第13話:スピードチェイス
公園の床を蹴った直後、あっという間にビルの街並みが後ろへ流れてカイリューは自然公園上空まで飛び出した。時速二百キロ近い速度だが、十六時間程度で地球を一周できるカイリューの真価には及ばない。それでもこのスピードはトレーナーが耐えうる限界に近く、速さに特化した大型バイクでフルスピードを出力した体感速度と負荷、身体を切り裂く風圧がワタルをみしみしと痛めつけ、目まぐるしく変化する風景が彼の視界を狭めていく。
自然公園、草むら、河川――具体的にどの辺りを飛行しているのかは把握しきれないが、カイリューに任せていれば一時間足らずでセキエイに到着することができるだろう。彼は手綱をしっかりと握り、身体をドラゴンの背に密着させながら前を向く。ジョウト全域でモンスターボールが封印されているから空を飛んでいるポケモン乗りは皆無に等しく、障害物を気にしない飛行が可能だ。草原を滑空していくと日向ぼっこしていた野生のワタッコがその突風に巻き上がり、群れになって飛んでいるポッポ達がぎょっとしながら逃げ去っていく。そんな様子を確認できるくらいまで目が慣れてくると、ワタルは前を向いたまま不満を漏らした。
「オレがもう少し飛行に耐えられたら、更に速度が出せるんだが……」
騎乗するポケモンの負担を考慮し、ライダーは厳しい体重管理を強いられている。あまり軽すぎても空気抵抗や風圧に耐えられないし、フィールドを走り回るトレーナーとしてのスタミナも必要だからポケモン乗りのウエイトトレーニングは人並み以上の苦労を要する。ワタルに関しては高い身長もネックとなっているが、それでも自己鍛錬を続けていられるのは車両を超えるポケモンの速度と飛行の爽快感に何よりの魅力を感じているからだ。スピードに拘らなければボスゴドラに乗るシバのように自らが納得する体幹トレーニングをするのだが、この風と大地の支配感を一度味わうと妥協はできない。
遮るもののない空の上を、風を切って駆け抜ける――これほど心地よい時間があるだろうか。だが今は一秒でも早くセキエイ高原に到着することに集中した。少しだけ高度を上げ、ワタルは眼下に広がるスリバチ山麓のエンジュ郊外の街並みを一瞥するが、そこはひっそりと静まり返り、ごく日常的な時間が流れているだけに見えた。
「上から見た感じは、いつもと変わりない風景なんだが……」
カイリューも頷く。だが実際はモンスターボールがロックされており、街々は混乱に包まれているはずだ。先を急がなければ――ワタルは相棒の頭を撫でて手綱を握りしめ、更に速度を上げるよう合図を送る。ドラゴンは疾風を纏いながら雲を抜け、チョウジを通過してフスベに続く山を越える。ところが山頂を通過しかけた時、右側から発生した突風がカイリューを大きく煽り、その脇腹を撃つ。衝撃がふたりの身体へと駆け巡り、ワタルがドラゴンの背から放り出された。しかし手綱だけはしっかりと握り締めており、カイリューが離れた主を巻き戻すように身体を回転させながら背中へと引き寄せる。
これは自然現象ではなく、ポケモンによる攻撃だ。
ワタルは慌てて周囲を確認する。時速数百キロで飛んでいたドラゴンを撃てる存在はなかなかいない。恐らく同等のスピードを出せるポケモンの仕業だろう。再び横風を感じ、カイリューがそちらに首を向ける。美しい翼を広げた大きな鳥が、トサカを靡かせながら鋭い声でこちらを威嚇していた。
「ピジョット!」
存在を認識した直後、ピジョットから放たれた疾風の刃がカイリューに襲い掛かる。隙のない攻撃は回避させる暇も与えず、ドラゴンの頬を切って背中に跨る主のフルフェイスに傷を付けた。並のポケモンならばこの技、エアスラッシュで撃墜されている所だがチャンピオンの手持ちは違う。カイリューはやや高度を下げつつ、頬のちょっとした切り傷をそのままにして体勢を立て直す。
「なかなか好戦的だ。ロケット団のポケモンだろうか。ここからじゃマーカーが確認できないが――」
ワタルが判別しようと腰を上げると、今度は足元から突き上げるような衝撃が走って身体が浮いた。カイリューが慌てて主人を鞍へ戻そうと振り返るが、次いで手綱が切られワタルは空中へと投げ出される。瞬く間に身体の自由は失われ、緑広がる森林の中へと落下していく――が、首筋を狙う殺気を感じ、ワタルは素早くフルフェイスを脱いで風に抵抗しながらそれを勢いよく振り上げた。鈍い金属音が響き、目を覆うシールド部分に鈍色の腕がめり込む。そこでワタルは第二の攻撃を仕掛けてきた別のポケモンの存在を認識した。目にも留まらぬ速さで飛行する虫ポケモン、テッカニンだ。トレーナーは騎乗していなかったが、角状の触覚部分に“R”の形をしたICマーカーが装着されており、ロケット団の手持ちとして間違いない。
「やはり!」
声を上げ、枝葉突き出る森林まであと数メートルと迫った時、カイリューがワタルの下へ潜り込み、主の身体を抱え上げて飛翔する。すかさずピジョットとテッカニンが互いに距離を取りながら後を追ってきた。どちらもカイリューに匹敵、あるいはそれをも上回る素早さを誇っており、ぐんぐんと距離を詰めてくる。ワタルが居る手前速度制限せざるをえないカイリューに対し、あちら二体はトレーナーが騎乗していない分、フルスロットルが可能である。
そして先に攻撃を仕掛けてきたのはピジョットだ。翼を畳んで一気に加速し、ついにドラゴンの尾の先まで接近する。
「カイリュー、ドラゴンテール!」
ワタルの命令に合わせてカイリューが素早く身を捻じり、尾を振るってピジョットを薙ぎ払う。豪快な動きでドラゴンがたすき掛けしていたサイドバッグも浮き上がり、ワタルの手の届く高さまで跳ねたところで、彼はそこから素早くボールを一つ抜き出して蓋を閉めた。この大技によって軽々と後方に弾き飛ばされた鳥をするりとかわし、今度はテッカニンが迫ってくる。ワタルはバッグから取り出したボールのスイッチを入れ、不敵な笑みを浮かべた。
「二度目は食らわないよ」
トレーナーに斬りかかろうとしたテッカニンの刃を受け止めたのは、岩肌のように硬いプテラの石頭だ。ぎょっとするポケモンに、プテラが原始の力を解放して圧倒した。この至近距離で苦手属性の、それも並の岩ポケモンよりずっと鍛え上げられた技を食らってしまえばひとたまりもない。テッカニンは一撃で気絶し、止まり木を追われた蝉のようにふらふらと森の中へ落下していった。するとプテラは翼を広げ、さっと身を翻してその後を追う。思わぬ行動にワタルとカイリューは目を見張った。
「プテラ! 相手はもう気絶したんだ、トドメを刺さなくたって……」
そう咎める前に、古代ポケモンは杉の木に引っかかっていた光物を持って主の元に戻ってきた。よく見ると、先ほど落下した際にテッカニンの攻撃を防いだフルフェイスである。シールド部分からぐにゃりとひしゃげ、一目で修復不可能と分かる状態だ。
「弁償だな……」
ワタルは溜め息をつきながらサイドバッグにフルフェイスを括り付けると、カイリューの背に跨り直してセキエイの方角を目指すことにした。念のため上空から相手トレーナーの存在を探してみたが、辺りは一面シロガネ山へ伸びるフスベの峰々が並んでおり、人の気配はない。カイリューとプテラの目でも確認することができなかった。しかしコガネから出発する際に、ロケット団の下っ端は「各地でケーブル切断チームがセキエイに向かう者を監視している」と言っていた。ボールがロックされているから、空の移動は非常に目立つ。ずっと遠くからポケモンを嗾けているのかもしれない。いくらでも応戦してやるつもりだが、地上も同様だろうか。
(キョウさんとイツキくんは大丈夫かな? 公共交通機関はストップしているし、高速も一部閉鎖されているのか車の通りは普段より少ないけど……)
+++
それはワタルが出発する一時間半ほど前のことだった。
キョウの車に乗ってセキエイを目指すイツキは助手席のサンバイザーを下ろして西日を防ぎつつ、無言でハンドルを握る運転席の同僚に尋ねる。
「そういえば気になっていたんだけどさ」
キョウは一度だけそちらに視線を向け、会話を受けられる意を示す。彼は早朝意識が戻り、元弟子を引き連れて昼過ぎにジムリーダー合同会議へ乗り込んできただけにまだ顔色は優れない。本来ならばこの状態で運転はご法度だが、二人ともポケモンを足にしておらずイツキはまだ自動車免許を取得できる年齢ではないため致し方ないことだった。しかし、この車はイツキにとって不可解な点がある。
「確かにキョウさんに渡されたキーで開いたし、こうして走れてるから絶対だとは思うけど……この車、なんでタマムシナンバーなの? いつも通勤に使ってるレクサスLSのFスポでしょ。まさか天プラじゃないだろうね」
会議室を出る際、キョウから自家用車のキーを受け取っていち早く駐車場を目指したイツキだったが、確かに彼が日頃足にしている車種だというのに、何故かナンバーだけが違っていたのだ。偽装ナンバーならば一大事だが、当の運転手はまるで悪びれる様子がない。
「ポケモン乗りならまだしも、コガネからセキエイまでゆっくりドライブしていたら日が暮れる。だからコガネに来る前にリミッターを外して、その長距離走行に耐えられるエンジンにしておいた」
この車は最大で時速二百五十キロ以上を出すことが可能だが、通常国内では百八十キロ程度で制限がかかる仕組みになっている。この装置を自動車整備工場勤めの元弟子に頼んで解除したのだろう。車は着々とコガネのインター目指して速度を上げていた。
「あー、なるほど。そんな車を四天王が法定速度無視する前提で運転してるのはマズいよねえ……」と、イツキは一旦納得しつつ「オジサン、そういうことしてるから刺されるんだよ! 反省しなよね、皆心配したんだよっ」と鋭く叱責した。
セキエイでは最も仲が良かっただけにイツキは特に彼のことを心配し、また娘の憔悴も目の当たりにしていたため、語気には一段と怒りが籠められている。これにはさすがのキョウも頭を下げた。
「すまん……まさか一月近くも病院で眠り続けることになるとは思わなかった。昔なら対処できたんだが」
「もう若くないんだから無理しちゃ駄目だって。どうせ病院も抜け出してきたんでしょ……まあ今回だけ見逃しとくけどね」
彼は調子よく胸を張った後、キョウに賛同するように悪意を含んだ笑みを見せる。
「ワタルは一時間くらい後にコガネを出ても僕らに追いついてくるよ! ポケモン乗りには絶対負けたくない、かっ飛ばして行こう!」
チャンピオンをライバル視し、共に乗り物好きな彼らの間には自然と連帯感が生まれていた。
間もなく車は高速の入口へと近付いてくるが、各地でこれだけの騒ぎが起きているというのにインター周辺は他の車もなく警察もいない。異変を感じ取った二人の表情が、互いに言葉を交わさずとも緊張で引き締まる。ETCゲートに接近していくと、その両隣から趣味の悪い柄シャツに黒いスーツを着た男が二人現れた。
「おっと! こちらは通行料が必要になっていますです」
奇妙な丁寧語を口にする男らは、下品な笑みを浮かべながらサイドウィンドウを覗き込む。どう見ても料金所の従業員ではなく、上着のラテルに付いた薄緑の羽根型のバッジが西日に反射していた。キョウはそちらへ不審げな視線を向けながら、センターコンソールに付いているダイヤルボタンに手をかける。右へ動かし、ドライブモードをスポーツに。
「金はあるだけ徴収する――」
彼らが言い終わる前に、キョウはアクセルペダルを踏み込んで急発進をかけた。機能を変更したことによりアクセルの反応が研ぎ澄まされ、車はタイムラグのない滑らかな動作でバーを跳ね飛ばし、ゲートの先へ飛び出していく。「待ちやがれ!」一気に加速が掛かったことで男達の罵声はものの数秒で消えてなくなり、イツキは助手席の上で腰を跳ねて喜んだ。アスファルトを駆け抜けるレクサスは馴染みのポケモンに騎乗しているような一体感を再現していたが、そちらと違ってラグジュアリーな車内は気密性が高く、音も静かで乗り心地は非常に快適である。
「やるゥ! あれさ、どう見てもロケット団だよね」
その問いかけに、車を走らせるキョウは眉をひそめた。
「いや、どちらかと言えば極道のような……地方のヤクザまで動員しているらしいから、それじゃないのか? 背広のラテルに付けていたグリーンバッジが気になったが……」
あのバッジは、どう見てもトキワジムのグリーンバッジだった。ほんの一瞬しか確認できなかったが、かつてそのバッジの管理を任されていた身としてはどことなく違和感を覚える。質感がチープに見えたのだ。
「そんなの付けてたー?」
助手席に座っているイツキは身を乗り出して後方を覗き込み、その瞳に何かを捉えて車内に素っ頓狂な悲鳴を響かせた。
「うわっ、追ってきた!」
バックミラーに炎が映り、それがみるみる馬の形を成して車の後ろを猛追する。最高時速二百四十キロ、新幹線に並ぶ足を持つ火の馬ポケモン・ギャロップだ。その背には、先ほど顔を合わせた男の一人が跨っている。キョウはアクセルを踏んで車を更に加速させながらイツキにがなり立てた。
「イツキ、お前のポケモンで応戦しろ! チリーン以外の、なるべく小柄で軽い種類」
「去年の試合、まだ根に持ってんの?……まあいいや、それじゃベストなポケモンはネオ、君に決めた!」
キョウは昨年、チリーンに惨敗してからそのポケモンを嫌っている。イツキは呆れつつも車に乗り込む際にボールに戻していた相棒を後部座席に召喚した。身長一.五メートル、体重十五キロと走行中のレクサスに負担を掛けない大きさである。
「行け、サイコキネ……」
キョウに後部座席の両側の窓を開けてもらい、ネイティオはそこから念力を発射しようとしたが、左側の窓に追いついたギャロップが鳥を狙って火の粉を放った。意外に小規模な先制攻撃にイツキは目を見張る。ネイティオは溜めた念を主人が指示する前に光の壁へと切り替えて、炎の侵入を防いだ。
「ナイス、ネオ! もういっちょ、ギャロップにサイコキネシス! トレーナーに当たるとまずいから足狙って!」
イツキのフィンガースナップに合わせ、すかさずネイティオが強力な念でギャロップの四肢を撃つ。火の馬はがくりとバランスを崩し、その隙にレクサスが距離を開いた。交通規制が敷かれ、ロケット団もインターで妨害しているからか他に高速を走っている車はまばらである。キョウはその間を巧みにすり抜けながらギャロップをみるみる引き離し、他の車に紛れることで彼らの視界から身を隠す。無茶な運転に癒えていない腹の刺し傷が疼いたが、気にしている暇はない。ところが五分後、再びバックミラーの隅に炎が灯り、イツキが喚声を上げる。
「しつこいな! 上に人が乗ってると攻撃しづらいんだよ!」
取り乱すイツキに対し、キョウは冷静に言い放つ。
「トレーナーごと吹っ飛ばせばいいだろう」
「ポケモン乗りを撥ねたら一発免停だよ? プロ資格も取り上げられちゃうかも」
「俺は命(タマ)を取られる方が御免だよ」
涼しげに告げる同僚の顔が入りこむバックミラーの大部分には、後続車を炎で蹴散らし一心不乱に追跡する暴れ馬が映し出されている。あの炎がエンジンに引火すればひとたまりもない。徐々に拡大するその姿に覚悟を決めたイツキは、ネイティオに目配せしながら迎撃に備える。しかし突然、火の馬が疾風を纏って加速した。高速移動だ。ポケモンの勝手な意志で発動したらしく、背に跨るトレーナーも仰天する。フルスロットル状態のギャロップは瞬く間にレクサスの背後に追いつき、左側から追い越そうとする。そこでキョウが力強くブレーキペダルを踏みながらドアロックを解除し、イツキに叫んだ。
「ドア開けろ!」
イツキが反射的に助手席のドアを開いた瞬間、車が急停車してそこにギャロップが勢いよく追突し、空中へと跳ね飛ばされた。千切れたドアと共にトレーナーもギャロップの背中から浮き上がる――イツキはダッシュボードに激突しそうになりながらも、ネイティオ向けて必死に叫んだ。
「今だ、ネオ! トレーナーをテレキネシスで引き離せ!」
ネイティオは後部座席の窓から念力を放ち、トレーナーを浮遊させてギャロップから引き剥がす。そのまま高速道路下に広がるスリバチ山付近の森林へ移動させると、主を失ったギャロップはほっとしたように立ち止まり、車を追うのを辞めてしまった。相手が戦意喪失したことを確認したイツキは、アームレストにしがみ付いたままか細い声で謝罪する。
「ごめん……ドア取れちゃった」
「来月で車検切れるから丁度いい。バリアーで塞いでおいてくれ」
キョウがバックミラー越しにネイティオへ目配せすると、鳥はすぐに風が吹き込む助手席に幾重にも壁を張って、即席の『見えないドア』を作る。車はその場所から再発進し、瞬く間にエンジンの回転数を上げて風になるが運転手は不満顔だ。
「ギャロップが追ってくると分かっていたらポルシェに乗り換えていたんだがな。“もう若くないから”無難な車を選んじまった」
ギャロップに追い抜かれかけたことを悔やむその台詞からは、ポケモン乗りに対する対抗心が滲み出ている。それはバイクを足にするイツキも同様だった。
「ワタルは例外だけど、ポケモン乗りって結構横柄なの多いよね。さっきみたいに、わざわざポケモン侵入禁止の高速に乗りこんで煽ってくんの。だからギャロップから引き剥がしてやったんだ。オジサンさ、やっぱり昔は峠でポケモン乗りと勝負してたんじゃない?」
「俺はお前と違って昔から品行方正な少年だったからそれはない」
彼は即座に否定するが、それを口にしている間にも車線などお構いなし、軽やかなハンドリングで前を行く車を次々抜き去っておりその発言に信憑性はない。
「優等生は前の車、ごぼう抜きにしないよね」
イツキはバックミラー越しに後部座席のネイティオに首を傾げる。ふいに、鏡の中の空に黒い点が浮かび上がった。空気を歪ませ、こちらに迫るその姿にイツキは真っ青になって息を呑む。
「次はジェット機が来たよ……」
そのスピードから生まれた空気の刃で高速道路のガードレールを切り裂き、鋭い眼差しでレクサスを狙うのはマッハポケモン、ガブリアスである。数秒前は遥か遠くに見えた小さな影は、後続車を風圧で払い除けながらはっきりと姿を現してくる。
「追いつかれる! ネオ!」悲鳴を上げるイツキに、キョウが答えた。「掴まってろ、追い抜かれる前に叩く!」
キョウは即座にギアをバックに入れると、そのまま急加速してカブリアスの後ろ脚へと突っ込んでいく。まさか標的が急バックで攻め込んでくるとは思わず、ぎょっとするドラゴンの爪先で彼は勢いよくハンドルを切った。そのままブレーキを軽く踏んで後輪を軸にしたまま再び加速すると、ガブリアスの爪をフロントグリルに引っかけ車体は軽やかに一回転。ドラゴンを地球投げよろしくガードレールに叩きつけた。
レクサスが高速の進行方向にハンドルを切る間に、助手席で揺さぶられていたイツキがようやく身を起こして追撃を仕掛ける。
「そのバックスピンターン、今度教えてね! ネオ、あいつにサイコショックだ!」
ひしゃげたガードレールの上で伸びているガブリアスの腹目掛け、ネイティオが後部座席から具現化した念力を放って追い打ちを掛けた。騎乗していたライダースーツのトレーナーが慌ててポケモンを立て直す、その僅かな時間でレクサスは遥か彼方まで逃げ延びる。だが分類・マッハポケモンの名は伊達ではなく、ものの十分で視界に車を捉える距離まで詰め寄っていた。キョウは更に加速を掛け、スピードメーターはいよいよ時速二百キロを超えようとしていたがドラゴンを引き離すには至らない。窓からエアスラッシュを放つネイティオの攻撃をすり抜け、とうとうガブリアスはドラゴンクローを屋根に突き刺して大穴を空けた。突風が車内温度を急激に低下させ、ぶり返す傷口の痛みを堪えながらキョウは舌打ちする。
「畜生、これほど軽いムーンルーフなら娘も喜ぶよ!」
穴に鉤爪を引っかけ、屋根を破壊しようとするガブリアスをネイティオが後部座席から念を放って追い払う。
「逃げても逃げても追いついてくる、あのスピードを何とかしないと!」
イツキは助手席の上で膝をつくと、天井に開いた穴からネイティオを外へ放ち自身もそこから顔を出した。すかさず相手ドラゴンによる疾風の刃が飛んできたので首を引っ込め、最大速度で走行中の車に揺られて転びかけたが、キョウが彼の腰を押し強引に体勢を戻してくれる。少年は穴から半分顔を出し、改めて叫んだ。
「トリックルーム!」
ネイティオは持ちうる限りの念力で、なるべく広範囲の摩訶不思議な空間を形成した。半径五十キロといった所で、その中を飛行していたガブリアスの動きが鈍り、瞬く間にレクサスが突き放す。騎乗していたトレーナーが慌てふためき、ドラゴンの首を叩くが、こればかりは対処のしようがない。
ルーフにネイティオを乗せたレクサスがトリックルームの空間から抜ける寸前に、イツキが更に追撃を命じた。
「ネオ、とどめのサイコキネシス!」
後頭部から伸びる二本のトサカを疾風になびかせ、ネイティオがさっと翼を広げる。一斉に解放された念力が、その勢力を保ちながら遥か後方で立ち往生するガブリアスに直撃した。ダメージが蓄積されたドラゴンはその場にぐったりと倒れ込み、それを確認したイツキは勢いよく拳を振り上げる。
「見たか! こっちは桁違いの強さを誇るガブリアスと毎日戦っているんだよ、並のトレーナーのポケモンなんて――」
するとガブリアスが居る場所に眩い光が煌めいて、そこから光線が真っ直ぐに発射された。その技、破壊光線はガブリアスの最後の悪あがきだ。キョウが反射的にハンドルを右へ切って直撃を回避したが、ドラゴンの強力な光線は前方百数メートル先に掛かる橋を粉々に撃ち落とした。
「なんてこった……そこ渡ってようやくチョウジへ行けるってのに!」
絶望の悲鳴を上げながらブレーキに足をかけるキョウを、イツキが引き止める。
「いや、大丈夫。そのままアクセルべた踏みで突っ込んで!」
「正気か? せっかく生き返ったのに、お前と心中したかない!」
イツキは尚も引き下がらない。キョウの肩を掴んで自信漲る眼差しを向けた。
「絶対平気、僕を信じて!」
これだけ押されようとも何度も期待を裏切られてきたから、キョウは彼に命を預けようとは思わなかった。保険としてドアポケットにアリアドスの入ったボールを置き、万が一に備えつつアクセルをフルスロットルにする。ワイヤー並の強度を誇る糸を操るのだから、安全ネット要員としては申し分ない。イツキは天井の穴に爪を引っかけ、ルーフに立ったままのネイティオへ声を張り上げる。
「行くぞ、ネオ――飛べ! テレキネシス!」
レクサスが崩壊した橋を飛び出す寸前で、ネイティオは先ほどトレーナーを持ち上げた以上の念力を解き放ち、車体を浮遊させて反対側へアシストする。飛行距離は三キロ程度、一分足らずの浮遊ドライブだったがハンドルを握りしめたキョウの両手はすっかり血の気が引いていた。しかし着地の衝撃で我に返り、すぐにハンドルを切って車を半回転させながらダメージを軽減し、セキエイへと続く高速道路を走り出す。
「やったー、大成功!」
イツキは後方を振り返って上手くジャンプ出来た事を確認し、大はしゃぎだ。一昨年スイクンを捕獲した際に同様の技をリトルカブで挑戦し、成功した前例から試みてみたのだがこれほど上手くいくとは思わず、相棒の成長を実感する。あまりの嬉しさにキョウにフィストバンプを求めてしまった程だが、彼は青い顔をしてすっかり呆れている。
「無茶しやがって……」
これだけ応用が利くほどに鍛え上げられた超能力は大したもので、ひとまず引きつり顔で感心したものの、先ほどの大きな衝撃は刺し傷の痕に更なる悪影響を及ぼしていた。早朝目覚めてから気にしないようにしていた違和感がずきずきと身体を蝕むが、離脱には早すぎる。キョウは運転に集中することで痛みから目を背けることにした。助手席のイツキが気付いていないのはある意味で救いだろう。彼は興奮が醒めず、後ろばかり気にしている。
「もう追ってこないのかな。セキエイに向かう車を次々叩いてくるものだと思ってた」
「恐らく……一部のインターで見張っていて、侵入者を発見次第潰しているのかもしれんな。ここにまで人を回せるほど駒はいないんだろ」
チョウジに繋がるインターを通り過ぎても、追手はやってこなかった。各地の暴力団まで駆り出し、元弟子まで引き入れようとしていたのだから人手不足は否めない。有言実行の師だとしても、サカキがここまでしてセキエイを落としたい理由がキョウには理解できなかった。
「ポケモンもあんまり育成されてない感じだったよね。進化させただけのポケモンを無理やり従わせてるみたいな。ギャロップが最初に火の粉で攻撃してきたからびっくりしたよ。ちゃんと技を引き出しきれていれば、二匹のどちらかにレクサスごと消し飛ばされてたよね……」
イツキがふいに溢した発言には身に覚えがあった。トレーナー成りたての頃、キョウはマスターバッジでポケモンを服従させていた。あれに匹敵する力を持った道具は他にも存在する。
(あのグリーンバッジ……)
しかし、その効果を持つグリーンバッジは素人では容易に手に入れることができないはずだ。思考を巡らせるとまた腹の傷が疼き、キョウはその件の考察を一旦置くことにした。するとそれを忘れさせるようにフットレストに置いたポケギアが鳴る。視線をそちらに動かす前に、イツキが上ずった声で電話を引っ手繰った。
「アンズちゃんだ! 僕、出るね!」
彼は問答無用で通話ボタンを押す。厚かましい動作にキョウは絶句したが、車を停めることもできないので「ハンズフリーにしろ!」と鋭く指摘することしかできなかった。イツキは慣れない端末に四苦八苦しつつ、電話を取ってから二分後に応答する。
「もしもし! お父さんは運転中につき、イツキが出たよ。アンズちゃん、大丈夫?」
予想外の人物が出たことでスピーカーの奥から、慌てふためく声が響く。彼女は少し混乱していた様子だが、短く深呼吸して冷静さを取り戻した。後ろで聞こえる雑音から察するに、病院にいるらしい。
『は、はい……リーグ本部にいたんですけど、ビルがロケット団に占拠されて大変なことになっています。あたしはカリンさんとシバさんと一緒にポケモンで脱出し、その時ちょっとだけ怪我して今は病院です。ジムリーダー会議も大変だったことをグリーン師匠にさっき聞いて、父がマチスさんの端末を持ってるって言うから電話しました。あの、父は大丈夫ですか?』
平気、心配かけてすまない――と謝罪を紡ごうとした父親をイツキの弾んだ声が遮る。
「うん、元気元気! 横で車飛ばしてるとこ!」
『良かったあ……じゃ、あたしもタマムシに行かなきゃ。ちなみにカリンさん達は今、セキエイの警察署にいます』
そこですかさずキョウが同僚からポケギアを強奪し、単刀直入に尋ねた。
「怪我の程度はどのくらいだ?」
突然の聞き慣れた家族の声にアンズは狼狽しつつ、まずは答えを優先した。
『えっと……腕をちょっと切ってて……』
舌を縺れさせながら頭に浮かんだ言葉を並べる口ぶりに、キョウはすぐに嘘だと見抜いた。奥の方で「あまり動かしちゃ駄目よ」と彼女を注意する看護師らしき声も聞こえる。
「無理するんじゃない、そこでしばらく待機していなさい。カントーのリーダーは五人でも十分機能する戦力だ」
『お父さんこそ……』
それ以上話すとこちらが不利になるので、彼はバッテリーの残量を言い訳に通話を強制終了させた。ポケギアをフットレストに投げる父親を、イツキがやや軽蔑を含んだ眼差しで睨む。
「自分の娘には無茶させないんだ」
「怪我している上に、リーダーの中では一番の下っ端だからな。タマムシに行ったところで大した戦力にはならんだろう。新人を抱えているのはジョウトも同様だが、カントーを指揮するのはどうも頼りないカツラだし」
キョウが適当な理由を付けて誤魔化すと、ジムリーダーの事情に明るくないイツキは「複雑な事情があるんだねえ……」とはぐらかし、それ以上追及することはなかった。純粋にチャンピオンの夢を追いたいイツキは、このようなプロのしがらみが苦手である。そんな会話を繰り広げているうちに、フスベの山々を越えて夕暮れに染まる霊峰シロガネ山を背にする新興都市セキエイ高原の街並みが見えてくる。時刻は五時過ぎ。二十六番インターへ入って遠くにリーグ本部ビルがうっすらと浮かぶ下道を走っていくうちに、イツキが空を飛ぶ何かに目を留めた。
「ねえ、空見てよ。鳥ポケモンがいる」
キョウも運転席から空を覗き込み、目を細めて首を傾げる。
「飛行機じゃないか?」
「いや……良く見るとあれは――」
イツキとキョウが声を揃えて一驚する。
「チャンピオンだ!」
満身創痍のレクサスの傍へ降下してきた飛行物体はプテラとカイリュー、それに騎乗するワタルだった。彼は赤毛を靡かせながら車と並走し、二人に向けてにっこりと微笑んだ。
「お待たせ」