第8話:ショーの幕引き
にわか雨はすぐに止んだ。
ときわ子どもの森は水を打ったような静寂に包まれていた。トキワの森の木々が、風で擦れ合う音だけが響き渡る。
人々は声を発することができなかった。
彼らの視線の先は、一点に集中している。即席で作られた舞台の上。
そこには電気熱傷を負ったカイリューが崩れ落ちていた。敬愛する主人を抱きかかえるように伏せ、ぴくりとも動かない。
(まさか……)
屋上で見ていたシルバーが息を呑む。柵を掴む手がじわりと汗ばんでくるのを感じていた。
――ヒーローは負けてしまったのだろうか?
静寂を破ったのは、キョウが蝙蝠傘を閉じる音だった。彼は傘を一振りして雫を払うと、カイリューの元へ歩んだ。その後ろ姿へ、イツキがおそるおそる尋ねる。
「ねえ……、ヤバくない……?」
「殺すわけないだろ。こんなイベントごときで、人生棒に振るものか」
極めて冷静な言葉の後――、カイリューの腕が動いた。徐々に起き上っていく身体を見て、子供たちの間から歓声が上がる。
「ドラゴンスター頑張れ!」「悪い奴をやっつけてっ」「起きて、ドラゴンスター!」
そんな声援を受け、カイリューがよろめきつつ立ち上がった。
彼女はあちこち火傷を負ってしまっているが、思ったほどダメージは受けていないようだ。そして、カイリューに守られていたワタルもなんとか起き上った。スーツがところどころ破れているが、こちらも傷は浅い。
「……すごい技ですね。死ぬかと思った」
「マタドガスの電撃なんて大したことないからな。レッドのピカチュウクラスなら即死だろうが」
彼は片眼鏡の位置を直しながら、ワタルを睨み据えた。
「ええ……、本当に命拾いしましたよ。もう空を飛ぶのは、辞めておきます」
雷の本来の目的はカイリューへダメージを与えることではなく、ワタルを撃ち落とすことにあった。それをようやく察したイツキは、目を丸くする。
「それえ!?僕の渾身のテレキネシスは、マジでワタルを蹴落とすためだったのぉ!?カイリューに大ダメージを与える為だと思ってたのに!もうココは戦えないよー……」
「本当に邪魔なんだよ、ポケモンに人が乗ってると!何が『ここで命を落としたらその程度の人間』だよ。たかだかバトルショーで落命するなんて、それこそプロ失格だろう。まあお前の骨は拾ってやるから安心しろ。――いくぞ、マタドガス!ヘドロ爆弾!」
キョウはモーニングコートを翻しながら、蝙蝠傘を掲げて指示を出した。よろめき立ったカイリューめがけ、幾多のヘドロ爆弾をぶつけていく。ワタルはそれを回避しつつ、カイリューの背後に回り込んだ。
「毒は大丈夫かい?……早く終わらそう、高速移動っ」
ドラゴンは舞台を蹴るなり、爆弾をよけながらマタドガスへと攻めかかる。キョウはポケモンの視界へ周りつつ、サインを送りながら声を上げた。
「スモッグ!」
(鼻先に毒ガスを噴射して意識を奪え)
ガスを吸い込むのは危険、ワタルは直ぐに察知した。
「毒が来るかもしれない、破壊光線!」
小細工など破壊光線の前には形無しである。ガスを噴射しようとしたマタドガスごと、カイリューが破壊光線で吹き飛ばそうと試みる。キョウは舌打ちしつつ、巻き添えを食らわない位置へと逃げながら、攻撃が来る前にフォローを出す。「“守る”!」すかさずマタドガスが身を固めると、そのコンマ数秒後に破壊光線が直撃した。
凄まじい威力に、マタドガスは上空へ吹き飛ばされる。キョウはポケモンを追いかけながら、ダメージを確認した。守りの態勢を取っていたとはいえ、あれほど近距離でチャンピオンの破壊光線を食らっては、無傷では済まされないだろう。
(畜生……、いつも以上に走ってばかりだ……。もう疲れた……)
スタジアムやジムのフィールドは、トレーナーがポケモンへの指示に動きやすい構造になっているが、今回はごく一般的な、施設の庭でのバトルある。障害物が多く、技に巻き込まれないよう逃げ回るだけで相当な体力が削られていく。既にキョウの息は上がっていた。
「はあ……」
走りながら、ようやくマタドガスの顔を確認することができた。
「ようし……、そっからヘドロのジャイロボール……食わらせてやれ!」
よろめきながら指示を送ると、マタドガスは空中から、スピンをかけたヘドロ爆弾を放った。的確なコントロールで、次々とカイリューを攻め立てていく。
その様子を、遠くからカリンは苦笑しつつ眺めていた。
「オジサマ、ヘロヘロね……」
「もういい年だし、煙草も吸っているからな。体力が持たなくて当然だろう。修行が足りん!ポケモントレーナーたる者、指示についていけないなどもっての他!自身も鍛えねばならんのだ。ダメだな、あいつは……」
と、憤慨するシバの声は、ダウン寸前のキョウの耳にもはっきりと聞こえていた。
(聞こえてるぞ、童貞野郎……。ぬくぬくと観戦しやがって)
その時ふと、あるアイディアが浮かんできた。
彼は息も絶え絶えにワタルを睨みつけながら、蝙蝠傘をそちらへ向ける。
「ふははは……はあ、これで攻めてるつもりかドラゴンスターよ……。大したことないな……」
「ちょっとオジさん、何やってるのさ!マタドガスはまだやれるのに!」
彼は反発するイツキを、鋭く睨みつけて黙らせた。今にも倒れそうな姿に、ワタルも素に戻って「あの、大丈夫ですか?」と、心配したが彼は傘を振りながら芝居を続ける。
「気ィ遣わなくていいから……。ここで……最終兵器を出してやろう。こ、この私の傘を一振り――」
キョウは傘を使って空に弧を描きながら、石突をシバへ向けた。
「すると――あそこでボンヤリ観戦してるお前の仲間が……洗脳されるのだ!」
「ハ……?」
ワタルや四天王はこの茶番に拍子抜けし、ぽかんと口を開けていた。キョウはその空気を気にせずシバの元へ歩むと、「というわけで、代われ!!」と言って彼を安全地帯から強引に引っ張り出す。体格が一回り以上も違うのに、たったの一押しで弾き飛ばされ、シバは唖然とした。
「もしやお前、合気道……」
「お前みたいなガタイのいい弟子を持ってたからな、武術くらい齧ってる!それはともかく……四天王一番人気のくせに真っ先に脱落して、格好悪いぞ。子供に良い所見せてやれよ」
小粋な優しさに、シバは「……お前、いいやつだな」と感極まった。この父親だから、あの子はとてもできた娘なのだと、改めて実感する。
「いいから、早く行けって。俺はもう限界」
そう言いながら、キョウは地面に崩れ落ちた。カリンに水を貰っていると、イツキとマタドガスが駆けてくる。
「僕の骨拾ってくれるんじゃなかったのお!?」
「すまん、疲れた……。骨は俺の分までシバが拾ってくれるだろ」
彼は息切れしながらモーニングコートを脱ぎ捨て、身体に篭っていた熱を下げる。一方、シバの再登場に子供たちは声を弾ませて歓喜していた。一応敵ということになっているが、彼の人気は凄まじい。ワタルも嬉しそうに目を細めた。
「シバがきたああー!」「オコリザル見られるのかな!?」「頑張ってえ!」
オコリザルと言えば、開幕戦MVPを受賞したポケモンである。気合パンチでドータクンを一撃KOしたあの試合は、開幕から一月が経とうとする今でも、スポーツ番組で度々リプレイされる程の支持を得ている。
(では、期待に応えるとするか)
彼は腰のベルトに装着したモンスターボールからオコリザルを選び出すと、カイリューの前に召喚した。すぐにファイティングポーズをとってステップを踏みだすオコリザルに、ギャラリーの興奮は一気に跳ね上がる。これにはワタルも肩をすくめて感心した。
「なるほど、いい選択だな」
「たとえお前がヒーローだとしても、花を持たせてやるつもりはない!――いくぞっ、オコリザル!気合パンチだ!!」
気合、まで聞いてオコリザルはすぐに動き出した。鍛え上げた瞬発力はカイリューに回避させる時間さえ与えない。彼は竜の腕へ飛び移ると、その頬めがけてありったけの力を込めたパンチをお見舞いした。1メートルの体格差を物ともせず、カイリューは塀まで跳ね飛ばされる。
「おおっ!」
MVP級の気合パンチに、施設全体が度肝を抜かれた。しかし、相手はリーグチャンピオンの相棒である。一発ノックアウトとはいかず、彼女は何とか身体を起こして体勢を立て直した。しかし、毒にかなり体力を奪われており、その足元はふらついている。
「カイリュー、大丈夫か?もうあまり、体力がないようだね。空から攻めるか?」
彼女は首を横に勢いよく振った。
あのMVPを獲った格闘ポケモンとは、あくまで地上で戦いたい。最優秀賞は本来ならば我々チャンピオンのポケモンに相応しい!ギラついた瞳からはそんな闘争心が透けて見え、ワタルの気持ちも高まった。
「……わかった。ならば、肉弾戦で行こう!高速移動!」
カイリューは素早くオコリザルへ飛びかかると、尾を振り上げた。「ドラゴンテール!!」鞭のように繰り出される尻尾を、猿は顔面の前に両腕を揃えて防御し、ダメージを軽減する。
「それを掴んで、地球投げだ!」
シバの咆哮を聞いて尻尾に手を伸ばすが、カイリューはすかさず身体を捻って鉤爪を繰り出した。
「ドラゴンクロー!」
「捕えろ!」オコリザルが間一髪で竜の腕を掴んだ。ドラゴンをも受け止める力に、子供たちは大興奮。ワタルも感心していたが、カイリューは腕を突き出すのをやめない。なんとか押し切ろうと力を振り絞るが――身体の毒が邪魔をする。その様子を、シバは見逃さなかった。
「オコリザル、そのままカイリューを地面へ“投げつけろ”!」
ドラゴンの力が緩んだ隙をついて、オコリザルはカイリューを背負い投げした。土ぼこりを舞い上がらせながら、倒れ込む寸前にワタルが声を上げた。
「倒れてはだめだ、カイリュー!“逆鱗”!!」
ここでマウントを取られると、相手の思う壺――カイリューは余力を振り絞ってオコリザルの腕に噛みつくと、全身をばたつかせて拘束を振りほどいた。がむしゃらに体当たりを食らわせ、本能のままに殴り掛かる。こうなるとオコリザルは抵抗すらできず、シバさえも途方に暮れていた。
完全に頭に血が上って、ボルテージは最高潮に。そこでワタルは右腕を振り上げる。
「さあ、終わらせよう。――“竜の怒り”だ!」
カイリューは首を振り上げると、気絶寸前のオコリザルめがけて衝撃波を撃ち放った。これがトドメとなり、猿は完全に気を失ってしまった。シバは肩を落としつつ、役割を思い出してわざとらしい演技を始める。
「ぐああっ……、やられた!!……だが、お陰で目が覚めた。おれは敵に操られていたようだ。ありがとう、ドラゴンスター。お前との友情に感謝するぞ」
あまりの大根役者っぷりにワタルは苦笑しつつ、子供たちへ向けて勝利をアピールする。プロトレーナーのダイナミックな試合を近距離で見ることができ、職員含め有頂天になって喜んでいた。
「良かった、べのむが我に返ったー!」「かっこよかったよお!」「ドラゴンスター最高!」
すぐにリフレクターは解かれ、ワタルと四天王が並んで一礼すると、施設の庭は一層大きな拍手に包みこまれる。小規模だが公式戦をも上回るような温かな賞賛に、プロたちも笑顔を隠せなかった。
ふと、上空から指笛がするのでワタルがそちらへ視線を向けると、屋上から満面の笑みで拍手を送っているシルバーがいた。
彼はワタルを眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
(何かいいな、ああいうの……)
ドラゴンを従えてマントを翻し、戦う姿はまさにヒーローだった。
あのドラゴンスターに、職員が仮装した時のような子供騙しの雰囲気はない。彼は、本物の英雄。
このチャンピオンは孤独ではない。
ついてきてくれるポケモン、信頼し合っている仲間がいる。
(あんな風に、オレもなりたい……)
+++
その後2時間かけて庭の片づけを行うと、空はすっかり暮れなずんでいた。
予定より時間は大幅に過ぎており、四天王は疲労困憊していた。ようやく全てが片付いて玄関ホールへ各自の荷物を運び込んでいると、ナナミが5人に深く頭を下げる。
「今日は本当に……、ありがとうございました!何てお礼をしたらいいか……」
ワタルは恐縮しつつ、申請を不正に変更したことを思い出して彼女へ小声で囁く。
「お礼何て、そんな。……あ、この件はオフレコにしてもらってもいいですか。公になると煩いので。もちろん、割ったガラスや滅茶苦茶になった庭の修繕費用はこちらで負担させていただきます」
「きょ、恐縮です……。私たち、気にしていませんから!安心してくださいね」
あの規模の試合をスタジアム外でやれるはずがないことは、オーキドの孫であるナナミも良く理解していた。
ワタルは四天王に群がって大はしゃぎで質疑応答をしている子供たちを見渡す。今日のポケモンバトルは彼らに大きな夢を与えたようだ。誰もが口を揃えて、自分もプロになりたいと言っていた。この施設は温かな希望に溢れている。そういう子供たちにこそ、もっと試合を見てもらいたい。そう考えたワタルはナナミに向き直ると、まっすぐに告げる。
「今度、皆をスタジアムに招待します。必ず調整しますので、ぜひ試合を観に来てくれませんか」
目を丸くするナナミの背後で、歓喜の声がいち早く響いた。
「マジ!?太っ腹!行きてえっ」
彼女の後ろから、パスケースを持ったシルバーが現れる。そういえば彼は片付けの際、屋上でサボっていたらしく一度も顔を合わせることがなかった。ワタルは呆れつつも「どうだったかな、試合は」と聞いてみる。
「超かっこよかった。初めてドラゴンスターがイケてるって思った」
興奮気味に話すシルバーに、ナナミは驚きを隠せなかった。これほど楽しそうにしている彼は今まで見たことがない。
「ふふ、ありがとう」と、返すワタルの目の前に、彼はレザーのパスケースを差し出した。
「これ、預かってたやつ」
「シルバー君、それ……」
何故それを君が持っているの?と言わんばかりのナナミを見て、ワタルは庇うように口を挟んだ。
「あの服、ポケットなかったので彼に預かって貰っていたんですよ。……シルバー君、っていうんだね。パルクール頑張ってくれよ」
彼ははにかむように頷きつつ、ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出すと、緊張気味にワタルの前に差し出した。
「あのさ……サイン、いい?」
「もちろん!」
屋上から見たワタルの姿は精悍で男らしく、必ずサインを貰おうと思っていたのだ。だが今までポケモンに興味がなかった彼は、関連グッズを何も持っていない。
間に合わせにサインを頼む申し訳なさそうな表情を見て、ワタルはパスケースにしまっていた自身のトレーディングカードを取り出した。
「良かったらこれに書くよ」
影が落ちていたシルバーの顔が、ぱっと明るくなった。
「やった!……でも、自分のカード持ち歩いてんの?」
「いや、これは貰い物」
行きの車内でカードを押し付けてきたカリンを横目で睨みつつ、彼は流れるようにサインを書き入れる。本人から手渡されたカードは一層輝いて見えた。
シルバーはカードを守るようにメモ帳の間に挟んでポケットへ仕舞い込むと、ワタルへ向けてぎこちなく頭を下げる。
「ありがとう、大事にする」
彼が礼をするなど、これまで一度もない。その様子を満足げに眺めながら、ナナミはほっとしたように息をついて微笑んだ。
それから10分ほどして、ワタル達はようやく施設を出ることになった。
玄関で子供たちからお礼を言われ、プロの顔を作りながら颯爽と、ときわ子どもの森を後にする。大きな夢を背負った後姿はとても逞しく、夕日を浴びて一層輝いていた。
シルバーも頬を緩ませながら彼らを見送る。
(やっぱり、あんな風になりてえ……)
駆けだしたいほど溢れ出る憧れが抑えられない。春のそよ風に後押しされ、新たな目標が芽吹いてくる。
(……よし、決めた)
塀を抜けて子供たちの姿が見えなくなると、四天王は早速スイッチを切り替え、各々肩の荷を下ろす。カリンが背筋を伸ばしながら男たちに振り向いた。
「疲れたぁ〜。ねえ、これから飲みに行きましょうよ」
「賛成!ワタルの奢りで大宴会だーっ」
飛び上がって賛同するイツキに、ワタルは目を丸くした。
「ちょ……なんで、オレの奢り?」
「だって、そもそもポケモンバトルをすることになって帰りが遅くなったのは、ワタルがいきなり舞台をすっぽかしてどこかへ消えたからでしょ!」
と、カリンは彼に詰め寄りながら再び怒りを露わにした。ワタルが「いやあれは色々あって……」と弁解しようとしたが、シバが追い打ちをかける。
「そのくせ、最後に美味しい所をすべて持って行ったしな。おれ達にも何か旨みがほしい」
彼はポケモンバトルに負けたことを根に持っており、友人を助ける気など毛頭ない。ワタルは狼狽えながら、申請を変更した話を引き合いに出す。
「って……、忘れてるかもしれないけど、君たちが申請を変更して試合をしたことが公になったら非常にマズイんだけど、それを分かって――」
「お前も乗って来たんだから共犯だろ?」
すかさずキョウに小突かれ、彼は口ごもった。それを言われてはおしまいである。ここで勝負は決したが、後悔はしていない。あれほど盛り上がったのだから、プロ冥利に尽きるというものだ。
観念した様子のチャンピオンを見て、イツキがわざとらしい声を上げた。
「わーい、ドラゴンスターが奢ってくれるってー!さすがヒーロー、太っ腹ぁー!僕、焼肉が良いなぁ」
「うむ、賛成だ。特上を頼む」
焼き肉好きのシバは勢いよく頷いた。カリンも賛同する。
「たっぷり働いた後の焼肉って最高よね」
そんな一方的な盛り上がりに呆気にとられるワタルの肩を、キョウが調子よく叩いた。
「ここでゴネるなんて、チャンピオンのくせにケチなことするなよ。金持ってる奴はどんどん使って経済を回していくべきだ」
「そうですね……」とはにかんだのもつかの間、彼は意地悪く白い歯を見せる。
「俺も酒を飲むから、代行の手配とみんなのタクシー代までよろしくな!ヒーロー!」
「えっ……、そこまで!?」
愕然としているワタルを差し置き、四天王は次々とレクサスに乗り込んでいく。助手席でシートベルトを締めながら、イツキがふと思い出した。
「あー、ナナミちゃんにトキワの美味しい焼肉店聞いとけばよかったね。残念」
とはいえ、あれほど格好をつけて去ったのだから、焼肉店を聞くために戻るなどという真似は今更できない。店を検索すべくスマートフォンを取り出すと、運転席でバックミラーの位置を調整しているキョウが微笑んだ。
「そこは問題ない、トキワには新人リーダー時代によく来てたから美味い店は知ってる」
「本当か!ロースとハラミが美味いところを頼むぞ!」
シバが嬉しそうに後部座席から顔を出す。「私、牛タンが好きなの。それも考慮してね」とカリンも嬉しそうだ。
そんな彼らの盛り上がりを見ていると、ワタルも無下には断れなかった。このイベントが成功したのも、彼らが機転を利かせてくれたお陰だからである。
「まあ……、たまにはいいか……」
呆れるように息を吐くと、彼は軽やかな足取りで車へ乗り込んで行った。
+++
その夜、グリーンが帰宅してリビングへ移動すると、ダイニングテーブルの上にはいつもより多くのおかずが並べられていた。から揚げにサラダ、煮物にミートボール、そして厚焼き卵。鼻歌を歌いながら食器を並べる姉に、彼は呆気にとられながら尋ねる。
「……誰か来るのか?」
するとナナミは満面の笑みを浮かべて否定する。
「ううん。今日はね〜、とってもいいことがあったから!嬉しくって作りすぎちゃった」
温かな湯気と疲労を癒すような良い匂いに空腹を覚えたグリーンは、ソファへ荷物を置くと、そのままダイニングチェアへ腰を下ろした。
「へえ……、イベント成功したんだ?」
「大・成・功!詳細は言えないけど、プロって本当にすごいなあって思ったわ」
目を輝かせる彼女は、まだ夢見心地である。
それほど、あのイベントはきらきらと輝いていた。間近で見るプロのポケモンバトルが、あれほどダイナミックで興奮するものだったとは思わなかった。子供たちがスポーツニュースを全局チェックする程、のめり込む理由も納得できる。そして何より、頂点にいても謙虚で驕らないチャンピオンは素晴らしい。あの難しい性格のシルバーさえも、変えてしまうなんて。
「……確かに、プロは次元が違いすぎる」
嬉しそうな姉の姿を眺めながら、グリーンはぽつりと呟いた。彼もまた、そこへ憧れている者の一人だ。
「そうそう、試験……どうだった?結果は直ぐ出るんだっけ?」
身を乗り出して尋ねるナナミに、グリーンは安堵する様な微笑みを浮かべながら答える。
「合格したよ。来月末から、トキワシティジムリーダーに就任することになった」