第4話:忍び寄る危機
背広姿の中年男性がメモを取りながらワタルに尋ねる。
「最後にキョウさんとお話しされた時、彼の様子はいかがでしたか?」
刑事がトレーニングウェアからスーツに着替えると、途端に厳格で全く隙のない風格を醸し出すのだな、とワタルは感心した。彼はタマムシ市警の刑事で、その隣で同じように黙々とメモを取っている男は付き添いで来たトキワ市警に籍を置く刑事である。管轄が異なる二人の刑事が帯同してセキエイリーグの事情聴取にやって来たのは、キョウの刺殺事件の捜査本部がタマムシにあってセキエイがトキワの管轄だからだろう。そして二人とも、シバがトキワで実施しているポケモンバトルスクールの門下生である。
「ここ十日くらい、やや気を張っている感じでしたが、その時会話が盛り上がったことをきっかけに肩の荷が下りたというか……穏やかな表情を見せてくれていましたね」
やや緊張気味に回答すると、タマムシの刑事は反応一つ示さずに質問を追加した。
「どういった会話を?」
「ジムリーダー時代の師弟関係についてです。我々は互いにあまり干渉しないので、その件は初耳で……」
「ああ、サカキの……」
彼は眉間に皺を寄せながら、メモ帳を引っ掻くようにペンを走らせた。バトル講習中、ワタルとシバの手合わせに感激していた姿とはまるで別人で、ロケット団絡みの捜査がひどく難航している様子が窺える。ふう、と漏らした溜め息がスタッフルーム内の冷たい空気に混じって消えた。
事件翌日に予定していたタイトルマッチ戦は当然のように休止となり、それから三日後の五月二十三日、セキエイ所属のプロトレーナーはスタジアムに召集され警察の聴取を受けることになった。その場所に選ばれたこの部屋は本来バイトスタッフのロッカールームとして使用されており、鍵付きの荷物入れとコートハンガー、あちこちに積まれた段ボール箱が部屋の大半を占領して大変に居心地が悪い。だが刑事達は一切気に掛けることなく、パイプ椅子に腰かけ簡易テーブルの上で黙々と自らの業務をこなしている。ワタルは気を引き締めつつ、ふとした疑問を投げてみた。
「犯人はロケット団関係者でしょうか?」
「あまり詳しくお話しできませんが、キョウさんはサカキとはもう繋がりはないはずですので、その可能性は薄いと思われます。サカキがロケット団関係者だと露呈した際にしっかり調べさせていただきましたし、力になってくださいましたから。まあ一応調べ直してはいますが、我々に何年も追われている組織があれほどの著名人を狙うのはリスクが高すぎる」
「なるほど……」
その辺りの事情にもやはりワタルは詳しくない。それを察したトキワの刑事が過去を懐かしむように補足してくれた。
「サカキがリーダーを退任するきっかけとなったのが、トキワジムの経費横領が判明したからなんです。そこからロケット団へと繋がって……この不正経理を発見したのが、当時事務仕事を手伝っていたキョウさんですね。まあその当時は有り難いくらい資料を出して下さって……犯人は今だ逮捕できず、情けない」
その事件の影響でワタルはサカキの名刺を持って彼に挑戦するという、大きな目標を失ってしまった。とはいえ、今はそれを憂いで感傷的になるようなことはない。
「考えられるとすればリーグ敗退者で、今、別の捜査員がスタジアム運営部に提出していただいた名簿をチェックしている所なんですがね。思い当たるトレーナーはいませんか?」
「大きなトラブルはなかったはずですが……」
プロトレーナーはその立場上、挑戦者から恨みを買いやすい。ワタル自身もプライベートで時折そのようなトラブルに遭遇することはあるが、大事に至ることはなかった。しかしキョウのプレースタイルを考えると、その可能性は高いような気がする。が、ある疑問が湧いた。
「そういう時、プロは免許端末に搭載されているポケモン使用申請機能から“緊急”科目で通報しつつ、手持ちを繰り出してその場を凌ぐんですけど、それはなかったのでしょうか? 回収したポケモンは外へ出した形跡がありませんでしたけど……」
ヤナギから受け取った紙袋に入っていたモンスターボールは全くの手つかずで、バッグにしまってそのまま車のシートに置かれていたような状態が予想できた。キョウは日頃最低限の手持ちしか持ち歩かない主義だからそれは納得できたが、唯一傍にいたというクロバットで応戦しなかったのだろうか――そんな疑惑に、トキワの刑事も触れる。
「その件で、ワタルさん。これまでボールが開かなくなった事はありますか?」
意外な問いにワタルは目を丸くしつつ、即答する。
「いえ、一度も」
すると刑事は神妙な面持ちでペンを置くと、懐からジップ付きビニール袋に入ったクロバットのモンスターボールを取り出した。あちこちに赤茶けた染みが付着する生々しい球体にワタルは絶句したが、翼を丸めて寝息を立てる蝙蝠の姿を見て、すぐ胸を撫で下ろした。刑事はクロバットの体調が良好であることを前置きすると、事件の状況を淡々と語り始める。
「ポケモン入りのボールは証拠品としても長くお預かりする訳にはいきませんので、この後お返し致します……が、不思議なんですよね。クロバットのボールのスイッチにはキョウさんの指紋と血痕が付着していて、何度も押したような形跡があったんですよ。中のポケモンも外に出ようと暴れたようで、身体はあちこち負傷しています。しかしスイッチは作動していない。これはボールが開かなかったとしか考えられないんですが、プロに限ってそんな事ありますかねえ……今は普通に開くんですよ。メーカーに問い合わせても、こんなことは珍しいって」
トレーナー歴十五年を超えるワタルでもそんな事象は初めてだった。十代の頃は修行中にボールを落としてスイッチが故障する程度なら経験しているが、最初から開かないのは奇妙である。そして何より、キョウがその状況に陥ったことが信じられない。
「それは妙だな……我々は毎日ボールの動作チェックをして、スイッチが少し硬くなる程度でも速やかに修理交換するようにしています。その中でも最も厳しくチェック項目を設けているのはキョウさんなんです。もし不具合があれば、事件前に直ぐ交換しているはずだ」
「やはりそうですか……ちなみに、ポケモンの技でボールの動作を制御することは可能ですか?」
その手の行動は公式戦において一発退場の禁止技である。誰もやろうとする訳がないので、ワタルは顔を引き攣らせながら首を少しだけ傾けた。
「聞いたことがないですね。“かなしばり”でトレーナーの動きを封じることは可能かもしれませんが、スイッチは押しているわけだし……イツキくんに聞いてみようかな」
タイプ技の中で人や物の動きを制御できる力が最も高いのは、やはりエスパーである。イツキのポケモンはその力を年々高めており、フィールドに転がる障害物を自在に操ることさえ可能だ。部屋に呼ぼうとワタルが腰を浮かせると、奇遇にもその人物が手間を省いてくれた。
「刑事さん、クロちゃんのボール持ってる!?」
ノックもせず出入り口の扉が勢いよく開かれ、イツキが切羽詰まった顔を出す。目を見張る刑事がクロバットの入ったボールを見せながら頷くと、彼は縺れる舌で何とか用件を紡いだ。
「犯人、分かるかもしれない! それ持ってロッカールームに来てよ!」
それを耳にするなり、刑事二人は椅子を蹴る勢いで立ち上がった。無駄のない反応にワタルは動揺したが、自身もその真意を確かめるべくすぐに彼らの後を追う。ネイティオにキョウの安否を確認させていたイツキの事だから、何か新しいアイディアを思いついたのかもしれない――仲間のポテンシャルの高さに感心しつつロッカールームへ駆け込むと、予想通り部屋の真ん中には三匹のエスパーポケモンが揃っていた。ネイティオ、フーディン、ヤドランとイツキの錚々たる手持ち達である。その奥のソファスペースからシバとカリンがこの様子を不審そうに見守る中、少年は刑事らの前に立って得意げに両手を広げる。
「昨日家に帰ってナップにアイディア捻り出してもらって、ディンが実現させたんだけど……ネオが相手の過去を覗いている間に、その精神状態をディンに“サイコシフト”させて光の壁に映写させることができたんだ! これを利用してクロちゃんの過去をネオに見てもらえば、キョウさんを怪我させた犯人が分かるかもしれない。どう? すごいでしょ!」
ポケモン育成の技量がプロに至らない刑事達はその説明に手放しで感心していたが、同僚らは訝しげだ。
「……その映像に根拠はあるの?」
カリンの小突くような指摘を待ってましたとばかりにイツキとヤドランが調子を揃えて胸を張り、懐からスマートフォンを取り出した。
「そう来ると思って、実験用の動画を撮影しといたんだ。みんなカリンのところに集合してね」
イツキはそう言って彼女にある動画を頭出しした状態のスマートフォンを手渡すと、入口で立ち尽くしているワタルと刑事二人をソファの周りへ案内する。その後フーディンに光の壁を張るよう命じ、ついでに念力で照明のスイッチを落とさせてネイティオの前へ座り込んだ。薄暗い室内に光の壁がぼんやりと白く浮かび上がる空間は、さながら映画館の上映前である。
「よし、ネオ。僕が最後にバイクの手入れをしている場面を引き出してくれるかな」
相棒が一度だけ頷くと、イツキは彼の右目を掌で覆う。南アメリカではネイティオは右目で未来を、左目で過去を見ているらしいとの伝承があるが、片目を瞑れないのでこうして補助してやる必要があった。これだけで予知能力は随分と安定し、ノイズに邪魔されることなく念を左目のみに注ぐことができる。そうなれば後は簡単で、ネイティオの念力は映写機がフィルムを送るようにイツキの過去と結びつき、目的の記憶を引っ張り出していく。途端に艶やかな毛並みがばさばさと毛羽立ち、精神状態を共有するフーディンにその状態が伝送されると、ノイズが流れる不鮮明な映像が光の壁に映し出され上映開始だ。
『本日、五月二十二日が終わるまであと一時間か。ドカのお手入れしなきゃ』
カレンダー付きのデジタル時計が大きく画面に映し出され、わざとらしい台詞が流れた。その声と様子から、これはイツキの昨晩の記憶であることが一目瞭然である。ハンディカメラのような映像に、視聴するワタルらは息を呑む。画質は八ミリフィルム程度の粗さではあるが、過去を映像で再現することは並みのエスパーポケモンではまず不可能だ。パタパタとスリッパを鳴らす音がして画面がリビングの中央に鎮座しているオートバイに近寄ると、それを遮るように茶色のハンディクリーナーが大きく映し出される。
『こうしてリビングに置いておくとすぐに埃がつくので、“ミミロップワイパー”が欠かせないんだよね――』
すると画面の端から水色の蝙蝠がパタパタと接近し、主人の動きを真似するようにオートバイへ纏わりつこうとする。イツキが最近イッシュ地方のリーグ関係者から譲ってもらったコロモリだと、同僚達はすぐに理解できた。
『ああっ、バッツ! 真似しなくていいよ、倒れる倒れる!』
視点が大きく揺れながらコロモリへ飛びつき、そこで映像は途切れた。僅か一分足らずながら、過去がこれほど鮮明に再生できることにプロや刑事二人も驚きを隠せない。その姿を満足げに確認しながら、イツキはスマートフォンの動画を再生するようカリンに促した。
「で、この様子はナップが遠くから撮影してあるんだ。再生ボタンをタップしてみて」
言われるがまま彼女が指先で画面のアイコンに触れると、リビングの隅の視点から先ほどの一部始終を撮影したと思われる映像が流れ始めた。こちらは最先端のテクノロジーを用いているだけあり、画質はずっと鮮明だ。部屋の中央に置かれたオートバイにパジャマ姿のイツキが時計を持ったまま近づき、フーディンがハンディワイパーを手渡して掃除を始めるとこっそりとコロモリが近寄って手伝おうとする――視点は異なるが、流れは先ほどの映像と一致する。
「これは素晴らしい! どういった仕組みですか。科学的に立証できれば、捜査にも役立ちます」
トキワの刑事は興奮気味にイツキに詰め寄ったが、彼は視線をフーディンに向けながらばつが悪そうに苦笑した。
「えーと、その辺は僕にはよく分からなくて……ディンに言われるがままやってるだけだから」
この映像をそのまま証拠として提出できれば、仕事はどれほど楽になることだろう。具体的な仕組みが分かれば非常に有益な能力だが、まだまだ解明されていないポケモンという存在に刑事は歯痒さを隠しきれない。
「……なるほど。証拠能力が低いのでそのまま使うことはできませんが、きっかけ程度でも十分です。現場に設置されていた監視カメラは故障していたが、クロバットの記憶を引き出すことができれば犯人に繋がる情報が得られるかもしれない」
「ここで事件を再生するの?」
早速クロバットのボールをイツキに差し出す刑事を見て、カリンが怪訝そうに尋ねる。顔見知りによる犯行の可能性もあるためワタル達も一応確認すべきだが、事件の内容は大変痛ましい。そこでワタルがフーディンに提案した。
「ディン、ネイティオから届いた記憶をすぐに再生しなくていいから、君を経由する際にチェックを入れてくれないかな。“その場面”が来たら、そこで終わらせて構わないから。君なら可能だろう?」
フーディンはすぐに理解し、首を縦に振る。
イツキは刑事からクロバットの入ったボールを受け取ると、再びネイティオの右目を塞いでそれを左目の前に掲げた。中にはピントレンズをかけたまま、あちこちに包帯を巻いた蝙蝠が静かに眠っているが、悪夢に囚われているような寝顔がイツキの心をきゅっと引っ掻いた。
「ネオ、さあいよいよ本番だ……犯人、見つけるよ」
ネイティオも覚悟を決め、神経を研ぎ澄ませながらクロバットへ注力する。これまでプロに相応しい特訓を重ねてきたお陰で、予知能力の発動は一度の試みですっかり物にしていた。突如試合が中止され高めていた念を持て余しつつあったから、連続の発動も容易い。驚くほど簡単にクロバットの記憶とリンクして、それをフーディンの元へ引き渡した。この動作が苦にならないのは、ずっと念力調整を行っていた彼も同様である。フーディンが光の壁のスクリーンに両手をかざすと、車のドアが開く音がして、縦に流れる不鮮明なノイズが次第に篠突く雨へと変わっていく。
「そういえばこの時間は夕立が……」
薄暗い駐車場へ打ち付ける激しい雨に、刑事がぽつりと呟く。透明なボールの壁越しに雷が轟き、雨脚はさらに強くなる。視点はきょろきょろと動いており、ワタル達はクロバットがこの雷雨に怯えているのだと推測したが、それは直ぐに払拭された。クロバットの目の前ではキョウの羽織が激しく揺れているのに、駐車場を囲むフェンスの外に植えられた街路樹は微動だにしていない。その違和感の答えを、シバがいち早く口にする。
「いや、この雨はポケモンの“あまごい”だ。それも相当強力な……」
クロバットもそれに気付いたようで、目線がさっと動いて主人を見上げる。キョウの表情は黒い傘が影を落として窺うことができなかったが、立ち止まったまま周囲の様子をじっと眺めており、彼もこの雨が作為的な現象だと察したようだった。ロッカールーム内に緊張が走る中、雨音に混じって前方からはっきりとした男の声が聞こえた。
『すみません。あなた、四天王のキョウさんですよね』
後から映像に足したと錯覚するほど鮮明な音声は、クロバットの非常に優れた聴覚によるものだろう。はっきりと通る、スピーチにはうってつけの耳に残る声音だ。長靴で歩む音がして、嵐の中から黒いレインコートを羽織った男が現れた。
『ファンなんです。サインしてください』
彼はコートの中からサイン色紙を取り出すと、雷雨が続く空の下へそれを突き出した。雨水を吸って灰色になった色紙を握ったまま動かない男を見て、カリンの顔色がさっと青ざめる。見るからに異様な雰囲気にプロ達は思わず背筋が凍りついたが、クロバットの目線の先にいるキョウはどこ吹く風だ。
『すまないけど、急いでいるから』
彼はタイトルマッチ試合前、挑戦者と握手を交わす際に見せる不遜な無表情を作ってその場を去ろうとした。そうすると目の前にいるにも関わらず、相手に途方もない距離感を与えることができるのだ。このように風変わりなファンと遭遇した場合、下手に構わずこうして受け流すのがごく自然な対応だろう。クロバットもこのような場面は慣れているようで、特に警戒せず視線は主を向いたままだ。そして、いよいよ問題の瞬間がやって来た。
男とすれ違う寸前、蝙蝠の目線がちらりとそちらへ揺れ動く――見覚えのある顔に、ワタルとシバが声を上げる。そして男は告げた。
『冤罪に陥れた癖に、オレの顔、覚えてないんですね』
台詞が終わった刹那、映像はそこでぷつりと途切れた。強引な中断に刑事らは思わず顔を曇らせたが、そこからすぐに刺されたという事が推測される。そういった現場を見慣れている彼らははっきりと犯人の顔を目に焼き付けたいと願ったが、愕然とするプロの表情を見て方法を変えた。
「……見覚えありますね」
トキワの刑事が二の句が継げないワタル達に尋ねる。
「ランスだ」
シバがようやくその名を紡いだ。ワタルが捕捉する。
「元NPO法人、鳳凰会のランスです」
事情を知っている刑事達は、それを聞いて全てを理解した。鳳凰会は一昨年セキエイを陥れようとしたNPO法人団体で、その手段が法に触れた上にロケット団との関与も確認されたため解散に追い込まれている。リーダーのランスは二年の実刑判決を受けたが、逆算すると既に出所していてもおかしくない頃合いだ。ロッカールームが恐怖と衝撃で凍りつく中、皆の顔色を窺いながら恐る恐るイツキが尋ねた。
「これってつまり、僕らも報復されるの?」
「その時は緊急のポケモン申請をして迎え撃つしかないな」
シバが眉間に皺を寄せて腕を組むが、すぐに自身の発言に違和感を覚えた。ワタルがそれを解消する。
「それができるならキョウさんも対処してるはずだよ。ボールが開かなかったようだ」
「あのチェックに一番うるさいオジサマに限って故障なんてことがある? エスパー技かしら」
カリンが首を捻ると、その専門属性につられてイツキが首を突っ込む。
「でも駐車場にはそれらしいポケモンの気配はなかったよね。ディン、どうだった?」
そう問われたフーディンは光の壁の前に立ち、人差し指をピンと伸ばして天井を示した。イツキがすぐに意思を汲み取る。
「上? 空の上に、エスパーポケモンが?」
恐らくそうだ、とフーディンは頷いた。先ほどのクロバットの視点を見る限り駐車場にそれらしいポケモンの気配はなかったが、限定的な場所に雨を降らせるには上空に潜んでいた可能性が高い。刑事達は短時間で重要な証拠がいくつも集まったことに感謝しながら、この能力を逃すまいと今だ困惑気味のワタル達に協力を要請した。
「引き続きご協力いただいてもよろしいでしょうか? 勿論、警護の者を付けさせていただきますので」
否定する理由は特になかった。ワタルは四天王を見渡しながら総意を伝えるように頷くと、刑事らは早速応援を要請すべくロッカールームを退室する。会釈して廊下に出る際、トキワの刑事が不安げなワタルを落ち着かせるように一言添えた。
「これは稀な例ですよ。ただの逆恨みです。一昨年の、あの中継の通りならばね」
全国中継でランスを吊し上げた一昨年の行動は間違っていたのかもしれない――ワタルによぎった後悔を見透かしているような台詞である。当時の中継を転機にリーグ本部は持ち直し、その結果かつてない盛り上がりを生んでいる。しかし鳳凰会と直接勝負せず、ポケモンバトルだけでリーグを魅せようとすればキョウは刃に倒れることはなかったのではないか? いや、それでは甘いと叱責したのは彼自身だ。
「おれもあの刑事達に賛成だ。まあ当時キョウがどうやってバッジ盗難の証拠を集めたのかは知らんが、ランスがこんな手段を取ったことは許すべきではない。必ず捕まえて制裁しなければならん」
ドアが締められた後、シバは自身のロッカーへ向かいトレーニングの支度を始める。またトキワ市警へ行って警察に稽古をつけるつもりなのだろう。イツキもポケモンをボールに戻しながら、いち早く部屋を飛び出して行く。
「だよね、僕も自慢のエスパー軍団で捜査に協力するよ。キョウさんの弔い合戦だ!」
するとカリンも呆れるように「死んでないわよ」と後に続いていく。多くの人やポケモンが去ったロッカールームはたちまち静まり返り、一層感傷的だ。開け放たれたドアを律儀に閉めるワタルの丸まった背中に目を留めたシバが、支度の手を休めて彼に尋ねる。
「鳳凰会を追い込んだこと、後悔しているのか?」
一人躊躇いが残っていることは、やはり親友にはお見通しだ。彼はワタルをフォローするようにはっきりとした口調で告げる。
「おれはあれで良かったと思っている。これだけポケモンバトルが世間に根付いているんだ、鳳凰会の要求を呑むのは難しい。それに奴らはやりすぎだ。こんな手段を取って再度バトル反対を主張しようと、益々世間に理解されない」
ポケモンバトルや捕獲は経済効果ばかりか秩序維持にも大きく貢献しており、現状は大幅に仕組みを変更することなど困難だろう。現に政府もその規制には足踏みしており、“ポケモンの休日”を制定する程度しか対応出来ていない。今後も今の枠組み内でなるべくポケモンに負担のかからないやり方を模索したり、トレーナーのモラル教育を向上させていくだけになるだろうとワタルも感じている。
そんな前置きをして、シバはぽつりと後悔を吐露した。
「だが、旧友としてケアくらいはしてやればよかったと思う。失うものが何もない状態になると、なりふり構わぬ行動に移りがちだ。そうやって一線を越える者は容赦せず脅威になる」
これは昨年、彼がハナダシティ郊外の洞窟でロケット団と鉢合わせた際に感じた恐怖だ。これまで遭遇したことのない悪意の塊はシバにさえ衝撃をもたらした。しかし彼はここで逃げる男ではない。
「だが、こうなってしまっては話は別だ。どんな事情があろうとも同僚に危害を加え、その家族を悲しませた罪を許すことはできない。奴が再びセキエイに刃を向けるのなら、我々は戦うべきだ。リーグに例えるのはおかしな話かもしれんが、ここに籍を置く四天王として挑戦者を後ろに行かせる訳にはいかん」
挑む者は迎え撃つ、リーグ所属トレーナーらしい覚悟だった。自分もかつてランスと戦うと決めた時、同じ決意をした。こんな事態は想定外だが、それに尻込みしている訳にはいかない。正義を振りかざすのではなく、この舞台――トレーナーとしての誇りを守るためにまた戦わねばならないのだ。
「お前はチャンピオンとして、四天王が全員倒れるまで高みの見物か?」
シバが腕を組みながら、やや軽蔑する様な視線を向ける。
「そんな訳ないじゃないか」
ワタルはそれを跳ね除けるように顔を上げる。迷いを捨てた男に宿るのは戦士の風格だ。
+++
『四日前にタマムシシティ商業区域内のコインパーキングにてポケモンリーグ所属、プロトレーナーのキョウさんが何者かに刺されたニュースの件ですが、被害者は意識不明の重体です。尚、犯人は今だ逃走中であり警察は近隣住民にあまり出歩かないよう通達していますが……』
そのニュースは四日前からどのチャンネルに回してもひっきりなしに報道されていた。民放局が放送しているバラエティ色の強い朝の情報番組ですら、グルメ特集などを割いてこのニュースに充てているほどだ。普段馬鹿みたいに凝ったデザートやファッション特集ばかり流しているテレビなんてくだらないと思っていたシルバーは、そんな日常がひどく懐かしく感じられた。今は一秒でもいいから、都会で新発売される気取ったケーキの映像が見たくて仕方がない。打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた窓のない部屋の中で、ひたすらその特集に切り替わるよう祈り続けたが願いは届かず、流れ続けるのは四天王殺傷の事件ばかり。
(あれ、やっぱり、四天王だったんだ……)
ルギアに跨って夜のタマムシ上空から“あまごい”を行い、指定のコインパーキングへ雨を降らせるのが自分の役割だった。既に夕立が街を覆っているのに、そこへ更に海の神ルギアによる嵐を被せたのは相棒の指示である。
『捜査が難航している原因として、現場に落ちていたナイフには指紋が付着しておらず、雨によって血痕や犯人のものと思われる足跡も流されており……』
それは弱まりかけた夕立を見て、確実に証拠を洗い流そうとした理由があったのではないか――シルバーは愕然としつつ、握り締めていたルギアのボールを一瞥した。海の神は素知らぬ顔で身体を背ける。手持ちに加えてから一月ほど経過したが、こちらの命令には従うものの心は自分に向いていないようだった。軽蔑するような眼差しは不満だが、相手は“神”である。時間をかけてじっくり確実に手懐ければ良い、そうフォローしてくれたのは相方のランスだ。
「おはよう、“ルーク”。朝から情報収集とは感心だな」
気配もなく声を掛けられ、シルバーはびくりと肩を跳ね上がらせた。親しみが籠っていない口先だけの社交辞令を呟きながら、相方の青年がテレビの前のローテーブルにコンビニの袋を置いた。彼は朝食の買い出しに行っていたのだ。
「クリームパンがなかったから、牛乳だけ買ってきた。少し大きめの」
そう言って袋から手渡されたのは一リットルパックの牛乳のみだ。
「お、おう……」
対して相方はペットボトルのお茶とおにぎりを二つ購入している。シルバーはパンを頼む際に第三候補まで挙げておくことをうっかり忘れていた。彼は普通の人間とはちょっとズレている所があり、一ヶ月行動を共にしているだけでも気苦労が多くて息が詰まる。ただでさえ、神経をすり減らす役目を負っているのに――テレビから視線を外しても、聴覚がそのニュースに反応し、罪悪感でひどく寒気がした。
「皆が悪党が成敗されたことを喜んでいるよ」
ランスはおにぎりを毟りながら、達成感に顔を綻ばせていた。この事件に関する市民インタビューは四天王の安否を気遣う内容ばかりだし、彼が圧倒的な支持を得ているセキチクシティへ行ってその発言を募るという、かなり作為的な構成だ。一体どこを見ているのかとシルバーは耳を疑ったが、問い詰めるべきはその手段である。
「……刺す必要あったのかよ。ヤクザの事務所はルギアやホウオウの技で吹き飛ばしただけだってのに、今回のはやりすぎじゃねえのかよ。しかも相手はトレーナー界のスターで、事が大きくなりすぎた。このままじゃ本格的に警察に追われちまう」
「それは問題ないよ。オレ達はスーパーヒーローだからね」
やはり的を得ない発言に、シルバーの苛立ちはあっという間に限界に達した。
「漠然としすぎだろ! さすがに人を刺すのはやりすぎだ。こんなのヒーローでも何でもない」
「何故? あいつはオレを冤罪に追い込んだ大悪党だぞ。悪人に人権はない」
彼はテーブルにペットボトルを荒々しく叩きつけると、目を見開いてシルバーへ詰め寄った。あの事件に罪の意識を微塵も感じず、ただ純粋にヒーローであると信じてやまない瞳は、澄んだ夜空を湛えた黒曜石のように美しいのに戦慄しかしない。
「あいつはジムの弟子共を使って、二年前のセキエイリーグ再建に反対するオレの活動を阻んだ。それも窃盗と盗聴の濡れ衣を着せて……! 許せると思うのか? オレは無実の罪で二年も投獄されていたんだぞ」
初めて名前を聞いた時は伝説のポケモンを得た興奮で思い出すことができなかったが、今になって考えてみると彼の口から語られるプロフィールは二年前にセキエイリーグ興行化が進められた際、それに激しく反発していた鳳凰会のリーダーと酷似している。名前も逮捕歴もまるで同じだ。リーグ本部タワービル前でワタルと対峙し、易々と論破されていたシーンは養護施設でも大きな話題となっていたしワタルのファンになってからは動画サイトで何度も視聴していたから、今も鮮明に覚えている。あの時のチャンピオンの姿はまさにヒーローそのものだった。
(……もしかして、こいつチャンプの命も?)
内情は分からないが、どことなく逆恨みしているようにも受け取れるのでシルバーはランスを訝しんだ。うっかり免許ケースを落としてワタルのサイン入りカードを見られることがないよう、シルバーはケースをカーゴパンツのポケットにしっかりと押し込んだ。
「も、もうプロを狙うのは終わりだろ? これだけの騒ぎだ、次やったら警戒される……」
恐る恐る尋ねると、ランスは眉をひそめて不満を漏らす。
「本来ならば全員に制裁したいところだが、“ニケ”の指示があの男一人だったからな。勝手に動くことはできない」
“ニケ”とはシルバー達に指令を送っている管制役だ。大変落ち着いた三十代ほどの女性の声で彼らの動向を操っており、ニケの誘導通りに動けば警察に勘付かれることも一切なかった。このアジトも彼女が用意してくれたチョウジタウン某ビルの地下倉庫だ。元々はIT関係のベンチャー企業が借りていたらしい。
「ニケは社会の汚点ばかりをピンポイントで指示してくる、素晴らしいオペレータだ。オレ達はSNSでも崇められているよ」
彼はにんまりと不気味な笑みを作りながら、煌々と点滅するスマートフォンの画面に視線を落としている。あの行為が始まれば、後ろのテレビで流れている四天王の早期復帰を願うインタビューなど頭の中に入ってこないだろう、とシルバーは呆れ返った。ランスが毎日一時間刻みで確認しているのは、彼ら“ヒーローズ”の活躍を称えるSNSのコミュニティやニュースサイトのコメント欄である。そこには連日行っている暴力団の事務所潰しに対する称賛が書き込まれており、それはランスにとって何よりの糧となっているようだ。シルバーも最初の内は自分の所業を神のように褒め称えた反応を見て内心歓喜したものだが、今は何となく違和感を覚えていた。
それは昨夜、上空から傍観していた事件の顛末への脅えもあるし、児童養護施設のイベントへ来てくれたプロを傷つけた後ろめたさでもある。そして何より――
『キョウさんの一人娘であるアンズさんは先月ジムリーダーデビューしたばかりですが、事件の影響を受け四日経った今もジムは休業されています。本人はかなり憔悴しているとみられ、再開の目処は立っておりません』
すっかり閉め切られたセキチクジムの映像がテレビに流れる。デビュー戦の賑わいはすっかりなくなり、建物周辺は報道陣に囲まれていた。ジム戦敗北時に握手を交わした、アンズの快活で何もかもに恵まれた幸せな笑顔を思い出すとヒーローの立場が大きく揺れる。
(……ここまでして、ヒーローなんて名乗っていいのかな)
現場付近は外出禁止令が敷かれているし、こんな結果は不本意だ。しかしシルバーの不安を増長するように例の黒い通信端末が振動する。ランスが唇の端を持ち上げながら、誇らしげにそれを掲げた。
「ルーク、ニケから新たな指令だ」