第4話:悪意
同時刻、グリーンはセキエイのポケモンリーグ本部ビルにいた。
ここへ来るのは1年ぶりである。すれ違う職員達が怪訝そうな表情で彼を見ていく。その反応は昨年彼が犯した過ちを考えると当然のことであった。
自分はセキエイを一時傾かせた張本人なのだから。
ふさぎ込んでいたときに、自分を救ってくれたワタルの言葉を胸に修行の旅をやり直し、またようやくここまでやって来た。
彼は目的の部屋へたどり着くと、丁寧に三度ノックをする。
「どうぞ、お入りください」
扉の向こうの声を聞き、「失礼します」と断りを入れて入室した。10畳ほどの小さな会議室の奥に、3人の男が座っている。真ん中の男は本部副総監のフジだ。ジムリーダー管理部門のトップも兼ねている。その両隣は彼の部下だろう。
グリーンはゆっくり深呼吸すると、3人の座るテーブルの前に置かれた椅子へと歩み、姿勢を正してはっきりとした口調で自分の名を告げた。
「トキワシティジムリーダー試験、試験番号350のグリーンです」
「はい、どうぞお座りください」
目の前に座るフジがグリーンへ着席を促した。彼は「失礼します」と一礼し、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。一年でずいぶんと様変わりした元チャンピオンを、フジは温かな眼差しで見つめていた。
「ふふ、やっとここまで来たんだね。セキエイの挑戦権が絶たれて……どうするのだろうと思っていたら、ジムリーダーとはね。最初は驚きましたよ」
「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした」
グリーンは額を膝に擦り付ける程、深々と頭を下げた。
「あれだけ世間を騒がせて、またプロに戻ろうなんて……おこがましいと思っています。でも……自分は修行の旅をやり直して気づきました。やっぱりプロの道しかないのだと。どんな批判も受けることは覚悟しています。トキワシティの皆さんにも頭を下げます。だから――」
「本部が君の過ちをまだ許していないなら、書類選考の時点で落としているよ」
伏せた頭を撫でるような、フジの温かな言葉。グリーンは驚きながら顔を上げた。
「良いように考えると、ここまでセキエイが好調なのも君のお陰だしね。君は試験の成績も飛びぬけて良い。ここまで来るのに相当の努力をされたことでしょう。まだ若いのに、たった一度の過ちを許さないほど本部は鬼ではないよ」
柔和な微笑みに、グリーンの目元に熱い物がこみ上げてくる。
必死で気持ちを抑えながら、擦れる声で「ありがとうございます」と頭を下げた。フジは微笑みながらペンを取る。
「さて、これから君の努力について色々聞かせてもらいましょうか。それでは、面接を始めます」
「はい、よろしくお願いします」
グリーンは再び頭を上げると、居住まいを正して気持ちを面接へ切り替えた。
+++
ワタルと四天王は問題なくイベントをこなし、午後からの舞台に向けて支度を行うことにした。ヒーローショーは事前に庭に組み立てられた舞台セットで行われることになっていた。セットと言ってもコンテナを5畳ほどの広さに並べて板を渡し、後ろに衝立を置いただけの簡易的な物である。「デパートの屋上でやっているヒーローショーのセットよりひどい」とイツキは呆れていた。
ワタル達は昼休憩中に職員から施設内の控室へと呼び出されると、各自衣装を渡された。
「衣装は……これです!去年のハロウィンに使ったものなんですが」
お粗末な脚本とは裏腹に衣装はなかなか本格的な作りをおり、アパレルの仕事をしていたカリンも「結構しっかりしてるのね」と舌を巻くほどだった。プロに褒められ、施設職員は相好を崩す。
「ありがとうございます!奮発して外国から取り寄せたんです。ナナミさんによると登場人物はこの衣装のキャラクターを基にしているらしくて……。小道具もありますよ。なぞらーは帽子とステッキ、ぺんぎん伯爵はコウモリ傘とパイプです。ねこレディは鞭をどうぞ」
そう言って衣装と共に渡されたのは本物の小道具である。あまりの気合の入りように、これで三文芝居をするのかと四天王は気後れしてしまった。だが引き受けたからにはやるしかない。カリンが衣装を抱えて隣の部屋へ移動した後、残された男たちが衣装に着替える。
「ねえねえ、なぞらーの服さ……結構良くない!?僕、これ試合でも着たい!」
イツキは緑地にクエスチョンマーク模様のスーツを興奮気味に見せびらかした。帽子も同色で、かなり派手な出で立ちである。彼は「?」モチーフが付いたステッキを振り回しながら嬉しそうに鏡の前でポーズを決めていた。
「さすが、派手だなー」
そう言いながらキョウも着替えを終え、イツキの後ろに立って蝶ネクタイを直し始めた。ぺんぎん伯爵の衣装はモーニングコートを上着にしたタキシード、単眼鏡を掛け、口には紙煙草を取り付けるタイプのパイプを咥えている。普段和装の彼ではまずやらない格好である。イツキは感心したように口笛を吹き鳴らした。
「キョウさんも似合うよ。ザ・英国紳士って感じ!新鮮だね。イケてる!」
「ありがとう。……で、“アニキ”は?」
二人はすぐ後ろに立っているシバを振り返った。ノースリーブのジャケットにミリタリーパンツ。ややごちゃついているものの、至っていつものシバである。イツキは残念そうに顔をしかめた。
「なんだかあんまり代わり映えしないね。よりレスラーっぽくなったような」
「お前らみたいな恰好より、この方が動きやすくていい」
シバは特に気にするそぶりもなく、着替えを終えて台本を確認している。そこへ、部屋の奥で着替えていたワタルが弾んだ声でやってくる。
「みんな、どうかな!?この衣装!」
自慢げに見せる彼の衣装は、胸元に「D」と星形を組み合わせたロゴが入ったブルーを基調としたボディスーツである。赤いマントを翻し、まるで試合のオープニングセレモニーのように颯爽と現れるが――男四天王は唖然として二の句が継げなかった。しばらくして、全員の感想をイツキが代弁する。
「……ダサイ」
きっぱりと言い捨てられ、ワタルは愕然とした。
「ええっ、とてもカッコいいと思うんだが……。今年から衣装がタキシードになってしまったけど、こういう正統派好きなんだよ」
「そんなの好んで着てたらナナミちゃんにフラれちゃうんじゃない?」
ワタルは目を丸くして首を傾げた。その姿を見るなり、イツキは意地の悪い笑みを浮かべる。
「またまた!さっき、触れ合いイベントでナナミちゃん口説いてたじゃん。意外とやるよね」
「へえ、そうなのか」と感心するキョウの誤解を解く様に、ワタルは慌てて口を挟んだ。
「ち……違う!部屋の中から外を見ている男の子がいたから、ナナミさんに事情を聴いただけで……。下心はないから。ポケモンに興味ない子がいるらしくって」
「ふーん。……なんでそんなありえない嘘付くの?」
イツキはまるで信用していないようで、思わず「嘘じゃないから!」と声を荒げてしまう。ポケモンと共存するこの世の中で、それを回避して進むなど不可能に近い。シバも眉をしかめた。
「珍しいな、ポケモンに興味がない奴なんているのか」
するとキョウが口を挟む。
「俺は30過ぎまでペーパーだったが、お前らが思ってる以上にポケモンと関わってない人間は多いぞ。まあ半分は意地だけどな。『こんなポケモン至上主義の世界で、俺は一人で生きて見せる』ってカッコつけてるのさ。どっかで歪みができるけどな」
「そっか。素直に受け入れればいいのにね」
社会人出身のプロトレーナーの言葉には厚みがあり、イツキもようやく納得したようだ。ワタルはほっとする。
「価値観はそれぞれだからね、いろんな人がいるよ。オレはプロとしてもっとポケモンを広めたいところだけど……」
「ねえ、もう着替え終わった?入るわよ」
彼の言葉を遮るように、ドアが少し開いてカリンが顔を覗かせる。男たちの着替えが済んだことを確認すると、彼女はファッションモデルのようにポーズを決めながら軽やかに現れた。
身体のラインがくっきりと出る猫をモチーフにした黒のボディスーツ。セクシーな出で立ちに、男たちはもれなく目を奪われる。
+++
「ねえ、シルバー君。もうすぐ舞台が始まるの。それだけ観に来てくれない?」
舞台発表まであと10分、と迫った頃。
ナナミはシルバーの部屋のドアを何度も叩いていた。内から鍵がかかっており、反応はない。だが確かに中には彼がいる。
「せっかくプロが来てくれたんだから……会わないと勿体ないよ」
説得に苛立ちを感じたシルバーは、目覚まし時計を掴んでドアへ投げつける。扉の向こう側でナナミの小さな悲鳴が聞こえた。それにほんの少しの罪悪感を抱きつつ、シルバーは罵声を浴びせる。
「うるせえなぁ!ほっといてくれよ、子供騙しの劇なんか興味ない!」
「ワタルさんもシルバー君にぜひ、って言ってるのに……」
それを聞いて、彼の心臓は跳ね上がった。……本当に?チャンピオンが自分のことを気にかけている?だが彼はすぐに考えを改めると、「見ない!」と突っぱねた。しばらくの沈黙の後、扉の向こうでナナミの擦れるような声が聞こえる。
「……気が向いたら、来てね」
そのまま彼女の気配は足音と共に消えて行った。
(自分が最悪だと思ってるけど……)
素直になれない。
意地になっている、ということさえ認めたくはない。
それに理由はないけれど、ただ、気に食わないのだ。
カーテンの隙間からそっと庭を覗いてみた。
安っぽい舞台セットの前に自分以外の施設の人間が集まっている。皆、あの下らない芝居を楽しみに待っていた。
(今更、あの中になんて入れない)
苛立ちが再びこみ上げてくる。
どうすればいい?
そもそも、こうなったのはチャンピオンがイベントにやって来たからである。
そんな不条理な考えが浮かんだ。
(……チャンピオンだからって、調子乗りやがって)
その時、彼の中に悪意が生まれた。
(ちょっと、困らせてやろう……)
それはほんの些細な、芽のような悪戯心だった。
彼は外の様子を伺い、ナナミが合流したことを確認する。これで自分以外の人間が全員外にいるのだ。そっとドアを開き、控室へと向かった。そこでプロ達が着替えを行っていたということは、部屋の前を行き来する職員の話を盗み聞きして知っていた。
彼は新品のスニーカーに履き替えると、軽やかな足取りで廊下を飛び跳ねて行く。
誰もいない廊下は格好のステージだ。キャビネットを跳び箱のように乗り越え、窓枠を足場に宙返り。
それはパルクールというアクロバティックに移動するスポーツで、彼の特技である。いつも一人で腕を磨いたそのスキルは相当なものだ。楽しんでいると、すぐに控室へ到着した。
中に誰もいないことを確認すると、早速無防備に置いてあるバッグの中身を覗いてみることにした。
まずは派手なタータンチェック柄のイツキのバッグ。財布にスマートフォン、コミック雑誌にお菓子……ごちゃごちゃとした物が次々出てくる中、ハードカバーのスクラップブックに目を引かれる。中を開くとバイク雑誌の切り抜きばかり貼られていた。
「なんだこれ……つまんね」
彼はバッグを投げ捨てると、次にキョウのレザーバッグを掴んだ。見るからに高そうな外見に手が汗ばみ、気持ちも浮き足立ってくる。期待しながら中を開くと、舞台の台本を始め内容が理解できない書類が整然と詰まっている。他には手帳に業界向けのポケモン専門誌、タブレット端末など。まるでビジネスマンの鞄のようだ。
「あー、面白い物ねえのかよ」
シバの鞄も探してみるが見当たらない。
しばらく漁っていると、部屋の隅に綺麗に畳まれている服が目に留まった。ピンストライプのワイシャツに、きちんとタックが入っている紺色のパンツ。――ワタルが午前中に着ていた服である。
彼は窓のカーテンを少し開けて、外の様子を覗き込んだ。そこからはちょうど衝立の裏が丸見えになっており、ワタル達が緊張した面持ちで出番を待っていた。
「ダサい格好。あれ、ハロウィンのやつじゃねえか」
シルバーは吹き出しつつ、おもむろに彼の服に触れてみた。ワイシャツとパンツの間に、レザーのパスケースが挟まっている。厚みとサイズから、それが何であるのか直ぐに理解した。
「ポケモン免許……!」
それは10歳になると取得が可能になる、ポケモンを所持できることを証明する端末である。トレーナーは携帯を義務付けられているが、ドラゴンスターの衣装にはポケットがないのでモンスターボールだけ持って免許はここへ置いていったのだろう。シルバーは直ぐに理解した。
(チャンピオンの免許って……どんなのかな)
好奇心に駆られ、シルバーは二つ折りのパスケースをゆっくりと開いた。
右側に免許端末がセットされ、左側にはチャンピオンであることを証明するプロトレーナー認定証が収められている。通称ブラックカードと呼ばれるそれは、すぐにシルバーの目を引いた。黒曜石のように輝く姿に、心さえも掴まれてしまう。
「すげえ……」
自分のような人間などは、このような機会がなければ目にすることはないだろう。
息を呑んでしばらく見つめていると、これがどうしようもなく欲しいと感じてしまう。
羨ましい……。
10歳である自分は、免許は直ぐに取得できてもこのカードは手にすることはできない。
無意識のうちに手を伸ばした時――視線を感じて顔を上げた。
窓の向こうで、目を丸くしているワタルと目が合う。
「あ……っ」
見つかった。
すぐにワタルがこちらへ駆けてくる。
彼は慌ててカーテンを閉めると、パスケースを掴んで部屋を出た。
逃げなければ……!
+++
「ちょっと、どこ行くの!?」
突然マントを翻して駆けだしたワタルを、カリンが呼び止める。
「控室に誰かいた!ちょっと行ってくる!」
「えっ、泥棒?」
「いや、そうではないと思うんだ。ごめん、すぐ戻るから先に始めておいてくれ」
彼は子供たちの前へ出ないよう、建物の裏へ周りながら走っていく。状況が理解できない四天王は、はためく赤マントをぽかんと眺めているばかり。慌ててカリンが客席に聞こえないように鋭い声を上げた。
「冒頭のシーンはどうするの!?あなたも出番あるのよ!」
「アドリブで頼む!」
そう言って彼は消えていく。カリンは青ざめながらシバに縋り付いた。
「アドリブって……!私、台本ほとんど覚えてないのに。時間なかったし……」
「な……!おれは自分とその前後の台詞しか覚えてないぞ。昨日の夜に叩き込んだ」
彼は前日の夜に一夜漬けで台詞を覚えてきたのだった。予想外の裏切りに、カリンは珍しく取り乱した。
「だって、ワタルに任せておけばいいかなって思ったの!ああ、もう最悪。ねえ悪役さん達、登場シーン入れ替えない?」
引きつった笑顔で押し付けようとする彼女を、キョウはさらりとかわした。
「いや……これ、最初にヒーローがピチューを救ってソイツが後々俺達を倒すキーになるって話だろ。その伏線を引いておかないと、ストーリーが破綻するんじゃないか」
「おじさま、サイテー!適当にやるって言って、ちゃんと覚えてきてるじゃない!」
「3回くらい読み込んだら嫌でも覚えるって」
そこでカリンは、彼が名門・タマムシ大学を出ていることを思い出した。オーキド博士が絶賛するほど成績優秀なこの男なら、この寸劇の台詞を記憶することなど容易いだろう。その昔、試験前に『大して勉強してない』と笑いつつ毎回高得点を収めていたクラスメートの顔を思い出して殴り掛かりそうになっていると、イツキが口を挟んだ。
「僕もカリンと一緒でほとんど覚えてないよっ!……キョウさんがフォローしてくれるかなって」
「ああ、悪役の台詞は全部頭に入ってるから大丈夫」
「助かったー」
彼は慰めのつもりだったのだが、まさに火に油を注ぐ行為。カリンは唇を噛みしめながら、悪役を睨みつけた。
「あなた達……覚えてなさいよ。正義のヒロインが悪人どもをボッコボコにしてやるんだから」
瞳に秘めた憎悪、溢れる激憤のオーラからは正義感が微塵も感じられない。悪役二人が冷や汗をかいて委縮していると、舞台袖で待機している職員が小声で彼らを呼んだ。
「シバさん、カリンさんお願いしまーす!」
「はぁい♪――行くわよ、シバ!」
カリンは鬼のような形相でシバの服を強引に掴むと、引きずるように表舞台へと上がっていく。
その背中を見送ったあと、悪役二人は顔を見合わせて肩をすくめた。