第2話:サカキの一番弟子
石竹会からロケット団首領の元に弔辞の返信が届いたのは、その二日後だった。いくつかの組織を仲介して渡された封筒には、裏面に日時だけが記されたトキワのバーの名刺が入っているのみ。
「サカキ様はあの男を組織に引き入れるおつもりですか」
全ての窓にブラインドが降りた薄暗い部屋の片隅で、なんとか平静を保ちながらアポロが尋ねる。年代物のデスクを隔て、その視線の先にいるのは椅子にゆったりとかけたロケット団首領のサカキである。彼は名刺を指先で弄びながら、口元を緩ませた。
「奴がその気なら計画に使える。上手く事が運べば、の話だが」
「正直、私は反対ですよ。ポケモンの実力は申し分ないとはいえ、一度はサカキ様の勧誘を断った男です。信用できません」
アポロは真っ赤になりながら毅然と反発した。首領はあの男引き入れたがっているが、それは右腕である自分の地位を大きく揺るがす事態である。しかしサカキはあまりその辺りを気にしていないようだった。
「しかし“あの役”には適任だろう。ラムダの下手糞な変装より、よっぽど説得力がある。信用ならん外者は掃いて捨てるほど雇っているし、最終的には捨て駒だ。ま、話してみないことには判断できないが……」
アポロは反射的に同行を申し出た。
「では、私も帯同いただきたく!」
「無粋だな。今回は俺一人で行く」
間髪を容れず跳ね除けられ、アポロは血の気が引いた。ここで頼りにされないのは、右腕として大いに不服である。
「しかし、万が一と言うこともありますし……」
「それはない」
またも突っぱねられ、彼は顔を強張らせた。サカキは呆れるように肩をすくめながら、昔を懐かしむように名刺をデスク脇へ置く。この店は昔贔屓にしていたトキワシティのバーだ。
「出てくるのは恐らく奴一人だ。四天王が万が一の手段に出られるとでも? 石竹会に協力しているとは言え、自らの手を汚すような男でないことはお前もよく知っているだろう」
一昨年の鳳凰会絡みの事件ではキョウの差し金でチョウジにあったフロント企業が取り潰されているが、アポロはその恨みを一日たりとも忘れたことはない。固く結んだ拳を震わせながら、引きつり笑いを浮かべる。
「え、ええ、勿論……」
「態度は悪いしすっかり伸び悩んでいるようだが、あれはなかなか使える。最後のテコ入れだ」
セキエイデビュー戦でも感心しきりだったが、サカキはキョウのことを相当買っている様子だ。試合翌日は普段読み飛ばす新聞のスポーツ欄を確認している姿を見かけるし、後々調べたところジムリーダー時代に弟子を取ったのは後にも先にも彼一人である。事務所に配属されていたスタッフ兼構成員が手持ち無沙汰になるほど円滑にジムを運営させ、そのお陰で横領が露呈した。サカキの右腕を自負するアポロにとっては何より苦手なトレーナーだ。
「四天王ですからねえ……要領よく働けばロケット団三幹部くらいにはなれるかもしれませんね」
などと冗談めかしてみても少しも笑うことがない首領は、真剣に引き抜きを検討しているように見えた。これからの計画を確実に実行するためには、より優秀な人材が必要だということだろう。彼はその地位が証明するバトルの腕を持っているのは勿論のこと、本部上層部にも通じていると聞く。そのどちらも組織には有用だ。
「会合が良い結果となりますように」
アポロはそれだけ言って微笑み、足早に部屋を出る。分厚い扉を閉めた途端、激しい焦燥と妬心が押し寄せ、舌打ちとして吐き捨てた。理性は熱で酷くぐらついており、その程度で済ませるのがやっとだ。何とか平静を取り戻そうと深呼吸していると、廊下の奥から白い影が浮かんであのポケモンが現れた。サカキがわざわざハナダの洞窟まで足を運んで雇った傭兵である。この得体の知れぬ存在もアポロを揺るがす脅威の一つだったが、現在大きな戦力になっているためぞんざいには扱えない。
「……これはミュウツーさん。お疲れ様です」
存在すら確認されていない、都市伝説級のポケモン・ミュウの子供だから“ミュウツー”。少しはマシな嘘を付け、とアポロは口の中で悪態をついた。ポケモンの研究はまだまだ未熟でそれを悪用した詐欺やガセも多く、こいつもどうせ既存ポケモンのメガシンカか何かだ――と、彼は今もその存在に懐疑的である。しかし、そのポケモンらしからぬ知能の高さから組織のシステム部門を管轄するほど頭角を現しており、サカキにも一目置かれている。それがアポロには気に食わない。
「テストの調子はいかがですか?」
「順調だが、サポートが無能ばかりだ。使える人材を用意しろ」
無理やり口角を引っ張り上げながら交流を図っても、それは素っ気なく息を吐いた。ポケモンなのに仕草は人間そのものだ。中途半端な動作はアポロにとっては薄気味悪い。
「気に入らないと、あなたが端から消していくからでしょう。結果、ゴミが残る」
必死で取り繕おうとしても引き攣り笑いさえ消えて、不信感が顔に現れてしまう。そんな余裕のない姿を見て、ミュウツーがアポロを嘲笑した。
「部屋から出てきた貴様の顔……無能が切り捨てられる瞬間にそっくりだった」
ようやく沈静化しかけた憤怒の炎へ油を注ぐ台詞だ。これが幹部以下の連中ならば息の根を止めてもおかしくない状況だが、相手は利用価値がまだ十分にあり、殴ることさえままならない。怒りに声を震わせながら、ぎらついた眼光でミュウツーを睨み据える。
「つまり私もゴミだと言いたいのですか。私はロケット団大幹部のアポロですよ! たとえ相手が四天王だとしても……負けるはずがないんです」
彼はそれだけ言い捨てると、足早にその場を立ち去って行く。脈路のない話をミュウツーは理解することができなかったが、あの切羽詰まった形相には見覚えがあった。
『君は史上最強のポケモンなんだ! 百戦錬磨の豪傑が現れたとしても、負けるはずがない! 誰にも負けるはずがないんだ!』
血走った目を見開き、唾を飛ばしながら必死でガラス越しに叫んでいた顔を思い出すとひどく吐き気がする。あの大幹部しかり、かつての父しかり――人間とは常々煩悩に支配され、取るに足らない存在だと実感する。唯一認めるとするならば、この組織を束ねる首領くらいだろう。
(しかし部下はあの醜態。あれでよくポケモンが従うものだ……どいつもこいつも程度が低い)
呆れたように息を吐くと、ふいに視線を感じ反射的に廊下の鏡に目をやった。端に映る小さな白い影――一瞬息が止まったが、よく目を凝らすと壁のスイッチ板である。これで一体何度目だろう。
(外気への適応にこれほど時間が掛かるとは……)
ほんの一瞬の見間違いだというのに、心臓はじりじりと焦げ付きながら激しい動揺を表している。ミュウツーは深呼吸をして気を落ち着かせると、ゆっくりと廊下の先へ消えていった。
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その日は朝から鮮やかな青空に綿雲が流れる、初夏の好天気に恵まれていた。爽やかな空はトキワシティ大通りにある新緑の銀杏並木に映え、それをレクサス助手席の車窓から眺めるアンズの心を弾ませる。まだまだ新鮮な景色に浸っていると、運転席と助手席の間に設置されたアームレストの上に置かれている父親のスマートフォンが振動を始めた。数秒で途切れないところを見るに電話だろう。運転席でハンドルを握っているキョウが、代わりに出てくれと娘に目配せする。
アンズが手帳型ケースのフラップを開き、画面に表示されている発信主を確認した途端、慌てた様子で父の前に突き返した。
「ヤナギさんだ! 駄目、お父さんが出勤するついでにトキワジムへ乗せていってもらってることがバレたら何て言われるか!」
「まさか、その程度で……」
学校が休みの日に家を出る時間が親子で重なれば行先が同じトキワシティ方面になるため、アンズは父親の出勤ついでに車に乗せてもらうことも多かった。些細なことを気にする娘に溜め息をつきながら、キョウはハザードを出して道路脇に車を停め、ようやく通話ボタンを押した。
「お待たせして申し訳ございません。どうも、ヤナギさん。ご無沙汰しています」
『余所余所しいぞ』
受話口の先から氷の矢が飛んでくる。お馴染みの流れだが、今は心底うんざりした。カーナビ脇のホルダーにセットされているクロバットがボール越しにこちらを不安げに見つめているので、彼はそれを払うように背筋を伸ばす。
「久しぶりなものですから……で、何の用ですか」
『今夜は試合が入ってないだろう。タマムシに出向く用があってな。どうだ、久しぶりに一杯』
石竹会から相談を受けてから九日が経ち、サカキとの会合は明後日に差し迫っていた。話し合いへと臨む覚悟で徐々に神経がすり減っていく中、ヤナギとのんびり酒を酌み交わしている余裕などあるはずがない。ふつふつと苛立ちが沸き出してくる。
「今夜ですか。また急ですね……」
呆れるように息を吐きながら牽制したが、ヤナギは退かなかった。
『明日でも構わん。とにかく会って話がしたい。どうした、ここ十日近く……試合に臨む顔付きに余裕がなく、ポケモンの嗾け方も荒っぽい。あんな姿を見るのはイツキの復帰戦以来だが、結果はストレート勝ちだ』
極力態度には出していないつもりで、仲間もごく普段通り接してくれるし娘も気付いていない様子だが、さすが大ベテランにはお見通しだ。それが癪に障り、愛想を作るのが億劫になった。
「菩薩じゃないんだ、たまにはこういう時期もありますよ。飲み会は、また今度」
通話を切ってアームレストに携帯を戻す。助手席でクロバットのボールを無意味にこねくり回し、父親の会話だけを聞いていたアンズが大きな目を見開きながら詰め寄ってきた。
「飲み会はまた今度って……もしかして明日じゃない?」
「ない。明日、何かあったか?」
彼女は大仰に身体を反らしながら、素っ頓狂な声を上げた。
「お父さんも同じ日に出てるんじゃないの? 明日はお給料日だよ! ついに初任給が支給されるの」
ポケモンリーグ配下のプロトレーナーは総じて年俸制だが、給与は分割で毎月二十日に支払われる。ずっと裕福な生活を送っていたキョウは振込日などこれまで一切気にしてこなかったが、娘にとっては待望の初任給だ。師に厳しく指導され、毎日多くの挑戦者と戦ってきた中で得られる報酬は格別なものだろう。
キョウにとってはそんな感動、最初からなかった。ペーパートレーナーで社会人を経ての散々なジムスタートだったから、最初は“給料泥棒”と揶揄されていたものだ。
「だから明日は試合終わった後、一緒に晩御飯食べに行こうよ! あたしの奢りで、お寿司!」
クロバットのボールを見せながら溢れる笑顔で提案するアンズに、キョウは困惑した。一時は自ら命を絶とうなんて思ったこともあったのに、今はこうして盛り返しているどころか親としてはこれ以上ない不運な幸福を突きつけられている。会合は明後日に迫っているのに、彼は二つ返事で了承してしまった。
「はいはい。じゃあ国道沿いの“ニョロモ寿司”で」
それは一度も足を運んだことはない、一皿百円の回転寿司チェーンである。
「からかわないでよー、回らないお寿司に決まってるでしょ。結構貰えるから、“桃寿司”予約するもん」
こちらは地元の海で獲れた新鮮で上質な魚のみを出す老舗の寿司店だ。感心する反面、やはり悔恨が胸にしみる。
「よし、決まりだね。トキワジムも遠くないし、もうここで降りちゃお!」
アンズはボールホルダーにクロバットを戻すと、助手席のドアを開けて車から飛び降り、結い上げた髪を揺らしながら運転席に振り返った。ここからジムまでは徒歩で数キロ以上離れている。まだ降ろす場所ではない。
「ここで? ジムの前まで送るぞ」
「いつもジムの前まで送って貰ってたら、甘えてるみたいに思われちゃうかもしれないし。さっきの反省」
「帰りは? 今夜は試合がないから七時頃まで掛かるのなら拾っていっても構わないが……」
「うーん、三時ごろ上がるからいいや。電車で帰る……そうだ、天気予報で言ってたけど、夕立くるかもって。傘持った?」
アンズは街路樹脇でバッグの中身を確認しつつ、父親に尋ねる。彼は短く息を吐いた。まるで自宅にいる世話焼き家政婦のような口ぶりだ。
「あるある……余計な心配しなくていいから」
「そうだね、無駄な質問か。それじゃあ、いってきます! お父さんもクロちゃんもお仕事頑張ってね。明日、サクッと挑戦者を倒してご飯を食べに行けるように」
はいはい、いってらっしゃい――と返す前に、眩しいくらい明るく素直な笑顔はさっと前を向いてトキワジムの方向へと駆けて行く。歩道沿いの商店に逐一挨拶しながらジムを目指す背中は華奢で小さかったが、既にジムリーダーの風格を備えて頼もしかった。
自分の背中を見て、娘はこれからどんなリーダーになるのだろう。明後日以降、それを傍で見守ることができるのだろうか――ふいに視線を感じてそちらに目をやると、ホルダーに収まっていたクロバットがボール越しにこちらを眺めている。主人の不安を見透かし、いざとなれば心中覚悟と言った眼差しで“向こう側”に行ってはならないと警鐘を鳴らしていた。
「お前の覚悟は分かるんだが……」
サカキは石竹会の安全の保障を盾に、こちらが持っている多くのカードを捨てさせるに違いない。その上で引き抜きを持ちかけてくるかもしれないが、素直に従える立場ではない。そうなると最終的にはポケモンに頼るしかないのだが、勝てる見込みはあるだろうか。かつて師と決別で一戦交えた際は、ポケモンが命の危機に晒された。あの時は向こうが手を引いてくれたが、二度目はないだろう。彼はそんな男だ。その性格をよく分かっているから敗北が招く大きなリスクを恐れて真っ向から挑むことができない。キョウは重苦しい息を吐くと、大通りのずっと先に繋がっているセキエイ高原目指してハンドルを切った。
セキエイリーグ・タイトルマッチの挑戦者情報は、前日の昼過ぎにプロへ通達される。データはトレーナーの簡単なプロフィールに手持ちの種類と所有するバッジの内訳程度で、そこから本番に向けて各自スターティングメンバーを選出する流れだ。プロ三年目ともなるとパターン化されたポケモンごとの対策が頭に入っているので、四天王は手持ちの名前を見ただけで翌日のメンバーを組み出すことが可能であり、前情報に少し触れてから帰宅するのが慣習になっていた。
しかしこの日は夕方を過ぎても、キョウだけが一人居残りをしていた。彼は室内のソファスペースに腰を下ろしたまま、挑戦者データが印字された書類とキョウ自身のこれまでの戦歴がデータ化されたタブレット端末を見比べる。明日戦う予定になっているトレーナーは地面タイプ中心で、手持ちのリストには師がよく使っていたポケモンの名が連なっていた。四天王就任以降に集計された同種との対戦データと照らし合わせると、その勝率はほぼ九割である。しかしこれでも尚、サカキに勝てる見込みがあるのかは怪しい。
データの年数をジムリーダー時代に絞ると、それでも勝率は八割を超えている。サカキから勝利をもぎ取るために対地面タイプへの研究に力を入れていた故の結果だが、結局本人には一度も勝てなかった。
(たった一割の成長であの人に勝てるとは思えない……トレーナーの格も違いすぎる)
彼は半ば諦め気味に端末をテーブルに置くと、ソファにもたれ掛りながら白い天井を見上げる――そういえばこの部屋は三メートル程度のポケモンまで召喚できるよう、意外に高く作られている。彼は袂から相棒のボールを取り出すと、軽く放り投げてクロバットをその場に繰り出した。思えば手持ちをロッカールーム内に出すのはこれが初めてである。毒ポケモンは衛生面の問題から室内に召喚しないのがマナーだし、それがなくとも感染症を気にして連れ歩くことも殆どしていなかった。身長二メートル近い、大きな翼を備えたクロバットが現れると途端にその場が窮屈に感じられる。
「ちょっと話がある」
彼はソファに身体をうずめながら、突然の召喚に目を丸くしている相棒にやんわりと微笑んだ。
「お前、俺がロケット団に“移籍”してもついてくるよな」
間髪を容れず、彼女は首を縦に振った。が、その面持はすこぶる不満気だ。手持ちの中では誰よりも主人に忠誠を誓っている相棒がこれほど本心と剥離した答えを出すのは珍しく、苦笑するのも憚られる気がした。
「昔からあまり褒められた生き方はしていないんだ……お前達は知らないか」
他の手持ちのボールを眺めても、ポケモン達の意志はクロバットと変わらない。貴方がどの道を選ぼうが、我々は最後まで付き従う――そんな覚悟を決めているのは言葉が通じなくとも理解できた。所有したばかりの頃は難解すぎる指示に負けがかさんでポケモン達から総スカンを食らっていたが、着実に訓練を積みながら勝利を重ね、今や厚い信頼関係を築き上げている。
そんな状況で、当たって砕けるなんて無責任な方法は選べない。
(結局“向こう側”へ行くのが、最も良い結果を出せるのかな……)
安全策が固まろうとしていたその時、ドアがノックされ音に敏感なクロバットの身体が大きく震える。直後にドアからそっと顔を覗かせたのは、このリーグの頂点に立つチャンピオンの青年だった。
「遅くまでお疲れ様です」
ワタルは部屋に残っているのが同僚一人だということを確認すると、笑顔で会釈しながら入室する。この日はオフで、各々トレーニングや取材等で一日を消化していた。彼は一番最後に仕事を終えたのだろう。
「お疲れ。他は皆帰ったよ」
「そうみたいですね……お、クロバットも居るなんて珍しい。この部屋に繰り出すのは初めてじゃないですか?」
ワタルはクロバットの目の前まで近づくと、にっこりと微笑んで存在をアピールした。音で居場所は把握できるが、きちんと姿まで認識させた方が安心できると思ったのだろう。思惑通り、弱視のコウモリは嬉しそうに鳴き声を上げた。だがそんな和やかなやり取りも、キョウにとっては灰色にくすんで見える。安らぐ暇はなく、眉間を解しながら「たまにはな」と短く呟いた。
「最近お疲れですね。明日の試合に備えて、今夜はゆっくり休んでください」
ワタルから見ても、彼は最近負けている訳でもないのに仲間とあまり口を利かず、えらくナーバスな様子だ。労いの言葉をかけても、さらりと流すだけだ。心配ではあったがあまり踏み込むのも逆効果と思い、ワタルはそっとしておこうとしたがクロバットの懇願するような眼差しを受けて少しだけ聞いてみることにした。話題は彼の愛娘だ。
「そうそう、アンズちゃんの活躍聞きましたよ。トキワジムのグリーンくんに弟子入りして、まだジム戦負けなしだとか。さすがキョウさんの娘さんですね」
「ありがとう」
キョウは口角を少しだけ持ち上げ、形ばかりの礼を言う。いかにも触れてほしくないといった様子だが、やはりポケモンの引き止めるような視線が気になり、ワタルは構わずに話を続けた。
「ジムリーダーって就任一年目は先輩リーダーに付いてコーチしてもらうんですね、知りませんでした。わざわざトキワシティへ通うなんてアンズちゃん、行動力あるなあ!」
「今日みたいに時間が合うと、俺がついでに乗せていくんだが……それが狙いだろう」
今度は自然と頬が緩んだ。やや持ち直したことに安堵し、ワタルは話を広げる。
「なるほど。グリーンくんは元チャンピオンですからね、かなりの実力がつくはずですよ。ちなみにキョウさんは就任初期の頃、誰に師事されていたんですか?」
ワタルにとっては話題を膨らませるきっかけにすぎない問いかけだが、キョウにはあまりにタイムリーすぎだ。彼は一瞬顔を強張らせたが、隠すことでもないし隠し通せる事実でもない。
「俺もトキワのリーダーだよ」
ぽつりと答えると、勘の良いワタルは直ぐに記憶を遡ってその人物に突き当たり、驚愕の面持ちを浮かべている。
「今更、犯罪者の弟子だから四天王を降板させる、とか言うなよ」
と、キョウは自嘲するように力なく笑ったが、いっそこのまま切り捨てられた方が気楽かもしれないとさえ感じる。しかしこんな考えは自分も口にした通り、今更だ。どうにもならずに息を吐いていると、言葉を失っていたワタルが突如彼の前に詰め寄った。
「やっぱり、強かったんですか? サカキさん」
キョウは目を丸くする。日ごろ穏やかに振る舞っている彼が、これほど勢い良く食い付いてくるのは珍しい。
「ああ、うん……当時は最強なんて持て囃されていたが、それに違わぬ実力があった。俺だって一度も勝ったことがない」
「えっ、対地面タイプの勝率が九割であるキョウさんが!?」
ワタルは耳を疑い、クロバットと顔を見合わせる。四天王の相棒もその通りだと頷いた。
サカキの素性そっちのけでバトルの話題だけに興奮する様は、傍から見ると何とも可笑しくキョウは思わず表情を綻ばせる。
「弟子だから最も多く挑戦する機会があったのに、最後まで勝つことはできなかったよ。お前には手持ちの調子が良いとあと一歩でドローってところまで迫ることもあるが、サカキにはそんな隙もなかった。元々タイプ的に不利だったのもあるが、本当に強かった……今戦っても勝てるかどうか」
「それほどですか。それは挑戦し甲斐があったな……」
神妙な面持ちで考え込む様子は、本当にサカキの事情を気にしていない。ポケモンバトル一筋のシバならともかく、ワタルがここまでズレた反応を見せていることは奇妙だ。
「お前、レッドのようにバッジを全種類集めようとしていたのか?」
「ああ、そうじゃないんです。サカキさんには昔ちょっとした縁があって……」
すると彼はスラックスのポケットに差し込んでいた手帳型の免許ケースを取り出すと、カード入れの奥から一枚の名刺を抜いてキョウの前に差し出す。
トキワシティジムリーダー、サカキ。経年劣化ですっかり黄ばんで皺も寄っているが、そのシンプルな表記にはしっかりと見覚えがあった。何故なら切らさないよう手配し、毎年レイアウトのチェックを行っていたのは他でもないキョウ自身だ。バッジのロゴなどを付け足すなと指示され、本部に掛け合って何度も手直しさせられた記憶が眩暈をもたらすほど鮮明に蘇る。
「幼い頃、四十五番道路で怪我をして動けなかった時にサカキさんに助けてもらったことがあるんです。いつか強くなったらジムへ挑戦しに来いと、この名刺を貰いました。叶わずじまいですが」
その話にも聞き覚えがあった。
『そういえば五年ほど前、ヤナギさんのジムから帰還する際にフスベでトレーナー駆け出しのガキをポケモンから救ってやったことがある。大怪我をしていたくせに、俺がトレーナーと知った途端宣戦布告され――なかなかいい根性をしていた、将来性はあるだろう。手持ちもいきなり手間がかかるドラゴンだ』
子供嫌いな師がそれを助け、「ロマンがあるから」と名刺を渡していたエピソードは今でもよく憶えている。彼はトキワシティのバーでウィスキー片手に嬉しそうに話していたが、確かにワタルのプロフィールはその子供と合致する。殆ど毎日顔を合わせているのに、新制セキエイリーグ三年目になる今の今まで気付かなかったなんて――滑稽な巡りあわせにとうとう緊張の糸は途切れ、彼はただひたすら声を上げて笑うしかなかった。ぽかんと目を丸くするワタルとクロバットなんてお構いなし、ほんの数日気を張っていただけなのに何年も感情に蓋をしていたような解放感で、そして改めて師の偉大さを思い知った。
「ああ……あの話、お前だったんだ……やっぱりあの人、見る目あるなァ……」
名刺を貰った子供は今頃あなたに挑戦しようと頑張っているはずですよ――意気揚々と武勇伝を語る師に当時はそんな言葉を返したものだが、その少年が今や自分より遥か上、この地方リーグの頂点に立っている。
「ロケット団と関わっていることが発覚した時は失望して、この名刺を一度は捨てようとしたんですが……できませんでした。これはオレの原点なんです。ポケモンの巣穴に落ちた自分を助けてくれたサカキさんは、裏社会に関わっていようと、あの時のオレにとって紛れもなくヒーローだった」
キョウにとってもサカキの印象は圧倒的で、ちょっとしたヒーローのようなものだった。しかしその影響力は当時交流した年齢を考慮してもワタルの方が圧倒的に大きく、今や彼こそがそれを体現した存在になっている。そして彼には師のような黒さはない。呆れるくらいに真面目で清廉潔白、誰よりも高尚なヒーローだ。
「サカキさんのようになりたくて経験、そして勝利を重ねてきました。あの時言われたことは忘れもしません。“闘争心を忘れずに進め、」
続く台詞が反射的にキョウの口を突く。
「――挑戦者は常に誇り高くあるべきだ。”」
うんざりするほど聞かされ、師がその言葉を持ち出す状況だって把握していた。
「それです! あの、良かったらこれから飲みに行きませんか。明日試合ですけど、一時間で良いから是非当時の話を聞かせてください」
少年のように目を輝かせるチャンピオンを見ていると、キョウはあの決別した夏以来にサカキにひどく失望する。
(サカキさん、俺は貴方の弟子としてこれ程恥ずべきことはありませんよ。昔助けた子供が、こんなに立派になったってのに……昔の偉業を語ってやるほど、彼を失望させてしまうじゃないか。誰かのヒーローになりたきゃ責任持って最後まで貫き通してくれ。貴方に影響を受けた者の信念を台無しにしてしまう)
それが一線を越えることに伴う、大きな代償だ。キョウは改めて理解し、師と同様の道を歩もうとしていた自己を恥じた。そしてわだかまりを拭い去るようにさっぱりと微笑み、まだまだ話足りないワタルの言葉を制する。
「悪いけど、先約があるんだ。その話はまた今度」
吹っ切れたような主人の相好を複雑な心境で窺うクロバットをボールに戻し、彼は傍に置いてあったバッグを抱えて出入り口へと急ぐ。絹の薄羽織を軽やかに翻すその背中からは会話前の張りつめた緊張感はなく、ワタルは単純に安心していつも通り労いの声を掛けた。
「お疲れ様です。明日、頑張りましょう」
キョウは振り向くことなく左手を掲げてそれに応えると、そのままロッカールームを退室する。
もう戸惑いもない。これで覚悟は固まった。
通用口へと伸びる通路はしんと静まり、薄暗い。スタジアム裏の通路とは異なり、こちらは輝かしい舞台へと出ることはない。行き着く先は蛍光灯の光がぽつんと灯る、閑寂とした駐車場だ。時折すれ違うスタッフに無言で会釈しながらそこへたどり着くと、足早に自家用車のレクサスへ乗り込んでカーナビ脇のボールホルダーに相棒のボールを置いて車を出した。彼はまだ不安げな面持ちでこちらを見つめているクロバットへきっぱりと告げる。
「戦うぞ。俺は何があっても“向こう側”へは行かない。今度こそサカキを警察へ突き出す」
師を取り逃がした責任は、唯一の弟子である自分が取るべきだと確信した。しかし、確たる自信と言えば四天王になって一割だけ増した地面タイプとの勝率だけ。不安を排除すべく、彼は袂からスマートフォンを取り出して着信履歴を辿って恩師に電話を掛ける。相手はワンコールで出た。
『なんだ』
氷の吐息のような冷たい声音に、キョウは軽い調子で挨拶した。
「お疲れ様です、ヤナさん。まだタマムシにいらっしゃいますか? 時間が取れました」
『分かった。それなら“蝉しぐれ”はどうだ。今から予約する』
ヤナギは至って冷静な口ぶりではあるが、とっておきの料亭を指定する辺り、その心中は明るいのだろう。それだけ機嫌が良ければサカキの対策について真摯に向き合ってくれるはずだとキョウは予想した。ヤナギもまた、一番弟子が道を踏み外したことに後ろめたさを感じている。
「了解しました。では二時間後に」
アクセルペダルに足を掛けながら電話を切ろうとした時、ヤナギが口を挟んだ。
『朝に比べて随分口調が軽いな。何かあったのか』
「それは店で話しますよ。では」
手短にまとめて電話をアームレストに置き、車を出す。その時ホルダーにセットされたボールから相棒の視線を感じ、自然と口元を緩ませた。
「心配ない、何とかするさ。逆境には強いから」
悠然とした主人の眼差しの奥には、戦いへと挑む闘志が灯っている。それはセキエイリーグ本戦へ向かう姿そっくりで、手段はどうであれ右腕であるクロバットにとっては誰より誇らしい挑戦者で、ヒーローに見えた。
空は歩んできた通路のように薄暗く、やがてタマムシへと向かう高速を映すフロントガラスをコツコツと雫が叩き始めた。昼間は積乱雲が浮かんでいたのだから、そろそろ夕立の時間だろう。彼は車を走らせる速度を緩めつつワイパーを出した。空から零れる雨粒が、さっと拭われ視界の外へ出ていく。タマムシへ近付くにつれ雨脚は徐々に強まり、激しくフロントガラスを打ちつける。煩わしいが、間もなく止む天気である。キョウは小さく息を吐きながら高速を下りた。しばらく市街地を走っているとカーナビが目的地が近くなっていることを知らせる。その料亭の近辺は古くからの花街で老舗の商店や料亭が立ち並び、駐車場を持つ店は少ない。ヤナギが指定した『蝉しぐれ』も同様だ。
「この天気の中、コインパーキングから歩くのは面倒だな……」
やや勢いが鈍ってきたとはいえ、まだまだ外は土砂降りだ。溜め息をつきながら最寄りのコインパーキングへハンドルを切った。そこから歩いて二十分ほどだろうか。足袋が汚れるのは必至だが、今回は仕方がない。
駐車場に車を入れると、雨脚は急激に勢いを増していく。降車のタイミングでここまで状況が悪化するのは不運だ。窓の外の天気を不安げに眺めるクロバットのボールを掴むと、助手席に置いたバッグから黒い折り畳み傘を取り出してドアを開けた。
外は品の良い和装を台無しにするひどい雷雨だ。足袋の爪先はたちまち濡れて重くなり、頑丈に作られた傘を大きく揺さぶる。まるでバトルフィールド内で嵐を呼び起こすワタルのドラゴンのようだとキョウは感じた。そして気付いた。パーキング内に植えられた桜は新緑を散らす勢いで揺れているのに、外の街路樹は微動だにしていない。この一帯は夕立に加え、ポケモンの技で暴風雨を起こしているのだ。
「すみません。あなた、四天王のキョウさんですよね」
ふいに前方から声がした。キョウがさっと顔を向けると、目の前に黒いレインコートを羽織った男が立っている。視線はこちらを向いておらず、顔を俯けたまま足を揃えて背筋を伸ばしピンと棒立ちしていた。豪雨で顔はよく見えないが、口元の雰囲気から年齢は二十代後半くらいだと推測できる。
「ファンなんです。サインしてください」
男は怪訝に眉をひそめるキョウにお構いなく、コートの中からさっと白い色紙を取り出した。降雨対策を何一つ施していないそれは、たちまち雨水を吸って灰色に変わる。色紙を差し出したままピクリとも動かない青年は病的で不気味だが、プロとしてベテランの域に入っているキョウにとってこのようなファンとの遭遇は日常茶飯事だ。
「すまないけど、急いでいるから」
さして驚きもせず素通りしようとした時、青年は嵐の中、はっきりとした声音で呟いた。
「冤罪に陥れた癖に、オレの顔、覚えてないんですね」
フードの奥でぎらついた眼差しがこちらを見据えていた。
握りしめたボールの中で、主人と共に危険を察知したクロバットが騒ぎ出す。開閉スイッチを押しながら、色紙を捨てて拳を繰り出そうと身体を捻る男の攻撃に身構えた――が、確かに押したはずなのにボールが作動しない。目を疑い、慌てて連打してもボールは無反応だ。“深海でも捕獲可能”が売りのモンスターボールは漏電するほどヤワな作りではないし、日に何度も確認しているのに急な故障なんてありえない。愕然とするキョウの隙をつき、男は彼の脇腹へ利き手をねじ込むようにもたれ込んだ。
「この悪党、思い知れ」
雨風と共に生温い囁きが耳に吹きこんできたかと思うと、脇腹を抉るような痛打が全身に響き、やがて熱を帯びながら身を裂かれるような鋭い激痛へと一変する。悲鳴を上げる間もなくそのまま車のドアへ突き飛ばされ、キョウはなすすべもなくへたり込んだ。右手に持っていた傘は手を離れて吹き飛び、容赦なく全身を打ちつける豪雨が脇腹の痛みを助長する。足元でカランと落下音がして、雨で霞んだ視界の中で赤く濡れたナイフを捉えた。
そこでキョウはようやく、自分が刺されたのだと理解した。雨水で洗われていく刀身に、にんまりと笑う男の顔が映りこんでいる。言われてみればどこかで見たような顔だが、今はほんの少し記憶を辿る知恵も尽きていた。そのうちに相手はレインコートを翻してその場を立ち去り、それに伴って雨脚が弱まったような気がする。逃がすものか――一縷の望みを親指に託したが、やはりボールは恨めしい程上下ぴたりと張り付いたままコウモリを封印していた。掌の中で泣きわめく相棒の悲痛な叫び声が、離れゆく意識を必死で引き留めてくれる。懐から免許端末を取り出し、近距離無線を飛ばして召喚を試みようとしたが電波モードはオフ表示だ。
「畜生、なんで……」
設定を確認しようにも、タッチパネルが水で滑って思うように操作ができない。仕方がないので雨水を吸ってすっかり重たくなった袂を掻き毟るように弄り、スマートフォンを見つけ出す。ホームボタンを押して通報しようと試みるが、不運は重なるものでこちらも圏外だ。
「ツイてねぇなあ!」
ここは大都会、タマムシの市街地だというのに――舌打ちしながら電話を放り捨てると、次に車のロックを解除して運転席へ倒れ込んだ。大雨で体温が急速に奪われ、僅かに身体を捻れば激痛がその動きを制する。しかし自ら行動しなければ誰にも発見されずに冷たくなって朝を迎えるような気がしてならないのだ。
キョウは運転席へモンスターボールを転がすと、エンジンをかけ、やけに長く感じるカーナビの起動を待つ。ワタルやシバのようなポケモン乗りならここで万事休すだが、高級車を足代わりに使っている彼にはもう一つだけ希望が残っていた。冷たい指先を震わせながら起動したナビを操作し、コンシェルジュサービスに接続する――これも圏外ならいよいよ覚悟しなければならなかったが、望みはコール音になって繋がった。
『ありがとうございます。こちら、レクサスオーナーズデスクでございます』
穏やかなオペレーターの声が、ようやくキョウに安堵をもたらした。
「きゅ、救急、車……」
何とかそれだけ声を絞り出せたのが限界だった。稼働に耐えきれなくなった身体はブレーカーを落とすようにすべての機能を停止させる。耳元で喚く相棒の声もすっかり遠のき、彼はそのまま運転席のシートへ倒れ込んだ。
フロントガラスを叩く雨音も緩みかけ、車内にはクロバットの悲鳴だけが虚しく反響するばかり。目と鼻の先だというのに、見えない壁一枚隔てた主人との距離は絶望的にほど遠く感じられた。鋼ポケモンだって易々と倒せる四天王の右腕であるはずなのに、翼が擦り切れるほど壁を叩いてもこの空間の中では無力だ。しかし蝙蝠はその現実を受け入れることができず、何度も何度もボールに身体を打ちつける。出会った頃に約束した、何があっても離れないという誓いだけが彼女を突き動かしていた。