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第3章
第5話:ヒロイックシンドローム
「聞いたよ。まだ正式に公表されてないようだが、鳳凰会のランスが容疑者に上がっているとか」
 総監の気が張り詰めた眼差しは、事件前に会話したキョウにそっくりだとワタルは感じた。
 スケジュールが合わず事情聴取から報告に至るまでに二日を要したが、ここ一週間見ないうちに元々細身だった総監の体躯は更に痩せこけ、満足に眠れないのか目の下には隈が滲んでおり、すっかり困憊している様子だ。
「ええ……イツキくんのエスパーポケモンがクロバットの過去を覗いて確認しました」
「便利だね。警察に協力すべきだという君の意見をもっと早くに受け入れていれば、もっと迅速に対応することが出来ていただろう」
 謝罪を付け加えず、総監室の自席からリーグ本部の王として毅然と構える姿は相変わらずであるが、胸の前で組まれた両手は小刻みに震えているような気がした。報復への恐れだろうか――ワタルの視線に気付いた総監がそれを否定する。
「疲れているだけだよ。報復ごとき恐れていたら組織の長など務まらん……昔はこの土地を手に入れるため、地元の三流やくざだって相手にしていたんだ」
 反応に困るワタルを見て、総監は話題を逸らすようにスーツの懐からモンスターボールを取り出し、デスクの中央に置く。
「それに私は君ほどではないが、昔から鍛えている自慢のポケモンがいるからね。自衛には十分だ」
 中には穏やかに燃える鬣を蓄えた老ギャロップが収まっているが、主の盾になることを厭わない勇敢な眼光にワタルは感心する。しかし、ボールに入れたまま所持しておくのはリスクがあった。
「その件で一応お聞きになっていただきたいのですが、事件当時、キョウさんのボールが開かず犯人に抵抗できなかったようです。原因は調査中ですが、外出される際はなるべくポケモンを連れ歩かれるようお願いします」
 その報告は初耳で、総監は絶句した。
「プロの……それも最もチェックに煩い彼が? ぼんくりの時代じゃあるまいし、それは妙だな。ポケモンの生命に直結する問題だから、故障なんて滅多に起こらないはずなんだ。私も開発には随分出資したが、モンスターボールは稀代の大発明だぞ」
「あの時現場にはポケモンが降らせたと思われる豪雨が降っていましたが、それでも故障なんて考えられません。その時のボールは今現在、異常はないですし。おかしいですよね」
「この地方のモンスターボールのシステムはうちで制御しているはずだが、システム部には確認したのかね?」
 総監はデスクから身を乗り出す勢いでワタルの話に食らいつく。システムを制御しているとはいえ、本部がモンスターボール関連で請け負っているのは免許端末に連動したプログラムの調整のみだ。
「昨日マサキさんに確認していただきましたが、残念ながら本部からボールを個々に監視している訳ではないのでピンポイントで原因を追究することはできませんでした。事件当時、本部側の設備で妙な動きがあったログもないそうです。キョウさんの免許端末の方も現状問題はなく、システムログは流れていて解析が難しいとか……」
 明確な結果が得られない報告は総監が最も嫌いとする。特にこのような欠陥は致命的だ。彼はさっと腰を上げると、壁に並んだキャビネットの中からシステム関連のファイルを探してぱらぱらとめくり始めた。専門分野でないから詳細には明るくないが、概要はそのような人間にも分かるようにまとめさせている。
「だけど端末側が怪しいね。免許端末には近距離無線を飛ばしてボールを開ける機能があるから、それをいじれば細工が可能かもしれない」
 ワタルもその内容を背後からそっと覗き込もうとした時、ちょうど総監の手があるページで止まった。表題は『ポケギア新機能紹介』とある。
「そういえば昔、ポケギアという通信端末のシステムを外注にリプレースする際にボールの緊急解放機能も付けたんだよ。この機械はスマートフォンが普及したり、免許端末の性能が向上して十数年前からジムリーダーしか使っていないが、問題を解決する糸口を掴めるかもしれない。そういえばこの案件を進めていたのは……」
 ビニールホルダーから取り出した資料の最後のページにはプロジェクトの担当者が羅列されており、その中にジムリーダー時代の肩書でキョウの名が記されていた。これほど運が悪いことはなく、総監も無念を露わに書類を握る右手が震えていた。もし彼がまだジムリーダーだったなら、あの事件に対処できたのかもしれない――だがそれは結果論だ。ワタルはすぐに気持ちを切り替え、その横に並ぶもう一人の責任者の名を挙げた。
「副総監のフジさんに聞けば何か分かるでしょうか」
「正直、彼は名前が連なっているだけだからな……この案件をよくバックアップしていたヤナギさんに尋ねてみるのもいいかもしれん。ポケギアに関してはうちはもう殆ど関与していないし、若いリーダーも使い方くらいしか知らんだろう」
「なるほど、そうします。それとこの書類、コピーさせてください」
 ヤナギにはサカキの話も聞きたかったことだし、これはちょうど良い機会だ。再発防止に意気込むワタルの勇ましい顔つきを見て、総監は安堵するように頬を緩めた。
「頼んだよ」
「お任せください。何があろうとリーグを守ります」
 秘書から書類のコピーを受け取ったワタルは、総監に向き尚って恭しく頭を下げた。彼のようにどんな時も前を向く気高いヒーローは、周囲に大きな影響をもたらしている。
「総監も、警察に警護を付けるよう依頼した方が……」
「『臆病者は戦士に非ず』、だよ。組織を守りたいのは同じだ」
 総監はデスクに置いたままのギャロップのボールを掴むと、誇らしげにワタルの前に掲げて微笑んだ。
「さっきも言ったが、報復に怯えるなんてリーグ総監の名が廃る。私だってポケモントレーナーの端くれだ、外に出たらギャロップを連れ歩き、何かあったらこいつで応戦してやるさ」
 かつて新幹線と並走したギャロップは数十年の時を経てもその肉体は逞しく、穏やかだった鬣をボールの中で勢いよく噴火させる。プロであるワタルにはその鍛え上げた実力が一目瞭然だ。このパートナーを日頃連れ歩いていれば暴漢が現れようと対処可能だろう――そう確信したワタルは、総監に敬意を表して再び一礼し、部屋を出た。
 背広を纏った後姿こそ精悍な会社員風だが、彼は一度試合が始まれば黒いマントを翻してドラゴンを巧みに操る、高尚な意志を持ったこの地方きってのスーパーヒーローである。総監は長年の犠牲の上にこれほどの逸材が生まれた誇りを相棒のボールと共に固く握りしめた。身を粉にして作り上げたポケモンリーグ組織は世界インフラ規模にまで発展したが、その足元には闇に葬った犠牲がいくつも転がっている。今後それらが明るみになることがあっても、責任を取る覚悟はできていた。

+++
 
『五月三十一日、本日のトレンドコーナーは来月三日に迫る“ポケモンの休日”に向けて、お気に入りのパートナーと楽しめるコガネシティの人気カフェをご紹介しまーす!』
 その日の朝の情報番組はようやく四天王事件から離れ、普段通りの内容を展開していた。呑気な番組が流れる一方で、実行犯であるランスは警察の手を逃れ今だチョウジの地下アジトで寝泊まりしているし、被害者は意識を取り戻していない。シルバーは施設にいた頃のように無心で番組を眺めていたが、もうあの頃のような日常を実感することはできなかった。両膝を抱える掌はじんわりと汗ばみ、しかし熱を帯びていない。
『まず一軒目はポケモンと一緒に食べられる種類豊富なケーキ店、パティスリー・コガネです。ここは何といってもガトーショコラが一番人気で、ジョウトの女性ジムリーダーにも常連が多いとか!』
 テレビ画面に映し出された艶やかなチョコレートケーキを見て、シルバーはぽつりと呟いた。
「……マグマラシの好物だ」
 シルバーはトレーナー修行の旅に出ていた頃、所持金に少し余裕が出るとポケモンも食べられるデザートをコンビニで買ってマグマラシと分けていた。その中でもポケモンが気に入っていたのはガトーショコラだが、ポケモンがチョコレート中毒を引き起こさないよう人間にとっては淡泊な口当たりになっており、シルバーには物足りなかったことを覚えている。ほんの数か月前までの記憶なのに、今は何年も昔の事のように感じられた。彼は膝を抱えたまま、部屋の隅に置いてあるボディバッグを一瞥する。
 もともと倉庫として作られている室内は三十畳ほどのコンクリートの箱の中にテレビとローテーブル、そして革張りのソファが置かれているのみである。その周辺にはシルバーとランスの荷物が転がっており、少年のバッグは壁の隅に立てかけられていた。ルギアを手に入れてから一月ほど経過したが、前の手持ちはあの中にまとめて収納されている。指示役の“ニケ”がポケモンセンターのボックスに預けるべきではない、と言うのであのバッグがボックス代わりだった。今のモンスターボールは高性能で、ポケモンを冬眠状態にさせる機能が付いているから長い間外へ出さずとも健康上の問題はない。そのため自警活動を始めてからマグマラシ達を一度もボールから出していないが、バッグは必ず現場へ持参するよう心掛けていた。それは思いがけず手に入ったルギアを今だ信じきれないことが大きい。
「お前はガトーショコラ食べるの?」
 ベルトに装着していたルギアのボールを取り外して外から尋ねてみるが、ポケモンはこちらに軽蔑の眼差しを向けたまま押し黙っていた。ここ一月、海の神はずっとこの調子だ。自分を侮蔑するように睨み、しかし一切反発することなく背中を預けてくれる。まるで渋々従っているように見えて、シルバーには不愉快だった。理想はワタルとカイリューのような信頼関係だが、それには程遠い現状である。
「も、文句があるなら言えよ」
 腹を割って話せばあのコンビに近付けると思ったが――ルギアはシルバーの首筋を憎々しく睨み付けながら、ぷいと顔を逸らした。通気性の良い生地を使ったチャコールグレーのモックネックシャツの襟元には、ランスから渡された緑がかった羽根型のバッジが煌めいており、それが気に入らないのかもしれない。
「これ、ヒーローの証らしいんだけど……お前が気に入らねえんなら外すよ。そしたらちょっとは話せるか?」
 シルバーはシャツの襟ぐりを引っ張りながら、バッジのピンに手をかけた。ランスは咎めるだろうが、ポケモンにいつまでも蔑まれていてはトレーナーとしての立場がないのである。だがキャッチを緩ませた途端、外から階段を下りる靴音が響いてシルバーの身体はたちまち硬直した。もしや警察がこの場所を突き止めたのか――
「“ルーク”、時間だ。行こう」
 現れたのは同じような軽装をした相方のランスである。見た目は早朝の街中を走っている精悍な青年だ。彼はソファの隅に置いていた黒いスポーツバッグを肩にかけると、そのまま身を翻して出入り口へ向かう。
「お、おう……」
 ランスの前でバッジを外すのは躊躇してしまい、シルバーはボディバッグを抱えすぐに後を追った。ニケから送られた黒い通信端末を懐から取り出して片耳に装着すると、まだ顔も合わせたことがない仲間から指令が届く。
『二人とも準備はいい? 事前に送った端末を指示通りに動かしてね』
 事前に送った端末、とはランスが抱えているバッグに入っているノートパソコンで、数日前にニケの手持ちだというヤミカラスから送られてきたものだ。
「了解した。それでは“イカリ電話基地局”上空へ移動する」
 シルバーと同じく右耳に通信機器を装着しているランスは、通信の接続を切ってビルの外へ出た。窓のない空間から外へ出ても日の当たらない路地裏のため眩暈を覚えることはない。シルバーは早足の相方となんとか横並びになりながら、ふとした疑問を尋ねた。
「……そういえばアンタ、ニケを見たことあんの?」
 指令役とはいえ、今だ顔を見せないことはシルバーの不満の一つだった。暴力団を片付けるならまだしも、四天王にまで手を出してからは不審の種が芽生えている。
「任務中は“ソロ”と呼んで貰おう。ニケと会ったのは一度だけ……出所後、どこにも行く当てがないオレを救ってくれたんだ。彼女は命の恩人だ」
 人気のない駐車場に到着すると、二人はそれぞれの手持ち――ホウオウとルギアを繰り出して鞍を装着せずにそのまま騎乗し、上空へ飛翔した。大変目立つ外見ながら一切騒がれることなく飛び立つことができるのは、ここがチョウジタウンでも寂れたエリア且つ早朝という時間帯が幸いしているのだろう。

 そんな場所はトレーナー界のスターが身を隠しながらドラゴンで着地するにも適している。二人のヒーローが飛び立ってから遅れること三十分、同じ場所にワタルを乗せたカイリューが降り立った。青年は長い脚で軽やかに駐車場へ着地すると、ライダースジャケットを脱いでドラゴンの鞍を取り外し、それらを丁寧にカイリューが肩に掛けているサイドバッグの中へ仕舞い込んだ。風の抵抗を受けない上着に、装着が義務付けられている鞍、それらを収納する入れ物――こちらは先ほどの二人に比べ常識的なポケモン乗りの様相である。
「うん、ここから歩いてイカリの湖へ行けばちょうどいい時間かな」
 ワタルは右手でシャツの襟を正しながら、左腕に巻いた腕時計で時間を確認する。徒歩でチョウジタウン北部のイカリの湖に向かっても、ヤナギと待ち合わせた時間には三十分ほど余裕があった。これは二日前に同じ場所に訪れた際に算出した結果である。
 総監への報告後、すぐにヤナギへアポを取ったワタルは二日後顔を合わせて用件を説明したが、資料が間に合わずヤナギも多忙で、そこから更に三日後を要することになったのだ。今日はその二度目の面会だが、事件の影響を受けジムリーダー側の対応に追われているヤナギは時間が取れず早朝六時過ぎの待ち合わせとなった。とはいえ、リーグが通常営業していた頃は誰より早く出勤して、その後すぐにやって来たシバと手合せしているのだからワタルもカイリューもなんら苦ではない。
 むしろ一際目立つ貴重なドラゴンを連れ歩きながら街中を移動する方が面倒だった。育成に手間がかかるカイリューは気軽にお目にかかることが出来ず、カントー・ジョウト地方ではテレビ中継されているワタルの試合でその存在を知る者も少なくない。その為彼は変装を諦め、時折野生のポケモンが行き交う人通りの少ない路地を選びながら湖へと向かうことにしたのである。遠回りになるが、ボールが突然開かなくなる事例を受けてポケモンの連れ歩きはプロトレーナー全員に言い渡されており仕方がないことだ。目立つ上に警護しづらいポケモンで出歩くことに四天王や警察から呆れられたが、相棒は日常的な移動手段だし、いざという時は最も頼もしい。ワタルはそれを譲ることが出来ず、また実力も折り紙付きであることから人的警護は免除された。
「そういえば君を街中で連れ歩くのは久々じゃないかな。市街地では目立つから、いつもボールだね」
 すれ違う人々の視線を受け流しつつ、ワタルは相棒に目配せする。彼女は久しぶりに主人と歩くことができた幸せを噛み締めるように頷くと同時に、それを他者に邪魔されないよう背中に届いた好奇の眼差しを片っ端から王者の風格で跳ね返した。鍛え抜かれたドラゴンの佇まいはそれだけで他人を圧倒するが、時折それを容易く潜り抜ける図太い存在もいる。
「あの、チャンピオンのワタルさんですよね! 握手、いいですか!」
 イカリの湖近く、ヤナギと待ち合わせている自然公園に入ろうとした時、外に停まっていたワゴンカフェから若い男性店員が両手を広げながら身を乗り出してワタルに尋ねる。キョウの前例もあるので彼は一瞬戸惑ったが、目を輝かせながら握手をねだる青年はただ純粋な一ファンで間違いない。ワタルが右手を伸ばしてそれに応じると、青年の表情は一層明るくなった。
「ありがとうございます! 僕、あなたのファンなんです。良かったらお飲み物はいかがですか。サービスしますよ」
 待ち合わせにはまだ少し時間がある。カフェインを入れて気を引き締めるのもいいかもしれない。
「お気遣いありがとうございます。コーヒーのブラックと……」
 ワタルは車の窓に貼られたメニュー表に目線を滑らせる。飲み物の他にはポケモンも食べられるスコーンとクッキー、そしてチョウジ名物のいかり饅頭が用意してあった。店を立ててあと一品は注文すべきだが、口が渇く菓子ばかり。ちらりと一瞥した相棒がクッキーの写真を食い入るように見つめていたので、ほっとしながらそれを頼んだ。
「色々大変ですけど、リーグの復活待ってます。試合観れないのは寂しいです」
 試合を待ち望む青年の横顔は、二年前にリーグが休止した際に再出発を応援してくれたファンやスタッフのそれに似ていた。セキエイリーグは人々の日常を彩る存在。スポットライトの光を落としたままにすることはできない。
「ありがとうございます。少しでも早く再開できるよう尽力しますので、応援よろしくお願いします」
 ワタルは蓋付き紙コップに入ったコーヒーとクッキーの包みを受け取ると、青年にさっぱりとした笑顔を見せて颯爽と身を翻す。涼しげな白いリネンシャツに紺色のストレッチパンツというシンプルな出で立ちながら、身体を捻るだけでマントが舞っているかのような身のこなしに青年は息を呑んだ。朝日を浴びながらドラゴンと並んで歩く姿はフィールドへと向かう王者そのもので、しばらく釘付けになっていたが――爽やかな初夏の風に何かが揺れて、青年はふいに手元で目線を落とす。サービスだと言ったはずなのに、キャッシュトレイには千円札が一枚乗せられていた。
 
 湖付近を行き交う人々は、遥か上空を未知のポケモンが並んで飛んでいることなど知る由もなかった。
 一月前までは何とかルギアに跨っていたシルバーも、今では自身の翼のように思うがまま飛行することが可能だ。鞍を装着せず、たった一ヶ月で乗りこなせるなんて――初夏の鮮やかな晴天を駆けると、鬱々としていた心境から解放されて少しばかり気が楽になった。
「なあ、ニケって見た目どんな感じ?」
 軽い調子で尋ねるが、ランスは前を向いたまま至って真面目な口調で答えを返した。
「年は恐らく三十代半ば、君のような赤毛で、そして美人だ」
 美人と聞けばあまり悪い印象は抱かない。それに相方の冷淡な仮面の裏に男の下心を垣間見た気がして、シルバーは初めて彼に共感した。
「彼女はオレの意見に賛同し、悪が蔓延るこの世を憂いでいる。オレはなるべく彼女に報いたいし、そしてこの世界を変えていきたい」
 これまで聞き流してきた物堅い主張も建前ではないのか――と考えるだけでシルバーの口元が緩み、任務への疑念も薄らぐ。飛行ポケモン乗り達の領空を遥かに超えた高さで飛行し続けていると、それもやがて消えて無くなっていた。
 顔を合わせたこともない親の為にチャンピオンの道が閉ざされようと、自分の伝説のポケモン・ルギアの背中に跨り、大空を翔る自分は選ばれしヒーローに他ならない。ルギアは相変わらずの仏頂面だが、最強の力を使いこなすことはワタルに匹敵するトレーナーのはずで、眼下に広がる“いかりの湖”とその周辺を行きかう人々が水たまりを通り過ぎる蟻の群れのように見えて優越感に浸ることができた。
(こんな景色を見られる人間がどれくらいいる? オレと、あいつの二人だけだ)
 それはきっと、チャンピオンの椅子より高い価値がある。
(正直まだやってることに対して不安だけど、仲間もいるしポケモンは強いし……)
 ちらりと視線を向けると、ルギアは顔を逸らしランスは同じく無表情のホウオウに跨ったままノート端末に目を落としている。ワタルが同じ動作をしたら手持ちは間違いなく反応するだろうし、四天王も誰か一人は気付いてくれるのではないだろうか。
『一人で守っているんじゃないんだよ、セキエイの椅子は』
 なんて言いながら笑う彼は、頂点に立っていながら孤独とは無縁のように感じられた。
(……でもオレは)
 ふいに以前の相棒が恋しくなって、シルバーは背負っていたボディバッグを腹へ回してジッパーに手をかけたが、その甘えはランスによって遮られた。
「さあ、ショータイムだ!」
 ランスがホウオウに騎乗したまま腰を上げ、端末を掲げながらエンターキーを押下する。
「何が始まるんだ?」
「それはこれからのお楽しみだ」
 ランスは少年にノートパソコンのディスプレイを見せつけながら、唇の端を吊り上げて笑うような素振りを見せた。ディスプレイには処理の進捗を知らせるプログレスバーが表示されているのみ。赤い棒がぐんぐんと横へ伸びて行き、やがて百パーセントを示してチープな警告音と共に実行完了のメッセージウィンドウが現れた。
 直後、地上一帯を駆け巡った轟きにシルバーは耳を疑った。
 音は明らかにパソコンから発せられたものではない。その下で跳ねた水たまり――ジョウト最大級の面積と貯水量を誇る“イカリの湖”の地底から火山が噴火していた。天空を揺るがす唸り声を上げる猛炎は、よく見ると鮮やかな緋色の鱗で、その肌を有するのは巨大な龍だ。それも、チャンピオンの凶暴な手持ちとして名の知られたポケモンである。
「赤い……ギャラドス……?」
 だが一般的にギャラドスの体躯は青く、深紅に艶めく種は非常に珍しい。ポケモンには突然変異の色違いが存在するというが、シルバーが一年近く旅を続けても発見することはできず、今回ようやく目にかかることになったのだ。青く澄んだ湖面に映える赤き龍は少年の心を鷲掴みにしたばかりか、相方の青年をも魅了した。
「素晴らしい! これもオレ達の力なのか……」
 感嘆の息を漏らすランスにシルバーが目を見張る。彼は得意げにノートパソコンを見せつけた。黒く染まったディスプレイは“complete”の赤文字が一つだけぼんやりと浮かんでおり、闇からシルバーを睨み据えているようで思わず身震いを覚える。
「ニケによると、このプログラムはホウオウやルギアと共鳴して神秘的なポケモンを生み出すことができるんだよ――しかしなんと美しい様相だろう。シルバー、もう少し近くで見てみようじゃないか」
 赤いギャラドスに魅せられたランスがホウオウの高度を下げ、泉の傍へ向かって行く。シルバーは慌てて後を追った。

 ぱしり、と大粒の雫がコーヒーの蓋の上で弾けた。
 木々の合間からイカリの湖が覗く公園のベンチに腰を下ろしていたワタルは、雨が降って来たのかと一瞬だけ錯覚したが人々の喚声と地鳴りのような唸りを聞いてすぐに腰を上げた。公園を囲む並木越しでもはっきりと目に留まるその鮮やかな体躯は、色は違えど日常的に見慣れた手持ちポケモンのそれである。彼は飲みかけのコーヒーをベンチに置くと、芝生を蹴って騒ぎの現場へと駆けだした。その距離五百メートル程度、後をカイリューが追い、柵の外へ飛び出すと――視界が開けて青臭く湿った空気が鼻を突く、広大な湖が広がっていた。澄んだ空と対照的に、湖面は降り注ぐ日照雨で激しく揺れて淀んでいる。しかし周囲の注目を独占するのはこの渺々たる水たまりではなく、その中央でのた打ち回っている赤い龍だ。
「ギャラドス……」
 色違いのポケモンはこれまで多く見て来たし、ギャラドスも同様だったので今更それ自体に驚くことはない。問題は湖面を激しく波打たせながら唸りを上げるその錯乱ぶりだ。目を血走らせ、身体を激しくうねらせる姿は混乱状態に陥っているのかもしれない。ワタルが様子を確認しようと水際まで接近した時、傍にいた若い女が悔しげな声を漏らす。
「せっかく写真撮ったのに圏外かあ。すぐ“呟きたい”のに!」
 ジョギング中だった思われるスポーティな格好をした女は、右手に持ったスマートフォンを揺り動かしながら電波が入る場所を探してその場を離れた。ワタルもそれに感化されて懐からスマートフォンを取り出してみるが、同じく圏外を表示している。免許端末も同様だった。
「ここは電波が入らないのかな」
 しかし周囲を見渡してみると、ギャラドスに向けて携帯カメラを掲げていた人々は皆一様に首を捻っている。観光地としても有名なイカリの湖だが、地元民も多いこの時間帯に圏外に驚く者ばかりというのは奇妙だ。そしてあの赤いギャラドスの混乱状態――マサキに言えば鼻で笑い飛ばされるかもしれないが、ワタルはこの二件が関連しているように思え、傍にいたカイリューに振り返る。
「捕獲してみようか。あのギャラドスが野生ならいいんだが……」
 免許端末のネットワークが遮断されているためポケモンの使用申請は出せないが、捕獲目的ならばその手間は必要ない。カイリューは二つ返事で了承すると、肩に掛けていたサイドバッグを腹の前に回してフラップを開いた。ワタルは身を屈めたドラゴンに慣れた手つきで鞍を装着すると、軽やかに跨って手綱を握る。ここまで僅か三分と掛からない動作だ。
 それでようやくギャラドスに釘付けになっていた人々が彼の存在に気付き、驚愕の声を上げる頃にはカイリューはギャラドスの目と鼻の先まで迫っていた。ひとたび暴れ出せば町一つ壊滅すると言われる凶暴ポケモンは突如視界に入ってきたポケモンに牙を剥いて飛びかかってきたが、相手はマッハスピードを出せるドラゴンである。肌に掠りもせずすり抜けていき、さっと頭の後ろへ回り込まれた。ワタルは鐙の上に立ちながら、ICマーカーの有無を確認する。マーカーはピアス同様身体に打ち込んで装着するため、ポケモンごとに痛みを感じにくい最適なポイントが存在していた。一般的なトレーナーは免許端末でそれを調べながら装着するが、ワタルは既にギャラドスが手持ちにいる為、ポイントの判断は迅速だ。
「マーカーは装着していないようだ。おそらく野生……捕獲しよう。この混乱状態で放置しておくのは危険だ」
 ICマーカーはトレーナー所有の有無を確認する証で、通常ならば免許端末がそれを読み取って捕獲可能かを確認してくれるのだが、現在端末の電波モードはオフになっているためその機能は使えず、判断は目視のみ。公式戦以外の場面でアマチュア所有のポケモンをプロが倒してしまうと裁判沙汰にもなりかねないため、ここは慎重にいかねばならない。ワタルはカイリューが斜め掛けしているサイドバックから空のモンスターボールを取り出すと、片手で手綱を握りながら水際まで降下した後、再びギャラドスの正面に回り込む。軽やかで無駄のない動きに観衆から興奮の歓声が沸いた。
「カイリュー、電磁波」
 でたらめに身体を振り回しながら彼らを捕えようとする野生のギャラドスは、隙だらけで体格差もハンディですらない。カイリューがギャラドスの眉間に放った電磁波たった一撃で、凶暴ポケモンは身動き一つとれずに湖面へ崩れ落ちた。降りかかる水しぶきを気に留めず、ワタルは次の指示を出す。
「次は竜巻で――」
 刹那、相棒と共に背中が焦げ付く熱を感じ、すぐに横へ逸れた。その直後、眩い炎の塊がギャラドスの浮かぶ湖へと吸い込まれていく。ワタルとカイリューがさっと後ろを振り向いた。
 柔らかな朝日の中に浮かぶ白銀の雲と虹。ワタルは思わず目を奪われたが――
「奇跡の存在を傷付けるのは許さんぞ」
 虹の上で怒りを湛えた男を見て愕然となった。
「ランス……!」
 イツキのポケモンが見せてくれたクロバットの記憶映像が鮮明に蘇る。降りしきる雨の中、ぎらぎらと輝く憎悪だけが宿った双眸――何もかもあの時のままだ。シバに紹介されて初めて会った時の雄姿も、一昨年に印象的だった余裕のない情熱も一切感じられない、壊れた理性を剥き出しにした悪魔のような雰囲気にワタルは血の気が引いていくのを感じた。
「ホウオウ、大文字!」
 ランスが騎乗する巨大な虹色の鳥がカイリュー向けて猛火を放つ。初めて見る存在だが、既視感があった。あれはエンジュの伝承に登場する伝説の鳥に酷似している。ワタルは手綱を引いて数メートル手前で攻撃をかわしたが、それだけ距離をとっても肌が焦げるような熱に苦痛の声が漏れた。カイリューの肌にもぶわりと汗が吹き出し、自身のリザードンに匹敵する火力であることは間違いない。
「ホ、ホウオウって、伝説の……」
 そしてもう一匹、雲に紛れる白銀の龍が目に留まる。こちらも同じく伝承のみで存在が確認されているジョウト地方の海の神ルギアだ。朝日を背負って羽ばたく姿は神々しく、湖に集まる民衆同様油断すれば目を奪われる美しさだが、今は両者を拝んでいる余裕はない。敵意を剥き出しにした“ポケモン”ならば迎え撃つべきだと、カイリューとワタルに染み付いた闘争心が身体を突き動かす。
「さあルーク、アシストを頼むぞ。今こそ悪を討つ時だ!」
 ランスがルギアに騎乗するトレーナー向けて檄を飛ばした。もう一人仲間がいる――ワタルが目を凝らした先に、見覚えのある赤毛の少年が居た。
「君は……」
 鞍も付けずに危なっかしくルギアに跨るかつての悪童は、バツが悪そうに小さく会釈する。昨年、トキワの児童養護施設で会った時も最初はこんな風に素っ気ない態度だった。ナナミの話によれば既にバッジを六個も取得し、順風満帆なトレーナー修行を送っているはずである。
「何故、ランスの元にいるんだい?」
 ワタルの問いに、シルバーは口を噤んで顔を伏せた。真っ青になって小さく震えているようだ。
「ルーク! 早く攻撃を!」
 いつまでも動かない相棒に業を煮やし、ランスは仕方なくホウオウを嗾ける。眩い炎がドラゴンに迫り来るが、騎乗するトレーナーがすかさず回避先の誘導をする。炎が湖面の蓮を灰に帰す前に、カイリューは水面を滑空しながらホウオウと距離を広げた。その間にワタルはもう一度携帯を確認したが、やはり電波は届かない。
「圏外でなければ通報しているんだが……仕方ない、シルバーくんを狙わずに応戦しよう」
 ホウオウと距離を離していたワタルは手綱を引いてカイリューを素早く切り返した。振り向きざま、周囲に舞った風を高めて水を巻き上げながら竜巻を発生させホウオウを狙う――が、灼熱の大文字がそれを強引に切り裂いてワタルに襲い掛かる。カイリューは軽やかに一回転しながら攻撃を逃れた。トレーナーごと焼き尽くさんばかりの勢いは、かつて反バトル論を掲げていた経歴からはとても信じられない。
「バトルはしないんじゃなかったのか?」
 ランスはワタルの疑問を撥ねつける。
「これは悪を討つ為の手段だ!――もう一度、大文字!」
 三度同じ技を指示する主人に、ホウオウはややうんざりしつつ嘴を開いたが――たったそれだけの、ほんの僅かな隙に緩やかな風が翼を撫で、たちまち水を撒き込みながら暴風と化した。イカリの湖に発生した大嵐はホウオウとランスを水上竜巻の中へ閉じ込め、傍にいたシルバーの身体をも激しく揺らす。少年はルギアの首にしがみついているのがやっとで、伝説のポケモンでもチャンピオンに歯が立たないことに愕然とした。
「な、何で勝てないんだよっ! オレ達は伝説のポケモンを手に入れたのに……」
 悲鳴を上げるシルバーの目の前に、カイリューに跨ったワタルが現れた。
「いくら強いポケモンを手にしたって、愛情を注いで信頼関係を築き上げていかなければ真の力は引き出せないんだよ。君のポケモン、あまり懐いていないようだね」
 悲哀を湛えた面持ちが揺れ動く少年の心に杭を突き立てる。
 およそ一年ぶりに再会した憧れのヒーローは、やはり精悍で頼もしく、傍にいてもはるか遠くに存在しているように思えた。背中を許しているカイリューは主人を気にかけ、落ち着き払いながら翼を上下させている。ルギアと違って主人に忠義を誓っているのが一目瞭然で、果てしない格差と何もかもチャンピオンに届かない現実に絶望した。伝説のポケモンを手にし、夢のスーパーヒーローに近づいたはずなのに――ただ、惨めだ。思い込みだったなんて信じたくない。
「そんなことねえよ!」
 少年の中で何かが吹っ切れ、殆ど悲鳴のような絶叫へと変わる。無言で羽ばたくルギアの後頭部を叩き、暴風を跳ね除ける威力の真空波を発動させた。不意打ちの攻撃にカイリューは吹き飛ばされ、ワタルがベルトの端に装着していた空のモンスターボールが遠くへ弾け飛んで湖へ消えた。相棒が入っていたボールなのでワタルは気に留めず、空中でドラゴンの体勢を立て直すことを優先する。
「オレは強いんだ、最強のトレーナーなんだよ! 愛とか信頼とか……甘えた事言わなくたってな、てめえに勝てるはずなんだ!」
 シルバーはルギアの背中に立ち、足を踏み鳴らしながら追撃を命じる。海の神は苛立ちを注ぎ込むようにドラゴンに標準を合わせると、間髪容れずに喉の奥から激流を発射した。その技、ハイドロポンプ――とワタルが認識した直後、左側に熱を感じてすぐに上空へ飛び立った。暴風から解放されたランスがホウオウに大文字を命じたのだ。間一髪で炎は回避したがそちらに気を取られてしまい、ハイドロポンプはカイリューの尾に命中し、ドラゴンは空中で大きくバランスを崩してしまう。ワタルも自由を失って、身体が鞍から浮き上がる――カイリューの意識が主人を向いたその刹那、少年は畳み掛けるように叫んだ。
「ルギア、エアロブラスト!」
 再び放たれた真空波は緩みかけた嵐を蹴散らし、隙を見せたドラゴンとワタルを湖の中へ叩き込んだ。
 黄金色の巨躯はみるみる青緑色の湖の中へ消えていき、吹き上がった水柱は水上十メートルを飛ぶルギアの翼に降りかかってその背に跨る少年の頬を濡らす。湖の周囲は騒然となり、人もまばらな中で彼の耳に届くのは「なんてひどいことを!」といった罵倒ばかりだ。誰もヒーローなんて称えることはない――が、ただ一人、傍で熱心に手を叩く音がする。
「やったな、ルーク! 素晴らしいタッグバトルだった。煩いギャラリーの記憶はニケのオーベムを使って消し、ギャラドスもそっとしておこう。予想外に混乱を招いてしまったしね」
 ホウオウに跨るランスが、口角を引っ張り上げながら労いを掛けてくれる。シルバーはこの男の、まるで感情が籠っていない笑顔が何より嫌いだった。
「技が一つも命中しなかったくせに!」
 彼はそう言い捨ててルギアの腹を蹴り、さらに上空へ飛翔するよう命じる。今は何もかも不愉快で、ただこの場から離れたかった。自分は選ばれた強いトレーナーのはずだ――とルギアに視線を向けてみても、ポケモンは目線すら合わさずにぐんぐんと太陽に近づいていくのみ。シルバーは一層虚しくなった。

鈴志木 ( 2014/09/24(水) 18:54 )