第15話:ヒーロー出陣
空が紅に染まり、太陽がシロガネ山の峰々へと姿を消していく時は、白を基調としたセキエイ高原の街並みが最も美しく彩られる瞬間だ。平日であれば帰路につく会社員達が駅へ向かう足を緩めてこの時間を堪能し、休日は観光客やセキエイリーグへ向かう人々が夕暮れの街をカメラに収めるのだが、この日の午後六時の市街地は閑散として行き交う車や通行人も殆ど居ない。それは一時間ほど前から駅近くに交通規制が張られ、警察がリーグ本部及びスタジアムへの通行を遮断しているからである。
セキエイ高原のランドマーク、ポケモンリーグ本部タワービルの周辺はビルジャック事件を聞きつけたトキワ市警所属のSAT(特殊奇襲部隊)やその他警官らが警備を固め、対応に追われていた。
「ビル内の人質やロケット団の状況はどうなっている? ヘリで近付けないのか?」
強固なシャッターが下りた一階エントランス前から、SATのとあるチームの隊長がビルの周囲を旋回するヘリの隊員へ無線で尋ねた。ヘリは建物から数十メートルも距離を取って飛行しており、まるで何かに怯えているようだ。
「……あちこちの窓辺にレアコイルが配備されており、接近しようものなら電磁波で計器類を狂わせ、内部の確認が非常に難しい状況です。この距離でさえ窓越しに攻撃を仕掛けてくるポケモンもおり、相当鍛えられている模様」
ヘリの隊員はすっかり参った口調で返答する。隊長はこっそりと小さく息を吐いた。
「ここと地下の搬入口は対ポケモン用の頑強なシャッターによって閉鎖されている……突入は屋上のヘリポートと、スタジアム連絡通路しかなさそうだな」
頑丈なシャッターは強豪ポケモンひしめくシロガネ山の傍に城を構えたリーグ本部の知恵だが、今は面倒な障壁でしかない。ビルを前に唇を噛む隊長に、傍にいた部下が尋ねる。
「しかし隊長、スタジアムにもマル被が潜伏しているのでは?」
「ああ、そっちはさっき片付いたよ。やはりポケモンが強いに越したことはないな」
彼は肩をすくめながら腰のベルトに装着した相棒のボールを一瞥する。その中でキリリと顔を引き締め、早くも突入に備えているのは最近バッジレベル8のトキワジム戦で完敗したばかりのウインディだ。
リーグ本部ビルに隣接するセキエイスタジアムも人質を取った数名のロケット団構成員とそのポケモンによって占領されていたが、その突入劇はヒーローショーのように一方的であった。
まずスタジアムの裏口に停めた突入部隊のワゴン車に待機していたイツキが、ネイティオに施設内の数分先の未来を見せてフーディンに映像化させ、それを無線で仲間に伝える。
「ロケット団の下っ端が三名、それぞれロッカールーム前とスタンド上段にある売店前の通路……それと北側ベンチ。うわ、最悪、僕の指定席に座ってるみたい。そこに人質もいるね。清掃のおばちゃんと設備点検のおじさん、合せて五名。ポケモンは人間より多いよ。各通路、それとスタジアムのスタンドに五匹以上はいる――ポケモンの情報、いる?」
次いで応答したのは屋上近くの排気ダクトに待機するキョウだ。
「結構」
ぱちんと指を鳴らした直後、隣にいたマタドガスがダクトへ身体を突っ込み、ガスを混ぜた黒い霧をその内部へ発射する。営業を休止しているスタジアム内は時期的な事情もあり、空調設備が停止しているため瞬く間にそこから高濃度の霧が建物内に充満した。突然どこもかしこもが視界不良になり、内部に待機していたロケット団は騒然となる。
「なんだ!」
黒色の霧が支配するスタジアム通路内で、待機していた手持ちポケモンと慌てて周囲を見渡したが――急な眠気に見舞われ、彼はなすすべなくその場に倒れ込み、いびきをかいて眠ってしまった。するとその足元の影からゲンガーが顔を出し、ナイトヘッドでポケモンを次々気絶させる。その光の合図で通路の奥からSATの隊員と共にカリンが登場し、ゲンガーを抱きすくめながら無線端末に告げた。
「通路のロケット団は確保。この辺にいるポケモンは任せて。残らずおびき寄せてあげる」
カリンがその場にラフレシアを召喚すると、視界を遮る霧が漂う通路内に心も安らぐ甘い香りが混じり、困惑していたポケモン達をそちらへ吸い寄せていく。
これでスタジアム舞台裏の解放は完了し、残るは施設大部分を占めるバトルフィールドエリアである。スタンド席付近からベンチ前にいる人質を見下ろすように見張っていたロケット団構成員は突然の濃霧を受け、同じく観客席の見張りに当たらせていた十数匹ものポケモンに警戒のサインを送ろうとしたが――その時には既に、座席のあちこちから覗いていたポケモンの頭の影は残らず消えていた。墨色のカーテンが下りる景色の中でも、ポケモンのシルエットくらいは目視で確認できたはずである。もう一度確認しようとした途端、鈍い音がして傍にいたラッタがばたりと気絶した。狼狽し、顔を動かそうとすると――
「あとはお前だけだ」
眼前に伸びる太い骨の棍棒が、ロケット団員の動きを制する。顎にぴたりと狙いを定め、霧の中から鋭い眼光を光らせるのは骨好きポケモンのガラガラだ。その背後には先ほどの声の主であるシバが仁王立ちしており、気迫に負けた構成員は身動き一つとれないうちに後ろからやってきたSAT隊員によって速やかに拘束された。それを見守りながらシバがガラガラに告げる。
「見事だな。本戦でも通用するだろう」
素っ気ない口調ながらもポケモンへの情は感じられ、ガラガラは主に向けて嬉しそうに会釈した。そうしている間に、観客席を見張っていたポケモンを残らず倒した他の格闘ポケモン達が戻ってくる。
「残るは人質のいる下のエリアだが……」
見えない壁が作動していないスタンドからシバがバトルフィールドを見下ろした直後、墨色の霧に混じって砂嵐が吹き上がり、フィールドにいたロケット団のポケモンがその中に閉じ込められた。本来砂に強いはずのサイドンやボスゴドラもその中に閉じ込められれば身動き一つ取ることはできない。やがて嵐の中に透き通るようなソプラノの歌声が響き、翡翠の身体をしたドラゴンが静かにフィールドへ降臨する。神秘的な佇まいに構成員は思わず息を呑んだ。その竜、フライゴンが赤い翼を羽ばたかせさっと霧が払われると、本来挑戦者が登場するはずの南側ベンチから後ろに撫でつけた赤毛を揺らし、チャンピオンが現れる。彼は真っ直ぐにフィールドへ向かい、テクニカルエリア内で足を止めると、構成員向けて毅然と言い放った。
「大人しく投降した方が身のためだ」
構成員の男は反射的に人質を見せつけようとしたが、そこでようやく気が付いた。いつの間にか身体の周りをがっちりと岩石が取り囲み、腕も挟み込まれて自身の自由が奪われている。フライゴンの“岩石封じ”という技だ。こうなれば抵抗は無意味である。
「ワタルさん! 助けに来てくれたんですね」
南側ベンチ前で後ろ手に縛り上げられていたスタジアムスタッフらが希望に顔を輝かせ、ワタルがそれに笑顔で応える。すぐにSAT隊員がやってきて、ロケット団を拘束し人質を保護した。
「助けに来たのはワタルだけじゃないんだがな……」
スタンドの前列付近からこの様子を見ていたシバが、頭に付いた砂を払いながら呆れるように息を吐く。見えない壁が稼働していない今、彼のいた場所は文字通りの砂かぶり席と化していた。
ここまで僅か五分足らず、SAT隊員を脇へ追いやる活躍ぶりは本丸のいるリーグ本部タワービルへの突入において大きな戦力となる。スタジアム突入部隊の隊長はロッカールームにプロトレーナーを招集し、荷物の入ったバッグを前にしながら彼らに尋ねた。
「貴方がたのポケモンと彼らを指揮するトレーナーセンスは、本部突入において大きなアドバンテージになります。少し前に本部と警察が取り交わした協定により、ご協力いただくことは問題ありませんが……状況が状況ですし、こちらとしてはプロに参加を強要することはできない。勿論、万全のサポートをさせていただきますが……」
生命の完全補償はなし。回りくどい頼みを、まだ上半身に砂が残るシバがきっぱりと制する。
「そんな頼み、今更だ。全てが元通りになるまで、ここで待機している訳にはいかん」
ロッカーやソファにもたれ掛っていた他の仲間も互いに頷き合い、同意を隊長に示した。彼は緊張気味に頬を強張らせながら、リーグメンバーの前に持参したバッグを重ねて置く。
「ありがとうございます。では、こちらに無線や防弾ベスト等の装備を用意しておりますので着用の程、お願い致します。計画プランはスタジアム突入前にご説明した通りです――では、十分後に」
彼はさっと敬礼し、きびきびとした動作で部屋を出て行った。扉が閉まる音が響き、広々とした室内には部屋の使用者だけが残される。キョウが復帰したので五人が一堂に会するのは約一か月ぶりだが、彼らにそれを喜ぶ余裕はない。すぐに沈黙を断ち切って、ワタルがSATから渡されたバッグに手をかけた。
「時間がない、支度をしながら役割を決めよう」
突入計画は至ってシンプルだ。事前にプロがポケモンを使って内部を確認し、スタジアム連絡通路と屋上の二手に分かれて攻め入る。一般職員はオフィスに閉じ込められており、人質にとられた役員はロケット団幹部達と最上階の総監室にいるから比較的動き易くはあった。優先すべきは人質の保護、そしてロケット団の拘束である。ボール開閉システムの復旧を急ぐ必要もあるが、これはシステム部の被害状況を見て判断ということになった。突入に際してリーグメンバーも二手に分かれるのなら、二対三が理想である。イツキは真っ先に内部探索役に名乗りを上げた。
「敵の位置確認は僕に任せて! さっきみたいに、ネオの力を使って相手の動きを先見するから」
イツキは得意げにボールを掲げたが、収容されているネイティオは大役に顔を強張らせている。彼はここ最近、予知能力を使いすぎて困憊気味だ。それを察したカリンが口を挟む。
「でもあの技はタイムラグが発生するし、ビル全体を見通すのは大変じゃないかしら。ポケモンバトルにも念力を消費するのよ」
「そ、そうだね……それじゃ他にどうやって敵の場所を突き止めようかな。ナップ、いいアイディアない? ポケモンとは渡り合えるけど、フロアにいる武器を持ったトレーナーの場所を掴んでおきたいんだ」
イツキはたちまち陥落し、ひらめきを生み出すヤドランに縋りついた。どこまでもポケモン頼りの少年に仲間達の不安が募ったが、それでもエスパーポケモンはこういった場面で大いに活躍する。戦力的に申し分ない上に、トレーナーの動きを封じられる能力はサポートとしても優秀だ。そこでワタルはこんな組み分けを決めた。
「それじゃ……屋上はオレとイツキくん、連絡通路からはシバとカリン、そこにサポートとしてキョウさん同行でどうかな」
彼はバッグから出した防弾ベストを四天王に手渡しながら、反論させない確たる口調で告げる。当然ながらキョウは眉間に皺を寄せているが、ワタルとしても浴衣にカーディガンを羽織って病室から飛び出してきた男をいきなり最前線へ向かわせるわけにはいかない。それでも反論しようとした同僚を遮り、シバが畳み掛ける。
「怪我人など足手まといだ」
容赦ない言葉の直球が腹部の傷を打つ。こんな手負いではかつての師に対峙することもままならない――表情を強張らせるキョウに、シバがもう一言付け加えた。
「が、お前の頭とポケモンは使える。おれ達を助けてくれ」
素っ気ない口ぶりの中に、彼なりの気遣いが混じる。それは長年の付き合いであるワタルだけでなく、四天王にも理解できた。このポケモントレーナー栄光の地で三年共に闘ってきた彼らの中には、言葉に出さずとも確たる戦友意識が根付いている。仲間から信頼の眼差しを向けられ、キョウは俯き気味にカーディガンの裾を直すふりをしながら、こっそりと頬を緩ませた。そして自らの役目に相応しい働きをしようと決心する。
「それじゃ、サカキについてアドバイスしておく。手持ちは地面タイプの最終進化系一揃い、他にはドンカラスとペルシアン、ガルーラ、アーボック。ジムを追われた時、奴はそれだけ持って逃げた。補強するタイプじゃないから、手持ちが増えている可能性は薄いだろう。ポケモンの忠誠心は強いが本人の扱いは雑で、それによって強引な手段に出ることも多い。そこから綻びが生まれることはないが」
ワタルの脳裏に、昔フスベで助けてくれたサカキの手持ちが浮かぶ。満身創痍で記憶もおぼろげだったが、言われてみればエアームドを倒した時、サカキはポケモンを労う仕草はなかった気がする。情が移ると戦力外になった際に精神的苦痛が大きいので、割り切った関係をするトレーナーは少なくないが、プロは信頼と愛情を注いだポケモンを率いるトレーナーの鑑。それに反する男が当時ジムリーダーの頂点に立っていたとは皮肉なものだ。
「それと奴に公式ルールは通用しない。間違いなく命を狙う指示妨害を吹っかけて来るだろうから――勝機が見いだせなければ逃げてくれ。地面タイプはそういうのをやり易く、狭く揺れやすい高層ビルでの戦闘は向こうに有利だ」
もう一つの忠告に、室内はたちまち凍りついた。昨年サカキに遭遇したシバも神妙な面持ちで頷く。
「確かにその通りだ。何の躊躇いもなく銃口を向ける男だった」
ワタルのサカキに対するかつての憧れはすっかり地に落ちていた。
どうしてこんな風になってしまったのか事情を知りたかったが、そんな会話をする余裕などない。今はただ、この事態を収束させることが最優先だ。放っておいてはセキエイが崩壊する。この与えられた支度時間だって惜しいくらいだ。ベルトに装着したモンスターボールから視線を感じ、そちらに目を動かすとカイリューも同様の覚悟を決めている。
かつてのヒーローだからと言って、揺らいではいけない。彼は息を整え、四天王に告げた。
「分かっていると思うけど、こちらは人間には絶対に危害を加えないように。オレ達に許されているのはポケモンを制することだけ、あとは警察の仕事だ。その線引きは忘れてはならない」
それはつい数時間前に揺らいでしまった、自身への戒めでもあった。ワタルは右手を胸の前に置き、はっきりと告げる。
「オレ達の役目はここに所属するプロトレーナーとして、セキエイリーグを守ることだ」
トレーナーに夢を、人々に細やかな娯楽の光を提供する立場として黙っている訳にはいかない――王者の意志に、四天王も居住まいを正して同意を示した。
だが、先程サカキの詳細を聞かされたイツキは四肢を震わせ、こっそり冷や汗をかいている。屋上は総監室の二つ下の階に繋がっているのでいきなり戦闘が起こるわけではないし、ワタルが傍にいるとはいえ、首領と対峙する覚悟がなかなか決まらない。そんな少年の気持ちを察し、キョウが左手の指先をくるりと動かして持ち場交代のサインをこっそりと送る。少年は慌てて、それを揺らぐ心ごと突っぱねた。
「へーき、ロケット団とも戦えるって啖呵切ったのは僕だし……それにサカキ以外の下っ端はポケモンの扱い上手くなさそうじゃない? 今まで見てきた奴ら、ポケモンは立派だけど持て余してる感じあったよね」
ワタルが真っ先に思い浮かんだのは、伝説のポケモンをなんとか操っているシルバーとランスだ。そちらの動向も気になる所だが、今はジムリーダーに任せるしかない。
「確かに、無理やり従わせているように見えた。バッジかな……」
と、意見を出してみると、カリンが黒服のポケットからリストバンドを取り出して仲間の前に掲げて見せた。真ん中には緑色の羽根型のバッジが装着されている。
「もしかして、これかしら。ロケット団の構成員が持ってたのよ」
キョウが真っ先に手を伸ばし、リストバンドから外して表面の光沢と裏側を確認する。ピンの下には『Level.8-120』と刻印されていた。
「偽造だな。シリアルがでたらめだ」
キョウは呆れたように眉を潜めつつ、彼らに説明する。
「ジムバッジはレベルごとにシリアルナンバーが刻印されているが、レベル8のグリーンバッジは前任で三十二止まり。後任は在任期間が浅いし、元チャンピオンだからまだ三桁に到達することはないだろう。光沢も安っぽいし紛い物で間違いない。ポケモンが従う成分を重視して再現しているんだろうな……セキエイが近いこともあり、グリーンバッジとライジングバッジのレベル8には、ジムリーダーが所有するマスターバッジと同じ性能を持たせているんだ。相応のリーダーを配置しているから、トレーナーに箔が付くようにと……ジム巡りをするトレーナーは、その二つのジムを最後に選ぶケースが圧倒的に多い」
フスベジムはジムリーダーの中でも特に強豪を据える話はワタルもよく知っていた。リーグ所属のプロを目指す前は、頻繁にジム試験を勧められていたからだ。バッジを八個所有するイツキも得意げに食いつく。
「僕もライジングバッジのレベル8持ってる! 捕まえたばかりのポケモンが急に大人しくなるからびっくりしたよ。その機能を利用しているなら納得だね。って言うかオジサンリーダーなら在任十年以上いってたでしょ? それでたったの三十二人にしかレベル8のバッジを渡してないって半端ない強さだよね……それと、キョウさんがまだ他人のジムの情報を覚えてるのも凄いや。リーダー時代の話、普段全然しないのに」
そんな称賛に、キョウは目線を足元へ落としながら苦笑する。あまり喜んでいない様子だが、ワタルはその理由がすぐに分かった。きっと彼はサカキに勝ちたくて必死で研究を重ねていたのだろう。それは現在も、対地面タイプの勝率によって証明されている。感慨深げに偽造バッジを眺めていたキョウは、ふいに何かを思いついたように顔を上げた。
「ロケット団全員がこれを所有しているのなら、エスパーに頼らずとも敵の場所を知ることができる。やはり俺はサポートに付いた方がよさそうだ。支度しよう」
「よろしくお願いします。それじゃ、全員に防弾ベストとサポーター、無線を配ろう」
四天王全員が納得し、ワタルがバッグの中身を取り出す中――不意にカリンが思い出したように顔を上げた。
「それともう一つ。ビルから脱出する直前に遭遇したんだけど、見たこともないエスパーポケモンがいたのよ。二足歩行の薄紫のポケモンで、人の言葉を喋るの。凶暴でかなり強いから気を付けて……」
アンズも怪我させられた、とカリンは付け加えようとしたが傍に渋々サポート役に回ることになった父親がいる手前、シバに釘を刺す視線を送りながらそこで台詞を断ち切った。詳細を聞けばキョウは受け入れた役割を投げ出してしまうだろう。幸いにも彼は興味深そうに耳を傾けているだけであり、エスパーを専門とするイツキの方が遥かに食いつきは良かった。
「何それ、気になる! マーカー付いてた?」
好奇心旺盛なイツキはそのポケモンを捕獲しようと意気込んでいるが、すぐにシバが否定した。
「いや、なかったぞ。トレーナーが操っている様子もな。だがこちらを殺しにかかる凶悪なポケモンだ。捕まえようなんて思うな」
「人と会話ができるのか……利口で凶暴、要注意だな」
ワタルもそのポケモンの情報を頭に隅に置きつつ、バッグの中を確認する。防弾ベストや無線などは確かに用意されていたが機動隊が着用している戦闘服は三着しか入っていなかった。隊長の不備か、それとも予備がないのか――ワタルは困惑する。シバとカリンはロケット団から奪った黒づくめだし、キョウは入院時の浴衣、自分とイツキはただの私服だ。これから突入するにしては統一性がなく締りがない格好である。
「服、足りないの?」
カリンに手元を覗き込まれ、ワタルは眉をハの字に曲げて頷いた。
「おれは何もいらんぞ」
日頃半裸で生活しているシバは上着を脱ぎながら突っぱねた。
「ランボーだって服着て戦ってる事の方が多いよ」
と、イツキに指摘され、一応防弾ベストは着用する。膨れ上がった厚い胸板の上に防具だけの姿は不恰好だ。カリンは肩をすくめながらロッカールームに設置されているクローゼットへ歩み寄り、扉を開ける。
「もう少しまともな格好しなさいよ。そうねえ、どうせなら……」
そこに掛かっていたのは羽織り物や着替えの私服、そして先月コガネ百貨店関連の撮影時に着用したきりのドレススーツである。
「“ここぞという時”の服で、どう?」
カリンは迷わずスーツに手を伸ばし、仲間に見せて微笑んだ。
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自身のプライドをかなぐり捨ててでも、リーグ本部を守ろうと思った。元を辿れば自分で撒いた種。口頭で謝罪し尽くしても、全てを投げうってもミュウツーには通用しないかもしれない。それでもあの頃フジに寄り添い、頂点を目指して戦い続けていた情熱がほんの少しでも残っているのなら、この気持ちは理解してくれる可能性がある。総監はそこに一縷の望みを賭けた。
「お願いだ……職員とそのポケモン達の命だけは助けてください。私はどうなっても構わない、だから――彼らの命だけは、どうか……彼らの一人でも欠けてしまえば、トレーナ―社会は大きく均衡を失ってしまうんだ!」
薄汚れたカーペットに額を擦り付け、声を絞りながら懇願する。散々甚振られ、身体のあちこちが悲鳴を上げているが自分など二の次だ。優先すべきはこのビル内にいる志同じくする従業員達。誰の命も取りこぼす訳にはいかないが――ミュウツーは冷酷に突っぱねた。
「それは好都合だ。ポケモンを使役する人間も、それに従う愚かなポケモンもまとめて消せる」
火に油を注ぐ結果に、総監は絶望に染めた顔を上げた。隣のソファでゆったりとくつろぐサカキが、うんざりと息を吐く。
「情に訴えても無駄なように作ったのはそちらではないのかね。今更見苦しい」
確かにその通りだ。彼に四十数年間、憎悪と苦痛を与え続けたのは自分の罪。それでもひたすら土下座を続けるしかなかった。
「やめてくれ……お願いだ……」
若き時代、環境庁から独立した際も危機に立たされた総監だったが、これまで土下座を一切せずに切り抜けてきた。逆の状況なら数えきれないほど見ている。心を揺さぶられることはない、蔑みしか生まぬパフォーマンスだといつも思っていた。しかしいざ自分が膝を付き、地に額を擦り付ける立場になってようやく理解した。これ以上の謝罪が思い浮かばない。
「私は当時不安定なリーグ本部を軌道に乗せるため、無茶をやりすぎた。今更だが、本当に反省している……けじめを付けねばならない! 私個人の命だって捨てる覚悟はあるし、金で補填できるならいくらでも支払う……だが、今のこのリーグ内にいる職員とそのポケモンに罪はない! むしろ彼らは誰よりもポケモンとの共存を望んでいて……」
総監室を揺るがす突風が、総監を床から引き剥がした。ミュウツーの放ったサイコショックが再度直撃したのだが、総監は身体を駆け巡る激痛を堪え、唇を噛み締めて離れかける意識をなんとかそこへ留める。
「いい加減にしろ、それも人のエゴだ。私はこの愚者の塔ごと消滅を望む」
人のようで人でない、奇妙な声が絶望を助長してもそれだけは飲めない条件だった。犠牲を生んでもセキエイリーグを確立させたかったのは、大学時代に楽しんだ野良バトルを夢のある娯楽へと昇華させたかったからだ。ポケモンバトルにはその可能性を秘めている――そう信じ、成功した。プロセスこそ反省点は多いが、結果は間違っているとは思わない。
「それだけは……」
死んだって御免だ。喉から出かかった言葉を飲み込んだ。
「まあ、ここが更地になっても組織の権利が残っていれば他でいくらでもやり直せる。その功績がある我々に後を任せてくれれば問題ないんですよ。気に入らない塔だったから、取り壊すにはちょうどいい機会だ」
サカキが同情的に嘲笑すると、総監は煽られるように立場を忘れて食って掛かった。
「そんなことは……!」
どれほど虐げられようとこの場所と人だけは渡すわけにはいかない。総監にとってそれだけは絶対に譲れない最後の矜持だ。彼が激痛を堪えるために歯を食いしばった時、アポロが持っていた無線から下の階を見張っていた部下による殆ど悲鳴の報告が入る。
『外で大きな動きがありました。カメラを総監室のテレビに繋ぎますのでご覧ください! ボタンは……』
アポロがテレビの横に置かれていたリモコンに飛びつき、指定のボタンを押した。映し出されたのはスタジアム通路の監視カメラの映像である。もはや顔を動かすことさえ億劫だったが、総監はなんとかそちらへ視線を向け、そして目を見張った。
『機動隊と手を組んだプロトレーナーがスタジアムを制圧し、こちらへ向かっています!』
カメラに映し出されていたのは、黒い戦闘服に身を包んだSAT隊員の列に挟まれ、横並びで歩くドレススーツを身に付けた五人のプロトレーナーだ。鍛え上げられた隊員さえも圧倒する勇壮な風格は、テレビ越しに見ると一月近く休止しているセキエイリーグのオープニングセレモニーを思わせる。特に四天王を左右に連れ、マントを翻しながら歩く男の顔つきは挑戦者を迎え撃ち、ショーの舞台に上がるチャンピオンそのもので、総監の目頭を熱くさせた。
「ヒーローがいるから、私は絶対にここを捨てないんだ」
プロを捨て悪の道に堕ちたお前とは違う――そんな眼差しでサカキを睨み据える。つい先程まで絶望に震えていた顔つきが、希望に照らされていた。こうなると是が非でもセキエイの地を渡すことはないだろう。舌打ちする首領に、アポロが動揺を露わにすり寄ってくる。
「五人揃っていると言うことは、ボールを解除したのかもしれません」
「それ以外に何がある。では政府に身代金と、軍事ヘリを要求しろ」
苛立ちを含んだ指示に、アポロは慌てて総監のデスクへ駆け寄った。そこのローゼットから出ている緊急電話回線は、この通信ジャック中でも政府機関に通じている。ようやく焦燥に色めく室内に、総監は状況がやや優位に傾きつつあることを悟って頬を緩ませたが、それを見逃さなかったサカキの靴底が余裕を打ち砕くように彼を乱暴に蹴り上げた。サカキはスラックスの裾を直しながら立ち上がると、テレビから流れる映像に釘付けのミュウツーに命じる。
「ミュウツー、下へ行って今度こそ奴らを仕留めろ。屋上と繋がっている二階下から突入してくるだろうから迎え撃て」
ぞんざいな口ぶりに遺伝子ポケモンは不満気ではあったが、テレポートで渋々その場を離れる。四天王を捕え損ねたことはミュウツーにとっても遺憾だろうから、このまま逃げることはないはずだ。
「私も下の階へ行きます」
アテナが部下を引き連れ、エレベーターホールへ向かう。総監室に緊迫が走り出す中、サカキはタワービルへと向かうトレーナー達が映し出されたテレビ画面を睨み据えた。彼らが無謀にもポケモンマフィアに挑戦するのなら、こちらも迎え撃つだけだ。