第26話:スタジアムの決戦
「元トキワシティジムリーダー、サカキ」
静まり返ったスタジアムの隅々に、凛とした声音が響き渡る。
スタンド前方に集められていた人質職員達は安堵の息を吐き、彼らの監視もしくはバトルフィールドに踏み入るロケット団構成員らは皆一様に眉を顰めた。何故ワタルがその肩書きを持ち出したのか、理解できるのはこの場にただ一人。ところがその名を呼ばれたサカキは少しも動じる素振りを見せず、スラックスのポケットに両手を入れたまま不遜な眼差しを向けている。
「ワタル君」
サカキの後ろで消えかけた声がしたので、ワタルがそちらに目を向けると、彼の足の後ろから薄汚れた白髪頭が覗いていた。
「総監」
ワタルがそう発すると、牽制するようにその場にいたサカキ以外のロケット団構成員が一斉に銃を向ける。まるで軍隊の如く訓練された挙動は重なり合って、スタジアムに緊迫を響かせた。息を呑むワタルの前に、ロケット団大幹部のアポロが立ちはだかる。
「ヒーロー登場ですね」
彼は右手にピストルを構えたまま、にやりと微笑んだ。
「ご自慢のドラゴンポケモンならば、我々を止められるとでも?」
ワタルはゆっくりと頷く。
「だからここへ来た」
毅然とした態度には武器での威嚇が通用しない。その強がりを崩すべく、アポロは絶望を煽る言葉を二、三続けようとしたが――背後に立つサカキがそれを制した。
「御託は不要だ。トレーナーを殺せ、それでカタは付く」
大地のように重々しい声には若干の苛立ちが混じっている。突き動かされたアポロはスタジアム内に指示を轟かせた。
「撃て!」
スタンドやフィールドにいた三十数名のロケット団構成員が、構えていた銃火器の引き金を引く。場が騒然となりかける前に、ワタルのマントが軽やかに翻った。やがて布地は激しく波打ち、彼の背後から現れた黄金色のドラゴンがスタジアムに最大風速の嵐を巻き起こす。
「カイリュー、暴風!」
見えない壁が発動していないスタンドへ疾風が牙を剥き、人質のように座席に縛り付けられていない構成員の体勢を大きく崩し、狙撃を妨害する。フィールドに立っていたロケット団も同様だ。周囲が混乱に陥る中で、唯一仁王立ちしたままのサカキをワタルが駆り立てる。
「さあ、戦っていただこう!」
サカキがあの名刺の約束を覚えているとしたら――そんな期待を込めて吹っかけた勝負。するとサカキがそれに応えた。ポケットから包帯が巻かれた右手を引き抜いて、モンスターボールを一つ取り出す。
「いいだろう、散々邪魔をされて気が立っていた所だ。その挑戦に乗ってやる」
潔く引き受けた姿に、ワタルは目を見張った。
「ただしホームのルールに従う義理はない」
刹那、フィールド下に潜んでいたダグトリオがワタルの足元へ顔を出す。先ほど取り出したボールはフェイントだ。
「目障りだ、切り裂け」
モグラの鉤爪がワタルの膝へ襲い掛かる。背後を飛行をしていたカイリューが爪が届く寸前で主を抱え、後方へと飛翔した。ワタルは応戦すべく、すぐに腰のベルトから二番手のボールを放り投げる。
「ギャラドス!」
天井に雄叫びを轟かせ、現れたのは町一つ滅ぼすと言い伝えられる凶悪な竜である。スタンドまで伸びる巨大な身体にロケット団構成員が動揺していると、すかさずフィールドからサカキが叱責する。
「ぼんやりするな。嵐が緩んだぞ、雨を降らす前に上から手榴弾を投げろ」
我に返った男達が、ベルトに下げていた手榴弾のピンを引き抜いてギャラドスの顔へ投げつけた。常日頃強豪炎ポケモンと渡り合っているギャラドスにとってそれは些細なダメージであったが、絶え間ない攻撃は隙を生む。そこへワタルを襲撃したばかりのダグトリオが斬りかかった。
「辻斬り」
的確に急所を突く三頭の連携攻撃はギャラドスをフィールドへ薙ぎ倒す。その衝撃が起こした風に背広の裾を靡かせながら、サカキはダグトリオに顎を向け冷酷な指示を出した。モグラの鋭利な爪が身動きの取れぬギャラドスの喉を狙う。それを見たワタルは咄嗟にボールをギャラドスへ向け、負傷した手持ちを帰還させる。あわや、という場面。気絶したポケモンにトドメを刺す観念がないワタルは言葉を失った。
「舐められたものだ。今更驚く事か」
サカキが呆れたように息を吐く。圧倒的なトレーナースキルにより忘れていた敵の暴力性が、首領と対峙したことでようやく思い知ることとなったのだ。これにはスタンド上部の通路から足を忍ばせ機械室へと向かっていたイツキも肝を冷やす。
「マズいよマツノさん。早く僕らがサポートしないと、被害が人質にまで及ぶかもしれない」
するとスタンドにいた構成員が通路の壁から覗く派手な後頭部を見つけ、そちらに銃を向けながら仲間を集める。
「そこにもネズミがいるぞ!」
それに驚いたマツノが真っ青な顔で金切声を上げ、追い打ちを掛けるように的確な居場所を伝えてしまった。イツキは彼の腕を引っ張りながら、傍にいたネイティオを嗾ける。
「やばっ。ネオ、身代わり!」
イツキが機械室へ駆けると同時に、現れたネイティオの分身が反対側の方角へ飛翔し構成員達を迎え撃つ。近付けばその正体があっという間に分かってしまうが、いくらか時間稼ぎにはなるだろう。
「さすがだね、イツキくん。機械室はこっちだよ!」
マツノは先頭を走りながらスタンド外周の通路を曲がり、関係者のみが立ち入りを許可されたゲートを潜る。普段入り口を塞いでいる警備員は当然いなかったが、代わりにエレキブルを従えたロケット団が一名待ち構えていた。マツノが声なき悲鳴に喉を掻き毟った矢先、脇からイツキが顔を出してネイティオを差し向ける。
「ネオ、サイコキネシス!」
マツノの前にテレポートで躍り出たネイティオが先手必勝の超能力攻撃でエレキブルを昏倒させ、次いでトレーナーを電磁波で麻痺させて背中を取り、速やかに気絶させた。
「あっぶな、電撃を食らう前に倒せてよかった。力を高めてるから動きが冴えてるね」
イツキは少し遅れてマツノの前に出ると、無駄のない動きで敵を封じ込めた相棒を労った。普段はお調子者の少年だが、何時になく頼もしい姿にマツノの目頭が熱くなる。
「イツキくんもロケット団と渡り合えるんだね。凄すぎるよ、君達は。まさにヒー……」
少年はマツノの称賛を即座に否定する。
「いや、僕なんてポケモンが使えなきゃ何にもできないよ。ちなみに手持ちは殆ど尽きてて、ネオが倒れたら終わりだから」
「え、嘘」
不意打ちのように突きつけられた事実に、マツノは目を丸くする。そのまま顔をネイティオに向けたが、鳥もその通りだと無表情で頷いた。イツキの手持ちはミュウツー戦で消耗してしまったのだ。真っ青になるマツノを尻目に、イツキは通路の突き当りへと進み、機械室の札が取り付けられた扉のノブに手を掛ける。
「中は……」
扉の向こうに敵が潜んでいないか確認すべく、背後の相棒に視線を滑らせると、彼は首を横に振った。イツキは直ちに部屋の中へ飛び込む。五畳ほどの空間には空調と見えないフェンスの制御装置が並んでおり、二人と一匹がそこに入れば肩が触れ合う窮屈さである。奥の小窓からはフィールドが一望でき、サカキと対峙するワタルの姿が見えた。ちょうどスタンド最上段に相当する高さだ。
「早くフェンスを動かさなくちゃ。マツノさん!」
イツキは窓の外を覗き込んだ後、急いでマツノを振り返る。
「う、うん、ちょっと待ってね……」
彼は部屋の脇に置かれた分厚いマニュアルをめくりながら、眉間に皺を寄せている。イツキは目を丸くした。
「え、嘘」
無表情のネイティオと顔を合わせつつ、彼は失った言葉を思い出した。
「使い方知らないの?」
「担当外だけど、導入に関わったからザックリとなら知ってるよ。マニュアルさえあれば何とか……」
呆れるほど頼りないが、マニュアルに向かう姿は真剣そのものだ。イツキは考えを改め、支配人に激励を掛けた。
「頑張って。こんな観辛い席で応援していたくないからね」
「上にも仲間がいるようだな」
にわかに騒ぎ始めたスタンドを仰ぎながら、サカキが傍にいた右腕に目をやった。
「アポロ」
仲間を引き連れてそこに向え、という指示だ。アポロは目を見張る。
「スタンドにはアテナがいますが……」
「奴は俺一人で十分だ。どうやら優等生はマフィアに臆して次のボールにすら触れないらしい」
サカキは食い下がろうとしたアポロを視線で振り払いながら、カイリューに抱かれたまま動かないワタルに罵声を飛ばした。
「どうした、かかってこい臆病者。ルール通りでないと戦えんのか」
その言葉に煽られ、ワタルは次のボールを握り締める。フィールドに着地すれば敵に足元を掬われてしまう。空中からスタンドを見張り、構成員を牽制しながらサカキのポケモンとも戦わねばならない。
「カイリュー、君はこのままオレの翼になってくれ」
その申し出に相棒は二つ返事で頷いた。ワタルはカイリューの腕の中から身を起こすと、マントを捌きながら鞍を装着していない背に跨り直してボールを投げる。
「プテラ、ガブリアス!」
投じた二つのボールが開き、召喚された竜がそれぞれ逆の方角へと飛翔する。ガブリアスはスタンドに。プテラはサカキの前へ向かう。するとその眼前にニドキングが立ちはだかった。
「プテラ、氷の牙!」
牙を剥く化石ポケモンを、ニドキングが硬化させた尻尾ひとつで振り払った。
「アイアンテール」
サカキがそう告げながら目配せするなり、顎を叩きつける一撃がプテラを圧倒し、脳震盪を引き起こす。不安定に揺れる身体がほんの一瞬フィールドに触れた時、待ちわびていたかのようにその足元からダグトリオが顔を出した。足首を掴まれてしまえば終わりだ。ワタルは声を振り絞る。
「プテラ、飛翔しろ!」
その声はプテラの耳に届いていたが、平衡感覚が掴めぬまま視界はぐらぐらと揺れているばかり。そこでワタルはスタンドを旋回し、敵の動きを押し留めていたガブリアスへ視線を滑らせる。彼はすかさずフィールドへ方向転換すると、両翼を動かせずにフィールドへ倒れ込もうとしたプテラの背中を掬い上げ、そのまま天井高くへと放り投げた。そのアシストでようやくプテラは我に返り、仲間に礼を鳴いてから敵ポケモンに照準を戻す。
「追い風だ」
ワタルがそう告げると、スタジアムに突風が駆け抜け、それに乗ったプテラが先ほど氷を纏わせていた牙を再びダグトリオに向けた。敵がフィールドの下へ潜り込む前に、真ん中のモグラに噛みついてそのまま地上から引き剥がす。
「そのまま、フリーフォール!」
主の指示を受けてプテラは再度、天井照明向けて舞い上がる。サカキはニドキングへ短く告げた。
「撃ち落とせ」
プテラはダグトリオを抱えているのにお構いなしだ。続けて彼はスタンドにいる部下達へ右手を振り、同様の指示を出す。構成員らは慌ててプテラに銃を構えた。ワタルはすぐにそちらの対処に動く。
「ガブリアス、砂嵐で食い止めるんだ!」
ドラゴンが目にも留まらぬ速さで砂を撒き散らしながら飛行すると、やがてスタンドに砂嵐が吹き荒れる。席に括りつけられていない構成員達は視界不良と風の猛威でたじろいだ。その間にプテラは両足を広げて掴んでいたダグトリオをフィールド向けて放り投げる。合わせてガブリアスもその放物線の下を潜り、ニドキングの前へ躍り出た。
「ドラゴンダイブ!」
ジェット機に匹敵する速度を活かした突進はニドキングを南側ベンチまで弾き飛ばし、その突風で傍に立っていたサカキをフィールドの端まで後退させる。天井から投げられたダグトリオも彼の近くへ落下し、気絶したまま転がった。立て続けに二匹を戦闘不能にされ、サカキは舌打ちしながらポケモンをボールに帰還させる。その様子にスタンドの人質は希望を見出し、フィールドの隅で座り込む総監も胸を撫で下ろす。その姿を目に留めたワタルは、次のボールを掴んで指示を囁いた。
「フライゴン、総監をスタンドに避難させてくれないか。フィールドに残ったままじゃ危ない」
戦場に残る人質はぼろぼろに傷付いた総監のみである。ワタルはプテラとガブリアスにサカキの気を逸らすよう目配せしつつ、フライゴンのボールを宙に投げた。蓋が開き、鈴の羽音を響かせながら精霊ポケモンが現れる。その刹那、フライゴンの死角から浮遊する岩が飛んできて後頭部を強打した。
「ステルスロック……」
唖然とするワタルがその技を思い出す。タイミング的に、“撃ち落とす”を仕掛けたニドキングが技を変更していたのかもしれない。サカキの弟子でもあるキョウの常套手段だったことを失念していた。不意打ちによって浮遊していたフライゴンが体勢を崩し、フィールドへと落下する。地上まで僅か一メートル半。そこへサカキがボールを投げた。
「そこまで落ちれば射程圏内。ドリュウズ!」
鋼に進化したそのポケモンの爪と頭はドリルとなり、分厚い鉄板さえ貫くとされている。
「ドリルライナー!」
飛びかかるドリュウズの爪がフライゴンの首筋を抑え込み、回転する頭が喉元を狙う。回避はできない、しかしこのままではフライゴンの首が千切れる――ワタルは傍にいるカイリューへ叫んだ。
「バブル光線!」
直ちにドラゴンから放たれた水撃が、ドリュウズに命中してフライゴンを解放する。精霊ポケモンは水を受けてふら付くドリュウズからすぐに距離を取った。首筋の痛みを堪えつつ、向かう先はフィールドの隅で蹲るポケモンリーグ総監だ。すっかり弱り切った白髪の老人が、膝を上げながらこちらに目を向ける。大好きな主のために、彼を救うのだ――すると耳元で短い雷鳴が轟いて、総監がその場に崩れ落ちた。
「総監!」
ワタルがカイリューの背から腰を浮かせる。サカキが包帯を巻いた右手に拳銃を構え、総監の腿を撃ち抜いたのだ。
「残しておきたい唯一の人質だ。持ち出されては困る」
足元に落とした影に血痕を広げ、歪んだ唇から呻き声を漏らす総監を見て、フライゴンは動揺する。それでも、スタンドへ逃げなければ、と伸ばした腕に青色の粘液が降りかかった。上空から新たな刺客の存在に気付いたワタルが叫ぶ。
「フライゴン、防御を――」
言い終わる前にフライゴンの死角から氷の腕を振りかぶったガマゲロゲが現れる。
「させるか。冷凍パンチ!」
ワタルの指示を阻むようにサカキが鋭く指揮すると、ガマゲロゲは腰を落とし、腕のコブを激しく振動させながらフライゴンの懐に潜り込んで腹を突き上げるボディアッパーを叩き込んだ。スタンドまではっきりと届く鈍い打音を間近で耳にした総監は息を止めた。サカキのポケモンは十年近くの空白期間を過ぎてもまるで衰えることがなく、チャンピオンのポケモンさえ圧倒する。
「強い……」
すぐにフライゴンをボールへ帰還させたワタルが恐怖を漏らすと、背を委ねたカイリューがそれを心配する。
ポケモンを不安にさせてはならない――プロトレーナーの基本だが、顔が強張っていつものように笑顔を返すことができなかった。敵のポケモンは自分と互角かそれ以上で気を抜けば誰かが命を落とす、そんな状況で余裕を見せていられるはずがない。
「戦い甲斐がある」
だがこちらとてプロだ。震えかけた歯を食いしばり、深呼吸で畏怖を抜いて前を向く。その姿にカイリューは安堵した。
「まずは総監の安全を。カイリュー、行くぞ!」
自身が騎乗しているリスクは伴うが、カイリューのスピードなら総監を抱えてすぐに上空へと逃げられる。ワタルは相棒をフィールドへ嗾け、空を飛ぶ二匹のドラゴンを呼ぶ。
「プテラ、ガブリアス」
ワタルの視線がガマゲロゲとドリュウズへと滑る。察した彼らはすぐに翼を切り返し、同時にそちらへ襲い掛かった。真っ先に敵を捉えたのは勿論ガブリアスで、サカキを牽制しながらフィールドに強力な砂嵐を発生させ、勢いを縮めてドリュウズを包囲する。同じ地面タイプとして砂地獄に捕えられたことは屈辱だ。咄嗟に嵐の外側にいる主へ救援を求めたが、彼の視線はガマゲロゲに向いていた。
「檻から出られん奴は後回しだ。ガマゲロゲ、まずは敵のスピードを殺せ」
サカキの命を受け、ガマゲロゲは突進するプテラを迎え撃ちながら近くを飛ぶガブリアスも射程圏内に捉える。繰り出すべき技は本能に染み付いていた。
「凍える風」
氷タイプのポケモンばかりと手合わせしていた頃に体得した技がプテラとガブリアスを威嚇する。翼の先まで凍えさせる繊細な吹雪がドラゴンの動きを鈍らせた。それでもプテラとガマゲロゲの間合いならばそのまま突進すれば十分間に合う距離だ。それを見込んでワタルはカイリューを滑空させつつ、プテラを嗾ける。
「プテラ、アイアンヘッド!」
頭を丸めたプテラがガマゲロゲの喉めがけ、鋼鉄のタックルを叩き込んだ。二体が後ろへ倒れ込む間に、カイリューがフィールドに倒れていた総監を抱えて飛翔した。やや乱暴に身体を引っ張りこんでしまったが、フィールドに長居すれば地面タイプの思う壺だ。総監はスラックスの裾から赤い雫を垂らしながら、ワタルを見る。
「ワタル君……」
「大丈夫ですか、総監。すぐにスタンドへ避難しますから」
ワタルはスタンドを一瞥するが、イツキは機械室へ引っ込んだままで協力は得られない。砂嵐が阻んでいるとはいえ、あちらは敵ばかりだ。やきもきしながら汗ばむ右手でチルタリスのボールを掴む。貴重な戦力を割くのは痛手である。そんな焦燥を見透かしたのか、総監がワタルに助言をした。
「大丈夫、私は奴らの逃走まで殺されない……警護は不要だよ」
「ですが怪我が」
「もういい年だから気にしないよ……それより職員を、」
諦めたように微笑む総監をワタルが制する。
「ここで戦う限り、私は誰も見捨てません」
彼はきっぱりと告げた。揺るぎ無い精悍な顔つきは、チャンピオンに名乗り出た二年前からさらに頼もしくなっている。総監は息を呑んだ。その間にワタルは砂嵐をくぐってスタンドへ飛び込むと、チルタリスを傍に繰り出して言い聞かせた。
「チルタリス、君はスタンドで総監や職員の方を守るんだ。まもなくイツキくんが来てくれるはずだからそれまで頑張ってくれ」
重大な使命を託されたチルタリスは神妙な面持ちで頷くと、コットンガードで総監をがっちりと抱擁する。ワタルはその姿に頬を緩ませると、すぐにフィールドへ身を翻した。
総監には反発の隙さえ与えない。彼はただマントがはためく背中を見送ることしか出来なかった。目に入る砂粒の刺激が、やけに熱っぽい。総監はぽつりと呟いた。
「君は、本当に……」
そこまで言いかけて長い息を吐くと、総監はすっかり汚れたネクタイを外し、痛みが引かぬ腿に巻きつける。
すぐに座席の後ろからアテナが周囲に待機していた部下を引き連れてなだれ込んできた。チルタリスに警戒して彼らと距離を離しつつ、宙を飛ぶワタルとカイリューを指す。
「そこにチャンピオンがいるぞ! 撃て!」
ワタルの背中へ一斉に銃口が向けられるが、フィールドにいたガブリアスが数秒遅れて大きく羽ばたきながらその背を守るように飛翔し、緩みかけた砂嵐の勢いを増幅させた。スタンドを囲っていた嵐は分厚い砂の壁と化し、マフィアの銃撃を阻む。
「ありがとう、ガブリアス」ワタルは会釈しつつ、直ちに次の技を命じる。「そのままガマゲロゲを倒すんだ」
ガブリアスは頷くと、大きく宙返りしながらフィールドへと降下する。上空から一刀両断するのはプテラのタックルを受けて怯むガマゲロゲである。サカキが地中に「潜れ」と命じ、フィールドを掘ろうと背を向けた直後に、竜の鉤爪による一閃が振動ポケモンを戦闘不能にさせた。
「さすが」
ワタルはガブリアスを労うが、凍える風の影響を受け本来のスピードが出せない状況が気になった。こちらの指示などである程度はカバーできるだろうが、それではガブリアスばかりに意識が集中する。僅かな葛藤から生まれた隙をサカキは見逃さなかった。
「もう一度狙撃を」
彼はスタンドの傍へ歩み寄り、部下に指示を出す体を見せながらアテナの持つショットガンを指す。
「アテナ、そいつをよこせ」
彼女は一瞬戸惑ったが、理由を尋ねる暇はない。すぐに首領の元へ放り投げた。彼はショットガンをその手に収めると、リロードしながら身を翻し、カイリューに騎乗した主の元へ近寄るガブリアス向けて引き金を引く。動きの鈍った二メートル近いドラゴンは撃ち易い的だ。フィールドに雷鳴が轟き、ワタルの目の前で意識を失ったガブリアスが力なく地上へと落下する。
「ガブリアス!」
ワタルは愕然としながらその名を叫んだ。
「落下点を狙え」
サカキが再びショットガンを装填しながら、砂嵐から解放されたドリュウズに告げる。
「地割れ」
フィールドが割れ、そこに叩きつけられようとしていたドラゴンが裂け目に飲まれて圧される。めきり、と鈍い音がしたがサカキはまだ手を緩めない。
「まだ息がある。殺せ」
ドリュウズがフィールドを蹴って腕を振り上げ、ガブリアスへと襲い掛かる。ワタルは急いでカイリューから腰を浮かせ、ドラゴンをボールに帰還させた。その姿は傍から見れば隙だらけだ。サカキがそちらに銃口を向け、躊躇なく引き金を引く。気付いたカイリューが反射的に身を捻ったが、間に合わずに弾丸はワタルの肩を掠めた。それでも肩を割く衝撃が左腕に駆け巡り、その勢いでバランスを崩した身体がカイリューの背から滑り落ちる。慌てて助けに動くカイリューとプテラの油断に付け入るように、サカキがショットガンを放り捨てながら次のボールを投げた。
「グライオン、ストーンエッジ!」
三発目の弾丸がボールを飛び出し、鋭い岩石を投じて翼竜を撃墜する。ワタルから遠ざかる照明の光の隅で、プテラの姿が入り込む。
(すぐにボールへ戻さないと)
だが身体は動かない。無抵抗のままフィールドへと落下していく。
「サカキ様に続け、あいつを蜂の巣にしな!」
スタジアムにはアテナの怒号と、一斉に火を噴いた銃声、そして人質の悲鳴――重なり合う全ての音が遥か遠くに響いた。
(誰か……)
無力のまま救いを求めたほんの一瞬が幼い日の記憶と重なるが、あの時助けてくれたヒーローはもういない。次は自らが流れを変える時なのだ――悲嘆を払拭するように、きいんと耳朶を震わせる電子音が響いてフィールドの周囲が瞬いた。次いで鉛玉が爆ぜる音がスタジアムに反響し、地上まで僅か二メートルと迫ったところでフィールドとワタルの隙間にカイリューが滑り込んでその身体を拾い上げる。
「ありがとうカイリュー。でも一体何が……」
唖然とするワタルを覗き込むカイリューがスタンドへ視線を向ける。彼と同じようにぽかんと銃火器を構えたまま佇むロケット団達。彼らの周囲を取り巻く砂嵐は、スタンドからはみ出ることなくガラス板の仕切りが差し込まれたように穏やかに渦巻いていた。これはリーグ本戦で観客席から見るフィールドの様子そのものである。つまり間一髪で見えないフェンスが動いたのだ。
「やっと稼働したのか」
ワタルは仲間のアシストにこっそりと感謝の息を吐きながら、南側スタンドの上段に目をやる。
その近辺に設置されている機械室の小窓では、狭い室内で二人の男がフィストバンプを交わしながら既に勝負を決めた様にはしゃいでいた。
「よっしゃ、上手くいったぞ!」
マニュアルを手汗でぐっしょりと濡らし、何とか装置を稼働させたマツノは興奮冷めやらぬ様子で拳を握りしめる。イツキはほっと胸を撫で下ろしながら、適当な賛辞を述べた。
「超危なかったけど、さっすがマツノさん。ちゃんと支配人なんだね!」
その言葉に気をよくしたマツノはつい饒舌になる。
「当然だよ! しかしこのマニュアル、担当さん向けの専門性が高い構成だからもう少し簡略化した方が良いかもしれないね、今度の打ち合わせで見直しを提案すべきだな。やっぱり支配人としてスタジアムの仕事は隅々まで把握せねば……」
イツキは話半分に相槌を打ちながら、出入り口へと踵を返した。いつまでもここに留まっている暇はない。
「それより早くスタンドに向かわなくちゃ。ネオ、行くぞ。移動時間勿体ないし、この距離でも敵に茶々入れられる技、何かできる? “未来予知”とかどうだろ」
ネイティオが頷く。それを確認し、イツキは機械室を飛び出した。ところが彼は重大な見落としを犯していた。
「貴様……よくも!」
機械室の外にアポロが率いるロケット団の援軍がいることを想定していなかったのである。銃火器を構えた数名の構成員達に仰天していたイツキは絶句しながらもなんとかネイティオに縋りつく。
「ふ、ふ、フラッシュ!」
人間に危害は加えられない。眩い光で翻弄し、「電磁波! トリックルーム! 光の壁! リフレクター!」と思いつく限りの妨害技を叫んで、その場で足止めさせてから一目散にマツノと逃亡した。
フィールドとスタンドの間が見えないフェンスで仕切られ、砂嵐は緩やかに座席をかき回していた。咳払いする職員達に混じり、チルタリスに守られた総監はその羽毛の翼に包まれながら、こっそりと微笑む。これでスタンドからワタルが狙われる心配はなく、人質の安全については機動隊とイツキの合流を待つばかりである。総監は腿やあちこちの痛みを堪えながら、チルタリスに希望を託す。
「イツキ君達が来てくれるまで、共に頑張ろう。君の主とまではいかないが、私だってリーグ総監の肩書は飾りじゃないよ」
愛くるしい見た目ながら、由緒正しきドラゴン使いに育てられた勇敢な戦士はしっかりと頷いた。フィールドへの攻撃を阻まれた構成員はすぐに騒ぎ始め、彼らを指揮するアテナが殆どの人員をスタジアムの通路へ差し向ける。
「アポロの奴、まだネズミを始末していなかったのね」
彼女は歯噛みしながらフィールドを一瞥すると、顔を歪めながら見えないフェンスを睨む首領と目が合った。それに戦慄したアテナは、慌てて部下の後に続いた。
「すぐに始末してまいります!」
スタジアム内を占拠したロケット団は徐々に動揺の色を成し、援護に後押しされたワタルは左肩の痛みを抱えつつも、その顔には若干の余裕が浮かんでいた。倒れたプテラをボールに戻し、残る手持ちはカイリュー、リザードン、オノノクス、サザンドラの四匹である。対してサカキはあとどれほど所有しているのか不明だが、突入前に聞いたキョウの話から推測するにまだ十匹以上の戦力を有していることだろう。ただ、向こうが総力戦で挑んでくるとは思えない。
「小出しでポケモンを繰り出している所を見るに、この後機動隊も相手にする必要があるから、ある程度の戦力を温存しているのだろう」
まとめてこなければ勝機はある、とワタルは確信した。その表情を見て、サカキが肩をすくめる。
「思いの外、善戦するな」
ここまで隙を見せないサカキに声をかけられ、ワタルは耳を疑った。その背中に追いつくために努力を重ねてセキエイリーグの頂点へと上り詰めた彼にとって、サカキの言葉が達成感となって染み渡る。それを確認することができたのなら、私欲は充分に満たされた。ワタルは居住まいを正し、空からサカキへ毅然と言い放った。
「ここはポケモンに夢を見る人々が築き上げた栄光の舞台。スポットライトに照らされ、万雷の拍手に迎えられるその瞬間は何にも変え難い栄光だ。その苦労や誇りを、踏みにじることは許さない。この頂に立つチャンピオンとして、命に代えても守り通す!」
竜の背中で翻る、マントを背負った王者の姿に総監を始めとする人質達は疲弊しながらも救いを見出した。感嘆の吐息が、スタジアムに重なり合って反響する。プロの実力に見惚れるリーグ本戦さながらの空気感が、この危機的状況においてもワタルに平常心を呼び起こさせた。
だが、そんな様相はサカキにとっては不愉快だ。
「地方リーグと言う狭い枠組みの一番上でふんぞり返っているだけの若造が、調子に乗ってヒーロー面か。世話はねえ」
サカキはグライオンへ指を鳴らす。同時にドリュウズが地中に消えた。
「グライオン、アクロバット」
キバサソリポケモンは両翼を広げ、天井高く宙返りしながらこちらへ突進を仕掛ける。ワタルはサカキと放置されたショットガンの様子を気にしつつ、カイリューの首に触れて回避を命じた。
「避けろ!」
コンマ一秒後にカイリューの脇をグライオンがすり抜け、ワタルのマントを翻す。ドラゴンはターゲットの方へ首を向けると、直ちに口を開いた。
「竜の波動!」
体当たりを空振りした背中を、ドラゴンの衝撃波が圧倒する。グライオンは体勢を大きく崩したが、すぐに身を捻って持ち直した。その後ろで、ショットガンを爪先で蹴り上げて手中に収めるサカキの姿が見える。彼はリロード動作を行いながらグライオンへ短く告げた。
「ストーンエッジ」
グライオンがカイリューの足元へ潜り込み、鋭利な岩石を構える。至近距離からの鍛え抜かれた鮮やかな動きはカイリューといえど避けきるのは難しい。ならば攻撃こそが最大の防御だと、ワタルは迎撃の指示を出した。
「カイリュー、アクアテール!」
カイリューは直ちに尾に水を纏わせ、身体ごと前に突き出すフルスイングで岩を構えたキバサソリの腹を横殴りする。手ごたえの感じる音を立てながら、岩石が崩れグライオンの身体が字に曲がった。決まった――確信するワタルの眼前へ、キバサソリの尾が飛んでくる。咄嗟にカイリューが身を捻ったことでアクアテールの勢いが削がれ、尾の切っ先が翼の根元に深く突き刺さった。狙い通りとばかりにサカキが前に出る。
「そのまま翼をへし折ってこい――とんぼ返り」
ワタルの手元で上下していたカイリューの右翼にグライオンの尾が巻き付き、残り少ない体力で最後の悪あがきを決めたキバサソリがフィールドへ引っ張り込むような強引な宙返りをした。めきり、と何かが折れる音がしてカイリューが鋭い悲鳴を上げる。
「カイリュー!」
ワタルは咄嗟にグライオンの尾を振りほどこうと右へ体重をかけたが、ドラゴンの身体はバランスを崩し、浮力を失いなすすべなくフィールドへと落下する。翼が折れたのだ。血の気が引いたワタルは唖然となりながらも、何とか持ち直そうと左へ寄り掛かる。その間にカイリューが歯を食いしばり、身体を並行に戻して一旦フィールドへ右足を付ける。
再び飛翔しようと即座に床を蹴る僅かな瞬間をサカキは見逃さない。
「地に足を触れさせればこちらの独壇場。ドリュウズ!」
地中に潜んでいたドリュウズが、フィールドに土を付けたカイリューに跳びかかり鋭利な爪をボディへ叩き込んだ。その衝撃でワタルは地上へと投げ出され、ささくれた樹脂フィールドが血の滲む肩を痛めつける。その激痛で意識が遠のき、場内の騒然とした声が耳元で掻き消えた。
(カイリューをボールに戻して、次はオノノクス……)
油断すればポケモンの命はない。その危機感が彼を無意識のうちに突き動かす。右翼が曲がった相棒をボールに戻し、次のボールに手を掛けようとした途端、視界の端から鋼の爪が飛び出してきた。ドリュウズだ――気付いた頃にはもう遅い。ボールベルトを巻き込み、脇腹を斬られた。
「ワタル君!」
総監の叫び声がする。掠り傷です、と反射的に返答しようとした時、耳元で軽妙な靴音が響いた。幼い頃、病院で耳にしたことがある懐かしい音だが、今はこれ以上ない戦慄を呼ぶ。
「もう空へは逃げられんぞ」
サカキがこちらを見下ろすように睨みながら、ゆっくりと近付いてくる。肩で息をするグライオンをボールに収め、ドリュウズを従えながらテクニカルエリアの境界線を躊躇なく踏んで、再びフィールドへ乗り込んできた。
「今日日のトレーナーはてめえは非力なくせして、畜生の扱いが上手いだけで本気でマフィアと渡り合えると思っていやがる。このリーグもそう。馬鹿にするのもいい加減にして貰おうか」
ワタルの周囲に散らばる手持ちのボールが、抵抗すべく一斉に振動する。上手く回転させてスイッチを押すことが出来れば外へ出ることが可能かもしれない――彼は奥歯を噛み締め腕を伸ばしたが、サカキがボールをフィールドの隅へ蹴ってそれを阻んだ。
「ボールがなければさあ、どうだ」
届かない、とワタルが諦めた直後にサカキに襟元を掴まれ、左拳で頬を殴られた。頭が割られるような衝撃が走り、視界がぐるぐると揺れ動く。またフィールドへ横倒しになる前に、正面から腹を蹴られてテクニカルエリアへ吹っ飛んだ。尻を打ち、膝を曲げて力なく座り込む。腹を抱え、正座の体勢でなすすべなく蹲るチャンピオンに、サカキが冷たく舌打ちする。
「喧嘩の一つも出来やしない。情けねえな。それを思い知らせるためにボールキラーを作ったのに、あのクズ野郎のお陰で台無しだ」
また無抵抗だ――朦朧とする意識の中で、ワタルは実感する。トレーナーとして敗北をきしていないからこそ、不完全燃焼で終わるのは屈辱だ。まだ手持ちは戦える。フィールドの端でかたかたとボールを揺らしながら、スイッチが押されるのを待っている。中でも最も力強く抵抗していたのは翼が折れた相棒だ。
シバと比べて腕っぷしはまるで自信がないが、フィールドを走り回り、ドラゴンを乗りこなすために日々の体幹トレーニングは怠っていない。ボールを掴め、と本能が急き立てる。ここで死を覚悟してはならない。
「まだ、負けるものか……」
ワタルは覚悟を決め、膝をばねに立ち上がろうと腰を浮かせる。
すると額に冷たい鉄の銃口が触れて、それを制した。サカキが右手でピストルを突きつけていた。
「その諦めの悪さ、さすが王者だ」
彼は苛立ちに口を歪ませながら引き金に指を掛ける。
「だが子供だからとレッドを泳がせ組織を壊滅させてしまった三年前を省みて、敵は容赦なく殺すことにしている。あばよ、ヒーロー気取り」
そして、短い銃声がスタジアムに響き渡った。