第14話:ミュウツーの復讐
五時を過ぎたタマムシシティの空は太陽が傾きかけ、虹色の街並みを美しく照らしだす。この日の天気は朝から快晴、洗練された街に映える薄明が広がっていたのだが、基地局ジャックの開始と共にオフィス街の上空にだけは青黒い雷雲が浮かんでいた。その直下、基地局の周囲にはコンクリートを激しく打ちつける雷雨が続き、海の神ルギアが宙を旋回しながらビルに攻撃する。
「ルギア、テロリストをぶっ潰せ!」
ルギアに騎乗するシルバーが雨風を物ともせずに相棒を嗾けると、ポケモンは嵐を切り裂く真空波を発射し、ビルの壁ごと破壊した。どこかで群衆の悲鳴が聞こえて少年は思わずたじろいだが、それを正当化させるように窓に向けてがなり立てる。
「隠れてないで出てこい、テロリスト!」
しかし時折ビルの窓辺に映る武装グループは、こちらに人質を見せつけながら部屋の奥に消えていくばかりだ。ビル周辺は雷雨がひどく警察やメディアのヘリが橙色の空の下で立ち往生しており、誰も手助けしてくれない。世間的にはヒーローとして認知されていないから、雨を止めると真っ先に犯人として疑われそうな気もする。こんな状況がタマムシに着いた頃からずっと続いていた。ルギアはこちらの指示通りにしか動かず、意志はない。そしてランスとも連絡がつかない。シルバーは完全に孤立していた。
(このまま戦ってていいのかな……)
そもそもテロの全容すら理解していない。焦燥がじわじわと彼を追い詰めていく。
それでも、戦い以外の選択肢が見当たらなかった。
+++
ワタル到着から一時間ほど前――昼過ぎにシバとカリンがアンズを連れ、窓を破って脱出した事実が四時過ぎに総監室に集結するロケット団幹部らの耳に届けられた。職員の殆どをオフィス内に閉じ込めることに成功した一方で、プロが通路に出ており、ロケット団構成員から端末を奪ってボールのロックを解除したことは彼らにとって予想外である。この話をソファの上で聞いていた総監は、恐怖で強張っていた表情を少しばかり緩ませた。それを見逃さなかったアポロが、総監を睨みながらサカキに告げる。
「思ったより早く警察が動きそうですね」
首領は少しも動じず、静かに答えた。
「ならば予定を少し変更するだけだ。ミュウツーの希望通りのプランに」
すると、いつの間にか総監のデスクにふんぞり返っていたラムダが勢いよく身体を起こしてにんまり笑う。
「あら、ワタシこのデスク結構気に入ってたんですけどねェ……眺めもいいし、座り心地も最高! それに、こんな良いオフィス物件は中々ありませんよ。駅からのアクセスも良く、造りは強固でロケーションも文句なし、セキエイスタジアムも隣接してるとくれば入居しない手はないのに」
不動産会社の営業マンを真似した爽やかで調子のよい声音に、総監は吐き気を覚えた。この男の暴虐性をちらつかせながらの悪い冗談は気分が悪くなる。また、ロケット団が実行している計画が最初に聞いた内容より悪化しているような気がして、徐々に息苦しさも感じていた。手足がじんわりと汗ばみ、ソファの中まで染み渡る。顔色一つ変えないロケット団幹部らに囲まれ、一人生き地獄を体感していると、割れるような頭痛が続いて気が狂いそうになった。そんな総監の苦悩も知らず、部下から通信を受けたアテナがサカキに報告する。
「コガネでも動きがあった模様。基地局のテロに応対していたホウオウが持ち場を離れ、こちらに向かっているとのこと。現地ではジムリーダーが参戦したらしく、応援要請が来ています」
すると首領は目線を総監デスクへと動かし――「ラムダ」と、それだけ告げた。ラムダはとびきり苦々しい表情を湛えながら、椅子の背もたれをばねに跳ね起き、派手なネクタイを直して真面目くさった声音で言う。
「サクッと倒しちゃいますから、期待しててください。セキエイの王たるに相応しい実力があることを、証明してみせましょう。私は、負けません」
それは一昨年のワタルのチャンピオン就任会見をそっくり真似た仕草で、総監は益々不快になった。練習していないのか、声があまり似ていない点だけが救いだ。ラムダは総監向けて大げさにお辞儀すると、変装で乗り込んできた際に同行させていた二人の手下を連れ、颯爽とエレベーターホールへ消えていく。
派手なシャツにだぼついたスラックス姿でも幹部の威厳は残っており、その後ろ姿だけは様になっていたのだが、エレベーターへ乗り込み、ドアが閉じた途端、ラムダは鏡がはめ込まれた壁にもたれ掛りながらうんざりと肩をすくめた。
「だーから言わんこっちゃない。折角高い金で舞妓を買って、伝説のポケモンを手に入れたんだからサァ、どっちもうちの人間に持たせりゃ良かったんだ。それをどっかの大幹部様が落ちぶれたバカにくれてやるからオレが出向く羽目になるんだぜ。奴らにゃご大層なコードネームが付いているが、オレとしては“ダブル・ジャージャービンクス”って呼びたいところだ。コレ組織内で広めろよ」
嫌われ者のキャラクターの名を挙げると、傍にいた部下が黄ばんだ歯を見せて下品に笑う。
「でも一人はボスの息子って噂ですし」
「お、それ聞いたことあるな。でもそれってリーダー時代に揉み消してただろ。ボスはガキなんて微塵も興味ないってのに、次期首領の可能性がコンマ数パーセントあるからテロに巻き込んで潰しとくってか? つくづくアポロさんは鬼畜だぜ。だけどまあ……確かに、ガキの下に付くのは御免だね。そんじゃ張り切って基地局を砂塵に変えてやんないとなあ。オレの担当分、コガネだけど」
顔を伏せると背後の鏡に映りこむ前ロケット団ボスの服装が目に入り、ラムダは眉間に皺を寄せながら舌を出す。
「改めて鏡で見ると……オレのファッション、時代をすっかり周回遅れしてらあ。リバイバルする見込みゼロ、見てるだけでゲロ吐きそう」
額に手を当てながらエレベーターのスイッチにもたれ掛り、最寄りの六十階のボタンを押してそのまま降車すると、部下を引き連れ外へ出た。彼は突き当たりの窓を目指して軽やかなステップを踏み、「サラガドゥラ、メチカブラ……」と不思議な呪文の歌を口ずさみながら変装に用いた衣類を剥ぎ取っていく。その動作は魔法による変身を思わせ、シャツのポケットからデルビルの刻印が入ったオイルライターが転げ落ちたことにも気付かず、くるくると回転しながらロケット団支給の黒づくめの衣装へと早変わりする。彼はボールから召喚したジバコイルに軽やかに飛び乗ると、マグネットボムで窓を割って外へ脱出した。
「さ、鋼の馬車に乗って王子様に会いに行くわよ!」
などど冗談めかしていると、オニドリルに騎乗した部下二人が後に続き、派手に割られた窓を振り返る。
「窓割っちゃっていいんスか?」
「エレキネットで塞いでおけばいーだろ。ほったらかしにしてるツーのクソ野郎よりマシさ。ついでに補修して、あとで手間賃ふんだくってやろ」
本部タワービルから少し離れたラムダはシバが脱出した後に放置されたままの四十五階の窓を見やり、双方をジバコイルが放った電気の網で塞いでおいた。
「オレってほんと良い奴だよなァ……ま、どうせ戻ってくる頃にはツーが暴れてまくって、真ん中からポキリと折れてるんだろうがね」
「結局あいつの捕獲は諦めたんです?」
部下はラムダが育て屋として当初ミュウツーを狙っていることを知っていたが、当の本人はとっくに未練がない。
「当たりめえよ。もはやポケットに収まらない化け物だよアイツは……同胞を何人ホトケにしたと思ってる? それに人間の言葉を話すポケモンなんてキモチワリイよ。言葉なんて、明確な主従関係が出来てる人間とポケモンの間には余計な機能だ。女もポケモンも、一番可愛いのは黙ってオレに従ってくれる奴なのよ」
彼はジバコイルの上でふんぞり返りながら、エレキネットで補修した四十五階の窓を一瞥する。軽口で余裕を取り繕っても、内心あの化け物と距離を置けたことにほっとしていた。恐らくサカキは幹部の中で自分が誰よりもミュウツーに畏怖を感じていることを見抜いており、コガネへ向かわせたのだろう。育て屋として良個体のポケモンを選別し、闇のルートに流す作業を生業とするラムダにとって、人の言葉で存在を主張するポケモンは非常に厄介である。
これに関して、総監も同様の考えを持っていた。
建前は仲間や友達だと明示しても、ポケモンとそれを使役するトレーナーの間には明確な格差があった。バトルで一定の成績を残すためには主従関係がキーとなるし、公共施設内では衛生上連れ歩きも制限されている。ポケモンが人と同じようには振る舞えない。割り切った関係でなければ共存は難しいが、人間以上の力を秘めるポケモンを納得させつつ、トレーナー社会の上に立つのは容易ではない。この国だけで五千万人居ると言われるポケモントレーナーの内、中堅〜強豪と呼ばれるに値するバッジ五個以上を所有する者は百万人足らずで、残りは潜在能力の高いポケモンという生物を持て余している。これは時に手持ちの不満となり、主の手を噛む事態へと繋がることもあった。
それでも今まで大事にならなかったのは、多くのポケモンが知能面で人間に劣っており、こちらの都合の良いようにトラブルを収束できたからだ。もしも全てのポケモンが人並みの知能を持ち、言葉も操ることが可能なら、立場は早々に逆転していたのかもしれない。総監は一匹だけ、そんなポケモンに出会ったことがある。
優れた知能を持ち、人の言語を話し、能力的にもほぼ最高値を誇る史上最強と呼ばれたポケモン――それを開発した当時研究員のフジは、こんな名で呼んでいた。
「ミュウツー」
ソファの上で震えながらロケット団のプラン変更を聞いていた総監が、その名を口にする。向かいの席に座っていたサカキがほんの少しだけ目線を上げた。
「ミュウツーを用いて何をするつもりだ。まさか、ここを破壊するつもりでは……」
もはや腰を浮かせることもできない総監を、サカキは僅かに頬を緩ませ嘲笑う。このままでは警察が駆けつける前に、オフィス内で拘束されている職員らの命も危ない――息も詰まる恐怖に眩暈がしたが、開け放された出入り口から聞こえる奇妙な足音が、彼を奈落の更に奥底へ叩き落とした。肌を撫でる生温い風が過去を引っ張り出し、窒息を煽る。そちらに目を向けるのが嫌で艶やかな革靴に視線を落としたが、それは徐々にこちらに近づき、やがて目の端に薄紫色の足が覗いた。やはり、あのポケモンだ。
「挨拶くらいしたらどうです。四十数年ぶりの再会じゃないか」
サカキがこちらを弄ぶように白い歯を見せる。しかし総監はいよいよ生きた心地がせず、言葉を放つこともできなければ顔を上げる動作さえままならなかった。そんな姿を、ロケット団首領は益々嘲笑する。
「なるほど、総監はセキエイリーグ創立の立役者には目もくれないらしい」
彼が大げさに肩をすくめて息を吐いた直後――念力が編み出した衝撃波によって総監がいたソファが吹っ飛び、周囲の調度品を薙ぎ倒しながら後方に設置されていた彼のデスクへ直撃する。総監は間一髪でサカキの足元に転がって難を逃れたものの、ロケット団は眉ひとつ動かさずこの一撃を傍観していた。まるで見慣れた光景とでも言うかのようだ。総監は痛む身体を起こし、そしてようやく件のポケモンを視界の中心に捉えた。
二本の足でしっかりとカーペットを踏みしめるそれは、薄紫色の体毛を持ち、二メートル近い筋肉質の体躯をした神秘的なポケモンだった。幻のポケモン・ミュウを思わせる風貌に魅入られる者もいるだろう。ところが現在のそれは、どす黒い炎を秘めた紫苑の瞳を真っ直ぐにこちらに向け、今にも引き裂かんばかりの憎悪を湛えていた。
総監は間もなく死を迎えることを理解した。
一方ミュウツーは、いよいよこの男に制裁できる達成感から不思議と過去の記憶が蘇る。始まりは、とある研究者と母親の出会いから。
+++
七月五日。
ここはアフリカのギアナ。
ジャングルの奥地で新種のポケモンを発見。
七月十日。
新種のポケモンを『ミュウ』と名付けた。
まだ誰も発表されていない、幻のポケモンだ。この子はあらゆるポケモンの技を使いこなすことができる。学会にセンセーションを巻き起こすことになるだろう。
「そうすれば私も、ポケモン研究の権威に仲間入りだ。ありがとう、ミュウ!」
フジは日記を書き記しながらもたまらずに頬を緩め、傍にいる薄桃色の小さなポケモンに微笑んだ。神秘的で愛らしい姿に、蒼玉を思わせる大きな丸い目が、きょとんとしながら首を傾げる。そのポケモンは目の前にいる中堅研究者がどうしてこんなに喜んでいるのか、よく理解していないようだった。ただ彼と出会ってからの五日間、自分を必要とし、純粋な愛を注いでくれるフジにはすっかり懐いてくれている。小さなダンボールの空き箱の中でタオルに包まっていたポケモンはやがて安堵から、すやすやと穏やかな眠りにつく。
天使の寝顔をうっとりと見つめながら、フジはミュウの頬を撫でる。指の腹をくすぐる細かな体毛が心地良い。
「さ、解析を進めなくては……」
彼は深く息を吐いて休憩で緩んだ気持ちをかき出しながら、研究のために借りたコテージ内を見渡した。三畳ほどの薄汚れた空間には母国から持ちこんだ僅かな機材と、寝袋、そしてテーブル代わりにトランクが置かれている。未知のポケモン研究を発表すると息巻いて母国を飛び出した貧乏学者にはなんとお似合いの空間だろう――と、彼は自虐的な薄ら笑いを浮かべた。
彼はタマムシ大学卒業後、遺伝子工学研究所に就職したばかりだったが、配属されたラボの出資は打ち切り寸前だった。そこは専門とするポケモンの遺伝子操作において、道徳的な問題を指摘され、且つこれといった研究成果を出せていなかったのが大きな要因だろう。このアフリカ出張は大きな賭けだった。遺伝子研究で身体の弱いポケモンを改善するための――それが建前だったが、ミュウを前にするとフジに様々な好奇心の芽が顔を出す。
(この遺伝子を用いれば、どんなポケモンにも負けない最強の戦士を作ることが可能なんじゃないか?)
それは少年の頃からポケモンバトルの成績が振るわなかった彼の夢みたいなものだ。ポケモンバトルの腕はその人間の魅力に直結する。ポケモンを持っていなかったりバトルがてんで駄目な男は、よほど要領よく立ち回らない限り、誰からも相手にされることがないし苛められやすい傾向にあった。学業の権威であるタマムシ大学に進学すればその劣等感からも離れられる――とフジは考えていたのだが、先輩のオーキドやその友人らが街の郊外で行うバトルイベントが盛り上がって、やはり肩身が狭かった。その上オーキドなどはポケモンが全百五十種だと公表したり後世にも大きく影響を及ぼす研究を発表するなど、早くもエリート研究者として偉人に名を連ね、フジの劣等感をじわじわと煽っていた。ミュウの存在を発表することができれば、きっと状況は好転する。そう信じて、彼は研究を続けた。
二月六日。
ミュウが子供を産む。生まれたばかりのジュニアを「ミュウツー」と呼ぶことに。
しかし薄紫色の、まるでウサギの赤子のように小さな身体は生まれた直後から心拍数が低下しており、自然に淘汰されようとしていた。ミュウの大事な子を、このまま死なせる訳にはいかない。私は持ちうるすべての知識を投じてミュウツーを救おうとした。私の分野はこういうポケモンを救済すべく日々研究が進められている学問なのだ。
三月十二日。
自分の選択は間違っていなかった。
ミュウツーは命を繋ぎ、なんと背丈は母親であるミュウの倍以上となり、ありとあらゆる知識を吸収する優秀なポケモンへと成長した。読み書きもできるし、まだまだおぼつかないが言葉だって話せる! あの生まれた頃の空気が抜けるような鳴き声が、実験によって神秘的なメロディへと進化した時、私は息子を抱き上げて号泣したものだ。(なお、声質はコテージ周辺をうろつく野生のパラセクトを参考にした。線香花火を思わせる、私が好きな音である)
そう、ミュウが母親ならば私は父親に等しい存在なのだろう。ミュウツーも私を父と呼んでくれるし、私達の間には親子同然の愛情が生まれている。この子を自分と同じくらい優秀で、そしてどんなポケモンより強い存在となるよう育成しなければ――それが親の宿命だ。
ミュウツーはフジから与えられた知識を、言われるがまま片っ端から吸収していった。そうすることで父親だと信じている彼が歓喜する姿を見て不思議と満足感を得られることもあるし、栄養を摂取している実感も湧いてくるからだ。昨日まで何とも思わなかった窓の外に広がる青い天井も、それが空だと知り、その色を成す仕組みを知れば世界はぐんと広がっていく。
母親はそんな我が子を、コテージ隅の箱の巣に収まったまま嬉しそうに眺めていた。だが何でも出来た母親と違って、ミュウツーには覚えられないこともあった。例えばポケモン特有の“技”である。
「ミュウは何でも覚えられたのに、どうしてミュウツーは“居合切り”さえ出来ないんだ? もっと手を加える必要があるのだろうか……子は親を超える存在でなければ!」
昔も今も、ポケモンに技を覚えさせるためにはトレーナーがそれを引き出してやる必要がある。フジは分厚い技マニュアル本『技マシン』をタイプ別に全巻現地に取り寄せてミュウツーに読ませた。
「技、覚エル……」
おぼつかない口調で頷き、期待に添うよう必死で努力したが――結局、居合切りは覚えられずじまいだ。念力を刃の如く具現化し、それで代用しても居合切りの定義に沿っていないからとフジは納得しなかった。彼は日に日に余裕が無くなっていき、少しでも達成できなければミュウツーの前でひどく落胆した。そんな姿を見せつけられると、完全無欠と謳われ続けた自分が死にぞこないの赤子に戻ってしまうようで、ミュウツーは益々訓練に傾倒した。コテージ外の野生ポケモンを蹴散らし、アマゾンの密林を薙ぎ倒し、密猟者も手に掛けた――この比類なき力こそ我が象徴、と信じて疑わなかった。そうすれば父親も認めてくれる。
六月二十八日。
最近ミュウが私に悲哀の眼差しを向けるようになった。
子の一層の成長を願って何が悪いと言うのだ。私はミュウツーだけを連れて凱旋帰国することにした。
六月三十日。
ナナカマド博士がシンオウ地方に生息する新種のポケモンを発表。
一方、我が研究所の支援が打ち切られることが決定。
私はミュウツーの存在を所長に説明したが、ミュウを連れてこなければインチキ人造ポケモンだと罵られた。「図鑑ナンバーは“欠番”で充分」だと。
『イッシュ地方で発見された歯車型の新種のポケモンは“Klink”、和名はギアルに決定し、進化するとギギギアル、更に進化するとギギギギアルと巨大化するようで――』
古ぼけた居酒屋の片隅に置かれたテレビが、新種ポケモンのニュースを伝える。歯車が二つ連なった無機質な生物の映像が流れると、カウンターで安酒を煽っていたフジが唾を飛ばしながら大声で喚き立てる。
「なにがギギギアルだ。名前が安直、見た目も無機質でちっともポケモンらしくない。機械を見間違えたんじゃないか? ポケモンってのはなあ、もっと親しみやすく動物的であるもんなんだ! どうせ、またどっかのクソ研究員やマスコミがばら撒いたデマなんだろ」
赤ら顔にくたびれた綿のシャツ姿は周囲の客にとっては迷惑極まりない。隣に座っていたこの店に不釣り合いな身なりの良い紳士は、その下品な動向に眉を潜めながらも淡々と反発した。
「モンスターボールに入るのなら確かにポケモンだろう。コイルと似たようなものだ」
的確な指摘だが、フジはそれでミュウツーを認めて貰えなかった屈辱から、紳士に向けて食べかけのねぎま串を振りかざす。
「いいんですか、先輩。ボールに入るのなら、そのうちこの焼き鳥だってポケモンになってしまう可能性だってあるんですよ。ああ、もう終わったな……終わってるよ、この業界は……」
やがてフジは両目を潤ませてカウンターに伏し、おいおいと泣き崩れる。本気でこの分野を悲観している訳ではなく、流れに取り残された自分を認めたくないだけなのだろう。紳士は益々呆れ返った。彼はフジと同じ大学の先輩で元キャリア官僚、最近は創設されたばかりのポケモンリーグに勤務しているがここまで落ちぶれた後輩を見るのは初めてだ。
「君は酔うとタチが悪くなるな」
「酔いたくもなりますよ……研究が認められないまま次の当てもなく放り出されそうなんです……そうだ、ポケモントレーナー目指そうかな……今年からトレーナーの頂点を決めるセキエイリーグが始まるんですよね、先輩。ミュウツーがいれば史上初のリーグチャンピオンだって夢じゃない……ミュウツー、君は紛れもなく最強のポケモンだ。誰も君を越えられない、最高の息子……」
フジはカウンターに突っ伏しながら、よれたチノパンのポケットからモンスターボールを取り出して掌の中で弄り始めた。その中には何度も話の引き合いに出している未知の“遺伝子ポケモン”が収納されているのだろう。紳士はそちらに興味を向けながら、後輩に尋ねる。
「その件なんだがね。君の言うミュウツーってポケモンは、それほど強いのかい?」
彼は勢いよく顔を上げながら肯定した。
「ええ、それは勿論! どんなポケモンも敵わない、史上最強の存在ですとも! 何なら今すぐ外で確かめますか?」
「結構。私はもうバトルから離れているからね。話を戻そう。セキエイリーグを創設するにあたり、天下無双のスター選手が必要だなと思ってね。セキエイはトレーナー社会の総本山として存在すべきで、ならば誰もが頂点に憧れる、そこの顔となるようなヒーローが欲しいんだ」
紳士は視線をボールに動かしながら、ゆっくりと唇の端を持ち上げる。ヒーローという単語は、疲弊するフジにとって何より魅力的だった。
「それでミュウツーを!」
紳士が喜ばしげに目尻を下げる。
「話が分かる男で良かった。仕事がないならリーグ本部に職員として来ないかい? まだ組織が安定していないから研究関連に金は出せないが、君の活躍次第ではその分野へ手を広げることも可能だろう。トレーナー社会、そしてセキエイの未来を作るのは我々の手にかかっているんだ」
研究職から離れるのは悩ましいが、既にコネもなく次の仕事先も未定の今、この話は願ってもないチャンスだ。政府機関から独立したリーグ本部はまだ国との確執が残っているようだが、大学時代からやり手で通っているこの紳士がいればきっと何とかなるだろう。何より、ようやくミュウツーをお披露目できる場が用意されたことは大きい。
「良かったな、我が息子よ! これでお前の実力を世に知らしめることができるぞ!」
フジは擦れる声でボールにしがみ付く。両目はすっかり涙に濡れて、中に収まるミュウツーの姿が歪んで見えた。
七月七日。
今日は七夕。そしてリーグ本部初出勤日。
いよいよ我が子が他のポケモンとは一線を画している事実を証明する時だ。
ここで結果を出せば、局長を見返すことができる。
七月十五日。
ミュウツーがまた練習試合でケンタロスとルージュラに完封負け。
しっかり考察したから明日こそは。
こうして毎日戦い続ければいつかきっと勝てる。事態は好転する。私達は諦めない。
七月三十日。
ミュウツーが故障した。
膝の靱帯断裂……“自己再生”でも修復不能。三軍落ち。
リーグ開幕は直ぐそこに迫っているのに、これじゃ世間に実力を見せつけられない。
急に勝てなくなった。
ミュウツーはその原因を一刻も早く分析したかったが、医薬品の臭いが鼻を突く薄暗い部屋のベッドに寝かされ身動き一つとれない。“自己再生”での回復が追いつかないほど、身体は疲弊し、あちこちのねじが外れて文字通りの故障状態だった。今月上旬から現在まで、休みなく戦ってきたツケが回ってきたのだろう。そういうポケモンは他にもいて、この部屋のあちこちで呻いている。
もう命短い獣達と同じ部屋に放り込まれたことは、ミュウツーにとって大きな屈辱だった。ここはバトルで惨敗し、回復が間に合わないポケモンを集めておく部屋だ。未来への希望はここで絶たれている。本来ならば、自分が居るべき場所ではない。
「……待ってください! ミュウツーはまだ戦えます。どうかチャンスをください」
部屋の外からフジの声が聞こえる。その通り、自分はまだ戦える。
「そうは言っても、靱帯断裂じゃ……本戦登板は難しいね。ちゃんと面倒を見るならハナダ行きにはしないよ」
フジの知り合いである、あの男の声がする。掴みどころがなく、腹に一物抱えていそうなあの人間。
「間に合わせます! どこかの研究室を用意して下されば……より強靭な肉体、そして戦闘に長けたポケモンに改良しますから! どうか、私にチャンスをください! ミュウツーが活躍しなければ私は終わりだ……」
薄々感じていたが――フジはすっかり、ミュウツーと向き合うことはなくなっている。あらゆる知識を与えて期待をかけ、バトル中も判断はこちらに任せてフィールドの外で声援のみを掛けるばかり。それでミュウツーの功績を丸ごと自分の手柄だと信じているのだ。同じことを、ある女の声が指摘する。
「呆れた。ポケモンじゃなくて自分の体裁が大事なんだね」
フジは何も言い返さなかった。
ミュウツーはひどく失望した。この男は自分を子供だなんて思っていない。体裁を保つための都合のいい駒、本当はとてもちっぽけで、強迫観念に支配された生きる価値もない臆病者だ。ポケモンの力を借りて、まるで頂点に立っているつもりでいる。フジに限らず、トレーナーとはそういうものに見えた。傲慢な腰抜けである。
(そんな人間に、何故私が従う必要がある?)
身動きが取れず自問自答している間にフジの施術が始まる。彼は術中、ガラスケースに入れられたミュウツーに度々言い聞かせた。
「君は史上最強のポケモンなんだ! 百戦錬磨の豪傑が現れたとしても、負けるはずがない! 誰にも負けるはずがないんだ!」
そんな期待も、利己的な言い分だ。ミュウツーという最強の存在が、何故弱き人間に従う必要がある?
(私はこの支配と戦う……)
その手段は、破壊だ。
ミュウツーはガラスの鳥かごの中で、右手をかざした。
九月一日。
ポケモン「ミュウツー」は強すぎる。駄目だ……、私の手には負えない!
頭上であの男の声がする。
「自らの手に負えないポケモンを所持するものじゃないよ。君は今すぐリーグ担当から外れてもらう」
「申し訳ございません……」
傍でかつての“おや”の、消えかけた声がする。
目の前に薄らと彼の革靴が映っているのに、ミュウツーにはひどく遠くの会話に思えた。意識は宙ぶらりんのまま霧のように漂い、周囲の状況を把握することができない。研究室で持てる限りの力を解放し、機材を破壊しつくして、それから――
「リーグの強豪ポケモンやその他機材をほぼ総動員して体力を削り、鎮痛剤を大量に投与してやっと気絶か……後処理が面倒だよ。それにしても、プロ級のポケモンに暴れられると厄介だな。これから雇うプロトレーナーが妙な気を起こさぬよう、注意しなければ」
あの男はミュウツーがすっかり気絶したものだと思っているようだ。自己再生が作用しないほどの満身創痍を見れば、誰でもそう判断するだろう。ミュウツー自身も、視線を移動させることすらできず、死体のようにその場に転がっていた。
「すまん、本当にすまなかった……私は間違っていた……」
傍でフジがそんな言葉をぶつぶつと唱えていたが、死にぞこないへの嘲笑だろうとミュウツーは理解した。この男は自分を自尊心を保つための道具としか思っていない。追い打ちを掛けるように、あの男が吐き捨てる。
「こいつはセキエイリーグの目玉となるはずだったのに……やはり駄目だ、使えなかった。史上最強と謳われたポケモンでも所詮この程度か。やはり難しいのかな、バトルを生業とさせるのは……」
矜持を靴底で踏みにじられ、ミュウツーの中で何かが途切れた。命を繋ぐ、ごく僅かな力を延々と鍛え続けた超能力に変換し、剣に具現してあの男に飛びかかる。
「人間め……!」
身体中のあちこちで何かが引きちぎれる音がしたが、それより優先すべきは目の前の敵――覚えられなかった居合切りのつもりの、サイコカッターで男の腕を切り裂いた。
そして意識は途絶えた。
+++
「あれから洞窟の奥底に打ち捨てられて四十数年、私はこの憎しみを忘れたことは一度もない。今こそ私欲に塗れた薄汚い人間共に復讐する時だ」
復讐心だけを積み重ね、生き延びてきたミュウツーは目の前にへたり込む総監を真っ直ぐに睨み据える。人の言葉を紡ぐ不気味な声音に激しく精神を揺さぶられ、総監はようやく過去の所業を思い出した。忘れていたのではなく、ワタルに感化されて罪滅ぼしをしたつもりになっていた。今考えると鬼畜呼ばわりされてもおかしくない仕打ちである。ポケモンが好きで、リーグを設立したはずなのに――
「あの時は……本部の経営を軌道に乗せるため、セキエイリーグの創設が不可欠だったんだ。私もフジも結果を出すために必死で、ポケモンのことを見てやれなかった。本当に申し訳なく思う、今となっては……」
必死の弁明を払いのけるように、ミュウツーは身体の奥底から波動弾を膝を折る総監めがけて打ちつける。不意打ちの攻撃に、彼は背後でひっくり返っているソファまで弾き飛ばされた。胸がひどく傷んで、口の中が鉄の味で満たされた。あばらが折れたのかもしれない。
「今更命乞いか! ふん、傲慢な小心者め!」
激高し、追い打ちを掛けようとするミュウツーに、ソファに腰を下ろしたままのサカキが冷ややかに告げる。
「そいつはまだ殺すな。しばらく人質にする」
だが一度解き放たれた破壊衝動は簡単には抑えられない。ミュウツーはそれを無視して右手をかざそうとしたが、首領の軽蔑を含んだ冷たい視線にようやくブレーキがかかった。
「……では、他の人間を始末してくる」
ミュウツーは本部内の人間を残らず消滅させるつもりだ――すぐに把握した総監の脳裏に、セキエイスタジアムのスタンド前方を埋めていた本部職員らの姿が浮かぶ。三月のリハーサル、試合観戦を楽しんでいた誰もが翌日ビルですれ違うたび笑顔で会釈してくれた。「総監、昨日のリハーサル楽しかったですね」と。それこそ自分が組織創設から夢見た、セキエイリーグの集大成だったのに。カーペットの上で悶絶していた総監はさっと顔を上げ、赤く染まった唾を飛ばしながら声を振り絞った。
「しょ、職員の命だけは……!」
総監は激痛が走る身体を引きずり、ミュウツーの足元へ到達すると床に額をこすり付けながら懇願する。
「お願いします……私はどうなっても構わない。誠心誠意、謝罪させていただきますから……だから、本部内にいる職員と彼らのポケモンの命だけはどうか……どうか助けてください……お願いします……」