HEROSHOW










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第3章
第18話:覚悟
「そこまでだ、悪党ども!」
 勇ましい声がして、小さな子供達が一斉にそちらを向く。小山型の遊具の上から現れたのは、深紅のマントをはためかせ、ブルーのボディスーツを纏ったスーパーヒーロー。
「ドラゴンスター見参!」
 彼が拳を振り上げ子供達にアピールすると、その場はわあっと盛り上がる。それはいつも同じ公園で俳優志望の青年が幼児向けに披露している、即席のヒーローショーだった。筋書きはいつも同じ。半端なアクロバット技で見えない敵を攻撃し、見事ヒーローが勝利する。
 とある少年はそのショーが好きで、ポケモンバトルの練習に出かける際はわざわざ遠回りしてこの公園の前を横切って行くのが日課になっていた。とても安っぽいのにそのショーには心が躍る。相棒のミニリュウも夢中になっており、少年の肩から興味津々に首を伸ばす。
 ところがそれだけ気に入っていても、彼は間近で観劇することはしなかった。
「今日もタイツマンがヒーローごっこしてるぜ。だっせえ!」
 自転車の荷台にヒメグマを乗せた同級生が、友人らしき少年らとそれを嘲笑しながら通り過ぎていく。少年の心が羞恥と悲哀でちくりと痛んだ。彼らがあの観客の年齢くらいの頃は夢中でヒーロー番組を楽しんでいたのに、いつしか興味は薄れ、ポケモンが所有できる十歳を過ぎたら興味は完全にそちらへ向いてしまっていた。皆とっくに特撮や子供向けアニメなどを卒業して、ポケモンバトルや育成に精を出している。そうしなければ子供達のコミュニティから弾かれてしまうため、いつしかヒーローは嘲笑の対象になっていた。
「ヒーローっていつから格好悪くなったんだろ……」
 少年は同級生の背中を見送りながら、ぽつりと呟く。肩に乗っていたミニリュウが彼を慰めるようにこちらを覗き込んでいた。
「内緒だけど、僕はまだ好きだよ」
 少年は囁くように相棒へ微笑む。
 彼は地元でも名高いドラゴン使い一族の本家筋だったから、早いうちからヒーローとの卒業を強いられていた。両親が買い与えてくれたヒーロー玩具はダンボールにまとめて親戚の子供に譲られ、背が伸びたら着ようと思っていたマントはリメイクされて学校の体操着入れに。それでも一族の長老から託されたミニリュウと日々訓練を積むのは楽しかったから苦痛ではないが、未練はまだ心の中にこびり付いている。
「懸賞で当たったマントも羽織りたかったし……」
 と、後悔を漏らすと、肩に乗っていたミニリュウが身体を背中に垂らし尻尾をひらひらと動かしてくれた。どうやらマントの真似をしているらしい。ミニリュウは子供でも高さ一.八メートル近くあるドラゴンだったので、赤毛の少年が長いスカーフを持て余しているように見えなくもない。そんなポケモンの気遣う仕草に彼は思わず噴き出した。
「ありがとう。とっても格好良いよ」
 笑いながらミニリュウの頭を撫でてやると、彼女はとても嬉しそうに鳴いていた。相棒は温厚で最初から気の合うポケモンだが、本家筋として名誉あるドラゴン使いになれるようにと族長から手渡された神聖な存在でもある。少年はその宿命を思い出し、きりりと顔を引き締めた。
 いつまでもヒーローなんて夢を見てはいけないのだ。ドラゴン使いに相応しい勇敢なトレーナーにならなくては。少年はほつれ目から覗いていた未練を塞ぎ、ミニリュウを背負ったまま街の南部にある草原へと歩を早めた。そこには野生のポケモンが多く生息し、駆け出しトレーナーの訓練にはうってつけだ。
 ただしそれは、フスベに隣接するシロガネ山から下りてきた強者ポケモンに遭遇しなければ、の話だが。

(誰か、助けて……)
 少年は丸くかたどられた空へ救いを求める。
 全身を駆け巡る激痛が声を奪い、動きを封じ込める。目の前には翼を広げたエアームドがこちらを威嚇し、じりじりと迫り寄っていた。身体の下には崖から落下した際にクッションになってくれた相棒のミニリュウが、ぴくりとも動かず気絶している。万事休す、その上丸腰で助けを呼ぶ術もない最悪の状況だった。ポケモントレーナーとして一日も自立したくて、最近は着の身着のまま家を飛び出していたのだ。
 少年は自身の無力さを激しく悔やんだ。
 もしここで携帯端末を持っていたら助けを呼べるはずだし、もっと手持ちがいたらエアームドに応戦しつつ人を探すことも出来た。ミニリュウを更に強く育てていても状況は変わる。それなのに今の自分は天を仰ぐことしか出来ない、ちっぽけな存在だ。この状況から抜け出したい。真上を通り過ぎていく太陽を、ただぽかんと眺めているだけで終わりたくはない。
 そう願っていたら、足元から顔を覗かせたタグドリオがエアームドを崖の外へ吹っ飛ばしてくれた。あっという間の出来事。思わず空を見上げると、憎らしい太陽がスポットライトに変わった。逆光に浮かび上がる男のシルエット。その姿はまさしく――

「ヒーローみたいだった!」
 少年は澄んだ瞳をきらきらと輝かせながら、自宅中庭の縁側でミニリュウに語る。搬送先の病院で夜を過ごし、すっかり身体も思い通りになった翌日。昼前に退院した彼は、自宅の屋敷で相棒を膝に乗せ、昨日の余韻を噛み締めていた。
 絶体絶命のピンチに現れたのは、見るからに強豪のポケモンを連れた一人のトレーナー。あっという間にエアームドを気絶させ、病院へ搬送してくれた後、颯爽と立ち去って行った――いつも遠巻きに見ていたヒーローショーをようやく目の前で見られたどころか、キャストとして参加できた気分だ。興奮で身体が浮ついて、後引く怪我の痛みもまるで気にならない。
「助けてくれた方のお名前と連絡先はお聞きになっていませんか? お医者様にも教えてくれなかったそうで、坊ちゃんを救っていただいたお礼をしたいのに……」
 縁側の後ろを忙しく行き交う小間使いの一人が少年に尋ねる。
「僕にも教えてくれなかったよ」
 彼は庭を向いたまま、僅かばかり声を震わせてそれに答える。ミニリュウはすぐに嘘だと見破ったが、知らないふりをした。
「あら、残念……名のあるトレーナーの方かしら。お医者様はどこかで見た顔かも、って言われていたんですけどね。ああいう職業の人はペーパーが多いから困っちゃうわ」
「うーん、殆ど覚えてないや。ごめんなさい」
 嘘に対する謝罪も込めて小さく頭を下げ、台所へ向かう小間使いの背を見送った。ここは地元でも名高いドラゴン使いの本家だけあり、使用人すらポケモンの実力には厳しい目を持っている。こんな屋敷の環境が、まだポケモン免許取り立ての少年を訓練に急かした一因でもあった。そして不慮の事故に巻き込まれてしまったのだが、彼はそれで誰かを恨むことはしない。小間使いが近付いてこないことを確認すると、ジーンズのポケットから皺の寄った名刺を取り出してミニリュウの前に掲げる。長方形の小さな厚紙は殆ど真っ白で、中央に文字が並んでいるだけ。それが読めないドラゴンは目をぱちくりさせながら首を傾げた。
「本当は名前を知ってるけど、皆には内緒。その人はトキワシティのジムリーダーだったんだ。トキワのリーダーと言えば、ジムリーダーの中でも最強って噂されてるよね。その通り、本当に強かった……」
 素直に小間使いに名刺を渡してしまえば、すぐに身内のフスベジムリーダーを通してあの男性に連絡がいくことだろう。それは少年にとって野暮に思えた。次の再会には、条件があったから。
「僕はそんな人にポケモンで追い抜くって宣言したんだ。そしたらこの名刺をくれて、誰もが認める実力になったらジムへ来いって」
 嬉しそうに目尻を下げる少年の顔つきは、公園のヒーローショーに魅せられた子供達に似て真っ直ぐで純粋だった。自らがクッションにしかなれなかったことに不甲斐なさを感じていたミニリュウはその表情に安堵し、一方でやや不安になる。こんな体たらくで、彼の夢に寄り添えるのだろうか――竜の祠で生まれ、本家のトレーナーに選ばれたドラゴンはいきなり出鼻を挫かれたことを悔やんでいたが、主は彼女の身体を抱きかかえ、笑顔でそれを払拭してくれた。
「ミニリュウ、僕と一緒に強くなっていつか必ず、トキワジムに挑戦しよう。“挑戦者は常に誇り高く!”だよ」
 多くのしがらみや重責が支配するこの屋敷において、少年はそれに押し潰されることなく前を向いている。それは捨てなければならなかった子供じみた憧れが、ポケモントレーナーでも実現できることを知ったからなのかもしれない。その憧れを追う主の姿は、ミニリュウにとって何より輝いて見えた。
「あの人に勝って認めてもらうことが出来れば、その時僕達はきっと――」

 
 埃っぽく息が詰まりそうな闇の中を、丸くかたどられた小さな光が照らす。
 それはエレベーターの籠の中から覗く、何とか電力を留めた照明で、ちかちかと忙しく瞬きながらワタルの目を刺激した。落下が止んだ周囲はつい先ほどの喧騒が信じられない程静まり返り、息遣いしか聞こえない。自分と、そしてもう一匹。
「カイリュー」
 ワタルは唖然としながらも、擦れる声でなんとかその名を呼ぶ。
 未知のポケモンの奇襲を受けてエレベーター内部へ叩き落とされ、その籠に押しつぶされようとした寸前、反射的に開閉スイッチを押したボールから飛び出してきたのは苦楽を共にした相棒だった。エレベーターの籠の前で召喚されたドラゴンはそれを背で受け止め、長い尾を伸ばして主を掬い上げて危機を食い止める。大きな身体を広げれば、エレベーターの空洞でつっかえて落下を食い止めることができた。
「ありがとう……」
 カイリューの尾の上でワタルがやっと礼を言うと、彼女は頬を緩めて主を抱きしめる。背中の上で、籠が大きく揺れてその衝撃が空洞内に反響した。ワタルは一瞬ヒヤリとしたが、相棒はまるで気に留めず彼の頬に肌を擦り付ける。千切れたワイヤーや突起物の多い壁に触れたせいであちこち傷付いているにも関わらず、心から主の無事を喜んでいた。
 籠の割れ目から差す心許無い光が、またもワタルの虹彩を刺激する。そしてスポットライトのように、一つの過去を脳裏に曝け出した。
「……そうか」
 遥か遠くに浮かぶ小さな光を求めながら、絶望の狭間でなすすべもなく横たわっていた少年時代。その時も相棒は同じようにして自分を守ってくれた。だが、その結果は彼女にとっては不本意だ。
「今度はちゃんと支えることが出来たって?」
 カイリューの額を撫でながら尋ねると、彼女は瞳をきらきらと輝かせながら頷いた。澄んだ青空のような双眸に、ワタルのシャツに装着された、ミニリュウの意匠をしたカラーバーが映りこむ。彼女が無力だったのも、既に過去の話だ。
「それならオレだって。なんとか身体も動かせるし、人の手を借りずともここから脱出できるよ。君の力は必要だけどね」
 ワタルは白い歯を見せながら、両肩を回して見せた。エレベーターから突き落とされた痛みは残っているが、身体は問題なく動かすことができ、戦線から退くには値しない。
「こんな時に何だけど、あの時の約束はまだ諦めていないんだ」
 スラックスのポケットから名刺の入った免許ケースを取り出し、カイリューの前に掲げると、彼女は察したように頷いた。互いの意志が重なり目標を見据える。
 その時、カイリューの頭上でけたたましい金属音が鳴り響き、近くのエレベーターの扉が外れて、そこから伸びてきた灰色の四本腕がドラゴンの背負っていた籠を掴んで易々と後方へ投げ飛ばす。遠くで「危ない! こっちに投げるな!」と、キョウの罵声がしたかと思うと、エレベーターの扉部分からシバとカイリキーが顔を覗かせた。
「カイリューの翼が見えたと思ったら――ワタル、大丈夫か!」
 それでワタルはシバ達のいるフロアまで転落したことを理解した。この状況で、エレベーターの扉を外し、籠を放り投げられる力を有した格闘ポケモンを持つ親友に遭遇できたのは幸いである。
「ああ、なんとかね。さすがカイリキーだな」
 ワタルはカイリキーに感謝の目配せをしながら、カイリューの背中によじ登って上空を仰ぎ見る。千切れたワイヤーの先に伸びるのは数十階分の先が見えない闇だ。
「機動隊がやられ、イツキ君が行方不明だ。一刻も早く、この場を立て直さないと……」
「それはキョウに任せる。こっちもサカキの奇襲を受け警察は全滅、カリンが連れて行かれた。今、まともに戦えるのはおれ達だけだ」
 サカキ――その名を聞いてワタルの顔が強張る。扉部分から身を乗り出す親友は赤茶けたシャツの下から蜘蛛の糸製の包帯がはだけており、凄惨な事態を窺い知ることができた。サカキはトレーナーにさえ容赦しない。その上、あの未知のエスパーポケモンを操っている可能性だってある。そう考えるとカイリューに跨る両足から血の気が引き、爪先が小刻みに震え始めた。
(怖いのか?)
 本来ならばプロの出る幕ではない。だが、ここで頼りない救援を待っている暇はない。カリンは危機に瀕しているし、ビルごと崩壊してしまう危険すら孕んでいる。
(ここで立ち向かわないでどうする)
 その覚悟に共鳴するようにカイリューがこちらへ顔を向けた。フスベのドラゴン使いの名を背負って共に第一線を走ってきたからこそ、戦わなければならない。ワタルは相棒と頷き合う。臆病者は戦士に非ず、だ。
「急ごう。オレのカイリューならエレベーターより速い」
 ワタルは薄汚れたマントをひらりとはためかせ、カイリューの背にしっかりと跨り直した。鞍のない竜の肌はスラックスの生地と相性が悪く滑りやすくなっていたが、互いに身体を畳んでまっすぐ飛べば総監室は目と鼻の先だ。彼はカイリューへの相乗り場所を探っているシバに一応確認しておく。
「それとも、尻尾を巻いて逃げるかい?」
 親友は一拍も置かず切り返す。
「愚問だ」
 そんな質問煩わしい、と言わんばかりの返事だった。
 ワタルが満足したままカイリューへ合図すると、ドラゴンは壁を蹴り、上階へと浮き上がる。その尾にカイリキーをボールに収納し終えたシバが掴まると、ドラゴンは瞬く間に闇の空へ飛翔した。その後ろ姿に、昔のように助けを待つことしかできなかった少年と竜の面影はない。当時、彼らは一つの目標を誓い合った。

『あの人に勝って認めてもらうことが出来れば、その時僕達はきっとヒーローになれるよ』

 破壊されたエレベーターの扉部分と、フロアの割れた窓から高層階特有の冷たい風が流れ込む。それは通路に残されたキョウの身体を揺さぶって、再び疼き始めた腹の傷を無情に刺激した。それは炎のように徐々に勢いを増していき、額に脂汗を滲ませる。カイリキーが投げたエレベーターの籠にもたれ掛る主人に、彼の毒ポケモン達が一斉に駆け寄った。フロアの通路は殆ど籠で塞がれており、そこで役目を果たせと言わんばかりだ。それをどかして後を追うことはできるが、若手や手持ちに続いて行ける体力はない。彼はたまらず膝を折りながら唇を噛みしめる。
「何があったんです!」
 サーバルームでマサキの警護を担当していた機動隊の青年が騒ぎを聞きつけ、ようやく通路へやって来た。彼はシバの血痕が滲む通路のカーペットやその場を塞ぐエレベーターの籠、そして毒ポケモンに唖然としている。それを逐一説明するのが億劫な上、サカキに一掃される程度の警察の精鋭が憎らしくなり、キョウは自責を転嫁するように怒鳴り散らした。
「ビル内にいるお仲間は絶望的な状態だ。俺の心配をしている暇があったら早く応援を呼べ!」
 そして傍で身を竦ませているドラピオンに目配せすると、化けサソリポケモンは速やかに両腕の爪を振るい自慢の腕力で籠をスクラップにした。自動車でさえ破壊してしまうのだから、この程度容易いものだ。
 唖然と立ち尽くしていた隊員は、四天王の鋭い眼光に突き動かされ、通信端末片手にエレベーターホールへと駆けて行く。しばらく経てば、まるで戦力にならない一団が到着することだろう。キョウは呆れるように息を吐くと、無線端末を耳に装着し直し、窓の前へと身を翻す。
「おい、イツキ! どこにいる! 応答しろ!」
 頼りになるのは同僚とそのポケモンだが、返事はない。ビルの外を飛行していたクロバットが傍に寄ってきた。彼は相棒に告げる。
「探すぞ。ついでに総監室以外の階に残っている輩を片付ける」
 クロバットは頷き、闇夜の空へ飛翔する。今はこれが精一杯。役不足に不満は募る。

+++

 ロケット団によってエレベーターに乗せられたカリンが総監室に到着すると、満面の笑みを湛えた細身の青年がいち早く出迎えてくれた。にこやかながら他の構成員とは異なるいかにも悪辣な風格と白い服装から、幹部クラスの人間であることが窺える。
「本当に五分で片付けてこられるとは! さすがサカキ様ですね」
 入り口付近にいたサカキは両手をスラックスのポケットに突っこんだまま沈黙しており、特に反応はない。一方で籠の一番奥に立たされていたカリンは、状況が目まぐるしく暗転したあの時間が僅か五分足らずだったことに驚きを隠せなかった。動揺する人質を目に留めたアポロが怪訝な顔をする。それを彼女の傍にいたアテナが補足した。
「私が連れてきたの。美人で評判の四天王様だものね」
 彼女はサカキや他の部下がエレベーターから降りた後、カリンの背中を乱暴に押しながら総監室前の秘書オフィスへ急き立てた。壁際にはビルジャック前に会議を行っていた役員達が後ろ手に拘束され、目隠しと猿轡をされた状態で並んでいる。皆ぐったりと憔悴しており、カリンはその異様な光景に息を呑んだ。中にはスタジアム支配人のマツノも混じっており、カリンの気配を悟ってがたがたと肩を震わせている。それはプロトレーナーの危機を予感したことへの絶望か、憤りか――
(マツノさん……)
 己の無力さに歯噛みするカリンを、アテナが秘書のデスクへ押し倒した。肋骨に入ったひびが彼女に鋭い痛みをもたらすが、敵はお構いなしである。
「ボールは預かるわね」
 アテナはデスク脇に置かれていた秘書のランチバッグをひっくり返すと、中身を床に捨ててからカリンがスーツにしまっていたモンスターボールをそこへ移していく。勿論免許や通信端末も取り上げられ、これで彼女は丸腰状態である。頬を悔しさで震わせる四天王の耳元でアテナが囁く。
「大丈夫よ。ウチでも“ポケットモンスター”の相手をさせてあげるから」
 下品な冗談に吐き気がしたが、オフィスに待機する数十名の下っ端から向けられる眼差しは好奇のみならず、それを実行するだけの欲望に満ちている。このまま人質に甘んじては死を超える屈辱が待っている――彼女は覚悟を決め、アテナの耳元を撫でるように乞うた。
「だけど私はここを離れるまではまだ一応、トレーナーなのよ。その間は手持ちの傍に居たいわ」
「それは聞き入れられないお願いね。このポケモンだって勿論商品価値があるわ。とびきりの高値が付くし、育て屋のラムダも喜ぶ」
 アテナはカリンを後ろ手に拘束してデスクの上で優雅に足を組むと、ランチバッグに集めたボールを眺めながらうっとりと戦利品を吟味する。スワロフスキーが散りばめられた華やかなボールに納まるのは、敵意を剥き出しにしたしなやかな悪ポケモン達。四天王が育成しているだけあって皆手入れが行き届いており、見た目だけでもコンテスト優勝クラス揃いだ。市場価値は非常に高いはずだが、その中で目に留まった一匹のポケモンにアテナは眉を潜めた。
(こいつを連れて行くのはマズイわね……)
 彼女はそのボールをバッグから取り出すと、デスクの隅へ隠すように移動させた。そして顔を上げ、サカキを出迎えた幹部の男を確認する――彼は視線をこちらに向けておらず、総監室でサカキに状況を説明していた。
「ヤマブキシティからの報告によりますと、政府はこちらの要求に合意し金の用意を進めている模様です。囮の可能性もありますが」
「まあどう転んでもポケモンが居れば問題ない」
 サカキはポケットに手を突っ込んだまま、他人事のように返答する。悠然と構える姿からは例え軍隊が出動してきたところで、現状自身の手持ちに敵う脅威はこの地方には存在しないと言いたげだ。そんな彼にアポロは歓喜を露わにする。
「そうですね。いずれにせよ、スタジアムで人質もろとも一網打尽ですから」
 それを聞き、床に伏したまま謝罪を続けてきた総監の背筋が凍りつく。ビルに閉じ込められていた職員の大半は、隣のスタジアムに避難しているのだ。恐怖と暴力に甚振られようと間もなく日付が変わるこの時間まで耐え抜いてきたというのに、相手は容易く切り捨てる。
「わ、私以外の命はどうか……どうか助けてくれ……!」
「この階に繋がるエレベーターを一基だけにしなければ考えてやっても良かった。速やかに移動しろ」
 このビルには七基のエレベーターが設置されているが、総監室と繋がっているのはそのうち一基のみである。役員達を含めるとエレベーターには一度に乗りきらず、何度かに分けて下のフロアへ移動する必要があった。それをアポロが部下に命じ、エレベーターホールに待機していた下っ端一名がそそくさと籠に乗り込んでドアを開け、人質を見張っていた仲間へ手招きする。
 するとその刹那、彼の足元から突き上げられる衝撃が走ってエレベーター周辺が木端微塵に破壊された。籠はそれでもなんとか形を保っていたが、ワイヤーが千切れて無残に闇の中へ消えていく。カリンを含め場が騒然とする中、煤けたエレベーターホールを抜けて見覚えのあるポケモンが秘書オフィスに到着する。
「下の階の始末が終わった」
 人の言葉を口にする、薄紫色の痩身――ビル脱出時に対峙したあのエスパーポケモンである。息を呑むカリンの気配に反応したそのポケモンが、こちらを向いた。
「そこにもいたか」
 破壊を湛えた双眸に射すくめられ、カリンの肌が粟立つ。あの時は悪ポケモンで応戦できたが今は身一つ、圧倒的に不利である。相手はそんなハンディなどお構いなしに殺意を振りかざしていたが、それをロケット団首領が制した。
「ミュウツー、どうやってトレーナーを片付けた」
 ミュウツー――カリンが変装していた時にロケット団の下っ端から要注意と言い聞かせられていた存在である。
「子供のトレーナーは窓の外へ、もう一人はエレベーターの空洞へ蹴り落とした。籠を破り、穴の奥底へ落ちて行ったのだから命はないだろう」
 それは恐らく、屋上から突入していったイツキとワタルの事だろう。圧倒的実力を備えた敵が存在するこの場において、彼らを失うのはいよいよ絶望を迎えることを意味する。カリンや総監、そして拘束させられた役員達が恐ろしい現実を受け入れられずに呼吸さえ失いそうになる中、サカキはそれを少しも信用しなかった。
「穴に落ちた人間はポケモンを使えば這い上がれる。もう一度、その目で確認して来い」
 ミュウツーはたちまち眉間に不満の皺を刻み付けたが、彼はまるで怯まない。唇の端を引き結び、融通の利かないポケモンに苛立ちを覗かせながら付け加える。
「このビルにはまだそれなりに動けるトレーナーが残っている。不穏分子は残らず潰せ、半端に生かすと足を取られるぞ。それと――」彼はポケットから黒ずんだ右手を引き抜くと、ベルトに装着したボールを一つ弾いてその場にニドキングを呼んで叫んだ。「いい加減、敵と味方の区別を付けろボンクラ!」
 直後に総監室が激しく振動し、ミュウツーが身構え両足を踏みしめたその床ごと崩壊させた。被害はミュウツーが立っていた場所から後方のエレベーターホールのみ、そっくり抜けてポケモンだけが瓦礫の中に埋もれる。他は人質含め一切巻き添えを食らっておらず、皆フロアに開いた大穴を呆然と見つめるのみだ。サカキは穴の端まで歩み寄ると、傍に転がっていた瓦礫をミュウツーへ蹴飛ばしながら横柄に命じる。
「ついでにオフィスに残っている職員も始末してこい。それが終わるまで戻って来るな」
 その態度はかつて自分を道具のように扱っていた総監達に酷似していた。すかさず応戦しようとしたミュウツーの足元に、ニドキングの放った鋭利な岩石が突き刺さる。
「聞いてなかったのか? ここにはまだ腕のあるトレーナーが残っている。それを叩けんようじゃ、人間への復讐なんぞ叶わん。ボールキラーが完成するまでは目を瞑ってやったが、今の貴様は弱者を弄んで満足しているだけの屑だ。実際は昼間に四天王を取り逃がし、安否確認を怠ってチャンピオンに勝ったつもりでいる――それで史上最強のポケモンだと? 笑わせるな!」
 ニドキングが作った広大な空洞において、その重々しい怒声は隅々まではっきりと響き渡る。総監室にいた人質を慄かせ、ロケット団を奮い立たせる中、敵意を剥き出しにしたミュウツーの周囲にはどす黒い念波の風が吹き荒れていた。
「順序が逆だ。俺に刃向かうつもりなら、まず結果を出してからにしろ」
 にべもなくサカキに吐き捨てられ、ミュウツーの憤怒の矛先がようやく指定された対象へ向けられた。こうも侮辱されては黙っていることはできず、まずはエレベーターへ叩き落とした赤毛を追わねばならない。ミュウツーはすぐにテレポートで消え失せ、その階に吹き荒れていた風がようやく鎮まり返る。
 それを確認したサカキは、ニドキングに岩雪崩を命じて下の階と繋がる即席の階段を作らせ、アポロに告げた。
「そこから下の階のエレベーターホールへ移動しろ」
「畏まりました。さすがサカキ様!」
 アポロは興奮を隠しきれない様子で部下に人質の連行を命じる。本部役員達と総監は無理やり立たされ、半ば引きずられるように岩の上を滑り下りて行った。デスクの中に詰め込まれた秘書は憔悴したまま放置され、構成員達も半分移動したところでアポロはこっそりとサカキに尋ねる。
「その右手、どうされたので……」
 ボールを取り出した際に覗いた右手は、見るも無残な青黒へと変色している。ポケモンによるものだろうが、これだけの手負いを与えられるのは裏社会の人間でもそう居るものではない。復讐心に歯をがちがちと鳴らすアポロを、サカキは素っ気なく追い返す。
「問題ない。俺はここで治療する。一人で構わん、先に行け」
 彼はそう言ってニドキングをボールに戻すと、総監室の棚の上に置かれていた救急箱を取って傍のソファに腰を下ろした。単独でも問題ないと断言されてしまえばアポロはそれに反発することはできなかったが、それでは煮えくり返る不満を解消できない。視界の端に連行されかけたカリンが目に留まり、腹立ちまぎれにその矛先を向けた。
「まさか貴様が……!」
 カリンは不意打ちの責任転嫁に目を見張ったが、その右手を見る限り毒ポケモンの仕業に違いない。口を噤んだまま、こちらを鋭く睨んでいるサカキの顔には痛憤が滲んでいる。下のフロアで居合わせた時と比べてあまり余裕は感じられず、毒の痛みと闇討ちの怒りを一刻も早く解消すべく急いているようにも思われた。その欲求を利用すれば仲間の仇討、あるいは脱出の糸口に繋がるかもしれない――そう考えたカリンは意を決し、含みを持たせた台詞を返す。
「そうよ、私がやったのよ。いいザマね。四天王を見くびるからよ」
 彼女は顎を少しだけ上向けて、精一杯の虚勢を張った。四天王のカリンと言えば女優顔負けの美貌に、多くの人間はメディア越しにしか拝めない存在。ところが現在、髪を崩し服も乱れた頼りない彼女の姿は捕獲前の弱りきったポケモンと似ていて、支配欲を掻き立てる。それでも強気に矜持を保とうとしている様はどこか艶めかしい。アポロの双眸は激しく揺らいでいたが、傍にいたサカキが無言で彼に退くよう睨んだので、察した彼は渋々下の階へ降りて行った。カリンの傍にいたアテナも彼女のモンスターボールを持って後に続く。しんと静まり返った総監室には一人の男女が残された。
 後ろ手に拘束されたままのカリンは、ぽっかりと穴の開いたエレベーターホールを気にしつつ、ソファに腰を下ろすサカキに尋ねる。
「優しいボス。部下の鬱憤を晴らし、ついでに逃亡ルートを作って昔の弟子を待ってあげるなんて」
 彼は沈黙を守ったまま慣れた手つきで右手を消毒、包帯を巻いていく。荒された総監室のカーペットは埃を含んで柔らかな質感を失っており、彼女はそこへぎこちなくヒールを踏み入れながら首領に接近する。恐怖を払拭できず胸の辺りが震えていたが、できる限り弱みを隠してさっぱりと微笑んだ。
「トドメを刺すから上がってこい、って言ってたの聞いちゃったの。本当ならリーグ本部を乗っ取って彼を後釜に据えようとしていたこともね」
 応急処置に没頭していたサカキが、ふいに手を止めた。
「あの屑は殺す」
 冷ややかで、激しい憎悪が滲む台詞には、既に過去の関係など断ち切っている様子が窺えた。カリンがその静かな憤りに怯み、返す言葉を探っていると、サカキは更に言葉を続ける。
「お前達が出しゃばったお陰で計画に支障が出てしまったが、もうこの地に未練はない」
 警察にビルジャックが知られた今、いつまでもビルに留まっているのはさすがのロケット団とも言えど劣勢になりえる為、高飛びを考えているのだろう。それも発射地点を滅茶苦茶に荒す酷い方法だ。カリンは肩を少しだけ持ち上げ、冗談っぽく首を傾ける。
「なるほど、身代金をいただいて他の地方で商売を始める、と。大胆な移転プロジェクトだわ。カントーとジョウトを引っ掻き回し、挙句人質を始末して飛び立つなんて、まさにロケットね」
 サカキは唇の端をほんの少し緩ませた。処置は済んでおり、彼は救急箱を脇に置きながら視線をカリンへと滑らせる。ピンヒールの爪先から始まり、彼女の外的魅力を吟味するようになぞる瞳には敵対心など霞んでいる。その欲求を引き寄せるように、カリンは伏し目がちに深い吐息を漏らした。ボールが取り上げられた今、自分はただの女だ。彼の意を察するようにソファへ近寄り、身体を前に傾けてサカキの顔を覗き込む。
「こうなってしまえば、プロの身分何て紙切れ同然ね……私もそこに同乗できるんでしょう。お借りしていたユニフォームをここに持って来れば良かったわ。メンズサイズしかなくて、脱いじゃったの」
 男の鼻先で微笑みながら首を傾げる姿はどこか愛らしくもあり、主との接触を待ちわびる従順な手持ちポケモンのようでもある。サカキの手が自然と影を落としたデコルテへと吸い寄せられ、指先がブラウスの開いた襟元に引っかかる。艶やかな絹地をすっと押し下げると、そこから覗くのは思わず触れたくなるような滑らかな膨らみ――に蓋をする灰色の防弾ベストだ。彼女に不似合いな野暮ったい格好に、サカキは眉を潜めた。
「我が組織の制服はアリアドスの糸を編み込んだ特注の防弾生地だから、無粋な鎧を着用せずに済む。こんな恰好は――」
 黒いストッキングを纏った艶やかな腿が首領の足に絡み、スラックスの上を滑ってカリンはサカキの膝に乗る。互いの吐息がかかる至近距離で、彼女は首領と額を擦り合わせながら挑発的に微笑んだ。
「辞めちまえ、って?」

鈴志木 ( 2015/01/16(金) 20:03 )