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第3章
終幕
『昨日はロケット団が引き起こしたカントー・ジョウトテロから丸一年、カントー及びジョウト地方の各地では犠牲者を追悼する式典が行われました。事件の規模に対し犠牲者の数は比較的少数だったものの、今だ治療を続けている方は多く、我々はこの事件を忘れてはなりません。最近の警察の調べでは首謀者はロケット団ではなくヤマブキシティ暴力団グループだったことが判明し、ロケット団首領のサカキは懲役数年の実刑が確定しており――』
 追悼式のVTRを背景に、男性アナウンサーが淡々とニュース原稿を読む映像がテレビから流れる。一昨日から、どのメディアもこの話題を取り上げていた。実刑の知らせを初めて耳にした半数以下の人間はそれを鵜呑みにすることはない。例えばこの青年のように耳を疑い、傍にいた同僚に聞き返す。
「おいおい、冗談だろ」
 すると同じく疑心を抱いていた同僚の青年も肩をすくめた。
「この手のマフィアはそんなものさ。三下に罪をおっかぶせ、少しのお勤めでシャバに出てくる……この国も物騒になったもんだ」
 彼が手元のスマートフォンでこのニュースについて少し検索するだけでも、一部の政治関係者や有識者、SNSの世論の多くはこの判決を疑問視していた。それでもロケット団にとっては結果が全てで、このような非難など一切通用しない事だろう。あと数年経てば、またニュースで活動を耳にする時が来る。
「出てきたらまたテロを計画したりして」
 青年が歯を剥き出しにしながら辟易した。だが同僚は妙に得意げだ。
「望むところさ」
 彼はその後に流れたスポーツ関連のニュースを指しながら頬を緩ませた。
「何たってこの地方には唯一無二のヒーローがいるんだから――また返り討ちだよ」
「確かにそうだな」
 青年は微笑みながら胸を撫で下ろすと、テレビ脇に設置されているコーヒーメーカーへ歩み寄り、ホットコーヒーと贈答品の茶菓子に手を伸ばした。それはセキエイ高原に店を構える老舗銘菓の詰め合わせで、彼が勤務する団体の長が気に入っている品だ。つい先日の来客が持参したもので、箱の隣には『ポケモン大好きクラブさんへ』との手書きのサイン入りメッセージカードが小さなアクリルフレームの額に収まって飾られていた。地方を守ってくれたヒーローがくれた名刺大のカードを見ると彼らはつい誇らしげになり、この団体に所属して良かったと実感する。縁を運んできてくれた団体の長に心底感謝すると共に、話題はそちらへと移っていく。
「ところであの子、まだ“会長”に捕まっているのかね」
 青年が事務所スペースを仕切るパーティションから、来客との共有エリアを覗く。ここは最近クチバに居を構えたばかりの小さな団体で、仕切りの先は五十畳程度のコミュニティスペースとして利用されていた。活動内容は至ってシンプルで、各々手持ちポケモンの良さを語り合うだけだ。それでも毎日なかなかの賑わいがある。
「ああ、どうやらそうみたいだ」
 同僚も仕切りの横から会長を覗く。
 白い髭を蓄えたロマンスグレーの老練な紳士が、円卓が並ぶスペースの一番奥で、ベイリーフを連れた少年を前に熱く語っていた。彼こそこの非営利団体、『ポケモン大好きクラブ』の会長である。
「それで、私のギャロップがもう可愛くて……こうぎゅっと抱くとだね、温かくて冬はたまらないんだよ。くう……素晴らしい!」
 彼は長年連れ添っているギャロップをその場に繰り出すと、艶やかな毛並みを撫で回しながら少年にその良さを並べ立てる。陶酔しているような語り口で少年は辟易していたが、上の空だとギャロップが睨むのでベイリーフと共に何とか背筋は伸ばしていた。その姿は大好きクラブ会長の舌に拍車をかける。
「分かるかね? 可愛いだけじゃないんだ、その脚力は昔からサイクリングロードで走り屋どもを圧倒していてな、新幹線にだって勝ったこともある! 君の持っているその図鑑、ギャロップの頁を引いてみたまえよ。新幹線をも追い抜くとちゃんと書いてあるから。これね、私が検証したんだよ。それでギャロップは駿馬の代名詞として世に広まり、名だたるスポーツカーのエンブレムに用いられている跳ね馬のモチーフにもなったんだ。ま、どれだけ技術向上しようが、ギャロップに勝る車なんてそうは出てこないよ……君、名前なんだっけ?」
 会長は退屈を覗かせた少年を牽制するように名を尋ねる。
「ゴールドです」
 彼はつっかえながらも何とか答えた。会長は軽快に指を鳴らしながら、愉快気に笑う。
「そう、ゴールド君。男はスポーツカーだなんて昔は言っていもんたがね、古い古い! 今の時代はポケモンだよ、ポケモン乗り!」
「そーっすね……」
 会長が背にする本棚には、ポケモン乗り関連の雑誌が並んでいた。一目で還暦を越えていると分かる外見ながら、バイタリティ溢れる人だと少年は感心した。まるでチョウジジムのリーダーのようだが、彼はヤナギより溌剌と構えている。このクラブができる前は何をしていたのだろう――テーブルの上に置かれている会長の経歴が書かれたパンフレットに目を移そうとした時、会長がオニドリルをその場に繰り出し注意が逸れた。
「空の移動もポケモンが良いんだよ、これが。私はこの通りオニドリルも所有しているんだが、たまの飛行も快適でな! 休日はパラグライダーよろしく河原でゆったり飛んだり、そうそう、鳥ポケモンはゴルフ場での移動にも最適なんだよ。ゴルフバッグを持たせて、相棒と一緒にコースを周れるところも増えてきたりね……これ、実は私が提案したんだよ。ほら、鳥ポケモンは華奢なのが多くて大人はなかなか背に跨れないじゃないか。君くらいの少年だと別だが……でも昔の様に飛行したい、ゴルフ場程度の距離なら移動の負担もかからないだろうとね。これが鳥使いのゴルフ仲間に好評でねえ。見晴らしもいいし最高だよ!」
 こんなポケモンの称賛を兼ねた自慢話がかれこれ三十分は続いている。少年は握り締めた免許端末を小刻みに起動し、待ち受けに表示される時間を何度も確認しながら切り上げたい旨をアピールした。だが会長の話はなかなか終わらない。そこで彼はベイリーフと顔を合わせ、意を決して切り込んだ。
「あの、そろそろ……!」
 思いの外、話はさっくりと中断する。会長は腕時計を見て、はっとしていた。
「おや、すまないね。年寄りの長話を聞いてくれてありがとう。お礼に――」
「オレ急いでるんで!」
 話が終わったことを確認した少年は椅子を蹴って立ち上がり、そのまま一目散に施設を飛び出していく。あまりに必死なので、他の席で談笑していた一般客の視線がそちらに集中したほどだ。
 会長は若々しい後ろ姿を見送りつつ、左右に並ぶポケモン達に呆れ顔を向けた。
「飴、あげようと思ったのに……最近の若いのはせっかちだな」
 そう言いながらテーブルに置かれていたポケモン用の飴玉を手持ちに与えていると、パーティションの奥から職員の青年がやって来てゴールドが飲み残して行ったジュースを回収する。
「会長の話が長いんですよ。お気持ちは分かりますが」
 苦笑する青年に、会長は髭を引っ張りながら眉を顰めた。
「ワタル君なら笑顔で聞き入ってくれるんだがなあ」
「ポケモンリーグ総監時代のエピソードを話せばよかったのでは? きっと彼は試合時間に間に合うよう帰ったのだから、チャンプの話を絡めれば喜んで聞いたはずなのに」
「それじゃこのクラブで話す意味がないだろう。ここは好きなポケモンを語り合う施設だからね。何十年と蓄積していたこの思いはまだまだ話し足りないよ」
 会長はギャロップとオニドリルを引き寄せながら、フロア内を一望する。元々ポケモンが好きでそれを仕事にしたかった彼にとって、手持ちを存分に愛で語れるこの施設こそ理想形だ。それを気付かせてくれたあのヒーローに心から感謝した。ふいに窓の外へ目をやると、クチバの大通りをベイリーフを連れたあの少年が人をかき分け宿へ駆けている姿が見える。
「あの爺さん、話長すぎ! 早くトレーナー宿に戻らないと……」
 少年は息を切らしながら相棒と目を合わす。
「セキエイリーグ開幕戦が始まっちまう!」

 日の落ちたセキエイ高原の空を街の光が明るく照らす。
 その中心にはポケモントレーナーの終着点とされていたスタジアムが存在していたが、今は一回りほど大きくなってモンスターボールを模した巨大ドームへと変貌していた。シロガネ山の峰々を背にし、傍にリーグ本部の拠点を置いたその建物はセキエイの新たなランドマークとなっている。周辺には屋台が並び、中からあぶれた人々は広場に用意されたいくつものパブリックビューイングに集まっていた。スクリーンには満員の場内がゆっくりと映し出され、その熱気を外へ伝えている。
「ご来場の皆様、お待たせいたしました」
 ふいにスタジアム場内の明かりが落ちて、三階建てのスタンドを埋め尽くす観客が徐々にざわめき出す。バトルフィールド外野中央に神妙な面持ちの男性アナウンサーが登場し、控えめな一筋の光が彼を照らす。それだけであちこちからぱらぱらと拍手が起こった。六万人の期待を受け、アナウンサーはマイクを持つ手を震わせながらゆっくりと口を開いて彼らに語りかける。
「あの事件から一年――激戦の舞台となり、崩壊寸前だったセキエイスタジアムは『シルフカンパニー・セキエイドーム』へと生まれ変わりました。命名権を得たシルフカンパニー様の多大な支援もあり、六万人収容の国内最大級の規模へ」
 東南フェンス上段、天井の真下に設置されたオーロラビジョンに北側ベンチ上のVIP席で観戦するシルフカンパニー代表取締役と支配人のマツノの姿が映し出されたが、感極まって顔を真っ赤に号泣するマツノを取締役が宥める光景は情けなく、カメラは慌てて次の功労者へと切り替わった。
「また、ケーシィ・テック社製の見えないフェンスを駆使した臨場感で、栄光の舞台の名に相応しい戦いを繰り広げてくれる事でしょう」
 東側スタンド二階席の一ブロックに桃色の法被を着た恰幅の良い男性がオーロラビジョンに映される。そこはセキチクシティから訪れたファンが占有する応援席で、地元を代表する上場企業へと成長したケーシィ・テック社がこの日はブロック丸ごと買っていた。機嫌のよい社長が、傍で応援するアンズを引き寄せてカメラにピースサインを送る。アナウンサーがそれを微笑ましく見送って、もう一度観客を眺め渡した。場の空気に少し慣れてしまえばいくらか緊張も軽減される。彼は小さく息を吸い込み、はっきりと告げる。
「休業期間はここまでで終わり。いよいよ今夜、セキエイリーグが開幕します!」
 オーロラビジョンに旧スタジアムの空撮映像が流れ、一時の懐古気分に浸らせた後、それを切り裂く巧みなサックスイントロが場内に響く。待ちかねた歓声が一気に押し寄せる中、アナウンサーも堪らずに声を振り絞った。
「皆様お待たせいたしました。それではセキエイリーグを守るプロの面々に登場していただきましょう!」
 軽妙で壮大なビッグバンドに乗せて、眩いスポットライトが北側ベンチを照らす。大歓声を前にそこから現れたのは、燕尾ベスト姿が印象的な派手な様相の少年だ。
『まずは四天王の一人目――エスパー使い、イツキ!』
 スタジアムDJが放送席から声を挟み、スタンドの興奮は瞬く間に引き上げられた。若い女性ファンが黄色い歓声を上げながら、腰を浮かせてカラフルな花をフィールドへ投げ入れるとイツキは凛々しく作っていた表情を崩しかける。すかさずアナウンサーが休業中の功労を紹介した。
「今日までファンの期待を高めてくれたセキエイリーグきっての広報と言えば彼でしょう! 事件後に最も多くメディア露出し、経過報告や楽しいトークショーを披露してくださいました。彼の明るい笑顔を見て、開幕戦に期待を膨らませた方も多いはず――四天王は夢の通過点だと常々語ってくれているイツキさんですが、今年こそ念願のチャンピオンなるか? そちらも気になるところ。ファンの皆様で後押ししていきましょう!」
 沢山のサイン入りモンスターボールを抱えていた彼は、フィールドへ軽快に飛び下りるなりそれを次々スタンドへと投げ入れる。なるべく子供が座っている場所を選んでいたが、最後の一つは北側ベンチ上スタンドで号泣していたマツノへ投げ入れた。真っ赤な目を丸くするマツノに、イツキが拳を振り上げる。
「お疲れ様!」
 彼は白い歯を見せてにっかり微笑むと、フィールドに向き直り大仰にお辞儀した。
 内輪の馴れ合いがあったものの、こののぼせ上がる場内ではそれもすぐに忘れられてしまう。イツキがテクニカルエリアの端に立った後、スポットライトは再びベンチ前へと移り、次のトレーナーを出迎えた。
『続きまして二人目の四天王は――毒使い、キョウ!』
 ベンチの奥から現れた和装の中年男性が、バトルフィールドに下り立つ前に折り目正しく頭を下げる。歓声と拍手が益々の高まりを見せたが、中でもヒートアップしているのはケーシィ・テック社が買い占めたセキチク応援席だ。社長自ら後援会の旗を振り、メガホンを手にしたアンズが飛び上がりながら何かを叫ぶ。
「傷害事件を乗り越え、ボールロックプログラム解除に動いた立役者! 彼が居なければ事件の早期解決はなし得なかったでしょう――この功績とそれまでの実績が認められ、今年はチョウジジムリーダーのヤナギさんと共に新制ポケモンリーグ本部の役員を務めます。ですがトレーナーの腕はまだまだ現役、プレイングマネージャーとして活躍を見せくれることでしょう」
 アナウンサーの紹介の後、キョウも脇に抱えていた三個のサインボールを投げ入れようとしたが――すぐに素振りをやめてその場にクロバットを召喚し、相棒にボールを渡して地元関係者のいる東側二階席スタンドへそれを投げ入れさせた。彼は残念がる他の観客を気にせずに社長やアンズへ左手を振ると、クロバットをボールに戻してまた丁寧にお辞儀する。これで場は仕切り直し。
 次に待機するのは四天王きっての人気者で、不満の種さえ残らず摘み取ってしまう求心力があった。ベンチへスポットライトが向けられる前に、スタジアムDJが私情を込めたフライングの絶叫を轟かせる。
『お待たせいたしました、三人目の四天王と言えば、そう! この方!――格闘使いシバァァアア!!!』
 ちらほらと客席に腰かけていた観客が残らず立ち上がり、スタジアム全体を大きく振動させる。テクニカルエリアで並んで呆れるイツキとキョウなどお構いなし、天井が霞む熱気に迎えられてベンチ奥から筋肉質の男が現れた。惜しげもなく晒した上半身にはテロ事件で受けた傷跡があちこちに残っていたが、彼はそれを名誉と言わんばかりに見せつけながらフィールドを踏みしめる。口元を引き結んだ仏頂面は相変わらずだ。
「リーグ本部占領事件にて、ロケット団構成員とそのポケモンを最も多く戦闘不能にした誇り高き戦士! その活躍は警察から表彰され、引き続きポケモン犯罪対策の向上に尽力していただいております。この一年、警察のポケモン犯罪への対応が飛躍的に発展したことは、シバさんの存在なくして語れないでしょう。また、故障により第一線を退いていたカイリキーもいよいよ復帰! 今夜、その姿が見られるか――期待しましょう!」
 アナウンサーは饒舌に捲し立てると、大手を振りながらのぼせ上がる観客たちを更に盛り立てる。既に試合に勝利したような馬鹿騒ぎの中、シバは一つだけ持参したサインボールを握り締め、二階のセキチク応援席を一瞥した。そこには父親からのボールを貰って社長らと騒いでいるアンズがいたが、遠投のプロでもそこへ投げるのは至難の業だ。かといってキョウのように飛行ポケモンは所持していないし、格闘ポケモンの強肩では軽いボールが砲丸と化す。彼は悩んだ挙句、大きく腕を振りかぶり、助走をつけて反対側の西側スタンドへ思い切りボールを投げ入れた。吹っ切れた一球は観客をざわつかせながら二階席の手前へ落下する。それでまた場内は沸き上がったのだが、諦めずに東側へ投げていればボールは彼女の手元に届いたのかもしれない。シバは首を捻りつつも、形式的な会釈をして持ち場につく。
『いよいよ最後の四天王が登場だ! もちろん彼女――悪使い、カリン!』
 軽妙なスイングジャズがやや色気を増し、スポットライトが照らすベンチ奥から艶やな女性が現れる。照明に輝く美しいロングパーマを揺らしながら、彼女は高いヒールを鳴らし、バトルフィールドに下り立った。シャンパンゴールドのノースリーブブラウスに長い脚のシルエットを強調する黒いクロップドパンツ姿の彼女はクールで妖艶、イツキに次いで多くの女性ファン歓声が上がる。
「女性ながらテロ事件でロケット団を圧倒した活躍は伝説となっています。休業中はファッション面からの復旧支援活動に尽力し、自身が立ち上げたブランドの売り上げを各地に全額寄付。自治体から大変感謝されました。リーグ本戦向けの女性向けグッズも多く手掛けられ、その殆どが現在売り切れだとか――プロデュースの腕は勿論、ポケモンバトルの腕も健在です。長く維持し続ける好成績で新たなステージが見えて来るのか、楽しみですね」
 カリンは微笑みながらドンカラスを召喚すると、自身のボールと同じようにスワロフスキーで装飾したサイン入りボールを持たせ、距離があるためまだ誰も目を向けていない南側スタンドへ投げ入れさせた。運よく掴んだ女性トレーナーが椅子に立ち上がって感謝を叫ぶ。彼女は嬉しそうに微笑みながら、ドーム場内へ優雅にお辞儀した。
 カリンが同僚と共にテクニカルエリアに並び、これで四天王は勢揃い。煮えたぎる場内に新たな風を吹かせるべく、アナウンサーは得意げにマイクを持ち直す。
「さあ、いよいよ最後の登場となりました」
 スタンドから予想通りの大波が押し寄せる。無数のスポットライトが天井を駆け巡って音楽も最高潮だ。
「最後は勿論、この方!」
 アナウンサーがベンチ前へ掌を向け、スタジアムDJが軽妙な咆哮を響かせた。
『ドラゴンを率いてセキエイリーグを総べるスーパーヒーロー! チャンピオン――ワタル!』
 大歓声の嵐にマントを翻し、ベンチの奥からゆっくりと登場したのはカントー・ジョウト地方が誇る王者、ドラゴン使いのワタルである。赤毛が映えるクラシカルな紺色の騎手服に身を包み、革製のブーツを鳴らしながらベンチの一番前にやってきた彼は、栄光の舞台に敬意を表し、深々と頭を下げて外野フィールドを踏んだ。きびきびとした礼儀の良さに、スタンディングオベーションが止むことはない。
 ワタルはゆっくりと視線を上げながら満員のスタンドを仰ぎ見た。天井は遥かに高くなり、ライトが照らす空は程遠い。だが決して気後れすることはなかった。スタンドから観客が送る万雷の拍手は、最上の称賛だ。何よりも待ちわびていたこの瞬間に心が震えた。ベルトに装着されたボールに収まる相棒も、共感の視線を送ってくれる。
「この方の活躍なくして地方の平和はありません。あの激戦、そして身を粉にして行った復旧活動の数々はこれからも語り継がれていくことでしょう――同時に、今夜この瞬間から王座防衛のための新たな挑戦が始まります。彼はこのセレモニー前に語ってくださいました。“チャンピオンだからと胡坐をかいている訳にはいかない。これからも高みを目指し続ける”――と」
 愉悦に浸りかけていたワタルをアナウンサーの解説が現実へ引き戻す。そう、一年ほど立ち止まってはいたが王者としての挑戦は続くのだ。ワタルはポケットに仕舞っていた数個のサインボールを取り出すと、思い切り腕を振り上げて北側ベンチ上のスタンドへ投げ入れた。マントをさばきながら身を翻し、テクニカルエリアへ向き直ると左右に寄った四天王が彼の到着を待っている。あちこちから焚かれるカメラのフラッシュが流星群のように瞬き、割れんばかりの歓声が吹き荒れてもしっかりと足を踏みしめ、仲間の元へ歩み寄った。外野のラインを乗り越え、テクニカルエリアへ。
 取り戻したかった栄光の舞台に上がれば、チャンピオンとしての新たなシナリオが彼を待っている。ワタルは悠然と構えながら、四天王に合図を送り、息を揃えてお辞儀した。最高潮まで高まった拍手喝采が彼らの頭上に降り注ぐ。アナウンサーは興奮の余韻をたっぷりと残しながら、締めの台詞でセレモニーの幕を落とした。

「それでは、今夜も白熱の一戦を見せていただきましょう!」



鈴志木 ( 2015/06/25(木) 18:06 )