第1話:曇り空
翌日の月曜日はオフだった。
今日という日が休みであることに、イツキは心底安堵していた。明日は四天王同士が戦うマスターシリーズで、また憂鬱な仕事が始まるが、それでも荒れていた心を休められるのは救いだ。
だがいつも朝起こしてくれていたネイティオは傍にはおらず、いつもより3時間も寝過ごしてしまった。窓の外を覗くと、どんよりとした雲が太陽を覆っている。今日も雨が降りそうだ。
(寝過ごした……せっかくの休みをもう半分使うなんて……)
昨夜の帰りに立ち寄ったコンビニで衝動買いしたデザートで空腹を満たすが、全く味を感じない。
(美味しくない……失敗した)
彼はミックスオレで口直しをした後、徐にテーブルに置いているスマートフォンに手を伸ばした。案の定、四天王やワタルからのメールや着信で埋め尽くされている。昨晩、意図的にサイレントモードにして放置していたのだ。メールボックスの一番上、今朝ワタルから送られてきたばかりのメールを選んでみた。
【おはよう。みんな心配しています、連絡ください。 ワタル】
(まだ話したくない……)
イツキはテーブルの上にがっくりと頭を伏せた。
きっと連絡をすれば、ポケモンを置いていった非常識人間と罵られるに決まっている。彼はしばらく考えると、スマートフォンの電源を切って立ち上がった。
私服に着替え、ボディバッグに二軍メンバーが入っているボールを詰め込み、カラーボックスの上に飾ってあるヘルメットを手にしてアパートを出る。
(気分転換も大事だよね……)
トレーナーのメンタルは手持ちポケモンにも影響する。
ならばまず、このストレスを少しでも軽減させなければならない。手始めにツーリングで気分を晴らそう。行先は決まっていた。
(マツに愚痴を聞いてもらおう)
イツキはリトルカブへ跨り、キーホルダーが無くなったキーをエンジンへ差し込む。
一瞬覚えた物寂しさを振り払い、彼はバイクを発進させてエンジュシティへと向かった。
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「それはお前が悪い」
イツキの愚痴を聞くなり、マツバははっきりとした口調で一刀両断した。
休憩中のエンジュジムでは老いた弟子たちがイツキを温かく迎えてくれたものの、リーダーで友人のマツバは不快感を露わにしていたのだ。
「なんで……!」
真っ青になって縋り付くイツキに、彼は眉をひそめる。
「何でって、分からないのかよ?研究されてんだよ、お前は。チャンピオンの言うとおりだろ、つまり二軍の育成をさぼったお前が悪い。そしてポケモンを置いていくなんて最低だな、プロトレーナー失格だぞ。アポなしで押しかけてくるのも非常識!」
「……」
また同じことを言われてしまった……。
イツキは唇を、血がにじむほど噛み締めた。
「四天王になって、ちょっと天狗になってたんじゃないのか?少しは頭冷やしてやり直せば――」
呆れ返っているマツバの言葉を、イツキは重い口調で遮る。
「……もういい」
――ただ、『お前 も 悪くない』と同意してくれればそれでいいのに。
「もういいよ、マツに相談した僕が馬鹿だった!」
イツキはヘルメットを掴んで立ち上がった。その行動は、マツバからは逆上にしか映らない。自分はプロとして弱音を吐かないよう努力しているのに、何だお前は――その苛立ちが引き金を引く。
「はあ!?その内容じゃあな、誰に言っても同じことを忠告されるに決まってる。それが何で理解できないんだ!腹立つんだよ、大事な時間を割いて話を聞いてやったのに、せっかくのアドバイスを跳ね除けやがって」
張りつめた空気を察して、心配した弟子たちが止めに入る。
「マツバくん、そこまで言わなくても……」
しかし、マツバはここぞとばかりに捲し立てた。
「こいつにはこれくらい言わないと分からないんです。いつもいつも、後先考えずに突っ走って……!それをネイティオにセーブさせてんだから……」
「ネオなんかいなくたって僕はやれるよ!」
ネイティオと聞いてさらにカチンときたイツキは、直ぐに荷物をまとめてジムを出て行った。いつも陽気な彼が、余裕なく当り散らす姿を見るのは久しぶりである。離れていくバイクのエンジン音を聞きながら、マツバは深く息を吐いた。
(言い過ぎたかな……)
メディアからも試合の悪評を報じられ、仲間からは見放され。
プロとはいえ、追い打ちをかけてしまったことにマツバは罪悪感を抱きつつ、仕事に戻ることにした。
+++
イツキはイヤホンで音楽を聴きながら、目的もなくチョウジタウン〜フスベシティ間にある44番道路を走っていた。『新しいスタートを切る歌』を選び、ひたすらリピートしながら外れた音程で歌い続ける。これは旅に出たばかり、10歳の頃にリリースされた楽曲で、今でも非常に気に入っていた。見てろよ、頂上。自分は必ず夢を叶える――冒険に出たばかりの彼の気持ちを代弁する様な歌だ。
当時地元タンバシティを出発してから、音楽プレーヤーでこの曲ばかりをリピートしながら旅をしていた。
それを歌わなくなったのは、相棒を捕獲してからだった。
出発して2週間――未だポケモンの一匹も捕獲できず焦燥に駆られていた時、目の前を通り過ぎた小さなネイティ。
「ネ……ネイティだっ」
昼食に買っていた菓子パンを餌におびき寄せ、その隙にボールを投げつけた。だが弱らせていないポケモンが大人しく収まってくれるはずもなく、直ぐに外へ飛び出してくる。逃げようとしたその身体に、イツキは無我夢中でしがみ付いた。
「つ……捕まえさせてよ!」
砂場へ強引に押さえつけ、暴れるネイティにボールを向けるが、眉間を思い切り嘴で突かれてしまい、イツキは悶絶した。その隙にネイティは茂みへと逃げる。
「ま……、待ってっ!」
イツキは慌てて後を追い、茂みへと飛び込んだ。突き刺さる小枝を振りほどき、ネイティを探してさらに奥へ――しばらくして赤い尾が目につくと、彼は反射的にそれを掴む。
「捕まえたっ」
尾を鷲掴みにされたというのに、鳥は硬直したまま動かない。彼は首を傾げた。びっくりさせすぎたのかな――そう思いながら顔を覗き込むと、小鳥の視線の先には腕を振り上げた、巨大なリングマが。
「ぅ、わっ……!!」
イツキの悲鳴をかき消すように、熊の爪が振り下ろされる。彼はすかさずネイティを抱え込むと、身を翻してその場を離れた。腕を振り回しながら襲い掛かってくるリングマの攻撃を必死で避けながら逃げ、川の中へ飛び込んでやり過ごす。海に囲まれたタンバの生まれなので、潜りは得意である。しばらく経って水面へ上がると、既にリングマの姿はいなくなっていた。
「い……、いなくなったみたいだね!良かったぁ〜」
ふと、抱え込んだネイティへ目を向けると――彼は慣れない水中に長く潜っていたため、ぐったりと弱っている。
「あっ……、ごめん!君は水がダメなんだね」
イツキは慌ててネイティを陸へ上げて水を吐かせるが、息切れしているその姿を見て【捕獲】の二文字が脳裏をよぎった。ボールを軽く当てるだけで、ネイティは大人しくそれへ収まる。先ほどの苦労が嘘のようだ。捕獲成功シグナルがボールから発せられたことを確認すると、イツキは宙へボールを投げながら絶叫した。
「やっ……、たあああ!!!!」
始めて捕獲したポケモン!
僕の大切なポケモン。
すぐにボールから出し、自分が捕まえたことを示すICマーカーを装着しようとした。彼の目の前に、すこぶる機嫌が悪いネイティが現われる。このような形で捕獲されたことをよく思っていないらしい。
「そんなに怒らないでよ!僕は君を助けたヒーローなんだからね」
物は言いようだな……とばかりにネイティは顔を背けた。
イツキはネイティの機嫌を気にすることなく、トサカの付け根にICマーカーを装着すると、そっと抱き上げて笑顔で告げる。
「一番最初に捕まえたポケモンに付ける名前はね、もう決まってるんだ。それは……ネオだよ!ネオ!かっこいいでしょ?」
あまりに無邪気に笑うイツキに、ネイティも思わず目を見張る。
「好きな映画の主人公の名前なんだけど。イケてる名前だから絶対最初に付けようと思って!僕は君をあんな風にかっこよくて強いポケモンにするからさ、ついてきてくれよ?これからよろしくね、相棒!」
始めて捕獲したことがとても嬉しくて、それからネイティを四六時中連れて歩いた。
彼は本物の相棒だった。
人間の言葉は話せないが、真剣に自分の話を聞いてくれる親友のような存在で、いつの間にかイヤホンをして旅をすることはなくなった。
バイクのハンドルを握る手が震えて、視界が次第に滲んでくる。
(僕は……、ネオがいないと駄目だ……)
だが、このまま戻っても何の解決にもならないだろう。
皆に指摘されている、ネイティオへの依存を脱却しなければ意味がない。『新しい夜明けを迎えよう!』そんな歌のフレーズが耳に入り、彼は再びハンドルをきつく握りしめた。
(でもどうしよう……)
その時、目の前に進入禁止の標識が飛び込んでくる。
そこから先は【氷の抜け道】に通じるため、車両が出入りすることはできないのだ。途中で道を変えるべきことは分かっていたはずなのに、ぼんやりと過去を回想していたイツキはすっかり見過ごしていた。
「あ……戻らなくちゃ」
ブレーキを掛けると洞窟の入り口から漏れる冷気が目に入り、彼は思わずバイクに乗せていた片足を地に付けた。
(ちょっと……行ってみようかな?)
この抜け道はフスベシティへの近道ではあるが、中が氷に覆われ気温も低く、足元も悪いためこれまで避けて通ってきた。しかし今回、【抜け道】という文字を見て、スランプから脱却するヒントがあるかもしれないと結びつく。こじつけのような考えだが、藁をも掴む様な思いであった。近くにあったコインパーキングにリトルカブを駐車し、恐る恐るその入り口を覗き込んだ。
岩壁に照明が取り付けられているものの、薄暗く奥の方まで見通すことができない。凍える様な冷気がイツキを包み込み、反射的に身体を引っ込めたが、思い直して足を踏み入れた。
「暗い……寒い……」
その上、人気はない。
ここで転倒して気絶してしまえば、誰も助けに来てくれないかもしれない。
『怪我をする危険がありますので、必ず二人以上、もしくはポケモン同伴で行動をお願いします』
その不安を煽る様な看板を発見し、イツキは直ぐにボディバッグからモンスターボールを一つ選んで傍へ投げた。現れたのはルージュラである。
「アンジー、傍にいてね……」
イツキはかじかむ両手に息を吐きかけながら、ルージュラの傍へ寄り添う。しばらく歩いたところで、壁の灯りばかり気にしていた彼の足が急にスリップした。
「わ、わわわっ!!」
豪快に足を滑らして尻を打ち付けそうになったとき、すかさずルージュラが念を唱えてイツキを浮き上がらせる。テレキネシスを主人に掛けたのだ。「あ、ありがと……アンジー」イツキがほっとしたように礼を言うと、彼女は可愛らしくウインクしてみせた。
「……この床、氷が這ってるんだ」
冷静になって確認すると、そのフロアはセキエイスタジアムのフィールド程の広さで、床のほぼ全面に氷が張っていた。力を込めて叩いてもびくともしない、その厚み。まさに自然が作り出したスケートリンクである。
「すごいねえ、こんなトコがあるんだ」
ふと、隣にいたルージュラが何かを見つけて天井を指さした。「どうしたの?」イツキがそちらへ目をやると――5メートルほどの高さの先に、氷のシャンデリアが煌めいていた。全長50センチほどのその姿はファンタジックで荘厳、まるで氷の女神が空に浮かんでいるような錯覚を覚えるほどに美しい。壁に打ち付けられた仄かな灯りを受けて輝き、見上げる者を圧倒する。何故こんなものが?しばらく見入っていると、フロアの奥から低い声が響いた。
「それも自然が生み出したものだ」
洞窟を震わせる、凍てつく吹雪のような声がしたかと思うと、靴底を鳴らす音が反響して杖をついた小柄な老人が現れる。突然現れた人間に、イツキは思わず「ひええ!?」と上ずった悲鳴を上げた。間抜けな声音が辺りに響き渡り、老人は不快感を露わにする。
「うるさい、大声を上げるな」
早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、イツキは老人と距離を置きつつその姿を観察する。白髪頭に、しゃんと伸びた背中、落ち着き払った佇まいに鋭い眼差し。すぐにピンときた。
「あれ、どこかで……。あっ、チョウジジムのヤナギさん?」
彼こそ氷の抜け道から西へ行った先にある、チョウジタウンのジムリーダー・ヤナギである。イツキは彼に挑戦したことはないが、トレーナー歴40年の大ベテランは大樹のような風格を醸し出しており、その雰囲気に圧倒されてしまう。委縮していると、ヤナギも彼がどういう人間なのかすぐに気が付いた。
「貴様は四天王のイツキか」
「そうですけど……。どうも……」
ヘラヘラと頷く少年に、老人は氷の矢を放つようにきっぱりと告げる。
「あんな散々な成績で、よく四天王が務まるな。セキエイもレベルが落ちたものだ」
「な……!なにお……っ。僕はスランプなだけで……」
真っ赤になって反論するイツキの言葉を、ヤナギは無情に両断する。
「スランプを言い訳にするのは二流トレーナーの常だ」
ここまではっきりと言われたことがなく、イツキは胸を撃ち抜かれた錯覚に陥った。だが、二流など認めたくはない。自分は二流などではない。
「ぼ……、僕は弱くなんかない!四天王はジムリーダーより強いんだ」
「ほう」ヤナギはやや呆れたように息を吐いた。その姿が癪に障ったイツキは、フロアを見回し天井のシャンデリアを指差した。
「例えば飛行ポケモン以外であのシャンデリアを落とすことだってできるよ!見てろよっ」
イツキはルージュラと目を合わせると、腕を振り上げ指示を出す。
「アンジー、冷凍ビームでシャンデリアの付け根を狙うんだ!」
金切り声が反響し、ヤナギはそっと耳を塞ぐ。ルージュラはシャンデリアの全体が見える位置まで後退すると、それを支えている氷柱めがけて冷凍ビームを放った。「地上からじゃ届かんぞ」ぽつりと呟くヤナギの言葉通り、ビームはシャンデリアに到達する2メートル手前で消えてしまう。イツキは目を見張った。
「あれ……?」
「大したことないな」
「い、いや……サイコキネシスなら!」
そう言って彼はルージュラにサイコキネシスを命じたが、やはり念波は届かずシャンデリアをほんの僅か揺らしただけで終わった。予想外のあまりに悲惨な結果に、イツキは呆然と立ち尽くす。血の気が引き、身体は凍えるように寒い。
「……修行が足りんな」
ヤナギはそう言い捨てると、踵を返して洞窟の奥へと消えて行く。
「こ、こんなのディンなら――」
と、言いかけてイツキはルージュラの悲しげな視線に気づき、そのまま言葉を呑みこんだ。今、自分は何と言おうとした?遠まわしに『アンジー、君は所詮二軍だ』と告げようとしていたじゃないか。
「ア、アンジーごめん。そんなつもりは……!」
身を切られるような思いを溜めているルージュラを見ているのが辛く、イツキは彼女をボールへと戻してその場に腰を下ろした。地面は凍てつくように冷たく、両腕で身体を抱え込む。深いため息が膝の間から白く抜けていった。
(僕は最悪だな……)
二軍を出せば負けてしまうのは、育成が足りなかっただけじゃないか……。
それをポケモンのせいにして、何をしているんだろう。
負けて当然だ。全部、自分が悪い。
(ごめん、ネオ)
身震いがして、くしゃみが出た。無様な音がフロアに響く。
+++
夕方になり、泣き出しそうな空からついに雫が降ってくる。雨脚は次第に強まり、夜9時を過ぎた頃には本降りに変わっていた。その頃、エンジュシティ市街地にあるマツバのアパートのインターフォンが鳴った。ドアスコープに友人の姿が映っていたので、彼は渋々ドアを開ける。そこには、ヘルメットとビニール傘を抱えて暗い顔をしているイツキが立っていた。マツバは怪訝な表情を浮かべる。
「……なんだよ?まさか泊めてくれなんて言うんじゃないだろうな」
「だめ?風邪ひいたかも……」
と、鼻をすすりながら首を傾けるイツキを見て、マツバは憤慨した。
「はあ!?お前なあ、だったら実家帰れよ!!俺にうつるだろうがっ。明日も仕事なんだぞ」
「実家はイヤだよっ、僕は地元のヒーローになってるからこんな落ちぶれた姿、親に見せたくない!助けてマツ〜」
友人の脚に縋り付こうしたイツキだが、その拍子に大きなくしゃみが出た。マツバは反射的に後ずさる。
「バカッ、マスクくらいしろよっ!っていうか彼女に看病してもらえよ」
「いたらそっちに行くよ!」
「確かにそうだが、その言い方腹立つな……」
「風邪ひいたらいつもアイスを買ってきてくれたネオもいないし……。頼れるのはマツしかいないんだ」
友の悲痛な眼差しを見ていると昼間の罪悪感が込み上げ、マツバも非情に帰す気にはなれなかった。悪態をつきつつ、不服そうに招き入れる。
「……ったく!仕方ねえな」