序幕
薄暗い部屋にブザーが鳴り響いて、室内を取り囲むベルベット地のカーテンの一角からダブルのスーツを纏った男が現れた。背広は体格のいい引き締まった身体にフィットした伝統的な英国タイプで、生地のチャコールグレーが彼の厳然たる風格を引き立てる。男は傍にあった台に銃火器と携帯端末を多くと、芝居がかった調子で大袈裟に両手を広げ、笑うふりをした。
「紳士淑女の皆様、今夜はお集まりいただきありがとう」
サーカスなら時折ピエロが担当する口上だが、屈強な肉体に鋭い双眸、いかにも悪辣な雰囲気はとても道化のそれではない。男の前に伸びる大テーブルの席についていたゲスト達は、眉を顰めながらこの冗談を咎める。
「サカキさん、ふざけるのもいい加減にしてくれませんかね。カントーのヤクザ組を集めて一体何の用だ」
真っ先に口を出したのは、頬の傷が目立つ強面の男である。年の頃はまだ三十過ぎ、ゲストの中では最年少だろう。テーブルにつく来賓らは合わせて十数名ほどで平均年齢は五十代後半、皆一目で堅気ではないと分かる風貌をしている。
「これは失礼、石竹会のコウキ殿」
サカキは口元を僅かに緩ませ、テーブル端の議長席に腰を下ろした。
「我々は忙しいんだ、用件は手短に言え。昨日だってうちの支部に妙なポケモンを持った二人組が押し入り、後処理が大変なんだ。ロケット団の三文芝居を見せられるくらいなら帰るぞ」
頭の禿げあがった和装の老人が皮肉っぽくサカキを咎める。しかし彼はどこ吹く風だ。顔の前で両手を組み、悠々と微笑むふりをする。
「その二人組の件でご相談が。実は一度仕事の最中に邪魔をされましてね。恩を返したいが、なかなか尻尾が掴めず困っている」
「おっとそりゃあ大変なことで。そりゃガキのポケモンに組織を潰される程度だからな、ロケット団さんは」
すかさず頬に傷のある男・コウキが口を出し、来賓らが次々に声を上げて笑い始めた。ロケット団が三年前に一人の少年によって壊滅させられたことは世間も周知の事実である。サカキは一切の反応を見せずに話を続けた。
「部下の報告によると、その二人組は自らをヒーローと名乗ってカントー・ジョウト地方の暴力団を潰して回っているようで。既にジョウトの有力ヤクザは大きな被害を受けているそうで、“ひんし”状態だとか……今のところ人的被害は出ていないので、警察はろくに動いてないようだがね」
嘘偽りのない事実に、先ほどまで彼を小馬鹿にしていた来賓達は口を引き結んで黙りこくった。これは最近、彼らの悩みの種になっている襲撃事件である。ここ一月の間にポケモンを使った“カチコミ”が横行しており、世間を密かに騒がせていた。だが暴力団と縁のない一般人からは“面倒なヤクザは排除してくれた方がいい”と、このヒーローらに好意的な声も多く、死者も出ていないため警察も本腰を入れて捜査していない。頭を抱えているのは中途半端に強いポケモンしか所有していない同業者であった。
「アレのお陰でマル暴(※警察の組織犯罪対策部)が大っぴらに出入りするようになっちまった。全く、頭が痛いぜ。しかしうちのポケモンは育て屋に頼んで作った“6v”揃いさ。ヒーロー気取りにゃ負けねえよ」
剥げた老人が顎を撫でながら得意げに微笑むと、椅子の背に身体を預けるサカキがそれを嘲笑う。
「おや、月見組は何の情報も得ていないようだ。カチコミを食らった組が所有しているポケモンは、皆“6v”の個体だけならプロ顔負け。それがものの数秒でのされたと言うのに。それでは先も短いですな」
サカキの経歴をよく知っている老人は、たちまち顔を真っ青に染め口を噤む。一人の少年によって弱体化させられたロケット団だったが、それでもかつては裏社会での隆盛を極めており、それはこの男の並外れたポケモンセンスによるところが大きい。過去にはトキワシティのジムリーダーも担当しており、地方最強と謳われていた彼に否定されれば信憑性も増すというものだ。
「“鉄砲玉”の手持ちだが、伝承にしか存在が確認されていなかった伝説のポケモンと特徴が合致する。虹の翼を有する鳥に、銀に輝く海の神……被害状況から察するに、メタモンではなく本物である可能性が高い。そこら辺で雑草を食んでいるポケモンの“6v”など相手にはならんだろう」
来賓らの顔色が急激に曇り始める中、コウキだけは眉間に皺を寄せて男をじっと睨み据えている。まるで自分は問題ないとでも言いたげだ。サカキは彼を一瞥し、話を続ける。
「ロケット団は元々ポケモン犯罪に特化し、名を上げた組織。ガキやヒーローへの対策は万全だ。伝説のポケモンを凌ぐ戦力と、トレーナーを封じ込める策を保有している。そこで我々と協定を結び、共に英雄気取りを討とうじゃないか。いかがかな。悪い話ではあるまい」
椅子から身を起こし、悠然と両手を広げて語る姿は自信に満ち溢れている。一般人ならば縋りつく者も居たかもしれないが、裏社会で強かに生き延びてきたやくざ者達には通用しなかった。新興マフィアとして十数年前に頭角を現し、古くから各町に存在する暴力団を押しのけて著しい成長を遂げたこの組織を他の組長らは快く思っておらず、借りなど作りたくもなかった。
「三年前なら考えてやったが……今のロケット団がそんなことを言えた義理か?」
黒い背広を纏った初老の男が鼻で笑う。彼はヤマブキシティを拠点とする、山吹会の組長だ。この来賓の中では最上位に該当する有力人物である。
「あんた、二年前もそうやってうちの組を言い包め、シルフカンパニー強盗襲撃事件の足掛けにしやがったなァ……お陰でサツが睨み利かせてシルフとの取引が縮小しちまってるんだぜ。あれは大きな痛手だったよ。ま、計画は失敗した上にガキにやられちまっていいザマだ。その状況を鑑みれば、ふんぞり返って手助けを求めるような身分じゃないってことは分かるんじゃねえのかい、サカキさんよ」
もう少し下手に出ろと言わんばかりの威圧だが、サカキは我関せずと椅子にもたれかかったままだ。彼は両手を腹の前で組み、天井の蛍光灯の光へ視線を向けながら小さく息を吐く。
「街の片隅で裏の目付役を気取っているチンピラに頭を下げろと? ふん、馬鹿馬鹿しい……」
口の悪い発言に、山吹会の組長は野太い罵声を轟かせながら椅子を蹴って立ち上がった。「てめえ!」室内に重苦しい緊張が走り、誰もが軽蔑の眼差しをサカキに向ける中――彼はすっと上半身を上げ、背筋をぴんと伸ばして冷然と告げる。
「どいつもこいつも程度の低いゴミばかりだ。分かりやすく、もう一度提案してやろう。“街に居座り続けたいのなら、ロケット団の傘下に入る方が賢いぞ”」
語気を強めた傲慢な物言いは、サカキの発する静かな狂気を孕んだ威圧感と相まって来賓らに身も竦む恐怖心を植え付けた。たったの一声でその衝撃に戦慄する――ポケモンの技、“じしん”のようだ。
「均衡など簡単に崩れる――我々はそうやってのし上がってきた。そしてこれからもだ。王座の下には貴様の醜い面を窺ってる雑魚ばかり居る訳ではない。散々コケにされ、我々が黙っていると思わんことだ」
口を挟む隙もない気迫に押し黙っていたコウキだったが、耳慣れた台詞に瞳孔が開いた。つまらない罪で暫く服役し、出所したほんの数年前。世話になった保護司が似たニュアンスの激励をしてくれた。そうして一度は日陰者から更生しようとし、彼はその道も用意してくれたのに――結局、上手くいかずに今も暴力団のままだ。恩返しと言えば、街の面倒を裏で潰すことくらい。ずっと後ろめたさを感じていた。
「てめえ……最初からそれが狙いで俺達をここへ呼んだのか!」
この物々しい空気の中、一人ぼんやりと昔に思いを馳せていたコウキだったが山吹会組長の怒声で我に返った。顔を上げると、組長は上着の裏ポケットへ手を伸ばしている。低く構えた腕の位置から、拳銃ではなくポケモンを繰り出すのだろう。上着の裏側にモンスターボールを収納するポケットの位置は、基本的に脇の辺りである。いつでもアシストできるようにと、コウキも素早く懐にしまったボールを握り締めた。
コウキはここ最近体調が思わしくない石竹会の組長に代わって代理参加した若頭候補である。決して他の組織には地元を譲らない、という上からの強い意向には極力沿う構えであり、カントーの有力グループである山吹会の抵抗は頼もしかったが――希望はロケット団首領のフィンガースナップで打ち砕かれた。
椅子に身体を沈めるサカキが右手をぱちんと弾き鳴らすと、部屋を取り囲んでいたカーテンが一斉に翻って屈強なポケモンを従えた黒づくめの構成員らが姿を現す。ロケット団員の数は合わせて十五人、その手に持ったサブマシンガンの銃口は全て来賓に向いている。おまけに背後にはカイリキーやケンタロス、サイドンなど、一筋縄では太刀打ちできないポケモンばかりだ。つい先ほどまで気配すら感じ取れなかったし、カーテンの裏は部屋の構造上窓か壁しか存在していなかったはずである。となればエスパーポケモンが別室からテレポートで転送したのだろうか――コウキはそう導き出し、室内が騒然となる中で、固く握り締めていたモンスターボールを誰よりも早く取り出した。収容されているマタドガスは不穏な空気を察知して会議前から毒ガスを体内に溜めこんでおり、ボールが開けば速やかに感覚機能を麻痺させる気体を撒き散らすことができる。これは出所後に地元セキチクシティのジムの世話になっていた頃、師から教えてもらった技術だ。
(この中に毒と鋼タイプ、毒耐性のある特性持ちはいねえ……チャンスだ!)
マタドガスと合図を交わしボールの開閉スイッチを押す――次の瞬間には技を叫んでいるはずだったが、何故か相棒は現れない。もう一度、しっかりと確認しながらスイッチを押した。やはりボールは無反応だ。何度押してもぴくりとも動かず、中のマタドガスも困惑気味に主人の顔を見つめている。トレーナーたる者、最善の準備をしておくべし――師の教えは一度も忘れたことがなく、ボールとマタドガスの状態は直前まで念入りに点検していたはずだ。突然の故障なんてありえない。それは他の組長らも同じようで、皆動作しないボールを連打しながら絶句している。
「……と、このように。トレーナー対策も万全と言う訳だ」
二の句が継げない来賓らを嘲笑うように、ロケット団首領は極めて冷淡な口調で言い放った。金に糸目を付けず手に入れた自慢のポケモンがまるで使い物にならないと悟った殆どの組長達は、大きな選択肢であった「抵抗」のカードを容易く放り捨てる。懐に忍ばせていたモンスターボールを次々テーブルの上に置き、降参を示した。勿論その意に沿わない者もおり、石竹会のコウキ、山吹会と、タマムシ北部に縄張りを持つ三代目北組の女組長はテーブルの下で両手を組んだままだ。
「……サカキさん、アンタやっぱり堅気上がりのやくざ者だよ。何も分かっちゃいない――アンタが昔持ってたグリーンバッジを振りかざすように、人間様がロケット団にホイホイ従うと思ったら大間違いだ。この世界はそう甘くない」
五十代にして艶のある美貌を保つ女組長が、紅を引いた唇を揺らしながら毅然と言い放つ。背中に向けられた銃口に内心畏怖していたコウキは、彼女に対し尊敬を示す息を吐いた。この大御所二人がロケット団に反発してくれるのは頼もしい。
「ボールを置いたアンタらも、とんだ臆病者だねェ! シルフを支配するもガキに惨敗し、三下がポロポロしょっ引かれながらサツに追われ続けているロケット団に頭下げて……プライドはねえのかい! 石竹会を見習いな!」
留袖を振るいながらの一喝が、来賓の耳をびりびりと刺激する。下手に動くと命を落としかねない場面だが、やはりロケット団の現在の状況を考えると素直に従うのは不服だった。その思惑は一致し、他の組長らは互いの視線を絡ませながら懐に隠した免許端末を掌へ滑らせる。武器と携帯端末は会合前に一ヶ所に集められていたが、モンスターボールと免許端末だけは回収対象外だった。それを使って建物外に待機する部下に連絡しようと試みるが、左上の電波表示は圏外となっている。会合直前まではアンテナが三本表示されていたはずだが――舌打ちする組長らの反応を受け、サカキの傍でピストルを構える男が冷たく微笑む。
「ビルの周辺で待機している下っ端に助けを求めても無駄ですよ。まあ電話が繋がっても、会話できるかどうか」
整った顔立ちに長身痩躯の彼はロケット団のナンバーツーとして裏社会では名の知れた男、アポロだ。その冷ややかで不気味な笑みに、皆が背筋を凍らせる。カントーの暴力団が一堂に会す、この集まりのために揃えた粒よりの用心棒達をまとめて始末したのだろうか。これには三代目北組の女組長も動揺を垣間見せる。
「ふん、これだから秩序を乱す野蛮な連中は……」
不遜な舌打ちの直後、室内に銃声が響いて女組長が金切声を上げながら椅子から転げ落ちた。突然の事態に来賓らは度肝を抜かれ、血の気が引いたように青ざめる。アポロは肩を押さえて床をのた打ち回る女組長を見下ろしながら、事務的に告げた。
「私はサカキ様ほど辛抱強くありませんので、聞くに堪えない罵倒を吐く方には黙っていただきます」
三代目北組と言えば山吹会に次ぐ大きな勢力だが、その長を躊躇なく撃つ残酷さに客人達は絶望した。次々に組織を潰すヒーロー気取りに慄き、裏社会の秩序はロケット団にかき乱される――この先に旨みを貰える未来がない。コウキは昨日までセキチクシティで細々と活動していた生活に急な懐かしさを覚えた。そこで思い出したのが、我が組織は規模こそ大きくないが、外部からの介入は一切許していないという点だ。警察が保護司という名目で繋がりを持っていたジムリーダーと協力し、犯罪には特に目を光らせていたし、その関係で石竹会も外部勢力を排除しやすかった。こちらが大人しくしていれば、些細な報告からでもすぐに余所者を追いだしてくれる。情けなくもあるが、ロケット団対策としてはそれなりに効果を発揮していた。
「しかしねえサカキさん……セキチクはサツの目が特に厳しいですぜ。ロケット団が動きにくいことはアンタも重々承知だろう? 我々が従っても、自由に動き回れるのかすらも怪しいな」
コウキは苦し紛れに肩をすくめて強がって見るが、ロケット団首領はやはり冷静だ。眉ひとつ動かさず、悠々と椅子に身体を沈める。
「それはあの町のジムリーダーがサツやお宅の組に手を回していた頃の話だ。俺の事例で身を以って反省したリーグ本部は、リーダーを地元に根付かせなくなった。面倒な男を四天王に格上げし、リーダーの若返りを図った今――カントー・ジョウトの地方は見事な青二才ばかり。頼れそうなのは死にぞこないのジジイくらいか。ヤナギと言う名の割に、足はしならず折れやすい」
そんな冗談につられてアポロが大仰に笑い、部屋を取り囲んでいたロケット団構成員らも肩を動かしながらクックと噴き出す。何とも奇妙な光景に組長達が表情を強張らせる一方で、頭に血を上らせたコウキは真っ赤だ。身体に帯びた熱が、先月ようやく運営を再開したジムの様子を脳裏に再現してくれる。興奮沸き立ち、観客らと共に歓喜したくなった新人ジムリーダーのデビュー戦。初日からあれほど期待されるリーダーはなかなかいない。僅かな時間であったが、その地盤作りに関わったことは何よりの自慢だ。それを踏みにじられるのは、石竹会の行く末を考慮しても我慢ならない。
「てめえ……! お嬢さんに手ェ出したら許さねえぞ……!」
憤りに突き動かされるまま、椅子を蹴って立ち上がった。懐から煙草の箱が滑り落ちたことさえ気付かず、彼の背後に立っていた猫背のロケット団構成員がすかさずそれを拾ってパッケージをぱちんと弾く。
「おーおーおー、お熱いこった。でもな、“希望”は捨てちゃいけないよ」
彼は裏社会では『育て屋』として名を馳せる、ロケット団幹部のラムダである。彼はソーナンスが引き攣り笑いを浮かべたような不気味な表情のまま、鼻息荒いコウキの肩を抱き、その掌に煙草の箱を捻じ込んだ。銘柄はホープだ。彼は黄ばんだ歯を見せながら、恐怖を植え付けるようにゆっくりと囁く。
「ジムリーダーに縋らなきゃ街でやってけない“クソ個体”揃いのチンピラが、つまんないことで楯突くなんて賢くないぜえ……潔くボスに従いな、パーッと輝くショーの大舞台へ連れてってくれるよ。まあ配役は“見張りA”なんだけど、エキストラがいないとサ、華がないだろう?」
ラムダの双眸に宿るどす黒い野心が、コウキの怒りの炎をみるみる鎮火していく。
「お前ら、何をしでかすつもりだ……」
そう尋ねた途端、ラムダの感情の糸がぷつりと途切れる音がした。目が大きく見開かれ、重苦しい声を擦り付けるように言う。
「映画観る前にネタバレの批評読むタイプだろ、お前? ショーの内容を知ってちゃ楽しめねェよ」
数秒ではあったが、一切の抵抗が通用しない狂気を垣間見た気がした。ラムダは言葉を失うコウキの襟首を掴んでテーブルへ押し倒すと、苦痛に歪む顔面にホープの箱を投げつけ大袈裟に呆れ返る。
「ねえボス! ワタシャこいつを組織に引き入れるのには反対ですぜ。『トゥルーマン・ショー』を観る前に、実はこれテレビの企画なんだと言ってくるに違いない。ちょっと、気に入らねえ目をしてる。“あのプラン”を実行するなら、こいつをホトケにして鯛を釣るのもありかもしンねえけど」
「好きにしろ」
サカキとラムダの会話の意図を察した来賓らは息を呑み、内心慄いていた。息も絶え絶えの三代目北組女組長を放置し、石竹会の代表者を断頭台に送ろうとするこの容赦ない仕打ち。話し合いがまるで通用せず、裏社会の均衡を易々と打ち崩そうとする脅威にはなかなか歯向かえるものではない。皆保身のために、椅子にしがみ付きながら視線を逸らした。
「良かったなー、お前。カスみたいな人生だったろうに、最後の最期で輝けるんだぜ。ボロクズみてえな釣竿だけど頑張って大物釣り上げてくれよォ、ミュウとまではいかないが!」
ラムダは一人ゲラゲラと笑いながらコウキの背を叩く。何に利用されるのか見当もつかなかったが、理解する前に消されてしまうことだけは分かった。一方、面白がるロケット団構成員達の中でも、一人アポロだけは顔を曇らせている。
「そんなゴミで奴が釣れるとは思えませんが……」
「さて? 意外に義理堅い男だからな。俺は引っかかると思っている」
肩をすくめるサカキに、アポロは顔を引き攣らせながら不平を漏らした。
「案外単純なんですね」
「さて、俺は奴に連絡するとしよう」
首領は無表情のまま、懐から取り出した黒い通信端末を手にする。アポロは機嫌を損ねてしまった失態に青ざめながらも、動揺を表に出さないよう、やや俯き気味に唇を引き結ぶ――が、テーブルに押さえつけられているコウキにはお見通しだ。自分も師に睨まれては、あんな顔をしていたことがある。
もう数分と生きられない絶望的な場面だというのに、それをきっかけに思い出したのはセキチクジム解散後、元弟子達で居酒屋に寄り集まってテレビ観戦した新制セキエイ・デビュー戦だ。師の晴れ舞台に胸を弾ませ、スポットライトに照らされながらベンチ奥から現れた五人のトレーナー。中央のチャンピオンがマントを翻した仕草は、今も鮮明に覚えている。
(ヒーローみたいだったなあ……)
あの瞬間は瞼の裏が焼け付くように眩しくて、栄光の大舞台に立つ師に少しでも関われた自分にも、スポットライトが照らしてくれているような気がした。他の弟子も同じで、それをモチベーションに更生していったはずなのに――自分は一人ぽつんと取り残されている。任侠は堅気に戻りにくいとはいえ、自業自得だ。荒んだ道に身を落とした今、あの時の輝きはたった一つの生きる“希望”だった。
「頼んだぜ」と背中を押してくれた仲間の言葉を思い返し、目の端に映り込んでいた煙草の箱を引っ掴んで蓋の開かないモンスターボールを取り出した。
「出てこい、マタドガス!」
故障が解除され、ボールが開く一縷の“望み”に全てを賭ける。
結果は銃声となって返ってきた。
闇の中で、テンポの良い振動音が響き渡る。
車の後部座席――革張りシートの上で、名刺大の通信端末が身体を震わせていた。発信元が表示された小さなディスプレイを覆うように、青白い三本指の手が伸びる。ラバーのような質感を持つ肌は生々しく、明らかに人間のそれではなかった。慣れた手つきで通話ボタンを押し、その状態のままシートの上に置く。
『二次テストは成功。おおよそ六十のボールに……』
スピーカーから低い男の声が漏れ聞こえてくるが、その後ろでは怒声や野太い悲鳴、果ては銃声などが響く始末で、淡々とした彼の声音など殆ど掻き消されている。しかし三本指の主には、結果が分かればそれで十分だった。すぐに通話を切断し、再び端末をシートの上に転がすと手元にあったノートパソコンを開いた。
煌々とした光が、それの横顔をはっきりと浮かび上がらせる。白にほど近い薄紫色の肌にぎらぎらとした紫水晶の瞳はディプレイに表示されたCUI画面の背景と文字のコントラストと似ていて、運転席からそれの姿を覗いた男の目を刺激した。人型ではあるがどう見ても人間ではなく、ありふれたポケモンとも合致せずいつまでも見慣れない奇妙な外見に、男は嫌悪感を抱きながらも座席から茶色の瓶を差し出した。
「テスト成功おめでとうございます」
男の無骨な右手を弾くように瓶が宙に浮き上がり、勝手に蓋が取れた。中はぎっしりと白い錠剤が詰まっており、上から五錠だけ跳ねて再び蓋が閉まる。エスパーポケモン程度の念力があれば容易い動作だ。浮かんだ錠剤はそれの掌へ落下して、口の中に運ばれた。
「そろそろ、シャバの空気にも慣れましたァ? お薬の量減らしますゥ?」
男はそれの念力を気味悪がりつつ、錠剤の入った瓶をダッシュボードの中へ仕舞い込む。
ガサツな動作が不協和音となってそれの聴覚をちくちく刺激した。暗闇に包まれていた視界も僅かに開け、車内を包む煙草の不愉快な臭いも次第に鮮明になってくる。早くも薬が作用しているのだ――それは確信した。今は画面にだけ集中したかったのに、周りが見えてくるとこの環境は極めて不愉快だ。そして、どこかに“アレ”が現れる。
「すぐに洞窟から出てきて、オレよりメカ使いこなすなんて全く尊敬しますよ。ポケモン様だなんて思えない」
運転手の男が下品に嘲笑する。
それにとってこの人間は、車を操るしか価値のない存在だった。しかし服用した薬が早くも効き始め、あらゆる感覚機能が研ぎ澄まされている今、下種な笑い声はただただ不愉快でしかない。苛立ちが積み木のように重なっていき、土台がぐらぐらと揺れ始める。
「やっぱりボスは目利きだな、こんな逸材を見つけて来るなんて。ポケモンの最高峰じゃねえの?」
ふいにその台詞が過去の記憶と結びつく。
『ミュウツーがいれば史上初のリーグチャンピオンだって夢じゃない……ミュウツー、君は紛れもなく最強のポケモンだ。誰も君を越えられない、最高の息子……』
ボールの外側に張り付く男の血走った眼が脳裏に浮かぶ。悲壮を湛えて縋りつき、中に収まるそれに対する称賛を何度も何度も繰り返していた。それは彼のことを“父”だと呼んでいた頃もあったが、その姿はとても惨めで哀れだ。
もう一つ、視線を感じる――顔を上げた。あいつだ。
運転席側の黒い窓に、小さな白い影が映りこんでいる。それの頭の中に、掠れる声が煩く反響する。
「今ならまだ間に合う。戻ってきて」
悲劇を演じるような素振り。誰もが自分勝手な理想で、振り回そうとする。目障りだった。
「今後ともよろしくお願いしますねェ、ミュウツーさん!」
運転手の男が、薄汚い顔をそれに向ける。
首筋の間から覗く車窓に、白い小さな影がぼんやりと浮かんでいた。眉間に皺を寄せ、撃ち抜くように睨んでも影が消え去ることはない。目障りだった。
「ん、何かいるのか?」
視線の先にある窓を覗き込もうとした男の背中に、右腕をかざす。「まだ誰も出てきてないけど……」と、呑気な台詞を言い終わる前に、蒼い炎が火柱を上げ、ワゴン車の前方座席を吹き飛ばした。そうすることでようやく白い影は視界から消えてなくなり、薬の効果も安定し外気に晒されても感覚機能は正常だ。
ほっと息を吐いて安堵し、再びノートパソコンへ目を落としていると、黒塗りのセンチュリーが横につく。艶やかな車体にあの白い影が映り込んでいないかと視線を動かしたが、真夜中の雑居ビル群がうっすらと広がっているだけだ。まもなく傍の建物から足音が響いて、黒づくめの部下を引き連れたサカキが現れる。彼はセンチュリーの隣に停車した前半分が焼失したワゴン車を一瞥すると、後部座席に腰を降ろしているそれをうんざりした様子で咎めた。
「前にも言ったが、廃車にした分は報酬から差し引く。これで五台目か……次も軽ワゴンだな」
前を行く大幹部のアポロも同調するように肩をすくめ、首領と共にセンチュリーへ乗車する。車はすぐに暗闇の中へと走り去って行った。残された他の部下も道路脇につけていた車に次々乗り込んで後を追う。
そうしてようやく周囲に再びの静寂が訪れ、残された遺伝子ポケモン・ミュウツーは短く息を吐いた。街灯も少ない深夜の雑居ビル群は不穏な風が漂い、薄紫色の肌を撫でる。外の世界も何十年と生き続けたあの牢獄とさして変わりない。延々と続く夜だ。