第16話:衝突
空が闇に染まるにつれ、シルバーの自信も徐々に不安へと変わっていった。時間の経過と共に基地局周辺を取り囲む機動隊は増え、サーチライトがこちらを照らす。暗転した舞台上でふいにスポットライトを受けた注目ぶりだが、誰も称賛など向けていない。飛んでくるのはヘリからの拡声器による荒々しい叱責ばかり。
『ルギアと思しきポケモンのトレーナー、破壊活動を辞めて大人しく投降しろ!』
シルバーは身をすくめたが、すぐに気を取り直してルギアを嗾ける。
「うるせえ! ルギア、エアロブラスト!」
ルギアは怒鳴りつけたヘリ目掛け、空気を震わせながら渾身の真空波を放とうとしたが――すかさず目の前に立ちはだかった巨大な鳥が、ルギアの身体を吹き飛ばして技を妨害した。シルバーはポケモンの首にしがみつき、振り落とされぬようなんとか持ちこたえたが、その威力は絶大で数十メートル後方の基地局ビル上空まで押し戻されている。現れたのは年の近い少年を乗せたピジョットで、首から緑のカンテラを下げていた。エメラルドの光が煌々と照らすトレーナーの顔はシルバーも見覚えがある。元チャンピオンにして現在トキワシティジムリーダーを務めているグリーンだ。
「ルギア様の独壇場もここまでだ。元チャンピオンのジムリーダーが相手してやるよ――って、トレーナー子供じゃん。何やってんだ、お前!」
得意げに胸を張っていたグリーンは、シルバーの幼い顔立ちに目の色を変える。
驚いているのは年齢だけで、シルバーが今年バッジレベル4のジム戦に挑んだ際の記憶は風化しているようだ。ジムリーダーは一日何人ものトレーナーを相手しているのだし、半端な難易度の敗者など印象に残らないのは当然なのだが、それはシルバーの苛立ちと焦燥を掻き立てた。
青くなって震えているシルバーを不審に思ったグリーンが彼に目を凝らしてみると、襟元のバッジが照明にきらりと反射する。グリーンは度肝を抜かれた。
「それ、オレのジムのバッジじゃねえか! お前、オレに勝ったトレーナーか? ルギアなんて持ってたら忘れるはずねえんだけどな……」
遠目から見ると、グリーンの襟に装着されている羽根型のジムバッジに酷似している。だがジムリーダーのグリーンはそれを付与した記憶がなく、ピジョットと顔を見合わせながら首を捻った。シルバーの年齢から推測するに前任時代に取得した物ではないだろうし、グリーンは自身がリーダーに就任してから負かされたトレーナーの顔を忘れたことはない。
「後で一緒に敗因の考察をしてるから忘れるはずねえよな、ピジョット。おかしいな……」
グリーンにとってどのバッジレベルでも敗北ほど悔しいものはなく、試合後には必ず時間を取ってポケモンとのミーティングを行っていたから就任から現在まで、黒星を付けられたトレーナーの顔はもれなく覚えているつもりだった。首を傾げるピジョットも記憶してないから妙な話である。
そうやってポケモンと一緒に考え込むグリーンの姿は、必死でルギアにしがみ付くシルバーの妬心を煽る。こちらのポケモンは命令こそ従うが、それ以外の信頼関係など無いに等しい。素っ気なくドライで、ヒーローの相棒と呼ぶには程遠い仲だ。アンズとモルフォン、ワタルとカイリュー、そしてグリーンとピジョット――立て続けに厚い絆を見せつけられ、シルバーは一層惨めになり、衝動的に襟元のバッジに手をかける。
「これは、ジムバッジじゃねえよ! ルギアが居れば、今までの屈辱を晴らすことができる……ルギアが居れば!」
彼は羽根型のバッジを衣服から引き千切り、ビルの谷間へ投げ捨てた。安っぽい光沢を持つ英雄の証が、夜闇に瞬く虹色の明かりの中へ吸い込まれていく。ランスは軽蔑するだろうがシルバーに未練はない。
「ルギア、あいつにエアロブラストだ!」
と、声を荒げた途端――ルギアがタマムシ市内に轟く咆哮を上げ、全身から真空波を放出しシルバーを背中から引き剥がした。少年は身体に付いた虫を払うように軽々とビルの上空へ投げ出され、基地局屋上に落下する。一体何が起きたのか、シルバーは理解できなかった。全身のあちこちをコンクリートに打ち付け、鈍い痛みが這い寄ろうとも思考は状況の把握を優先する。彼は埃塗れであちこち擦り切れた顔をルギアに向けた。ポケモンは今までにないほど冷酷で、そして心から軽蔑するような眼差しでシルバーを見下ろしている。それはこの薄暗い夜の空においてもはっきりと捉えることができ、少年はこの光景に既視感を覚えた。この構図、どこかで見たことがある。
(タンバの資料館で見た昔の絵にこんなシーンがあった)
海上に現れた海の神に慄く愚かな民衆の図――あれに酷似している。それでシルバーはルギアの心情を察した。最初からそういう目で見ていたのだと。ピジョットに乗ってこちらへ接近してきたグリーンの問いが、それを確信に変えた。
「おい、大丈夫か! お前、レベル8相当のグリーンバッジを持ってるっぽいのにポケモンを手懐けてなかったのかよ。バッジの力で無理やり従えさせてたのか?」
なるほど、あのバッジは単にポケモンを服従させるための道具だった。つまり自分は最初からヒーローなどではなかったのだ。シルバーはようやく気付いた。
(オレやっぱ、そこら辺のトレーナーと同じだったんだ……)
瞼へ込み上げる熱より早く、シルバーの目尻にぽたりと雫が落ちて頬を伝う。雨だ。それも意図的な。ルギアが雨乞いを始めたのだと理解して顔を上げると、淀んだ闇の雨雲が夜空を覆っていた。湿った風がシルバーの喉を締め付ける。
「やっべえ……誰か、応援!」
ただならぬ雰囲気に、グリーンが急いで無線にがなり立てた途端――タマムシシティをすっかり洗い流すような集中豪雨が襲い掛かる。激しい嵐がピジョットを揺さぶり、グリーンはそれにしがみ付きながら一旦ビルから離れた。叩きつける雨粒に翻弄され、ルギアと距離を詰める事さえままならない。激しい雨にヘリも撤退し、眼下に広がる街も騒然となり、既に冠水している路地もあった。僅か数分の間でこの光景――グリーンはずぶ濡れになりながら息を呑む。海の神の怒りは、旧約聖書の洪水を再現するつもりらしい。
未曽有の嵐が居座るタマムシシティに対し、同じくテロが発生していたコガネシティの基地局ビルには半年早い冬が訪れていた。屋上の通風ダクトから放たれた絶対零度の冷気はたちまち建物内を支配し、そこから忍び込んだオニゴーリとフリージオが空気中の水分を凍らせてテロリストを残らず拘束、その間に若手トレーナーと機動隊が人質を解放する。僅か三十分足らずの救出劇に、ヤナギは屋上で白い溜息を吐いた。
「ホウオウはどこへ行ったのか知らんが、それ以外は肩透かしだな」
そう言って傍にいたユキメノコへ視線をやると、彼女も同意しながら水色のコートを差し出してくれる。悠揚な態度に、サポートとしてついていたシジマは寒さに身震いしながらベテランリーダーをふり仰ぐ。補助とは名ばかりの役割だった。
「さすが……僅か半時間でテロリストを捕えてしまうとは」
「バッジを使って身の丈に合わないポケモンを操っていたようだから、指示も単調で取るに足らんな。私はセキエイに急ぐことにする」
ヤナギは袖を通したコートをひらりと翻し、ユキメノコを引き連れ出口へと向かおうとしたが、SATから受け取った無線が人質救出に当たっていたマツバの報告を受信したので歩を緩めた。
『ヤナギさん。いくつかシステムが停止していますが、ビル内の安全が確認できましたので、これからネットワークの復旧作業を急ぎます! それで、この寒さもう少しなんとかなりませんか。これじゃ電源が動かないと局の人が……』
「炎タイプの技で暖を取りたまえ」
すがりつく声をぴしゃりと振り払うヤナギの返答を耳にしたシジマが、目を輝かせモンスターボールを掲げた。
「よっしゃ、うちのエンブオーの出番だな!」
ジョウト地方のジムリーダーに炎使いはおらず、この状況を改善できる者は限られている。シジマはようやくやってきた出番に胸を躍らせながら、ヤナギの後に続こうとした。
その直後――とうに日も落ちた初夏の夜空が、舞台照明を一斉に点灯したように輝き始める。SATのヘリがサーチライトでも照らしたのかとヤナギは一瞬錯覚したが、太陽に匹敵する光度は機械で生み出せる限界を超えている。これは恐らくポケモンだ。それも並外れた力を持つ――そう確信した時、人間の男の声がした。
「神は言われた。『光あれ』――こうして光が生まれ、そこから一匹のポケモンが誕生した」
振り仰いだヤナギの視線の先にいたのは、ジバコイルの上に猫背気味に胡坐をかき後光を背負った黒づくめのトレーナーだ。男は仏を冒涜する姿勢のまま、語りを続ける。
「しかし……神はそのポケモンをきちんと厳選していなかったので、クソ個体の創造ポケモンによる不平等な世界が生まれてしまった。ポケモンだけ上手い、右も左も分からねえクソガキがドヤ顔しながらシルフに乗りこんで来たり、老害がいつまでもチョウジジムでふんぞり返ってる、このトレーナー社会がその好例だ! ファッキン・アルセウス!」
中指を立てながら膝を上げた男の背中から現れたのは、三メートルを誇る四足歩行のポケモンだった。暮れたばかりの街を再び黄金色に染め上げる神々しい姿は、誰もが絵画や神話で見聞きしたことがあるだろう、創造ポケモン・アルセウスに酷似している。
「このラムダ様が来たからには好きにさせねえ。オレの6v神が調子こいてるジジイを粛清してやらあ」
と、ラムダは高々と笑っているが、創造神を見上げるトレーナーや一般市民はその容貌に違和感を抱いた。風になびくアルセウスの身体は虹色に輝いており、歓楽街の看板のように安っぽい。人工的に染色した色違いポケモンを思わせ、困惑するシジマにヤナギが眉を潜めながら説明する。
「この世界にはポケモンの存在を微塵も尊重せず、不当に手を加えようとする輩がいる。あれは改造だ。分かりやすい程のな」
勿論違法だが、色違いや良個体のポケモンが高値で取引される裏社会において、それらを人工的に作り出すのは造作もないことだった。ポケモンマフィアと悪名高いロケット団ならば尚更だろう。ヤナギの侮蔑を耳にしたラムダは、舌打ちしながら彼をじっとりと見下ろした。
「頭かてえジジイだな、ボスも経験したプロとは思えねえ。トレーナー社会はな、勝てるポケモンこそ正義なんだ。結果が伴えば命の選別に、メタモンをカスタムして伝説作るなんて朝飯前よ。文句があるならあの世でオリジナルに泣きつきな」
トレーナーとしてあるまじき雑言をラムダは痰と共に吐き捨てる。
かつての一番弟子が総べる組織の人間がこれほど下種であることに、ヤナギは激しい憤りと失望を抱いた。これまで育てたトレーナーの中ではサカキは紛れもない傑出した人材で、彼に影響を受けた人間も多かっただろう。だが今や、その時代にサカキと築き上げたはずの志はたった一人のトレーナーにしか引き継がれていないようだ。サカキの背中を最も近くで追っていた、あの男である。
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日の落ちたリーグ本部ビル上空を、一機の重厚なヘリが大きく旋回する。控えめな照明で建物を照らしながらやや距離を取り、傍目にはバベルの塔に臆しているようにも捉えることができた。実のところほんの小一時間前まではその状況で、ロケット団が窓際に配置したレアコイルによる攻撃にすっかり足踏みしていたのだが、今は違っていた。開け離れた後部座席の扉から、ヘッドフォンを装着したスリーピース姿の中年男性が少しばかり身を乗り出してビル中層階の窓に視線をやると、その先にクロバットが現れた。
四枚羽の巨大な蝙蝠がその階をぐるりと一周しながら窓の中へ超音波を発すると、技はガラスをすり抜けて見張りのレアコイルを混乱させつつ、反響速度で共用部分の状況をくまなく把握する。大方の人質は各フロアのオフィスにまとめて監禁されており、通路に潜むのはロケット団とそのポケモンだけ。だが万が一、職員が通路に出ている可能性もある。それを判別するのはマスターバッジに似た反応を持っているか否かだ。
超音波だけで周囲を探っていたズバットの頃から良く知っている、主のマスターバッジと同じ反応は研ぎ澄まされた感覚によって取りこぼすことがなく、鳴き声で敵の正確な位置場所を主に知らせることが可能だ。それを受けたキョウがヘリから無線でビル内にいる仲間やSATに連絡する。
「四十三階、EVホール前に星が一人。手持ちはレアコイルにアズマオウ、ムーランド。四十四階、オフィス前に二人、手持ちは……四十五、六はゼロ……四十七階から五十五階までは一人で、人質は皆オフィス内だ」
すぐに建物内にいた隊長が応答し、ビルの下層階のあちこちの窓で閃光弾の瞬きが見えた。時折窓を破って岩石が落ちていくこともあり、それはハガネールを使うシバの仕業なのだろう。突入後は速やかに下のフロアから人質が解放されており、状況は好転している。黙々と無線に報告を投げるキョウの仕事が落ち着いたところで、ヘリに同乗していた隊員が興奮覚めやらぬ様子で彼を仰ぎ見た。
「“すりぬけ”クロバットで偽造バッジの反応を掴み、敵の位置を確認する……元リーダーのあなたにしかできませんね」
これはグリーンバッジと同等の性能を持つマスターバッジの反応を鮮明に記憶し、障害物をすり抜けて攻撃するキョウのクロバットの特性を使ったソナー技術である。闇夜に紛れたクロバットは羽音も立てない上に動きも素早く、探査役に適している。隊員からの羨望の眼差しにキョウは嗤笑した。
「勘の良い警察ポケモンでも応用できるはずですよ。シバが教えてくれるでしょう」
指導を乞おうとする思惑を察しての牽制に、隊員はやむなく閉口する。そんな彼を横目にキョウは敵の報告を終えた。下の見張りは比較的手薄でポケモン頼り、上に行くにつれ守りも硬くなっている様子だがワタルが一掃するだろうと彼は踏んだ。そこで気になるのは誰も張っていないシステム部のフロアである。そこはビルが占拠されたばかりの頃、シバとカリンがポケモンを使って脱出したと聞いていた。
「それにしても四十五、六階は免許システムの中枢なのに、見張りが手薄で不自然だ。なかなか派手に脱出した様子だな。機器に影響が出ていたらシステムの復旧に大きな遅れが出るぞ」
四十五階の割れた窓を塞ぐエレキネットの隙間から見えるのは、無残に煤けた通路である。呆れる彼の吐息にカリンが応答する。
『ポケモンの技を使ったのは通路だけよ。シバが天井を突っ切って移動した際に中の配線を切っちゃったかもしれないけど』
彼女の背後ではポケモンバトルの模様がラジオ中継のように流れ続けている。吠える、跳ねる、空を飛ぶ、トライアタック、メガトンパンチ――四天王二人による、何でもありのお祭り騒ぎだ。
『もう天井を破らん方がいいのか? 手遅れだぞ! システム部のフロアはそのまま通過する、そっちで対応してくれ――ハガネール、アイアンテール!』
会話に気付いたシバが無線に割り込み、強引に通信を終了させた。
傍にいた隊員は早速ビルの下にいる上役に許可を取り始め、その結果をキョウに目配せする。ロケット団が誰も居ないのであれば、衝突のリスクは少ないだろう――そう踏んだ彼はヘッドセットのマイクから相棒に指示を出した。
「クロバット、その位置から真っ直ぐ下降――」六十階付近にいたクロバットがその指示を聞き、弧を描きながら軽やかに降下。破れた窓に張られたエレキネットとの距離が数メートルと縮まったところで、「二時の位置へエアスラッシュ。壁を削げ」
ラムダが張ったエレキネットは、蝙蝠が放った風の刃によって粘着するタイルを掠め取られて地上へと消えていく。網が取り払われた大きな窓にヘリを接近させ、クロバットを先頭に再度超音波で敵の気配がないことを確認しつつ、彼らは上の階に移動。システム部のオフィス前に到着した。同行した隊員が先に扉へセンサーをかざして罠の有無を確認する。
「中からリフレクターが張られているようです。おかしいな、他のオフィスの入り口には特に何も仕掛けがされていないのに」
「システム部の職員なら扉のセキュリティにアクセスできる可能性が高いから、念を入れて塞いだのか……」
キョウはそこまで言いかけ、最悪の事態を想像する。すぐにドクロッグを召喚し、瓦割りを命じて扉ごと粉々に破壊すると、そこには予想を裏切らない凄惨な光景が広がっていた。
凶悪なポケモンが暴れていたのか、それとも爆弾でも投げ込まれたのか――雑多なオフィス内の精密機器は残らず薙ぎ倒され、デスクやキャビネットは真っ二つのまま倒壊し書類やコード、そして土埃に埋もれた通路の下で人々が背を丸めて呻き声を上げている。絶句する訪問者達の意識を引き戻すように、入り口の傍で項垂れていた茶髪の青年が埃塗れの顔を上げる。マサキだった。
「あーっ、クロバットちゃん! 女神や……女神が助けに来てくれたあ!」
彼はその目に蝙蝠の姿を捉えるなり、間髪を容れず飛びかかった。仰天したクロバットはそれをさっと回避し、すかさず主の背中に回り込む。その際押しのけられたSAT隊員らが弾かれるように人命救助に向かった。途端に騒がしくなった周囲にマサキはようやく我に返り、顔を強張らせたままのキョウに尋ねる。
「兄さんも無事で良かった……ご主人様が戻ってきて良かったねえ、クロバットちゃん! もう復帰してもいいんです?」
「ああ。ところで何があった?」
キョウはさらりと流しながら背後の惨状を問い詰める。
「それが……つい数時間前、いきなり見たこともない喋る化け物が現れて、社内を滅茶苦茶にしていきよったんですわ! 大事には至らなかったものの、下のサーバを弄り倒したらしく、まだ生きてる監視PCがさっきから悲鳴上げまくってて気が狂いそうになってるところに、こんな女神が現れるなんて……」
「免許システムが乗っ取られ、ボールが開かなくなっているぞ。警護するから少し状況を確認してくれないか?」
救世主の登場に安堵する昔馴染みに事情を突きつけると、彼は真っ青になりながら動いている端末の元へ駆け出した。このシステム障害はボールに閉じ込められているポケモンの健康にも影響するため、状況確認は急務である。キョウは手持ちを用意しつつ、傍にいた隊員一人に声をかけてマサキと共に下のサーバルームへ向かうことにした。それにしても引っ掛かるのはマサキの言っていた“喋る化け物”だ。人の言葉を操るポケモンなどそういるはずがないから、恐らくカリンが言っていたポケモンと同じなのだろう。ヘッドセットから切り替えた無線のイヤホンから、突入の実況が絶え間なく流れているが当該ポケモンとの遭遇の報告はない。不安は募るが、仲間の誰もが百戦錬磨のプロである。カリン達は上手く撒くことができたようだし、たとえ鉢合わせしてもおやトレーナーが居なければ十分対応可能――と、キョウは考える。
本部タワービルの屋上は野生の飛行ポケモンが最上階の総監室に侵入しないよう、六十八階と通じていた。ヘリで移動したSATと共にボーマンダに乗ってその場所に到着したワタルとイツキは、屋上から下のフロアへ降りる階段をそのままドラゴンに跨って駆け下りる。段差を削る豪快な走りは彼らの身体を大きく上下させ、踊り場のカーブはワタルが壁を蹴って方向を調節した。荒っぽいタンデムはモトクロスを彷彿とさせるが、ポケモンとバイクに乗り慣れている二人は絶妙なバランスを発揮しながら会話する余裕を持っていた。
「クロちゃんソナーでも言ってたけど、六十八階のエレベーターホールへ続くドアを開いた瞬間、五人のロケット団とそのポケモンが待ち構えてるよ! 三十匹はいるらしい!」
イツキは事前にキョウから無線で聞いた情報を反復するが、二人にとっては参考程度にすぎない。階段を蹴って踊り場を飛び越え、先に六十八階へ突入した機動隊が閃光弾を投げる前に、傍を飛んでいたネイティオを嗾けた。
「ネオ、フラッシュ!」
隅々まで行き渡る眩い光が、待ち構えていたロケット団構成員とそのポケモンの目を眩ませる。その隙にやって来たボーマンダが周囲を威嚇し、ワタルがドラゴンから軽やかに滑り下りながら指示を出す。
「ボーマンダ、竜の波動!」
ドラゴンから放たれた衝撃波はエレベーターホールを抜けてフロア通路まで駆け巡り、三十匹近くのポケモンの膝を崩した。ロケット団の黒づくめは自身のポケモンの陰に身を潜め、次々にマシンガンを発射したが――ひとつ残らずボーマンダの手前で弾き返って床に転がった。絶句するロケット団は、ボーマンダの背後に潜むドータクンの姿を目に留める。
「ふふーん、ドータの三重リフレクターはスタジアムのワタルの破壊光線だって耐えられる、見えない壁と同等だよ? マシンガンの弾なんか貫通しないもんね」
昨年これで屋外プロバトルを実現した経験のあるイツキは、得意げに胸を張った。だが頑丈なリフレクターは階段の踊り場と三基のエレベーターが並ぶホールを仕切るように設置されており、それは同時にこちらの攻撃も遮断されるということである。
「勿論、少し隙間を空けているんだよね?」
ワタルが同意を得られないことを承知で同僚に尋ねると、イツキはしまったと言わんばかりに顔を歪め、慌ててフォローの指示を出した。
「ドータ、催眠術!」
ドータクンもそれを察していたのか、驚くほどスムーズに技を放ち敵対勢力を残らず眠りへ追い込むことに成功した。イツキは白い目を向けるワタルやネイティオ、SAT隊員らに引きつり笑いを浮かべながらVサインを掲げる。
「まあ結果オーライかな。それだけの超能力があれば、サカキのポケモンのパワーだって半減できるはずだ。よろしく頼むよ」
苦笑するワタルに肩を叩かれ、イツキの後悔はすっかり取り払われた。ドータクンがリフレクターを三分の一解除すると、その隙間から隊員らが駆け出して行き、手馴れた作業でロケット団を拘束していく。三重に貼っているだけあり、この見えない壁を瞬時に消し去るのはポケモンさえ困難だ。イツキは仕切りの向こうで繰り広げられている拘束の現場を他人事のように眺めながら、話を続ける。
「話を聞く限り、サカキって相当ヤバそうなトレーナーだよね。相手がこっちを狙ってくるのなら、先制して金縛りで技を封じ込めた方がいいかも」
「そうだね。総監室に乗り込む際は、ガブリアスに君のネオを背負わせてスピードを補い、その技を仕掛けようか。更に念力でトレーナーの動きも制限してもらえると有り難い」
「オッケー、サカキどころか他の幹部連中の動きも止めちゃうよ」
連携を確認し合っていると、ふいに生温い風が吹いて彼らに反論する。
「その必要はない」
それは確かに人の言葉を発していたが、声音は明らかに人間のそれではない。二人が恐怖心を刺激する奇妙な音の方を向いた途端、薄紫のシルエットが視界に現れ、そこから人間を軽々と蹴散らす暴風が吹き荒れた。ボーマンダが直ちに抱き込んで距離を取ってくれたのでワタルは難を逃れたが、油断していたイツキはエレベーターホールを過ぎてフロア通路まで飛ばされる。
「ネオ、ドータ、イツキくんを!」
ワタルの指示に弾かれ、ネイティオとドータクンが主を追いながら念力で引き戻そうとする――そこへ薄紫色の生物がテレポートで割り込み、再び周囲を蹴散らす嵐を解き放った。通路の分厚い窓ガラスを残らず叩き割り、その場にいた者を足元から引き剥がさんとする力は紛れもなくエスパーポケモンの超能力だ。イツキは窓枠からビルの外へ放り出され、ポケモン達は逆の方向へ押し戻される。主人の命が危ない――ドータクンが突風を防ぐ盾となってネイティオにテレポートを促し、鳥はその場から消え去った。
もしも間に合わなければ命はない――動揺するワタルの隙を突き、異形のエスパーポケモンが遠慮など一切ないサイコショックを放つ。相手の事情などお構いなしでSAT隊員やロケット団員、そのポケモンを蹴散らさんとする一撃は、技が放たれる寸前でボーマンダの竜の息吹に妨害され、利き腕が大きくぶれて被害は天井に大穴が開く程度に留まった。
「ほう……なかなか骨のある輩と見た」
エスパーポケモンが痛んだ腕を自己再生させながら、ワタルとボーマンダをじっと睨み据える。彼は見覚えのない生き物が人の言葉を操ることに動揺したが、先ほどの超能力を見てすぐにカリンが警告していたポケモンだと理解した。
「ボーマンダ、気を付けろ……」
ワタルはそこまで言って、こいつは並のポケモンとは違うから――と、ドラゴンに目配せする。高慢な物言いに自信漲るその姿は、不用意を溢せば激高させてしまうきらいがあり、慎重に対峙しなければならないと彼は考え、ボーマンダもそれを理解した。これはプライドの高いドラゴンを扱うワタルならではの見方だが、嵐に薙ぎ倒された隊員らはそれに気付かず闇雲に麻酔銃を向ける。
「この、化け物!」
反射的に敵の顔がそちらに向く。
「いけない!」
人を撃つ念が放たれる、とワタルは察知した。すかさずボーマンダが異形のエスパーポケモンへ飛びかかり、鋭利な爪を捻じ込もうとしたが、相手はその腕を抑え込んでドラゴンの自由を奪うと、銃を構えた隊員目掛けてぶん投げる。シバがポケモンに教え込んでいるような投げ技だ。驚愕するワタルが息をつくのも待たず、ポケモンがそちらに掌を向けた。三本指を捉えた刹那、ワタルの身体が後ろへ飛んで、エレベーターの扉に激突した。頭を打ち鳴らす重々しい金属音と、激しい痛打が全身を駆け巡る。それでも次のボールを掴もうとしたワタルに、エスパーポケモンがダメ押しの波動弾を発射した。容赦のない渾身の一撃はワタルを鉄の扉ごとエレベーター内部へ叩き込み、彼は籠が到着していない闇の空洞へと放り出される。
(一体何が……!)
突然の激痛に身体が一斉に悲鳴を上げる中、ワタルはなんとか意識を繋いで手元のボールに手を掛けた。ところが指先は錆びたように動かず、その間にも身体はエレベーターのドアと共に勢いよく落下していく。ポケモンを使って何とか止めなければ――腰のベルトに装着した全てのボールが、早く召喚してくれと必死で懇願しながら振動する。
(早く……ボールから、出さないと……!)
その時、視界の端で火花が散って何かが千切れる音が闇の中に反響した。エレベーターのワイヤーが破れた扉によって切断されたのだ。必死で指先を動かすワタルの頭上へ、ひとつ上の階で止まっていた籠が猛スピードで降ってくる。
+++
「……トレーナー社会の未来を守りたくば軍用ヘリに指定の金を積んで三十分後にセキエイスタジアムへ訪れることです。では、ご理解ご協力の程、宜しくお願いしますね」
『待て! まず人質の安否を……』
突然の身代金要求に度肝を抜かれた政府の電話を叩き切り、アポロはすっかり破損したデスクへ電話機を戻して窓の外を覗き込む。ビルの周囲はトキワ市警が呼びつけたSATが用意した照明や警備にあたる警察官のパトカーのランプがあちこちで赤々と点滅していた。出口が連絡通路一か所しかないため手間取っている様子だが、既に低階層の職員は解放され、スタジアムへと避難している。ここまで騒動を広げてしまえばもはやリーグ本部をロケット団の傘下に置くことなど不可能だが、窓に映りこむアポロの顔は恍惚だ。
「いやあ、私は満足ですよ。何せ、リーグ本部を討つという目的を間もなく達成できるのですから。我々から奪って作り上げたセキエイの誇るトレーナー栄光の舞台を、彼らの血で染め上げるなんて素晴らしいじゃありませんか」
一部の人質が解放されたと聞いて安堵していた総監は身を凍らせた。彼らは間もなくそこへ行き、再び一網打尽にするつもりだ。元々人質の命など考慮していないのなら、各フロアごとに始末していくより効率的である。
「最初からそれが目的だったのか……」
真っ青な唇を震わせる総監に、傍のソファに足を組んで座っていたサカキが補足する。
「初めにラムダの提案を呑んでいれば、ここまでやらなかった。ロケット団が円滑にリーグを運営させて頂いたのに、選択を誤ったな。職員、そして……」サカキはほんの僅か目線を落とす。「プロも消すしかない」
その些細な反応を誰にも気付かせないように、突如アポロの通信端末が悲鳴を上げた。
『アポロ、四天王は私の手に負えないわ! 奴らどんどん上に攻めてきて……現在、六十一階に到達! 応援を要請する!』
突入が開始されて僅か一時間足らず。屋上組の対応に当たったミュウツーからの報告はまだないが、スタジアム連絡通路からやってきたシバとカリン率いる突入部隊はすぐ手前まで迫っているらしい。その報告に誰よりも早く反応したのは、ロケット団の首領による舌打ちだった。
「俺が行こう」
すかさず腰を上げるサカキに、アポロは度肝を抜かれる。これには総監も目を疑った。
「サカキ様直々にですって? お手を煩わせるわけにはいきません。このアポロが十分で仕留めて参ります」
「俺なら五分で片付く。奴ら、いい加減目障りだ」
サカキは流れるような手つきで上着の裏にしまった拳銃とモンスターボールの動作確認をすると、狼狽する部下達を振り切ってエレベーターホールへと歩んで行く。誰も止められずに呆然と見送られる中、彼は総監に届くような声音で高らかと言い放った。
「プロがヒーローを気取れるのはバトルフィールドの上だけだ。それを奴らに思い知らせてやろうじゃないか」