が聞こえた。
「行け、ユキメノコ」
続いて床を削る様な音が響いたかと思うと、洞窟の奥から氷のスノーボードに乗ったユキメノコが滑走して現れ、そり立った岩壁へ飛び移って大きく浮き上がった。空中で身体を捻って華麗なターンを見せたかと思うと、そのままマンムーの鼻先へ追突して猛獣を驚かす。マンムーの鈍い悲鳴に、イツキは顔を上げた。
ユキメノコは床に着地すると、すぐに足場を蹴り、壁へ向けて滑走する。助走をつけて再びそり立つ壁を飛び上がり、彼女を目で追うマンムーめがけて投げキッス。無邪気な笑顔は、マンムーをメロメロにさせた。
「そこで、シャドーボール!」
洞窟の奥から響く、唸るような低い声。ユキメノコは空中でスピンしながらマンムー向けてシャドーボールの連撃を食らわせた。相手を怯ませたところで、離れた場所から氷の床をコツンと叩く音が響き渡る。そのシグナルを聞き、彼女は身体を捻ってボードを立てると、そのままマンムーの背に突き立てた。重苦しい悲鳴がフロアに反響し、マンムーは毛むくじゃらの身体を振り乱しながら踵を返して逃亡を図る。
マンムーの背中に立っていたユキメノコは、宙返りしながらその場から離れると、トドメを刺さずに逃げ去る猛獣を見送った。そして一部始終を唖然と見ていたイツキの元へ歩み、チャーミングにウインクする。
「……あ、ありがと」
力の入らない膝を何とか立たせようとしていると、突然その鼻先にひびの入った眼鏡が突きつけられる。随分乱暴なユキメノコだ……と思ったイツキだったが、それはよく見ると眉間にしわを寄せたヤナギであった。
「ふん、散々洞窟を荒らしおって。襲われるのは当然だ」
「ヤ、ヤナギさん……」
慌てて眼鏡をかけ直し、視界を鮮明にすると、ヤナギの隣にユキメノコがすり寄っているのが見えた。彼のポケモンだったようだ。思い返せば氷でスノーボードを作ってハーフパイプのようなプレーを見せるなど、野生のポケモンにはまずできない。ここまでの技術を身に付けさせることは、並みのポケモントレーナーにも難しいだろう。
それにしても、先ほど目の当たりにした空を飛べないユキメノコの、巨大マンムーの背をも超える跳躍力。命拾いしたイツキにヒントが降りてくる。
「もう来るんじゃない、忠告しておくぞ」
「あ、あの……!」
背を向けて去ろうとしたヤナギを、イツキは即座に呼び止めた。怪訝そうに老人が振り返る。
「その技術、僕に教えてください!!」
「断る」
即答。
しかし彼は諦めなかった。すぐに身を起こしてヤナギの前に躍り出ると、額を床に擦りつけて土下座する。
「お願いしますっっ!!」
「……四天王がジムリーダーに教えを乞うなど、プライドはないのか?大人しく、謹慎していろ」
彼は冷徹に言い放つと、イツキを無視して洞窟の奥へと踵を返す。
慌てて追従しようとしたが、いつの間にか張られていた高い氷の柵に阻まれ、それ以上先へ進むことができなかった。イツキは唇を噛みしめて悔しさを滲ませる。
(あの技は使える!あれを応用したら、空中戦も戦えるし、シャンデリアだって落とせるはず!)
既に転倒時の痛みや、恐怖は消えていた。心に灯った闘志の炎が、イツキを奮い立たせる。
(ここで諦めて堪るかっ!)