第17話:逆転タイムリー・ビハインド
システム部オフィスから一階下にあるサーバルームへ到着したマサキは、ポケモンバトルが繰り広げられていた通路の惨状に絶句していたが、室内に設置されていた精密機器は無事だと分かり、胸を撫で下ろしながら状況を確認する。システム部職員でまともに動けるのはマサキのみ、チェック作業すら多くの時間を費やしてしまうことにキョウは苛立ちを感じていた。片耳に装着したイヤホンからはシバとカリンの戦況が絶え間なく流れてくるが、ワタル達からの報告は三分前から途切れており、それも彼を悩ませる。
ふいにマサキが歓喜の声を上げ、キョウの隣にいるクロバットを向いた。
「よっしゃ。ボールキラーっちゅう癌のプログラムを取り除き、いくつかの配線を直せばネットワークが復旧した際にシステムを元通りにすることが可能や! 大していじってないみたいで良かったァ……通信が息を吹き返す前に全部直すで! 待っててな、クロバットちゃん」
彼は壁際のキャビネットに駆け寄り、早速予備のケーブルなどを用意する。この空間にひしめく数百のサーバをマサキ一人で復旧させるには膨大な時間を要すことだろう。キョウはケーブルが切断されたサーバのランプやビープ音を確認すると、うんざりと息を吐きながらマサキに尋ねた。
「配線図あるか? 線を引き直す程度なら手伝うぞ」
「おおっ、助かります。この部屋の中は二重床になっていましてね。パネルを開けると、下にケーブルが這ってます。後はワイが一つ一つ確認していくんで」
マサキが吸盤器を使って床のパネルを一つ開けると、その穴の先には無数のケーブルが整然と並んでおり、いずれもどこかの機器に繋がっていた。アリアドスのワイヤー状の糸を利用しよう――とキョウがスーツのベルトから蜘蛛の入ったボールを取り外すと、片耳に差したイヤホンが上階の動揺を伝えてきた。どうやら屋上突入組からの応答が完全に途絶えてしまったらしい。カリンが無線越しに尋ねてくる。
『ねえ、ワタル達は大丈夫かしら? クロちゃんで確認してくれない?』
彼はすぐに作業を止めてサーバルーム出入り口の扉を開くと、扇子の音を使ってクロバットをそちらへ誘導しながら話を続ける。
「そうだな、一度見てきた方がいいかもしれん……お前達は今何階だ?」
『こっちは今、六十一階。驚くほど順調よ、階段で移動しながら一つ一つ潰していくのが面倒なくらい。全く張り合いがないわね。テロリストにもリーグみたいにバッジの保有数で挑戦権を与えるべきだわ――バンギラス、そこで冷凍ビーム』
ヘリで侵入した際の、ガラスが割られた大きな窓からクロバットを外へ出すと、上階で窓が割れる音がしてサーチライトに煌めくガラス片が降りかかってきた。カリンの指示とほぼ同じタイミングだったから、バンギラスの技によるものだと見て間違いないだろう。キョウは巻き添えを食らったクロバットの頭からガラス片を払いのけると、窓から顔を覗かせながら上階向けて舌打ちする。
「それはいいアイディアだ。いっそ戦いの舞台をスタジアムに移すべきだな。そうすれば仕事になって、金まで取れる」
軽く嫌味の混じった冗談に、六十一階にいたカリンは余裕たっぷり微笑んでみせる。
「あら素敵、最高のショーになるじゃない。テレビとラジオ中継、それと観戦用のお酒も必要じゃないかしら」
そして対峙していたアテナのヤミカラスを、バンギラスの拳一振りで戦闘不能にさせた。これで六十一階フロアに立っているポケモンはプロ側のみ。鍛え上げられた格闘及び悪ポケモン、そしてSAT隊員らに囲まれアテナは襟元に装着していた小型無線に縋り付く。
「アポロ、四天王は私の手に負えないわ! 奴らどんどん上に攻めてきて……現在、六十一階に到達! 応援を要請する!」
一方的に捲し立てると、アテナは無線を装着していた上着ごと脱ぎ捨て軽装になり、懐に忍ばせていたボールを放り投げた。彼女の部下は既にカリンとシバによって銃火器を奪われ手持ちも底を尽きかけており、孤軍奮闘するしかない。それをアシストするのはラフレシアとアーボックである。蛇は腹に描かれた凶悪な模様を見せつけて周囲を威嚇したが、バンギラスは怯むことなくしっぺ返しを食らわせ、相手を圧倒した。
「悪いけど、身内にアーボック使いがいるから模様で威嚇するのはもう見慣れちゃったわ。覇気で威圧すれば?」
鼻で笑うカリンの無線イヤホンにその主からの呆れたような溜め息が漏れる。アテナは苦し紛れにラフレシアを嗾けた。
「ふん、そっちは囮だ!」
すぐさまラフレシアの花弁が膨れ上がり、渾身の毒花粉が放出されようとしたが、先に動いたシバのエビワラーが炎のパンチでそれを制する。花粉を焼き尽くし、そのまま拳をボディへと振り下ろしてノックアウト。
「アテナ様、お下がりください!」
すかさずアテナの部下が声を張ると、倒れたラフレシアを蹴飛ばして水を纏ったマリルリがエビワラーの腹へ突進する。シバの「応戦しろ!」の声に反応し、パンチポケモンは咄嗟にカウンターを試みたがマリルリはそれを涼しい顔で受け流し、エビワラーを突き放した。
「フェアリーか」
拳の威力はいまひとつ。察したシバがカリンと顔を見合わせる。フェアリーは二人の専門属性が苦手とするタイプだ。
「お前らはコイツで十分……」
ロケット団の男が高笑いを上げようと息を吸い込んだ直後、エビワラーが前に飛び出し大きく身体を捻りながらマリルリの眉間に鋼のパンチを叩き込んだ。新幹線に匹敵するというパンチスピードとコンクリートを粉砕するパワーが融合した一打は並のポケモンが受ければもう立ってはいられない。水うさぎポケモンはあっという間に通路の奥まで吹っ飛ばされ、消化ホースを収納する金属扉に激突して自ら試合終了のゴングを鳴らした。
「おれ達の試合を観ていないのか。さして苦労はしとらんぞ」
呆然と立ち尽くす部下と並び、アテナは舌打ちしながらプロ参戦の綻びを生んだ者へ恨みを擦り付けた。
「バレットパンチであの威力。プロとアマじゃ実力が違いすぎる……最初に四天王を一人、組織に引き入れようとしたボスの提案に従っていれば計画が狂うこともなかったのに、アポロが余計なことをしたからこうなったのよ」
それを聞き、カリンは数時間前のタワービル脱出前に見張りのロケット団員から聞いた話を思い出した。彼女は無線に問いかける。
「らしいわね。オジサマ聞こえてる? ロケット団はこのビルを占拠した後、貴方を役員にして商売を続けようとしていたらしいわよ。カモフラージュってやつ?」
無線の先でキョウの息遣いが止み、彼が不穏な反応を見せていることを二人は察した。
「お前、声を掛けられていたのか?」
シバが尋ねると、同僚は少し間を置いて『いいや』とはっきり告げる。その答えに安心したシバは、長く息を吸い込んでアテナを一喝した。
「プロの資格を軽んじるなど断じて許さん! 我々はポケモンバトルに命を賭している!」
「暑苦しいわね。トレーナーってのはちょっとポケモンの扱いが上手いだけで、どうしてこんなにもヒーローを気取ろうとするのかしら。偉そうにするのはフィールドの上だけにしていた方が身の為よ」
アテナはシバの怒声をうんざりと払いのけると、傍にいた部下のウエストバッグから手榴弾を三つ抜いてエビワラーの前へ放り投げた。パンチポケモンが拳で弾き返そうと果敢に踏み出たのを見て、彼女はマシンガンの銃口をそちらに向ける――エビワラーはその動きを捉えつつ、傍にいたバンギラスへ視線を滑らせた。ここ最近、シバの格闘ポケモンと訓練を重ねていた鎧ポケモンはその意図をすぐに察し、両手を広げながら銃火器の射程圏内へ躍り出ると、宙を舞う手榴弾を抱え込んで爆炎を腹に閉じ込め、マシンガンの弾丸を両肩で防ぎきった。バンギラスは元々どんな攻撃にもびくともしない身体を持っていると言われており、この程度の武器は通用しない。
カリンは腹を掻くバンギラスの頭を撫でてやりながら、愕然とするアテナを鋭く睨みつけた。
「許可が下りればここはバトルフィールドよ。ポケモンを持ってセキエイに喧嘩を売りに来たトレーナーを迎え撃つ――それが、リーグトレーナーの役目なの。分かる? 負けたらとっとと退散した方が潔いわよ」
ここはスタジアムには程遠い、エレベーターホールから伸びる幅五メートルの通路だったが、カリンとシバ、そのポケモンであるエビワラーとバンギラスが立っているだけで試合さながらの臨場感を生み出していた。その気迫に奮い立たされたSAT隊員らも、アテナ達ロケット団へ武器を向ける。
「さあ、これ以上の抵抗は辞めろ!」
アテナが唇を噛み締める。戦闘はプロ有利に運んでおり、それを実感した彼らは流れを掴んで離さないことだろう。このような相手には、同等の実力を有するトレーナーをぶつけるしかない。果たしてアポロの援護程度で状況を覆せるだろうか――一抹の不安がよぎるアテナに、勝利の女神が加護の鐘を鳴らしてくれた。素っ気なく、ちん、と一度だけ。
SAT隊員達が背にするエレベーターホールでその音がして、灰色の扉が幕を切るように両側から開いていく。しんがりにいた隊員がいち早く反応してそちらを向いた途端、フロア全体が大きく振動して人々の膝を折った。ビル全体を揺さぶる大地震は日頃バトルフィールドで同様の技を体感しているシバやカリンですら立っているのも困難で、場が大混乱に陥る中、いち早く敵の存在を認知したのは十六階下のフロアにいたキョウだった。
『シバ、カリン! 持っているボールを全て解放しろ!』
その鬼気迫る怒声に弾かれ、シバとカリンがスーツのベルトに装着していたモンスターボールに手を掛ける。だが、エレベーターから現れた刺客の動きは彼らよりずっと早かった。
「いわなだれ」
存在感のある声音の後に現れた大山の如きカバルドンが、その大きな口から四方八方へ岩石を発射し床に崩れ落ちたSAT隊員らを狙う。マシンガンさながらの散弾投石はターゲットを確実に蹴散らし、通路の窓を残らず割ってしまうと、重量ポケモンはさっと首を動かして前に飛び出し、眼前へ襲い掛かるバンギラスの首筋に牙を突き立てた。鮮やかな先制攻撃にバンギラスは反応できず、その一撃で床に崩れ落ちる。するとその背後から、カリンが放ったラフレシアが花弁を瞬かせながら飛び出してきた。
「ラフレシア、ソーラービーム!」
カバルドンの反対側でも、シバのエビワラーが腕を振りかぶっている。二体による同時攻撃だが、カバルドンのトレーナーは余裕たっぷり吐き捨てた。
「邪魔だ」
カバルドンが低く構えた身体を翻すなり、甲羅に無数積まれた砲台から空気砲が発射され、的確にラフレシアとエビワラーを撃ち抜いてフロアの壁へと吹き飛ばす。その際通路を駆け抜けた突風が、カバルドンの背後にいた男の背広を控え目にひらめかせた。後ろへ撫でつけた艶やかな黒髪に、鍛え抜かれた身体に纏う上品なダブルのスーツ。研ぎ磨かれた刃物のように鋭い眼光がシバとカリンを睨み据えると、戦い慣れたプロトレーナーにすら畏怖を植え付け、激しい揺さぶりをかける。通路の隅で身を寄せ合い、この男の登場を喜ぶロケット団員とは対照的な光景だ。
「お前は……」
昨年、この男と対峙した経験があるシバはその名を紡ごうとしたが、相手は拳銃を構えるとそれをかき消すようにカリンの心臓を撃つ。防弾ベストを着用しているため貫通は防いだが、不意打ちの衝撃は肋骨にヒビを入れ、彼女を気絶させた。「カリン!」と驚愕するシバに対し、男はやや不本意とばかりに眉を持ち上げ、倒れ込んだカリンの頭の方向へ銃口を滑らせる。
「防弾ベストを着こんでいるのか」
再びトリガーに指を掛ける容赦ない動作。いち早くカリンを狙ったのは彼女の容貌を見てのことだろう。先に潰すならシバやポケモンより、高いヒールを履いた華奢な女の方だ。トレーナーの規律さえ飛び越えた鬼畜の所業にシバの身体はたちまち熱を帯び、憤怒の怒声を放った。
「貴様ァ! それでもトレーナーか!」
それは電撃のように通路内をびりびりと震わせたが、男は冷血な相好を少しも崩すことなく頷いた。
「ああ。免許は捨てた」
愚直で戦いに生きてきたシバには理解しがたい言動だった。この男はかつて世襲に反した最強のジムリーダーだと謳われていたはず、そこに至るには血を吐く努力を重ねてきたことだろう。築き上げたその誇りを、自ら容易く捨てられるなんて――言葉を失うシバに同僚が現実を押し付ける。
『マフィアにモラルを求めてどうする!』
シバがカリンの名を叫んだ時点で、十六階下にいたキョウも動いていた。ベトベトンを野球ボール大に縮小し、配線用に繰り出したアリアドスの糸に巻きつけさせると、窓の外から勢い良くビルの上空へ投げ放つ。それでも三階程度しか浮き上がらなかったが――背後から音もなく飛んできたクロバットがそれをかすめ取り、シバのいるフロアまで急上昇、ガラスの割られた窓の中へその“黒い塊”を投げつける。
「クロバット、シャドーボール!」
蝙蝠が狙うのは超音波で察知した、主のかつての師が立つ場所。彼は昔のようにグリーンバッジを装着していなかったが、あの特異な佇まいは弱視のクロバットでもはっきりと認識することができた。これまでの悔恨を込めて渾身のストレートボールを投じると、毒を纏ったベトベトンが軌道を修正しながら男の手元へ着弾、鉄の拳銃を叩き落とし、その身を瞬く間に錆びつかせた。
強烈な臭いを放つ毒素の強い体液は当然人体に触れても有害で、つい先ほどまで拳銃を握っていた男の甲を真っ青に変色させている。恐らく相当な激痛が走っているはずだが、彼は奥歯を噛み締めながら口角を上げ、嬉しそうにこう言った。
「ターゲットがよく分かっているじゃないか」
目を合わせてしまったベトベトンは思わず硬直する。トレーナーの範疇を超えた男の双眸は、八年近く前に主が彼と最後に対峙した時から何も変わっていなかった。彼のバトルルールの勝利条件は、相手ポケモンの気絶ではなく息の根を止めること。男がすっかり黒ずんだ掌でベルトに装着していたモンスターボールを床へ弾くと、そこから現れたガルーラが小型化したベトベトンを踏みつけようとする。
そこへすかさずシバが繰り出したルカリオが現れ、波動弾でガルーラの膝を撃ち、体勢を崩したところを発勁でトドメを刺した。
「キョウ、礼を言うぞ! これでカリンが狙われることはない――攻めろ、カポエラー!」
ルカリオと入れ替わるようにカポエラーが現れ、身体を回転させながらカバルドンへ切り込んでいく。次々と発射される岩石をトリプルキックで砕きながら、広い眉間を踏み台に背中を取って脇を狙う回し蹴り。テクニシャンのキックは的確に相手の急所を狙い、増大した威力は先ほどまで優位に立っていたカバルドンの顔に影を落とさせた。それを見たシバは勝負の流れが変わったことを確信するが、その慢心を見通した同僚が無線の向こう側から釘を刺す。
『おい、ベトベトンを嗾けたのはバトルを援護するためじゃないぞ! その狭い通路で地面タイプと戦うには多くのリスクが伴う、カリンを抱えて窓から飛び降りろ! アリアドスにネットを張らせて受け止めるから――』
「駄目だ! 勝負の最中に相手に背中は見せられん! こんなトレーナーの風上にも置けんような男には特にだ!」
男の危険性はハナダの洞窟で対峙した際によく理解していたし、彼の弟子であるキョウも事前に警告していた。が、シバはポケモンバトルの秩序を根本から覆す、この男を何としてでも討ちたかった。彼はルカリオを気を失ったカリンの傍へ走らせつつ、再びカポエラーを差し向ける。
「行け!」
カポエラーは床を蹴り、身を捻って勢いづけながらカバルドン目掛け力一杯のけたぐりを食らわせる。遠心力のパワーを生かした鋼鉄の一撃はカバルドンの頬に命中し、腹に蓄えている砂を吐かせたが――相手は元プロが育成したポケモン、足を振り切る前にその場に踏みとどまり、カポエラーへ果敢にのしかかってマウントを取った。男が左へ三歩移動しながら短く告げる。
「地割れ」
するとフロアがまた大きく振動してカバルドンの立ち位置から通路がひび割れ、その隙間から直下のフロアへカポエラーを叩き落とした。シバはすかさずポケモンをボールに戻そうと腕を伸ばしたが、そこへカバルドンが背に担いだ砲台を向け岩石を発射する。岩はシバの右肩へ突き刺さり、彼は床へ倒れ伏した。その際、ベルトに装着したボールが一個外れて傍に転がった。
『おい、どうした!』
転倒時に外れた無線が頭の先に落ち、そこからキョウが心配する声が聞こえる。状況を伝えなければ――シバは激痛が支配し、自由が利かなくなった身体を動かそうと歯を食いしばったが、視界の先にカリンを守りながらも主の負傷に混乱するルカリオを見て対応を変えた。
「ルカリオ……カリンを抱えて窓から飛び降りろ!」
ありったけの声量が肩の傷をびりびりと刺激する。それでも仲間の安全が優先だ――その指示に突き動かされたルカリオが、カリンを軽々抱えて壁を蹴り、ガラスを取り払った窓枠の前へと飛び上がる。だが、その隙だらけの背中をカバルドンも見逃してはくれなかった。シバを撃ったばかりの大砲が、素早い動作でルカリオに向けられる。
このままでは共倒れになる、その前に――「邪魔はさせん!」シバは唇を噛んで激痛を振り払うと、額を床に擦り付けながら傍に転がっていたモンスターボールを跳ね上げた。乱暴に押された開閉スイッチが作動し、中から飛び出してきたオコリザルが素早いパンチでカバルドンに迫る。
ルカリオ脱出までに拳は届く。
そんなシバの確信は、カバルドンの背中から四方八方へ放たれた無数の鋭利な岩石によってずたずたに引き裂かれた。その技、ストーンエッジは鍛え抜かれた格闘ポケモンらを嘲笑うように撃ち落とし、窓枠を破壊して外にいたクロバットを牽制すると、呆然と床に伏すシバを無慈悲に狙う。
岩がこちら飛んでくる寸前、傍で同僚の声がした。
「おい、シバ! どうなってる、応答しろ!」
十六階下にいたキョウは仲間の無線が外れているとも知らず、窓から顔を覗かせがなり立てる。空から降ってくるのは鋭利な岩石やガラス片ばかりで、肝心の仲間からの連絡は一切入らない。報告を怠るバトルマニアに苛立ちを募らせ、無線を叩きつけたい衝動に駆られた時――ようやくそれは応答した。
『久しぶりだな、死にぞこない』
耳慣れた声音が、キョウの聴覚を震わせた。あまり鮮明でない端末においても良く通る、悠々とした確かな声はその主のポケモン同様大地のように不動だった。
「サカキ……」
この男が無線に出たことで導き出される結果は絶望だ。キョウはひどく動揺しながらも、なんとかもう一言繋ごうとした。だが、かつての師は昔と変わらず素っ気ない。
『トドメ刺してやるから早く上がってこい』
サカキがそれだけ告げると、直後に耳を劈く破壊音がして無線は途切れた。彼の重厚なポケモンが踏みつぶしたことは想像に難くない。耳朶への衝撃はやがて身体全体へと広がり、指先まで慄かせた。高層階の窓から吹き込む夜風は初夏といえども肌寒く、防弾ベストとスリーピースで覆った傷を刺激する。こんな手負いで戦えるのか――迷いが脳裏をよぎったが、死ぬ気で戦うと決めたはずだ。彼はベルトに固定していたボールを取り外し、手持ちの意志を確認する。
「ケリを付けるぞ」
サカキに勝つ、とは明言しなかったが、長年の戦友達はその意図を汲み取っていた。誰もが主と心中覚悟、傍にいたアリアドスを伴い、あとはビルの外から内部の様子を窺うクロバットを呼び寄せるのみ。キョウが懐から扇子を取り出すと、窓の向こうから蝙蝠の影が見えてその手間を省いた。彼女はキイキイと喚きながら、耳を動かして上空を示し主人に必死で何かを伝えようとしている。キョウがそちらへ視線を向けた途端――空から大男と三匹の格闘ポケモンが降ってきた。
「アリアドス!」
彼が反射的に声を上げると、アリアドスはすかさず糸を吐いて気絶したシバとそのポケモンを絡め取る。落下は止まり、彼らは四十三階の窓の外で宙吊り状態になった。だが、この蜘蛛の糸がワイヤーに相当する強度を誇っているとはいえ、体重三十三キロ程度のアリアドスがシバと数匹のポケモンを引っ張り上げるには不可能にほど近い。重さに負けた身体が窓の外へ持って行かれそうなところを、キョウと彼が繰り出した十匹近くの毒ポケモンで食い止めた。だが彼らは特別腕力に優れている訳ではないし、その半数は皮膚に強力な毒を持っているため、あっという間に蜘蛛の糸は腐食する。
「駄目だ、千切れる……半分退け!」
鶴の一声で綱引きに残ったのはスカタンクとアーボック、ペンドラーで、他が散った途端に彼らはぐんと窓の外へ引き寄せられた。キョウも先頭で同僚達を引っ張り上げようとするが、両手に糸が食い込む痛みと腹の傷が悪化していく感覚しか得られない。もっと力のあるポケモンを持っていたら――絶望的な状況の中、頭をよぎった後悔がヒントに繋がる。
「クロバット! シバのベルトからボールを持ってこい!」
宙吊りになって気絶しているルカリオの懐に潜り込み、下から支えていたクロバットがそれに弾かれるように翼を切り返す。彼女は威力を弱めたエアスラッシュでシバのベルトからモンスターボールを一つ弾き飛ばすと、そのまま大きく弧を描くように飛行しながら二階上の窓を狙って、額を使ったスマッシュを放った。回転がかかったボールは緩やかな軌道で窓の中へ飛び込み、主の赤く変色した左手の中へ収まった。
キョウが即座にスイッチを押し、その場に召喚したポケモンはシバの相棒カイリキーである。リハビリを終えていないポケモンが選ばれた不運をキョウは悔やんだが、怪力ポケモンはどこ吹く風だ。足を踏みしめ、一本で山一つ動かすと言われる腕でアリアドスの糸を後ろへ引くと、二階下で宙吊りになっていたシバとルカリオ、オコリザルが軽々と浮き上がって窓の中に着地した。一本釣りを彷彿とさせるカイリキーの腕力は、日々のリハビリを経て既に万全に近い状態である。
「さすがだな……もう本戦に登板できる状態じゃないか」
キョウが毒ポケモンと共にカイリキーを仰いでいると、酷い手負いのまま気を失っていたシバが突然身を起こした。
「カリンが危ない! 上に戻らねば!」
彼は土埃にまみれた大きな身体を揺らしながら、エレベーターホールへと向かって行く。あちこちから水漏れのように赤い筋が垂れており、その姿は見るからに痛ましい。茫然としていたキョウが我に返って後を追う。
「その身体でサカキに勝てると思ってるのか!?」
するとシバは急に足を止めて振り返り、赤い唾を吐きながら絶叫した。
「勝つしかない!」
その咆哮はプロとそのポケモンしかいない通路を震わせ、反論を阻む力があった。規律通りには戦っていられないこの状況においても、彼の双眸にはこれまで正々堂々と戦ってきた戦士の矜持が宿っている。シバは背広の袖で口元の血を拭うと、そのまま上着を脱ぎ捨てた。
「このままあの下種の前に引き下がれば、ポケモンバトルに生きる格闘ポケモンの命は終わる」
吹き込むビル風に上着がシバにまとわりつくようにはためいて、通路の隅に落下した。上着の下に着ていたワイシャツはあちこちに赤茶けた染みを作っているのに、彼はまるで気にしない。ネクタイを外し、傍に立つカイリキーに一言尋ねた。
「戦えるな」
勿論相棒は無言で頷き、主人の後に続く。満を持しての同意に、キョウはそれ以上引き止めることも出来ず、呆れと敬意を混ぜた溜め息を吐いた。シバはシャツのボタンを外しながら彼に頼む。
「応急処置してくれ。お前のポケモンなら緩まない包帯も、怪我の痛みを誤魔化すこともできる」
「お前がここまでバトル馬鹿だとは思わなかったよ……」
キョウは左手を仰いでドラピオンとアリアドスを呼び寄せると要求通りの処置を行う。鎮痛剤として漢方にも用いられるサソリの毒で痛みを和らげ、その上から包帯の幅に編んだ蜘蛛の糸を巻きつけると、容体はいくらか改善された。彼はキョウの肩を叩いて礼を言う。
「ありがとう、助かる。お前は連絡がないワタルやイツキの安否確認をして、場を立て直してくれ。よろしく頼むぞ」
ついて来るなと言わんばかりの台詞だが、揃って万全の状態ではないため、その言い分に従った方が得策だろう。キョウは唇の端を噛み締めた。
シバは再び着用したワイシャツの背中を同僚に向け、カイリキーと共にエレベーターホールへ歩み出す。ペースを早めたリハビリ明けのカイリキーをこの場に駆り出すことはおやとして不本意で切り札として残したかったのだが、戦える手持ちが少なく、圧倒的な敵を認識した今、相棒の存在は何より頼もしい。
彼はカイリキーと視線を交わした後、並んでいたエレベーターのうち、徐に選んだ一基のボタンを押す。だが、ボタンのランプは点灯しないし、籠の現在階を示すディスプレイも消灯したままだ。不思議に思いながら扉にはめ込まれたガラスの中を覗き込んだ途端、シバは吃驚の声を上げた。
意識を取り戻したカリンの前に砂塵と絶望にまみれた景色が広がる。
気絶したバンギラスに寄り添いながら何度瞬きしても、それは変わらない。床に伏したSAT隊員らは安否も分からないし、形勢逆転を受けてロケット団隊員らは水を得た魚のように活動的だ。
「あの女、どうします? 殺すにゃ勿体無い」
遠くから聞こえる下品な声がカリンの耳から耳へ抜け、ひしゃげた枠だけになった窓の外へ飛んでいった。高層階の冷たい夜のビル風がカリンの垂れ下がった長髪を揺らす。胸の痛みから目を覚ました時、真っ先に視界に飛び込んできたのは満身創痍のシバとそのポケモンが窓から投げ捨てられるまさにその時だった。彼はなすすべなく六十一階の窓の外へ消えていき、今だその事実は飲み込めない。勿論、反射的にドンカラスのボールを上着の裏で掴んでいたのだが、傍にいたあの男の眼光がその動きを制した。
今も尚、召喚されていない手持ち達が傍に呼んでくれとボールの中から懸命にカリンを揺さぶっている。それは分かっている。分かっているのだが。
「ボールを取り上げて連れて行きましょうよ、サカキ様」
アテナが散らばる岩石を蹴ってこちらに歩んでくる。ここで逃げなければ最悪の結果が待っている――ヘルガーが身体を打ちつけるようにボールを揺すろうとも、それを呼び出す気にはなれない。きっと、あの男の前には全滅してしまう。ヘルガーならば、尚更分が悪い。
「あんたって見た目だけは良いから、うちの組織でもファンが多いのよ。ロケット団に来るなら命だけは助けてあげる」
アテナはカリンの身体に腕を回してやや乱暴に彼女を立たせると、先ほどの侮蔑などさっぱり忘れたかのように唇の端を持ち上げる。ここまでされても、カリンには取り繕って嫌味の交じった返事をする余裕もなく、胸に走る激痛を堪えるのみ。今この場に意識を保っている自軍の人間は自らを覗けば一人も居ない。スーツの裏側に忍ばせた手持ちポケモンだけが頼りだが、目の前でこちらを睨むカバルドンと、背広の砂ぼこりを払っているロケット団首領の前に勝機が見出せない。負けてしまえばシバのように命さえ危ぶまれる。既に手負いのカリンは捨て身の抵抗を選ぶことができず、状況の好転を祈ることしかできなかった。最も、サカキになびいた勝利の女神には倫理観など関係ないのだから期待も望み薄だ。
彼女は悔しげに歯噛みしながら、エレベーターホールへと踵を返すサカキの背を睨み付ける。シロガネ山の主峰を思わせる荘厳な佇まいは、その峰々と同様このリーグ本部ビルを包囲し圧倒していた。