第24話:罪と罰
サーバルームの奥で、パネル床を踏み鳴らす軽妙な靴音が響く。通路を歩んでいたミュウツーはすかさずそちらを振り向いた。
「気絶したポケモンは回収させてもらう」
サーバラックの陰からチャコールグレーのスリーピースを纏った男が現れる。痩せ型の青白い顔で今にも倒れそうな彼は、ミュウツーを煽るようにねめつけながら、通路に倒れた毒ポケモンを手元のモンスターボールに帰還させた。
「ようやく姿を現したか、非力な人間め」
ミュウツーはこっそりと肩で息をしながら、遭遇したのがこの男で良かったと内心安堵した。相手の手持ちを見るに、彼は毒タイプのポケモンしか所有していないようだ。ならば相性はこちらが有利、何とかこの場を凌ぐことが出来る。手早く葬り、ボールキラーを再度ばら撒いて本部内の人間を始末しなければ――必死で考え巡らすポケモンを、男は左手に持った扇子で肩を叩きながら嘲笑う。
「お前、まだ毒が抜けとらんな。自己再生で何とか繋いでいる様子だ」
隠し通していたはずの猛毒状態を見破られ、ミュウツーは動揺する。六十階で毒技を仕掛けられた時、この男は居なかった。
「“ゴミ”のトレーナーか」
「ベトベトン、だ」
男は舌打ちしながらすこぶる不満気に訂正した。物怖じしない横柄な態度はサカキを思わせ、ミュウツーの苛立ちを増幅させる。
「私は毒などに屈しない!」
ミュウツーはすかさず右手を構え、大きく身体を捻りながらサイコキネシスを発動させようとする。
そこでキョウは空いた右手で肩を叩きながら、敵の背後のラックに忍び寄るドクロッグへ合図を出した。
(肩を狙え)
すかさずドクロッグが床を蹴ってミュウツーの背中に跳びかかる。
「ベノムショック!」
さながらエペを突き出すような鋭い痛撃は、ミュウツーがベトベトンにやられたどくどくの負傷箇所を的確に射抜き、その懐をするりと潜り抜けてドクロッグはミュウツーとキョウの間に滑り込む。思わず膝を折ったミュウツーの隙を突いてドクロッグは次の技を繰り出そうとしたが、まだ敵が十分に動ける余地があることを見たキョウが彼の背中を押してラックの陰へ追いやった。
「一旦退け」
ドクロッグは鳴りやまぬファンの音に足音を紛れさせ、サーバラック群の中へ身を隠す。キョウも反対側のラック群に姿を忍ばせ、ミュウツーと距離を取った。そうして遺伝子ポケモンが顔を上げた頃には、辺りから敵の気配がすっかり消え失せている。苛立ちと体内に留まる毒がみるみる蓄積されていく。ミュウツーはそれを払うように咆哮した。
「小賢しい真似を!」
身体をじわじわと蝕む毒はそれまで体感した事のない脅威で、自己再生が疲労に追いつかなくなっていた。気を緩めれば致死量の毒がたちまち心臓を突き立てる。それだけでも神経を磨り減らすのに、敵にまで翻弄されている状況だ。相手は相性の良い毒タイプ、サーバルームにサイコキネシスを放てば一撃で倒せるだろうが、それでは精密機器に悪影響を及ぼす。
「私はまだ使命がある……人間を滅ぼし、それに従うポケモンを始末しなければ……」
ここまで戦った徒労が無駄になる。
四十年近く積み重ねてきた復讐心を何度も上塗りし、これまで浴びせかけられた罵声と屈辱を噛み締めて自己再生で毒を紛らわせ膝を上げた。そこまで執念を奮っても、体内に居座る脅威は打ち負けずにミュウツーを甚振る。ロケット団を探して毒消しを要求すれば済む話だが、自身を蔑んだサカキを思えばその手など借りたくもないし彼らは既にスタジアムへ移動している。八方塞がりで苦しみ悶える時、脳裏に浮かぶのはあの少女の笑顔だ。
あの子はきっと助けてくれる。すると、サーバラックの扉に母の影が映りこむ。
だから、ポケモンは人の手を借りるのよ――と、微笑みながら。その言い分を認めてしまえば、使命が揺らぐ。ミュウツーは自ら奮い立たせるように絶叫した。
「表に出て戦え!」
「それで真正面からサイコキネシスを被るほど、俺のポケモンは馬鹿じゃないんだよ」
キョウは離れた場所でそう言い捨てると、腹の痛みを紛らわすように扇子の骨を人差し指で弾いた。その音を引き金として目の前にミュウツーがテレポートで現れる。右肩を見るも痛ましい紫色に変色させ、人間の首をねじ切ろうと腕を伸ばす。
「ならば貴様から始末する」
キョウは咄嗟に身を屈めて攻撃を回避すると、サーバルーム内の広い通路へ飛び出した。そこで一瞬躓きかけて視線を落とすと、足元に逃げ隠れる前にミュウツーに倒されたペンドラーが横たわっていた。蹴られた衝撃で気絶から目を覚ましたようだが息も絶え絶え、キョウがただちにボールを向けてポケモンを回収しようとした時、身を翻したミュウツーが背後から襲いかかってきた。
「行けるか」
キョウが苦渋を浮かべながらペンドラーに尋ねると、迷いなくそれに応えたポケモンがミュウツーに跳びかかって、まとわりついた。メガムカデポケモンの巨躯はミュウツーを組み伏せ、通路の奥へと転がっていく。主のために搾り出せた余力はたったそれだけで、ミュウツーは床へ倒れる前にペンドラーを振り払い、力強く足を踏みしめ再びターゲットに照準を戻す。残忍な眼光を相手に向けた刹那、ラックの陰から鋭い鉤爪が飛んできた。身を潜めていたドクロッグが両腕を振り上げながら襲い掛かる。
「シザークロス!」
キョウは手応えを予感したが、攻撃が届く前にミュウツーの身体から念の嵐が放出され、ドクロッグを壁へ叩きつけて傍にいたペンドラーにトドメを刺した。メガムカデは短く悲鳴を上げてまた床に崩れ落ちる。
「二度も不意打ちは食らわない。人間の盾になる愚かなポケモンめ」
ひた、ひたと床を踏みしめ、ミュウツーが近付いてくる。キョウは出入り口方向へと一歩ずつ後退しながら、古傷の痛みに歯を食いしばった。こちらも既に虫の息、ミュウツーは勝ち誇ったように嘲笑った。
「お前たち人間はポケモンが居なければ何もできない、非力な存在だな。それなのに力を持ったつもりでふんぞり返っている。私はそんな輩が許せない。それに侍るポケモンも同罪だ」
社会人出身の彼にとって前半の侮辱は薄っぺらいが、無理に手持ちを統率しようとした経験から後半の言い分は共感できる。きっと、あの頃の手持ちは皆そんなことを思っていただろう。だがそれも過去の話だ。ミュウツーの後方で倒れるドクロッグやペンドラーを目に焼き付け、彼はミュウツーの言葉をきっぱりと跳ね除けた。
「その見解は分からなくもないが、武力でねじ伏せようとするだけのお前に裁かれる謂れはない!」
誰よりも管理を徹底して育て上げた戦士を侮辱され、指揮官は沸き立つ怒りに身体を震わせながら左手に持った扇子を叩く。するとその背後から巨大な蝙蝠が音もなく現れた。ミュウツーがたじろいだ隙を突いて、クロバットが通路を駆けながら影分身を仕掛ける。引き伸ばされた影はやがて室内を包む闇となり、敵の距離感さえ掴めない。生温いファンの風がハナダの洞窟を彷彿とさせ、ミュウツーは手当たり次第のサイコキネシスを試みた。
「毒になど負けてなるものか!」
視線を感じた方向へ念力を放つが、手ごたえは感じない。刹那、後頭部に衝撃が走りミュウツーは床へ転倒した。視界に掛かる天井に宙返りするクロバットが見える。アクロバットを成功させた蝙蝠は、羽音も立てずに出入り口付近のサーバラックの陰へ身を隠した。
「いいぞ、あと少し持ちこたえれば自滅する」
そこは主が居る場所だ。
キョウはラックにもたれ掛りながら腕時計を確認する。上の階でベトベトンがどくどくを仕掛けてからもう三十分以上は経過しているというのに、敵は倒れることはない。リーグ本戦で毒を仕掛けていれば既に白星を挙げている時間で、驚くべき生命力だ。これ以上耐久されると、先に自分の方が倒れてしまいそうだった。それをクロバットも心配する。
「あと少しで……」
ぼんやりと歪む視界の前に、突如薄紫色の影が現れた。
「クロバット!」
扇子を振るいながら避難の指示を出すと、クロバットが前足で主の肩を掴んで通路の数メートル先へ逃げる。敵の前にテレポートで現れたミュウツーはサイコカッターを空振りしたが、接近した際に相手の特徴に気が付いた。この蝙蝠はトレーナーが出す音で動いており、その両目は黒緋色に濁っている。
「失明しているのか」
ミュウツーは心の底から侮辱した。かつてポケモンリーグで遺棄されるライバルを数多く見てきたポケモンにとって、障害を負った戦士など、淘汰されて当たり前の存在だ。どうしようもない欠陥個体。自分のように逆境を克服すれば別だが、この蝙蝠は人間に寄り掛かってまで生きようとしている。
「恥ずべき存在め!」
破壊衝動に駆られ、身体中から念力が湧き出しクロバットに狙いを定める。今度こそ――ところが視界の先でトレーナーに耳打ちされたクロバットが翼を振り上げた直後、ミュウツーに激しい耳鳴りが襲い掛かり攻撃を阻んだ。頭を揺さぶる超音波が、不安定な神経を更に翻弄する。それはやがて可憐な声になって、蝙蝠を軽蔑していたミュウツーを穏やかに否定した。
――そこは協力する方の力量次第でいくらでもカバーできますよ。
なら、彼女はこの毒も取り払ってくれるだろうか? 塗り固めてきた自尊心があの笑顔一つで剥がれ落ちた。
気を緩ませた間に、眼前に現れた大きな闇が奇襲を掛ける。クロバットは鋭い牙でミュウツーの両腕を切り裂くと、素早くとんぼ返りして主の元へ向かう。会心の一撃にミュウツーは膝から崩れ落ちかけたが、傍のラックを力強く掴んで何とか持ちこたえると、自己再生を念じながら目の端に掛かる影目掛けてサイコショックを放った。意地の一弾はクロバットの後羽根に命中し、飛行バランスを大きく狂わせる。
「クロバット!」
翼から全身を駆け巡る激痛はクロバットの意識を引き剥がしそうになったが、主に名前を呼ばれて彼女も必死に持ちこたえた。すかさずキョウの肩を掴んで細い通路へ押しやると、背中をぐいぐい押して彼をミュウツーから離そうとする。薄暗く雑音が耳触りなサーバルームはどこへ行ってもぼんやりとした同じ景色が広がっていたが、とにかく主を逃がすことを優先した。そんな指示は出ていなかったが、自分が負ければ今度こそ彼の安否は保証されないかもしれない。是が非でも命を守りたくて、思わず力加減ができずに背中を押した途端、キョウはとうとう床に転倒した。慌てて傍に寄るクロバットを宥めるように、彼はすぐ腰を上げる。
「大丈夫だ」
そう言いながら息を吸い込んで立ち上がろうとした時、胃の奥を鉄の味が突く。不快感を覚えて咄嗟に押しとどめたが、逆流には耐えきれず指の隙間から赤い飛沫が革靴の上に零れ落ちた。いよいよ危ない域に達した。血の臭いを敏感に嗅ぎ取ったクロバットは、自身の失態にがくがくと震えている。
「気にするな。今回はボールが開く分、いくらかツイてる」
あの雨の日のようにボールがロックされていれば、とっくに死んでいた。そうやって諭しても、声を発する唇から赤い歯が覗けば不安が払拭されることはない。昨年娘によって引き離された時のように、蝙蝠は離別をひどく恐れている。この不安定な精神状態で、ミュウツーに立ち向かうのは難しい。ふいに落とした目線の先に床穴が見えた。襲撃直後にミュウツーがパネルを破壊し、ボールを一つ落とした場所だ。そこに収まっているポケモンは――思わず走り出そうとした靴音に反応して、その行く手にテレポートで飛んできたミュウツーが立ち塞がる。
「今度こそ!」
敵は僅か二メートルの距離。身体から溢れる執念の超能力が突風となってキョウの上着を靡かせ、クロバットの羽根を揺らす。これだけ接近されてしまうと回避の余地はない。キョウは血まみれの左手で扇子の骨を弾くと、指示を送ったクロバットをもう一度諭した。
「いいか。ここで倒れても、次に目を覚ました時はいつも通り俺の傍だ、相棒」
サインを読んだクロバットが覚悟を決めて頷く。キョウはすかさず左手を振りかぶって赤く染まった扇子をミュウツーへ投じる。不意打ちに遺伝子ポケモンはそれを片腕で払いのけ、慌てて右手を構え直した。その僅かな間にクロバットが翼を折り畳んで素早い突進を仕掛ける。
「クロスポイズン!」
低空飛行の鋭い突きはミュウツーの足場を掬い、後ろの床パネルごと弾き飛ばして出入り口前へと押しやった。渾身の力にミュウツーは目を見張ったが、通路へ倒れる前にクロバットを乱暴なサイコキネシスで吹き飛ばす。横殴りの一撃は蝙蝠を傍のサーバラックに叩きつけ、意識を奪った。次は人間だ――踏みしめた左足を軸に素早く身体を捻ってそちらを向く。視線の先に、パネルが外れた床穴から浮き上がるモンスターボールが見えた。クロバットが掬い上げたボールはワンバウンドして床を蹴るキョウの前へ転がる。
もしかすると蝙蝠は囮で、本命はあのボールだったのではないか――愕然とするミュウツーより早く、彼は左手でボールをかすめ取った。少年野球で何度も経験したバント処理を思い出す。これでも元エース、フィールディングには自信がある。スイッチを押し、流れるような動きでミュウツーの鼻先へ放り投げた。ミュウツーの前に現れたのはマタドガスだ。
「そう、最初からコイツを頼りにしていたのさ!」
鉄の味を奥歯で噛み締め、唇の震えを押しとどめる。他者の前で本音を溢せないのはいつものことだ。
既に事情を察していたポケモンは召喚される直前から、体内に毒ガスを溜めて膨れ上がっている。ここまで神経をすり減らしながら鍛え上げた、たとえ言葉を話せずともトレーナーの意志を的確に汲み取る知能はさすがのものだ。キョウは唇の端から血液を溢しながら最後の指示を出す。
「マタドガス、大……」
せめて負担を軽減してやりたい。相手は既に重傷である。指示を言い直した。
「自爆」
ミュウツーの呼吸器官を濃度の高い毒ガスが塞いだ刹那、眼前に浮かんでいたマタドガスが躊躇なく破裂しポケモンを爆風が呑み込む。多少手加減された爆炎は出入り口の扉を吹き飛ばし、ミュウツーを廊下奥の壁へ叩きつけた。それでミュウツーが残していた念力は全て無効となり、耐え続けていた猛毒の痛みも解消される。意識はほんの僅かだけ残っていたが、黒焦げの身体は指先ひとつ動かせず、割れた窓辺から通路内を穏やかに吹き抜ける夜風の音をただ無情に耳にすることしかできなかった。
遺伝子操作を受けて洞窟へ捨てられた、あの日以上に無力だった。それでも戦闘不能を受け入れられないポケモンは、小刻みに胸を上下させながら必死の抵抗を試みる。声さえ発することが出来ず、穴の開いたタイヤのように呼吸ばかりが抜けていく。
しばらくすると傍でおぼつかない靴音がして、あの男が無表情のままこちらを覗き込んでいた。彼は手の甲で唇の端から垂れる赤い筋をぬぐうと、その手に持ったボールをこちらに見せつける。捕獲されてしまう――直感したミュウツーの呼吸が乱れ、喉からひゅうひゅうと息が漏れる。男が開閉スイッチを押した。そこへ傍に転がっていたマタドガスが吸い込まれる。彼は唖然とするミュウツーを軽蔑するようにボールを上着の裏側へしまいこむと、出入り口横の壁へ寄りかかり、そのまま力なく座り込んだ。
「マタドガスのマーカーを外せばお前を一時的にボールに閉じ込めておけるが、そんなことはまっぴらご免だ。俺の手持ちはこの後センターで回復させ、一時間足らずで全快する。お前は介助が要らないらしいからこのまま野垂れ死にだな」
この男はそれを見せつけたかったのだ。あの時は母が助けてくれたが、それを振り切った今、手を差し伸べる者はもういない。計画の半分も遂行していないのに? サカキが様子を見に来るのではないかと予想したが、男はそれを否定した。
「お前のような高慢なポケモンをサカキがわざわざ助けに来るはずない。少し関わっていたのなら分かるはずだ。あの人は忠義を尽くす者だけに目をかける。それ以外は所詮使い捨ての鉄砲玉だ、都合よく使われていたんだな。同情の余地はないが」
冷たいビル風が熱を帯びた身体を冷やしていく。忍び寄る終焉を追い払いたくて身体を動かそうとしたが、やはり何もできなかった。念力が湧く感覚もなければ、声も出せない。自分は今、無力だ。また、あの時のように。
「もう少しマシなトレーナーについていればこうはならなかっただろう。それこそ、イツキみたいな素直なガキの方が良い影響を与える。上で捕獲されてりゃ良かったんだ。それで共にリーグで戦うのは御免だがな」
一緒に逃げよう、と言ってくれたあの少女を思い出した。もしもまだ自分を受け入れてくれるのなら、彼女は最後の砦かもしれない。だが人の手を借りるわけには――自尊心と死への抵抗が葛藤するミュウツーを、訥々と蔑むキョウがまた踏みにじった。
「力任せにサイコキネシスを放つくらいしかできないくせに、思い上がるからこうなる。自慢の言葉もお前に関しちゃ無駄な産物だ。侮辱ばかり吐き続けて得られたのは他人からの不信感だけだろう。いくら立派な大義を振りかざしてもそれじゃ失敗する」
最強のポケモンを自負していたのに、誰も賛辞してくれることはなかった。ちっぽけな存在は焦燥に駆り立て、少女への欲求に拍車をかける。あの子だけは認めてくれた。ああ、この場にあの子がいてくれたら。
「俺はお人好しじゃないから、侮辱された手持ちに代わってお前の醜態を目に焼き付けておく。ざまあねえ……」
男は虚ろな眼差しをこちらに向けながら、苦しげな笑いを浮かべる。絶望に引き裂かれた傷口に塩を塗りこむ彼の前で、なすすべなく死を待つのは無様でとても耐えられない。しかし抵抗の力はもう残されてはいない。
すると肌を刺す冷たい夜風が次第に熱を帯び、あっという間にミュウツーを包み込んだ。視界の端に閃光が瞬き、白い影がこちらを覗き込む。長い間記憶にこびりついている、生臭いミルクと押し付けがましい温もりが鼻先をくすぐる。影はみるみる形を成しながら、ミュウツーの胸の上に浮かんでいた。壁にもたれていた人間はその姿に声を失っている。その生物もまた、ポケモンに分類されていた。ポケモンは穏やかな眼差しを我が子に向けて手招きする。
(嫌だ……そちらには行きたくない……)
懐古的で温かな念力が黄色い閃光となって、ミュウツーの身体を抱擁し、そして溶かしていく。異次元へと解けていくこの感覚は紛れもなくテレポートだ。逃げなければ、また都合の良い世界へと戻されてしまう。いくつも悔恨が残って、死を選ぶ選択肢はなかった。一切動かない身体を鼓舞しながら、ポケモンは声なき抵抗を続けた。
(私はあの子の元へ行く! そうすればきっと……)
――あたしの家は静かで居心地のいい家ですよ。そう微笑んでいた彼女が自慢する家はどんなに温かいことだろう。そこだけは自分を受け入れてくれる気がした。だが、母は柔和に微笑みながら子供に言い聞かせる。
「いいえ、あなたを救えるのは私しかいない。あの人から得たものをすべて取り除き、新しい地で清らかな心を取り戻しましょう。誰もいない場所へ行けば、きっと人間を憎まなくなる。そうすればあなたは私と同じ心を持ったポケモンになれる」
嫌だ、と首を振る前に母が顔を近付け拒否を阻む。
「それが親の役目。これ以上の口答えはもう許さない」
その直後、意識が引っ張られて視界に白い幕が下りた。舞台から突き飛ばされ、強制的に引き剥がされた気分だった。ミュウツーは意識の中で母に抗い、元来た場所へ戻ろうとした。手足は動かない。やがて焦げた肌が元の薄紫色に蘇り、爆炎の火傷による痛みもなくなっていく。逃げられているのかもしれない、と思った。真っ白な視界にぱちぱちと閃光が弾け、それが黄色い花となって視界に広がり始める。穏やかなそよ風に花が揺れ、爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。ここはもしかしたらあの子の家なのかもしれない。広がる花畑の周囲に木々が立ち並び、遠くには洞窟らしきものが見える。あの子はどこに居るのだろう。名前を呼べは来てくれるだろうか。彼女の名は――
ミュウツーは花畑の真ん中で大きく息を吸い込む。焼かれた喉がひゅうひゅうと情けない音を立てていたが、その名を思い出して叫び声を上げた。
「みゅう!」
世に溢れる形無き獣の声。ミュウツーは耳を疑い、その結果を疑う。後ろで微笑む母の穏やかな表情を見て、もう戻れないことを知った。
フロアの通路は静けさを増し、一人の小さな息遣いしか聞こえなくなった。キョウはもう一度窓の下に目をやる。煤けたポケモンが転がっていた場所はやや黒ずんでその存在を残していたが、肝心の本体は白いポケモンと共にテレポートで消えてしまった。そのポケモンはこちらに戦意も向けていなかったし、悲哀を浮かべた申し訳なさそうな眼差しは彼にも身に覚えがあった。子が迷惑をかけた際に頭を下げる親の目だ。自身も親の立場だからか、それは何となく読み取ることができる。
親ならあんな化け物、目を離さぬようずっと繋いでおけ――と呆れたように短い溜め息をついた時、エレベーターホールから静寂を切り裂くヒールの靴音が鳴り響く。カリンとヘルガーだ。彼女は息を切らし、肩を上下させながら出入り口に寄り掛かる同僚を見て口を開こうとする。
「遅い!」
キョウが赤い唾を飛ばしながら鋭く叱責し、それを遮った。腹に傷を抱え、ピークを迎えている身体でもその怒声はフロアの隅々まで響き渡る。温厚な仲間の檄にカリンは思わず身を竦め、あまりの衝撃で言葉さえ失った。一瞬頭が真っ白になったが、それに至る結果を思えば徐々に涙腺が緩む。それを見たキョウが語気を弱めて力なく謝罪した。
「悪かった」
「こっちこそ、遅れてごめんなさい」
彼女は唇を震わせながら項垂れる同僚の傍に寄る。扉が外れた入り口の先に横たわるクロバットが見えた。
「奴は倒した。どこかへ消えたが……もう戻ってくることはないはずだ」
壁を向いたままぼそぼそと話を続けていたキョウは、目線だけをカリンに動かした。
「それよりポケモンを一匹貸してくれ」
理由は皆まで言わなかった。カリンは喉を刺す罪悪感を抑えながら、控えめに頭を下げる。
「ごめんなさい、こっちも今ヘルガーしか居なくて……」
「分かった。中にいる職員に借りるよ。途中でまた敵と鉢合わせると面倒だからな」
彼はサーバルーム内に顎を向けると、ようやく重い腰を上げた。背を丸めて座り込んでいたからカリンは最初気付かなかったが、よく見ると左手や唇の端は赤茶けた染みが付着しており、凄惨な相打ちを物語っている。トレーナーが立っていられるので勝負としてはキョウに軍配が上がるが、無念を湛えた表情には喜びも安堵もない。彼にはやり残したことが多くある。それを察したカリンは、入口の反対側の壁にもたれ掛りながら囁くように尋ねた。
「私はこれからスタジアムへ向かうわ。殴っておきたかった相手はいる?」
彼女は胸の前で結んだ拳を仲間に向ける。人差し指と中指にヘルガーの足輪を模した指輪が嵌められており、女性といえど痛烈な一打となることだろう。現にワタルは鼻血を噴いたことがある。キョウはそれを下品だと遠まわしに伝えたことがあるが、彼女はそれを承知で持ち掛けているらしい。少しでも気を晴らそうとする配慮に強張っていた口元が自然と緩む。物騒な言い回しを避けて返事をした。
「俺を刺した輩に着物のクリーニング代、請求しておいてくれ」
「任せて」
カリンは白い歯を見せ、野性的な微笑みを浮かべるとアップにした髪を揺らしながら再びエレベーターホールへと向かっていく。ヘルガーを伴い、殺到と戦地へ向かう背中は華奢な女性ながらこの上なく頼もしい。彼女ならきっと憂さを晴らしてくれるだろう。キョウはようやく安堵の息を吐き、その後ろ姿を見送った。