第10話:ふたりの二世
ポケモンリーグ本部ビル、四十九階の廊下に掛けられた時計は昼の二時を差していた。
普段ならこの時間帯のフロア通路は昼食のピークを外した職員達が遅めの外食から戻って来る姿が目につくのだが、オフィスのドアがロックされている現在、そこに彼らの姿は見当たらず、銃火器を携えた黒ずくめのロケット団構成員が三名、その入り口を監視している。全員男でフロア内に二つあるオフィスの出入り口で一人ずつ見張りをし、残りは少し離れたエレベーターホールに配置されている――この状況を、カリンの相棒であるヘルガーがホール脇の非常階段から“かぎわけた”。通路内の敵の位置情報程度ならば、嗅覚を研ぎ澄ませた犬でなんとか把握できる。
「四十九階にいるロケット団は三人。私とヘルガーと貴方でなんとかなりそうね。ビル内で上手く立ち回れる方法が見つかるかもしれない」
非常階段踊り場横の小部屋にて、ヘルガーから報告を受けたカリンがシバに告げる。五十階にいた彼らは五階下のアンズを救おうと階段から移動していたのだが、ロケット団復活のアナウンスと階段を駆け上る黒づくめ達の足音を聞いて踊り場横の用具入れに身を潜めていたのだ。上のフロアに会議室が多い関係上、室内は折り畳まれたパイプ椅子が無駄なく収納されており、大男と若い女、そしてヘルガーが並んで身を隠すにはいささか窮屈である。シバはなるべくカリンに触れないよう四肢に神経を集中させつつ、彼女に尋ねた。
「おれとヘルガーはともかく、お前はどうするんだ」
「私がエレベーターホールの男を引きつけるから、その間にオフィスの見張りをのして。終わったらすぐに助けに来てね」
カリンはヘアクリップでまとめた髪を解いて片方へ流すと、ブラウスのボタン上二つを外しキャミソールのストラップを伸ばして余裕を持たせる。その後ハンカチで顔を少し拭って化粧の主張を抑えると、隙のないオフィススタイルが崩れて気だるげな大人の色気が醸し出される。不覚にも目を奪われたシバは、ヘルガーの鋭い視線を感じ慌てて顔を逸らした。その隙にカリンは扉の先へするりと抜け出ていく。止める暇もなかった。
「それじゃ、言ってくるわ」
彼女はヒールを脱いで足音を忍ばせ四十九階までたどり着くと、再び靴を履いて鉄扉のドアノブにゆっくりと手を掛けた。その先にエレベーターホールがあるのだ。念のためもう一度手櫛で髪を散らし、重い扉をそっと開ける――気配に気付いていた黒づくめの男がこちらに小型マシンガンの銃口を向けていた。カリンは待ち伏せされていたことに肝を冷やしたが、なんとか平静を保ちつつ大袈裟に口元を両手で覆い後ずさる。
「お前は……」
男は彼女の姿を見て、すぐに四天王だと気付いたようだ。銃火器を構えつつ、すぐにポケモンの有無を確認する。カリンはその注意を逸らすようにヒールを激しく揺らしながら、下の階へと続く階段の手摺に縋りついた。真上に取り付けられた蛍光灯の光がストッキングに包まれた腿をより艶やかに照らしだす。
「何なの、貴方。化粧室に居たら急にどの部屋も開かなくなって……ボールも開かないし……」
カリンの狙い通り、男の目線は腿に落ちてそこから胸元へと舐めるように這い上がっていく。
「ラムダさんのアナウンスを聞かなかったのか? このビルは占拠されたんだ。ご自慢のポケモンも使えねえぞ」
それを聞いて、カリンは下品な視線にようやく気付いた顔をした。絶望を表現するように一歩ずつ階段を下りながら後退していくと、男も銃口を向けながらこちらに詰め寄ってくる。引き金に指は掛かっておらず、欲望が先行しているようだった。四十八階との間の踊り場まで引きつけると、彼女は手摺に縋りついたまま強がるふりをする。
「だから貴方はそんな物騒なモノを持っている訳ね」
腿の横に垂れ下がったマシンガンに目線をやりつつ思わせぶりな台詞と併せて深い息を吐くと、男は黒いボールを示しながら下品な笑みを浮かべた。
「ちなみにオレ達のボールは特製だから“ボールキラー”の影響は受けないぜ。このアーボックで今すぐ締め上げてやってもいいんだが、まあそりゃちょっと野暮ってもんだ」
「あら、意外に紳士的なのね。跡が残るのは困っちゃう」
カリンが苦し紛れに唇の端を持ち上げた。画面越しでしかお目にかかれない美貌の四天王が、着衣を乱し自身の脅威に臆する姿は欲望を掻き立てる。男はマシンガンをホルスターに仕舞い込むと、我慢ならずに一歩前に踏み出た。
「ボールが開かなきゃ、お前らプロのトレーナーもただの人。アナウンスを聞いていたならわかるよな。『オフィスの外に出ない限りは身の安全を保障してやる』つもりだが、残念ながらここは対象外だぜ」
「そうねえ……」カリンは後退を辞め、冷ややかに言い放つ。「でも、ポケモンが使えれば話は別だわ」
カリンが目配せした刹那、エレベーターホールから飛び出してきたヘルガーが男の利き腕に噛みつき、素早く背中に圧し掛かって相手を組み伏せた。毒素のある炎の牙は少し噛まれただけでも全身を麻痺させる痛みが走る。床に顔を押し付けられた男はひゅうひゅうと息を吹きながら呻き声を上げ、やがてその苦痛に耐え切れず気絶した。
「さすがね、ヘルガー。とりあえず拘束しておきましょう」
カリンは安堵の息を吐きながら、踊り場を見渡して動きを封じられる物を探す――目線を上げた途端、ロープを肩に背負った屈強な男が視界に入って彼女は小さな悲鳴を上げた。気配なくやってきた同僚のシバだ。
「全く、華奢なくせして無茶をする」
彼は慣れた手つきで男を縛り上げ、縄で口を塞ぐと、そのまま軽々と担ぎ上げてカリンに振り返った。
「お前がこの踊り場へ移動した途端、ヘルガーがフロアへ飛び出して行き、残りのロケット団二人をあっという間に倒してしまったんだぞ。ポケモンを心配させるな」
カリンはそこでようやく相棒の不安ではち切れそうな眼差しに気付いた。察知の遅さにシバは溜め息をつく。
「お前のポケモンは特に指示を出さずとも“おや”の意志を汲み取って動くが、トレーナーが傍にいてやらんと人間への加減が分からんぞ。一歩間違えれば相手の命が危なかった。テロリストだからって、無闇に暴力に訴えていい訳じゃない」
自分達はプロで、鍛え上げたポケモンは凶器に等しい存在なのだ。ヘルガーが炎の牙を振るい、甘噛みするだけで成人男性を昏倒させる力を持つ。カリンはプロのポケモンの使用が制限されている理由を改めて思い知った。
「そうね……ごめんなさい」
彼は男を抱えたまま、素足で階段を上がっていく。どこに監禁しておくつもりかと、カリンもヘルガーを連れて後に続いた。
「まあしかし、ボールが使えないおれ達が武器を持つロケット団に立ち向かうには現状ポケモンしかない。何とか上手い具合に立ち回るしかないだろう」
「そういえば貴方、ハナダの洞窟でもボスゴドラを盾にしてピストルの弾を防いだって言ってたわね。もう少し手持ちが使えると良いんだけど……今、このビル内ではロケット団の黒いボールしか開かないようよ」
シバは一つ上の階――先ほど二人で身を潜めていた用具入れにたどり着くと、構成員の持ち物を取り上げて身体の方をパイプ椅子の隙間に押し込んだ。押収した『R』のロゴが入っている艶消しの黒いボールには見覚えがある。
「このボール、ハナダで一つ拾ったが捕獲したポケモンを逃がした際に捨ててしまった。今思うと少し勿体無いことをしたな」
ハナダの洞窟でロケット団のボールを拾い、水中を移動するために捕獲したアズマオウはタイプが合わないため放流していた。もう思い出すのも嫌な事件だったため、またこの組織に出くわすとは思わずボールもそのまま処分してしまったのだ。悔しがるシバを後目に、カリンは他の持ち物を調べ始めた。
「私達トレーナーの免許端末とボール、ICマーカーは同期しているけれど、それはロケット団も同じじゃないかしら。足がつくから正規のトレーナー登録はしていないはずでしょうけど、仕組みは私達と変わらないはず。ロケット団と戦った時、ポケモンはマーカーしてた?」
「そう言えば、この『R』のロゴが付いていたかもしれん」
シバがボールに記された組織のロゴを睨みながら、忘れたい記憶をもう一度引っ張り出す。普段マーカーなど気にしないから適当に近い答えだったが、カリンはそれを鵜呑みにし、男が所持していたウエストポーチをひっくり返した。免許端末にそっくりな黒い機器に、折り畳みナイフや予備の弾丸など――物騒な持ち物が出てくる中、黒いリストバンドがヘルガーの前に転がり落ちる。薄緑の羽根型のバッジが照明の光に照らされ、そこから仄かに漂う残り香がポケモンの記憶と体毛を逆撫でした。
「どうしたの、ヘルガー?」
カリンの声がぐっと遠のき、物入れの薄暗い闇がヘルガーに前の主人と別れた冬の夜を思い起こさせる。このバッジから漂う臭いは、あの時やって来た“誰か”に似ている――胸の奥がざわめき立ち、突然の強迫観念にがくがくと身体が揺れ始めた。その時、不意に身体が引き寄せられてあの夜と同じ温もりに包まれる。
「大丈夫、私はここにいるわ。もう心配させないから」
主人が微笑み、確かな安堵を与えてくれる。今度こそ守り通すべき時だと、ヘルガーは思い直した。
床に転がったままのリストバンドを拾上げたシバは、そこに付けられたバッジを見て蓄えたトレーナー知識の中からすぐに答えを導き出した。一般常識と言える簡単な問題だ。
「これはトキワジムのバッジじゃないか?」
ヘルガーを膝に抱きながら、カリンも頷く。ビルを占領している組織の首領はかつてそのジムのリーダーだったから、手下がそのバッジを所有していることも何となく頷けた。
「ええ、その形は。サカキがリーダー時代に横流ししていたのかしら。ジムに挑戦するにも、免許の提示が必要だものね。偽装は難しそうだけど……この辺はオジサマじゃないと分からないわ。一応、持っておきましょう」
彼女はバッジを警戒するヘルガーの目につかないよう、リストバンドからバッジを外してクラッチバッグの内ポケットに仕舞いこむと、今度は免許と形状が似ている端末を操作することにした。インタフェースは極めてシンプルで最低限の機能しか搭載されておらず、手持ちの状態確認と構成員のIDパス、そして近距離無線機能だ。
「機能は免許とそっくり。システムを応用しているのなら、近距離無線でボールが開くんじゃないかしら」
カリンはクラッチバックからブラッキーのボールを取り出すと、スイッチと端末を向い合せにしてペアリングを試みる。数秒ほどで端末からパスワードの入力を求められ、トレーナー単位で設定しているボールのパスキーを入れてみるとカチリと音がしてやや緊張気味のブラッキーがその場に現れた。カリンは思わず「ビンゴ!」と声を弾ませ、右手を振り上げる。
「こんな機能があるのか。知らんかった。お前、妙に詳しいな」
機械に疎いシバは何が起こったのか分からずぽかんと感心し、カリンは「まあね」と笑顔で流す。ICマーカーのプロデュースをしているからその辺の知識も取り入れているなんて、浮ついた話が嫌いな彼に言えるはずもない。
ボールを無線で開き中へ戻す事は可能だが、スイッチの機能は今だ失われており開閉の度にペアリング操作をする必要がある――という仕組みまでカリンが確認したところで、フロアにいた残る二人のロケット団員もシバが次々拘束してパイプ椅子の隙間に詰め込んでいった。
「服も少し借りるか。ロケット団は帽子を被るようだし、顔は目立たないだろう」
彼はいつの間にか構成員の黒い上着とカーゴパンツ、帽子にブーツを二人分剥ぎ取っている。自分もそれを着るのかと面食らうカリンに、彼は冷ややかに告げた。
「お前の武器は色気か?」
ヘルガーも傍で頷く。簡単に安売りするような女ではない――そんな眼差しが嬉しかった。カリンはシバの手から一セット分の衣類をもぎ取ると、クラッチバックを抱えて彼に振り返った。
「サイズ調整に五分待ってくれる?」
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灰色の床の上に黒光りする柱が均等に立ち並び、轟々と風を吐き出しながら稼働する。無機質で肌寒い空間は蛍光灯の下に照らされていてもどこか空虚で、あの延々に続く夜に閉じ込められたような洞窟を思い出し、吐き気がした。鳴り重なるファンやエラーを検知したビープ音は、その苛立ちを増長させミュウツーはこの人工物を全て薙ぎ払ってしまいたい衝動に駆られたが、今これらを破壊しては元も子もない。何とか踏みとどまったが、以前より些細なことが気に障るようになったと感じる。深呼吸して逸る気を抑えた。
(全てを破壊するのは、ロケット団との契約が終了してからだ)
ここは本部タワービル四十五階のサーバルーム。
フロア全体がリーグ本部が有する免許システムの中枢であり、灰色のパネル状の床の上には百数台のサーバラックが設置され、煩く音を立てながら稼働していた。免許端末の心臓部だけに、ここを支配すればシステムを狂わせることは容易である。ミュウツーは作業の完了を確認すると、ロケット団向けの無線に念波を割り込ませて報告を送った。
「ボールキラー、全行程終了。両地方の通信局と連携し、ボールは残らずロックした」
ミュウツーは先にリーグ本部のシステムをシャットアウトした後、通信局をジャックした武装グループと連携を取りながら、事前に開発・テストをしていたボール凍結プログラム『ボールキラー』をジョウト・カントー地方全域に適用させることに成功したのだ。確認用のノートパソコンの縁に取り付けた『R』の形をした通信端末から、サカキが応答する。
『ご苦労。上へ来い。リーグ本部総監がお待ちかねだ』
いよいよあの男と対面する時がやって来た。
四十年近く溜め込み続けた憎悪が、身体に熱を与える。今こそこの力を解放し、自身の存在を踏みにじり蔑ろにした者達へ思い知らせてやる時だ――ノートを閉じ、ミュウツーが膝を上げた刹那。黒いメタルラックの扉に映る自身の身体が消えて、小さな影が現れた。
周囲の音が止まり、鼓動が止まり、そして時間が停止するような感覚。すぐに脳裏を引っ掻く耳鳴りがして、その音が徐々にあの懐かしい声へと変わった。
「そこへ行ってはだめ、顔を合わせて復讐心に火がつけばあなたはたちまち理性を失い、破壊に支配された化け物になってしまうことでしょう。今ならまだ間に合う。わたしと共に静かに生きましょう」
白い影の中にぼんやりと浮かぶ青い双眸が、こちらを憐れむように引き止める。
「あの牢獄に戻れと言うのか」
冷たく突き放すと、影は苦しげに首を横に振った。
「あなたが望むのならもっと明るい場所だっていい。だからお願い、こんなことはもう辞めて。あなたがあなたでなくなってしまう」
そして後悔するように告げるのだ。
「あなたはわたしの子供のはずなのに……」
それは自責のようで、己を正当化するような言い分だ。それを引き金にかつての父親の声を思い出す。
『ミュウは何でも覚えられたのに、どうしてミュウツーは“居合切り”さえ出来ないんだ? もっと手を加える必要があるのだろうか……ジュニアはミュウを超えた存在でなければ!』
そして、またあの男の声も。
『こいつはセキエイリーグの目玉となるはずだったのに……やはり駄目だ、使えなかった。史上最強と謳われたポケモンでも所詮この程度か』
誰もがごみ屑を見るような目を向ける。
どんな生き物より勝っていると讃えられ続けた自分は何より優秀な存在であるはずだ。憎しみや憤怒がみるみる連鎖して熱を帯び、抑えられぬまま暴発した。
「私を蔑ろにするな!」
足元に着火した念が、衝撃波となってサーバルーム内を轟かす。二重床のパネルにひびが入り、あちこちのケーブルに切れ目が入った。被害はそれと白い影が映っていたラックの金属扉が砂に変わっただけである。まだ設備ごと破壊できない、歯止めをかけた僅かな理性が虚無でじりじりと削られていく。ようやく解放されたはずなのに、まだあの闇の中にいるような気がして、ふいに外へ出たくなった。この部屋は窓がない。天へと近付く四十五階の空を目に焼き付ければ、少しはこの気が晴れるかもしれない――衝撃波で異常を検知して赤子のように泣く機器に目もくれず、ミュウツーは出入り口へと足を動かす。念力でドアをさっと開くと、その向こうに大きな目を見開いて硬直する一人の少女が立っていた。
「誰だ貴様は」
高く結った黒髪に、女学生のような制服姿はどう見てもロケット団の様相ではないし本部職員にしては幼すぎる。ミュウツーが少女の頭からつま先まで凝視し、いっそ吹き飛ばしてやろうと結論付ける前に、未知との遭遇に愕然としていた彼女がようやく声を出した。
「こ、広報さんですか? お、お疲れ様です……」
少女は戸惑いながらもひきつり笑いを浮かべる。明らかに自分を何かと勘違いしているが、それに怒るより早く右腕を引っ張られた。人に触れられたのは洞窟に閉じ込められた時以来で、ミュウツーは反射的にその華奢な手を跳ね除ける。
「馴れ馴れしく触ってごめんなさい。でも何か今、かなり危ない感じなので外を出歩くのは良くないです。休憩スペースの自販機の裏に逃げましょう」
少女はすぐに頭を下げて謝りつつ、ミュウツーに避難を促す。どうやら彼女は自分を本部の人間だと勘違いしているようだ。どういった理屈でそんな考えになるのか分からず、ミュウツーは困惑した。
「アナウンスを聞きました? このビル、ロケット団に占拠されたようなんです。そんな格好してたら目立ちますよ、早くあっちに! 動きにくかったらあたしも手伝いますから」
「ここにロケット団は来ない。私の持ち場だからだ」
語気を強めて言い放つが、少女は眉を引き締め、まるで食い違う反応を示した。
「なるほど、ここは広報室なんですね。でも何があるか分かりませんし、一応警察が来るまで隠れていた方が」
「私は人間ではない、ポケモンだ!」
噛み合わない会話にいい加減業を煮やしたミュウツーが、通路に超能力の風を巻き起こしながらアンズを大きくよろめかせた。その衝撃で思わず尻餅をついてしまった彼女だが、すぐにスカートの埃を払って立ち上がると、また丁寧にお辞儀して非礼を詫びる。
「し、失礼しました。本当に申し訳ございません!」
幼いながらも妙に礼儀正しい姿は、ミュウツーが初めて見る人種だ。だからすぐに捻り潰す気になれないのかもしれない。そんなことを思っていると、結った黒髪がぴょんと跳ねて小さな顔いっぱいに敬意を湛えた笑顔がポケモンに詰め寄った。
「でも凄いですね! 言葉を交わせるポケモンなんてあたし初めてです。本当に凄い! どうやったら喋られるようになるんですか? 他のポケモンとも意思の疎通はできます? 技を使う時は自分の中でどう区別をしているんですか? 毒ポケモンの毒を受けた時は、ポケモンごとに性質が違ったりします? 軽度の毒と猛毒とでそれぞれ感じ方を教えていただきたいのですが――」
称賛からの質問攻めに、ミュウツーは思わずたじろいだ。持っていた学生鞄を足元に置いてメモを取り出し、大きな目を無邪気に輝かせて夢中で問い続ける姿からは、かつての父のような自己を満たすために讃えている様子は見受けられない。純粋に自分を仰いでくれている。
何故警戒もせず、軽蔑せず、ただ一目で自分を受け入れてくれるのか。ミュウツーがまるで理解できずに押し黙っていると、それを困惑と取り違えた少女が慌ててメモを閉じて自己紹介をする。
「す、すみません、質問攻めでしたね。それにまだ名乗っていませんでした。あたし、アンズって言います。あなたは?」
彼女が微笑むと、澄んだ茶色の瞳の奥で穏やかな光が揺れる。それが廊下の窓の外に広がる青空と相まって不思議と敵対心が薄らぎ、途絶えかけていた理性が息を吹き返す。
「ミュウツー」
アンズは目を見開き、益々声を弾ませた。
「ミュウって……あの幻の! ミュウって本当にいたんだ! お父さんはそんなの都市伝説だって一蹴してたけど……ってことはセレビィやジラーチも存在するのかなぁ……」
結局親の話か――白い影を思い出し、青空の中にぽとりと闇が滲む。
「言われてみれば、あなたは図鑑で見たミュウのイメージイラストに少し似てますね。それで“ツー”ってことは、ミュウのお子さんなのですね」
小さく頷いてやると、アンズがミュウツーの顔を覗き込んで、とても嬉しそうに微笑んだ。
「同じだー! あたしも二世なんですよ!」
空に零れた闇を掬って浄化してくれる、太陽のように眩い笑顔に息を呑む。こんな人間に接するのは生まれて初めてで、無意識のうちにその中へ取り込まれていく。
「まあうちは厳密に言うと二世ではないんですが、一族の中ではうちの父が最も大成しているので、世間に私は二世選手扱いされているんです。大変ですよねえ、二世って。何かと親と比べられちゃう。“お父さんは何でも出来たのに!”とか、肩身が狭いです。大人と比べられても……」
ミュウは何でも覚えられたのに――育ての親の言葉を彷彿とさせたが、彼女はきゅっと肩を持ち上げてそれを冗談っぽく笑い飛ばした。
「なんて、卑屈になる訳にはいきませんけど。プレッシャーに打ち勝ち、あたしはあたしなりに頑張っていこうと思います」
彼女は何の話をしているのかまるで掴めなかったが、幼いながらもそれなりの地位にいて同じように苦労しているであろうことが窺えた。トレーナーだろうか。これまでポケモンを酷使する人間ばかり見てきたミュウツーには、自身と対等に接する彼女がそんな風には思えなかった。
「ツーさんも大変じゃないですか? 親が習得している技を使えなかったりすると、文句言う人いますもんね。それはやっぱり子供として悲しいですよ。あたしは個々の能力を活かし、伸ばしていくことが重要だと思うんです」
「それは理想論だ。どうしようもない欠陥個体もいる」
共感するところがあるからだろうか。ミュウツーはうっかり答えてしまった。すると彼女はやけに得意げな面持ちで意見を呈す。
「そこは協力する方の力量次第でいくらでもカバーできますよ! 実例を沢山見てきましたから、断言できます」
ロケット団の下っ端がこんな生意気な口を叩けば、たちまち塵に返していたことだろう。しかしあれほど膨らんでいた憎しみや苛立ちも、彼女の自信たっぷりの笑顔の前には作用しなかった。面白くはないが。
「ところでミュウツーさん、ここで立ち話続けるのは危険ですよ。ロケット団はポケモンを売買するマフィアだと聞いたことがあるので、見つかったら何をされることか! とりあえず自販機の裏へ隠れましょう。どうやって助けを呼ぶか作戦会議です。これ以上ウロウロするのは危ないし」
和やかな雰囲気に気を緩ませていたアンズは、今の状況を思い出しすぐに顔を引き締めてミュウツーの手を引いた。自分の半分ほどしかない華奢な身体の割に、外へ導く力は案外強いのでまたも困惑する。
「私は……」
脅威となる側の存在だ――言葉を遮り、また太陽の微笑みが返ってくる。
「一緒に逃げれば大丈夫!」
彼女の勢いとその明るい笑顔に、拒絶の意志が削がれていく。二の句が継げないでいると、アンズはミュウツーが戸惑う理由を考え、すかさずフォローを出してくれた。
「警察に保護されても珍しい見た目だから世間に騒がれると思ってます? それならうちへ来るといいですよ。あたしの家はセキチクシティの郊外にあってマスコミも滅多に来ないし、絶好の隠れ場所です。自分で言うのも何ですが、木々に囲まれた静かで居心地のいい家ですよ。父の許可も必要ですけど、訳ありの人達の面倒を見ていたから間違いなく了承してもらえるはずです!」
郊外の木々に囲まれた隠れ場所――と聞いてミュウツーがまず連想したのはあの牢獄だ。そこから日の下へと解放してくれたあの男の後ろ姿を思い出すと、破壊の本能が理性に刃を向けた。
何をやっているんだ。今更、何を揺れているんだ。
「彼女に付いていくのよ。そうすればあなたはあなたのままでいられる」
頭の奥で響く白い影の面倒な声が、そこが居場所ではないことをはっきりと確信させる。そして追い打ちを掛ける少女の一言。
「うちは親子でプロトレーナーやってますから、体調管理もバッチリ! これはもう来るしか……」
この娘はこの汚れた城に属するポケモントレーナーだ。ミュウツーが何より嫌いで、軽蔑する、ごみのように価値のない人間。
ミュウツーは乱暴にアンズの手を振り払った。きょとんとした様子で目を丸くする少女がひどく醜い人間に見え、一刻も早く視界から消し飛ばしてしまいたい破壊の衝動が身体を突き動かす。ミュウツーはアンズに掌を向けた。