プロローグ
五月末。梅雨の時期になり、セキエイに雨が降る日が多くなっても、スタジアムへの客足は衰えることがなかった。
スタジアム最寄駅は駅直結となっているため、濡れずに現地へたどり着けるという利点が大きい。
そこに隣接するポケモンリーグ本部タワービル最上階の総監室では、本部トップの地位につく総監が、眼下のビル前広場に広がる色鮮やかな傘の花々を、窓越しに眺めていた。例年、この時期は客足が鈍っていたのだが昨年からは大きく変わった。篠突く雨を気にかけず、人々はプロトレーナーのポケモンバトルを楽しみにやってくる。
「雨は気が乗らないが、傘が花開く情景は美しいね……、まるでガーデンのようだ」
総監が満足そうに呟くと、デスクの向かい側に立っていたワタルが頷いた。
「そうですね」
彼は椅子を回転させてワタルに向き直ると、含みを持たせたように尋ねる。
「足元が悪い中来てもらっているんだから、我々も一層努力してお客様を楽しませなければならないと思うんだが……どうかね?」
「ごもっともです」
ワタルはやや俯きながら、平坦な口調で同意した。その表情には、暗い影を宿している。
「……それなら、私が何を言わんとしているか、分かるよね?」
「……」
彼は少し間を置くと、眉を曇らして答える。
「イツキくんですね」
+++
その週末のタイトルマッチも五月雨が続く中というのに、スタジアムは満員の観客で埋め尽くされていた。
不安げに見守る観衆の視線を気にすることなく、イツキはネイティオに指示を出す。
「ネオ!サイコキネシス!!」
飛翔して距離を取り、そこから挑戦者のムウマージを仕留める策だった。しかし相手は直ぐに動いた。戦慄する様な悲鳴を発してネイティオを驚かせると、怯んだ隙にシャドーボールを放つ。まともに食らってしまい、ネイティオはフィールドへ落下した。
「ネオ……!」
イツキがテクニカルエリアを駆けながら相棒の様子を伺おうとすると、すかさず挑戦者が声を上げる。
「ムウマージ、怪しい風!」
とどめの一撃。
恐怖の疾風がネイティオを襲ったかと思うと、直ぐに戦闘不能を告げるフラッグが振り上げられた。
「ネイティオ、戦闘不能!」
フェンス上部のハイビジョン・スクリーンにスコアが点灯した。
イツキ三敗、挑戦者三勝。つまりストレート負けを期してしまったのだ。会場全体から、ため息のような落胆の風が吹き荒れる。それはイツキの心を強く締め付けた。
(また負けた……)
仲間がいる、背後のベンチを振り向くのが辛い。
きっとキョウさんは「ドンマイ、次勝てばいいさ」と笑ってくれる。カリンは昨日のように「どうしたの?」って心配してくれるかも。ワタルは解説者席でフォローしてくれているのかな。でも、シバは……。
彼はなるべくそちらを見ないようにしながら、挑戦者と握手を交わしに行った。これはトレーナーとして最低限のマナーだが、今は逃げ出したくて仕方がなかった。負けた相手と目を合わせるのも苦痛だ。
「ありがとうございました」
恐る恐る一瞥した挑戦者の表情には、満面の笑顔が張り付けられていた。それは単純に勝利を喜んでいるのか、自分を見下しているのか……。イツキはすぐに握手を解くと、俯きながら北側ベンチへと歩んでいった。
「しっかりしろ!」「負けすぎだろ!!」
小さな背中にスタンドから容赦ない罵声が浴びせられる。
(僕だって……負けたくないよ)
だが、ここ一月は負けが続いており、去年8割をキープしていた勝率が5割まで落ち込んでいた。
これはポケモントレーナーとしては悪くない数字だが、プロとしては失格である。彼以外の四天王は常に勝率8〜9割を維持しているため、イツキの成績は悪目立ちしていた。
(こんなはずじゃない……僕のポケモンは強いんだ)
ネイティオが入ったモンスターボールを握りしめると、中で心配そうに自分を見つめている相棒と目が合った。
何故急に、負け続けているんだろう?
毎日鍛えて、実力は伸びているはずなのに……。
「お疲れ様。残念だったわね」
ベンチに戻ると、無表情のカリンがスポーツドリンクのボトルを彼に手渡してくれた。
「ありがとう……」
イツキはなるべく仲間と目を合わせないように、俯きながらボトルを口にする。
スランプが来ているのは自分だけで、他の三人はデビューから圧倒的に負けが少ない状態が続いており、それもイツキの落ち込みに拍車をかけていた。最近は試合後の簡単な会見もスルーし、ロッカールームへ戻ってすぐに荷物をまとめて帰っている。
「次はおれだな」
フィールドの整備が整い、スタッフの合図を確認したシバが立ち上がる。
彼は四天王では不動の一番人気で、試合に向かうべくベンチから立つだけで大きなコールが巻き起こっていた。
最近、自分の後はいつもシバになっている。
敗北した後にこの大歓声を聞くと、打ちのめされて耳を塞いでしまいたかった。
「頑張れよ、“アニキ”」
キョウがシバを激励すると、カリンもそれに続く。
「今夜も一発KO見せてね」
「もちろんだ」
自分も何か言わなければ……。
席の隣を過ぎていく大きな身体を見上げると、まるでそびえ立つ岩山のようだった。イツキは震える声を何とか絞り出す。
「……僕の分まで、よろしくね」
すると彼は、突き刺すような瞳でイツキを睨みつけた。息が止まりそうなほど恐ろしい形相に、低い声で言い放つ。
「後ろに仲間がいるからといって、負けていいと思うな。プロは勝つのが仕事だ」
「!!」
それだけ言うと、彼はフィールドへ降り立っていく。
期待がこもった大歓声に迎えられ、審判席へ向かって行く姿はスターそのものだ。
イツキは硬直したまま、その姿を見つめていた。
僕だって……。僕だって四天王だ。
だが、今の自分はどうだろう?
とても四天王とは思えない、無様な姿。シバの背中は眩しすぎる。
直視できずに顔を伏せていると、隣に座っていたキョウが声をかけた。
「……何故最近、負けていると思う?」
「分からない……。僕は毎日ネオやディンをトレーニングしているのに……もっと練習しなきゃ……」
イツキは唇を噛みしめる。
彼はなぜ負けが続いているのか、その本質を理解していないようだ。キョウは少し間を置くと、気づかせるように尋ねる。
「なるほど。じゃ、視点を変えて――」
「オジサマ、言わなくていいわよ」
すかさず後ろの座席に座っていたカリンが口を挟み、アドバイスを制した。意外にストイックな面のある彼女は、こういった甘いやりとりを非常に嫌う。キョウは苦笑いを浮かべた。
「冷たいなァ……。気づかせるのも仲間の役目だろう」
「そういうのは自分で解決するものよ」
ますます縮むその小さな背中を見て、カリンは身を乗り出して言い放った。
「でも、一つだけ言うなら――あなた、ネイティオに頼りすぎなのよ。これ言うの、今年に入って二回目だけどね」
「ネオは僕の相棒で……!」
言い訳を返そうとしたイツキを、彼女は射る様な目つきで封じる。
「だからって酷使していいの?最近、使いすぎなのよ。ストレスはポケモンセンターで癒せない。ちゃんとケアしてる?トレーナーのメンタルも、ポケモンの不調に影響するけれど……」
「カリンは、僕のネオのことを何も知らないから……!」
「知らないからこそ、見たままを言っているのよ。最近ちょっと、手持ちが偏りすぎてる」
それは確かにそうだ。
勝てるからと、一軍メンバー10匹中心に戦ってばかり。
だが二軍を出せば必ず負けてしまう……でもネイティオは二軍じゃない。
なぜ負けるんだろう?
泥沼にはまって塞ぎ込んでいる彼を見て、キョウはますます心配した。
「……顔色悪いぞ、ロッカーで休んできたらどうだ?」
「そうする……」
イツキはベンチから立ち上がると、ふらつく足で裏の通路へと消えて行った。その弱弱しい後姿を一瞥しつつ、カリンは仲間を咎める。
「オジサマ、甘やかせすぎよ」
それを聞いて、彼は不快感を露わにした。
「そうか?俺にはお前の方が厳しすぎに思えるんだが。スランプはなかったのかよ」
「あったけど……自分で乗り越えたわ。負けが続いて誰かに責められても、そんなの気にしない。必ずクリアするって決意しなきゃ、スランプは抜けられないのよ」
だからこそ、何も手を打たずに塞ぎ込んでいるイツキに苛立ちを覚えるのだ。
一流として世間に認知されているプロなら、これ以上醜態を晒さないでほしい。
そんなシビアな怒りはキョウにも透けて見え、彼は呆れるように息を吐いた。
+++
「どうしたんだよ〜、最近」
無人のロッカールームへ入ったイツキは、回復したばかりのネイティオをボールから出すと、そのポーカーフェイスをじっと見つめて項垂れる。
相棒が人間の言葉が喋れないことが、大変もどかしい。はっきりとした意志が知りたかった。
「……毎日トレーニングしてるのに、何で負けるんだろう?ヘビロテしすぎ?」
酷使による身体の負荷は確かに大きい。イツキは四天王でも一番若くてトレーナーキャリアも浅いため、挑戦者からの指名率が最も高いのだ。必然的に試合数は多くなり、戦う手持ちも偏っているため、ポケモンは大きな負担を強いられる。ネイティオは小さく頷いた。
「僕の指示が遅い、とか……」
最近は負けが怖くて臆病になりがちだ。この問いかけにも、ネイティオは首を縦に振った。無表情で頷く相棒を見ていると、無性に腹が立ってくる。イツキは思わず声を荒げた。
「何それ……全部僕のせい!?負けたのはネオだって――」
指示を出すのがトレーナーの役目、ポケモンに責任はない。
分かってはいるが、今はただ、何かに当たりたかった。自分だけが悪いわけではないと、原因を共有したかったのだ。
「イツキくん、ポケモンに当たるのは良くないよ」
それを制するように、ワタルがロッカールームのドアを開けた。試合が終わり、ベンチへ戻ってこないイツキを心配してすぐに戻ってきていたのだ。
「だって……!」
打ちのめされているイツキを見て、ワタルは自分の考えを告げた。
「君は研究されているんだよ。少ないスタメンでローテーションを組むから、挑戦者も対策しやすい。手持ちをもっと増やさないと……。去年四天王を発足した時にも言ったよね?最初はメンバーに富んでいたが、最近メンバーが固定されてきているから……」
カリンと同じことを指摘され、イツキは素直に受け止めることができなかった。
自分はその答えに至らないのに、何故仲間は自分の欠点を理解しているのだろう。それが悔しくて、彼は思わず悪態をついた。
「確かに偏ってるかもしれないけど……。だからって、すぐに強化できるわけないじゃんっ!オフならともかく、今はシーズン中だよ!?」
「プロでやっていくには、現状維持じゃ駄目だ。君の目指す、チャンピオンにはなれないよ」
四天王最終面接、ワタルの目の前でお前を越えて見せると言い切ったが――今、それを引き合いに出されても奮い立つことはできなかった。一層惨めになり、イツキは「……帰る」と呟きながらバッグを掴む。それを見たワタルが慌てて制した。
「待ってくれよ、皆が帰ってきてからミーティングをするから」
「帰ってポケモン鍛える!」
ワタルは無理やりロッカールームを出ようとするイツキの腕を掴もうとしたが、強引に振り払われた。テーブルの上にはスタメンのモンスターボールが置き去りにされている。
「イツキくん!スタメンのボールが置きっぱなし……」
「一軍偏りすぎなんでしょ?二軍を育てるんだよ、今からっ!」
イツキは眉間にしわを寄せ、ぶっきらぼうに言い放った。狼狽えつつもその後を追いかけようとするネイティオを睨みつける。
「来なくていいっ、どうせ悪いのは僕なんだろ!」
そして乱暴に出入り口のドアを閉めた。
ネイティオを見捨てて出て行ったのは、これが初めてだった。
彼は一番最初に捕まえたポケモンで、一番思い入れがあった。
突発的な行動をとってしまったけれど、それでも悔しくて仕方がなかった。
(なんでみんな……僕にばかり厳しいんだよ)
心配するスタッフや、追いかけてくる記者を振り切ってイツキは駐車場に走った。
バイク置き場へ行き、移動の相棒であるリトルカブの元へ。エンジンキーを差そうとした瞬間、ネイティオの鈴付きキーホルダーが音を立てて揺れる。
まだ付いてくるのか。今は顔も見たくなかった。
「……っ!!」
彼はそれを引きちぎると、整然と並んでいる車の群れへ投げ捨てた。キーホルダーは小さく音を鳴らしながら、車両の間へ消えていく。ほんの少しだけ胸のつかえがとれた気がしたが、気に入りのキーホルダーを他人の車めがけて投げ捨てたことで、すぐに後悔や罪悪感が押し寄せてくる。彼は全てを塞ぐようにヘルメットを被ると、逃げるようにその場を立ち去った。
限界まで速度を出し、不満を吹き飛ばすように走っても爽快感は得られない。
大好きだったはずのバイクが少しも楽しくない。
気分が悪い。
ポケモンバトルに勝てば、この気持ちも少しは晴れるだろう。
バックミラー越しに、徐々に小さくなっていくスタジアムの屋根を見る。
(……負けるのが怖い)
今はポケモンバトルをしたくない。