第19話:恩師の仇
「“こんな恰好は、辞めちまえ”って? その通りだわ。窮屈で、すごく不恰好。ここで脱いでもいいかしら?」
体重をほんの少し前へと移動させるだけで、男の身体はソファの上に倒れ込む。サカキは持ちこたえる気などない。その勢いで彼がベルトに装着していたモンスターボールが揺れ動いたが、カリンがその上に跨って衝撃を抑える。きゅっと下半身を挟み込み、肩を振って上着を脱ぎながら彼女はサカキに助力を乞うた。
「手伝ってくれない、ボス?」
上着はカリンの腕をするすると滑り落ち、彼女の指先を覆い隠すように手首の拘束具に触れて止まる。後ろ手に縛られているため彼女一人で服は脱げないのだが、サカキは煩わしそうに眉間に皺を寄せた。
「俺を誰だと?」
どうやら彼はそういった手間を相手に任せるタイプらしい。もしくは、まだ警戒しているのか。その問題を解消すべく、カリンは上半身を伸ばし、サカキに顔を寄せながら不満げに唇を尖らせる。
「優しくしてくれたっていいじゃない」
そうすると薔薇の香り漂う長髪が彼の視界をカーテンのように覆い、妖艶に揺らめきながら理性まで狂わせようとする。スラックスに絡みつく太腿の動きは次第に大胆になり、ソファのスプリングまで刺激しながらカリンが彼に唇を寄せた。ルージュが付着する寸前で、サカキの吐息が絡みつく。
「残念だが、コソ泥に目をかけてやるつもりはない」
情熱がすっかり消え失せた、素っ気ない一言。
サカキは包帯を巻いたばかりの右手でカリンの華奢な腕を捻り上げると、そのまま彼女をソファの足元へ蹴り落とした。悲鳴を上げながら倒れ込んだカリンの掌から、黒い通信端末が滑り落ちる。狙いは最初から、サカキのポケットに入っていたボールを遠隔操作できるこの装置だ。蘇る胸の痛みを抑えつつ、すぐにそちらへ手を伸ばすもサカキに蹴飛ばされて部屋の隅へと消えて行った。
「しおらしくしていれば部下の望み通り、組織に引き入れてやっても良かったが……」
彼は唇を噛むカリンを見下ろしつつ、ベルトから女の温もりが残るモンスターボールを一つ取り外す。何かしらの武器を所有しているだろうに、ここはあえて地面ポケモンで踏み潰すつもりらしい。ところがカリンは命乞いなどをせず、男の自尊心に唾を吐きかけるような悪態をついた。
「女の服を脱がす手間さえ惜しむ、狭量な男が率いるマフィアなんてこっちから願い下げだわ。私にはね、貴方よりずっとタフでワイルドなパートナーがついているのよ」
サカキの左手に握られた、ボールが開くその前に――秘書オフィスから別のボール解除音がして、憎悪を湛えた咆哮が轟き、ヘルガーがデスクの上を蹴って彼の前へ跳びかかってきた。サカキはすぐにソファの後ろへ回避しつつ、ボールからニドキングを召喚しようと試みたが、眼光鋭いヘルガーに激しく威嚇され、それに慄いたポケモンがボールへと帰還する。
「臆病者が!」
サカキは舌打ちしながらニドキングのボールを睨んだが、古くは地獄から死神が呼んでいるようだと怖れられていた唸り声の前に戦意などすっかり削ぎ落とされてしまっていた。トレーナーの素早い近距離無線操作によってボールから解放され、相手を退けたヘルガーはすかさずカリンの前へ滑り込み、主の拘束を引きちぎって盾となる。その身体は怒りに震え、艶やかな毛並みは針のように逆立ち、牙の隙間からは火の粉が漏れ出ている。突き差すような眼光を一心にサカキへと向けるヘルガーは、いつもと様子が違っていた。カリンが身の危険に晒されていたことを考慮しても、今はやけに取り乱している。彼はカリンの手持ちの中でも、特に冷静沈着で他のポケモンの鑑となるリーダー格のはずだ。
「ヘルガー?」
違和感を覚えたカリンがその名を呼んでも、ヘルガーは主を向くことはなかった。体内に燃え盛る炎の熱を毛穴から放出し、文字通り激憤を露わにサカキを睨み据える。闇と炎が調和した姿からは神秘性さえ染み出ており、サカキの右腕であるアポロが所有するヘルガーとはまるで性質が異なっていた。このような種はポケモンマフィアすらなかなか目に掛かれない。
ところがサカキは遥か昔、似た雰囲気を持つデルビルを見た記憶があった。悪趣味な背広を纏った男の膝の上で眠る子犬を『美しいデルビルだ』と称賛すると、男は整髪剤を塗りたくった頭を下げ、『このままじゃセキエイのショバがリーグに取られちまう。何とか助けてくれ、ジムリーダー!』と懇願したことはよく覚えている。
「ほう、あの男が連れていた犬か。何の因果かな」
サカキの、ポケモンを品定めするような目つきがヘルガーの悪しき記憶を蘇らせる。この男は数年前の雪が舞う冬の夜、前の主人から自分を引き離した張本人だ。ただ愛玩用として生きていたデルビルの頃は見えなかったこの男の本質が、カリンに育てられ、プロに囲まれて戦いに生きている今だからこそ理解できる。この男はポケモンに対しては合理的で道具扱い、ことに敵に対しては驚くほど非情で、殺しも厭わない。だからあの時、前の主は言った。『逃げろ!』と。
「この子の前のおやを知っているの?」
不穏な空気に狼狽していたカリンも、次第に状況を察してサカキに問う。
「おじさんは不良の喧嘩に巻き込まれて亡くなったはずじゃ……」
それが当時、警察から聞かされた死因だった。
デルビルがやってきたあの夜が明け、公園にポケモンを返しに行った時には恩師の姿はなく、警察が二日捜索して得られた結果がそれである。当時はひどく落胆し、デルビルを抱いてまた一夜泣き明かしてしまったのだが――憤りを露わにする相棒にカリンも薄々勘付いてはいたものの、意外な過去に結びつきいよいよ動揺が隠せない。するとサカキは肯定するように口角を上げる。
「なるほど。アポロは上手く片付けたものだな」
額を杭で打ち付けられたような衝撃がカリンに走り、直後にカッと熱を帯びる。『勝機が見いだせなければ逃げてくれ』と告げたキョウの言葉がよく分かった。彼はシバを葬り、そしてあの優しい恩師の命を奪う事さえ躊躇わない男だ。本気で戦うなら、こちらも命を奪うつもりで構えなければ――現に、ヘルガーはその気でいた。彼の双眸の矛先はずっとサカキに向いている。こちらの分が悪くとも、前の主の仇を討つべく体内には業火が燃え盛っており室内の温度を上昇させていた。肌は汗ばみ、揺らめく視界が彼女にじりじりと覚悟を迫る。
すぐにカリンは決心し、サカキへ告げた。
「早く、ボールからポケモンを出しなさい。貴方に勝たなくちゃ、シバやおじさんの仇討ができないわ」
彼女は顎を持ち上げ、挑発的に言葉を続ける。
「私は貴方みたいなクズとは違うから、大切なパートナーに人殺しなんてさせない。ポケモントレーナーとして死より効果的な制裁は、惨めな敗北だわ。全ての手持ちが戦闘不能になり、ピストルも握れない手を上げて無様に投降する貴方の姿を見れば、おじさん達も胸がすくはずよ」
惨めに生きていた子供時代を支えてくれた恩師や同僚を殺めたこの男は許せないが、復讐に同じ手段を選ぶわけにはいかなかった。同じようにバトルを生業としていたトレーナーならば、敗北が与える忌々しい屈辱は何より理解しているだろう。それを振りかざすように相手を睨みつけると、サカキも唇をへの字に曲げてボールを構え直す。
「ヘルガー一匹で、俺の手持ちを全て倒そうと言うのか。度胸のある女だ。始末するには惜しいが仕方ない」
彼は一歩後退し、ソファの前へボールを投げる。そこからサンドパンが現れ、軽やかに宙返りして座面に降り立った。両腕の先から伸びる鉤爪が天井照明に反射して鋭利さを際立たせる。
「今更惚れ直したって遅いわよ。ヘルガー!」
しかしカリンは怯まない。数歩退いて備え付けのキャビネットに身を寄せ、ヘルガーを嗾ける。カーペットを蹴って真っ直ぐ襲い掛かるヘルガーの足元を狙ってサンドパンが地震を放った。ところが部屋が大きく揺れる直前、ダークポケモンは軽やかに宙を飛んでサンドパンの死角に潜り込み、棘のない脇腹を蹴って“だまし討ち”。すかさず鉤爪で振り払おうとする相手の攻撃をバックステップで回避し、その鼻先へ紅蓮の猛火を放った。爪が空振りしたサンドパンは炎を全身に浴び、灼熱の火気を検知した頭上のスプリンクラーが作動して激しい雨が一斉に室内へと降り注ぐ。ヘルガーは水を受ける前にすかさずカリンの傍へ退き、彼女はソファの後ろで眉間に皺を刻み付けるサカキへ微笑んだ。
「雨が苦手なのはお互い様ね」
不意打ちにより大量の水を浴びたサンドパンはソファの上で身体を丸めて苦しんでいるし、これで少しは地面タイプを牽制できるとカリンは踏んだのだが、その余裕はサカキの一声で取り払われた。
「臆病な犬と一緒にされては困る。地面ポケモンは雨を受けて強くなっていくものだ」
彼はそう言ってソファの背面を蹴り上げ、座面で丸くなっていたサンドパンへ乱暴な喝を入れた。ソファはそのまま前へ倒れ込もうとしていたが、身を起こしたサンドパンが座面に両手を突き立ててそれを受け止め、カリンとヘルガーの元へ力強く放り投げる。二人は悲鳴を上げながらさっと左右に散り、立っていたキャビネットにソファが突き刺さった。
「今だ。やれ」
トレーナーがポケモンから離れた隙を見て、サンドパンがそちらへ駆けた。豪雨に濡れる爪を振るいながら、迷わず狙うのはカリンの首だ。ヘルガーが反応した頃には既に間に合わない距離に詰めている。
「ヘルガー、悪の波動!」
接近するサンドパンに対し、上ずる声でカリンが命じる。その技で相手を弾き飛ばせばきっと間に合う――咄嗟の大博打の結末は番狂わせだった。秘書オフィスからスチールデスクが飛んできてサンドパンに命中し、そのまま後方の窓を破って場外へ押し出したのだ。
「カリン、大丈夫か!」
直後に総監室へ飛び込んできたのはシバとカイリキーである。彼はカリンより先に宿敵の姿を目に留めるなり、「サカキ!」と声を荒げたが相手は動揺の素振りすら見せない。それよりもシバの薄汚れたシャツから覗くアリアドス製の包帯を目に留め、「あの屑、そっちを寄越すか……」と、小さく舌打ちした。
サカキは不満気に腕時計へ目を落とすと、「仕方ない」と窓へ歩み寄りながらボールを一つ取り外し、スイッチを押した。
「逃がすか!」
シバの怒声より早く動いたのはヘルガーだ。仇を取り逃がすまいと飛びかかったが、それを遮るようにドンカラスが立ちはだかり、ガラスの割れた窓の外へ身を投げたサカキを掴んで闇夜の空へ飛翔する。彼は速度を上げさせて先に落ちたサンドパンをボールへ戻し、騒然とするヘリの間を割って部下達が向かったスタジアムを目指した。
ものの数秒の脱出劇にシバとカリン、そのポケモンが呆然としているとワタルとカイリューが息せき切って部屋へ飛び込んでくる。どうやら彼はエレベーターの空洞から抜け出した直後、シバとカイリキーが総監室へ飛び出して行ったためもたついてしまったらしく、親友にひどく腹を立てていた。
「いきなり総監室へ攻め込んでいくなよ! もっと慎重に動かないと――」
「カリンが殺される寸前だったんだぞ! で、無事か!」
シバは居直り、濡れた床にへたり込むカリンへ目を向ける。スプリンクラーの勢いは衰え、傍に寄って来たヘルガーを撫でながら彼女は頷いた。
「ええ、何とかね……貴方たちも生きていたのね。無事で良かった」
髪をかき上げながら膝を上げたカリンは、防弾ベストが透ける濡れたブラウス一枚にタイトなスカート姿で、妙に色めかしい雰囲気を放っていた。乗り込んできた際、ロケット団はサカキの他にいなかったしポケモンを除けば、その場にいたのは男女のみ。最悪の事態を想像して青ざめるワタルとシバを見て、カリンは肩をすくめる。
「平気よ。何もされてないし、私もトレーナーに危害を加えてない。あいつは違ったけどね……殺されるところだった。皆ありがと」
カリンは足元で歯噛みするヘルガー向けて微笑んだ。
相棒は前主人の仇を討ち損ねたばかりか、カリンを危機に晒したことで悔恨を露わにしていたが、その笑顔の前に感情を心の奥へ押しとどめる。先ほど自らの牙でサカキを引き裂く機会はあったが、それは彼女に同じ罪を着せるに等しい裏切り行為だ。ふいに視線を感じて顔を上げると、ワタルのカイリューとシバのカイリキーも同調するような眼差しを向けていた。
「それより、総監やマツノさん達がスタジアムへ連れて行かれたわ。あそこは職員の人達が避難しているから、ロケット団が踏み込んで来たら大変なことになる。急いで追わなくちゃいけないけど、本部ビルには例の喋るポケモンがまだ残っているの。ミュウツーって呼ばれてる。手分けして対処すべきだけど、私はヘルガー以外のポケモンをロケット団に取り上げられた」
カリンはワタル達に向き直り、状況を説明する。
喋るポケモン、と聞いてワタルとシバは直ぐにピンときた。彼らのいずれもミュウツーと遭遇し、その脅威を目の当たりにしている。あのポケモンを野放しにしておくのは危険だが、スタジアムにも急がねばならない。
「本部に残っているのはミュウツーだけか?」
ワタルが尋ねると、カリンも神妙な面持ちで頷いた。
「恐らくね。あいつ、ロケット団の良いように利用されている感じよ。でもかなり強いしエスパータイプだから、待機してるオジサマに任せるのは酷だわ。音沙汰ないけどイツキは大丈夫なの?」
「ネイティオが助けに行って、キョウさんが探してくれている」
イツキはミュウツーによって窓の外へ落下してしまったが、ネイティオが救助に急ぎ、キョウも捜索している。そこまでなら彼らに任せられるが、問題はミュウツーだ。鉢合わせした場合、経験乏しい少年と手負いの毒使いで倒せるかどうか――ワタルの抱く不安と対策が、カリンとシバとも一致する。
「それじゃ、こうしよう。オレがサカキを追うから、君達はミュウツーを頼む。こちらの支援は外にいる機動隊にお願いするよ」
夜風が吹き込む七十階の窓からカイリューで後を追えば、スタジアムは目と鼻の先だ。状況を窺うべく窓辺に接近するヘリが総監室を眩く照らし、その光の中で四天王が頷いた。
『一体何がありましたか!』
ヘリにいた機動隊が拡声器を用いてこちらに尋ねる。プロペラ音と巻き起こる突風に声をかき消されそうにながらも、ワタルは力強く応答した。
「時間がないので飛行しながら状況を説明します」
ワタルはカイリューを引き連れ、ズタズタに破壊された総監デスクの後ろへ回り込む。ガラスが取り払われた窓の前に立ち、七十階の高さから飛び立つことに関しては今更恐怖など湧いてこない。かつて憧れた男と対面する、その時が近付いている――その事実が彼に少しの緊張をもたらした。暗幕が下りたセキエイ高原は華々しさが影を潜め、緊迫を成している。少し遠くに見えるセキエイスタジアムすらその光を落としていた。ふいに、シバが背中を押すように声をかけてくれる。
「すぐに後を追う。スタジアムは任せたぞ」
「勿論」
ワタルは笑顔で振り返り、カイリューに目配せして再び前を向いた。
ヘリが照らす窓枠の中で、マントがはためく。その姿はさながらスポットライトの前に現れたヒーローだ。彼は傍にいたドラゴンに軽やかに跨ると、床を蹴って月も傾くセキエイ高原の空へ飛翔する。細やかな動きで機動隊の傍へ接近し、状況を説明しながらスタジアムへ舵を切るとヘリも方向転換し、やがて総監室は眩しすぎる光から解放され再びの静寂を取り戻した。カリンはすぐに身を翻し、サカキが蹴飛ばしたロケット団向けの通信端末を拾い上げてスカートのポケットに仕舞いこむ。そこで引き戻された照明に反射する、銀色のボールペンが転がっていることに気付いた。総監の私物だろうか。彼女はそれに手を伸ばすと、下ろした髪を後頭部にさっとまとめて簪代わりのペンで固定し、シバへ振り返る。
「さて、私達も早いとこミュウツーを片付けてスタジアムへ向かうわよ。今度こそヘルガーでトドメを刺してやるわ」
髪をアップに変えて、ブラウスとタイトスカートの汚れを払い、ヘルガーを連れて颯爽と下の階へ向かう彼女にはサカキの襲来に恐怖していた儚さは感じられない。吹っ切れた背中にシバは感心しつつ、カイリキーに合図して後を追った。
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『……イツキ、いい加減返事しろ! イツキ!』
どこか遠くで、耳慣れた男の声が自分の名を呼んでいる。
少年の聴覚がようやくその音に反応したが、ひどく痛む頭が身体の動作を停止させていた。誰が呼んでいるのか、今何が起こっているのかさえ考え巡らせるのは非常に億劫だ。次第に闇に包まれていた視界が幕が上がるように開けていき、目線の先に銀色の月が浮かんでいた。
(何だろ、あれ?)
目の前に月が現れるなんてありえないから、割れるような頭痛に支配されている中でも好奇心が先行して目を凝らす。すると突然、視界を激臭を放つヘドロが覆って、彼は鋭い悲鳴を上げた。
「く、臭い! とっても臭いっ!」
鼻を引き裂く悪臭は、また気を失ってしまうくらい強烈だ。だが妙に馴染みのある臭いでもあり、それで少年はふいに冷静になって目を配った。顔のすぐ傍に、野球ボール大に縮んだベトベトンが居る。ポケモンは申し訳なさそうな面持ちで少年にヘドロ塗れの小型無線を差し出した。
『おい、イツキ! 応答しろ!』
スピーカーからベトベトンのおやにがなり立てられ、その殺気立つ怒声に少年は頭の痛みも忘れて飛び起きる。
「は、はいっ! ご、ごめん、今起きた!」
『お前、今どこに居る? 無事なのか』
イツキの安否をようやく確認できたことで、キョウの声のトーンは急に落ち着いた。尋ねられるままイツキがぼんやりと周囲を見渡してみると、フロア内は照明の光が落ちているのに妙に明るく、座り込む通路のあちこちには瓦礫が転がっている。
「ここ、何階だろ……滅茶苦茶頭が痛い……」
まだ痛む後頭部に触れてみると、指先に生温かい血痕が付着しており、息が止まりそうになった。みるみる血の気が引いて、反射的に相棒の名を呼ぼうとしたが瓦礫の先に床に伏すネイティオとカポエラーの姿を目に留め、今度は心臓が鼓動を放棄する。するとまた視界に大きさを戻したベトベトンがフロアを表すプレートを持って現れた。どうやら壁に固定されていたものを引き剥がしてきたらしく、ねじが腐食している。
「六十階……」
プレートに記されていた階数を口にすると、手元の無線からキョウの驚く声が返って来た。
『お前、あのフロアの下にいたのか? そこは確か地割れで――』
地割れ。天井に開いた穴から上階の照明の光が差し込み、イツキの痛々しい記憶が鮮明に蘇る。
「う、うん……思い出したよ……僕は六十八階の窓から落ちて、助けてくれたネオが六十階の窓へ避難したんだ。でもそこの窓に何故かエレキネットが張ってあってさ……ネオはとばっちりを受けて気絶してるし、その直後に上から瓦礫が降ってきて僕は気絶して……」
強化ガラスに身体をぶつけ、念力で割られて落下した直後に電撃と瓦礫の仕打ち――状況を認識すれば忘れていた痛みがあちこちから身体を蝕み、少年を残酷に甚振る。
『頭打ったのか? それなら少し、様子を見ないと……』
「一応立てるし動けるけど……でも頭から血が出てるし、身体もあちこち痛い。キョウさんはまだヘリにいるの? 迎えに来てよ、僕はもう戦えない」
少年は同僚の気遣いに縋りついた。絶望が広がるフロアにセキエイ高原の冷たい夜風が差し込み、彼の孤独を煽って涙を誘う。ベルトに装着したボールが揺れて、他の手持ち達が傍に召喚するべきだとアピールしてくれていたが、直前の惨劇を思い出せばこんな戦場に仲間を駆り出す気にはなれなかった。
「喋るポケモン、想像以上にヤバかった……あんなの勝てる訳ない……だって、ネオとドータを向かわせたはずなのに真っ直ぐ僕を狙ってきたんだよ。窓から落ちた時、本気で死ぬかと思った……もう駄目かと……」
ぼろぼろと涙が溢れてボールや無線を濡らしていく。傍でベトベトンがやや困惑気味に見守っていたが、その性質上自身の手持ちのように抱きつく訳にもいかず、イツキは更に弱音を吐露した。
「ロケット団は大した事なさそうだし、上手くいくと思ったんだけどな……おかしいな、こんな恐怖ってキョウさんとの試合でも沢山経験したはずなのに。僕は何度ベトベトンのヘドロを被ってお腹を壊し、鼻も曲がる臭いを引きずったことか……でも、こんなに死が近いと感じたことはないよ」
数時間前、ヤナギに向けて自信満々で大見得を切ったはずなのに、あっさりと自信はへし折られ、情けない顔は涙と鼻水で更に汚れてしまった。
『ひどい言われ様だな。俺は一応、相手をちょっとばかり牽制するつもりでやってるんだ、命なんて狙ってたらとっくに塀の中にいる。だが次からは臭いが翌日取れるように調整するよ』
キョウの呆れるような冗談に、イツキはほんの少し緊張を緩ませた。
『分かった。お前は頭を打ってるし、まだ若い。大事を取って避難すべきだ。後は機動隊の救援と、ワタルとシバに任せるしか……』
様々なリーダー業を経てきたキョウは、メンバー内ではまだ若いイツキを気遣っていつも通りのフォローをしてくれた。少年は今までずっとそれに甘えてきたが、他の同僚の名を聞いて顔を上げる。
「今どうなってるの?」
『ビルに乗り込んだ機動隊はほぼ全滅、カリンがロケット団の人質になってワタルとシバが救助に向かった。俺はろくに動けないから、四十五階でシステムの復旧を見守りつつ、外からクロバットで敵を叩いてるが……下っ端共が影を潜めたのが妙だ。ビルに長居はできないから、移動したのかもしれん。オフィスにまだ残っている職員は放置しているようだが……』
「それって……」
泣き言を喚いているこの場所の外では、壮絶な戦いが繰り広げられている――ふいに湧いた罪悪感が、イツキの喉を締め付けた。まだ好きなカリンが人質に取られ、危険に晒されている。ワタルやシバはこの危機的状況においても退くことはないし、キョウだってサポートに尽力している。
アスリートがどうしてそこまでするの、と今更尋ねなくても理由は理解していた。今、この舞台を守ることができるのは自分達とそのポケモンしかいないからだ。
『しかし果たしてサカキに職員を生かす慈悲があるかどうか……俺は期待していない。だがクロバットに調べさせても爆弾の類は仕掛けていないようなんだ。となると、ポケモンを放ったに違いない』
今年三月のリハーサル――セキエイスタジアムのバトルフィールドで軽妙にお辞儀し、雨粒のように頭上へ降り注いだ職員達の拍手が鮮明に蘇る。その音が頭の中でぱらぱらと減っていき、去年初夏の復帰戦、挑戦者フィールドへ向かう際のスタッフの拍手になって、やがて本当の雨を思い出した。自暴自棄になり、五月雨に打たれたあの記憶がイツキを嘲笑う。お前はまた逃げるのか、と。相棒は吹きさらしの窓の前で横たわっており、返事はない。だからまた、自分で決意しなければならない。
揺れ動く視界の中で、天井の穴から差し込む蛍光灯の光が、隅に転がっていた何かに反射して銀色に輝く。思わず手を伸ばすと、それはデルビルの刻印が入ったオイルライターだった。誰かの落とし物のようだが、プラチナにも似た眩い銀は自身の地位を表すプロ証明証の色に酷似しており、少年へ決心を求める。
――四天王はプロ中のプロだから。全国五千万のトレーナーから選ばれた、真の実力者です。君達には栄光だけでなく、一般トレーナーや我々本部の未来、期待の重圧もかかっていることを忘れないでほしい。プロは自分だけ良ければいいと言うわけではないよ。
総監は四天王の証を渡してくれた時、そう言った。目線をベルトに装着したモンスターボールへ向けると、エスパーポケモン達は既に覚悟を決めている。あとは君だけだ、と言わんばかりだ。少年は無線に付着していたヘドロを上着の裾で拭き取ると、それをさっと脱ぎ捨ててワイシャツと燕尾ベスト姿になった。それは本戦で彼が最も多く採用している衣装である。
「やっぱり、ポケモンなら僕が迎え撃つべきだ」
まだ臭う無線を耳に装着し、ベルトのボールからフーディンとブーピッグを召喚して肩慣らしすると調子はすっかりセキエイリーグ開始前だ。
『頭は……』
キョウは心配しているが、アドレナリンが分泌された身体はすっかり戦闘意欲に湧いている。イツキはオイルライターを握り締め、窓の傍に倒れていたネイティオと同僚のカポエラーを抱き起した。両者、落下のダメージで意識を失っており相棒の不在は手痛い。そこでイツキはキョウに救いを求めた。
「普通に話せてるし、痛みも引いてきたから大丈夫だよ。ところで、クロちゃんはまだ外を飛んでる? 僕のネオは気絶しているみたいなんだ。迎えに来てもらうのは、ネオとシバのカポエラーだけでいい。キョウさんのところで手当てしてくれないかな」
スピーカーの向こうで同僚は少し間を置き、『分かった』と短く同意を示す。どこか不服そうではあったが、数分経ってガラスのない窓辺にクロバットが気配なく現れた。その手には人間向けの傷薬とアリアドスが織った即席の包帯が用意されており、イツキがそれと交換するように二体のポケモンを託すと、蝙蝠はポケモンを抱えて軽やかに降下していく。
『そこから下のフロアはシバ達が下っ端を片付けたから、ポケモンは上の階からやってくるはずだ。六十階は会議室しかない、上へ向かえ。こちらも極力サポートする。ベトベトンも使っていい、そいつなら銃器が出てきても錆に変えられるし融通が利く』
無線を聞くイツキの傍で待機していたベトベトンが彼やそのポケモン達に静かに目配せし、共闘の意を示した。彼は直接主人の声を聴かずとも、自身の役割を理解している。
「ありがとう! ディンにピギーにキョウさんのベトベトン……賢いポケモンばかりだから頼もしいよ。だけどアイツみたいに皆が言葉を話せたら、僕はだらしないと滅茶苦茶怒られてたかもしれないな。今頃、僕の手持ちはシバだらけになってる」
自身の応急処置を終えたイツキがそんな冗談を溢すと、ベトベトンは少しばつが悪そうな面持ちで視線を逸らす。彼は昔、人の言葉が使えれば自身の主を思う存分詰ってやりたいと思うことがあった。そんなヘドロポケモンに、隣にいたフーディンも同情の意を示す。
イツキの冗談を軽く笑ってやっていたキョウが、ふいに無線の向こうから彼に尋ねる。
『ところで気になっていたんだが、その喋るポケモンってのはどんな奴なんだ? お前、戦ってみてどうだった』
丈の長いベストの裾を翻し、少年はポケモンを引き連れて階段へと向かいつつ首を捻る。
「一瞬で窓の外に吹き飛ばされたから正直良く分からないけど、とにかく隙がなくて強くて殺気立ってて一目でヤバい奴だと分かるよ。そうだな、ポケモンで例えるなら――」
エレベーターホールへ近付いた時、生温い不穏な風が吹き抜ける。風は頭上で違和感を覚え、顔を上げたイツキにその答えを導く。
「そう、ミュウだ。僕はリアルで見た事ないけど、ネットの画像検索の一ページ目に並んでるミュウの絵に、似てる……」
脳裏に浮かんだイメージ像が眼前に浮遊する実態と重なる。突如現れた異形のエスパーポケモンが右手を掲げると、周囲に発生した念の風が刃に変わり、少年を切り刻む。