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第3章
第11話:破壊の号令
 四十八階のエレベーターホールを見張っていたロケット団構成員は、ふいに人の気配を感じて非常階段の扉を開けた。靴音を響かせ、下の階に移動する同胞が二人見える。大柄と細身という対照的な組み合わせだ。傍にはヘルガーもついており、直ぐに視界からいなくなってしまった。
(服装を見る限り、アポロ様ではないが)
 組織の中でそのポケモンを従えさせている者といえば、真っ先に大幹部アポロの名が出てくる。他は思い浮かばず、下っ端があのポケモンを所持しているなど初見だ。大幹部の嫉妬深い性格をよく知っている者なら、誰も彼と同じ手持ちを選ぼうと思わないはず――自然と足が動き、階段から身を乗り出して二人に尋ねた。
「おい、そこのお前ら! 何故ヘルガーを連れ歩いている」
 無骨な声が構成員の服に身を包んだシバとカリンの耳朶を震わせる。咄嗟に身構えるシバの服の裾を引っ張り、カリンが目深に被った帽子で顔を隠しながら、彼に台詞を囁いた。
「上のフロアにいた職員から強奪した」
 シバが彼女の台本通りに告げると、構成員は唇を上げつつ呆れるように忠告する。
「やるじゃねえか。でも知ってるだろ? ヘルガー使いのアポロ様にバレちゃ面倒だぜ、しまっとけ」
 カリンが無言で頷き、シバも「すまん。忘れていた」とそれに続く。構成員はやっぱりな、と息を吐きながら肩をすくめた。
「アポロ様は執念深いからな。ボスは気にしていないようだが、四天王殺傷事件で輩を嗾けたのはあの人だってもっぱらの噂だ。お前らも気を付けろよ」
 思わぬ話に結びつき、二人は息を呑む。それはまさに、このビルジャックが発生するまで彼らが解明に急いでいた事件だ。黒い帽子が制服の一部だったことが幸いし、動揺が悟られることはなかったのでシバは平静を装いながら慎重に探りを入れる。
「何故四天王は刺されたんだ? その辺おれには理解できなかった。二年前の報復か?」
「そりゃボスがリーグ本部を乗っ取った際に、あの四天王を役員に据えようとしたからだろ。昔の一番弟子で、気に入ってたみたいだし経歴も申し分ない。だが余所者がいいポジションに座るなんて、右腕のアポロ様は不満に決まってる……ボスはそこまであの方を買ってないようだけど。お前、これくらい察しとかねえと、出世できねえぜ」
「ああ、だから下の見張りだ」
「ヘマしてミュウツーにボコられねえようにな。あいつ、カントーとジョウトにボールキラーをばら撒き終わったんだから、とっとと外へ出て暴れてこいってんだ。見境のねえ化け物だよなぁ……」
 ミュウツー。二人が初めて耳にする名だ。互いに顔を見合わせながら、「ああ、そうだな」とシバが短く答えるとその構成員は持ち場へと踵を返す。取り澄ました顔で階段を下りながら、カリンがぽつりと切り出した。
「なるほど……だからオジサマは刺されたのね。前からロケット団にアプローチされていたのかしら。悩んでいる様子は見せなかったけど」
「あいつが今の立場を手放してロケット団側に付くとは思えん。断るつもりでいたんじゃないのか。結果的にビルは占拠されてしまったが……奴ら、ここをマフィアの資金源にでもするつもりか? 職員丸ごと人質にしてこれまで通り商売を続けられるとは思えん」
「だからランスが暴力団を襲った時のように、被害者の記憶をオーベムなんかのポケモンで操作するんでしょう。そんなの願い下げ……ところで、ミュウツーって何かしら。ミュウのメガシンカとか?」
 しかしミュウは幻の存在であり、誰も目にしたことがないほぼ都市伝説のようなポケモンだ。シバも首を捻る。
「おれも分からんが、これ以上話し込んでいる暇はない。外も一大事になっているような口ぶりだった。一刻も早く娘を保護して状況を把握しなければ」
「そうね。建物内の通信は遮断されているから、何とか外へ出て警察の協力を仰ぎたいところだけど……」
 使える端末はカリンの掌に握られた、ロケット団専用の端末のみ――それが突然通信を受信して、非常階段の籠った空間に報告を轟かせる。
『四十九階の見張りが何者かに襲撃され、消え失せた! 犯人が近くにいるはずだ! 探せ!』
 もう明るみになった――二人は目配せし、一心不乱に階段を駆け下りる。目的階まであと二階、手摺を滑り降りるように疾駆し、ヘルガーが後に続く。カリンはポケットからロケット団の免許端末を取り出し、シバに尋ねた。
「念のため聞くけど、ボールの無線パスキーはデフォルトのまま?」
「愚問だ!」
 三段飛ばして階段を飛び降り、四十七階へ到着した途端――フロアへと繋がる扉が開け放たれ銃火器を手にした三名のロケット団員が現れた。その後ろにはブーバーンとマタドガスもいる。彼らは仲間と鉢合わせしたのかと、ほんの一瞬安堵を覗かせたが、それを通信端末の音声が否定した。
『非常階段の踊り場付近で仲間を発見! 聞くところによると犯人は四天王で、我々と同じ格好をしているぞ!』
 屈強な大男とヘルガーを連れた華奢な構成員――極端な組み合わせと、一介の下っ端とは思えない風格にすかさず彼らと鉢合わせした構成員の一人が通信に応答する。
「こちら四十七階、ネズミを見つけたぞ!」
 三人の黒づくめの間を縫って、ブーバーンとマタドガスが即座に前衛に躍り出る。すかさずヘルガーも応戦し、地獄の底から湧き出るような唸り声を放ってポケモンの戦意を根こそぎ奪い取った。研ぎ澄まされた技は相手トレーナーをもたじろがせ、その隙にカリンが近距離無線でシバが構えたボールを解除する。数秒遅れて、薄暗い非常階段を大きく揺るがす咆哮を上げながら、鋼の皮膚を纏った巨大な怪獣ボスゴドラが現れた。
「乗れ!」
 シバがロケット団の上着を脱ぎ捨てながらボスゴドラに跨り、カリンの腕を引っ張る頃には彼女はふわりと宙に浮かんでいた。ボスゴドラが階段を蹴り、段差を丸ごとスキップして飛び降りていたからだ。直後に踊り場に着地した衝撃はカリンの身体に鈍痛を走らせ、振り落されそうになったところをヘルガーが支えてくれる。
「痛い! 無茶し過ぎよ!」
「しっかり掴まってろ、追手が来るぞ!」
 同僚の悲鳴など考慮せず、シバがボスゴドラを再発進させた。牽制されていたロケット団構成員が向けたマシンガンの弾丸を尾で跳ね除けながら、残りの階段を飛び降りてヘルガーと共に四十六階へ着地する。鋼の角で扉を突破し、エレベーターホールへ滑り出るもそこからオフィスへ伸びる通路はどれだけ走ろうと不気味なほどに無人だ。シバはフロア内によく通る声で少女の名を呼ぶ。
「アンズ、いるか!」
 応答はない。シバの背中にしがみ付くカリンも辺りを探るが、それらしき姿は見当たらない。「オフィスの中かしら。それならボスゴドラで――」と言い終わる前に、背後からじりじりと焦げ付く熱を感じ、白い炎を纏ったブーバーンの拳が飛んできた。
「ブーバーン、炎のパンチ!」
 即座にヘルガーがボスゴドラの前に出てパンチを額で受け止める。摂氏二千度とも言われるその炎を身体に吸収し、倍の猛火にして押し返した。視界を歪ませる熱を帯びたヘルガーの炎はブーバーンを一撃で仕留めたばかりか、通路のカーペットを焼きつくし壁を焦がして火災報知器と天井のスプリンクラーを一斉に作動させる。
「やりすぎだ!」
 シバの罵声をかき消すように、追手のロケット団がブーバーンを下げてマタドガスを嗾けた。「馬鹿にしやがって! 大爆発!」その姿は今にも破裂しそうなほど膨張している。
「ボスゴドラ、ヘビーボンバー」
 相手の指示に被せるようにシバが咆哮すると、ボスゴドラは軽やかに眼前に迫るマタドガスの上にのしかかって鋼の蓋をする。直後に腹の下でくぐもった破裂音がしたが、ポケモンへの効果はいまひとつ、カリンがその衝撃で小さく跳ねて終わった。圧倒的な実力差に、構成員達は絶句する。
「そんな……レベル8のバッジでようやく従うマタドガスのはずなのに!」
「まるで鍛錬が足らん。同じポケモンを使うおれの同僚なら、白銀の皮膚さえ焼き剥がすことだろう」
 それも比較的皮膚が柔らかかったり、神経系に影響を与える個所を狙ってくるはずだ。それなりに立派なポケモンを持っていても、扱うトレーナーによってこれほど差が付くことにシバはやや不満を覚えた。バトルを楽しむ余裕はないが、彼らはポケモンと自身の能力が釣り合っていないように見える。何かの道具で強いポケモンを無理やり従わせているような――シバがその答えに結びつく前に、ボスゴドラの足元がめきりと大きな音を立てた。
「ねえ、何だか様子が変よ! 床が――」
 摂氏二千度近くある灼熱の炎と大爆発の攻撃を受けた床が鉄鎧ポケモンの体重に耐えられるはずもなく、カリンの甲高い悲鳴と共に、ボスゴドラの周囲が崩れてそっくり下の階へ落下した。スプリンクラーの水を回避するため、壁際に逃げていたヘルガーが慌てて後を追う。
 通路の下は、またフロアの通路だった。ところがこちらは無人ではなく、落下地点数メートル先で背の高い薄紫色の生物と制服姿の可憐な女子中学生が対峙している。一目で不穏な様子が察知できたが、当事者であるアンズは天井から抜け落ちたボスゴドラとそれに騎乗する四天王に驚愕し、謎の生物の向こう側から呑気に顔を出す。
「あっ、シバさん! それにカリンさんも……」
 すぐに未知の生物が少女を遮るように振り向きながら、周囲に風を巻き起こしつつ右腕を振るう――こちらへ攻撃を仕掛けるのだと、シバとカリンは勘付いた。肌を切る生温い風は、空調の暴走でもなければ飛行ポケモンの技でもない。数えきれないほど手合せした同僚のポケモンが得意とする、超能力で発生させた突風だ。
「あいつはエスパーポケモンだ!」
 シバの考察にはとっくにカリンも気付いている。念の嵐が放たれるタイミングに合わせて、ヘルガーを出撃させた。
「ヘルガー、悪の波動!」
 ボスゴドラさえ後退させるような力強い嵐を、ダークポケモンが黒い波動を一つ放っただけで無に帰す。通路内を騒がせていた風はぱっと鎮まり、激しく揺れていたアンズのスカートが穏やかに元の形状を取り戻した。これほど迅速に超能力を無効化させるポケモンはなかなかお目にかかれない。ミュウツーの戦闘本能が久々に刺激され、心地よい高揚感をもたらした。
「ほう。少しは骨のあるポケモンがいるようだ」
 それは人の発する声音ではなかったが、この国の人間ならば誰もが認識できる言語である。しかし彼らの常識に人語を話せるポケモンはいない。
「喋った! 何なの、アイツ」
 愕然とするカリンとシバをアンズがフォローする。
「あの、この方はロケット団じゃなくて……」
 戦いに水を差す少女に、ミュウツーは激しい憤りを覚えた。ほんの僅かに芽生えていた情は消えてなくなり、彼女を破壊したい衝動が再生する。その不穏な眼差しを、ミュウツーが動く前にカリンが察知した。
「ヘルガー! アンズちゃんの保護を優先よ。シバ、あいつに向けてボスゴドラを突進」
 その指示に弾かれたヘルガーが床を蹴ってアンズとミュウツーの間に滑り込み、直後に放たれた念力の盾となる。彼はそのままアンズの足元に落ちた鞄を咥えて、共に逃げるよう身体を押した。
「逃げるのか、臆病者」
 追撃を構えるミュウツーへボスゴドラが背後から突進し、後方へ薙ぎ払う。ミュウツーはすかさず身を捻って体勢を立て直し、通路ごと破壊し尽くす衝撃波を放ったが、ターゲットの走る前方だけは漆黒のドラゴンによって阻まれた。その後ろで、ボスゴドラの背に乗っていたカリンが妖艶に微笑む。
「悪いけど、バッジを八個揃えてから出直して来てくれない? 私達は忙しいの」
 三頭を有する竜もまた、ミュウツー同様破壊の化身と呼ばれていた。その名はサザンドラである。指を弾くカリンの命に合わせて闇の衝撃波で応戦し、遺伝子ポケモンを瓦礫と化した後方の通路まで吹っ飛ばした。ヘルガーに走らされながら後ろの様子を窺っていたアンズが足を止め、そちらへ踵を返そうとしたのでシバは慌てて彼女を引き留める。
「お前を殺そうとしていた。こちらを敵と認識しているのは確かだ」
「で、でもさっき話したときはそんな感じしなかったですけど……」
 その刹那、通路を生温い風が吹き抜ける。ハナダの洞窟で味わった冥府の空気のようだと、シバが青ざめた時――邪気を纏った超能力の突風が、周囲の天井や壁を抉り取った。剥がれ落ちた壁板は宙を回転しながらゆっくりと膝を上げるミュウツーの傍へ飛んでいき、ポケモンは刃の盾を纏う。双眸は鈍い輝きを放っており、全身から漏れる憎悪が辺りの空気を歪ませていた。超能力だけなら悪ポケモンでも防げるが、この瓦礫の太刀を食らってしまえば深手は免れないだろう。カリンは息を呑み、シバの背を押す。
「外面だけ良くて実はDVだった、なんてよくある話よ。逃げるわよ!」
 シバはボスゴドラの傍で立ち竦むアンズの腕を引っ張って軽々と抱え上げると、「勘違いしないでくれ、お前の足では逃げられないだけだ。父親には言わないでくれ」と前置きして騎乗するポケモンを走らせた。さして足も速くないこのポケモンが、大人二人と子供一人を乗せて全力を出してもたかが知れているので、しんがりを任されたサザンドラが追い風を起こしてフォローする。が、疾駆する通路の数メートル先は昼過ぎの黄味がかった青空を映す窓。行き止まりだ。
「行き止まりですよ!」
 悲鳴を上げるアンズの肩口を後ろから飛んできた壁板の欠片が狙う。すかさずシバが腕を引いて彼女を守ろうとしたが、かわしきれずに少女の制服の袖を切り裂いた。
 シバが青ざめる間もなく、一寸先は行き止まり。彼は少女を抱え込むように低い体勢を取り、急いで脱出に身構えた。
「そ、そのまま窓に突っ込め!」
 構える暇もなかったカリンが声にならない悲鳴を上げた頃には、ボスゴドラは窓を破って身を投げていた。日が上りきった青空に、粉々に砕けた窓ガラスがきらきらと瞬く――地に足付かない、ふわりとした感覚に彼女は眩暈を覚えた。そこへすかさずサザンドラがカリンを両手で抱え上げ、最後にフロアの中からヘルガーがその背中に飛び乗って脱出は成功する。彼女が安堵する一方で、翼を持たない鉄鎧ポケモンはビル周辺の歩道目掛けて真っ逆さまだ。しかし特に心配する必要はない。
「ボスゴドラ、電磁浮遊!」
 二十階近くまで降下したところで、ボスゴドラの周囲を電磁波が包み込み、そこから発生した磁力が鋼の巨躯を宙に浮き上がらせた。気球のようにふわふわと空を旋回する鉄鎧ポケモンに、シバの懐から顔を出したアンズは我が目を疑いぽかんと言葉を失ったままだ。
「大事そうに抱えちゃって。ロケット団の件と併せて、ロリコンで通報してやるわ」
 いつまでも少女を腕に抱えたままの大男を、サザンドラに掴まるカリンがちくりと刺す。共にボスゴドラに騎乗していたというのに、後ろは全く気に掛けないシバに心底呆れているのだ。彼は会話の意味が汲み取れず、目をぱちくりさせるアンズを慌てて引き剥がす。
「お、お前はサザンドラとヘルガーが何とかすると思ったんだ!……ところでアンズ、怪我の程度は!」
 少女の制服の右袖はミュウツーが飛ばした破片によってぱっくりと切りこまれていた。シバさえ目を背けたくなる傷口だったが、当の怪我人は目まぐるしく展開していった状況に思考が追いついておらず、痛みさえ忘れている様子だ。
「あんまり痛くないし、大した傷じゃないかと……」
「何を言ってるんだ、相当酷いからすぐに病院へ!」
 目と鼻の先にあるリーグ本部の附属病院へ進路を切り替えようとしたシバの隙を付き、すかさずカリンがアンズを抱き上げてそちらへ飛び立った。
「私が連れて行く。シバは一刻も早くセキエイ署へ行ってこの状況を報告しなさい!」
「わ、分かった……ところでそのワタルに貰ったモノズ、この短期間でよく進化できたな。あいつでも一年はかかるぞ」
 露骨に話題を逸らすように、シバはしっかりとカリンを抱きかかえるサザンドラへ視線を動かす。彼女は去年の十二月にカリンがワタルから譲り受けたドラゴンで、そこから僅か半年足らずで最終進化を遂げているのだ。驚異の育成力には同じ四天王も舌を巻く。カリンは誇らしげに首を伸ばすサザンドラに笑みを向けた。
「まあね、育成は得意なの。それにこの子、親が優秀だからか聞き分けもいいのよ。こんなに育成が楽だったのはヘルガー以来かも。まあそれはともかく……あいつは追ってこないようだから、とっとと動くわよ」
 カリンが空を見上げると、遥か先にある四十五階の割れた窓から薄紫の影がこちらを眺めている姿が確認できた。ビルから出ない所を見るに、ロケット団の手合いである可能性が高い。彼女達は建物から離れながら、数キロ先にある警察署と病院を目指す。カリンがちらりと確認した本部タワービルの窓辺では時折黒づくめが行き交い、入り口にはシャッターが下りていた。やはりビル全体が占拠されているのだと改めて認識し、ただならぬ状況に寒気を覚える。
 一方で突然の救助に困惑するアンズは、カリンに抱きかかれられて飛ぶこの身体と共に、意識さえもふわふわと浮かんだままだ。
(あたしがポケモンを連れ歩いていたら、ミュウツーさんの態度は違ったのかな)
 つい数分前まで二世の話に耳を傾けてくれていたのに、四天王のポケモンが現れた途端の好戦的な態度。どちらが真の姿なのか、顔を合わせたばかりのアンズには分からない。しかし通路で会話していた時、どす黒い悪意は感じられなかったし共感さえしてくれていたような気がした。それは父という大きな支えが不在のアンズにとって希望の灯でもあった。
(カリンさん達の手前言いだせないけど、ちょっと心配だな……)
 混乱が渦巻いて、まだ腕の痛みが湧いてこない。アンズは四天王に見つからないよう、こっそりと後ろを覗き見る。大きな穴が開いた窓に、もうあの影はいなかった。

 結果が得られない戦闘はミュウツーの理性を更に削って、苛立ちを増幅させる。ターゲットを仕留め損ねたのは、あのコロシアムに居た時以来だ。どれほど力を解放して暴れようとフィールドのみが崩れていく。ポケモンの膝を折ることすら叶わない。人間に使役された愚劣な存在に負けることは腹立たしかった。彼らはミュウツーにまるで臆することなく、真っ向から勝利をもぎ取ろうとする――主人に勝利を献上する役目を背負わされた奴隷の癖に!
「四天王二人が逃げた模様。ミュウツーを以ってしても捕えることはできず……」
 エレベーターホールから様子を窺っていたロケット団構成員が無線で上に報告している。軽蔑した口ぶりが気に障り、ポケモンは掌をそちらに向けてサイコキネシスを発動した。
「あの子に付いていけば、あなたは穏やかに暮らせたのに。こんな好機を逃すなんて」
 窓ガラスに映り込んだあの白い影が頭の中に囁きかける。それも煩わしいので、窓ごと吹き飛ばした。破壊の衝動は尚も収まらない。壁一枚隔てた先がサーバールームで、これ以上暴れて電気系統に支障をきたしてはいけないと理解しているものの箍は今にも千切れてしまいそうだった。この息詰まりそうな要塞も、窓の外に広がる灰色の街並も、何もかも滅茶苦茶にしたい。外に出て、すべてを破壊してやろうか――窓枠に手を掛けた時、通路の隅に転がっていた通信端末がサカキの声を受信する。
『早く来い』
 短く告げて、通信は途切れた。
 それでようやく、ミュウツーは冷静になる。そう、まずはあの男からだ。
 
+++

 黄金都市の上空に現れた虹の大鳥が、通信局の屋上周辺を旋回しながら輝く炎を撒き散らしていく。傾きつつある太陽の光を受け、天より神が降臨したかのような高貴な情景だ。その鳥、ホウオウを群衆達は呆然と口を開けたまま見上げるばかり。その存在は伝承でしか知られていないはずだから、人々は我が目を疑ったことだろう。その虹色の背に人間が跨っていることを確認し、更に驚愕しているはずだ。
 これは神話の絵巻ではない、現実で繰り広げられる英雄活劇である。ホウオウに騎乗するランスは恍惚に浸りながら両手を広げ、押し黙ったままの虹色ポケモンに指示を出す。
「ホウオウ、窓に向けて大文字!」
 指を向けた先は、黒づくめの男が映る基地局の窓辺だ。すぐに放たれた業火が、窓を割って周囲を焼き尽くす。しかし男は逃げおおせ、ビルの壁を焼け焦がすに終わった。
「あそこから中へ突入し、テロリストを駆逐しよう。ニケの情報によれば犯人グループは二十人に満たないそうだ。その数ならタマムシに向かった子供のルークでも対応できるだろう」
 ランスはホウオウの首を撫でながら、穴を開けた窓を指す。ニケから譲り受けたエスパーポケモンを使って敵の位置を探っている暇はないが、片っ端からフロアを焼いていけば敵を炙り出すことは可能だろう。優先すべきは悪だと覚悟を決めた途端、背後に警察のヘリが接近し拡声器でがなり立ててきた。
「ポケモンに乗ったトレーナーに警告する! 今すぐビルの放火を辞めなさい」
 危機に立ち向かおうとしているにも関わらず、警察はこちらを敵とみなしている。ランスは眉をひそめた。
「これは放火じゃない。自警活動だ」
 彼らは二年前もそうだった。こちらをまるで信用せず、話を聞こうとはしない。服役中に募らせていた不信感が憎悪へと変わる。
 共に戦いましょう――ホウオウの入ったボールを手渡してくれたニケの言葉を思い出す。彼女は刑期を終えた自分の話に耳を傾け、正しいのは貴方だ、と断言してくれた。自分の考えは間違っていない。
「英雄に逆らおうと言うのかい」
 ホウオウの首筋を軽く叩いてヘリへ振り向かせると、拡声器を持った機動隊やパイロットがぎょっとした様子で顔を強張らせているのがはっきりと確認できた。彼らもこの未知のポケモンに内心怯えているのだろう。十分に取った距離がそれを物語っていたが、彼らは毅然と反発した。
「英雄だって? 周りをよく見てみろ、誰もそんなこと思っていない」
 ランスはそれが警察の虚勢だと思い、もう一度地上に目を向ける。先ほどは悦に入っていて気付かなかったが、基地局ビル一帯は機動隊によって封鎖され、近くのビルからライフルを構えた狙撃手がこちらの動向を窺っている。規制線の外では周辺ビルから避難を終えた人々やマスコミ、野次馬達が集まり、やはりホウオウと自分に注視しているのだが、向けられた眼差しには敬仰がまるで感じられなかった。ショーの序盤に登場する悪役を眺める好奇と畏怖の視線。これには覚えがある。逮捕される以前、あちこちの広場でポケモンバトルの批判を熱弁した時にも感じた、あの群衆と同じではないか。
 誰にも期待されていない、むしろ敵だと言わんばかり。急に悪寒がして、ポケットに入れていた通信端末でニケを呼び出した。誰か一人でもいいから自分の行動を認めてもらいたかった。
「ニケ、警察が邪魔をする」
 スピーカーの向こうの彼女は、突然の呼び出しに面倒そうな口調で応対してくれた。遠くで男達が争うような声が聞こえたが、気にしている暇はない。
『……ええ、だから早くテロリストを片付けて正義を見せつけてあげたら? ホウオウの炎で、ビルごと焼いてしまえばいいじゃない。貴方ならやれるはずよ』
「そうだな」
 目先の敵はテロリストだ――ランスは再認識し、通信を切ってホウオウを再び基地局へ向けさせた。ポケモンは度重なるターゲットの変更にうんざりしているようだが、それを気にかける余裕はない。
「ホウオウ、とっておきの炎でビルごと焼きつくしてしまおう!」
 ホウオウの背中がぐんと熱を帯び、虹色の翼がまた輝きを放ち始める。これまでになく強力で神秘的な炎を放つのだと、ランスは自覚した。太陽を纏っても、この身は不思議と焼け付くことはない。この現象こそ自身が選ばれた証拠なのだと確信する。あるいは英雄以上、神に近い存在と成れるかもしれない。
 この様子を規制線外の高層マンションの窓辺から見ていた少年は、傍にいた母親に尋ねた。
「この街はあの鳥に焼き尽くされてしまうの?」
 母親は答える事が出来ず、顔を真っ青に染めたまま黙り込む。そんな姿は益々少年を不安にさせる。その時、窓を小さく叩く音がして、その場所に液体の筋が走った。
 その現象はランスも認識した。愉悦が最高潮に達した瞬間、手の甲に大粒の雫が舞い落ちる。ぱちん、と肌を弾く刺激は涙ではない。
「雨?」
 天気予報の降水確率はほぼゼロに近かったはず――すぐにその疑いを払拭するように、土砂降りの雨が上空から降り注ぐ。ホウオウは発光を辞め、たまらず悲鳴を上げた。豪雨の予兆はなかったし、今になってようやく雷が轟いている。何かおかしい、ランスはずぶ濡れになりながら周囲を見渡して気づいた。雨が降っているのはホウオウと基地局の周囲三キロメートル圏内だ。
「これは“あまごい”!」
 四天王を討ったあの夜を再現する雷雨に、ランスははっとした。あまごいという技で、これだけの雨を降らせるポケモンはそういるものではない。シルバーのルギアか、それともリーグ制覇を成し遂げられる実力を持ったポケモンか。
「もう好きにはさせない」
 答えは後者だった。
 ホウオウの頭上に現れたのは、街の輝きを肌に映した黄金色のドラゴン。その背に装着された鞍に跨っている男が、フルフェイスを脱いでランスに告げる。雷雨の外に流れる涼風に、艶やかな赤毛が揺れていた。その印象的な髪の色と稀少なポケモンの組み合わせで、地上から見守っていた人々も誰がやって来たのか一目で認識する。
「チャンピオンだ! チャンピオンが助けに来てくれた!」
 群衆が一斉に沸き上がる。さながらセキエイリーグのチャンピオン戦だ。先ほど不安げにこの状況を見つめていた少年の相好もぱっと明るくなり、テレビ中継を観戦する時のように彼の名を叫んでいた。その存在はまさにヒーローである。
 カイリューに騎乗するワタルは速やかに警察のヘリに接近すると、彼の登場を呆然と眺めていた機動隊に敵意がないことを告げた。
「本年度からリーグ本部がポケモン犯罪捜査をサポートする取り決めを交わしましたが、それに則り、私はトレーナーとしてポケモンだけを狙います」
 ヘリの機動隊もその話は知っていたし、先月も上官からトキワでプロから訓練を受けているという自慢話を聞いて悔しがったばかりだ。本来ならば力を借りる場面ではないのだが、ポケモンへの対策が不十分である現状、プロに頼る他はない。とはいえチャンピオンが助太刀に来てくれるとは思わず、彼は喜びを噛み締めるように礼を言った。
「貴方が居れば頼もしい。こちらとしても、ワタルさんの安全を守ります。あのトレーナーは武装グループとは別の輩の模様。単体で戦っているようなので、ポケモンを止めてください」
「別の輩?」
 ランスはテロに加担しているのではないのか――ワタルが疑問を尋ねる間もなく、空が眩い光を帯び、強い晴れ間が強引に雨を振り払った。ホウオウによる“にほんばれ”だ。
「邪魔をするな!」
 ヘリに横付けしたカイリューの眼前に、熱量を上げた火炎放射が飛んでくる。すかさずドラゴンは前進しながら身体を捻り、荒れ狂う激流を纏った尾でその炎を打ち消した。瞬く間に炎は蒸発し、群衆が大きな歓声を上げる。そんな反応に、ランスは動揺を露わにした。
「何故そいつを……」
 その間に、カイリューに乗ったワタルがこちらに接近する。
「一体何をしようとしている。二年前の報復か? シルバー君まで利用して……」
「オレはテロリストを倒しに来たんだ! 行くぞ、ホウオウ!」
 ランスは素早くホウオウを切り替えし、カイリューに背を向けて基地局のビルを狙う。ランスと武装グループが仲間である可能性を疑っていたワタルは首を捻ったが、基地局には人質も多く残っているはずだ。翼を狙って竜巻をぶつけ、ビルの前までやってきた鳥を引き剥がした。突風に煽られ、ランスがホウオウの首にしがみ付く。彼は鞍も装着しておらず、背中から滑り落ちてしまえばビルの谷間へと真っ逆さまだ。ワタルは思わず息を呑む。
「やりづらいな。接近戦でホウオウを弱らせ、ランスを確保しようか」
 カイリューもそれに同意する。
「それとルギアはどこだろう。ここにはいない?」
 さっと周囲を見渡す限りでは、あの巨大なポケモンの所在を確認することはできない。ビルの中に潜んでいるのか、それともタマムシへ行ったのか――ワタルは考えを巡らせつつも、まずは目の前の敵を倒すことを決めた。
「カイリュー、ドラゴンダイブだ!」
 その指示に弾かれ、カイリューがホウオウ目掛けて急加速する。ワタルは腿に力を込めて身体を引っ張る衝動に耐えながら、背中を丸めて突進に身を預けた。眼前に迫るホウオウは目を焦がすような色彩と汗ばむ熱気を放っており、まさに太陽の化身である。しかし炎ポケモンによる空中戦は一昨年のレッドとの試合で経験しており、改めての恐怖は感じない。カイリューも主を乗せたまま相手に飛びかかるが――
「ホウオウ、オーバーヒート!」
 寸での所で火の鳥が大噴火を見せ、ドラゴンを突き放す。炎の勢いはランスが背にしていた基地局の窓を割り、中から空中戦を覗いていた武装集団が一斉にフロアの奥へと逃げ出した。ワタルのリザードンをも超える紅蓮の猛火に、ワタルも目を疑う。
「オレの相手はお前じゃない……あの、クズ共なんだ! 邪魔をするな!」
 ランスは跨っていたホウオウの腹を蹴り、目の端から逃げ失せようとしていた黒づくめの一人めがけて火を吐かせた。男は必死で回避し直撃は免れたが、火の粉が服に引火して悲鳴を上げながらのたうち回る。そこへ割れた窓から突入したホウオウが嘴で男を摘み上げ、ビルの外へ放り捨てた。
「まずは一人目」
 そこはおおよそビル二十階の高さに相当する。ワタルはすぐにカイリューを向かわせて黒づくめの男を掬い上げ、ドラゴンの腕に抱かせたままランスの前に立ちはだかった。
「こんなことをして、ヒーローにでもなったつもりなのか!」
「悪人に人権はない。お前も、お前の仲間もそうだ。オレを冤罪に追い込んで、のうのうと生きている。こんなことは許されない」
 そう断言する彼の双眸は二年前と何も変わっていなかった。自身の考えこそ正しいと信じて疑わず、そこに狂気さえ宿っている。ワタルは愕然とした。自分が彼に説いたポケモンとの共存、そしてバトルの重要性はテレビ中継を通して多くの支持を得るきっかけになったが、ランス自身には何一つ伝わっておらず、むしろ暴走させている。キョウの殺傷事件でシバと話して折り合いを付けたはずなのに、いざ彼を前にするとまるで理解できない人種にひどく動揺した。
「あいつかァ、“組潰し”の張本人は!」
 油断した隙に、火傷を負った黒づくめが腰に吊るしたサブマシンガンをホウオウ向けて撃ち放った。届くはずがない距離だが、男はカイリューの制止を振り切ってひたすら喚き散らしている。
「暴れると落ちるぞ!」
 ワタルが叱責すると、男は売り言葉に買い言葉で反発した。
「うるせえ、オレらはどの道もう終わりなんだ。だったらあいつを殺してからじゃねえと気が済まん! 兄ちゃん、とっととあの馬鹿に接近してくれや」
 既に男は投げやりだ。ワタルは彼らのやり取りに首を捻った。
「ランスの仲間じゃないのか?」
「は! この会話聞いて身内に思えんのかァ? オレたちゃロケット団に体よく利用されてる囮だよ。もうあとは派手に散るだけだ。兄ちゃんよォ、てめえもこんな所でヒーローショーを披露してる場合じゃねえんだぜ」
 そう言いかけて男ははっとしたように口を噤んだ。それ以上語ることを禁じられているかのように、手の甲で唾を拭って押し黙る。どうしてこちらに話題がシフトするのか――ワタルの違和感が増長する。
「どう言うことだ」
「いいからとっとと近づきやがれってんだ!」
 男は失言を誤魔化す勢いで、カイリューに肘打ちを食らわせる。不意打ちの一撃に、彼女は悲鳴を上げながらたまらず両手を離してしまった。男も同様に叫換を発しながらそのままビルの谷間へと吸い込まれていく――ワタルはすぐに後を追った。
 
 基地局でのボールキラー頒布作業を終えた直後に、伝説のポケモンが襲い掛かって来てその上チャンピオンのドラゴンまで現れた――この事実はビル内を占拠していた武装グループに激震をもたらした。
「ロケット団はハナから信用してねえが、火の鳥とドラゴンに焼かれて死ぬのはまっぴら御免だ!」
 各階で見張りをしていた構成員達が次々と電話交換機の集まるフロアへ駆け込み、計画を主導するリーダーを脅かす。殆ど全員集まっているのではないだろうか。ある階に集めていた人質の見張りまで来ており、よほど切羽詰まっている様子が窺えた。
「気にするな、あの鳥はこっちの味方だ。とっとと持ち場に戻れ!」
 リーダーはマシンガンを振り回し、殺気を放つバクオングとケンタロスで彼らを威嚇する。下手に動けば蜂の巣もしくはポケモンに踏み潰されてしまうのだが、構成員達は怯まずに反発した。
「でもうちの組の仲間がビルの外へ放り出されたぞ! プログラムを撒いてボールをロックした後、身代金を要求して逃げおおせる筋書きはどうした!」
「あれはパフォーマンスだ。今から警察と交渉する」
 リーダーは黒い通信端末を彼らに見せつける。どのキャリアの通信装置も使えない状態だが、この端末だけは問題なく稼働している武装グループのライフラインだ。
「パフォーマンスで仲間を見捨てるのか、ロケット団は! まあオレらヤクザは傘下にいるだけだからな」
「いいからとっとと持ち場に戻れ! それともお前ら全員、背中にこいつみてえな穴開けてやろうか」
 やけっぱちに吐き捨てる構成員達に嫌気がさしたリーダーは、マシンガンと筒状の棘を持つバクオングを示しながら彼らを無理やり持ち場へと戻した。渋々歩き出す彼らは、互いに目配せし合っていつ徒党を組んで裏切ってもおかしくない状況である。リーダーはぐっと唾を飲み込んで背後に並ぶ屈強なポケモン達を一瞥すると、通信端末のボタンを押した。
「アテナ様、困ったもんだぜ。屑共が騒ぎ立てやがる。ロケット団員はここにオレ一人だから面倒だ……“ニケ”になって、あの馬鹿に命令してくださいませんかね。ミレニアム・ファルコンで残らず吹き飛ばしてくれって」
 数秒待って、スピーカーの向こうから三十代と思しき落ち着いた女の声が流れる。
『あら、もうとっくに連絡しているわよ。まだ終わらないの? カーボナイトで固められちゃってる?』
 ジョークを軽く笑って応答しようとした刹那、手元から端末が消え失せた。スリも驚きの芸当にリーダーは目を見張り、慌てて後ろを振り返る。まるで気配が感じられなかった真後ろに、こちらをじっと睨み据える虹色の鳥と虚ろな目の男がいる。彼は通信端末を耳に当てながら、極めて冷たい声音でそれに問う。
「ニケ、君だね。どうしてこの男と話をしている?」
 
 真っ逆様にビルの谷間へと吸い込まれていく男は、それに抗うように喉を掻き毟る様な悲鳴を喚き散らしていた。
「助けてくれ!」
 現実は残酷な速さで目の端に灰色の地面を捉えさせる。いよいよ地上、そして棺桶が待っている――目を閉じた時、ふわりと身体が浮き上がって、男を掴んだカイリューがビルの谷間にある公園の中央に着地した。
「間に合った……」
 ワタルがほっと息をついたのも束の間、腰を上げた男がカイリューの鼻先にしがみ付きながら彼の額にピストルを突きつけた。公園の周囲に待機していた機動隊が動揺し、カイリューもぎょっと目を見張る。
「おっと、ドラゴンから引き剥がそうとするんじゃねえぞ。お前はここから逃げるための人質だ、妙な動きをすればハジキとこいつを抜く」
 男の左手の親指には金属の輪が引っかけられており、そこに括りつけられた紐が腰にセットされた手榴弾へと繋がっていた。捨て身の不意打ちに、ワタルはさっと青ざめる。その絶望に満ちた顔を見て、男は下品な笑みを浮かべた。
「ふん、何様のつもりでこのテロに首突っ込んでるんだ。オレはお前みたいに偉そうにスカしてるトレーナーが大っ嫌いなんだ。ちょっとバトルが上手いだけで、ヤクザにさえ勝てると思ってヒーロー気取り。あの鳥に乗った男にそっくりだ」
 銃口が額にめり込むほど強い力にはワタルが見慣れた嫉妬と憎悪が籠められていた。免許を取得してから一気に駆け抜けてきたトレーナー人生、こういう人間には数えきれないほど出会っている。皆同じ目をして訴えるのだ。お前は恵まれている、最初から選ばれた人間――頂点にいるからとふんぞり返りやがって、と。そこに居続けるための苦労など誰も理解しない。理解しないで、自らの実力不足をこちらへ転嫁している。
「ポケモン犯罪への対策はまだ未熟……プロがサポートするのは当然のことだ」
 ワタルはふつふつと沸く怒りで震える唇を噛みながら、毅然と反発した。だが男はそれさえも嘲笑う。
「プロ? それも今日でおしまいだよ。リーグ本部が無くなっちまえばな、チャンピオンの証明証さえ紙クズだ」
「それは……」
 先ほどカイリューが男を手放す直前に感じた違和感が、ぞっとするような寒気と共に蘇った。顔を強張らせるワタルを弄ぶように、男がニイと笑って黄ばんだ歯を見せつける。それはワタルにとって吐き気がするほど不愉快だ。理解し難い人物達は、頂点を維持するためトレーナーの鑑であり娯楽の光であり続けようとした苦労をいとも容易く踏みにじり、理性を揺さぶる。
「さっきも言っただろ。ここのテロはジョウトヤクザの寄せ集めによる囮。本丸は別なのさ」
 男は勿体付けながら大きく目を見開いた。それでワタルは気付いた。ボールへの施錠は短時間でカントー・ジョウト地方全域に広まった。彼はてっきり基地局から遠距離操作でリーグ本部にアクセスし、システムを改竄しているものだと思い込んでいたのだが――これだけの短時間作業、本部内部から操作している可能性だってある。
「まさか……」
 愕然とするワタルを、男がせせら笑う。この反応、予想通りと言ったところだろう。
 みるみる血の気が引いて、何も考えられなくなった。これまで築き上げた舞台が、支えてくれた仲間や協力者がたった一日で崩れ落ちてしまう――すっと目の前が真っ暗になり、相棒に跨っている感覚も失われていく。突然絶望の闇に叩き落とされ、宙ぶらりんになっているようだった。だが思考が止まっても自然と顔はセキエイの方角に動こうとする。当然目視できる距離ではないが、それでもあのビルの存在を確認しようとしていた。
「おっと、勝手な行動をとるんじゃねえぞ。ドラゴンもろとも木端微塵だぜ、チャンピオン様」
 男がピストルの先でワタルを小突き、手榴弾のピンを見せつけながら軽口を叩いた。
 今、ワタルにとってこの男ほど邪魔な存在はない。爆弾より先に外れたのは、自らの理性だった。カイリューを一瞥し、脇を軽く叩いて合図を送る――ドラゴンが男を遠くへ投げ捨てると同時に、ワタルは身を低くしてカイリューの背中から滑り降りた。乱暴にフィールドの端に叩きつけられた男は、慌てて身を起こして手榴弾のピンを抜くふりをする。それで力を誇示しているつもりなのだろうが、この程度の爆弾、血が滲む努力と修行を重ねたチャンピオンのドラゴンにとってはレベルの低い炎ポケモンの“ひのこ”のようなものだ。
 並大抵の力では自身のポケモンには敵わない。警察に協力しているように、今こそ悪を討つためにこの力を存分に発揮すべきだ――それこそヒーローの役目である。ワタルは男を蔑むような目で睨む。彼は身を竦ませ、慌てて手榴弾を掲げて精一杯の虚勢を張った。
「来るなよ、ふっとばされてえのか!」
 機動隊は爆弾に躊躇して園内に踏み込めない。ワタルは殺気立つ主にぎょっとするカイリューの腕に触れ、顎の先で男を示した。
「カイリュー、はかいこうせん」

鈴志木 ( 2014/11/07(金) 20:02 )