第27話:一騎打ち
広大なスタジアム内に一発の銃声がこだまする。
リーグ職員が託した一縷の希望が打ち砕かれた瞬間だった。見えないフェンス作動後に騒然としていたスタンドもその音に沈黙し、誰もが真っ青になって息を呑む。
終わった、と皆は思った。
絶句する人質は悲嘆すら吐き出せず、ロケット団は首領の活躍に歓声を上げる。その様子は贔屓の戦いに一喜一憂する、セキエイリーグ本戦の観客とも似ていた。
そう、これはきっと安全な興行試合。
スタンドからフィールドを見下ろしていた総監は、この状況が受け入れられず一瞬そんな錯覚に陥った。
そのまま現実を受け入れて崩壊しそうな理性を、銃声の後にかつん、とフィールドに響いた金属音が食い止める。サカキの右手から五メートル以上離れたところに、ピストルが転がっていた。たった今引き金を引いたばかりの鉄の塊は、会場全体の熱気を閉じ込めて沈黙する。周囲はしんと静まり返り、ワタルも起きたのかすぐに理解することが出来なかった。目の前に立つサカキも、手の痺れを堪えながらワタルの後方、銃弾が貫通したフェンスを睨む。手元に強い衝撃が走った後に暴発したのだ。
誰もが唖然となる中で、唯一事情を知る人間が観客席の最上段から顔を出した。
「間に合った!」
ネイティオを引き連れた派手な燕尾ベスト姿の少年が、座席を蹴ってスタンド中段の客席まで軽やかに跳躍する。
「イツキくん……」
その姿にワタルの緊張が緩み、人質が逆転劇に沸いた。その様子に気を大きくしたイツキは、無表情を決め込んだまま隣の席に留まる相棒にちらちらと支援の視線を送りつつ、フィールドからこちらを睨むサカキを挑発する。
「ふふん、こんなこともあろうかと……事前にフィールドへ“未来予知”の念を送っていたのさ! どうだ、ザマーミロ!」
イツキは両手の親指を下に向け、ありったけのブーイングを飛ばした。
「拳銃を持ち出すなんてインチキするからだ! キョウさんだってさすがにここまで分かりやすいズルはしないよ。師匠の癖に恥ずかしくないの? 言っとくけど、ここで戦う以上はマフィアだからとか、そういう事情は関係ないからな。お前が立ってるその場所はポケモントレーナーの栄光の舞台! そこにいる以上は正々堂々とポケモンで戦えってんだ!」
煽りで増長した不満が高らかとスタジアムに広がっていく。挫折を経験し、ポケモンと向き合いながら自身も何とか立っている一流のステージを、血の流れる戦場に変えることなど断じて許せなかった。挑発を捲し立て、火照る身体を深呼吸で鎮めたイツキはネイティオに目配せする。それに応じた相棒が、ワタルの周囲に散乱するボールを念力で集めて彼のボールに装着した。
「僕は“繰り上がり”でチャンピオンになるのは嫌だよ」
感心したようにこちらを見上げる同僚に、イツキが告げる。
その言葉の真意を察したワタルは、思わず頬を緩ませると、立ち尽くすサカキから距離を取るようにテクニカルエリアへと移動する。勝負は仕切り直しだ。それを見たイツキがフィールドに背を向けながら、すかさずネイティオに指示を出す。
「とりあえず武器を取り上げて、僕らは避難!」
すぐにロケット団構成員が四方から迫り来る。イツキは座席端の階段へ跳躍しながら技を叫んだ。
「テレキネシス!」
後を追うネイティオの放った念力が構成員から武器を残らず奪い取り、天井高くへ引き離した。その間にイツキは階段に着地し、三段飛ばしでスタンド上部へと逃げようとする。するとその前方を、幹部のアテナが派手な装飾のボールを構えながら立ち塞がった。
「逃がさないわよ、このクソガキ! あんたのお仲間の悪ポケモンで八つ裂きにしてやるわ――行け、バンギラス!」
見覚えのあるボールにイツキが目を見張った直後、彼の前に巨大なバンギラスが現れる。身体から発する砂嵐で周囲を圧倒しながらも、その面持ちは不安げでどうも頼りない。それどころか今にも尻尾を巻いて逃げ出しそうな勢いだ。
「何やってんの!? 君、カリンのバンギラスだよね!?」
唖然とするイツキに、バンギラスが何度も首を縦に振る。助けてくれと言わんばかりだが、そこへアテナが割って入った。
「他人のポケモンでも、このバッジがあれば従うのよ。さあ、鳥ごと殺せ!」
彼女は襟元の偽造グリーンバッジを見せつけながらバンギラスの背を叩く。バッジの力に抗えない鎧ポケモンは泣く泣く悪の波動を吐き出した。元々気弱な性格とはいえ、今年からリーグ本戦で投入予定のポケモンである。凄まじい衝撃波は周囲の座席を捻じ曲げ、ネイティオとイツキをスタンド上段へ吹き飛ばした。
「これ、結構マズイやつ……」
座席の間へと転がったイツキは、身体の痛みに涙を堪えながら倒れた相棒を抱き起す。ネイティオの方もカリンのバンギラスが放った一撃に身体がふら付いていた。この劣勢のまま戦い続けるのは難しい。こんな時はトレーナーを狙うのが先決だ。
「要はあいつのバッジを外せばいいんだよ。“泥棒”だとバレるかもしれないから、“トリック”で入れ替えよう。できるでしょ。なんたって君は、四天王の相棒だからね」
そう言いながら、イツキはポケットに仕舞っていたデルビルの刻印入りオイルライターをネイティオに押し付ける。照明に煌めくプラチナは、主人のプロ認定証と同じ色だ。
「僕はミラクルアイを君に命じる、そこで裏をかいてあのトレーナーにトリックを仕掛けるんだ。視線はバンギラスね」
ライターを胸元に忍ばせたネイティオが首を縦に振り、座席へ羽ばたく。同時にイツキも腰を上げた。
「いくぞ、ネオ! ミラクルアイ!」
眼前のバンギラスを注視しながらも、狙う先はアテナの襟に付けられたバッジである。七色に輝く念力がバッジのピンをくい、と動かす。次の瞬間にはライターと入れ替わっているはずだ――確信するイツキに視線を向けながら、アテナがバッジを掌で抑え込んで艶やかな唇を曲げた。
「手の内がバレバレよ。四天王の癖に、足元の影に気付かなかった?」
イツキははっとして息を呑んだ。
そこでようやく足元の視線に気付く。影に紛れた鋭い相貌がこちらをじっと監視していた。それもカリンのゲンガーだ。こちらはイツキにあまり情はないらしく、バッジの権威に赴くまま、指示を盗んでアテナに知らせている。
万事休す――イツキの目の前が白く霞み、バンギラスがネイティオを噛み砕こうと接近する。その時、色気のある声音が横槍を入れた。
「ヘルガー、泥棒」
イツキの敗北を待つアテナの背中に痛烈な衝撃が走り、後ろから蹴られた彼女が前のめりに倒れかけた。手を突こうと両手を開いた隙を見て、背後から襲いかかってきたヘルガーが偽造グリーンバッジを掠め取る。あ、と声を上げたアテナの身体が宙に浮く。即座にベルトに装着していた装飾ボールが一斉に開き、そこから現れたサザンドラが彼女を近くの柱に叩きつけ、他の悪ポケモン達がその周りとぐるりと取り囲んだ。強面揃いの悪ポケモンらに睨まれると、アテナは少しも抵抗することができない。
「私のボールを返してくれない?」
ヒールを鳴らし、サザンドラの後ろへやってきたカリンが右手にロケット団の通信機を掲げながら余裕たっぷりに微笑む。その端末に搭載されている近距離無線でボールを開いたのだろう。その気迫に負けたアテナは直ちにベルトを外してカリンの前に差し出した。彼女は丁寧にボールを移動させながら、煽るようにアテナの顔を覗き込む。
「上手くやれば最初の悪の波動でイツキを倒せたのにね。他人のポケモンを扱うにしても、ちゃんと戦いなさいよ。それともバッジがなければ“ポケットモンスター”しか相手にできないワケ?」
アテナは咄嗟に喉から出かけた反論を飲み込み、黙りこくったまま柱の下へ座り込んだ。一連の顛末をぽかんと眺めていたイツキはカリンに尋ねる。
「ねえ、それどういう意味?」
彼女は呆れたように息を吐くと、少年をからかうように首を傾けた。
「さあね。後でオジサマにでも聞いてみれば?」
「分かった、そうする。でも、まずはスタンドにいるロケット団を片付けてからだよ」
言葉通りに受け取ったイツキが頷き、再び座席の前から立ち上がる。仲間が一人加わり、これほど頼もしいことはない。後はワタル次第だ。彼は眼下に広がるフィールドへと視線を向ける。
ワタルは南側ベンチ前のテクニカルエリアまで下がると、マントを捌いて小さく深呼吸した。身体のあちこちが熱を噴く痛みを訴え、動く度に関節が割れそうになる。怪我から始まったトレーナー人生、この頂まで上り詰めるために多くの傷を負ってきたが今の状態は群を抜いている。あるいは、選手生命の危機に直面しているのかもしれない。それを見透かしたサカキが、顎を掻きながらワタルを仰ぐ。
「最初から規制線の外で見ていればここで死ぬこともなかったな」
彼の傍に寄って来たドリュウズが、鋼の爪を掲げながらこちらを睨む。ワタルは深呼吸した後、しかと顔を上げて言い放った。
「それじゃジムを捨て、責任を放棄して逃げた人間と変わらない。たとえ追い詰められようと、この地位にいるからには相応の使命がある。それに――闘争心を失ったことは一度もない!」
ワタルは胸ポケットから覗く名刺を一瞥すると、ボールを一つ選んでフィールドへ投げた。
「オノノクス!」
主の言葉を特性とするドラゴンが、スタジアム内に雷鳴の如き咆哮を轟かせながら戦場を踏み鳴らす。その先に大地を支配するポケモンが居ようとも怯むことはなく、自身を鼓舞する“竜の舞”を踊りながら隙も与えずに敵へ攻めかかる。
「ドラゴンクロー!」
対するドリュウズも身体を回転させながら床を蹴った。
「ドリルライナー!」
鋼の爪と研ぎ澄まされた斧状の牙が火花を撒き散らしながら交錯する。実力は互角だが体格差は歴然、ドラゴンが刀を押し切り、鋼鉄の柱も貫く牙でモグラのドリルを叩き割った。驚愕するドリュウズにオノノクスが畳み掛ける。
「とどめだ――ドラゴンテール!」
体勢を戻す動きで尾を振るわせ、ドリュウズを問答無用でフィールド外へと押しのけた。次の手持ちを用意しろ、と言わんばかりの強引な一撃にサカキの眉間に皺が刻まれる。彼はフェンスの真下に転がるドリュウズに視線を向けぬまま舌打ちした。
「いいぞ、よくやった!」
ワタルはオノノクスを激励しながらサカキの動きを注視する。このドラゴンならば、重機さながらのパワーと装甲を持つ地面タイプにも引けを取らない。
「流れを変えよう。頼んだぞ」
その期待にオノノクスは鼻息荒く頷くと、再びサカキを睨み据えた。首領は唇を引き結んだまま、武器の現身のようなドラゴンの動向を窺っている。彼はふいに身体を少し斜めに傾けると、右脇に腕を構えた。ボールは既に一つ握られている。視線を落とし、口を殆ど動かさずに何かを短く呟いた。
(次の手は)
ワタルが息を呑む。サカキが右腕を素早く振りかぶり、ボールを投げた。中に見えたのは岩石。
(ゴローニャ!)
真っ直ぐの球が中央から開き、その前へ舞いで高揚したドラゴンが立ちはだかる。
「オノノクス、アイアン……」
身体を捻りながら鋼に硬化させた尾を構えるオノノクスの前に現れたのは、既に身体を真っ赤に膨らませたゴローニャだ。初球から勝負を決める戦法にワタルは目を見張る。サカキは迷いなく告げた。
「大爆発」
回避の余地がない至近距離で巨大な岩石が破裂する。一切の加減がない爆炎はオノノクスを巻き込み、テクニカルエリアに立つワタルを嘲笑うようにマントをふわりと靡かせた。
「残り三匹。確実に潰す」
サカキは肩を鳴らすと、フィールドに倒れるドリュウズとゴローニャをまとめて回収する。路傍に転がっている死骸を回収するような作業的な手つきにワタルは動揺した。キョウから聞いていた通り、彼はポケモンの扱いがあまりに乱暴だ。
「ポケモンは武器だ、情はない。気に入らねえのなら大事な“仲間”で勝ってみろ。それで少しはてめえの溜飲が下がる」
ワタルの困惑を汲み取ったサカキが苛立ちを滲ませながら次のボールを脇に構えた。
「こちらが優先するのは“組織”の面子だ。散々コケにされ、黙ったままじゃいられねえ。ロケット団の首領として報復を完遂する!」
背広を翻し、投じられた直球からワルビアルが現れる。動く者を容赦なく噛み千切る凶暴な鰐は、フィールドを蹴ってワタルに攻めかかる。彼は一歩退きつつ、ベルトからサザンドラのボールを掴んで目の前へ放った。こちらも同じく獰猛で知られる龍が主を守るようにワルビアルの前に立ちはだかる。鰐の威嚇に物怖じせず、こちらも鬼の形相で反撃しようとしたが、すかさずサカキがカプセル型の道具を懐から取り出し、フィールドに転がして靴の裏で踏みつけた。白い霧が床を這い、ワタルがその効果を理解する。
「エフェクトガード……」
これで相手の能力を抑えることは難しくなった。ポケモンをアシストしたサカキが追撃を仕掛ける。
「撃ち落とせ」
鰐が至近距離を浮遊するサザンドラの翼を狙う。カイリューの二の舞になってはならない。回避が困難な距離を見越し、ワタルが先制を試みる。
「サザンドラ、気合玉!」
サザンドラは背中へ回り込もうとするワルビアルの肩に左頭を噛みつかせて動きを抑え込むと、両手をさっと合わせてエネルギー弾を発射しようとする。ところがワルビアルはそれを阻むように頭を振り動かし、照準をサザンドラの喉元へ切り替えた。その顎の力はイッシュ製の強固な自動車をも食い千切る。ワタルは声を荒げた。
「退け!」
サザンドラが咄嗟に首を下げる。間一髪で大きく開いた顎を掠めたが、ひらひらと揺れる帯状の翼が歯牙に掛かる。一枚の左翼は瞬く間に噛み千切られ、バランスを失ったサザンドラがフィールドに転倒した。照明の光を受け、短くなった影の縁から赤黒い筋が伸びていく。非道な攻撃にワタルは悔恨を噛み締めた。
「トドメだ。地震」
ワルビアルが場内に咆哮を轟かせ、力を高めた大地震がスタジアムに激しい揺さぶりをかける。頑強な天井が軋んで悲鳴を上げ、スタンドを混乱に陥れる中、狙われていたサザンドラは即座に床を蹴り上げると、膝を崩しかけていたワタルを抱えて飛翔した。翼を一枚もがれようとサザンドラは主を守り、次の指示を求めている。
「相手には非難や説得も通じない……少し無理を強いるよ」
ワタルは無念を滲ませながらサザンドラと視線を交わす。主の意志を汲み取ったドラゴンはゆっくりと頷いた。
「共に戦ってくれ!」
ワタルはサザンドラの腕の中から跳躍し、マントを翻しながらテクニカルエリアへ着地する。
「サザンドラ、流星群!」
凶暴なドラゴンが鮮血を撒き散らしながら両翼を広げ、唸り声を振り絞りながら隕石を呼び起こす。熱風がフィールドに吹き抜け、無数の隕石がワルビアルの周辺へと降り注いだ。鰐はぎょっとしていたが、後方に立つ主の鋭い視線を感じてすぐに床を蹴る。灼熱の隕石を受けながら、傷だらけのワルビアルがその一つを取ってサザンドラへ襲いかかった。
「刺せ。ストーンエッジ!」
たちまち間合いを詰めてからの一閃がサザンドラを大きく突き放した。ワタルがテクニカルエリアを駆けながら、次の手を出そうと息を吸い込む。その時また足元へ強い衝撃が走った。指示を妨害する、ワルビアルの“地ならし”だ。ワタルの身体が宙に浮き、平衡感覚が失われる。転んでしまえば相手の思う壺だ――その抵抗に共鳴するように、ベルトに装着した一つのボールが激しく揺れた。ワタルがそれを手元で弾く。
「頼む!」
スイッチを押す余裕はなかったが、ボール自ら振動してそこに位置を合わせ、落下の衝撃でリザードンが飛び出した。火炎ポケモンは激しく吠え猛りながら、弟分を狙う顎へ突き上げるような右ストレートを捻じ込んでワルビアルを吹き飛ばす。竜の“逆鱗”に触れた鰐はその一打で昏倒し、喉元に引っかかっていた仲間の翼を吐き出させた。兄貴分のリザードンは仲間の負傷に憤り、灼熱を放ちながらサカキに凄みを利かせる。
「君が戦う相手はポケモンだ。そこで仇を討ってくれ」
今にもトレーナーに掴みかかりそうなリザードンをワタルが引き止めた。
「この状況においてもルール通りに戦うのか。腰抜けが」
清廉性を保持するチャンピオンをサカキが罵倒した。彼の言葉には余裕がない。傍に転がるショットガンに目を移し、いつでも拾い上げようと構えている。ワタルは毅然とした意志を突きつけた。
「武器を使って牽制しようが無駄だ。ロケット団を阻止できるのは今や我々だけ。翼をもがれこちらの四肢が失われようとも、戦いが続行できる限りは諦めない。そちらにマフィアの面子があるように、こちらにも王者の矜持というものがある。オレはポケモントレーナーとして、それを勝利で証明する」
ワタルはテクニカルエリア側に立ちながら、フィールドを区切る境界線を前にサカキに問う。
「貴方はこの挑戦から逃げるのか」
凛と構えた鋭い相貌はドラゴンのそれに似て、龍使いの名に相応しい。その威圧感にサカキは唇を引き結んだ。そこにかつての無力な少年の姿はなく、ジムリーダーだからと臆せずに対抗心を見せた勇ましい面影が王者として成長し彼の前に立ちはだかっている。かつて名刺に託した精神を突きつけられ、サカキは短く答えた。
「いいだろう。あの世で後悔しろ」
彼はそう言うと、ショットガンから視線を外し、身体を傾けながら右肘を引いてボールを構える。何を繰り出すのか予測できない投法だ。ワタルとリザードンは身構え、フィールドへ投じられる直球に注視する。サカキの手元からボールが離れた時、中のポケモンがようやく判明した。
「ドンカラス!」
烏は含みのある眼でリザードンを睨みながら、ドラゴンの脇を掠めて天井へと飛翔する。それを挑発を受け取ったリザードンがワタルの合意を得ずに後を追った。逆鱗によって激高したドラゴンを引き留めることは難しい。スタンドでロケット団を片付けながら、この様子を見ていたカリンがそれを案じる。
「意地悪な顔。悪いことを企んでいるわよ、きっとね」
すると傍にいたヘルガーが鼻先をスタジアム外周の通路に向け、カリンの注意を促した。柱の陰に幹部のアポロが潜んでいる。フィールドのバトルを眺めていた彼は、何かを思い立つとすぐにどこかへ走り去っていく。
「あのお兄さんもそうみたい」
カリンはその場を手持ちポケモンに任せると、ヘルガーを連れて後を追う。
その直後、天井に暗黒の風が吹いた。
「悪の波動!」
リザードンを天井まで引きつけたドンカラスが悪意に満ちた衝撃波を放ち、照明や梁を揺らしながらドラゴンを牽制する。リザードンは苦渋を浮かべながら照明群へと激突した。いくつかの機材が粉砕されたが、それでも多くの照明は機能しており、火炎ポケモンを強い光で包み込む。視界はまさに日本晴れ。それはリザードンにとって格好の環境で、使命を背負った身体の先端で燃え盛る炎は熱を増す。リザードンは身を翻し、逆鱗の興奮に煽られるままドンカラスの懐へ突っ込んだ。ドラゴンより小柄な烏は押さえ込まれ、炎に包まれながらフィールドへ落下していく。焦るドンカラスへサカキは冷静に対策を講じる。
「振り払え。燕返し」
それでポケモンは平静を呼び戻す。身を返しながら鋭い嘴を伸ばし、敵の顔を切りつけた。リザードンはたまらずにドンカラスを解放し、ワタルの元へ退く。
「リザードン、大丈夫か」
傍へ駆け寄ったワタルは、逆鱗と負傷により錯乱状態のリザードンを諭しながら容体を確認する。彼の眉間から左目に掛けて、深い切り傷が刻まれていた。視力が失われていることは一目瞭然だ。大事を取って帰還させるべきか――チャンピオンの迷いはポケモンによって払拭された。リザードンがボールを握るワタルの腕を押しのけ、背に跨れと視線で促す。
「目になれと」
頬を伝う血を振り払い、リザードンが頷いた。主に残されたのは翼の折れたカイリューのみ。ならば力の続く限り戦おうとの意思が汲み取れる。
「分かった。熱は調節しなくて構わない」
ワタルはそう告げ、リザードンの背にひらりと飛び乗った。竜の皮膚は煙を上げる鉄板のように熱かったが、気にしている余裕はない。
「行け!」
リザードンが翼を広げ、再びドンカラスの元へ飛翔する。サカキはその度胸に顎をしゃくり上げる。
「そう来たか。まとめて仕留められるから好都合――ドンカラス」
ドンカラスが焼け焦げた翼を大きく羽ばたかせ、その風圧を刃に変えてリザードンへ差し向ける。エアカッターだ。ワタルは「右へ」と右側へ身体を傾けながらリザードンの舵を切る。直後に激しい突風が襲い掛かり、マントの裾に切り込みが入った。攻撃を避けたリザードンの隙を狙い、ドンカラスは追撃を仕掛ける。
「次は後ろ。応戦だ」
ワタルが背中を反らして後ろへバランスを取り、リザードンが振り向きざまに火炎放射を放ってドンカラスを威嚇した。相手が退く間に体勢を戻して距離を取る。視界が狭まっている左側から攻撃されないよう、フェンスに沿いながら飛行し機を窺う。
「悪の波動が来ると厄介だ。接近戦に持ち込もう」
悪巧みで高められたドンカラスの力は脅威であるが、至近距離での攻撃は主の危険を伴う。その躊躇いをワタルが払拭した。
「三秒ほど離れるが、問題ないか?」
意図を汲んだリザードンが頷く。ワタルはリザードンをフェンス外周に沿って飛行させながら、サカキとドンカラスを一瞥する。敵はこちらの様子を見定めるように、じりじりと後を追っている。恐らくリザードンの攻撃に合わせて何か仕掛けてくるつもりだろう。
(左側に隙を作る。気付かれないよう、ほんの僅かな間)
ワタルはリザードンの左頬を軽く指で叩いた。ドラゴンが頬に炎を含み、フェンスから離れ火炎放射を向ける素振りをする。そこを突いて、一定の距離を取って飛行していたドンカラスが速度を上げてリザードンを捉えた。ドラゴンは背に跨っていたワタルを宙へ投げると、体内に充填していた炎を皮膚から放出し、猛火の鎧に変えてドンカラスを迎え撃つ。
「今だ、フレアドライブ!」
意表を突かれたサカキが目を見張る。
炎を纏ったリザードンはそのままドンカラスに突進し、フィールドへ撃ち落とした。敵の安否を確認している余裕はない。リザードンはさっと身を翻すと、放り投げた主の下へ潜り込んで豪快に掬い上げながら再び上空へと飛翔した。イツキや総監を始めとする人質の歓声がドンカラスの戦闘不能を知らせてくれる。ロケット団は次々に武器を奪われており、いつの間にかリーグ側の声援が増していた。
「お見事」
ワタルはリザードンを讃え、サカキの次の手に視線を滑らせる。彼は立っていた場所からさらに後退し、次のボールを叩きつけるように放り投げた。砂嵐を撒き散らしながら現れたのはカバルドンだ。ポケモンは背負った砲台をこちらに向けている。
「カバルドン、岩雪崩で奴を撃ち落とせ!」
間髪を容れずリザードン目掛けて次々と岩石が投じられる。ワタルはすぐに身体を傾け、リザードンを操りながらそれらを潜り抜けていく。外れた岩石は地震で痛んだ天井に当たり、照明を破壊し、梁をへし折って大穴を開けた。薄闇の空を行き交うヘリのライトがフィールドを照らす。
「屋根が――」
動揺するワタルの頭上に、粉々になった機材が降りかかってくる。同時にサカキも動いた。
「今だ、ストーンエッジ」
ワタルは咄嗟にリザードンを傾ける。地上から放たれた鋭利な岩石がリザードンの腕を掠め、肩に屋根板が直撃し、とうとうドラゴンはフィールドへ墜落した。その落下点を狙い、カバルドンがとどめの地震でスタジアムにまたも激しく揺さぶりをかけた。屋根に開けた穴を広げるように天井が次々と崩れ、梁や照明がフィールドへ突き刺さる。スタンドは騒然となり、座席はひしゃげ、柱にしがみ付きながら戦っていたイツキは絶句した。フィールド上空には強引にこじ開けたような大きな穴。これまで幾多の激戦に耐えてきたフィールドが、たった一人のトレーナーによって崩壊させられたのだ。
カバルドンの傍に立っていたサカキは照明のガラス片を蹴り飛ばしながら、リザードンと倒れ伏すワタルを鼻で笑う。
「お前が守りたかったのは、この程度の舞台だ。吹けば飛んでしまう、さながらヒーローショーのセット程度」
彼はそう言いながら暁の空を仰いだ。要求したヘリが突如の崩壊に慄きながらぎこちなく旋回し、セキエイの風をフィールドへ運ぶ。研ぎ澄まされた冷たい風が砂埃を脇へ履き、再び戦況を変えようとする。それを食い止めるように、すっかり白くなったマントを背負う身体が動いた。
「こっちはそれが誇りなんだ……」
瓦礫に引っかかっていたマントが吹き抜ける風にひらりとはためき、ワタルが膝を上げる。
「この舞台に立つと、誰もがヒーローになれる。かつて貴方に憧れた時のように、観客はトレーナーとして成功する姿に夢を見てくれる。ここはそういう場所だ。真摯に戦っていれば、誰も“茶番”だとは思わない」
噛み締めた言葉を突きつけられ、サカキはこの青年の気迫に初めて圧倒された。
――プロがヒーローを気取れるのはバトルフィールドの上だけだ。
数時間前に自ら選んだ台詞を思い出す。この男はそれを体現し、誰かを失望させることはない。あの時気まぐれで託した信念を誰よりも実直に叶えているのだ。部下やかつての弟子ではそれを確実に受け継ぐことはなかったのに――サカキは沸き立つような苛立ちを覚えた。
「逃がさないぞ……」ワタルは肩で息をしながら、傍にいるドラゴンを呼ぶ。「リザードン!」
火炎ポケモンは圧し掛かる瓦礫を四方へ吹き飛ばし、渾身の猛火を放出しながら身体を持ち上げた。セキエイ高原の凍える夜風に温度を下げていたスタジアム内が、このドラゴンの雄たけび一つでたちまち灼熱に染まり視界を熱で歪ませる。サカキは暑さに上着のボタンを外し、後退しながらカバルドンへ技を命じた。
「瓦礫を使え! もう一度ストーンエッジ」
カバルドンが辺りの瓦礫を巻き込みながらリザードンに突進する。ドラゴンはフィールドを力強く踏み込むと、両翼を広げありったけの業火を解き放った。
「決めろ、ブラストバーン!」
砂嵐と共に襲い来る瓦礫の牙を、リザードンが放った猛火の嵐が押し返す。たちまち鉄製の梁や照明のガラス片、屋根を全て飲み込んでカバルドンごと焼き尽くし、天井高くに火柱を上げた。炎が噴いたのは僅かな間で、勢いはたちまちなくなって黒煙が舞台にかかる。スタンドの観衆は我が目を疑った。何もかもが駄目になったのかと一瞬錯覚したが、夜風が噴煙を流し、バトルフィールドで相対する二人のトレーナーを見て安堵した。そこに立っているのはワタルとサカキ、そしてリザードンのみ。スタジアムを崩壊させたカバルドンは、フィールドの中央で炭に塗れて気絶している。
「三タテ!」
スタンドからこの様子を見ていたイツキは歓喜の声を弾ませたが、リザードンの姿を見てすぐに言葉を詰まらせた。攻撃の反動を受けたドラゴンは、左目の傷からぽたぽたと血を溢し、短く鼻呼吸したまま微動だにしない。それでも双眸はサカキを捉えたままだ。
「ありがとう、リザードン」
ワタルは敬意を込めてリザードンをボールに戻すと、最後の手持ちに視線を落とした。
「残り一匹……」
だが右の翼が折れた彼女は万全の状態ではない。サカキがそれを愚弄する。
「お前の手持ちは手負いのカイリューのみ。いよいよお仕舞いだな」
「オレは最後まで諦めない。ところで――」
ワタルはサカキを睨み返しながらその視線を誘導するように足元へと移し、少しだけ頬を緩ませた。
「ようやくテクニカルエリアまで下がりましたね」
戸惑うサカキが目線を落とす。
始めはフィールドの中央に立っていたが、地震や瓦礫の落下などを受けて次第に後退し、やがて外野であるテクニカルエリアの白線内にいる。そこは本来、この舞台に定められたトレーナーの立ち位置だ。
「もう撃たれる心配もない。これで、ポケモントレーナーとして戦える」
ワタルが最後のモンスターボールを構える。彼はその中にいる相棒同様に傷だらけではあるが、闘争心は衰えることがない。
「救いようのない馬鹿だ」
サカキは呆れるように息を吐くと、身体の熱を逃がすようにさっと上着を脱ぎ捨てる。まだ手持ちにはいくらか余裕があった。チャンピオンの切り札とはいえ手負いのドラゴン一匹、ペルシアンで対処できるだろう。ところが包帯を巻いた利き手は無意識のうちに手持ちの中で最も古い、旧式のボールを選んだ。
「これで最後」
サカキがボールを握る。ワタルも腕を振りかぶった。
「君にすべてを託す――カイリュー!」
フィールドへ投じた一球から片翼の折れたドラゴンが再び現れる。地に足を付け、浮遊を失った海の化身はその程度の故障など少しも気にする素振りを見せない。王者の右腕に相応しい佇まいにサカキは感心しながらボールを投げた。
「行け、ドサイドン!」
ドラゴンに匹敵する巨大なポケモンが、フィールドを震わせながら登場する。火山を彷彿とさせる装甲を纏い、ヘリから降り注ぐライトに鼻先のドリルを光らせながら、重厚感あるドサイドンがカイリューの前に立ちはだかった。
「まずはロックカット」
すかさずサカキが指を慣らし、ポケモンの空気抵抗を減らして動きを向上させる。その間に、尾に水を纏わせたカイリューが間合いを詰めた。
「アクアテール!」
豪快に身体を捻り、全身の筋力を用いてドサイドンに横殴りの水攻撃を嗾けた。重い打音が響き、腕を構えて攻撃を流そうとしたドサイドンの顔が歪む。だが敵は膝を折る反応すらない。サカキが追撃を命じた。
「その程度なら耐えられる。岩雪崩!」
ドサイドンが腕を返し、掌の砲口から無数の岩石を発射する。至近距離での一発はカイリューの肩を貫き、後方へ弾き飛ばした。
「地震だ!」
サカキの指示はカイリューへの攻撃に、上空から救援に割り込もうとするヘリへの牽制も兼ねていた。バトルフィールドは振るいに掛けられ、穴だらけの屋根板がぼろぼろと崩れて、ワタルの頭上に落下する。揺れに跳ね上げられたカイリューは、その反動を利用して主の元へ駆け、間一髪で拾い上げて直撃を回避した。ところが翼は機能せず、身体が浮かない。そこをドサイドンが狙う。
「カイリュー、後ろ!」
主をテクニカルエリアの隅へ避難させる背中に、敏捷性が増したドサイドンが襲い掛かる。
「ドリルライナー!」
振り向きざまに衝撃波を放とうとしたドラゴンに、ドサイドンがドリル状の角を捻じ込み、フェンス際まで弾き飛ばした。その際瓦礫や突き出した梁に身を削られ、カイリューの皮膚のあちこちから血が滲む。自らの回避が遅れたことで隙を作ってしまったことにワタルは強く歯噛みしたが、敵の動向を見て技を重ねながら相棒を鼓舞した。
「カイリュー、竜の舞い!」
カイリューは血を撒き散らしながら豪快に身を起こした。満身創痍でも動じない気高き双眸が主に戦意を示す。まだいくらでも立ち上がれる。ワタルが追撃の命を出した。
「神速!」
瓦礫を蹴散らし、カイリューがドサイドンを強襲する。強肩の突進はドサイドンを打ち倒して、フィールドの砂を擦り付けた。その姿は地面タイプにとって屈辱だ。憤りに駆られたサカキが罵声を飛ばす。
「押し負けるな!」
咄嗟にドサイドンがカウンターを合わせ、カイリューを押し返した。突き飛ばした衝撃で、ドラゴンにほんの僅かな隙が生まれた。ワタルが絶句し、サカキも気付く。ドサイドンが一撃必殺を狙える間合いだ。確実に仕留められるのは相手の懐に潜り込んからの“つのドリル”。だが、そこからあと数秒要すればかつて自らが生み出したあの技も成功する――サカキは迷いなくそちらを選んだ。
「地割れ」
ドサイドンがフィールドを両断すべく、右足を持ち上げる。
ここで飛ばないと負ける。主の命はない。全てが終わる。何が何でも、飛ばなければ――カイリューが動く片翼を強引に曲げ、僅かに生み出した浮力で技の射程圏内から転がるようにすり抜けた。技を空振りしたドサイドンがフィールドを割る。ワタルがそこに勝機を見出した。
「行け……ドラゴンダイブ!」
カイリューは力強くフィールドを踏み込むと、その反発を活かして唸り声を絞りながらドサイドンへ飛びかかった。瓦礫を跳ね上げ、無我夢中で相手の身体を振り払う。これまで倒れた仲間や主の負傷を見れば最後の自分が倒れる訳にはいかない。絶対にやられまいとの気迫がドサイドンを威圧し、その巨体をテクニカルエリアに立つサカキの傍まで動かした。敵は突進の衝撃で転倒し、直ぐには立ち上がれない。サカキは目を見張った。
――今だ。
ワタルとカイリューの意志が重なる。
勝負を決めるなら今、この瞬間しか考えられない。テクニカルエリアから相棒の元へ向かう背中に纏ったマントが、温かな風で大きく翻った。神聖なドラゴンは余力をかき集めてエネルギーへと変えていく。身体から漏れ出る穏やかな風が、辺りの土埃を脇へ払いのける。
「カイリュー」
境界線の内側でワタルが最後の技を叫んだ。
「破壊光線!」
閃光が瞬いてスタジアムを抱擁し、一筋の光線へと集約される。衝撃波が瓦礫を蹴散らしながら、サカキの膝を崩して大きく後退させた。もはや立ってはいられない。辺りを払う光線が威厳を見せつけるようにドサイドンを飲み込み、南側ベンチ奥へと叩き込んだ。
その瞬間、辺りから一切の興奮が掻き消えて水を打ったように静まり返る。場内に反響するのはドラゴンとトレーナーの息遣いのみだ。
やがて吹き込む夜風が粉塵をかき消し、決闘の結果を明け方の空の元へ曝け出す。ドサイドンは南側ベンチに用意された挑戦者側の椅子を潰し、その上で倒れ込んだまま。サカキは膝を折り、その姿を呆然と眺めている。幾多の地震と崩壊、そして破壊光線の衝撃によって立っているのは傷だらけのカイリューと、マントを風にはためかすそのトレーナーの一組だけだ。
「勝った……のか?」
スタンドから一部始終を見守っていた総監がようやく口を開く。サカキは手持ちを残していないとも限らない。彼はテクニカルエリアでしゃがみこんだまま、気絶したドサイドンに顔を向けている。だが、その表情からは悔恨や苛立ちは消えていた。
サカキ自身、敗因はよく理解していた。相棒をボールに戻そうと膝を上げた途端、ベンチの奥から怒声が飛ぶ。
「動くな!」
南側ベンチの奥から銃を構えた機動隊が溢れるように飛び出してくる。それはワタルが背にした北側ベンチも同様だ。スタンド上段の通路も彼らが駆け込み、ロケット団を包囲すると、イツキは安堵の息を吐きながら「遅いんですけど」とこっそり呟いた。
「ボールと武器を捨てて投降しろ」
機動隊の一人がサカキに命じる。
彼はそちらを睨むように一瞥すると、腰に装着したボールベルトとぼろぼろのカイリューを見比べた。手持ちはいくらか残っている。それらを総動員すればワタルを倒して一人逃げ延びることも可能だろう。それを予想しているワタルは口を噤み、肩を上下させながらこちらをじっと眺めている。彼とその相棒はたとえ虫の息でも戦う構えだ。
それを見たサカキは頬を緩めながら両手を挙げた。
「これ以上お前とやり合うより、法廷で間抜け共と戦った方がよほどマシだ」
野望への挑戦はやめない、しかしこの勝負の負けは認める――そんな表情を見せて、サカキは連行されていく。それ以上何も言わず、ワタルに背を向け挑戦者側のベンチ奥へと向かう。スタンドがにわかに騒がしくなり、あちこちで機動隊の罵声が飛んでいた。肩の荷が下りたイツキがスタンドからワタルの名を呼んでいたが、彼はそれに応えることなく、テクニカルエリアの上で両足を踏みしめたまま、ぼんやりとサカキの背中を見つめていた。
心の片隅で重石を乗せて塞いでいた目標が消えた。
ぽっかり空いたその隙間から、全ての雑音が風のように吹き抜けていく。どんな勝利よりも欲していたはずなのに、いざ掴んでみると何とも空しい気分だ。本当はグリーンバッジという対価で結果を得たかったのかもしれない。
ベンチの奥へと消えていくサカキを遮るように、満身創痍のカイリューが目の前に歩み寄った。それでワタルはようやく労いを思い出す。声をかけようと口を開いた時、相棒は煤けたワタルの頭の上に何かを置いた。とても軽い感覚。そっと頭長に触れてそれを理解した。
シーズン前にカイリューがガレット・デ・ロワから引き当てたフェーヴだ。小さな王冠は王座を死守した栄光の証。得意げに微笑む相棒に、ワタルもようやく笑みが零れる。結果なんて、これで十分だ。
「ありがとう」
彼は徐に胸ポケットに挟んでいた古い名刺を引き抜いた。
そこにはずっと挑戦を願い続けていた憧れのトレーナーの名が記されていた。頂点を志すきっかけになった存在である。ワタルはそれを丁寧に真ん中から破り、紙を重ねてまた小さく千切ると、灰色のバトルフィールドへ解き放つ。紙切れはセキエイ高原の夜風に流され、瓦礫に紛れて消えていった。
ロッカールームからフィールドへと続く連絡通路に待機していた機動隊員らはポケモンを使ってサカキを確保せずに終わったことに内心胸を撫で下ろしていた。あとはスタンドの構成員取り押さえに向かうだけ――と踵を返した時、ロッカールーム側からヘルガーを引き連れた痩せ型の男が現れる。彼こそロケット団大幹部のアポロである。
「幹部が残っているぞ! 気を付けろ!」
騒然とする周囲を満足げに見渡しながら、アポロはヘルガーを嗾けた。
「まだ終わりませんよ……ロケット団は今度こそ復活するのです! 踏みにじられた矜持を取り戻すべく……サカキ様の邪魔をするならトレーナーを殺すまで!」
ヘルガーが大きく口を開き、明かりの落ちた通路内が煌々と照らされる。
火炎放射――機動隊が悲鳴を上げようとした刹那、背後から何かが駆ける音がしてアポロの脇からすり抜けてきた闇がヘルガーを横殴りにした。その技、騙し討ちでヘルガーを仕留めたのもまたヘルガーだ。しかしこちらは相性お構いなしの実力を持った、四天王の右腕である。
「お前は……!」
目の前に滑り込んできたヘルガーにアポロは仰天する。その隙を突くように陰から飛び出してきたカリンが指輪をはめた拳で渾身の右ストレートパンチをお見舞いした。立て続けの騙し討ちに、機動隊員らは絶句したまま身を竦める。
「やだ、私ったら皆の怒りを代弁するあまり暴走しちゃった。ことごとくお仕事を奪ってごめんなさいね」
カリンは皮肉を込めながら肩を竦め、周囲に不敵な笑みを撒き散らす。そんな風に茶目っ気たっぷり振舞うと、鼻血を噴きながらその場に倒れたアポロを見下ろした。
「ランスを見つけられなかったから、上司の貴方にお願いするわ」
ヘルガーと並び、怒りを内に秘めた冷たい眼差しがアポロを射抜く。
「ぼろぼろになった私のスーツと仲間の着物代、後で請求するから覚悟しておきなさい。良い物だから高いわよ」
彼女はそれだけ言うと、「すっきり!」と背伸びしてロッカールームへ颯爽と身を翻す。小気味よいヒールの靴音が、暗闇の中にいつまでも反響していた。