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第3章
第8話:復活宣言
『本日は“ポケモンの休日”ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。それでは早速、自然公園でくつろぐトレーナーさん達にお話を聞いてみたいと思います!』
 正午近くの情報番組は眠気を誘うほど穏やかで日常的だった。画面に映し出されたコガネシティ北部の自然公園は平日ながらポケモンを連れ歩く多くのトレーナーと親子連れで賑わっており、皆ゆったりと刺激のない一日を過ごしている。全ての窓にブラインドを下ろしたビジネスホテルの一室で、シルバーは膝を抱えてその平和な絵を睨み付けていた。今の心境とはまるで対照的で、眩暈を覚えるほど憎らしい。
『今日はどうしてこの公園に?』
 リポーターの女性が、ベンチで談笑していた老人と孫と思しき二人組に声をかける。マイクを向けられると、キャップを被った男の子は照れくさそうに帽子の唾を目深に下げて祖父に身を寄せた。縁のない光景はシルバーの憎悪に油を注ぐ。
『“ポケモンの休日”で職場が休みなんですよ。だから孫と遊びに来ました』
 代わりに祖父が答えると、それに興味を持ったリポーターが更に突っ込む。
『ポケモンバトル関係のお仕事をされているんですか?』
『ええ、まあ。しがない清掃員だけどね』
 孫の男の子はそこに反応してようやく顔を上げ、リポーター向けてキャップの唾を満面の笑みで見せつけた。
『おじいちゃん、チャンピオンとお話ししたこともあるんだよー! ほら、これサイン! カッコいいでしょ』
 画面いっぱいにズームされた唾の裏側には、シルバーも見覚えのあるサインペンの走り書きが印されている。心臓が激しく揺さぶられ、途端に息苦しくなった。
『あらー羨ましいー! 早くリーグが再開するといいね』
 リポーターがにっこりと微笑む。ごく当たり前の反応に、子供も同意する。
『うん、またワタルさんの試合が見たいな。かっこいい!』
『ワタルさんはこの子のヒーローでねえ』
 弾む会話が次第にシルバーの耳から遠のいていく。身体がその話題に拒否反応を起こしているのかもしれない。テレビを消し、耳を塞いで背中を丸めた。ルギアを操れる才能を持っているはずなのに、今は自分自身が身動きできないコクーンのようで歯痒い思いがする。
『いくら強いポケモンを手にしたって、愛情を注いで信頼関係を築き上げていかなければ真の力は引き出せないんだよ。君のポケモン、あまり懐いていないようだね』
 憐れみを湛えた双眸でワタルから告げられた言葉が今も頭から離れない。彼はシルバーが目を背けていた事実を初めて真っ向から叩きつけてきたのだ。暴力団やセキエイリーグは悪だというランスや一部の熱烈な支援者に流されるまま自警活動を行い、その声ばかりを聞いていたが、やはり大多数の人間はあの老人と孫のようにセキエイリーグの再開を待ち望んでいる。
(オレじゃ駄目なのか……ルギアがいるのに……)
 どうして自分はヒーローになれないのか。ポケモンが懐いているとか、それが関係しているのだろうか。確かにルギアは今だこちらを軽蔑しており、頭を撫でたところで少しも喜ばない。可愛げがなく、歩み寄るのは願い下げだった。それは愛想が悪くギクシャクしたままのランスとの関係にも似ている。現状を憂う程にチャンピオンとの格差が浮き彫りになって、一層惨めな思いがした。
(愛情とか信頼とか……そんなのがなくたって、一番にはなれるはずだ。例がなけりゃオレが作って見せる!)
 ランスを始め、ほんの少しでも自身の正義を支持してくれる者がいれば、それで十分だと信じることにした。これは昨年までポケモンバトルをせずにパルクールに傾倒していた頃の心境そのものだ。原点に立ち返るだけじゃないか――そう信じると、もうなにも怖くない。
(オレはヒーローなんだ!)
 口をぱっくりと開けたまま、ドラゴンと共に湖の中へ落下したワタルの姿を後悔に重ねる。それはチャンピオンと共に湖面に波紋を広げながら消えていった。
「ルーク、仕事だぞ。一大事だ!」
 隣でニケと通信していたランスがシルバーの部屋に息急き切って飛び込んでくる。常に無表情の彼が動揺を露わにするのは珍しく、シルバーは目を見張った。
「タマムシとコガネで暴力団連中がテロを起こすとの情報が入ってきた! 二手に分かれて食い止めるぞ!」
 この国でテロなんて――まるで想像がつかず身が竦んだが、これまで事務所を潰し続けてきた自分なら何とかできるかもしれない、とすぐに思い直した。傍で穏やかな日常を映し続けているテレビが異国の情景のように見受けられる。もうあの世界へは戻れない。
 自分はヒーローの登場を待つ一般人ではなく、ヒーローそのものなのだ。きっと。
「分かった。今度はしくじるんじゃねえぞ!」
 両腕の鎖が外れ、自然と膝が持ち上がる。シルバーはルギアの入ったボールを握りしめ、颯爽とボディバッグを担ぎ上げた。

+++

 総監はその男とは数えるほどしか顔を合わせたことがなかったが、“三流マフィア”という形容がお似合いな彼の型に嵌った容姿は記憶の隅にずっとこびり付いていた。値段だけ立派と思われる衣料品で飾り立てた服装はセンスの欠片もなく、元々僅かな威厳を更に弱めているし、それより遥かに劣る下種なチンピラを連れていたこともしっかりと覚えている。
 それは同時に、総監をかつてない恐怖に陥れた。
 その記憶から四十数年の時を経ての再会だというのに、彼はあの時から何も変わっていないのだ。
「どうしたんです、入り口の前で突っ立ったまま。どうぞこちらにいらしてくださいよ!」
 男が腰を浮かせ、全ての指にプラチナの太い指輪を嵌めた右手でソファへ手招きする。まるでデルビルの足のよう――と感じたのは、やはりあの時以来だ。自分はすっかり年老いて、頭は白くなり髭も伸ばしているが彼は昔のまま、少ない黒髪を大量の整髪剤で後ろへ撫でつけ、当時の肥満体型を維持し、下品な笑みを浮かべている。ほんの一瞬だけ扉を介して過去へ戻ったのかと錯覚したが、秘書達も彼の存在を確認しているし、この総監室は会議に赴くまで待機していた状態から変化が見られない。掌がじわりと汗ばみ、両足は扉の前から一歩も動かなかった。
「何も変わってない、と言いたげですな」
 男は黄ばんだ歯をにんまりと見せつけながら微笑んだ。
「これでも“総監殿”より少し年上ですよ」
 彼に総監という役職で呼ばれたことはない。時系列的に呼ばれるはずがないのだ。男が過去からやって来た訳でないことに妙な安堵を抱いた総監は、困惑を残しつつも伝説上のポケモンを用いた冗談を披露する。
「何も変わっていないとは、そのアンチエイジングを教えていただきたいよ。てっきり、セレビィの力でここへ来たのかと」
「惜しい、お力を借りたのはミュウツーさんの方でしてねえ」
 その不意打ちは総監に大きな衝撃を与えた。緩みかけていた緊張が再び身体を縛りつけ、彼は二の句が継げぬままその場に唖然と立ちすくむ。
「身に覚えがありすぎるようで」
 男は応接スペースに置かれているテーブルの上に両足を乗せ、部下と共にヒヒッと下品な笑い声を上げている。あまりに低劣な態度には違和感を覚えたが、今はミュウツーの件を問いただす方が先だ。
「どうしてその名を……」
「そりゃあ勿論、ご本人からのタレ込みですよ」
 男は部下が差し出した皺の寄った書類を引っ手繰り、わざとらしく咳ばらいをした後、それを読み上げる。
「私はセキエイリーグ創設時にバトルショーの目玉として現副総監のフジに造られた遺伝子ポケモンである! しかし散々いたぶられた挙句、あちこち故障して満身創痍になったところを今の総監の指示で使い物にならないとハナダの洞窟に捨てられ、この事実ごと闇に葬られた。断固、許すまじ」
 大げさな抑揚をつけ、芝居ががった口調は真っ青になって縮み上がる総監を嘲笑っているかのようだった。男は笑いを堪えながら書類の後半へと移る。
「そしてこれは同じく総監に嵌められ、セキエイのショバを取り上げられてトキワを追い出された可哀想なカワイソーーなマフィアとも似ている。だから何でも協力することを誓おう、ミュウツーより」
 書類の下部に押された赤丸の印を示しながら、男は再びにんまりと下品に微笑んだ。
「これ、ツー様の拇印ね。フジに指紋作り忘れてんぞって言っとけ。これじゃイモ版だ」
 部下のチンピラが腰を上げ、立ち尽くす総監の右手を取ってその書類のコピーを無言で捻じ込んだ。内容は先ほど男の口から語られたものとほぼ同一で、文体が堅苦しく連なっている。フジの字体に瓜二つの達筆な文字は、かつて副総監が研究者だった頃こんなに利口なポケモンがいる! と自慢げに見せられた古詩の筆写を彷彿とさせる。文面は紛れもなくあのポケモンによるものだ。
「つまり、何が目的だ……」
 真っ青に変色し硬くなった唇で尋ねると、男はだらしない身体を軽やかに持ち上げ、上着の裾を直しながらこちらへ歩み寄る。甘ったるい葉巻と整髪剤の臭いを撒き散らしながら、彼は両手を打ち鳴らした。
「そりゃもうシンプルな話ですよ。勝手に取り上げたセキエイの地を、我々に返してくれればいい訳で。そしたら今のまま商売続けてもらっても構いませんよ」
 つまり彼らの資金源になれと言うのである。まるで数年前に発生した、ロケット団によるシルフカンパニー占領事件のような話だ。あれもきっかけはシルフの不正を掴んだマフィアによる恐喝で、事件以降カントーが誇る大企業の株価は一時大暴落を招き地方経済に痛手を負わせた。当時総監はこの機を逃さずシルフ関係者に多くの貸しを作ったものだが、類似の事件に巻き込まれるのは想定外だ。
 男は総監の目の前を行ったり来たりしながら、後ろの窓に広がるセキエイ高原の青空を背に悠々と構えている。
「“優秀な育て屋”に預けたミニリュウが、四十年の時を経て立派なカイリューになって返ってくるようなモノですかねえ……いやあ感慨深い! ドラゴンってのは大変に手間がかかる奴でして、しかし上手く育てりゃあその強さは天下一品。手放したくないお気持ちは分かりますよ。だけどね、元々の“おや”はワタシらなんですから、返して貰わなくちゃあ困ります。それが道理ってものでしょうよ」
 ドラゴン、と耳にした途端、畏怖に包まれた深淵の闇に一筋の光が差し込んだような気がした。眩いスポットライトに照らされ、竜を従えたマントがひらりと翻る。
『お任せください。何があってもリーグを守ります』
 そう勇気づけてくれたチャンピオンの立ち姿はヒーローそのもので、そこには確かな希望があった。彼はセキエイが窮地に陥っても人々を照らし、復興へ導いてくれる。ならば、自分は今や役員数名程度しか知らないミュウツーの罪と心中した方がましだ――総監は決心すると、モンスターボールを背広の上着越しに擦りながら度胸を限界まで絞り出し、男に牙を剥くような眼差しを向けた。
「ドラゴンの育成に四十年もかける育て屋は無能としか思えん。プロならたった一年足らずで進化を成し遂げ、そこから更なる高みを目指す」
 男の顔がたちまち曇る。総監はお構いなしに思いの丈を捲し立てた。
「ミュウツーの件、好きにばら撒くがいい。脅しには乗らん! 私は責任を取る覚悟はできているし、セキエイ地域はとっくにリーグ本部の権利だ。この栄光の舞台は私の首が飛んでも貴様ら三流ヤクザ共には渡さんぞ!」
 リーグ設立の経緯は褒められたものではないが、理想を追い求めた結果誕生したのは年度初めのリハーサルで見た夢のヒーローショーだった。凡人達の人生を少しだけ彩る、ポケモンとトレーナーが輝く夢の舞台。それは総監や役員、職員達の誇りだということをあのリハで確信したのだ。総監は上着の裏ポケットからギャロップのボールを取り出すと、それを握りしめたまま出入り口の扉を開いて秘書をがなり立てる。
「警察に連絡してこいつらを引き取ってもらえ!」
 不穏な空気を感じ取った彼女達は電話を片手に待機しており、迅速に通話ボタンを押す。慌ただしくオフィスが掻き乱される一方で、男はだらりと俯いたまま、クックッと背中を上下させ不気味に笑っていた。
「残念だなァ……まさかアンタがシルフの社長より馬鹿だったとは……」
 シルフの社長? 耳にした総監が振り向きざま、男は声質を一変させ、ラテルの裏に装着していたピンマイク向けてはっきりと告げる。
「交渉決裂だ。それでは諸君、七色の虹越えてェ……Ready Go!」

 その合図こそ男の用意したショーの幕開けだった。
 本部裏手の通用口で、四トントラックから荷卸しを始めようとしていた運送会社のドライバー達が懐からサブマシンガンを取出し、作業を見守っていた警備員らに銃口を向ける。その間に荷台の影から次々にキャスケット帽を被った黒づくめの構成員達が飛び出し、速やかに通用口のシャッターを下ろして裏側の出入り口を封鎖した。僅か数秒の所業に警備員らは絶句したまま立ち尽くす。ベルトに下げた通信端末から通報する時間さえなく、この状況が警備室の防犯モニター群に届いていることを祈るのみだ。
 彼らはじっと侵入者の動向を観察する。
 運送会社と偽って入館した三台のトラックからは五十名ほどの屈強な構成員らが現れ、最後に警備員に拳銃を向けていたドライバーが運送会社のロゴ入りブルゾンを脱いで目深に被ったキャップを取ると、現れた白いブラウスの上に巻いた赤毛がはらりと落下した。三十代と思しき妖艶な美女だ。他の構成員が黒の帽子と戦闘服を纏う中、彼女だけはスリットの入った膝丈の白いワンピースを身に付けている。警備は一目で幹部クラスの女だと察知した。彼女はRの形をしたバッジを襟元へ装着しながらそれに向かって状況を報告する。
「裏口閉鎖完了。A班は地下二階の警備室及びビル管理室へ移動する。M班はシステム室へ」
 彼女があるトラックを向きながら告げると、残らずテロリストを吐き出したと思っていた荷台から薄紫の肌をした、二足歩行の何かがのそりと姿を見せる。初めて見る形相に警備員達は我が目を疑った。人に近い形をしているがどう見ても人間ではないし、ポケモンかと言われればこれまで目にしたどの種にも属さない。異形の存在を凝視しながら、念のためもう一度ポケモンの情報を引き出していくうちに、それは荷台の上でパッと姿を消した。主にエスパータイプのポケモンが得意とする、テレポートという技だ。
「便利ね、あれ」
 女が口先だけの関心を示しながら、部下に渡されたタブレット端末を操作する。黒い画面の真ん中に赤いプログレスバーが表示され、すぐに“complete”の赤文字と共にチープなビープ音が鳴った。
「残念ながら私達は徒歩よ」
 女は端末を部下に付き返すと、ワンピースの裾を翻しブーツを鳴らしながら彼らを伴って地下へ続くエレベーターを目指す。驚くことに黒づくめの全員が女の後ろに続いていき、両手を挙げていた警備員達を見張る者は誰も居なくなった。彼らは反射的にベルトに引っかけた通信端末を起動し、この危機を知らせようとしたが――電話は圏外。トラックが乗り込んでくる前に確認した時は、確かに機能していたはずなのに。彼らは驚愕した。
 かつん、とヒールが止まる音が駐車場に響いて女がこちらを振り返る。
「ああ、貴方達の役目はここで終わりよ。お疲れ様」
 しんがりを務める黒づくめが二人、両手にマシンガンを抱えてこちらへ歩んでくる。
 そうだ、手持ちのイワークで食い止められるかもしれない――それに気付いた警備員の一人が、ベルトに装着したボールを取り外し、開閉スイッチを押して隙のないモーションで侵入者へ投げ放つ。同僚達もそれに続こうとしたが、イワークのボールはコンクリートの床を擦って、開かないまましんがりの足元へ転がって行った。不測の事態にボールを投げた警備員は言葉が出ない。慌てて同僚がサポートしようとボールのスイッチを押したが、やはり結果は同じである。
「なんで……!」
 切羽詰まった悲鳴が場内に空しく響き渡る。
 しんがりの構成員が靴の先に転がるボールを脇へ蹴飛ばして、改めて銃口を彼らに向けた。

「はい、これ“兄さん”の免許端末ね。長いこと借りてたけど、結局収穫はなかったなあ。プロがポケモンのメディカルチェックにそれ使うって知ってたら、もっと早くに返却できたんやけど……ごめんなー」
 システム部の出入り口前で、マサキは申し訳なさそうにアンズへ父親の免許端末を返却する。十年以上使い込まれた革のケースは味わい深く、アンズが大好きな懐かしい香りがした。思わず彼女の涙腺を刺激したが、泣いてしまわないそうに笑顔で誤魔化す。
「いえいえ、無くてもなんとかなりますから」
 そんな強がりはマサキにも痛い程伝達する。彼は入り口の扉を身体で押さえたまま、苦しげに頭を下げた。
「でもデータないとクロバットちゃんが万全の状態を保てへん。ごめんな、ホントごめん」
「マサキさん、クロちゃん大好きですよねー。父が退院したら、また家に遊びに来てください」
 相変わらずクロバットばかり心配する彼に、アンズは苦笑した。マサキの父方の家が自宅の近所ということもあり、彼はアンズが幼い頃から時々やって来ては遊んでくれる兄のような存在だ。そんなマサキも、幼少期は父親が遊び相手になってくれていたというから不思議な縁である。
「行く行く! もうずっとご無沙汰してるもんなぁ……アキコさんは元気?」
「はい、それはもう。あたしがリーダーになってからポケモンに用意する餌が増えて毎日忙しそうです」
 本当は主の殺傷事件を受け、自分以上に憔悴しているのだが、それを口に出すことはできない。マサキはアンズが家政婦のケアに頭を悩ませている事など知る由もなく、ふいに何かを思いついて指を鳴らした。
「親子でプロやもんなあ……そうそう、バット系にとっておきのフードあるの知ってる? ちょっと取ってくるから待ってて!」
 彼は背中で押さえていたドアから身体を離し、自席へと踵を返す。わざわざそんなことしなくても――と言いかけたアンズを制するように、振り返って白い歯を見せた。
「クロバットちゃんへの、プレゼント! ご主人様が目覚めなくて落ち込んでるんやろ? ワイが少しでも力になるから。こんな時に励ますのがファンの役目や!」
 下心剥きだしの笑顔だが、殺傷事件から疲弊しているアンズにはささやかな幸せになってじわりと心に沁みついた。今度マサキが遊びに来たら、父親に頼み込んでクロバットと二人きりの時間を作ってあげよう――なんて考えながら外の通路の壁へもたれ込んだ。押さえを失った扉が静かに閉じる。それを外から開くにはアクセス権を持った社員証が必要だが、アンズが首から下げている来客用カードキーではセキュリティレベルが高めに設定されているシステム部の鍵にはならない。彼女の移動はそれを承知の上での行動であり、部外者が扉を開け放しておくのは良くないとの倫理観から来ていた。
 そのまま三分ほど壁にもたれ掛っていると、ブレザーのポケットが振動して脇をびりびりと刺激する。アンズが急いでスマートフォンを取り出すと、着信を知らせる画面には師の名前が表示されていた。
「まだ勉強会には遅刻じゃないはずなのに。何だろ」
 タマムシへ到着すべき時間にはまだ一時間ほどの余裕がある。もしや師はルーキーこそ一番乗りすべきだと考えているのかもしれない。もしくは最近一番親しい友人から連絡がパッタリ途絶えているとかで、その寂しさをこちらで埋めている可能性もある。アンズは意を決し、二コール目で通話ボタンをタップした。
 直後に、電話は切れた。左上は圏外を表示している。
 先ほどまでアンテナは四本立っていたのに何故急に圏外になるのか、アンズには理解できなかった。無人の通路をうろうろと歩きながら電波が入るエリアを探すが、どこへ行っても状況は改善しなかった。他の階へ移動しようにも間もなくマサキが戻ってくるだろう。しかし、グリーンは折り返しの電話が遅れると、機嫌を損ねてしまうきらいがある。
「ど、どうしよ……」
 彼女は喫煙所脇の自販機にもたれ掛りながら、一秒でも早くマサキが扉を開けてくれることを祈るばかり。その通路とシステム部を隔てる分厚い仕切りの向こうで、職員たちが騒然としている状況など知る由もなかった。
 オフィスにクロバットへの贈り物を取りに戻ったマサキだが、雑多なデスクの脇に置かれたビジネスバッグへ手を伸ばした途端、机に積み上げていた書類やディスプレイごと吹き飛ばされて後方のキャビネットへ身体を強く打ち付ける羽目になった。状況が呑み込めず障害物をかき分け顔を上げると、そこには凄惨な光景が広がっていた。卓上に置いていた仕事道具が通路へ散乱し、その下で突風で弾き飛ばされた部下や同僚らが呻く声が聞こえる。ぽかんと口をあけ、職場を唖然と見渡していると、出入り口近くの席にいた比較的軽症の職員が書類の下から這い上がって出入り口の扉へと駆け込んだ。しかしドアノブに手をかけた瞬間、彼は反対側の壁まで弾き飛ばされキャビネットにぶつかって気を失う。その刹那、青白い光が壁を塗りたくるようにオフィスの四方をぐるりと一周し、そのまま煌々と居座り続ける。まるでポケモンのリフレクターという技のようだとマサキは思った。
「こちらM班。オフィスゾーンは包囲した。次にシステムの書き換えに移る」
 ふいに頭上で人の声に似た音が聞こえたので天井を見上げる。そこで未知の存在を捉え、彼は出かかっていた声を失った。薄紫の大きな生物が、組んだ足の上にノート端末を乗せてふわふわと宙に浮かんでいる。見たこともない様相で、ポケモンなのかも分からないし、そもそもどうやって侵入したのか。
「ば、化け物……!」
 マサキより早く悲鳴を上げたのは、デスク一つ隔てた先にいた同僚だった。その罵倒をいち早く察知したそれが、眉間に皺を深く刻み付けながら同僚へ三本指の掌を向ける。途端に無数の星型の光線が発射され、スチール製のデスクを押し潰した。マサキの席も巻き添えを食らったが、人の命だけは無事である。すっかり言葉も出ないうちに、宙に浮いていたそれはパッとその場から消え去ってしまった。残されたのは紙切れが散らばる瓦礫の山と、仕事仲間達の呻き、そして絶望である。

 聴取を終えたシバとカリンが、刑事達より一足先に会議室を出る。今日もこれといって事件の進展はなく、カリンは退室直後に疲弊した様子でヘルガーへもたれ掛る。それを見たシバが呆れるように目くじらを立てた。
「だらしない」
「同じ話ばかりでウンザリしてきたの」
「確かにそうだが……」
 こちらの意気を削ぐ、と告げようとした言葉を遮り、大きな音を立てて会議室の扉が閉ざされた。心臓を吹き飛ばすような衝撃に、カリンとシバ、そしてヘルガーさえも目を丸くする。数秒間を置いて、刑事達が内側から荒々しく扉を叩く音が廊下に響く。
「開かない! どうなっているんだ! 開けてくれ!」
 カリンは慌てて入構証の入ったパスケースを入り口脇の認証端末にかざしてみるが、扉はピクリとも動かず沈黙を決め込んだままだ。念のためケースから入構証を取り出し、カードのまま認証を試みるが反応は同じである。
「カードキーが利かないわ。普通、内側から開けられるんじゃないの? 駄目ならポケモンで――」
「そのはずなんだが、まるで動かないんだ……扉も、モンスターボールも」
 ボールが作動しない――その状況に覚えのあるカリンは急いでクラッチバックを開き、整然と収納されているモンスターボールの開閉スイッチを端から押してみたが、こちらも扉同様に無反応である。キョウが刺された日と同じ状況に思わず身体がよろめいたが、連れ歩いていた相棒が素早く支えになってくれた。何があってもあなたを守る、と言いたげな眼差しは何より頼もしい。
「おい、様子が変だ。他の部屋も開かんし、階段の防火シャッターも下り出している。何が起きている?」
 いち早く周囲の様子を窺っていたシバが、彼女の元へ駆け込んできた。カリンも事態が把握できないとばかりに眉を寄せ、そしてボールが開かないことをアピールした。シバは反射的にベルトに装着したモンスターボールに手をかけるが、スイッチが作動しないのは同様である。彼は悔しさを滲ませたが、何かを思い出し、弾かれるようにエレベーターホールへと駆け出した。
「あの子が危ない! カリン、行くぞ!」
 それはエントランスで遭遇したアンズのことだろう。確かに心配ではあるが、会議室に閉じ込められている刑事達も放っては置けない。
「ちょっと、刑事さん達はどうするのよ!」
「腕っぷしの良い男が二人もいるなら問題ない。優先すべきは女子供だ。お前のヘルガーは頼もしい。おれの腕力が合わされば、無事に彼女を保護できるはずだ」
 アンズが暴漢に襲われるような物言いは、父親の事件を受けてのことだろう。彼の言うとおり、刑事ならばポケモンが使えずとも相応の訓練は受けているだろうし拳銃も所持しているはずだ。それに対し、こちらはほぼ丸腰である。何をすべきか考えている間に、シバは通路の奥へと消えていく。念のため確認した携帯は何故か圏外。いくつも不運が重なり、カリンはうんざりしながら扉へ話しかける。
「応援呼んでくるから、ちょっと待ってて下さる?」
 彼女はクラッチバッグのフラップを閉じると、壁の向こうで慌てている刑事を差し置いてヘルガーと共にシバを追うことにした。

 総監は何かの引き金を引いたような錯覚を覚えた。
 単純に武器のそれではなく、もっと大きな弾丸がタワービルへと打ち込まれた――そんな悪い予感がして、ギャロップのボールを握る右手がびりびりと痙攣し始める。秘書達が卓上の電話を煩く連打する音がじわじわと悪夢を引き寄せている気がした。
「総監、電話が通じません! 携帯は圏外で、ネットもオフラインです……」
 既に涙目になっている秘書の悲痛な叫びが絶望を煽る。通信方式が異なるこれらの端末が揃って不具合を起こすことは故意にやらなければ発生しないはずだ。今にも泣き出さんばかりの秘書達は、総監に縋るような眼差しを向ける。沈鬱な空気が流れる中、開け放した総監室からあの男がケラケラと声を上げて立ち尽くす彼らを嘲笑う。
「さすが、ツー様もアテナも仕事早いねェ!」
 両手を叩きながら腹を抱える様子は、もともと低い男の品位を更に落としているし、その声音も総監の記憶とは異なったままだ。それが彼にはとてつもなく不気味に見えて、思わず一歩たじろいだ。その隙を見て、四人いた秘書の一人がエレベーターホールへと走る――が、通路へ飛び出す前にストライクの刃が行く手を阻み、彼女は悲鳴を上げながらその場にへたり込んだ。あと一歩でも踏み出ていたら、首から上が無くなっていたかもしれない距離である。忍者の様な素早さに、総監や他の秘書らは息を呑んだ。
「危うく可愛いお顔を捨てるとこだったなあ、お嬢ちゃん。わざわざ命拾いさせてやるなんて……くうっ、おれっていいひと?」
 蓋が開いた黒いボールを掲げながら、男が気味悪く微笑む。総監は秘書達を傍へ集めながら、男を射るように睨み据えた。
「貴様、何者だ。あの男ではないだろう」
 そう、あの男は十年ほど前に死んだと聞いていたはずだ。それもコガネで起きた不良の喧嘩に巻き込まれたとか、そんな惨めな死因だった。噂だったのかもしれないが、目の前に立っている人間は明らかにその男とは中身が違う。もしやゴーストポケモンか、メタモンか――そんなことも考えたが人間にしか出せない、独特の狂気があった。
 じっと探りを入れていると、男が黄ばんだ歯をにんまりと吊り上げる。これまでと毛色の異なる残酷な笑みだ。
「ピンポーン!」
 男はぱちんと指を鳴らすと、ダブルのジャケットを脱ぎ捨てアンダーシャツから覗く紐を引っ張りながら、軽やかなスキップで総監のデスクへと飛び乗った。空気が抜ける音と共にだらしなく突き出ていた腹が萎み、みるみる痩せっぱちの体型へと変化する。唖然と口を開けたままの総監を差し置いて、男は卓上に並べてあった電話機以外の小物を爪先で一掃するとしゃがみこんだままどこかへ電話をかけ始めた。秘書の固定電話は繋がらなかったのに、そこだけ通話可能とは異様である。共犯者がいて、ビル管理室に設置されている電話の大本を管理する交換機を弄んでいるのかもしれない。
「こちら総監室のラムダ。電話と館内マイク繋げてくれる? てすてす、あーあー……」
 総監の頭上から鼓膜を刺激するハウリング音が鳴った後、デスク上で背中を丸めながらマイクテストをする音声が天井のスピーカーからも流れ出てきた。館内放送が実施されるのは三月にセキエイリーグが職員達を招待した、リハーサルの案内以来である。チャンピオンとはまるで異なる下品な声音がさらに恐怖を掻き立てた。
「何をするつもりだ!」
 背後にストライクの刃を感じながら、総監が殆ど虚勢の叫びを上げる。
 その問いに、男は黄ばんだ歯を下品に見せつけながら首筋の皮に手を掛けた。たるんだ薄汚い顔が徐々に引き剥がされていき、その変装マスクの下から顎鬚が覗くと――やがて十歳ほど若返った、一回り小さな顔が現れる。男は電話を抱えたまま膝を上げると、絶句する総監に向け答えを返した。
「エー、ポケモンリーグ本部でお仕事中の皆様こんにちは。突然の通信断に出入り口のシャットアウト、モンスターボールのロックと……業務妨害すんませんねえ。ま、でもオフィスのドアは全部閉めたからさ、外に出ない限りは身の安全を保障してやるよ。タブンネ!」
 それで何かを悟った総監が右手に握りしめたままのボールの開閉スイッチを押してみた。何度押し込んでも反応はない。四天王殺傷事件と似た状況だ。確かあの実行犯を支援していた組織は――
「ああ、ご紹介が遅れました。我々はァ……泣く子も黙るロケット団!」
 男が空いた左手をひらりと前にして、デスクの上で大仰にお辞儀する。そしてゆっくりと顔を上げながら、総監向けて冷酷な目線を放った。
「組織の立て直しを進めた約三年の努力が実り、ようやく本部への報復が実行できる。ワタシらはトキワの三流マフィアだった頃から煮え湯を飲まされ続けて来たこと、一日たりとも忘れちゃいませんぜ――今、ここに! ロケット団の復活を宣言する!」
 ロケット団の前身を作ったあの男に化けていたのは、今のロケット団構成員だった。総監にはその事実に、苦労して築き上げた地盤がぐらぐらと足元から揺れて崩壊していくような錯覚を覚える。それはあの組織の現首領が持つポケモンが得意とする、フィールドごとひっくり返してしまうような技能に似ていた。
「サカキ様、聞こえますかー? ついにやりましたよー!」
 男はデスクの端に靴を引っかけながら、背後の窓を覗き込み、遥か下方に広がる正面玄関口向けて手を振る――無人の玄関前道路に、黒塗りのセンチュリーが乗り付けた。助手席から軽やかに飛び出してきたアポロが、後部座席のドアを開く。
「ああ、よく聞こえている」
 黒いトレンチコートのラテルに装着した小型の通信端末向けてサカキが答える。彼は直ぐに通信を切った後、天へと伸びるバベルの塔を満足げに見上げると、ビル風にコートを大きく翻しながら建物の中へゆっくりと歩んで行った。

鈴志木 ( 2014/10/15(水) 20:00 )