第1話:嵐を呼ぶ男
初夏の日差しが照り返す樹脂コーティングのバトルフィールドに、二匹のポケモンが対峙する。南側には鼻息荒く拳を構えるオコリザル。その反対側、北側エリアには頭上に広がる青空を映した鮮やかな体躯を光らせるボーマンダだ。
「ボーマンダ、ドラゴンダイブ!」
北側テクニカルエリアから勇壮な声音がドラゴンを嗾ける。赤毛を後ろに撫でつけた、端正な顔立ちの好青年だ。肘まで捲り上げた紺色のワイシャツとライトグレーの細身パンツ姿というシンプルな出で立ちながら、その長身で引き締まった容貌は洗練され他者を圧倒する風格を備えている。彼こそカントー・ジョウト地方のトレーナーを総べるポケモンリーグ総本山、セキエイリーグの頂点に君臨するチャンピオン・ワタルだ。
「真っ向勝負!」
革靴の底を軽快に鳴らし、指示エリアを駆けながらワタルが後押しすると、ボーマンダはフィールドを引っ掻くように蹴り上げてオコリザルへと飛びかかる。
「迎え撃て!」
対する南側のテクニカルエリアから怒号のような指示が飛んだ。ワタルを二回りも上回る巨躯を持ち、隆々とした上半身の筋肉を惜しげもなく晒す男。同じくセキエイリーグに所属する、四天王のシバである。吠え猛るシバに感化されたオコリザルがステップを踏みながらボーマンダへと接近し、腰を落として拳を捻じ込む――「メガトンパンチ!」シバの絶叫と共にオコリザルの鉄拳が、ボーマンダの脇腹へ炸裂した。フィールドの外周から固唾を飲んで試合の動向を見守っていたトレーニングウェア姿の成人男性らが、その威力に感嘆の声を漏らす。
しかしボーマンダも黙っていない。牙を食いしばって痛打に耐え、拳を引き抜こうとしたオコリザルの腕を抑え込んでそのまま押し倒すように体重をかけた。よろめいた相手ポケモンの動きを見て、すかさずワタルが畳み掛ける。
「そのまま“思念の頭突き”だ!」
フィールドに相手を押さえつけたまま、ボーマンダは額の一点に念を集中させて勢いよく振り下ろす。苦手な念力のハンマーに殴られた衝撃は、オコリザルを一撃で昏倒させるには十分な威力を誇っていた。フィールドにガクリと倒れ込み、すぐにシバがボールへ帰還させた途端、観戦していた男性達から拍手喝采が巻き起こる。ワタルはボーマンダを労いながら、満足げにシバへ微笑んだ。
「三勝二敗か。危なかったよ」
額に汗がにじむ程度のワタルに対し、上半身を初夏の日の下に晒したシバは汗だくだ。フィールド外のベンチ席に掛けていたタオルで身体を拭いながら、無言でスポーツドリンクを口にする。相変わらずの素っ気ない態度にワタルが苦笑していると、後ろから大仰に手を叩く音がしてトレーニングウェアの中年男性が話しかけてきた。
「いやーさすがはプロ、カジュアルなお召し物でも動きに無駄がありませんね」
服装を眺めながら感心する男に、ワタルは思わず謙遜する。
「ああ、私は元々シバを呼び戻しに来ただけなので……樹脂フィールドの上で革靴は動きにくいですよ。突然ポケモンバトルを始めてしまい、お騒がせしました」
丁寧に会釈すると、つられて相手や彼の後ろにいた男達も頭を下げる。
「いえいえ、こちらも大変参考になりました。ポケモンリーグのプロトレーナー様方が、我々トキワ市警に直接ご指導いただけること、大変光栄に思います。今後ともよろしくお願いします」
さすが現役警察官、一挙一動に無駄がない。ワタルは隅で黙々と荷物をまとめるシバを横目で睨みつつ、明るく微笑んだ。
「こちらこそ! シバを探す手間がシロガネ山よりずっと省けますから」
セキエイリーグ三年目のシーズン開幕から勢いも落ち着いてきた五月十日、リーグ本部には小さな変化がみられていた。利益一辺倒だった組織は今季より外部との連携を始めており、シバが主体で動いているトキワ市警でのポケモン訓練はその一環である。ポケモン犯罪に遅れを取る警察をサポートすべく、各署の代表者を集めてはシバ自身のトレーニングも兼ねて稽古をつけているのだが、定期的にシロガネ山に山籠もりしていた友人の居場所が把握しやすくなったのでワタルにとっても助かっていた。先ほどのバトルは呼び出しに来た際にシバから手合せを頼まれたのだ。
しかし所持品をまとめたドラムバッグを肩から下げ、トキワ市警訓練場を後にする今年二十七になる親友は眉間に皺を寄せ、むくれている。
「……子供じゃないんだぞ、わざわざ呼びに来るな」
ワタルはシバと並んで歩きながら、肩をすくめて呆れるように息を吐く。
「次の仕事予定時刻より三十分も遅れているのに? そろそろ携帯を契約してほしいところだ」
「時間に縛られるのは面倒だ……それにああいう端末は画面が小さくてうんざりする。正直、免許を触るのも煩わしい」
そんな訳で彼は本部のシステム部にタブレット端末専用の操作が楽な試合動画管理ソフトなどを作らせている。相手の労力をあまり気にしないのはシバの悪い癖だが、長年の付き合いであるワタルはさほど苦にしていなかった。この手間も過密日程の中のちょっとした息抜きであり、取り繕う必要がない友人の存在はとても気楽だ。
「それに昨日はポケモンバトルができなかったからな。丸一日何もしないと言うのは苦痛だ。格闘ポケモンは手持無沙汰にすると調子が狂う。何が“ポケモンの休日”だ」
シバは昨日の休業日を思い出しながら小さく舌打ちした。
「仕方ないさ。今回は年二日くらい休みが増えただけで終わって良かったと思うよ。リーグ本部が必死で調整してくれたお陰だな」
今年度から政府が進めようとしていたポケモンバトル規制案だが、リーグ本部の努力と世論を考慮して『ポケモンの休日』をこの年二日制定するだけで譲歩した。その日はプロ・アマ問わず緊急時以外ポケモンバトルを行わないことは勿論のこと、捕獲行為やトレーニングさえも許されない。昨日はその第一回の施行日で、さほど大きな混乱を招くことなく終了したがポケモンバトルをライフワークとするシバにとっては断食にも値する苦行だったようだ。
「せめてオフシーズン中にしてくれれば良かったんだ。五月九日と六月三日で施行するなど馬鹿げている!」
「確かに、ゴクローサンなんて安直な語呂合わせだよな」
ワタルも昨日は血の気の荒いリザードンやギャラドスなどの手持ちを諌めるのに手を焼かされたことを思い出し、肩をすくめた。訓練場から警察署へと続く通路を軽快な足取りで移動していると、ふいに周囲に緊張が走り、険しい顔つきをした何人もの捜査員が慌ただしくすれ違って行く。
彼らに少し耳を澄ますだけで、事の全容はすぐに理解できた。早朝もニュースを賑わせていた、タマムシ北部を拠点とする暴力団事務所が一昨日の晩のうちに奇襲された件で、何か進展があったらしい。当然トキワは管轄外なのだが、この事件はカントー・ジョウト地方のあちこちで発生しており、連携を取っているようだ。
「ニュースでやっているあれか? 見たこともないポケモンを操る二人組が、夜な夜な各地の暴力団を潰して回っているらしいが……物騒だな。自警団気取りか、組織間の抗争か……」
警察官らの動きを追いながら、シバがポツリと呟いた。世間の話題に疎い彼だが、ポケモン絡みの犯罪となると話は別だ。彼自身昨年その被害に遭ってから仲間内では一際神経質になっており、この警察へのスクールを先導している理由はそれである。
「一般市民への被害はないし、暴力団員にも死傷者は出ていないらしいが……自警団ならかなり無茶してて、とても褒められた行為じゃないな。フスベにもその手の事務所はあるけど、さほど迷惑を掛けずに細々と運営している感じで、そこにわざわざ踏み入るのは竜の逆鱗に触れに行くようなものだよ。一部ではかなり持ち上げられているようだが……」
ワタルも顔を曇らせつつ、今朝がた新聞の投書欄に掲載されていた二人組を持ち上げる投稿を思い出した。街の汚点である暴力団は問答無用で潰すべき、という過激な内容は印象強くまだ頭の隅に残っている。確かにあまり褒められた存在ではないが、彼らは基本的に裏社会だけで活動していて殆ど表に出てくることはないし二人組の犯行はやりすぎなのでは――とワタルが抱いた率直な感想が大方の世論だった。それともう一つ、プロとして気になることがある。
「それより、“見たこともないポケモン”って何だろうな」
疑問を溢すと、すかさずシバも食いついた。
「おれも、そこが気になった。警察連中の話によると、現場には足の付く証拠を残さず、ベトベトンの毒液なんかで荒すだけ荒して立ち去って行くらしい。そして被害者には記憶を消すような術をかけられている痕跡がある、と」
「記憶を操作できるオーベムなんかを使っているのかもな。手持ちはひとまず毒とエスパーだと断定できる」
そこまで導き出すと、互いの脳裏には自動的に同じ人物が浮かび上がってくる。
「なるほど……つまり噂の二人組は――」
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「ふぅ〜ん、つまりワタルとシバは僕らが夜な夜な自宅地下の洞窟から出動してるコウモリ男のコスプレしたヴィジランテとそのサイドキックだって言いたいの? そんな馬鹿げた推理をしてたから撮影に遅刻したんだ」
カメラの眩いフラッシュを慣れた面持ちで浴びながら、イツキはこっそりと唇を尖らせた。
艶やかな革靴でしっかりと踏みしめるステージはセキエイスタジアムのバトルフィールド。赤いシャツに緑と赤のネイティオを思わせる蝶ネクタイを締め、デザイン性の高い幅広ストライプ柄のイタリアンスーツを着こなし、北側ベンチ前でポーズを決める姿は年若いながら四天王三年目に相応しい品格を備えている。が、シャッター音が止んだ途端にたちまちそれは崩れた。
「僕がオーベム持ってないこと知ってるでしょ! 欲しいけど忙しくてイッシュへ行く時間がありませえん。いつぞやのカリンみたいに、チャンピオン様がタマゴ分けてくれるのかな?」
子供っぽく憤慨する同僚に詰め寄られ、ワタルは北側ベンチ前の柵に腰を下ろしながら苦笑する。
「ごめんごめん、ちょっとした冗談だよ」
先ほどの軽装とは異なり、撮影に臨むワタルの衣装は真夜中の闇を映したような青みがかった黒の英国スーツだ。伝統的な外形に、黄色のポケットチーフが月のように揺れている。その上から背広と同色のマントコートを軽く羽織ると、チャンピオンお馴染みの格好はたちまちフォーマルなものになる。堅苦しい雰囲気があるが、ピンホールシャツのカラーバーはミニリュウの意匠で、どこか親しみやすくもあった。
「キョウさんも怒っていいよ! ホントひどいよねー」
まだむくれているイツキが、北側ベンチ奥の隅で隠れるように通話しているキョウに同意を求めた。しかし彼は険しい面持ちで携帯電話に集中しており、仲間の談笑など耳に入ってないようである。
衣装はチャコールグレーのスリーピースで、京紫のネクタイとチーフがシックで落ち着いた印象を与え、メンバー最年長である威厳を引き立てていた。クロバットモチーフのネクタイピンもごく控えめだ。
それにしても、娘のジムデビュー戦の結果確認さえ仕事で後回しにしていた彼がスタジアムでの撮影そっちのけで私用の電話に集中している姿は珍しい。ワタルがぼんやりとその様子を眺めていると、イツキの次に撮影を終えたカリンがやって来て説明してくれた。
「オジサマは撮影前からずっとあんな感じよ。早く抜けたくてそわそわしてるみたい」
彼女の撮影衣装はライトグレーのタイトなスカートスーツである。胸元が大胆に開いたシルクシャツに、ヘルガーの尾を模したクリップでアップにした髪から後れ毛が垂れてセクシーな彼女の魅力を引き出し、ワタルとイツキは思わず釘付けだ。
「ふーん、そうなんだ。それよりカリン、何度見てもそのスーツ似合ってるね」
イツキが先制して褒めると、彼女はルージュを引いた唇を艶めかせながら嬉しそうに微笑んだ。ヘアメイクに呼ばれてカリンが身を翻すと、きゅっと引き締まったヒップの下から長いスリットが入っており、そこから黒ストッキングを纏うすらりと伸びる足が艶やかなハイヒールへと続いていた。
「後姿も完璧だよね」
鼻の下を伸ばすイツキに、ワタルもつられて首を縦に振っていることに気が付いた。慌てて襟元を正していると、最後に撮影を終えたシバが不満げな面持ちで二人の傍へ歩んでくる。メンバー内で一際体格の良い彼は厚い胸板ではち切れそうな黒いスーツを纏い、銅色のネクタイを鬱陶しそうに何度も手直ししていた。ワイシャツの袖にはカイリキーのチャンピオンベルト型のカフスが光る。
「背広は息が詰まるから苦手だ。こんな撮影するくらいなら、訓練していたい」
服装に無頓着な彼は、上質なスーツを纏っても“着られている”状態が一目瞭然で仲間から浮いている。ワタルはそんな友人に苦笑した。
「衣装を提供してくれるコガネ百貨店のためだ、少しくらい我慢してくれよ。それにこのスーツ、なかなか動き易いじゃないか。このままテクニカルエリアを走れるかも」
「確かに衣装としてマシな部類ではあるが、背広を着て戦うなど……」
デビュー戦から試合の衣装をリースしているコガネ百貨店とセキエイリーグはすっかり親密な取引先となっており、プロ達は百貨店の広告イメージキャラクターに毎シーズン起用されていた。今回は試合の中日を利用し、ドレススーツ広告の撮影がセキエイスタジアムで行われているのである。
「それでは皆さん! 最後に集合した写真を撮りますので南側ベンチに背を向け、テクニカルエリアにお並び下さい」
カメラアシスタントに呼ばれ、気を緩ませていたワタルは真っ先に背筋を伸ばすと、ベンチ裏で影を潜めていたキョウを呼ぶ。彼は右腕に巻いた時計を気にしつつ、「あとどれくらいだ?」とやや苛立ちを見せた。
「これで終わりのようなので、十分も掛からないかと」
と、答えると彼は短く舌打ちしながら足早に撮影位置へと歩んでいく。いつになく機嫌が悪い様子に、撮影が押している原因を作ったことをワタルは申し訳なく思ったが、カメラを向けられるとすぐにプロの顔を作ることができた。全員が足並みを揃えてカメラマンの要望に応え、集合写真は五分も経たずに終了した。解散を言い渡す前に、気を良くしたイツキがある提案をする。
「ポケモンも出そうよ! スーツがより引き立つよ」
「ポケモンとの撮影は後日、ドレススーツカタログの第二弾として予定しているんですが……この場で登場させても面白いかもしれませんね」
予定時間より若干早く撮影が終わったため、カメラマンもプロの顔を窺いながら広告カタログの更なる品質向上を狙おうをしたが――直ぐにキョウが上着を脱ぎながら列から外れたため、それも叶わずじまいとなった。
「悪いが、それは別の撮影日にやってくれないか。俺は急用ができたからこれで」
この日の彼はいつになく余裕が感じられない。ロッカールームへと向かうその背中に、ワタルは「お疲れ様です」と声を掛けることしか出来なかった。慌ててその後ろをコガネ百貨店の担当者が追いかけ、背広について捕捉する。
「ご協力ありがとうございました! 衣装は差し上げますので、華やかな集まりなどでお使いいただきアピールしてくださればと!」
キョウは少しも反応を見せず、そのままベンチ裏の通路へと消えて行く。一切のフォローもなく不愛想に立ち去ったため、場は気まずくなり、結局撮影はそこで終了してしまった。撤収するスタッフらを眺めながら、カリンは改めてスーツを見下ろし呆れるような苦笑いを浮かべた。
「それにしても、ちょっと派手すぎよねえ……この間やったショー仕立てのリハーサルで衣装として何とか通用するってとこかしら。年末の契約更改で着ちゃう? 話題性はあるかも」
シバは真っ先にネクタイを外しながら、その提案を突っぱねた。
「馬鹿馬鹿しい……書類にサインするためだけに、こんなものを着こむなど! 荷物になるからロッカーへ置いておくぞ」
「やっぱりどこに着て行っても浮くかなー。僕もロッカーに置いとこ……」
派手好きなイツキはこの衣装を気に入っていたが、仲間達の反応を受け、やはりパーティシーンでも浮いてしまうのかとすっかり怯えている様子だ。そろそろ恋人の一人も欲しい年頃故、最近彼は身なりを見直しつつある。
だが、そんな受けの悪い様子に傍から窺っていたコガネ百貨店側のスタッフは気が気でなく真っ青だ。ワタルはマントをはためかせて彼らの前にさっと歩み出ると、精いっぱいの笑顔を張りつけながらフォローする。
「着ます、着ますよ! ここぞという時に、ね!」
とはいえ、自分の衣装が最も浮世離れしていることには違いない。
セキチクシティ街外れの小さな葬祭センター前を黒いレクサスがゆっくりと通り過ぎていく。
この斎場は日陰者の葬儀を執り行うことで知られており、運転手が傾きかけた西日越しに見た立て看板には、知った名前が控えめに記載されていた。入口に待機していた背広姿の強面が、ハンドルを握る彼に少し離れた先にある駐車場へ向かうよう促した。彼をここへ入れないためで、斎場は満車ではない。運転手もそこに車を停めるつもりはなかった。ゆっくりと先に進む速度に沿って、日の光も下へ下へと沈んでいく。目的の駐車場にたどり着いた頃には空は不穏な紺色が滲んでおり、これほど汚い夕暮れはない――と、車から降りたキョウは重苦しい息を吐いた。
黒い革靴で砂利を踏みしめながら目の前に停車しているベンツの元に歩むと、暮れた空を映す車体に自身の姿がくっきりと浮かぶ。二時間前のドレススーツとは打って変わって慎ましい喪服の背広だ。一旦自宅に帰って着替えたものだが、表情は姿見で確認した時と変わりない。頭の上に広がる空と同じ、暗い青。
「どうぞ……」
速やかに運転席から降りてきた喪服の男が助手席のドアを開け、乗車を促す。
後部座席には黒紋付を着付けた壮年の男が一人、腕を組んで奥のシートに座っていた。恰幅の良い身体は崩れかけ、すっかり老いぼれてはいるがフロントガラスを向いたままの双眸は研がれた刃物のようにぎらつき、他を寄せ付けない貫録が滲んでいる。並の人間であればそのまま乗車を躊躇ってしまうところだが、キョウはまるで臆することなく男の隣に厳粛に腰を下ろす。ドアが静かに閉められると同時に、彼は前を向いたまま身体を少しだけ男に傾けた。
「この度はご愁傷様です」
そしてさっと頭をもたげると、懐から香典を取り出し、老人の前に差し出した。すかさず運転席から腕が伸び、部下と思しき男がそれを回収する。香典をしまい終え、車内が静まったところで男はゆっくりと口を開いた。
「忙しいのにわざわざすまんね。しかし、ヤクザの組葬に参加しようなんて……あんた、本当に義理堅いねえ」
「“元弟子”ですから」
キョウは運転席の背もたれをぼんやりと眺めながら答える。
始まりは先ほどの撮影前に入った一本の電話からだ。弟子の中で唯一、更生できずに地元暴力団・石竹会に戻ってしまった男が昨日交通事故で亡くなったとの訃報だった。保護司を請け負った時からこのような事態は想定していたが、いざ直面してしまうとやはり内心は身を切られる思いがする。弟子達には皆、ひどく手を焼かされたが最終的には全員自分を慕ってくれていたから余計に堪えた。亡くなった弟子は立場上、焼香も上げられないから余計に酷だ――膝の上で丸めた左手を僅かに震わせていると、心中を察した組長が無念そうに息を吐く。
「コウキを立派なトレーナーに育ててくれたことは感謝してる。あいつは組の有望株だった……が、最期にイカれたマフィアに楯突くなんて血迷った真似しやがって。本当に馬鹿だな、あいつは」
その言葉に、キョウは耳を疑った。
「……ロケット団?」
言葉では何とか組織名を紡ぐことができたが、喉まで出かかっていたのは一人の男の名前だった。
「すっかり力を取り戻し、カントー・ジョウト地方の裏社会を牛耳ろうとしてるぜ。事故死なんてカモフラージュさ、実際は死後数日が経過していたらしい。その上最近は不穏なヒーロー気取りが他の組を潰して回ってるときやがる。困ったもんだ……」
組長が吐く憂いの後者は、最近世間を少しばかり騒がせている事件だ。それらを並べられると、自然と関連性を疑ってしまう。
「その二つに繋がりは?」
キョウの問いに、組長は肩をすくめた。
「さあな。ロケット団に楯突いたタマムシの三代目・北組の事務所は一昨日潰されたが、そうじゃないチンケな組すらもカチコミかけられたからな……調べてみないと分からん。繋がったところで、どの道うちに先はない」
組長は終始前を向いたまま比較的軽い口ぶりで憂いでいるが、床に踏みしめた足袋が憤りと絶望で小刻みに揺れているのが見て取れた。元弟子のコウキが下手に出なければ回避できた事態だが、それではロケット団から地元の守り通すため尽力してきたキョウの苦労が水の泡だ。
沈黙する彼の方へ、組長がようやく顔を向ける。
「ときにキョウさん。あんた、うちのコウキをまだ弟子だと思ってるんなら、これも忘れてないよな。“弟子の失態は師匠の責任”、ジムリーダーの心得だ」
覚悟を決めた無表情には見覚えがあった。トレーナーから“みちづれ”を命じられたポケモンが、こちらに向けるあの眼差しにそっくりだ。
「勿論」
相手の立場を考えると、返答はこれ一つしか残されていなかった。
「今朝方、サカキから弔電が送られてきた。“今後の挙動は元ジムリーダーにご相談願う”、だとよ。こりゃ一体どう言う意味だね」
目を見張るキョウの前に、組長は黒い弔電を突きつける。隅に箔押しの菊が入った黒の上質な台紙には見覚えがあった。これはトキワジムで師の手伝いをしていた頃、遠方の訃報を聞いた際に自身が手配していた弔電台紙だ。
過去を掘り返す所業にみるみる血の気が引いていく。今更自分を持ち出してきたのは、一昨年の報復かそれとも――ゆっくりと台紙を開いて中を確認すると、月並みな弔辞の後に組長の告げた一文が加えられているのみだ。不審に感じてカード四隅の切り込みに嵌められた中紙を取ってみると、左端に師弟関係だった頃、二人でよく通っていたトキワのバーの名刺が挟み込まれていた。そこへ呼びつけたいのだろう。その意図は隣で彼を見ていた組長も理解していた。
「あんたは組に残された最後の希望だ。なんとか話を付けて、事を丸く収めてくれねえか。四天王のあんたなら、馬鹿みたいに強いロケット団のポケモンにも対抗できるだろうし、毒ポケモンは確実に息の根を止め足跡も残さない、忍のようなヒットマン……元々の家業だろう?」
「百年ほど前から事業転換していますが」
そんなちょっとした冗談も、背水の陣を決めている組長にはまるで通用しない。少しも反応を見せない彼に、キョウもじりじりと追い詰められていく。石竹会とは弟子の絡みでジムリーダー時代からちょっとした接点があり、関係を持った以上はキャリアに傷が付かない程度に上手くやって行かなければと思っていたのだが、この事態はさすがに想定外だ。着実に実績を積み、輝かしい地位を築き上げた彼にとって、なりふり構わぬ相手は苦手とするところである。失うものが多すぎる戦い――それに直面したのはこれが最初ではない。
あの時の敵も、やはり師だ。
七年前の真夏のセキチクジム、出頭を促そうと対峙したサカキの双眸を思い出せば今でも指先から恐怖が身を脅かす。あれから時は経ち、師が求めた“一流”のプロトレーナーになったと自覚しているはずだが、ワタルにだけは一勝もできない自分が果たしてサカキを討つことができるだろうか。相手を出し抜くプレーは師匠仕込み、他のトレーナーのように容易く罠にかかってくれる可能性は低い。何よりリーグと違い、チャンスはたった一度だけ。
「情けない話ですが、私はリーダー時代、サカキに一度も勝ったことがない。タイプ的にも不利で、手下はともかく今だって奴に敵うかどうか……ここは警察を頼った方が得策だ。セキチク市警なら伝があるので、いくらでも協力できる」
最も堅実な対応を提示すると、組長は焦りに苛立ちながら眉をひそめた。
「手段を選ばんマフィアの前じゃ、サツなんて頼りにならねえよ。このままロケット団にセキチク進出を許したら、ジムを頑張ってるアンズちゃんにどんな危害が及ぶか――頼むよ」
余裕のなさから、相手は愛娘をも盾にするつもりのようだ。仁義を放棄して堅気に縋りつく態度にキョウは呆れ果てた。その姿に組長は益々焦燥に駆られ、彼を更に追い立てる。
「どうしてこんな提案が来たのか調べたんだ。あんた、新人の頃はサカキに師事していただろう。奴が弟子を取ったのは後にも先にもたった一人……ペーパーから十年足らずで地元名士様になれた有能なあんたなら、さぞ重宝されただろ? きっとその絡みさ」
確かに右腕として高く評価されていたし、決別する直前にロケット団への勧誘は受けた。しかしそれっきりである。どうして今更声を掛けてくるのだろうか。
(こんなチンピラを傘下に収める必要があるほど人手不足ってことか? あの人が金やポケモンの為に石竹会を介してわざわざ俺を呼び出すはずがない。それに一昨年の報復をしたいなら、とっくに実行しているはず……)
顎に手を掛けて考えを巡らすキョウの姿が前向きに検討しているように見えた組長は、若干声のトーンを弾ませながら無責任に背中を押した。
「もしあんたがロケット団へ行ったって、うちの組との仲を取り持ってくれればそれで構わん」
「堅気の私に組の命まで託しますか。“名士”冥利に尽きますね」
皮肉を込めて鋭く切り返すと、組長は思わず口籠る。藁をも掴む状況だけに、選択肢や任侠のプライドは殆ど残っていないのだろう。故にセキチクの隅で虚勢を張ることしか出来ないのだ。そんな不穏分子こそ娘の将来の癌になる。ここで逃げるわけにはいかない。
「……やってみましょう」
彼は長い息を吐いた。
「そちらからロケット団首領と交渉の機会を作ってください。平和的に解決しましょう」
詳細を聞かずとも、こちらに有利なように動いてくれる――何度も世話になった実績のある眼差しが、組長を心から安堵させる。その提案に二つ返事で了承し、なんとか首の皮一枚繋いだ心境だった。
「頼んだぜ、セキチクのヒーロー」
キョウはドアに手を掛けながら、いい加減な激励を重々しい口調で撃ち落とす。
「ボランティアだと思っちゃ困るな、私はもうジムリーダーじゃないんだ。お互い恩を忘れないように、今後とも“良好な関係”を築き上げていきましょう。抜け駆けはしないように。私は堅気ですが、貴方の言う“確実に息の根を止め足跡も残さない、忍のようなヒットマン”にも成り得ますので」
こういう輩は少しでも優位に感じさせると面倒だから、釘を刺しておく必要がある。彼は顔を強張らせる組長の右手を取って無理やり握手を交わし、そのまま車を降りた。砂利に足を付けた途端、吹き抜ける初夏の青嵐が激しく上着を揺らし、ボールポケットに忍ばせていた相棒のモンスターボールがその場に転がり落ちる。拾いに急ごうとしたその背後で、ベンツが動きだした。ボールが風に流され、あわやタイヤと接触する場面――寸でのところでそれを掴んで車を避け、難を免れた。老人や幼い子供、鈍いトレーナーならば大惨事になっていたかもしれない。
「危なかった……リトルのフィールディングが蘇ったかな」
リトルリーグで投手をしていた頃は、目の前に転がったボールの対処を数えきれないほど練習したものだった。ひたむきに訓練に打ち込んで投げ込みを続け、ストレートど真ん中で野手を打ち取ることに強い憧れを抱いた時期もある。
しかし今ではそんな過去の自分に顔向けできない。そんな姿を見て、サカキは再び自分に声をかけたのかもしれない。
(俺は向こう側の人間だってか……)
娘が新たにリーダーに就任したセキチクジムは穢れのないごく普通のジムへと変わり、街は一層活気付いている。そんな中で影を背負うのは、隅へと追いやられる石竹会のような組織に、彼らと関係が切れない自分みたいな存在だ。現在に至るまでの土台を作ったはずなのに、いつの間にかそれを遠巻きに眺めている。
ジムリーダーから四天王に昇格して、セキエイリーグという輝かしい舞台に立っているはずなのに、時折虚しさを感じるのは何故だろう。実力の限界を知り始めているからだろうか。今シーズンもまだチャンピオンに一勝すらしていないし、他の若い四天王より先も短い。こっそりと吐いた溜め息に、相棒のクロバットがボール越しに憂慮を湛える。
「さて、困ったもんだ」
彼女には誤魔化しきれない。
背中越しにまた青嵐が吹いて黒いネクタイが揺れ、駐車場の落ち葉を一掃していった。自宅を出てくる前に開けていた居間の納戸は家政婦が締めてくれただろうか。キョウは今、それだけを心配することにした。